井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

同性間の愛について

2013年05月14日 | ドラマ
「同窓会」にまつわって、コメント欄に頂いたのだが、同窓会というドラマをきっかけに、
気持ちがいくらかでも開放された人がいるとしたら、それを狙って書いたわけではないが、
書き手としては嬉しい。そう言えば局宛てのお手紙の中にも、それに類するものはあった
ようだ。自身の性的アンデンティティの重さから楽になった、と。

同窓会をめぐって、東京大学の上野千鶴子教授のもとでセミナーが開かれ、
私も呼ばれたので出た。論文を書いたアメリカ人の教授もいて、歴史を含め、
学術的に突っ込んだ話が出ると期待したのだが、さほどでもなかった。
同性に恋するという東大生のカミングアウトが
あったりして、私には特段目覚ましいものでもなかったのだが、
あの時代であれば、彼は勇気があったのかもしれない。詩人の
高橋睦郎さんもいらしていて、某ノーベル賞作家のことをお聞きしたりした。

同性愛に関する私の考えはシンプルで、時代時代でタブーにされたり、逆に称揚されたりする
ものであって、定まった価値観はない、ということだ。自分の気持ちがそうなら、その気持を
せき止める、そんなおこがましい権利など誰にもない。
魂があって、その魂が肉体をまとっている。その肉体という衣装に男女の区別があるだけで、
魂に性別はない。

神を持ち出す人がいて、実際にそれゆえ悩み苦しむフランス人の若者にも会ったが
神も罪作りなことをなさったと思う。いや、それを禁じる「神」を実は私は
知らないが。禁じている宗教はあるようだが、しかし現代では
人によりけりという要素が強い。牧師でも肯定者はいる、どころか自身が
そうだと公言している人もいる。カトリック内では知らないが、とりあえず表向きは
禁止であったような。その時々の法王の影響力でバチカン内の雰囲気も左右されるかと
思う。

人間の心の営みに口出す神も、もしいるのならいかがなものかと思うけれど。
牧師も神父もいろんな人がいるが、神父から少年へのセクシャルハラスメントが
多いのはカトリック教会であることはよく知られているところ。
建前がどうでも、心がそっちに向かうのなら率直に外に出て求めればいいのに
表向ききれいごとの嘘をつくから陰湿に内に閉じてこもる。
無理強いなのと相手が未成年だから、よくない。人間同士の合意でなされることに
神に立ち入る隙はない。そのような人間を創られたのは神ご自身ではないか、で
論破。相手が未成年だったらよくない、というのも法と倫理観の範疇のことで、
お互い心が重なりあい合意であれば、それもあるのかもしれない。
そういうケースも知っている。
日本には僧侶と稚児の関係が制度として確立されていて、禁欲を余儀なくされる聖職者にとっては楽な社会であった。しかも、床における綿密な作法まで書かれてあり、
交わり自体が仏教の儀式にまで昇華されていて、狡猾でもあれば、見事でもある。
言ってみれば言い訳だが、言い訳で僧侶も少年も合意の上で交わりそこに、何の齟齬もなかった。
カトリックももっと賢く、性愛を儀式にまで高める賢者がいればよかっただけのこと。
いや、一神を裁く神として仰ぐ精神性と八百万の神を自然のそこかしこに認める
日本人とは根底で異なるので無理か。
密教の性質を考えてみると、性交自体が宗教の作法となることは自然にあるので、稚児と僧侶間のそれも、あるいは仏法にまで本当に昇華されているのかもしれない。
陰茎を灯明に見立ててどうとか、その程度しか知らない。
その間の消息を詳しく記したお次第書である「稚児の草子」は叡山の奥深く秘められていて、
それが表沙汰になったら、西洋風思想の影響を受けている仏教界も尻餅をつくのだろうか。
秘匿しているぐらいだから、まずいと思っているのだろう。オープンにしたらいかがなものか。
日本では古来より、男同士で恋し交わってきた。
それが異端視されるのは、戦後アメリカ流のキリスト教にもとずく倫理観がはびこってからだ。
最近自由になったというが、異端視が基本で消滅したわけでもなかろう。

