goo

急行特急TH発日曜深夜夜話その3 興味惹かれる言葉

2009年07月06日 02時48分42秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
この言葉は、ある時期に、予備校の宣伝看板にあった物である。
この記事の1つ前に、「努力」という言葉について触れたので関連する話として語ってみたい。
人はたやすく他者に対して、

「頑張れ」

「頑張る」

という言葉を口にしがちであるが、具体的な中身については、語られぬままである。もっとも語りたくても語れぬ物もあるのかも知れない。
人に対して、「頑張れ」という言葉をかけるのは、「励ます」場で使われるが、あくまでも「言葉」だけであって、それ以上は何もない。
「頑張れ」という言葉、はっきり言って、溢れすぎてもはや「意味が薄れている」と私は思う。単に使われるだけで、「そのやり方」について、「誰も享受しない、されない」。あんまり、「他者に依存するな」という意味が暗に込められているんだろうし、頑張れという本人もそのやり方については解らない面もあろう。
頑張れでもそのやり方は自分で考えろ、というのは、あまりに無責任な話に聞こえる。単に、自分の手から誰かを突き放したい、関わりを外したい、という念がそこに見え隠れしている様に私は思う。
やり方も知らずして、或は、解らずして、簡単に「頑張れ」という言葉は使うべきではない。また、具体的な策もないままに安易に、「頑張る」という言葉もまた使うべきではないだろう。
確かに、状況によって、何等からの第三者の「相手」が、自分でない相手から「頑張る」という言葉を聞きたがる場面や「頑張る」という言葉を口にしなければ、後がない、と「人を追い詰める」やり方をする場面があるから厄介なのだ。
一方で、売り言葉に買い言葉的に「頑張る」という言葉が使われる側面もあり、1つのコミュニケーションの手段として使われるのは必ずしも良い話ではない。
具体的な成果がなければ、「頑張った」とは言われないのが世の規則になっているが、辛いのは、「頑張る」という言葉を口にした後、「成果が出なかった時の他者からの攻め立て」である。人は、そういう所を攻めるのが好きな傾向にあるのも気になるが、殆どその事に気づかないのもまたおかしい話である。
努力は常に報われる訳で無い事は皆知っている話である。故に、「頑張る」と言って「成果が出なかった事を執拗に攻めるのは悪」と私は思う。そこから、私は、あまり安易に「頑張る」とか「頑張れ」という言葉を使いたくない。
その場凌ぎ、所謂、きれいごと、美辞麗句として「頑張れ」は、現代で使われている面がありそうだが、あちらこちらで多用され、すっかり意味を成さなくなってしまっているのは、問題がある上に、「頑張る」という「具体的な方法を示さない」のもまた問題がある。
具体的なやり方が示された時、出来そうに無いと判断したなら、思い切って「出来ない」という4文字を口にする事も大切であるし、「相手の気持ち」を考え、無下に「相手に出来ないと知っていて、‘‘頑張れ,,」という言葉を使うのはやめるべきである。せめて、
「やってみて」

という柔らかい表現をするべきだろう。「やれ」という命令系は厳禁である。

また、いかに「やり方を享受」されても、必ずしもいつも「出来るようになる訳ではない」という現実を受け止め、「出来なくとも必要以上に攻め立てる事」や「邪険に扱う」のを「安易にすべきではない」と私は思うが、こんな想いはいつも届かず終いであるのが、口惜しい所だが、「頑張るという‘‘やり方・具体的中身,,」を「相手を追い詰めたり、具体的な方法を示さないで口にするのは止める」べきである。無責任なだけであるし意味を最終的には成さないと私は思う。
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。