番組宣伝用に、作者からの言葉をと言われて書いた短文です。
世の中には傷ついた親子関係に苦しむ人も多く、肉親ゆえに憎しみの淵は深いのです。しかし愛の対局は憎しみではなく、無関心です。憎しみの裏には愛に転じる何かが息づいています。本作における親子には、普通の親子なら誰でも持つ程度の葛藤があるだけですが、母親は死を目前に心が澄み渡っていて、息子たちもその穏やかな光を浴びつつ、親子や生と死の本質を見つめます。
親を憎んでいる人の胸にも届くよう、思い込めて書いた、これは母恋いの書でもあれば、この世を去りゆく者への鎮魂歌でもあります。
そして鎮魂歌はとりもなおさず、この世を、なお生きていく者たちへのエールでもあるというのが、人生の素敵なパラドックスなのかもしれません。死を見つめることは、生を見つめることです。
たくさんの浄化の涙を流して頂き、そして少し笑って頂けたら、脚本家冥利に尽きます。
__________
雑誌「ドラマ」に書いた短文は、セリフを省くことの大切さについてです。
発売前なので、こちらは転載を控えますが、
私は、執筆にあたってせりふは「何を書くか」よりも「何を書かざるべきか」に
エネルギーを集中します。
過剰なせりふは、視聴者から想像力を奪い、作品の底が浅くなります。
俳句と同じ余白がせりふにも欲しいのです。
これを言いたい、というのを黙ってこらえるからこそ伝わるエネルギーがあります。
優秀な役者はそこを敏感に察知、尊重してくれますが凡手の役者ほど
余計なことを喋りたがり、困惑することもあります。現場に常に
いるわけではないので、余計な一言を勝手に付け加えられて、
それが現場での動きとその役柄の性根に即し
自然に出た、こちらがウン、と膝を打つセリフであれば
いいのですが、所詮セリフの素人の考えること、余白を消すことのほうが多く
また本当は法的にはそのことにより、脚本を引き上げ放送中止させ得るぐらいの
著作権侵害なのですが、昨今は現場がルーズになっていて困りものです。
また、いじられても仕方のない脚本が多いとも聞きます。
脚本家が育ってないのかなぁと残念ですが、お互いにせりふにルーズだから
育たないのだとも言えそうです。さんざん言われて来たことですが
ドラマがいつしか・・・・2,30年ぐらい前からでしょうか、企画先行、
スター先行になってから脚本が尊重されなくなる傾向が日々大きく、
またそれだから新たな作家が育たなくなってもいるようです。
作家の文体というものが消え失せ、誰が書いているのかわからない本が
多くなりました。昔は作品のにおいといおうか気配、せりふのタッチで
誰の作品、と解る人がいて、その人達はまた群を抜き優秀でした。
・・・・いなくなりました、本当に。
それでもいい作品が生まれればいいのですが、刑事物やサスペンスといった
お話の「仕組み」で見せる作家で優秀な人はいますが(見ているとやはり、
これも相当のベテランであることが多いのですが)、せりふと心理で
見せる作家が僅少になって来て残念で、しかしふと思えばそういう作品が
求められる場もまた少ないのですね。
でも、またそういう作品が望まれる時代になりつつあるのか、と思うのは
昨年の「花嫁の父」の成功であり、また今年で言えば「とんび」の
好成績でしょうか。
世の中には傷ついた親子関係に苦しむ人も多く、肉親ゆえに憎しみの淵は深いのです。しかし愛の対局は憎しみではなく、無関心です。憎しみの裏には愛に転じる何かが息づいています。本作における親子には、普通の親子なら誰でも持つ程度の葛藤があるだけですが、母親は死を目前に心が澄み渡っていて、息子たちもその穏やかな光を浴びつつ、親子や生と死の本質を見つめます。
親を憎んでいる人の胸にも届くよう、思い込めて書いた、これは母恋いの書でもあれば、この世を去りゆく者への鎮魂歌でもあります。
そして鎮魂歌はとりもなおさず、この世を、なお生きていく者たちへのエールでもあるというのが、人生の素敵なパラドックスなのかもしれません。死を見つめることは、生を見つめることです。
たくさんの浄化の涙を流して頂き、そして少し笑って頂けたら、脚本家冥利に尽きます。
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雑誌「ドラマ」に書いた短文は、セリフを省くことの大切さについてです。
発売前なので、こちらは転載を控えますが、
私は、執筆にあたってせりふは「何を書くか」よりも「何を書かざるべきか」に
エネルギーを集中します。
過剰なせりふは、視聴者から想像力を奪い、作品の底が浅くなります。
俳句と同じ余白がせりふにも欲しいのです。
これを言いたい、というのを黙ってこらえるからこそ伝わるエネルギーがあります。
優秀な役者はそこを敏感に察知、尊重してくれますが凡手の役者ほど
余計なことを喋りたがり、困惑することもあります。現場に常に
いるわけではないので、余計な一言を勝手に付け加えられて、
それが現場での動きとその役柄の性根に即し
自然に出た、こちらがウン、と膝を打つセリフであれば
いいのですが、所詮セリフの素人の考えること、余白を消すことのほうが多く
また本当は法的にはそのことにより、脚本を引き上げ放送中止させ得るぐらいの
著作権侵害なのですが、昨今は現場がルーズになっていて困りものです。
また、いじられても仕方のない脚本が多いとも聞きます。
脚本家が育ってないのかなぁと残念ですが、お互いにせりふにルーズだから
育たないのだとも言えそうです。さんざん言われて来たことですが
ドラマがいつしか・・・・2,30年ぐらい前からでしょうか、企画先行、
スター先行になってから脚本が尊重されなくなる傾向が日々大きく、
またそれだから新たな作家が育たなくなってもいるようです。
作家の文体というものが消え失せ、誰が書いているのかわからない本が
多くなりました。昔は作品のにおいといおうか気配、せりふのタッチで
誰の作品、と解る人がいて、その人達はまた群を抜き優秀でした。
・・・・いなくなりました、本当に。
それでもいい作品が生まれればいいのですが、刑事物やサスペンスといった
お話の「仕組み」で見せる作家で優秀な人はいますが(見ているとやはり、
これも相当のベテランであることが多いのですが)、せりふと心理で
見せる作家が僅少になって来て残念で、しかしふと思えばそういう作品が
求められる場もまた少ないのですね。
でも、またそういう作品が望まれる時代になりつつあるのか、と思うのは
昨年の「花嫁の父」の成功であり、また今年で言えば「とんび」の
好成績でしょうか。