万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日本学術会議問題は不毛の論争になる―情報不足問題―

2020年10月31日 12時41分36秒 | 日本政治

 今般、菅義偉首相が、日本学術会議が推薦した6名の新会員の任命を拒否した一件は、野党側が格好の与党批判の材料と見なしており、国会でも徹底追及の構えを見せています。しかしながら、この問題、‘政府による任命拒否’という一点のみに議論が狭められた場合、不毛の論争になるのではないかと思うのです。

 

 その理由は、ここでもやはり‘情報’です。物事の是非を見極めるには、先ずもって必要不可欠となるのは、判断材料となる情報が十分に提供されていることです。言い換えますと、情報不足の状況にあっては、国民は、政府の側と日本学術会議の側のどちらに非があり、何が問題であるのか、正確に掴むことができないのです。的確な判断を行うためには、最低限、以下の情報が必要となりましょう。

 

日本学術会議側が提供すべき情報とは、(1)任命を拒絶された6名各自の推薦された理由(現行の制度では前任者推薦制ですので、その前任者が推薦した理由…)、(2)新会員6名の履歴や研究以外の分野を含めた活動状況や履歴(国籍、学歴、並びに、特定の政治団体や宗教団体のメンバーシップなど…)、(3)6名自身による推薦に至るまでの経緯の説明、(4)日本学術会議全体としての選考基準、(5)推薦制導入の経緯と理由…などを挙げることができます。とりわけ重要となるのは、(2)であり、任命を拒絶された理由として、多くの国民は、同6名に関しては、正式の党員であれ、隠れ党員であれ、共産主義者であった、あるいは、何らかの反日的な組織のメンバーではなかったのかと疑っております。あるいは、同会議のメンバーが特別公務員の資格を得る点を考慮しますと、国籍や外国との関係が問題となった可能性もありましょう。仮に、6名の間に何らかの共通項が見つかれば、国民は、その是非は別としても、首相による任命拒絶の理由を理解することはできます。

 

それでは、政府側は、どのような情報を国民に対して提供すべきなのでしょうか。政府側からの情報としましては、最も重要なのは、何と申しましても首相が同6名を任命しなかった理由となりましょう。この件に関して、菅首相は、旧帝大が45%を占める現状を理由とて挙げていますが、この理由では、何故、この6名のみが拒絶対象に選ばれたのか、この点を説明し切れていないに思えます。また、同6名には人文科学系であるとする共通点があるものの、それが本当の理由であるならば、政府は、堂々と日本学術会議の自然科学系への特化の方針を示すべきですし、敢えて隠す必要もないはずです。政府の説明が不十分であるからこそ、公安案件ではないかとする疑念やアメリカから提供された極秘情報の存在が疑われる事態に至っているのではないでしょうか。

 

そして、同問題の根源には、政府の人事に関しては、任命権者がその理由を述べないとする慣例の存在があるように思えます。この慣例こそ、改革すべき悪しき前例主義に他ならないように思えます。官僚組織であれ、日本学術会議であれ、民主主義国家である以上、首相、あるいは、政府には、公職に関する任免の理由を国民に説明する説明責任がありましょう。むしろ、公安案件であればこそ、国民に危険性を知らせるためにも積極的に公表すべきなのではないでしょうか。何れにいたしましても、国会にあって情報不足のままで議論しても埒が明かず、不毛の答弁が続くこととも予測されます。先ずは、政府も日本学術会議も、自らに非がないと考えるならば積極的に情報を公開すべきですし、より多くの有益な情報を提供した側を、国民は信頼することとなるのではないでしょうか。


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日本国の‘2050年温暖化ガス排出ゼロ目標’と天然資源問題

2020年10月30日 12時31分02秒 | 国際政治

 菅首相がその所信表明演説で掲げた‘2050年温暖化ガス排出ゼロ目標’は、原発再開に向けた政府の口実づくりではなかったのか、として野党側があらぬ方向から攻撃材料としているようです。慌てるかのように加藤官房長官が火消しに回り、原発の増新設否定する一幕もあったそうですが、温暖化ガス排出ゼロ目標につきましては、日本国が抱える領有権に関する問題にまで波及するのではないかと思うのです。

 

 温暖化ガスをゼロにするためには、エネルギー源として石炭や石油、あるいは、シェールガスを含む天然ガスといった化石燃料を使用することは最早できなくなります。アメリカの大統領選挙では、地球温暖化問題に熱心な民主党のバイデン候補が‘石油業界からのシフトを目指す’と述べたことから、共和党のトランプ陣営のみならず、民主党議員や石油業界等から反発を受けています。同氏は、‘化石燃料を廃止するわけではない’と弁明しつつも、‘化石燃料補助金は廃止する’とし、さらに、シェールガスや石油の掘削に用いられているフラッキング(水圧破砕法)を、それが連邦政府の所有地に限定してのこととはいえ、禁止を計画していたそうですので、同氏の政策は、やはりエネルギー資源の放棄なのでしょう。アメリカでは、既に、温暖化ガスゼロ目標=化石燃料の廃止として認識されているのです。

 

 アメリカにおいて化石燃料が廃止されますと、当然に、シェールガスの輸入国である日本国も多大なる影響を受けるのですが(日米間の経済関係も弱まる…)、一方、日本国を見ますと、菅首相が‘2050年温暖化ガス排出ゼロ目標’を掲げても、マスメディアは、国内のエネルギー資源と関連付けて扱ってはいません。上述したように、野党の反応も反・脱原発の文脈からの批判であり、もとより野党は再生エネの普及に努めてきましたので、資源問題は関心の外にあるのでしょう。加えて、実際に、現状にあって日本国が使用している化石燃料は、石油、石炭、天然ガスの何れをとりましても輸入品です。このため、国民の多くも、首相が提唱する‘ゼロ目標’については、原発か再生エネかの問題と見なしているのかもしれません。

 

 しかしながら、将来的には、日本国は、石油・ガスの産出国になる可能性を秘めています。東シナ海につきましては、既に中国側が幾つものガス田を建設し、天然ガスを採掘しているとの指摘もあります。尖閣諸島問題の発生も、その発端は、1968年に公表された国連の報告書にあって、同海域における石油・ガスの大量埋蔵の可能性が示唆されたことにあります。また、近年、韓国が竹島に基線を設定して200カイリのEEZを設定したのも、同島の周辺海域には、大量、かつ、良質なメタンハイドレートが埋蔵されているからに他なりません。

 

 この状態にあって、2050年までに日本国が化石燃料を全廃させるとしますと、凡そ三つのシナリオが想定されます(なお、排出ゼロを宣言していない諸国が、ゼロ宣言国に代わって化石燃料を使い続ければ、全体としての削減効果はゼロ、あるいは、より増加する…)。それは、(1)日本国、中国、韓国の三カ国とも、地球規模での温暖化ガス削減に協力して化石燃料の採掘を断念する(因みに、韓国の文大統領も、2050年までに)、(2)日本国のみが採掘を放棄し、中国と韓国による採掘を黙認する、(3)2050年までに、日本国が自国の天然資源に対する主権的な権利の行使として、これらの海域に眠る全ての化石燃料を採掘し尽くす、の三者です。

 

(1)のケースでは、仮に、日本、中国、韓国が、ゼロ目標を実現した場合に当たります。資源争いの側面が緩和されますので、とりわけ中国は、尖閣諸島に対する領有権主張を控えるようになり、同島が日本国領であることを認める可能性もないわけではありません。もっとも、中国の習政権が設定した排出ゼロの目標年は、日本国よりも先の2060年ですし、中国が国際公約を誠実に遵守した試しは殆どありませんので、中国の自制は期待薄です。

 

その一方で、(2)のケースでは、日本国は、事実上、自国の天然資源の採掘権を放棄し、事実上、中国、並びに、韓国に譲渡することとなります。中国も韓国も、日本国が‘要らない’として放棄したものですので、誰からも咎めらえることなく大手を振って採掘に努めることでしょう(中国も韓国も、ゼロ設定=採掘権の放棄ではない…)。

 

そして、(3)のケースとなる場合には、日本国もまた、中国と同様に実力行使に訴えることとなりましょうが、今日、各国に対してゼロ目標を迫っている国際勢力の不評を買うかもしれません(もっとも、同勢力は、中国に対してだけは寛容かもしれない…)。また、3カ国とも一斉に採掘に走るとしますと、日本国と中国と韓国との間の緊張はさらに高まることでしょう。

 

