万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日本国における‘上下挟み撃ち作戦’とは?

2022年08月31日 12時07分03秒 | 日本政治
世界支配を目論む超国家権力体(グローバルな金融・経済財閥連合体)が、自らの描く未来を手にするために、世界各国において中間層を抑圧する装置として上部と下部の双方に下部組織を設置したとする仮説は、強ち否定はできないように思えます。いわば、‘挟み撃ち作戦’なのですが、上下何れの組織も、超国家権力体の主要な収益源に麻薬密売やギャンブルなどが含まれているために、反社会的な活動と密接に関わることとなります。それでは、日本国の場合はどうなのでしょうか。

 先日、最高裁の判決によって自民党野田聖子議員の配偶者が暴力団員であった事実が確定したとするニュースが報じられていました。同議員は、日本初の女性内閣総理大臣を目指していただけに驚きの声もあったのですが、むしろ、配偶者のバックを知りながら自らを総理大臣の座に相応しいと考えていた同議員の感覚に驚かされます。一般的な国民の常識ではあり得ないからです。もっとも、政界と‘裏社会’との繋がりは以前より指摘されており、政治家には選挙で見せている表の顔とは異なる裏の顔があることを知る国民は少なくはないのかもしれません。

 日本の政治と裏社会との関係については、フランス人ジャーナリストであるフィリップ・ポンス氏の『裏社会の日本史』(筑摩書房、2006年)が、タブーを排して客観的な視点から詳述している点において大変参考になります。同書は、政治学の古典書を100冊読むよりも日本政治の闇、あるいは、政治家の不良化問題の理解には役立つと言っても過言ではありません。目からうろこが落ちるような記述も多く、自らの不明を恥じたのですが、同書は、民主主義国家の裏側、否、世界支配の構図をもそれとなく描き混んでいます。そして、同書は、本ブログの仮説を裏付けているようにも思えます。

 何故ならば、GHQやCIAによる対日政策についても触れているからです(KCIAも関連・・・)。因みにCIAは、アメリカという国家の情報機関ではあるものの、その実態は、超国家権力体の出先機関とされています。戦後、敗戦国であった日本国の占領に当たって、GHQが、日本国の治安を維持するために「やくざ」を使ったことは事実のようです。当時の「やくざ」とは、親分子分関係が厳しく律せられている任侠の世界を生きる人々であったため、賭博を中心に反社会的な活動に従事しながらも、メディアによる美化の影響もあって‘保守的な組織’として、当時は大衆からも好意的に受け止められていたとされます。自民党、否、政界には、児玉誉士夫や小佐野賢治、あるいは、笹川良一といったフィクサー等を介したものであれ、これらの組織との関わりの深い議員も少なくありません。東京裁判で有罪判決を受けたものの、後に釈放された岸信介の名はしばしばGHQとの関連で登場してきますし(何らかの‘司法取引’が疑われる・・・)、60年代にあっても、佐藤栄作、河野一郎、田中栄一、木村篤太郎などの保守政治家たちも親交があったとされます。今日にあっても、二階元幹事長など、その行動や発言を見ておりますと、到底‘かたぎ’とは言いがたい政治家も見られます。

 こうしたGHQ、並びに、その後のCIAとの結びつきは、暴力革命を目論む共産主義者との闘いにおける‘必要悪’として説明されています。‘暴力は暴力を以て制す’、という戦略となりましょう。戦後、民主主義国家として再出発したはずの日本国は、そのスタート地点から、既に戦勝国による暴力の容認という真逆の政策に翻弄されることとなるのです。なお、超国家権力体が麻薬密売やギャンブル等の‘元締め’である点を考慮しますと、冷戦期における‘共産主義の脅威’という根拠は、自らの利益を温存させるための方便であったのかもしれません(冷戦という二項対立構造もまた、超国家権力体による‘分断作戦’の一つである可能性も・・・)。

 おそらく、戦後の間もない頃から1990年あたりまでは、日本国における‘挟み撃ち作戦’は、1955年に保守合同により設立された自由民主党を上部とし、「やくざ」とも重なる極右団体を下部とする構図によって遂行されていたのでしょう。もっとも、この時期は、東西冷戦期にありましたので、分断作戦の主戦場は保守と革新の左右のイデオロギー対決にありました。このため、右翼団体が動員されたのは、主として、労働争議や反政府デモといった革命勢力と目されていた社会・共産主義者との闘いの場です。しかも、上下の‘挟み撃ち作戦’の構図は、下部の「やくざ」が自らを‘はぐれ者’と認識して一般人には危害を加えないとする掟を固く守る一方で、一般大衆からは一目置かれる存在であったため(終戦直後には、これらの組織が韓国・朝鮮・中国系のマフィアから市井の日本人のみならず、警察をも護っている・・・)、中間層に対しては殆ど抑圧装置としての効果は及ぼしていません。すなわち、冷戦期における上下による‘挟み撃ち作戦’のターゲットは、左翼勢力であったと考えられるのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界支配の構図から読み解く政治家の不良化

