ロクマルでいこう、60でGo!

" AS SLOW AS POSSIBLE AND AS FIRST AS NECESSARY "

TLC Jonathan Ward その3

2021年08月22日 | 北米ランクルビジネス

 今年、2021年に市場に出てきて、最近ちょくちょく街で見かけるようになった6代目フォードブロンコ。中型SUVのカテゴリーであるが1966年に誕生した初代アーリーブロンコを彷彿させる立ち振る舞いである。TLCが2011年の秋にラスベガスで開催されたSEMAにおいてアーリーブロンコをベースにした ICON BRONCOを発表してから10年、5代目のブロンコが終了してから25年の歳月が過ぎている。フォードの様な大きな企業が四輪駆動車に対して慎重で弱腰であったとは思う。ENGAGE誌ではあくまで噂であると前置きしているが、新型フォードブロンコは2011年にTLCが製作したICON BRONCO から強い影響とインスピレーションを受け、それを応用して開発されたのだと言われている。

 ロサンゼルスのTLCワード氏の工場は知名度があるとは言えメーカーに比べると小さなハンドメイド工場にすぎない。その立場にあってワード氏は2つの事を意識して現在のメーカーの四駆を観続けている。一つは、 Connect with the original. (オリジナルにつながっているか?)もう一つはMissed the target.  (ターゲットから外れていないか”?)である。メーカにおいても製品に対する理念があり、ワード氏の持っている理念との乖離が当然あるはずなので、町工場のくせに生意気なコンセプトを持っている奴と捉えられるかもしれないが、それこそがワード氏の持ち得ている魅力なのだと思う。

 最近、時間の経過が昔よりも速くなったと感じる、という会話をいろんな人とする。多くの人が、忙しい証拠だとか歳とったなっ、で終わる。ところが、ある人が面白い事を言った。時間というのは過去から未来に流れると同時に未来から過去に向かっても流れており、そのぶつかった所が今現在なのだと。僕自身はこの時間の概念を理解消化出来ないので、これからの課題ではある。この時間の流れを旧車に最新の機能を搭載するコンバージョンで捉えてみる。1966年のフォードブロンコは歳月と共に機能を失い劣化する、そこに構想を持った人間が登場しレストアコンバージョンされたブロンコを心像で描く。その構想に向かって作業は進行し、そうありたい構想に実態が近づいてゆく。こういう過程を考慮してみると、なーんとなくではあるが、未来から今に向かっても時間が流れているのかも知れないと思わせてくれる。但し、描く心像が無ければ未来から現在に向かって時間が流れないので、流されるだけになってしまうのかも知れない。

 人間が独自のビジョンを描き進んで行くという事が大切な事である。という事をワード氏は世間に示している様に感じる。彼の手掛ける ICON が世界的に注目されるのは、関心を寄せた人々がその背後にあるメッセージを受け取る事が出来るようにする何者かの采配であるのかも知れないと勝手に解釈させて頂いている。

 

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TLC Jonathan Ward その2

2021年08月19日 | 北米ランクルビジネス

 2006年にアメリカ市場で販売が始まったFJクルーザーの開発にTLCが協力参加したという事は事実である。FJクルーザーにはワード氏の意向が込められていると多くの人々が思っているのではないだろうか? 当時、TLCを率いるワード氏はトヨタの新しい四輪駆動車の開発の為にブラジルやカリフォルニアにあるトヨタ工場とかかわり、ブラジルで生産されていたBANDEIRANTEの外観をベースにした試作車を自身のコンセプトを盛り込んで製作した。 しかし、FJクルーザーが市場に出た時、結果としてTLCのコンセプトはFJクルーザーには反映されてはいなかったのである。即ち、TLCが手掛けた試作車は採用されず結果的にボツとなったのである。

 トヨタには3003年頃にはFJクルーザーの構想があり、それを暖めて製品にしたのが2006年に北米市場に現れたFJクルーザーであった。この時ワード氏は何を感じていたのであろうか? トヨタはなぜワード氏に試作車を依頼したのか?は想像の課題を与えてくれる。

 ワード氏はジープラングラーについてこんな事を語っている。ラングラーを例えるならば大型家具店のIKEAの商品の様な感じだ。しかし、ラングラーは唯一自身のブランドを強く守っている。確かに現行のラングラーJL、そして以前の、JK、TJ、を見てもそこにはジープというブランドのアイデンティティが存在し定着している。TLCのワード氏は自身のブランドICONに対して It something we believe in. (我々が信じているもの)という表現をしている。TLCが手掛ける車両はこのワード氏のブランドが反映されている。