以上に述べてきましたように、‘2050年温暖化ガス排出ゼロ目標’は、天然資源問題、否、領有権に関わる問題にさえ波及します。日本国政府は、火力発電がゼロになった場合における安定的なエネルギー供給の見通しを語るのみならず、未採掘のまま眠っている自国の天然資源をどのように扱うのか、国民に対してその方針を説明するべきなのではないでしょうか。国際関係への影響を無視すると共に、国民的なコンセンサスもなく、また、テクノロジーの裏付けもなく、上からの‘計画’を進めますと、共産主義体制における計画経済と同様に目標に理想に追い付かず、その‘つけ’は、企業を含む全ての日本国民が払わされることになるのではないかと懸念するのです。


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米大統領選挙が示唆する私的‘情報統制’問題

2020年10月29日 12時51分30秒 | アメリカ

 大統領選挙の投票日を11月3日に控え、アメリカのマスメディアの大半が、連日のように民主党のバイデン候補優勢を報じてきました。しかしながら、この結果予測、前回の大統領選挙にあってメディアの予測が外れた前例もあることから、誰もが半信半疑の状況にあります。‘隠れトランプ’の存在も指摘されていますが、今回の選挙戦では、アメリカの民主主義を長年にわたって蝕んできた民主党・メディア・IT大手連合・中国との間の協力関係が一気に表面化してきているようにも思えます。

 

 情報化社会であるからこそ、情報の有無は決定的な意味を持ちます。人の判断とは、その判断に関わるある特定の情報を知っている場合と、知らない場合とでは、180度違ってしまうことも決して珍しくないのです。この点、今般のアメリカ大統領選挙においても注目すべきは、‘情報’です。何故ならば、終盤に至り、バイデン候補親子の醜聞がネット上に拡散されるに至ると、メディアの報道と現実の国民感情とが誤魔化しようがないほどに乖離してしまったからです。

 

 バイデン親子に関する醜聞が事実であるとすれば(その可能性は極めて高い…)、常識的に考えれば、バイデン候補に投票する国民は皆無に近いはずです。ウクライナやロシアのみならず、中国とも癒着して私腹を肥やし、子息のハンター氏に至っては人の道を踏み外していたとなれば、こうした人物が大統領に相応しいはずもありません。最悪の場合、同候補は、就任後にあって醜聞を材料に脅迫し、アメリカを裏から操るために、中国によって敢えて選ばれた可能性さえあるのですから(仮に、中国説が正しければ、脛に傷を持つ人物を選んだことが、裏目に出ているのかもしれない…)。バイデン大統領の誕生は、おそらく、一般の民主党支持者にとりましても悪夢となりましょうし、筋金入りのトランプ嫌いか、民主党の熱狂的な支持者であったとしても、バイデン候補への投票を躊躇うはずなのです。

 

 そして、バイデン・スキャンダルで批判に晒されているのは、同候補者本人のみではありません。同情報を隠してきたメディア大手、並びに、その拡散を阻止してきたフェイスブックやツイッター社などのIT大手にも罪があります。民主的選挙制度とは、国民が自らの判断の基盤となる正確、かつ、十分な情報を入手し得てこそ成り立つ制度です。民主主義を支えるこの最も基礎的な部分にあって、大手メディアもIT大手も、自らの地位を濫用し、いわば、‘情報統制’を敷こうとしたのです。共産主義国家である中国は、国家ぐるみで情報を統制していますが、自由主義国家であるアメリカでは、私企業が自らの支持する候補者を当選させるために、国民に対して重大な情報を隠そうとしたこととなりましょう。アメリカでは、情報ルートが全て大手メディアやIT企業に独占されているわけではなく、それ故に、今般のようにバイデン親子の醜聞が国民の知るところとなったのですが、後者の行為は、民主主義、否、米国民に対する裏切りといっても過言ではありません。

 

 しかも、期日前投票数が7000万に達した選挙終盤にあって同醜聞が急速に拡散されたことは、大統領の確定作業をさらに難しくする可能性もあります。ネット情報によれば、アメリカでは、期日前投票を変更できるのか、あるいは、既に郵送した投票用紙を返送してもらい、再投票できるのか、否か、という問題が持ち上がっているそうですが、この問題は、有権者の判断の基礎となる情報の入手時期が、決定的な意味を持つ場合があることを示しています。メディアの報道とは異なり、当初からトランプ大統領が優勢であったとの指摘もありますが、重大情報を知る前と後において国民の判断が180度転換し、当選者が変わることもあり得るのです。

 

 民主党陣営は、民主党支持者が圧倒的に多いとされる期日前投票数が7000万票に達したために勝利を確信し、気の緩みから‘情報統制’が弛緩したために、バイデン・スキャンダルが広く拡散されることとなったのかもしれませんが、今後、期日前投票を無効として訴える有権者が現れてもおかしくはありません。そして、民主的選挙における情報の決定的な役割を考慮しますと、無効とする判決が下る可能性の方が高く、大統領の当選確認作業は、混迷を深める事態も予測されるのです(もっとも、地滑り的にトランプ大統領が勝利すれば、期日前投票は問題にされなくなるかもしれませんが…)。一方、民主党陣営も、仮に大統領選を制したとしても、大手メディア、IT大手共々に国民からの信頼が地に落ち、その回復は殆ど望めない事態となりましょう。

 

 アメリカでの出来事は、あるいは、日本国を含めて全ての自由主義諸国にとりましても、対岸の火事ではないかもしれません。国民のほとんどは、政治家に関する情報を十分かつ自由に入手し得るわけではなく、その主たる要因は、マスメディアやIT大手による‘情報統制’にあるからです。そして、その背後には、国際ネットワークを有する中国共産党といった海外勢力が潜んでいる可能性も十分にあり得るのですから。


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対中制裁は中国のチャンスとなる?

2020年10月28日 12時52分19秒 | 国際政治

 米中対立が深刻化するにつれ、アメリカによる対中制裁は強まる一方です。とりわけ、半導体規制やIT関連製品の締め出しは中国産業を直撃しかねず、習近平国家主席が掲げている「中国製造2025」の達成にも黄信号が灯ってきました。

 

 こうした中、アメリカによる対中制裁は、むしろ、中国にとりましてはチャンスとなるとする意見も聞かれるようになりました。その理由は、ハイテク部品におけるアメリカへの依存度が低下する、あるいは、アメリカの技術へのアクセスが遮断されれば、中国は否が応でも内製化せざるを得なくなり、その結果、自力で画期的な技術の開発やイノヴェーションを起こす可能性があるからです。

 

 生物の進化の過程を振り返ってみると、不利な環境下に置かれた生物の方が、その弱点を克服する形で優位性を獲得する現象が見られますし、民主党政権時代にあっては、はやぶさやスーパー・コンピューターのように、予算を削減された分野にあって飛びぬけた成果を挙げたように、古今東西を問わず、逆境がむしろ成長を促す事例は枚挙に遑がありません。その一方で、外の世界から完全に遮断されるため、独自の進化を遂げてガラパゴス化する可能性もあります。後者の場合には、他者との競争や競合がないため、然したる変化なく時間が過ぎてゆくということになりましょう。

 

 仮に中国が陸の‘孤島’と化した場合、どちらの道を歩むのかは分かりませんが、少なくとも、他の諸国にとりましては、必ずしも困ることにはならないのではないかと思うのです。何故ならば、中国が他の世界からの遮断によって独自の進化を遂げることができるとすれば、アメリカをはじめとした他の諸国にも同様のチャンスがあるからです。

 

仮に、しばしば指摘されているように、今日、アメリカの大学や研究所が中国人研究者頼りの状況にあるならば、逆に、両国がデカップリングし、技術や人材交流が途絶えることにより、アメリカ人研究者の研究・開発意欲は高まるかもしれません。中国に最早依存できないとすれば、アメリカも自力で開発するしかなくなるからです。もとより同国には進取の気性やイノヴェーションを尊ぶ精神的な土壌もありますし、何よりも自由な空気がありますので、中国共産党の厳格なコントロールの下に置かれている中国の研究者よりも、豊かな発想が活かされる研究環境は整っています。

 

日本国もまた、中国から離れることができれば、同国への企業進出に伴う技術流出を恐れる必要はなくなります。加えて、「中国基準2035」を掲げ、国家を挙げて一早くグローバル・スタンダードを抑え、日本市場への進出を狙う中国企業の脅威からも解放されます。つまり、中国が国策として開発した先発テクノロジーによって開発段階にある未成熟な技術が淘汰されることなく、日本企業は、伸び伸びと研究に取り組み、独自のテクノロジーを進化させることもできるのです。言い換えますと、グローバリズムに伴う画一化とその一国による支配は、他の諸国の人々から知性の活躍の場を奪い、あるいは、能力を休眠させてしまうのです。

 