キリスト教徒がそれを忌むのはバイブルに記述があるからだが、キリスト自身がそれを禁止してはいないはずだが? はて、あったっけ。聖書もある程度読んだのだが。旧約に特に、何を食べてはいけない、というたぐいの現代人からすれば意味もないリストがあるのと同じレベルで、「汝、異性と寝るがごとく同性と寝ることなかれ」は、当時の狭い社会における「決め事」のレベルに過ぎない。
男同士が盛んになり過ぎたら、生殖に支障が来るので、産めよ増やせよ地に満てよ、という社会ではそれが排除される。それだけのことだ。ソドムが滅びたのは自然現象であって、男色がはびこったからではない。
逆に男同士の紐帯が必要とされるギリシャ時代や、日本の戦国時代ではそれが至高の愛だとランク付けされ、異性間の恋も肉体結合もそれより下に置かれていた。
しかし、なに、上も下もあるものか。人が人を好きになりました。
相手がたまたま女でした、男でした。それだけのこと。
出版社の若い女性とそのことを話していて、面白いことを言った。
「私は男しか愛する能力がない女です」
能力の範疇でもないだろうが、感性の狭さという意味での自省だったのかもしれない。
出版などという創作上のことに関わるなら男性性と女性性の双方をバランスよく
兼ね備えているに越したことはない。
男性性と女性性と、人は必ず双方を備えていて、その比率がそれぞれ異なるだけだ。

日本は、自然発生をした(と私は考えている)神道が精神性のベースなので、穢れに属する
事柄でなければ、忌むことは何もない。万葉の時代から男へ向けた男の恋歌もあり、
記憶がおぼろだが、源氏物語でも同性間のベッドシーンがあったように記憶している。

上野千鶴子教授の研究室では教授収集の性的浮世絵を拝見したが、7:3の割合くらいで、
7が男女、3が男男、女同士は1枚程度であったかもしれない。
自然に集めるとこの割合であり、江戸時代の性愛の割合もこの程度であったかもと
思うのは、西鶴の「好色一代男」における世之介がセックスした相手の、男女比率が
確か7:3ぐらいの割合だった(勘定したわけではなく、漠然とした印象だけ。もっとも
西鶴は正確に人数は書いてあった)
読んだが、男相手にいたす時も、とりわけ特殊な思い入れがあるわけではなく、
虫の好く相手が今度は男だった、ああ寝たい、口説こう、口説いたらなびいてくれたので、寝た。よかった。そんな筆致である。
不学だが、西洋のカサノヴァは異性しか相手にしていなかったように思うが、もしそうなら
やはり宗教が性愛を規制しているのかもしれない。中国の古典「金瓶梅」や「紅楼夢」にも男同士の情交は頻出している。歴代皇帝にはもれなく、美少年や美青年の愛人がいた。
西欧のタブー感は、やはり宗教上の縛りに負うものなのだろうか。
中国の皇帝たちは男一筋はわずかで、男女双方を好み、中には夫婦者の夫と妻を交互に愛でる
皇帝もいたので、大らかと言おうか芳醇と言おうか。性の果実を十二分に堪能したのは中国の皇帝たちであったかもしれない。美女、美青年、美少年、時にはマッチョの武将を渡り歩きさまざまな交わり。もっとも立場上タチだけで、ウケは許されなかったそうで心残りの皇帝もいたかもしれない。
韓国にはさしてそれ的な文献は残っていないが(この国には、他の分野の文献も少ないが)
やはり美男の家臣を恋人にしていた皇帝はいたそうで、映画化された。撮ったのが詩人でもある監督だとかで、美意識に裏打ちされたいい映画だった。
http://frozen-f.com/
中国の「ランユウ」という映画の良作だが、お約束の悲劇結末から抜け出せていない。
本来歴史的男色大国なのに、文化革命の影響だろうか。
http://hikomei.blog56.fc2.com/blog-entry-1543.htmlあっけらかんと明るいのは台湾映画である。ごく当たり前に同性間の恋愛が明るく描かれる。
韓国から私の「同窓会」の映画化の話が来た時、担当の人にうかがったのだが韓国では
軍隊で覚えてくる(とその女性は表現した)人が多く、作品として出しても抵抗感はない
とのこと。映画化の話は資金繰りで行き詰まりない話になったが。
(上野教授とはその後何度か文通をしたが、政治的対地やジェンダーに関する考え方は私と異なる)