 FJクルーザー開発の為にTLCワード氏が製作した試作車にもこのワード氏のブランドが反映していたはずである。トヨタが試作車を受け取った時に彼らは何を感じたのであろうか?機械的なデザイン的な点で評価した事は察しが付くが、その奥にあったブランドというメッセージこそが試作車の価値ではなかったと思っている。ワード氏は採用されようがされまいが、我々が信じているもの、を試作車という形にして残したのだ。

 

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TLC Jonathan Ward その1

2021年08月18日 | 北米ランクルビジネス

 ロサンゼルスにあるTLCの店を訪れてからこの8月で10年の歳月が過ぎる。今では彼の店も移転して拡張し、彼のブランドであるICONは定着して業界のアイコン的な存在となった。彼の業績は彼がユーチューブ等で紹介する車両に表れており彼の思考(指向)は形となって表現され続けている。10年に渡る彼の実績を時間の幅を意識して捉えてみると、彼が四駆に対し求める姿勢には一貫性がある事が理解出来る。おそらく、彼の手掛けるクルマが人々を惹きつける最大の魅力はここにあると思う。現在、TLCに仕事を依頼すると少なくとも3年は待たされる状態。更に、ICON の製作時間はそこから18ヶ月の時間が掛かる。そのスケジュールもアイコンの人気を表している。

 

 この夏、ENGAGE という新しい四駆雑誌が創刊された。この創刊誌の表紙を飾っているのがジョナサンワードが手掛けたアーリーブロンコであり、彼の事が紙面で紹介されている。彼に対する記事が示唆に富んでいるので一部紹介したいと思う。

 

 彼が若い頃の経験。アフリカのケニヤにおいて駆っていたランドローバーがぬかるみでスタックした。周りには野生動物が徘徊し腹を空かしたライオンの群れが我々に関心を寄せていた時にランドクルーザーが現れてぬかるみからランドローバーを引き上げてくれた。命が助かって、御蔭で無事にロサンゼルスの自宅に戻る事が出来た。その時からランドクルーザーの虜となった。彼はアフリカやアジア及びオーストラリアを旅してランドクルーザーが過酷な環境の中で活用されている事を実感した。ランドクルーザーはクルマのクオリティが異なり、生と死を分ける様な境地でこそ選ばれ活用されていた。1996年にTLCを創業した時はこのランドクルーザーの持つ本質を追求し、ビンテージランドクルーザーのパーツ、サービス、レストレーションが主流’の業務であった。そこには、あのケニアのブッシュで境地から救い出してくれたランドクルーザーの存在があった。創業してから10年の歳月を経過して、ランドクルーザーのレストレーションから展開してきたのが現在のICONである。ビジネスの規模は大きくなり創造性を駆使した斬新なクルマを手掛ける現在でも、ジョナサンワードの心の底にはケニアでのランドクルーザー(おそらく40系)の記憶が生き続けている。

 

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DATSUN 510

2021年08月06日 | VINTAGE CARS

 メカニックを訪れれるとそこには幻の名車 DATSUN 510 が整備の為に入庫していた。しばらくメカニックと雑談を交わし目の前の510を眺めながら嘗て北米日産の社長を務めていた故Mr.K片山豊氏の事を思い出す。

 510 っていうのはいいクルマだったね。これが日本からの輸送船に乗ってサンペトロの港に入ってきた時は、本当に嬉しかったんだよ。510 は思い出がたくさんあるよ。これに乗ってカリフォルニア中行くところ道がないぐらい走りまわったんだ。Mr.K

 510が北米で走りだしてから半世紀を迎えようとしている。今の時代はいい時代だと思う。なぜならこうやって半世紀を迎える実動車を観る事が出来る、そこには面白さが存在している。その面白さとは車の固体だけの事ではなく、現在という時代の中で旧車を前に当時の情勢について、ああだこうだと語れる話題性である。

 片山氏の功績とは何か?それは日本車をアメリカに売り込む事に貢献した実績である。氏は1958年に豪州ラリーでダットサンがクラス優勝した時にフォルクスワーゲンのサポートチームが他のチームに勝って交換パーツの補給力とサービスに力を入れていた事を学び、当時の北米日産においてはパーツの供給とそれに伴うサービスを迅速に行う体勢を強く指示していた事はあまり知られていない。日本車が世界に広まったのは車の性能や燃費、或いはオイルショックの時代的背景だけではなくて、実はこのサービス面での功績も大きいのである。

 当時サンペトロの港に入港した DATSUN510 が今もこうやってニューヨークの郊外で走っている事にただただ喜びを感じるのである。

 

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