2022年08月30日 13時33分58秒 | 統治制度論
日本国民の多くは、未だに‘お上’を真面目で実直な人々と信じる傾向が強いように思えます。このイメージは、政治家よりも規範からの逸脱を忌む秀才タイプの‘お役人さん’に由来するのでしょうが、二期にわたる安倍政権の下で官僚主導型から政治主導型へと日本の政治状況が変貌を遂げている今日、国民の‘お上’に対する信頼も大きく揺らいできています。否、これまで水面下に隠されていた政治の世界の異常さに、ようやく多くの国民が気付き始めているのかもしれません。それでは、何故、政治家は、かくも国民に対して不誠実であり、新興宗教団体や反社会組織とも高い親和性を持つ‘不良’となってしまったのでしょうか。

ここで一つの作業仮説を提起してみたいと思います。それは、政治家の不良化は、近代以降に至って推進されてきた超国家権力体(イエズス会、東インド会社、近代秘密結社の流れを汲む金融・経済財閥連合?)による世界支配構想においては不可欠であった、というものです。おそらく、同権力体が計画している最終的な未来像とは、全世界を全体主義化し、自らを唯一の支配者とする人類支配体制を構築することなのでしょう(その他の人類にとりましてはディストピア・・・)。そのためには、たとえ国家の枠組みを形ばかり残したとしても、全ての諸国の統治権力を手中にする必要があります。全国家を独裁体制へと移行させ、政治的指導者を一人残らず自らの‘代理人’とすることに成功すれば、同構想は、程なく現実のものとなるのです。

古代ローマが帝国の形成期にあって征服した地の権力者にローマ市民権を与え、自らの支配体制に取り込んだように、上部のみであるならば、支配下に納めることは難しいことではありません。何らかの特権、あるいは、特別の地位や富を与えれば、代理人に‘転向’させることができますし、現地の住民をも代理人を介して間接的に支配することができます。もっとも、上部を‘代理人’に仕立てたとしても、搾取や抑圧に苦しむ国民からの強い抵抗を受けたのでは、自らが構築した支配体制が脆くも崩れ去るリスクが残ります。支配者側からしますと、現地の住民全体をも自らのコントロールの下におけるのであれば、それに越したことはありません。

ここに、反乱や抵抗を回避しつつ、国民全体の支配する一つの方法として、分断作戦というものを見出すことができます。同作戦は、必ずしも異民族支配にのみ用いられた手法ではないのですが、国民が一致団結して支配者側に抵抗し、異議を申し立てないよう、二つ、あるいは、複数のグループが常に反目し合うように意図的に仕向けるのです。この手法がいつ頃、どこで編み出されたのかは不明なのですが、上下から中間層を圧迫し、抑圧してゆく‘挟み撃ち戦略’もこうした分断戦略の一つです。とりわけ、同手法は、ユダヤ系を中核とする超国家権力体の‘得意技’であったように思えます。日本国でも、最下層民を一般の農民の監視や農民一揆の鎮圧などに用いるようになった江戸時代の身分制も、あるいはイエズス会の入れ知恵であったのかもしれません。

分断作戦は前近代にあっても統治の有効な手段として採用されてきたのですが、この手法、近代以降にあってはさらに手の込んだものとなっています。何故ならば、民主主義が普遍的な価値として認められ、これに反する体制は不正なものと見なされるに至っているからです。ところが、歴史には、これらの価値を積極的に全世界の諸国に広めたのは、他でもない、今日にあって世界支配を目論む超国家権力体であったというパラドックスがあります。同権力体の主力メンバーは、国家にあっては常にマイノリティーで差別されてきたユダヤ人であり、フランス革命や明治維新と言った‘アンシャン・レジーム’の破壊を目的とした近代革命を遂行し、自らを‘解放’すると共に国家運営の主導権を握るに当たって、これらの諸価値を一般国民の動員や支持を得るための方便として大いに利用してきたのです。否、普遍的諸価値の実現をスローガンに掲げ、それを熱狂的に支持して破壊に加わる民衆なくして、ユダヤ系組織が世界支配の計画を進めることは不可能であったと言えましょう。