江戸という時代では番頭と丁稚の関係が普通にあり、また丁稚も客の店に
集金に行くとそこの男主人に払ってやるからさせろ、と言われたり、そういう意味では
難儀なこともあったようで、塀の陰でしじみ売りの少年が体をひさいでいた時代でもあった。
少年は思うに、おそらく受け身だけであっただけではなく、客の好みに応じていたような
気がする。

「同窓会」では、高嶋くんと西村くんに「どっちが入れて、入れられてたんですか?」と
役作りに必要だからと、しごくあからさまなことを生真面目に訊かれ、そこまで考えていなかった私は(この点は失格である)、一瞬絶句、「さぁ?」と首を傾げ、そしたら二人で話し合い「お互い入れたり入れられたりに設定しました」とこれも、至極真顔で報告が来た。必ずしも本格的な結合は必要ではない、と私は漠然と考えて書いていたような気がするが、思えばリアルに肉体を使って表現する役者にしてみれば、大事なポイントであり、性交は本格的であるほうが、役作りに深みは出るだろう。
ドラマ自体は衝撃的であったのかもしれないが、作っている方はだんだんおおっぴらになって来て、最初は及び腰であったプロデューサーと監督二人が家にやって来て、時代劇になって
風馬と嵐が結ばれる時の体位はどう撮ればいいですか、と拙宅のリビングで
こうですか、ああですか、と二人でこれも生真面目に体位をやってくださり、私は
しばし絶句、声を出せなかったこともある。

そんな程度である。幼少期から社会的に刷り込まれたタブーを外せば、実に多くの男に
その要素はある。見ていると、非常に激しく嫌悪する者ほど、内にその様を隠し持っている。
ゲイヘイターと言って異常に嫌悪して憎む人たち。あれは、他者ではなく実は自らの内に
潜むその要素に直面したくなくて、他者に憎悪を転化している。
それはそれで、いいと思う。そのような環境で育ったのだから、無理に同性間のことに
寛容にならなくてもよい。ひところあったように、それが殺人にまでエスカレートするのは
まずいが。「同窓会」で嵐をボーガンで殺して、私は非難を浴びたけれど、あの当時、
そういう殺人があり、それへの実はアンチテーゼだった。
しかし、今思うとファンの心情を多大に裏切ってまで殺すのはよくなかった。

暖かい国へ行くほど、同性間のセックスは多くなる。気質がよくいえば大らか。
タイなど某大学教授の説によると8割が潜在的に同性を好み、経験者が6割を超す・・・・・
だったか。数字に疎くて覚えてないが。冬が不得手でひところ、避寒をタイと考えて
コンドミニアムを見に行ったりしていたので雰囲気は知っている。
航空会社のあるビルの一室で、男の子たちが売っていたりする国だ。バイクタクシーの
運転手を拾い、交渉すればほぼOKとも聞いた。
エメラルド寺院の裏通りには、夜になると男たちが客を待つ。中には兵士たちが
小遣い稼ぎに佇んでいて、上官が仕切っている。テレビで、いわゆるおねえ的な
ことを想像する人は驚くのだろうが、兵士はむろんのことむしろ男っぽいし、
買う方も普通に男である。
ミャンマーでは、誘って断られることはないという。むろんこれには金銭が必要である。
労働者で満杯になる時間に電車に乗ると、ほうぼうから手が出てきて触られ、
意気投合すると、降りて草むらへとも聞いた。ミャンマーは行ったことがないが。
風俗が高いことにも一因があるが、そもそも同性同士の行為に抵抗感がないのだとか。

日本も古来そうだった。薩摩藩の妻など、亭主が男色の相手と寝る布団を甲斐甲斐しく
述べていたそうで、西郷さんの男との入水自殺未遂は有名な話。あの
いかつい西郷さんが男の僧侶相手に恋心を揺らめかせていた。