グローバリゼーションは、多様性の尊重というスローガンと共に到来しましたが、現実にはグローバル・スタンダードという言葉があるように、全世界の画一化が急速に進んだ時代でもありました。理想と現実は正反対であり、画一化こそグローバリズムの主たる特徴の一つなのです。しかしながら、生物の世界にあっても、個体間の遺伝子の均質性が高まるほどに絶滅のリスクが高まることはよく知られた事実です。自然環境が激変したり、未知の病原体が突然に出現したりすると、変化に対応できずに全個体が全滅してしまうこともあり得るからです。グローバリズムがもたらしてきた画一化につきましても、グローバル・スタンダードの掌握による中国による一極支配に加え、何らかのアクシデントや欠陥による‘絶滅リスク’も認識されましょう。

 

このように考えますと、テクノロジーの世界もまた、多様性を維持する、あるいは、さらに多様性を広げるべきなのかもしれません。一極集中よりも、研究や開発の場は、世界各国に幅広く分散していた方が安全なのです。そして、今般、世界先端のテクノロジーを以って世界を支配しようとする中国を切り離すことは、人類に多様性とサバイバルの道を残すという意味において、絶好のチャンスであるのかもしれません。そしてそれは、国家レベルであれ、社会レベルであれ、個人レベルであれ、そのそれぞれが、外部から妨害されることなく個性や主体性を生かして発展することができる真に自由で豊かな世界となりましょう。こうした世界が実現してこそ、多くの人々も生き甲斐のあるお仕事を、そして若者たちも未来に向けて生きる意義を見出すことができるのではないでしょうか。


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日本国の歴史的役割は‘バベルの塔’の崩壊?

2020年10月27日 12時39分23秒 | 国際政治

 昨日、菅義偉首相は、就任後初の所信表明演説に臨むこととなりました。その内容は、と申しますと、日本国独自の政策を示すというよりも、国民を含めた日本国全体を、ある国際勢力が定めた‘未来ヴィジョン’に組み込むための‘工程表’、あるいは、作業手順であったように思えます。

 

 同‘未来ヴィジョン’を描いた国際勢力とは、おそらく、イエズス会や東インド会社等の流れを汲む国際組織であり、世界史の裏舞台にあって、共産主義やグローバリズムの両者を操ってきたものと推測されます。フランス革命やロシア革命の首謀者がロスチャイルド家といった国際金融資本家であったことは既に知られていますし、中国が僅か数十年にして世界第二位の経済大国に伸し上がったのも、同勢力が背後にあって改革開放路線を指南したからなのでしょう。世界銀行から北京にアドヴァイザーが派遣されていたのも、今や周知の事実となっています。国連もまだ、同ヴィジョンの実現に向けて全世界を誘導する実行部隊なのでしょうし、スイスのジュネーブで開催されるダボス会議に詣でる各国首脳の姿は、同組織の‘代理人’、あるいは、‘下僕’と化している首脳が多いことをも示しているのかもしれません。日経新聞の朝刊では、首相の所信表明演説を、‘大号砲’と表現しておりましたが、この明治風の響きにも、今般の所信表明演説の背後に潜む国際組織の存在感が暗示されているように思えます。菅首相の上に位置するさらに上からの‘絶対命令’なのですから。

 

 国家の政府の背後にあってそれを操る勢力は、米欧諸国では‘ディープ・ステート’と呼ぶ向きもありますが、その実在性については陰謀論として片づけられる段階を越えているように思えます。その理由は、こうした存在を想定しないことには、説明のつかない事象が世界レベルで多発しているからです。‘国際協調’の結果に過ぎない、とする反論もありましょうが、揃いも揃って各国が同じ方向に動いてゆく姿を見ますと(中国までも‘二酸化炭素ゼロ’を言い出している…)、各国、並びに、企業の上層部にあって、同一の‘未来ヴィジョン’を共有しているものと想定せざるを得ないのです。

 

 そこで、こうした‘未来ヴィジョン’の存在を仮定しますと、日本国は、極めて厳しい立場に置かれていることが分かります。今般、中国のアントが上海と香港の証券取引所で同時上場する運びとなり、その額が3.6兆円にも上ることから、‘何故、日本国は、GAFAやBATのようなグローバルなIT大手を誕生させることができなかったのか’とする半ば自らを責めるような声も聞こえます。その原因としては、雁字搦めの規制、トップの決断の遅さ、自己過信、旧態依然とした慣行…などが挙げられていますが、真の原因は、国際勢力が圧倒的な市場規模の強みを有する中国を選択した結果であって、日本国側にあるのではありません。1985年のプラザ合意以前にあって、技術力に抜きんでた日本国は様々な産業分野でトップランナーでしたが、国際組織は、その独走を決して許さなかったのです(交渉相手はアメリカでしたが…)。今般にあっても、日本国が様々な改革を実行し、日本企業がIT大手として世界に打って出ようとしても、それを決して許そうとはしないことでしょう。成長阻害的政策の押し付け、政治家や企業トップの篭絡、マスコミの動員、偽旗作戦、洗脳、そして暴力や脅迫など、あらゆる手段を用いて潰そうとし、許される、あるいは、促進されるべき‘改革’とは、菅政権が掲げているグローバリズムへの‘順応’としての‘改革’のみなのです。

 

 それでは、日本国は、菅首相を介して発せられた‘大号砲’に従うべきなのでしょうか。おそらく、その先には、オーウェルの『1984年』をさらにバージョンアップさせたデジタル社会という名の監獄が待っているかもしれません。一旦、同体制に組み込まれますと、そこから抜け出ることもままならないのです。政府も全ての人々の言動も、デジタルによって完璧なまでに管理されているのですから。かろうじて国家の枠組みや名称は残されたとしてもそれは名目に過ぎず、全世界は、‘未来ヴィジョン’に取り込まれ、国家も個人も自己決定権を失い、固有の社会を維持することもできなくなることでしょう。そして、人々は、‘ビッグ・ブラザー’が一方的に決めつけた‘幸せ(不幸せ)’を強要されるのです。

 

 今般、菅首相の所信表明演説が、推測されている‘未来ヴィジョン’とあまりにも符合したため、政府による上からのディストピアへの誘導が現実味を帯びてきました。ディストピアへの道を避けるためには、日本国こそ、他の諸国に先駆けて‘別の道’を提唱するべきなのではないでしょうか。それは、規模(量)から質へ、画一から多様性へ(各国の歴史や伝統を含めて…)、淘汰から共存へ、愚直な開放から賢明な閉鎖へ、単純な集権から精緻な分権へ、束縛から自由へ、全体主義から民主主義へ、そして、従属から自立に向けた方向性の転換ではないかと思うのです。もしかしますと、日本国は、現代の‘バベルの塔’を崩壊させる歴史的役割を担っているのかもしれません。


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偽善ではない証明を―核兵器禁止条約問題

2020年10月26日 12時57分44秒 | 国際政治

 来年1月22日に発効を確実とした核兵器禁止条約を推進したICANのベアトリス・フィン事務局長は、日本国の不参加にいたく落胆していると報じられています。唯一の被爆国でありながら、同条約に背を向ける日本国は、おそらく、同条約発効に尽力してきた同局長にとりましては、一種の‘裏切者’のようにも映るのかもしれません。日本国政府が、‘核兵器を合法のままにしておくことは、再び同じようなことが起こるのを許しているに等しい’として、憤懣やるかたない口調で批判しています。

 

 しかしながら、日本国は、人類史上、最初にして唯一の被爆国であるからこそ、核兵器禁止条約に対して懐疑的なのではないでしょうか。何故ならば、日本国は、核兵器を保有していたから原子爆弾を投下されたのではなく、保有していなかったから被爆国となったからです(すなわち、核兵器保有による核抑止力を持っていなかった)。第二次世界大戦末期には、連合国のアメリカ、イギリス、ソ連邦のみならず、枢軸国側にあっても日本国やドイツもまた核兵器の開発競争に鎬を削っていました。当時の指導者たちは、最初に原子爆弾を開発した国が圧倒的な優位性を手にし得ることが分かっていたからこそ、先を争うようにして原発の開発を推進していたのです。仮に、日本国が核兵器開発に成功していたならば、あるいは、アメリカも、核兵器の使用を思い留まっていたかもしれません(もっとも、当時、日本国は制空権を奪われていたので、たとえ保有していたとしましても使用はできなかったことでしょう…)。

 

