井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

神道は宗教か宗教でないか

2014年04月13日 | 日記

某所で天皇家の根幹をなす神道が宗教か否か、ということが論じられているのを
見ました。
ツイッター風に短く所感を述べてみます。

神道とは宗教ではない、は本当です。
宗教だというのも本当です。

どの側面から見るか、で異なります。

アマテラスという自然神を天頂に、古代日本人のインスピレーション(霊的感性)から日本という「場」から自然発生したのが神道であり、キリスト教他のように布教伝導できるものではありません。

日本という土地に根ざしたものなので、他国に移植は出来ません。
儀式という「形」は伝えられますが、そこに日本の山、草木、水がなければ
神道の息吹は十分には放てません。

言葉を変えれば日本そのもの、日本の精神そのものです。その意味では宗教ではありません。

精神が儀式として編まれ、宗教法人として認可を受けているという外的条件を見れば宗教です。

しかし、本来神道は日本人の霊的な感受性そのものなので、宗教という枠には収まりません。

更に、世界の宗教とされるものは全て三つの要件を備えています。


教祖 本尊 経典の三つです。

神道はどれも持ちません。

神道とは日本の別名です。

天皇は神道=惟神(かんながら)です。

神仏習合で神道の姿がぼやけましたが、本来神道は極めて素朴で
浄明正直(じょうみょうせいちょく)。

浄く明るく正しく直くに尽きます。

入り組んだ教義もなく、倫理も押し付けられません。

神の道を個々が歩めば、自ずと天の理に適(かな)うからです。

「お天道様が見ている」

日本人はこの一言で、倫理観を統一し、国家としての破綻もなく、「皇紀」に従えば
2674年間続いてきた世界でまれなる国です。

学術的に言えば神道には二種類あります。

神社神道と教派神道です。

前者は日本古代の人々が集合意識として感知した自然の中に潜む神々を祀る神社であり、後者は神社神道の世界観を基に教祖や教義を持ちます。

私は後者は神道とは別物だと考えています。

アマテラスは太陽神ですが太陽そのものではありません。
これは私の個人的考えです。
太陽本体ではなく、太陽のあまねく世界を照らし生きとし生きるものの命を育む、
宇宙に在る「力」パワーの表象です。

ですので本来天照大御神という「人の形をした」神様がいるわけではありません。
魂に汚れのなかった頃の古代日本人たちが感受した根源のパワーを
視覚として表現したら、女性神として心象に映じたということかと思われます。
パワーなので、性別はありません。男性神としてアマテラスを言う一派もいます。
いずれにしても、人間的感性で神の性別を測っても仕方がありません。

神話はそのパワーにキャラと状況を与え、物語に編み上げたものでしょう。

一人の人間の中にも男性性と女性性とがあり、100%の男性、100%の女性という
ものはありません。神というのはその男性性と女性性を完璧な比率で持っている
存在・・・・というよりは性別を超越した存在であるというのが適切でしょう。

私はどういうものか、日本の神々はついぞ目視したことがないのに、天使と言われる
方々はごくまれに、ちらっと目撃することはあります。
大天使ミカエルは、男性ですがしかしそれは私の人間としてのレセプターが
そのように変換するのであって、本来は宇宙に偏在するパワーの一つであろうと
そのように解釈していますが、解りません。日本で言えば不動明王の性質を持った
パワーであろうと感じています。

高次元の存在という言い方もしますが、その場合は人格神ですね。
人格神というより、人間がさらにさらに進化した形態。
三次元の視覚では捉えられません。

大日如来は女性神として認識されていると思うのですが、この化身が不動明王なので、
やはり性別はなく、融通無碍。力に慈愛など女性性の面が出れば大日如来に、悪を断ち切る不動明王に变化(へんげ)すれば、男性神として人間が感知するのであろうと思います。

あと神本体が分裂して、ひとつの形を現じるということもあるように感じています。

神道の基本である八百万の神というのは実に宇宙の実相を捉えた考え方だと
思われます。多神教という言い方をしますが、実はそれは正確ではない。
根源の神は唯一ですが、その分裂した形が山川草木、動物に人にと四方八方に
散らばり、しかし元をたぐれば唯一神に帰着するということかと考えています。

神の分け御霊というのも、私が「人間語」で言うところの分裂状態を言ったものか。
分裂というよりは、量子力学的感覚で言うなら分波でしょうか?

以上神道について述べた箇所にはほぼ確信を持っていますが、それ以下の
記述は「こうかなあ?」という程度の所感に過ぎません。
残りの人生で追求してみたいところです。学問としてではなく、あくまでも
実感、体感として。

私が持って生まれた霊感も非常に微弱に半端で、もどかしいのですが、それも自らに与えられたものなので何かそれなりに意味があるのかもしれません。あるいは単に進化前期の未熟な魂であるからに過ぎないのかもしれません。転生の回数だけは、やたら多いように感じているし、高次元にいた「記憶」も僅かにありはするのですが・・・・・。

「エジプト時代」に、イオテアという名を名乗り神官をやっていた記憶があるので、その記憶を詳しく呼び起こせば、霊感も多少ましになるのかもしれないし、あるいは何か理由があって、その記憶を塞いでこの世に来ているのであれば、思い出さないでしょう。

政治という生臭い現実的話から一転、今日はつかみ所のない怪しげな話でした。
しかし、神道の定義の部分だけはわりに、まともですので・・・・。