権力側に利用されてきたものが、その必要がなくなれば無情に切り捨てられるのは世の常です。首尾良く体制を転換したものの、超国家権力体にとりましては、これらの諸価値は自らの全体的な支配と利権の独占にとりましてはむしろ不都合な足かせです。国民の大多数が支持する民主主義体制や普通選挙と言った制度も、取り除くべき障害として認識されるのかもしれませんし、富の源泉であった麻薬取引等の利権も規制の対象とされ兼ねません。何れにしましても、社会の健全性を志向する民主主義国家にあって、良識や常識を備えた中間層を支配下に置くために、超国家権力体は基本的には分断作戦を踏襲しつつ、国民主権を意味する民主主義体制を形骸化するための、より巧妙な仕掛けを施したと考えられるのです。

かくして、超国家権力体が民主主義国家で試みた分断作戦とは、上部の政治家等と下部の反社会組織や新興宗教団体の両者を操り、双方から中間層に圧力をかけたり、メディアに命じて世論を誘導しつつ、民主的選挙を演じるというものであったかもしれません。このためには、両者とも国民一般から離れた存在にしておく必要があったのでしょう。長期にわたる両者の協力関係により、上部の政治家と下部の反社会組織やカルト集団とのメンタリティーはやがて似通ったものとなり、政治家は、国民が近寄りがたい‘不良’と化していったと推測されるのです(つづく)。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変わるべきは政党では?-民主主義の阻害要因としての政党

2022年08月29日 12時19分55秒 | 統治制度論
今日ほど、民主主義国家に生を受けた人々が、政党と民主主義との間の深刻な不整合性に直面している時代はないのかもしれません。とりわけ日本国の政界は、新興宗教団体との癒着の発覚により、民主主義を揺るがす大問題として政教分離の存在意義が改めて問われています。そして、民主主義が危機に陥った要因は、権力の末端として活動してきた新興宗教団体を含む各種団体のみならず、政党そのものにも求められるように思えます。

政党とは、民主的選挙の下における選挙権の拡大と共に歩んでいますので、誰もが、民主主義を体現する存在としてイメージしがちです。確かに、世襲の君主が支配した時代や軍団や軍閥のトップが政権を力で争う時代などと比較しますと、政党は、国民の政治的自由や政治的権利表明の受け皿となりますし、平和的な政権交代を実現しますので、はるかに民主的で平和的な存在です。このため、政党政治も、民主主義を実現するシステムとして評価されてきました。しかしながら、今日の状況は、この認識を覆しつつあります。

17世紀にイギリスで政党が誕生した時には、政党とは、政治的主張や信条を共にする議員が集まる会派に過ぎませんでした。寄り合い的な会派ですので、党首や党役員といった党内組織が整えられていたわけではありませんでした。ところが、政治団体なるカテゴリーが登場し、政治活動を専らとする政党という団体の存在が法的にも認められるに至りますと、政党は、民主主義の進化とは逆方向に変質してゆくこととなります。政党に懸念される退行現象とは、政党が、政治団体として組織化される過程において見出すことができます。

第1に指摘されるのは、民主主義の前提となる自由な討論の基盤ともなる議員間の対等性の喪失です。議会内会派の段階では、議員間の関係は対等であり、組織内部の役職に基づく議員間の力関係やヒエラルヒーなどはありません。自由闊達な政策論争もユニークな政策提言も、忖度や‘節度’が強く求められる場や後になって制裁や嫌がらせを受けるリスクがある場合には、発言者に相当の勇気がない限り極めて難しくなるのです。民主主義の成立要件の一つは自由な議論なのですが、政党が純粋に会派である間は、この要件は満たされましょう。ところが、会派がやがて政党として組織化され、政党内にヒエラルヒーが形成されるにつれ、議員の間の対等性は失われるリスクが生じるのです。