 また、日本国憲法第9条をめぐる解釈問題と自衛隊設立の経緯も、核兵器禁止条約に対する日本国の消極的な姿勢を説明します。戦争や軍隊の放棄と核兵器の廃絶の基本的な思想傾向は共通しており、両者とも、一部の国であれ軍事力や核兵器を放棄すれば、世界平和が自ずと訪れるとの堅い信念を土台としています。いわば、性善説に立脚しているのですが、日本国の場合には、憲法制定後、即、厳しい現実に直面することとなりました。米ソ冷戦構造にあってソ連邦の核の脅威に晒されると共に、1950年にあって朝鮮半島では冷戦が熱戦と化し、日本国は自衛隊を発足させると共に、早晩、同盟国であるアメリカの核の傘を必要としたからです。理想と現実との乖離を経験した日本人のとりましては、核兵器禁止条約は、今日の国際レベルにあって憲法第9条問題が再現されたデジャヴのようにも感じられるのです。

 

 このように、日本国は、決して理想通りには進まない現実を目の当たりにしてきましたので、核兵器の禁止、しかも、一部の諸国による核兵器の廃絶によって核兵器の使用が抑止されるとするICANの主張には一歩引いてしまうのです。こうした日本国の否定的な態度は、性善説を信奉するICANにとしましては、‘悪’に譲歩しているように見えて許しがたいのでしょう。

 

しかしながら、ICANの活動をめぐっては、人類の理想を追求しているように見えながら、その実、否むしろ、中国、ロシア、北朝鮮といった無法国家を含む核保有国を利すために、核兵器禁止を訴えているのではないかとする疑念を指摘することができます。何故ならば、核保有国が同条約に加盟するつもりがない以上、一部の諸国による核兵器の放棄は、北朝鮮などを含む核保有国の優位性を固定化してしまうからです。

 

 仮に、将来にあって、中国や北朝鮮が核兵器を以って他国を威嚇したり、実際に使用した場合、ICANは、加盟国に対して責任をとることはできるのでしょうか。たとえ善意であったとしても、核保有国から威嚇されたり、核攻撃によって甚大な被害が発生してしまった場合、取り切れない責任もあるはずです。意図せずとも騙したことにもなりかねず、むしろ、リスクを隠したまま核禁止条約への加盟を呼びかけるICANの姿は、どこか無責任な偽善者のように見えるのです(論理的な結論でも‘偽善’となるのでは…)。同条約が偽善では無いとする証明なきままで、同条約へ参加することは、あまりにも危険性が高すぎます。

 

 ICANは、こうした懸念や疑惑を払拭するために、先ずは、自らが偽善者ではないことを、国際社会を前に証明する必要があるのではないでしょうか。それは、言葉ではなく、行動において、実際に最低限、北朝鮮やイランの核開発を止めされることではないでしょうか。本記事をここまで読みまして、戦略思考の実態や善の悪用を前提として語っており、崇高な理想や無垢な善意をも疑う捻くれた意地悪さを感じ取られる方もおられることでしょうが(不快な思いをされた方がおられましたらば、申し訳ありません…)、偽善よりは偽悪の方がまだ‘まし’なのではないかと思うのです。

 


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核禁止条約は‘政治的宣言’あるいは偽善?

2020年10月25日 13時28分47秒 | 国際政治

 ノーベル平和賞受賞団体でもある国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」の活動により成立した「核禁止条約」は、50番目となるホンジュラスの批准により、いよいよ発効の運びとなるようです。発効日は90日後の来年1月22日となるそうです。

 

 国際法には、凡そ全世界の諸国を法的に拘束する一般国際法と二国間や多国間で締結される任意の条約等があります。今般成立する核兵器禁止条約とは、核兵器の開発から保有、使用に至るまで、締約国に対してあらゆる行為を禁じるものであり、同目的からしますと、一般国際法化を目指していることは疑いようもありません。ところが、核の取り締まりを目的とした条約としては、インド、パキスタン、イスラエル、南スーダンといった非加盟国、並びに、一方的な脱退を表明した北朝鮮を除いて、凡そ全ての諸国が参加している核拡散防止条約(NPT)が既に1970年に発効しています。つまり、今般、核の国際管理の分野にあって、二つの国際法が並び立ってしまったのです。それでは、両者の関係は、どのように捉えるべきなのでしょうか。仮に、両者を共に一般国際法と見なしますと、核保有という行為は、‘合法であると同時に違法である’という、極めて奇妙な事態が発生してしまいます。

 

そこで、核兵器禁止条約とNPTとを比べてみますと、後者の方が一般国際法としての要件充足度が遥かに高いように思えます。締約国数を見ますと、核禁止条約の批准国は50を数えたばかりですが、NPTではその凡そ4倍となる191各国が批准しています。また、核保有国にして国連安保理の常任国でもある米英仏ロ中の5大国が含まれる点において、その包括性においても雲泥の差があります。後者は、量においても質においても前者を凌駕しているのです。

 

加えて、違反国に対して制裁を科すに際して法的根拠となるのか、あるいは、裁判において法源となり得るのか(裁判規範性…)、という現実的な観点から比較しましても、後者は前者に優っています。条約が定めた行動規範に対する締約国の遵守に関しては、核兵器禁止条約の方がNPTよりも遵守度が高いのでしょうが、後者に対する違反行為は、国連安保理での制裁決議が成立するに際してたびたび法的根拠を提供してきましたし、今日、米ロが核軍縮交渉に臨んでいるのも、同条約において核保有国に対して核軍縮が義務付けられているからです。しばしば、核兵器禁止条約の発効により、核保有国に対する圧力が強まるとする期待の声も聞こえますが、実際に、核保有国に対してその特権の代わりに核軍縮を義務付けているのはNPTなのです。

 

以上のように両者の国際法としての性質を比較しますと、核管理の領域における少なくとも現状における全体像とは、二つの一般国際法が重複するのではなく、NPTを一般国際法とするNPT体制の中に、一部の諸国が任意に多国間条約を形成している構図となるように思えます。しかも、任意の多国間条約は、核兵器の禁止という目的を実現する実行力は殆ど皆無ですので、政治的宣言に過ぎないのかもしれません。この種の二重構造は、国連を基礎とする集団的安全保障の枠組みがある一方で、加盟各国が任意に二国間、あるいは、多国間の軍事同盟条約を締結している二重構図と類似していると言えば言えるのですが、核管理の分野では、安全保障の分野とは逆に、任意の条約には、自国の安全をより強固とする実質的な効果はなく、防衛力を弱めているという特徴があります(核兵器禁止条約は‘性善説’に基づいていますが、その期待とは裏腹に、他の諸国が核兵器を保有していないからこそ、軍事的な優位を確保するために保有しようとする暴力主義国家も存在している…)。現実には、NPT体制において合法的に核を保有する諸国のみならず、北朝鮮やイランのような核保有国が存在する上に、核の抑止力さえも完全に否定しているのですから。

 

核兵器をめぐる現状からしますと、核の管理につきましては、核兵器禁止条約ではなくNPTを主たる枠組みとして位置づけ、前者については、任意の諸国による政治的宣言として捉えた方が安全かつ現実的であるように思えます。核兵器の廃絶を目指すならば、遠回りに見えても一般国際法としての性格が強い核拡散防止条約の枠組みを利用する方が効果なのではないでしょうか。また、現実に、核開発を加速させている諸国がある上、仮に北朝鮮やイラン等の核保有によりNPT体制が崩壊した場合、一体、どのようにして自国の安全を護るのでしょうか。あくまでも、核兵器禁止条約を遵守し、核の抑止力という正当防衛の手段を選択肢の外に置くのでしょうか。核兵器禁止条約とは、努力目標を示す政治的宣言としては評価され得ても(締約国の自己満足…)、暴力主義国家が平然と核開発に猛進している現状にあっては、偽善、あるいは、平和の名の下でこうした暴力主義国家を利しているようにしか見えないのです。


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‘デジタル化+脱ハンコ’が問うセキュリティー問題

2020年10月24日 12時48分38秒 | 日本政治

 菅政権の成立により、社会一般のみならず、行政手続きの脱ハンコ化が進められています。どちらかと申しますと、賛成意見方が多いようにも見受けられますが、脱ハンコには、一つ、盲点があるように思えます。

 

 脱ハンコ賛成派の人々の主たる根拠は、印鑑を押すという行為の煩雑さにあるようです。サインであれば、ペンなどの筆記用具さえあれば、事後的に確認できる形で、誰でも何処でも自らの合意意思を簡単に表示できます。サインの場合には、自己を証明するための特定の道具は必要なく、自らの筆跡が自己証明となるのです。一方、印鑑の場合には、朱肉を要するに加えて、まずはそれを自己証明の道具として携帯している必要があります。言い換えますと、自己証明は、印鑑という道具に全面的に依存しており、重要な手続きを行うに際しては、うっかり印鑑を忘れますと、自宅にとりに帰らなければならなくなるのです。

 