誰それがどうで・・・・と歴史を遡れば枚挙にいとまがないが、現代でも
水面下に隠れているだけで、一杯ケースはある。日米の政治的交流が
行われた某山荘での出来事は知る人ぞ知る。やんごとない方の告白もある。
いちいち、あれこれ書く気はさらさらないけれど。
もし悩む人がいれば、武将や僧侶の残した恋文でも読んでみればいい。
たくさん残っている。空海と最澄が一人の男を取り合った話など、
機会があれば神道と仏教的思想を背景に、書いてみたい素材。

いずれにしても、タブーはその時代時代に変わって行く。その程度のものである。
人は自分がそうだと思い込むほどにヘテロセクシャルではない。
社会的教育と刷り込みでそう思い込んでいるだけである。自分は異性しか
愛せないと思い込んで死ぬ人も多い。何かのきっかけで壁が壊れて、踏み込み
のめり込む人も多い。
人が人として、傷つけず盗まず、己の役目を果たし、きちんと生きている限り、
誰を恋そうと体を重ねようと、誰にそれを恥じる必要もない。
その恋愛が美しいかどうか、異性を相手にしたから美しく、同性だから
汚いということはない。異性でも同性でも汚いものは汚い。
それ自体を賛美する必然性もなく卑下することもない。

時代は今後、ますます「境界線解除」ボーダレスの方向へ向かっていく。
政治的立ち位置は、私は美輪明宏さんとは異なるけれど、この点は深く一致だった。
国境も性別も年齢も。ゆるやかながら、そこへ向かう。

いまだこの時代に悩んでいる人がいるかもしれないので、少々長くなったが
この拙い一文を小瓶に詰めてネットの海に沈めておく。
ご縁があれば読んでもらえるだろう。


8 コメント

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嵐くんについて (たける)
2013-05-14 21:04:08
山口達也さん演ずる嵐くんが死んだ後、最後のシーンで、嵐くんそっくりの作業員が出てきましたが、あれは輪廻転生を意味しているのかな?と思っていました。
先生が嵐を殺すのはよくなかったと思っていただいていることに、大変うれしく思います。
ゲイでもバイでも、やっぱり幸せになりたいですものね。
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桜姫東文章 (miki)
2013-05-15 03:18:24
確か桜姫東文章がドラマに出てきました。
たけるさんの言われたことは、そのことを指すのでしょうか。
嵐が死んだことはショックでしたが、嵐が生きていたとして、さてどうやってストーリー展開すればよいのか見当もつきません。風馬と一緒に暮らせるはずもなく難しすぎます。
ゲイの人の恋愛生活は困難を極めると感じました。
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終結の仕方 (井沢満)
2013-05-15 13:16:14
たけるさん

当時の時代背景というものもあって、ゲイの登場人物が幸せに生き延びました、というのが受け入れられなかったところがあります。
それが世界の潮流でした。
軒並み不幸でした。例外が「モーリス」という作品でした。これとて、苦悩がベースにあり、終末はモーリスは意中の若者と結ばれますが、そのためには地位も財産も捨てねばならなかったので完璧なハッピーエンディングではないかもしれません。
「同窓会」に関しては、あれだけ認知され受け入れられていた、という事実があったので、そこは思い切ってハッピー・エンディングに持って行くべきであったのかもしれない・・・とは思いつつ時代的には無理だったかも・・・。
ただ死なない選択は少なくともあったと思います。監督からも殺さないでくれと言われ、嵐はあちこちで愛されていました。

mikiさん

そうでした、忘れていましたが「桜姫文章」でしたね。衝動的にそれをやってみたくなったので、理由はどうだったか。
輪廻転生の歌舞伎なので、それを暗喩に使いたかったのかもしれません。

理屈で言えば魂は魂で、男も女もなく、この世に現れるときまとう肉体がたまたま性別をまとうだけだ、と言いたかったのかも。

その頃は輪廻転生は概念としてしかたぶん、頭になかったような・・・・。後に、いくつか自分の過去世のようなものを「見て」、ふぅん、過去世ってあるんだ・・・と思うのですが。
男であったり女であったりしていて、そういうふうに繰り返しながら何かを学んで行くのかもしれません。