この結果、建前としては各自が等しく‘国民の代表’であるはずの議員は、政党内の組織人として‘位置’づけられてしまう傾向が強まります。国政の‘真の決定者’は、国家のトップ職に就いた政治家ではなく、政党の幹部職や派閥の長の座にある‘有力者’や‘長老’やである場合も少なくありません(さらに、政党の外部や背後に‘上司’が存在する可能性も・・・)。一方、新人議員は、党内にあっては‘新入社員’のように扱われます。否、出馬・当選して政治家になるためには、特定の政党内有力者の庇護を受ける必要があるのでしょう。先の参議院選挙では、世界平和統一家庭連合系の団体への訪問によって萩生田政務調査会長が初当選した生稲議員の選挙活動をバックアップしていた事実が判明しています。政党の有力者が‘配下’の議員達に支配力を及ぼす一方で、政党内の序列も当選回数などが基準となって固定化されるのです。第2の問題点として、政党内力学が働き、国民による民主的選択や世論とは異なる方向に政策が向かう点を指摘することができるでしょう。

第1並びに第2の問題点に関連して第3に挙げられるのは、選挙区間の平等原則が、当選議員の政党内のヒエラルヒーによって著しく歪められてしまうリスクです。政党内での議員の地位や‘序列’は選挙区の立場にも反映され、政党内の有力者の地盤となる選挙区に対しては、公共事業と言った利権がもたらされることも珍しくないのです。

第4に、政党は、国民の政治的な選択が及ばない、特定の政治家や家系による権力や利権の維持・継承組織になりかねない点です。民主的選挙制度の原則に従えば、誰もが選挙に立候補でき、かつ、落選すれば‘ただの人’に戻るはずなのですが、政党は、政治家に対して終身雇用の場を与えています。たとえ国民が落選させたとしても、落選候補者であっても、政党内で地位やポジションを保持していれば、政治的影響力を行使することができるのです。企業のように退職制度もありませんので、国民が政治の刷新を望んでも、所謂“悪しき長老政治”が続くことになるのです。また、その地位を子孫や親族を入党させることで世襲することも容易になります。安部元首相の後継者問題も、民主主義に照らして考えてみますとあってはならないお話なのです。また、政界の閉鎖性も、政党の権力独占志向に求めることができるかもしれません。

そして第5として、政党が、選挙や議会での採決を‘闘いの場’と捉えれば捉えるほど、上意下達が重視される軍隊型の組織に近づく点を挙げることができます。‘平議員’は、トップレベルでの決定に従うだけの存在となり、政策立案能力を有する自立した一人の政治家としては見なされません。選挙でも採決でも‘数’が決定要因となりますので、政党に忠誠を誓っていれば誰でも構わないのです。歴史における政党の軍隊化の際たる事例は、ナチスや共産党であるのかもしれません。そして、戦略上、末端の実行部隊や別動部隊を必要とするという点において、新興宗教団体を含む反社会的組織との関係も理解し得るのです。

以上に述べてきた諸点からしますと、今日、民主主義を歪め、その実現を妨げる元凶としての政党の姿が浮かび上がってきます。政党は、むしろ、前近代的な組織原理によって運営されていると言っても過言ではありません。民主的な組織は、上下関係が重視される位階型ではなく、メンバー間の関係がよりフラットで自由な集会型が適しています。政党も政治家も、選挙のたびに‘日本を変えよう’と国民に訴えていますが、真に変わるべきは、政党、否、政界自身なのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新興宗教団体の政治的な利用価値とは

2022年08月26日 14時14分55秒 | 国際政治
 今日、政治と宗教との問題が国家を揺るがす大問題に発展した理由は、政党や政治家と新興宗教団体の悪しき‘相互依存関係’に求めることができましょう。政治サイドも宗教サイドも、お互いを利用し合っていると推測されるからです。

教科書的な説明、あるいは、メディアの解説によれば、両者の間で成立する相互依存関係は、政治側が教団側に与える箔付けと宗教側が政治側に提供する組織票や選挙スタッフということになります。しかしながら、無党派層が30%から40%を占め、その割合がさらに上昇しつつある現状にあって、組織票・信用バーター説は、それ程に説得力が高いわけではありません。

信者数は、公明党の支持率は5%以下ですし、信者の激減が報じられていますので、人口の数パーセントを占めるに過ぎないのでしょう(世界平和統一家庭連合に至っては日本人信者数は凡そ60万人・・・)。自称827万世帯(10年前の数字・・・)ともされていますが、それでも信者は全国に分散して居住していますので、特定の選挙区で組織票パワーを発揮するにも限界があります(それ故に、住民票を移動?)。組織票は固定票としての価値があるとはいえ、選挙戦略としては、民意に応える政策を公約として掲げ、無党派層を取り込む方が当選の可能性を高めるはずです。

また、選挙時において教団側から提供されるスタッフにしましても、国庫から政党助成金が支給され、所属する政党から選挙資金を受け取っていますので、経費節減説も説得力に欠けています。なお、政教分離を徹底するためには、公職選挙法を改正し、宗教団体による選挙運動員の派遣を禁止すべきかもしれません。

