チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

母達の時代

2016年06月29日 | 母のこと

雨、27度、95%

 義母と母はほぼ同じ年です。昭和の初めに生まれ、女学生として戦時下を過ごし、日本の高度成長とともに時代を生きて来た人たちです。母は3年前に亡くなりました。義母は来年には90に手が届きます。主人は長男ですが、私は義母とは同居をしたことがありません。母だからと言うのではなく、生い立ちからどういう生活をしてきたかということをよく知っている女性は、私にとって義母と母しかありません。

 昭和の初期の日本は想像以上に後進国だったように思います。母は、四国の高知に産まれました。高知から山をひとつ越えた土佐市です。母はよく小さい頃の話をしてくれました。その上、私が小学のうちは殆ど年に2回この土佐の家に帰りました。土佐市の市役所の真ん前、黒い板塀の家です。平屋の母屋に農作業に使う道具等が入れてある二階家の納屋がL字型に繋がり、厠は外にありました。座敷の縁側から見ると中庭を挟んで正面にお蔵があります。そしてお蔵の向こうは、用水のある所まで畑でした。伯母は畑仕事をしていましたが、祖父母の頃は他所の人に畑を作ってもらっていたと聞きます。私が小さい時は、夏になるとお蔵のすぐ裏にはトウモロコシが続き、その向こうのビニールハウスにはトマトとキュウリ。売り物ではなく家で消費する野菜達です。ここまでが伯母の仕事範囲、ここから先の用水までの畑はやはり近所の方が手を入れてくれていました。

 母は6人兄弟の末っ子、一番上の姉(私にとって伯母)とは20も歳が違います。非常に甘やかされて育ったようです。周り一帯同じ姓です。従兄弟再従兄弟、要するに分家をした家がみんな寄り添うように近くに住んでいます。母の実家から2軒程先にはガソリンスタンドがありました。母の従兄弟がやっていました。この従兄弟のおじさんは母と同じ年です。母が「若い頃はクラークゲーブルみたいで。」と言うそのおじさん、私の目には田舎の日焼けした普通のおじさんにしか見えませんでした。

 私は福岡の町中の生まれです。この母の里に行くと夏には日差しの強さで疲れます。ちょっと外に出ただけでげんなりしてしまいました。近所に同じくらいの子供もいません。従兄弟達はみんな成人しています。縁側に座っては、畑を遠くから眺めていました。そしてなんといっても嫌だったのがトイレです。夜中でも外のトイレに行かなければなりません。その厠に行く手前には、ニワトリの小屋があります。その前を通るのがこれまた怖かった。お風呂は薪で炊く五右衛門風呂、中板にうまく乗れないのでこれも難儀でした。

 そんな家で育った母は、戦後、洗礼を受けてクリスチャンになりました。そのご縁で土佐の家を出て、名古屋の大学に入りました。

 亡くなった母、90に近い義母の生きて来た時代を振り返って書き残しておきたいと思います。この二人を振り返ることは取りも直さず私自身を振り返ることでもあります。私が60の誕生日を迎えるまでに、少しずつ書き進めます。

 左が母、右端は高知の私の従兄弟です。従兄弟が福岡の家を訪ねて来た時に撮った写真です。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スターフェリーに乗るつもり... | トップ | ゆず七味唐辛子 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