 サインは、その人自身の筆跡にアイデンティティーを認め、個体と証明手段の不可分の一致という面においては、より高い証明力と安全性を有しています。個体と証明手段が分離するハンコの場合には、別人であっても印鑑さえ所持していれば、本人に成りすますこともできるからです。サインの場合でも、筆跡鑑定を要するような‘偽造サイン’による事件が発生しますが、それでも、印鑑と比較すれば被害を受ける危険性は低いと言えましょう。

 

その一方で、唯一無二の手彫りの実印等であれば、生涯を通して変化し得る曖昧さがあり(老化や麻痺による筆跡の変化)、また、筆跡の模倣による偽造もありえるサインよりも、遥かに確実性があります。また、押印手続きを日本国の伝統として捉えますと、印鑑を押すのは一種の儀式であり、伝統や日本国の固有性を尊重する立場からすれば、その廃止は歴史的文化の喪失をも意味します。この点からしますと、脱ハンコ反対派の意見にも一理があります。加えて、コロナ禍にあっては、宅配便の受け取り等の簡易な受け取り確認にあっては、サインよりも瞬時に完了する印鑑の方が、接触時間が短く、感染防止対策としてのメリットもありましょう。

 

 以上に、サインと印鑑との長短を比較してきましたが、上記の比較は、従来型の社会を前提としたものです。ところが、今日、デジタル化が進みますと、サインと印鑑との選択には、別の問題が生じるように思えます。何故ならば、サインにあっても、個体と証明手段が分離してしまうからです。デジタル署名では、指定されたペーパーにペンを用いて自らの手でサインするわけではありませんし(サインには、受動側のペーパーにも証明力がある…)、筆跡が一旦デジタル化されればコピーも消去も容易になります。この問題、サイン文化である欧米では、既に電子署名の安全性の問題として認識されており、技術的な問題を含めて安全性を高めるための対策なども検討されてきました。今般の政府方針のように、デジタル化と脱ハンコを同時に進めるとしますと、高度な検査機能を備えた電子署名システム、あるいは、他の方法によって本人を確認する必要が生じるのです。

 

 もちろん、欧米諸国においては既に電子署名システムが導入されていますので、不可能なことではありません(署名よりも生体認証の方がより確実かもしれない…)。しかしながら、日本国政府にあって全面的に電子署名システムを導入するとなりますと、一体、どこの企業が受注するのでしょうか。日本国はハンコ文化の国ですので、日本国のIT企業にあって、即、政府に納入できるレベルに製品化している企業があるとも思えません。となりますと、米欧、あるいは、中国のIT大手となるのでしょうが、日本国政府のデジタル化に伴って、仮に、海外IT企業のシステムが採用されるとしますと、日本国政府の内部が外部から透視できるようになり、全てデジタル情報として海外に筒抜けとなる重大なリスクに晒されかねないのです。

 

 脱ハンコについては、マスメディアなどでも好意的な意見が多く見られますが、その先を考えてみますと、必ずしもメリットのみではないようです。リスク管理に重大な問題がある、あるいは、リスク管理が不十分な段階でのデジタル化は、日本国の独立性と日本国民の安全すらも脅かすのではないかと思うのです。


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フランスの教師殺害事件が問う寛容の限界

2020年10月23日 12時47分01秒 | 国際政治

 フランスでは、イスラム教の教祖であるムハンマドの風刺画を生徒に見せた歴史教師が殺害されるという痛ましい事件が発生しました。同国では、2015年にはシャルリー・エブド氏襲撃事件も発生しており、表現の自由と信仰との間の抜き差しならない関係を示しています。そして、この事件は、自由主義世界と全体主義世界とが混在する場合の、寛容の限界をも問うているように思えます。

 

 フランスが代表する自由主義世界とイスラム過激主義が体現する全体主義世界との両者を比べますと、全く以って対称的です。フランスでは、あらゆる信仰の自由が許されていますが、イスラム過激主義世界ではこの自由はありません。前者では、一先ずは、内面の自由である限り、イスラム過激主義者にも居場所があるのです。一方のイスラム過激主義では、異教徒の存在は許されませんので、イスラム過激主義世界にあって他の宗教や思想を信じる人は、同教に改宗しない限り、完全に排除されてしまいます。この非対称性によって、フランスでは、イスラム過激主義の移民が定住し、混住状態となる一方で、イスラム教徒が排除されることはないのです。

 

また、表現の自由を見てみますと、前者では神をも冒涜したり、風刺画として描く自由も保障されています。マクロン仏大統領も、政府要人400人が参列した国家追悼式において読み上げた弔事において、「われわれは、あなたが教えた自由を守る。風刺画をやめさせない」と語り、テロに屈せずに表現の自由を護り抜く強い意志を表明しています。一方のイスラム主義では、絶対者である神や預言者マホメッドに対する冒涜的な行為は許されません。

 

以上に信仰の自由と表現の自由の二つを取り上げて比較してみましたが、自由主義とイスラム主義とは正反対です。そして、もう一つ、両者の間には正反対の自由があります。それは、人の命を奪う自由です。実のところ、フランスでは、この自由は認められていません。命とは、個々人の基本的な権利の基幹的な部分ですので、他の領域にあって広く自由が保障されてはいても、他者の命を奪うことだけは決して自由ではないのです。とろが、イスラム主義を見ますと、条件付きながらもこの自由が認められています。つまり、アッラーの神やマホメットを侮辱するものに対しては、殺人の自由が許されているのです。しかも、イスラム過激派のみならず、イスラム教の聖典である『コーラン』にあっても多神教の信者に対する殺害を認めていますので、異教徒に対する殺人容認は、イスラム教の最大の問題点の一つとも言えましょう。

 

 フランスの自由主義社会とは、神の存在さえも疑う精神的な自由が認められる社会であり、それこそが、近代合理主義を生み出したフランスという自由な国家の神髄であるのかもしれません。時にしてその聖なるものに対する冒涜的な態度に対する批判はあるのですが、あらゆるものを懐疑の対象にし得る自由な精神が、人類の文明や科学を発展せしめたことは否定のしようもありません。権威に対する盲従は、時にして人々を精神のみならず、その行いにおいても‘不条理の牢獄’に閉じ込め、伸びやかな発展を阻害してしまうことも少なくないからです。例えば、イスラム教に内在する問題や危険性に対処するには、イスラム教徒自らが信じる教義を客観的に考察の対象とし、議論を行う必要があるのですが、イスラム主義者は、何が問題であるのかを知る、あるいは、疑念を懐くことさえ許されないのです。

 

ところが、フランスに象徴される他者に対する寛容を含意する自由は、全体主義者、しかも、自由主義思想の持ち主に対する殺人を容認する全体主義者が同一の社会に混住する場合には、それは、自らの死を意味します。つまり、自由主義者の寛容には限界があると言わざるを得なのです。この点を考慮しますと、デモを起こして非難の声を上げるよりも、自由主義国なればこそ、自由主義社会の寛容の限界について公開で議論し、過激なイスラム主義者とは共存できない理由をロジカルに説明すべきかもしれません。そして、イスラム主義者に対しては、‘剣か、コーランか’ではなく、‘フランスか、イスラムか’、あるいは、‘自由か、信仰か’の選択を求めるのです。後者を選択する場合には、自らフランスから去る、あるいは、フランス当局によって強制退去させられたとしても致し方ないのではないでしょうか。

 

実のところ、こうした問題は、程度の差こそあれ、日本国を含む自由主義諸国に共通した問題のように思えます。何故ならば、殺人容認の危険思想は、イスラム過激主義に限定されているわけではなく、共産主義やカルト、さらには‘敵国’などにも見られるからです。現実を直視すれば、自由主義国は、自らの社会を護るための正当防衛の権利として、全体主義国家からの入国には制限を設けるべきとする主張は、人種や民族差別には当たらないように思えるのです。全体主義体制や権威主義体制とは、その本質において閉鎖された社会でしか成立しないのですから。


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温室効果ガス‘2050年実質ゼロ’への疑問

2020年10月22日 11時59分50秒 | 国際政治

 日本国の菅義偉首相は、今月26日に予定されている就任後初の所信表明演説において、温暖化効果ガスの排出量を2050年までに実質ゼロにする方針を示す予定なそうです。日本国民にとりましては、降ってわいたようなお話なのですが、この政策、幾つかの疑問点があるように思えます。

 