仮に組織票・信用バーター説が正しければ、政党と宗教団体の関係は簡単に解消できるはずです。しかしながら、今日、なおも自民党や他の政党が世界平和統一家庭連合や創価学会との関係を断ち切れないとしますと、両者の間には、何らかの‘裏の取引’があるように思えます。それでは、この‘裏の取引’とは、一体、どのようなものなのでしょうか。

国民に隠されている取引とは、選挙という限定された局所的な場面ではなく、選挙以外の一般的な政治空間において成立しているものと推測されます。そして、この取引は、日本国をコントロールしたい超国家権力体との取引でもあるのかもしれません。いわば前近代の封建体制や冊封体制の構図に近いのですが、超国家権力体の側が、支援対象の政党や政治家に対して政権や首相または同候補の座を保障する代わりに、自らの利権拡張への奉仕を求めるという関係です。超国家権力体は、潤沢な資金力のみならず、大手メディアをも支配していますので、その支援は絶大です。今日、芸能界を含むメディアにあってカルト教団の影響が浸透しているのも、同取引によって説明されるかもしれません(芸能界では創価タレントが幅をきかせており、フジサンケイグループは世界平和統一家庭連合、毎日新聞社は創価学会との関係が指摘されている・・・)。

その一方で、カルト教団が超国家権力体の末端組織として、政党に対して提供するのは動員力です。選挙に際しても、政党・政治家サイドは、組織票よりも新興宗教団体の動員力を欲しているのかもしれません。選挙カーの周りや候補者の演説場所に人集りを造ることや所謂‘声がけ’などができるからです(劇場型に・・・)。そして、この組織的な動員力は、政権与党が自らの政策(その殆どは超国家権力体からの要望なのでしょうが・・・)、これらを推進してゆく上でも大いに役に立ちます(グローバリズム、新自由主義、多文化共生主義の推進、社会的関心の誘導や特定の話題のタブー化、ワクチン接種促進などであり、政治レベルでも、これらの実現は超国家権力体に対する見返り・・・)。一般の国民に対して同調圧力をかけたり、一般人を装って他者の行動を監視することができるからです(しばしば報告されている集団ストーカーも、こうした組織によるものであるのかもしれない・・・)。言い換えますと、権力側のカルト教団の利用価値とは、隅々まで国民を支配するネットワーク型の組織を確保することにありましょう(一般の国民を挟み撃ちにする作戦・・・)。この点に鑑みますと、ITやAIを活用し得るデジタル社会が到来した今日、宗教団体は、もはや‘ご用済み’なのかもしれません。

それでは、この構図にあって、一般の信者はどのような恩恵を受けているのでしょうか。大多数の信者は、おそらく心から教祖に心服し、それが唱える教義を信じているのではないのでしょう。ここに、政治的利権の介在が推測されます。この側面は、政権与党となった公明党において顕著なのですが、宗教団体の多くはビジネスを行なう、あるいは、投資を行なっていますので、支援を受けた政治サイドは、これらの企業に対して何らかの利権を与えているのでしょう。‘安部のマスク’の製造受注に際して、創価系のユースビオという企業が問題となったのは記憶に新しいところです。人材派遣業の大手であり、雇用の不安定化を招く新自由主義の象徴でもあるパソナにも、創価学会の陰がつきまといます。しかも公明党は、国土交通相のポストを長期にわたり独占していますので、その利権たるや巨額に上ることでしょう(政治家の口利きによる随意契約・・・)。特定の宗教団体に属する、あるいは、同団体と親交を結べば仕事を得られるならば、利権の供与を受けた企業は、社員に対して特定の政党や候補者に一票を投じるように指示し、同教団の組織票の一角に組み込まれてもおかしくはありません(創価学会のフレンド票?)。

以上に述べてきましたように、政治と宗教団体との間には、相互依存関係を介した世界支配、あるいは、国家支配の問題が潜んでいるように思えます(支配の末端組織は宗教団体に限定されない・・・)。そして、この近代以前に遡ると推測される支配の仕組みの解明こそ、日本国、否、全世界の諸国が国民による自治という意味における民主主義国家を真に実現するために必要となる作業なのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主主義と自民党は両立しない?-二階元幹事長の国民軽視発言

