井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

黄金

2013年08月31日 | 日記

誰かに呼ばれた気がしてふと目を覚ますと、巨大な太陽が美しい海を染めながらゆらゆらと黄金(きん)の光芒を放ちつつ、空へ昇るところだった。
テラス側のカーテンを引き忘れて休んだので、日の出に呼ばれた。

目の覚め際、部屋が船と変じて色鮮やかなコバルトの海に漂い出て、白い波しぶきを立てる様を驚きと共に見つめた夢は、朝日の前触れであったのかもしれない。

黄金の球は見る見る空を同じ光で満たし輝きわたり、脈絡もなく私は悠仁さまのお顔を思い浮かべていた。霊眼開けた者ではないので、聞き流してほしいのだが、悠仁さまが金色の光をまとっていることを、ちらっと感じることがある。
・・・・と思いながら、テレビをつけたら、皇室日記か何かで悠仁さまが映っていらした。

テラスに出て、まだ輝かしい朝日に両の手をかざし、浄化を願いながら日本が無事存続することと秋篠宮家の安泰、皇統が無事、悠仁さまにつなげられることを祈った。(私はどうも妙なビジョンを
まれに見ることがあり、過去世かな? とふと思うこともないではない。そのうちの一つが、エジプトでの神官の姿で、太陽を頭上に両手をかざしていたりすると、妙にしっくりと来るものがある。悠仁さまの霊光と同じく、これも私のたわごとのレベルである。ファンタジー。再度読み流していただきたい)

日輪がだんだん朝の清浄から脱して、夏の猛々しい炎にその姿を変える頃、室内に戻って、メールチェックをしたら、ふだんからやや霊的なことを口走る知人から、一通。悠仁さまが即位なさった時、日本はやっと収まると書いてあった。
それまでに起ることもかなり具体的に記されてあった。

しかしこれとてしょせん、常識からいえばファンタジーである。

しかし、朝日から始まって妙に悠仁さまのイメージに満たされた朝であった。

・・・・・そういえば。いや、怪しげなことを書きついでに・・・・。
外房のこの地に来る電車の中で、両手の甲にキラキラと金粉がたくさん浮いた。
金粉は、ときどき降るというか湧く。これもファンタジーのたぐいだが、こちらはドラマのスタッフはじめ、目撃者が複数名いるので、ややリアリティがあるかもしれない。
体だけではなく持ち物にキラキラと浮いて、時には金箔がバッグに貼りつくこともある。
金粉ではなく、ダイヤモンドを砕いた粉のようなものが、鋭い白い光を上げている時も。
電車の中で浮いたのは、青いきらめきを放つ・・・あたかもブルーサファイヤの微細な粉末のようであり、これも同行の人が見て驚いていたので、あながち錯覚や妄想でもない。
だからと言って、それが何かというと、何なのか解らない。
特殊な生理現象で、そういうものがあるのかもしれない。
世の中には人の常識では割り切れないことが、たまにはないではない。世の中にはこのたぐいのことは、頑として信じない人がいることは承知で。
おそらく、そのたぐいの唯物主義的な人が、宮中における祭祀の、日本国と日本人には、のっぴきならず大切なことも、解らないのではないだろうか。
祭祀の中身を感知出来ない人々にとって祭祀は、延々と厄介な形と決め事ばかりが先行する、おまじないレベルの、くだらないものなのかもしれない。


男の仕事

2013年08月30日 | ドラマ

外房最終日の3日目も、いい空気三昧美味三昧で、過ごし仕事せず。

結局3連ちゃんで通った店で、今日はエンザラの唐揚げと、メバルの煮つけ、野菜とワカメの具だくさん、アラの味噌汁。
サーフィンをやるとかで、色の浅黒い兄ちゃんがやるので、アラの味噌汁以外は兄ちゃんのお世話になったが、
喋り方も手さばきも鮮やかでお兄ちゃんが魚はさばき、煮物は厨房でやるが、どういうものか
煮魚は、カウンター内のお、小気味いい。