 第一に、同目標を掲げる根拠が薄い点です。地球温暖化の主原因を二酸化炭素とする説は、科学的に立証されているわけではありません。つい数年前までは、反対論者も交えて活発に議論されていたのですが、いつの間にか、欧州諸国をはじめ多くの諸国が同説を‘絶対原理’と位置付け、温暖化ガス排出ゼロに向けた政策方針が既定路線とされてしまいました。今般の方針表明も、日本国の事情というよりも、2019年に同様の目標を決定したEUの追随に過ぎないようです。一方、現実の気候変動をみますと、必ずしも温暖化が一方的に進んでいるわけでもなく(地域によっては寒冷化…)、また、気温上昇が観測されているとすれば、二酸化炭素ではなく、砂漠化や森林等の緑地減少による地球のヒートアイランド化が原因である可能性も否定はできません(この点、中国向けの大豆輸出のために行われているアマゾンの大規模伐採こそ禁止すべきでは…)。科学的な立証を欠く説への信仰は、地動説と同様に、現代のコペルニクスの出現によって覆されるかもしれないのです。

 

 第二に、本来、エネルギー政策とは、国民を含む多くの人々や企業等に直接的な影響が及ぶ問題ですので、本来、様々な立場の人や組織の意見や要望を集め、議論を尽くした上で慎重な利害調整を行うべき分野です。実際に、これまで、日本国では、凡そ5年ごとにエネルギー基本計画を策定することで、凡その方針を纏めてきました。ところが、今般のように、首相の所信表明の形で今後30年先までの目標が定められるとしますと、これは、まさにトップダウン式の‘独裁的’な手法となりましょう。このような手法がまかり通るのであれば、民主党政権時代の‘原発ゼロ’も、‘菅首相’の鶴の一声で可能であったはずです。国民的な議論も合意形成もなく重大な決定が行われるとしますと、これは、日本国の民主主義の危機ともなりましょう。

 

 第三に指摘すべき点は、エネルギーに関する目標の達成の如何は、テクノロジーに大きく依存する点です。温暖化ガスの排出量をゼロにするためには、まずは、火力発電を全面的に廃止する必要がありますが、反原発運動も強く、原発の再稼働も覚束ない中で火力分を補うとすれば、電源の主力を再生エネに移すこととなります。実際に政府は、荒廃農地の太陽光発電用地への転用など、規制緩和に動いているようです。しかしながら、今後、デジタル化がさらに進み、AIも大幅に導入するとなれば電力消費量はさらに増加しますので、火力なくして30年後に十分な電力が安価、かつ、安定的に供給されるには、新たなエネルギー技術が開発される必要がありましょう。先端的なエネルギー技術としては、水素エネルギー、蓄電技術、低ロス送電技術、省エネ技術、核融合技術、リサイクル型の原子炉、小型炉、トリウム炉、核廃棄物の再処理技術などが挙げられますが、果たして、30年足らずでテクノロジーの発展は、政治が掲げた目標に追いつくのでしょうか。

 

そして、テクノロジーの発展が目標に追い付かない場合、社会・共産主義体制と同様の惨事が人々を襲うこととなりましょう。かつて中国の毛沢東は、計画経済の下で鉄鋼増産の大号令を発し、この目標達成のために農民に鉄製の農具まで供出させて大飢饉を引き起こしています。菅政権には、共産主義と新自由主義が一体化したキメラ的な側面がありますので、排出ゼロの目標達成のために国民に多大なる犠牲を払わせる可能性がないとは言い切れないのです。例えば、電力価格の高騰により、人々の生活の質は著しく低下するかもしれません。また、日本国の国土も、海に行けば海上風力発電機が並び立ち、山に行けば森林が切り開かれて太陽光パネルが敷き詰められた光景へと変貌するかもしれません。そして、農村でも、稲穂ではなく太陽光パネルが鈍く光っているのです。しかも、その事業者は日本企業ではなく、発電設備も日本製ではないかもしれません(価格競争では、圧倒的に中国系が有利…)。

 

 最後に第4点として挙げるとすれば、温暖化ガスの排出量をゼロにすれば、エネルギー資源の価値もゼロになる点です。石油や石炭を産出する中東諸国、オーストラリア、インドネシアといったエネルギー資源を輸出する諸国は、30年後には輸出先を失います。オーストラリアにはウラン鉱がありますので、原子力発電向けには輸出が可能ではあるものの、これらの諸国は、その後、どの様に自らの経済を成り立たせるのでしょうか。

 

日本国もまた、尖閣諸島周辺海域の石油・天然ガスや日本海側に埋蔵されているメタンハイドレートの価値が‘ゼロ’になります。つまり、日本国のEEZ内に埋蔵するエネルギー資源は、全て永久に使われることなく無駄になってしまうのです。エネルギー資源の価値が失われることによる影響は計り知れません(潜在的には、円の価値を支えてきたかもしれない…)。また、中国は、2060年までには温暖化ガスの排出量ゼロを目標として設定しているものの、中国は、国際法や国際公約破りの常習犯です。結局は、EUや日本国といった一部の先進国における排出量がゼロになったとしても、中国をはじめとした他の諸国では依然として化石燃料が使われ続けるため、温暖化防止国化(仮にあったとして…)も‘ゼロ’という馬鹿馬鹿しい結果に終わりかねないのです。

 

 以上に主要な問題点を挙げてみましたが、エネルギー政策の影響の広範性を考慮すれば、国民的な議論の余地もなく公表される首相の所信表明による温室効果ガス排出ゼロの目標設定は、あまりにも無謀と言わざるを得ません。日本国民は、スピードに任せて先を急ぐ暴走車に同乗させられているようなものであり、首相がしばしば口にする‘国民のための政策’とは程遠いように思えるのです。

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考えさせられる経済戦略会議

2020年10月21日 12時59分28秒 | 国際政治

 首相が設置する経済戦略に担う諮問会議と申しますと、アベノミクスを牽引した「未来投資会議」等を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。‘失われた20年’とも称されたバブル崩壊後の長期経済の低迷時代から抜け出した立役者といったイメージもあるのですが、この種の首相直属の経済戦略会議は、実のところ、民主党政権以前の小渕内閣にあって1998年に既に設けられていたそうです。

 

 小渕政権時代の「経済戦略会議」の発足時にあって、「健全で創造的な競争社会」の再構築、並びに、「敗者復活への支援をしながらシビルミニマムを保障する「小さな政府」型のセーフティ・ネット」の整備を目標として設定しており、アメリカともヨーロッパとも異なる日本独自の「第三の道」を探るとしながらも、その基本方針は、新自由主義に基づいていました。今般、菅首相が「未来投資会議」に代わって設けた「経済戦略会議」においてもこの基本路線は引き継がれており、同会議が存在する限り、日本国は、新自由主義の頸木から逃れられない運命を背負わされているようにも思えます。

 

 ところで、首相が直属の経済諮問機関を設置するスタイルは、日本国に始まったわけではなく、アメリカにも同様の組織があります。例えば、トランプ大統領は、2017年の政権発足時に大統領戦略政策フォーラムを設置しています。そして、同フォーラムの座長を務めたのは、武田コンシューマーヘルスケアの売却先とされるブラックストーン・グループの会長を務める、かのスティーブ・シュワルツマン氏なのです。中国の政府系投資ファンドである中国投資有限責任公司が30億ドルで同グループの株式の約9.37%を取得しており、同氏自身も清華大学への3億ドルの寄付を以って経済管理学院顧問委員会のメンバーに就任しています。そして、同じく大統領戦略政策フォーラムのメンバーであったテスラのイーロン・マスク氏も同委員会のメンバーの一人なのです。このことは、米ホワイトハウスの大統領戦略政策政略フォーラムと中国清華大学の経営管理学院顧問委員会には、両組織の兼務者がいたことを意味します。この結果、両国の経済戦略に関する情報が相互に筒抜けとなる、アメリカの情報が中国の手にわたる、あるいは、米中兼務者が両者を操るといった忌々しき状況が生じていたこととなりましょう。

 

 トランプ大統領の大統領戦略政策フォーラムは、同大統領のパリ協定離脱を機に辞任者が相次ぎ、結局、発足してから半年余りで解散されることとなりました(2017年8月16日)。そしてこの同フォーラムをめぐる一連の事件から見えてくることは、大統領や首相の直属機関として設置される‘戦略会議’とは、政治的にはリベラルが多く、かつ、中国共産党とも協力関係にある新自由主義勢力が、各国政府を内部から動かすために考案した手段ではなかったのか、という疑いです。同勢力に限定していえば、米中関係はウィンウィン、あるいは、相互互恵が成立します。しかしながら、安全保障や国民生活といった国益に叶うのか、と申しますと、そうではなく、民主党の大統領候補者であるバイデン氏のファミリー・スキャンダルにも見られるように、戦略会議のメンバーの多くは、国際金融やグローバル企業の利益代表ですので、私的利益誘導の側面が強いのです。そして、もちろん、トップ直属の諮問機関の設置は、民主主義をスキップしてしまうための手段ともなりましょう。

 