嵐を生かしたままの結末は今具体的にはわかりませんが、時代的にはありだと思います。ただ物語的バランスで言えば死が一番おさまるような気もしないではありませんが。

私が途中からずっと死を多分考えていたので話の流れが必然的にそこへ向かっていったので、最初の発想から死を抜いていれば、それなりの必然で終われたのでしょう。

最近やっと、明るいドラマや映画が現れるようになりました。が・・・しかし主流はやはり悲劇かなあ? と結論を出すほど見てませんが。


中国映画の「らんゆう」というのなんか、なんで殺すの? という唐突な死に方で、中国もまたそこまで開けてないということなのでしょう。男色の歴史が分厚い国ですが、やはり文化大革命からの風潮なのかもしれません。
日本の価値観が変わるのは明らかに戦後、アメリカの影響です。
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嵐くんのキャラクター (たける)
2013-05-15 17:11:38
嵐くんは監督さんを始め、皆さんに愛されていたんですね。私も、あの風馬さんに会う時の、とびっきりの笑顔と一途さに、どれほど癒されたか知れません。
最後のシーンで嵐くんのそっくりな人が現れたときは、少し救われた思いをしたものです。
ドラマ「同窓会」について、いろんなお話をお聞かせ下さいまして感謝しております。
「同窓会」関連で、ブログのアクセス数が急増しているとのことですので、話題は尽きないと思われます。我々の知らないエピソードを、また楽しみに待っています。
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「同窓会」へのアクセス数 (miki)
2013-05-15 19:18:22
ブログの人気記事の欄を見ると、あからさまに「同窓会」へのアクセス数が急増しているのがわかりますね。どれだけの人数なのでしょうか。20年前のドラマでもあり、大変興味深いものがあります。

このドラマに取って代わる物語が一向に誕生しないことが大きいのだと思います。日本におけるゲイやバイなどのイメージはオネエ系ばかりです。
やはり、続編が必要なのかなと改めて思った次第です。
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「同窓会」の続編 (たける)
2013-05-16 05:10:28
井沢先生
そしてmikiさん

mikiさんがおっしゃられているように続編は見てみたいです。しかしITの浸透で、BL系のネット小説やアニメーション、美形の人を使った実写版DVD販売などが爆発的に増えました。
ゲイやバイの人の等身大な恋愛とヘテロの人との恋愛を同時に描きつつ、お互いが何かしら関わっていくのなら、BLとは違うテレビドラマができるのかなと。そうすると、話題性がなくなって数字がよくないかなぁ、と考えて見たり。
後は、俳優人です。イメージ戦略から断られる可能性は大かと。
井沢先生は20年前に、よくジャニーズの方を含めて素晴らしいキャスティングをなさったなと感心するばかりです。
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一つの奇跡 (井沢満)
2013-05-16 19:04:48
mikiさま
たけるさま

なんで、あんな作品が出来たのか今もって不思議です。時代的必然でもあれば運命的必然でもあるでしょう。
今あれだけのセリフは書けません。おそらく局の考査室から注意書きが真っ赤になって戻って来るでしょう。
あの時も来たことがあります。しかし、私も絶頂期にある人間の勢いで、押し戻したのでした。オンエアが法的に可能か不可能かだけ言え、個人的見解など要らん! と喚いた記憶があります。 それでも言うなら私が降りるか、あなた降りるかどちらか選べ、とまで。
傲慢で自信に満ち溢れていた時代でもありました。それゆえ役者スタッフも動いてくれたのだと思います。
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まさに奇跡 (たける)
2013-05-16 22:48:05
井沢先生

まさに奇跡の作品ですね。有名なネット販売サイトで、「同窓会」のDVD-BOXのレビューを見たのですが、「魂をぶつけ合った演技合戦」と書いてあって、誠にその通りだと思いました。
私は決して傲慢だとは思いません。この作品のおかげで、世の中が変わったのですから。
どういう形であれ、「人間愛」をゴールデンタイムの連続ドラマとして見させてくれた「同窓会」は後世に残していくべき作品です。
いまの若年層の人達にも、「同窓会」をぜひ知ってほしいと心から願います。
そのためにも、時々この作品のことに触れていただけると幸いです。

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