すし職人と魚のさばきは、やはり男の手がいい。体温と力なのだろうか。
あと、名だたる音楽家が女性にいないが、何か性別に関係あるのだろうか。
握るすし、さばく魚にこもる「気」もやはり違う気がする。
生理のあるなしにも関係あるのかもしれない。

一定の味覚を保つには、やはり男の安定した生理のほうが向いているのだろう。

神事もやはり生理的に安定した男のものであるし、なにか「キレ」といおうか
寒風の中、九字を切り結んで滝行する気合いも男のものであろう。


海の風 山の風

2013年08月29日 | ドラマ

いわゆる売れっ子をやっている時代には、ホテルの一室にこもって書くカンヅメは

比較的多かったが、久々に自主カンヅメをやろうと、外房のリゾートホテルにやって来た。

海から吹き渡ってくる風、山の緑を濾してくる風と、渾然一体の風が歩く道にたっぷりと流れ、
なんという心地よさ。

獲れたてのスズキやタイの刺し身が美味しく、煮魚が絶品の店をタクシーの運転手さんの
紹介で見つけ、二日間通った。たぶん滞在の三日間通いつめると思う。
煮汁が田舎風に濃く、とろりとしている。
私は4歳まで長崎の漁村で育ち、魚だけは新しさを舌が覚えてしまっている。
何しろ浜に揚げられた魚介がお膳に直行だったのだ。

夜の海辺を歩いたら、樹に小鳥がたくさん群れ、さえずっていた、
「夜啼く鳥は珍しい」というのは太宰治の「駆け込み訴え」の一節だが、
年間通じ暖かいエリアなので、外来種かもしれない。

しかし、都会とは違うゆったりとした時間の流れの中、仕事ははかどらない。
カンヅメにはやはり、都会の無機質な一室がふさわしいようだ。 

ひたすら、ぼーっといい空気を小鳥のように胸をふくらませて吸っている。

 


灯台もと暗し

2013年08月28日 | 日記

かつて私の親友が皇族方と懇意で、仲立ちして私を紹介したく思っていたようなのだが、
当時は私は全く無関心で、そのうち親友は早逝してしまった。

その彼の奥様が、私の誕生日を祝ってくださるといって来てくださって、しかし締め切りの都合でお互い行きつけのイタリアンレストランで落ち合ったのが、一昨日のこと。
悠仁さまのお話になったのだが、奥様曰く
「娘がお会いしました」

はい?

「娘がかこちゃまと、同級生なんです」

え?

「御所内や宮家のことはお話しできないのですけど、先生だから特別に」

 

と娘さんがお宅にうかがって、そのとき遭遇した悠仁さまのこと、紀子さまのご様子、他微笑ましくて聞き入ったのだが、むろんここには書けない。
ただ「非常に仲のいい姉弟ですよ」ということぐらいは、書いてもいいだろう。
書けなくて残念。口元がほころぶ逸話である。

親友の奥様も紀子様にはご学友の母親同士としてお会いになったそうだが、
「こんなにグラウンディングのしっかりした女性に私は会ったことがありません」

グラウンディングは、要するに地にどっしり足がついて動じない様子だろうが、さもありなんと思う。

大変なお立場だと思う、これまでのさまざまなことを振り返るに。
乏しい予算の中で「家計のやりくり」、3人の子育て、ご自身の学び、ご公務、神事と
息もつけぬ日々の連続の中、いつもすっとお立ちで、しかし随所に工夫を凝らし気を配られていることは、ヘアスタイルひとつ拝見しても、手間がかからぬショートでしかし、和服にも即転用できるスタイルで風に乱れ見苦しくならぬよう、固めていらっしゃるお気遣いである。