アメリカのケースでは、反グローバリズムの立場にあるトランプ大統領を思い通りには操作できなかった、あるいは、同大統領がこの‘トロイの木馬’とも言うべき巧妙な仕組みに気が付いたことで解散となった可能性も否定はできないように思えます。

 それでは、日本国の経済戦略会議はどうなのでしょうか。確証はないのですが、仮に上記の憶測が‘当たらずとも遠からず’であるとしますと、日本国民もまた悠長に構えてはいられなくなります。今般の「経済戦略会議」もまた、上からの新自由主義政策の推進により、日本経済をグローバル体制に組み込むことを目的としているものと推測されるからです。現行の成長戦略会議では、既に方針が決定されているため、新自由主義を含むグローバリズムそのものがもたらす危機や諸問題に対して十分、かつ、柔軟な対応はできなくなることも予測されましょう。自ら自身がその発生源なのですから。このように考えますと、日本国政府が政策の柔軟性、あるいは、自立性を取り戻すためには、産業・通商政策の決定システムを抜本的に見直す必要があるのではないかと思うのです。

 

 もっとも、昨今の菅政権の動向を見ますと、もはや諮問機関を必要とせず、既に、国際的な新自由主義勢力の組織体が政権内部に内在化してしまっているようにも見えます…。


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矛盾に満ちたテスラの中国製モデル

2020年10月20日 12時30分04秒 | 国際政治

 日本企業は、しばしば、SDGsへの取り組みが遅れているとして批判を受けることがあります。SDGsは「ESG投資」として金融機関の投資先の基準としても採用されているため、特に環境問題に敏感なヨーロッパ諸国では、各企業とも、積極的にこれらへの対応に努めているとも伝わります。こうした中で報じられたのが、電気自動車の開発で知られるテスラが中国製の「モデル3」をヨーロッパ市場に投入するという情報です。

 

 電気自動車は、ガソリンを動力源として使用しませんので二酸化炭素を排出せず、地球温暖化二酸化炭素犯人説に立脚した環境の観点からしますと、SDGsに合致しているようにも見えます。SDGsを推進している国連を含む国際組織からしますと、電気自動車の世界大での普及は望ましく、電気自動車こそ‘未来ヴィジョン’の実現に不可欠な要素として見なしているのでしょう。もっとも、自動運転のテクノロジーが確立されれば、全ての自動車を電子ネットワークの下で統制することができますので、‘歓迎’とばかりはいかないようにも思えます。ネットに接続されていない現行のガソリン車やハイブリッド車では、人々が自らの行きたいところに自由に移動できますので、環境問題に不熱心な中国が、電気自動車や自動運転テクノロジーの開発を急ぐのも、エンジン技術における劣位よりも国民監視体制の強化が本音なのかもしれません。香港における民主化運動の弾圧に際しても、大学に立てこもった学生が自動車で逃げることができなかったのも、自動車が‘ロック?’されており、移動手段を失ってしまったからとする怖いお話もあるそうです。

 

 こうした中国と電気自動車、否、‘未来ヴィジョン’との密接な関係を理解する上でのキーパーソンとなるのは、テスラの共同設立者であるイーロン・マスク氏であるのかもしれません。同氏は、中国との繋がりが深く、本気の発言なのかは疑わしいものの「テスラの本社は将来中国に置かれ、将来のCEOも中国人になる」とも語ったとされます。また、清華大学の経済管理学院顧問委員をも務めており、中国への異常なまでの傾斜が見られるのです。

 

 そして、上記の‘冗談’は実のところマスク氏の実像を言い当てており、同氏は、今日、なかば‘中国人’と化しているようにも見えます。同氏は、2017年にトランプ政権の大統領戦略政策フォーラムのメンバーを務めたものの、同大統領によるパリ協定離脱に反発して同職を辞しています。その一方で、2018年には、一人の人物が米中両国の二枚の‘マスク(仮面)’を取り換えて演じたかのように、米中交渉に臨む米トランプ政権に対しては、中国政府に自動車関税の引き下げと外資の単独出資を要求させる一方で、中国に対しては、これを認めさせることに成功しています。この両国の合意の結果、海外初の工場として建設されたのが、今般の中国製テスラを製造した上海の「ドレッドノート」なのです(‘ドレッドノート’とは、イギリス海軍の艦船の名称であるところも示唆的…)。

 

 同氏が地球環境の行方を心から懸念しているのであるならば、パリ協定を離脱したアメリカよりもさらに環境問題に不熱心な中国に肩入れするのは矛盾した態度と言わざるを得ません。また、SDGsや「ESG投資」の基準からしますと、テスラ社は投資対象としては低評価となるはずなのですが、同社には、相当の資金調達力があるようなのです。僅か3年足らずで上海の更地から大規模な製造工場を建設し、輸出体制を整えたのですから。テスラの筆頭株主はマスク氏自身であって20.8%を保有していますが、株主リストを分析すれば、中国を含む全体像が見えてくるかもしれません。そしてそれは、今日、米中対立の最中にあって、人類を混乱させる要因、即ち、中国とその背後に潜む国際組織との協力関係を解き明かすきっかけともなるのではないかと思うのです。


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日本学術会議は民営化よりシンクタンク化を目指しては?

2020年10月19日 12時55分45秒 | 国際政治

 菅新政権の誕生により、安倍前政権から見られた新自由主義への傾斜はさらに強まったように思えます。成長戦略会議のメンバーの顔ぶれからも察せられるように、同政権は、日本国の経済成長を新自由主義的政策の実行に託しているように見えます。この流れにあって、新会員の任免拒絶により政府と対立する形となった日本学術会議についても、民営化論の声が上がるようになりました。

 

 それでは、学術会議が民営化されるとなりますと、どのようなことが起きるのでしょうか。今日、10億円の予算が国家から支出されているのも、同会議が日本国政府の公的機関として位置づけられているからに他なりません。同会議の基本的な役割の一つは、政府への政策提言です。同会議のホームページを訪問してみますと、その非民主的な人選については問題ありとされながら、かなり活発に提言が行われていることが分かります(10月5日の記事では、さして活動を行ってきていなかったような書き方をしてしまい、申し訳ありませんでした)。同会議が公的な役割を担っているからこそ、首相の任命権をめぐる政府との関係が問題視されたとも言えましょう。

 

 今般の騒ぎに対する解決策として日本学術会議が民営化されたとしますと、以後、首相の任命権の問題は完全に解消されます。政府は10億円の予算を振り向ける必要がなくなる一方で、メンバーの選任は民間団体である同会議内部の人事問題となります。この結果、両者の制度上の関係は解消され、学術会議側は、政府からの完全なる独立性を得ることになるのですが、その一方で、幾つかの側面で考慮すべき問題も生じるように思えます。

 

 第1に、学者や研究者から政府への提言ルートが断たれてしまう点です。共産主義へのシンパシーが指摘されているように、政治色が強く、体質上の問題がありながらも、同会議は、曲がりなりにも政策提言機能を担ってきました。仮に民営化されるとしますと、政府は、同会議から提言等を受け取る義務もなくなります。この結果、予測される事態とは、政府が、有識者会議等のメンバーとして自らが選んだ‘御用学者’の声しか聴かなくなることです。成長戦略会議のメンバーの顔触れを見ますと、この懸念も杞憂ではないように思えます。

 

第2に、民営化後も変わりなく活動をそのまま継続するとすれば、日本学術学会は、運営費を独自に調達する必要があります。広く寄付を募るという方法もあるのでしょうが、活動の財源が不安定化する可能性は否めません。あるいは、‘日本学術会議債’を発行するという方法もあるのでしょうが、同会議は営利団体でもなければ、それ自体が研究や技術開発を行っているわけではありませんので、債務不履行となる事態も予測されます。年間10億円の資金を集めるのは容易なことではありませんし、仮に、中国政府や中国系ファンド等から財政支援を受けるという事態ともなれば、本末転倒となりましょう(日本国政府から独立する一方で、中国に従属してしまう…)。

 

第3点として指摘し得るのは、民営化により政策提言機能が失われれば、その存在意義も失われる点です。存続するとしても、数ある民間団体の一つとなりますので、政府の政策形成に対する影響力や発言力は急速に低下することでしょう。しかも、組織改革をせずにイデオロギー上の偏りを残したままでは、左派の政党と同様の政策提言を並べるだけの‘政治団体’となるかもしれません。これでは、科学者としての客観性や中立性が疑われますので、ますます存在意義が失われてしまいます。

 

 以上に述べてきましたように、日本学術会議の問題については、民営化のみが唯一の解答ではないように思えます。アメリカやイギリスにおける同様の会議は民間団体とのことですが、広く寄付文化が根付いている諸国の模倣をしても、必ずしも日本国に定着するとも限りません。むしろ、日本国政府は、従来の組織形態に拘らず、日本国の政策の向上に資する、全国規模のネットワークを有するシンクタンク化を目指すべきではないかと思うのです。