2022年08月25日 14時31分11秒 | 日本政治
 昨日8月24日、自民党の二階俊博元幹事長の講演会での発言が、多くの国民から猛反発を受けることとなりました。特に批判が集中したのは、世界平和統一家庭連合と自民党との関係に関連して述べた「自民党はびくともしないから」というくだりです。この発言、国民にけんかを売っているようにしか聞こえません。国民からの批判など、自民党には関係ないと・・・。同発言が自民党の国民軽視の本音であるならば、‘自民党と民主主義は両立しない’という結論に至ることとなりましょう。

 もっとも、同発言に先立って二階元幹事長は「問題があればどんどん出して、修正をしていくべきだ。」と前置きしており、‘びくともしない’という表現は、条件付きであるのかもしれません。元幹事長は、曖昧な表現に留まっていますが、同条件をより詳細かつ具体的に記述しますと以下のようになりましょう。

  1. 政党並びに政治家と宗教団体との関係について徹底的な調査を実施する。
  2. 調査結果を報告書(「政党と宗教団体との関係に関する調査報告書(仮題)」)として纏める。
  3. 同報告書を国民に公表し、詳細の説明並びに質疑応答を行う。
  4. 報告書において指摘された諸点について、立法措置を含む有効かつ具体的な対策を講じる。

 調査の対象を自民党と世界平和統一家庭連合との関係に限定しなかったのは、同教団との関係が指摘されている政党は、自民党のみではないからです。一方、宗教団体による政治介入は、世界平和統一家庭連合のみではなく、創価学会と言った他の宗教団体にも同様の問題があります。国民からしますと、政治と宗教との問題は、政界全体を蝕む民主主義の危機なのです。

そして、調査の中立・公平性を確保するためには、問題が政治案件であるだけに、工夫を要することとなりましょう。同調査委員会の委員には、現職、あるいは、同職の経歴を有する検察官や裁判官を委員に任命し、高い独立性を付与するといった方法が考えられます(捜査のノウハウを有する専門家である必要性からすれば、警察官も適任かもしれないし、公安事案であれば、実際に警察が捜査を行なうかもしれない・・・)。もっとも、同調査委員会の設置については、政党並びに政治家が調査の対象になりますので、国会での委員会設置決議が成立しない可能性があります。そこで、政府が同委員会を設ける道もないわけではないのですが、岸田改造内閣の顔ぶれを見ますとその大半が世界平和統一家庭連合との関係が指摘されていますので、同方法も期待薄です。

加えて、国会並びに政府の両者によってブロックされてしまうリスクは、対策の段階にも認められます。たとえ中立・公平な調査委員会によって事実を洗いざらいにした報告書が作成され、それが包み隠さずに公表されたとしても、反カルト法の制定や個別の議員に対する処分については、政府提出法案であれ、議員提出法案であれ、身を切る改革に恐れをなした政党や政治家によって見送られてしまうかもしれません。また、政党レベルでの自浄作用や内部改革についても、与党のみならず、野党にあっても自己改革に挑むほどの熱意は感じられません。立憲民主党を始め、野党側にもカルト教団との関係を指摘されている議員も少なくないからです。

国民の多数が反対している安部元首相の国葬についても、同幹事長は、「当たり前のことで、やらなかったら馬鹿だ」と啖呵を切っています。国民世論を頭から無視する発言からしますと(元幹事長の‘常識’は国民の非常識・・・)、‘びくともしない’発言も、本心にあっては国民の批判は無駄であると述べていると推測されます。その一方で、上述してきたように‘びくともしない’発言が条件付きであるとしましても、二階幹事長の発言は自民党にとりまして致命的な意味を持ちましょう。条件を満たせない場合、自民党は、もはや安泰ではないことを、暗に認めたことになるのですから。今後、自民党は、そして、日本国の政界がどの方向に動くのか、国民の多くは、固唾をのんで見つめているのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自らの足元を見ていない公明党-「反カルト法」の対象に

2022年08月24日 12時39分31秒 | 日本政治
 自民党と平和統一家庭連合(元統一教会)との関係について、国民の多くが絶縁を強く求める中、連立政権の一角を占める公明党の山口代表は、「岸田政権として国民の不信や疑念を招かないよう、しっかりと今後の対応を明確にしていく必要がある」と述べたと報じられています。同発言を聞いて、あまりにもとぼけた反応に唖然とさせられた国民も少なくなかったのではないでしょうか。全くもって自分自身のことは棚に上げているのですから。