心屈することも悲しみも時にはおありであろうと拝察するが、しかし常に淡々と微笑みを絶やさず、それは、強さに他ならない。宮家に嫁ぐ際の並々ならぬお覚悟を感じる。
皇后陛下の真似ばかりなさっていると批判する人がいて、私などは驚くのだが、そのどこが
いけないのだろう。皇后を規範に動かれるということは、個性を殺すということであり、しかし
皇室で求められるのは実に、無私なのであり、民間から持ち越した半端な個性などそもそも
浮世に潔く捨てて来ねばならぬのが、皇族の一員になるということなのだ。


戸籍なく、本来人格すらなき特殊なお立場の人々を、民間の例をあげつつ語る人々がいるが根底で勘違いしている。2673年間続く、日本最高位の神道の祭主の家であり、
世界のプロトコールにおける天皇陛下は、大統領、あらゆる王族がたの上にランキングされる。そういう特殊な上にも特殊なご家系に連なるのであるから、なまなかなお覚悟では務まらず、ある意味では神域で永久に巫女を務め続けるほどの禁欲的な心構えが必要なことなのであって、いかに「私」を後回しに、民優先にお考えになれるかということが
資質として求められるところであろう。

個性を捨て、しかしそのことによりかえって個性が光り、人格を捨て去ることで人より上の挌を得る、皇室というのはそういう逆説的世界なのである。

もし、「人間性」や「人格」「自由」を求めるなら、皇室存在の意義が希薄になる。
王室とは画然と一線を引くのは、祭祀を常に行うご一家であり、そのお祀りする対象が神であると同時にご先祖であるという・・・これを神話の一範疇と捉えようと、実在であると断じようと、それはいずれでもよい。
その特殊性を国民合意で認めるところに、皇室の存在意義はある。

国と国民を第一義に置いた」祭祀あるがゆえの皇室であり、そこで祭祀に仕える方々には、一般を超えた並々ならぬ強い意志と高い精神性が要求される。

 

 


 


はだしのゲン

2013年08月27日 | 歴史・政治

松江市教育委員会が「はだしのゲン」を図書室から撤去せよ 、と打ち出したことで
問題になっているが、見ていると肝心のマンガの中身をよそに、話が妙な
方向に走っているので、一言。

中身の評論はしない。全編を通しで読んでいるわけではないので。
ただ、言論統制や表現の自由を奪うのかレベルの抗議を松江市にしている
人たちは中身を知った上でのことなのだろうか。

今朝も朝の情報番組で、女子アナの一人が「読んでみたいですねー」と明るく
言い放っていて、たまげた。天皇侮辱マンガなんだが、こういう発言よろしいの?

「はだしのゲン」の中のネーム(せりふ)から。

「貧相なつらをした今上裕仁」

「最高の殺人者、天皇じゃ!」

「その数千万人の人間の命を平気でとることを許した天皇をわしゃ許さんわい」

「いまだに戦争責任をとらずに ふんぞりかえっとる天皇を わしゃ許さんわいっ」

「君が代なんかだれが歌うもんかクソクラエじゃ」

「君が代なんかっ 国歌じゃないわいっ」

 「首をおもしろ半分に切り落としたり、銃剣術の的にしたり、妊婦の腹を切りさいて、中の赤ん坊を引っ張り出したり、女性の性器の中に一升ビンがどれだけ入るかたたきこんで骨盤をくだいて殺したり」

「わしゃ日本が三光作戦という 殺しつくし 奪いつくし 焼きつくすで ありとあらゆる残酷なことを同じアジア人にやっていた事実を知ったときはヘドが出たわい」

ちなみに、最後の「首を」以下、日本軍がやったという史実はない。
むしろ「通州事件」などで、日本女性や児童が中国に受けた仕打ちである。

 

松江市の教育委員会には電話が殺到しているらしいが、ほとんどが抗議だとしたら、作品を読んだ上での批判であるのだろうか?
上記見れば解るように、女性器に一升瓶を突き刺すなどの描写が絵つきであり、
思想上のことを抜きにしても、とてものことに児童相手の図書館に置くにふさわしい
本とも思えないのだが?

作者は、史実に反してまで日本を貶めたいようだが、その動機は何だろう。