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テクノロジーの‘強制力’の問題-合意なき社会改造

2020年10月18日 12時34分57秒 | 国際政治

 テクノロジーの発展は、人類に恩恵を与えてきたことは確かなことです。危険な重労働から人々を開放し、不治の病を克服し、飢餓から人々を救い、そして、生活を便利にしてきました。しかしながら、今日、テクノロジーがもたらすリスクは、軍事技術の分野に限らず、社会そのものの、そして、人という存在の在り方を一変させかねない状況にあるように思えます。そこで、本日は、テクノロジーの‘強制力’について考えてみることとします。

 

 ‘強制力’という言葉から受ける大方のイメージは、おそらく、物理的な力ではないかと思います。しかも、一方的に自らの利己的な欲望を達成するため、あるいは、自らの意思を相手に押し付ける際に使われる‘力’は暴力とも称され、古今東西を問わず人々から忌み嫌われ、犯罪行為として取り締まりの対象ともされてきました。このことは、他者の意思を無視した一方的な押し付け行為は、‘悪’として認識されてきたことを示しています。

 

 この観点からしますと、テクノロジーもまた、その一方的な押し付けにより、社会悪となる可能性があります。旧来のテクノロジーは、苦痛、不快、不便、労力や時間の負担といった、誰もが‘マイナス’と認識している事柄の多くを取り払ってきました。産業革命にあって、工場での重労働や大気汚染といったマイナス面を含みながら、近代化、即ち、人類の進歩の証として人々から歓迎されたのも、マイナス面よりもプラス面が圧倒的に優っていたからなのでしょう。ところが、今日のテクノロジーは、純粋に技術の面からすれば飛躍的に発展してはいるものの、社会や人々に与えるマイナス影響は急速に強まっているように思えるのです。

 

 テクノロジーによって多くの人々が恩恵を受ける場合には、それがたとえ‘強制的’であったとしても、アーミッシュのような強い信念を有する人々を除いては、人々はそれを受け入れるものです。しかしながら、ITやAIが中国にあって一党独裁体制の維持を可能としたように、情報・通信分野において先端技術は、人々を監視社会に導こうとしているように見えます。その先には、全人類にマイクロチップを埋め込まれ、DNAや生体情報のみならず、行動から思想に至るまで、全ての情報がデジタル化されて収集される時代が訪れるかもしれません。また、日本国政府は、2021年度から始まる‘5カ年計画’として、「第6期科学技術基本計画」を策定中のようですが、中には海洋都市、宇宙基地、空飛ぶ車のような未来ヴィジョンも含まれているようです。スマートシティの輸出にも積極的なようですが、こうした電脳都市は、圧倒的格差が容認される社会にあって、一部の特権階級(共産主義者、現地の権力者、金融・IT関連のセレブ…)向けに建設されるのではないでしょうか。

 

他者からの監視はストレスになりますので、健康維持を名目として埋め込まれたマイクロチップは人々を精神的に追い詰め、むしろ様々な不調や病気を引き起こすかもしれません(ストレスは免疫力を低下される…)。人々は、監獄のなかの囚人と同様の状態に置かれるのですから、この状態を不快と感じる人は少なくないはずです。また、金属やコンクリート造りの幾何学的なデザインの建物が整然と並び、窓からは、空を飛ぶ鳥ではなく、空飛ぶ車が飛び交う光景が日常と化した無味乾燥とした都市空間は、全ての人々にとりまして快適で心地よいとも言えないように思えます。ましてや、海底都市や宇宙基地での生活は、耐え難い苦痛以外の何物でもないかもしれません(閉所恐怖症の人々にとりましては地獄…)。

 

 テクノロジーが導く未来の社会が、大多数の人々がITやAIによってその一生涯を監視され、全人類の情報を独占した共産主義者や金融・IT富裕層等によって‘好ましくない人々’が苛めぬかれ、徹底的に排除される社会であるとしましたら、人々は、こうした自由なき社会に住みたいと思うのでしょうか。温かみのあった過去の世界に戻りたいとは思わないのでしょうか(これらの人々は、多様性の尊重を謳いながら、自らの‘未来ヴィジョン’に対する拒絶は許さない…)。政府、並びに、一部の権力者やITセレブの人々が理想として描く近未来とは、それは、テクノロジーを支配下に置くごく少数の人々の私的な理想ではあっても、人類全ての理想郷ではないはずです。テクノロジーは、一部の人々の夢を実現するのではなく、より多くの人々が物心共に豊かに生きてゆくために存在すべきなのではないかと思うのです。

 

一部の人の理想が他の人々に押し付けられるとしますと、それは、一方的な合意なき社会改造であり、‘悪’の一種なのではないでしょうか。そして、テクノロジーにあってマイナス面を抑制し、真に人類の幸福に資するように方向づけるためには、国家の予算も投じられ、科学政策という分野がある以上、テクノロジーもまた、合意形成を尊重する民主的制度の許に置くべきなのではないかと思うのです。


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危うい‘スピード感’-菅政権は何故急ぐのか

2020年10月17日 12時43分58秒 | 日本政治

 菅義偉政権が発足から一か月が過ぎようとする今日、同政権では、’スピード感‘が合言葉となっているように見受けられます。首相をはじめ、閣僚の多くもしばしばこの言葉を口にします。’国民のためになる仕事をスピード感を以って実行する‘ということらしいのですが、スピード追及のこの方針に危うさを感じている国民も少なくないはずです。

 

 スピード感という言葉に、何故、多くの人々が恐怖するのかと申しますと、それは、おそらく、民主主義体制の特徴ともなる国民的なコンセンサスの形成を全く無視しているからなのかもしれません。独裁者の一声で全てが決定され、上意下達で瞬時に末端まで命令が伝達される独裁体制と比較して、政策決定権限が手続きにおいて分散しており、かつ、国民の合意形成が求められる民主主義体制では、何事を決めるにしても時間がかかります。その代わりに、世論も反映されやすく、軌道修正や微調整の機会も設けられていますので拙速による失敗も少なく、国民も安心していられるのです。

 

 ところが、菅政権は、どうしたことか、必要な政策は躊躇なく実行してゆくと断言し、国民を置き去りにしても前進しようとしています。同内閣の成立過程を振り返りましても、国民が安倍政権の‘スローさ’にやきもきし、‘スピード内閣’の出現を待望したわけでもありません。むしろ、国民を蚊帳の外に置きつつ総裁選における党内の派閥力学によって成立しており、この状況からすれば、国民は、むしろ、スローな安全運転を望んでいることでしょう。総選挙を経たわけでもありませんので、首相の席に座ったと途端にアクセル全開で走り始める菅首相の姿は理解に苦しむのです。

 

 しかも、今日、日本国をはじめ全世界は、あらゆる側面で過渡期、あるいは、転換期にあります。新型コロナ対策については急ぐ必要はありますが、その他の側面を見ますと、むしろ、慎重な見極めを擁する場面にあるように思えます。とりわけ、グローバリズムがもたらした中国優位の国際通商システムや経済・社会破壊を伴う新自由主義に対しては、日本経済や国民の生活を護るためにこそ、アクセルこそ踏むべき場面です。最も‘スピード’に対して説得力のあるデジタル化でさえ、安全技術が伴わない段階の全面的な導入は、サイバー攻撃や予期せぬ不具合、さらには自然災害などにより大惨事に見舞われるリスクがありますし、国民監視体制を伴う中国モデルもあるのですから、国民としては、スピード重視の姿勢には危うさを感じずにはいられないのです。

 

 それでは、菅首相は、急いで何処に行こうとしているのでしょうか。‘急ぐ’という行動には、常々、約束の時間やタイムスケジュールなどの時間設定があるものです。この点からしますと、菅内閣もまた、予め定められている何らかの‘時間’に間に合うように急いでいるように思えるのです。この問題を解く鍵となるのは、あるいは、‘工程表’という言葉かもしれません。安倍前政権の時代より、日本国の政策は、親中傾向を強めると共に、新自由主義に傾斜してきました。工程表とは、目標に向かってのタイムスケジュールを意味しますが、まさしく、菅政権は、国民には知らされていない新自由主義の計画が遂行しているかもしれず(じばしば、‘実行’するとも述べている…)、今般の成長戦略会議にあって、その司令塔とでも称するべき竹中平蔵氏が起用されているのも、この可能性を示唆しているようにも思えます。慎重にも慎重を期すべき時に、スピード感を是とする政権の行き着く先は、『1984年』や『マトリックス』で描かれたようなディストピアであるのかもしれません。


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