 自民党と平和統一家庭連合との癒着がかくも大問題に発展したのは、現行の日本国憲法が定める政教分離の原則に反するからに他なりません。政教分離の原則は、外部的存在である特定の教団によって政治が動かされてしまうリスクを排除する、即ち、民主主義を損ねる迂回ルートとなる道を遮断する役割を果たしています。宗教団体とは、国民の一部に過ぎない信者のための組織ですので、国益=教団益ではありませんし、信者=国民でもありません。信者が忠誠を誓う対象も教祖個人(文鮮明氏や池田大作氏・・・)ですので、政治と宗教を分離させませんと、政治権力が、特定の教団によって私物化されてしまう恐れがあるのです。

 政教分離の原則が、国民主権並びに民主的国家体制を支える重要な基盤となっている点を考慮しますと、特定の教団を母体とする宗教政党は否定されるべき存在となります。憲法第20条において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と明記するのも、民主主義体制を擁護する目的があってのことなのです。

 ところが、公明党の山口代表は、上記の発言において「宗教団体が政治活動をすることなどは、憲法上、完全に保障されていることであり、こうしたことと明確に区別をしながら、議論を進めていくことが大切だと思う」とも述べています。おそらく、憲法第20条の冒頭に記されている「信教の自由は、何人に対しても保障する」の部分を恣意的に拡大解釈したのでしょうが、憲法の条文には宗教団体に対する政治活動の自由の保障という表現は見えません。否、政治活動の自由が保障されているのであれば、そもそも、憲法が政教分離を定める理由がなくなってしまいましょう。

たとえ戦前の国家神道を強く意識して設けられた条文であったとしても、第20条の条文は、同原則の本質的な意義に鑑みて「いかなる宗教団体も」と念を押しています。むしろ、仮に特定の宗教、例えば国家神道を否定するのであれば、「国は神道には特権を与えない」、あるいは、「国教制度はこれを設けない」と記載したことでしょう。全ての宗教団体に適用される条文なのですから、当然に、創価学会にも、それを母体とする公明党にも適用されます。

また、百歩譲って川口代表の悪しき拡大解釈を認めるとしても、今度は、第20条が支離滅裂な条文となってしまいます。同解釈に従えば、憲法第20条は、「宗教団体は政治活動を行う自由が保障されているけれども、政治権力を行使することはできない」と述べていることになるからです。それでは、創価学会は、政治活動を‘行う’のみの宗教団体なのでしょうか。仮に、創価学会が同解釈をとるならば、公明党は解散すべきです。しかしなら、現実には、政党として公明党を設立し、公明党議員を国会に送り出すのみならず、連立政権の与党として政治権力を行使しています。しばしば、議会と政府は異なるので、前者の議員であれは政治権力の行使には当たらない、とするアクロバティックな擁護論も聞かれますが、公明党は、国土交通大臣のポストの長期独占が問題視される与党ですので、この弁明も通用しません(自民党憲法改正案において政治権力の行使の禁止を削除したのは、創価学会や世界平和統一家庭連合への配慮では・・・)。

1980年代頃からカルト教団の問題が深刻化したために、フランスの国民議会は調査委員会を設け、1995年12月に『フランスにおけるセクト』という同委員会が作成した報告書を採択しています。同報告書は、カルト(セクト)と判断する10の基準を示したことでも知られており、その第10番目の基準には、「公権力への浸透の企て」とあります。同報告書、並びに、1999年の報告書において調査対象となったセクト教団のリストには、創価学会、並びに、統一教会の名称も見えます。その後、2000年2月に反セクト法が制定され、カルト教団は公的監視の下に置かれることとなるのです。ヨーロッパでは、フランスの他にもベルギーなどでも同様の対策が行われていると共に、EUレベルでの取り組みも見られます。

公明党の山口代表は、自民党に対して国民の不信感を払拭するように求めていますが、国民の大多数は、世界平和統一家庭連合のみならず、創価学会に対しても強い不信感を抱いています。否、同団体が日本国の公権力に浸透し、憲法に反して政治権力を半ば私物化していると見なしているのです。今般の問題の核心は、霊感商法と言った刑法上の問題ではなく、政治と宗教団体との関係、即ち、政教分離にあるのですから(宗教団体は世界支配ネットワークの一部である可能性も高い・・・)、公明党は、自民党への批判は自らにも向けられたものであることを自覚すべきなのではないでしょうか。そして、国会は、国民の要望に応え、カルト教団を政治から排除すべく、政教分離を徹底する対策と法整備を急ぐべきではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

邪な者に‘正義’の看板を与えてはならない-歴史の教訓

2022年08月23日 12時19分09秒 | その他
 人類の歴史を振り返りますと、‘正義’の名の下で目を背けたくなるような残虐行為が行われていたり、犯罪がまかり通ってしまう事例を多々見出すことができます。そもそも、旧約聖書では、カナンの地を神が与えた‘約束の地’と捉えたユダヤ12支部族は、神が絶対善であることから、自らを‘正義の者’と見なし、策略を巡らして異民族から同地を奪っています。この事例に示されるように、神=正義という構図は、他者の土地の武力による簒奪という侵略行為さえ肯定しかねないのです。神が絶対善であるならば、ユダヤ人のみに侵略や略奪等を容認するはずもなく、これは、旧約聖書最大の矛盾となりましょう(もっともカナンの地が‘約束の地’となった理由として、エルサレムとアブラハムの祖先との間に何らかの歴史的繋がりがあった可能性もある)。

 このように、善性や道徳・倫理の源泉であるはずの宗教が悪行を容認してしまう事例は枚挙にいとまがないのですが、近代に至っても、宗教に限らず、様々な思想やイデオロギーが同様のお墨付きを与える事例が後を絶ちません。例えば、‘ブルジョア革命’とも称されたフランス革命では、自由、平等、博愛という、何れも否定しがたい普遍的な価値を掲げつつ、反体制派とみなした人々を無慈悲にも虐殺してしまいました。また、‘プロレタリア革命’として体制を転覆させたロシア革命でも、共産主義の‘正義’をもって虐殺と破壊を正当化しています。中国を含む共産主義諸国では、‘正義’を独占した共産党が今なおも反体制派の人々を弾圧し続けると共に、国民の生殺与奪の権を握っているのです。否、もはや、これらの諸国では、‘正義Justice’とは何か、という根本的な問いかけさえ、なされてはならないのかもしれません。

 ‘正義’を唱える者に対して、無条件、あるいは、思考停止状態となって不正行為や犯罪行為を認めるのは、人類の悪しき旧弊と言えましょう。今日なおもこの問題は燻っており、新興宗教団体や政治思想集団の存在についても、改めて‘正義’との関係からその存在意義を疑うべきかもしれません。例えば、平和統一家庭連合(統一教会)はキリスト教団体を名乗り、創価学会も日蓮宗から破門・分離した仏教系の教団であり、新興宗教団体の多くは、伝統宗教の正義や神聖性を借りることで自らの悪行を正当化しています(売国行為も平然と行ってしまう・・・)。また、新興宗教団体の教祖達は、世俗の欲にまみれた人物も多く、霊感商法、並びに、信者の多額献金やお布施の社会問題化も、これらの教団が拝金主義に堕している証かもしれません。パーソナリティーとしてのカリスマ性は、人格としての善良さや純粋な人柄を保障してはいないのです。しかも、宗教という‘衣’は、これらの悪行を上手に誤魔化しますので、世界支配を目論む超国家権力体にとっては好都合な道具ともなりましょう(神や仏を自らの欲望達成のために悪用するのですから、神罰や仏罰があたるのでは・・・)。

 そして、国際主義やグローバリズム、さらには、脱炭素、デジタル化やSDGsといった未来志向の’思想’にも注意を要しましょう(パトリオティズムやナショナリズムも、悪用されれば偽旗作戦に・・・)。これらの言葉もまた、今日にあっては、‘正しさ’に関する深い考察もなく‘正義’とされるからです。脱炭素が錦の御旗となれば、緑豊かな森林やそれに付随する生態系の破壊も許されてしまいますし、デジタル化を持ち出せば、プライバシーの侵害や情報漏洩のリスクも‘気にしてはならないもの’とされます。アメリカ大統領選挙における不正選挙問題は、民主的選挙における投票や開票システムのデジタル化が悪用された最たる事例かもしれません。民間企業の投資判断や評価基準もあっても、国連が推進しているSDGs(ESG投資・・・)一色となっている今日の現状は、世界支配の陰が疑われるだけに、どこか疑わしさがあります。事例を挙げればきりがないのですが、WHOの主要な出資者がビル&メリンダ財団であり、かつ、テドロス事務総長が中国の‘代理人’として批判されている現実も(中国ではなく、本当は超国家権力体の代理人?)、同組織が、人類の生命や健康を守るという正義を掲げながら、その実、真逆となりかねないリスクを示していると言えましょう(ワクチン接種奨励の真の狙いとは?)。

 以上に‘正義’というものが悪用されるリスクについて述べてきました。歴史的事例の多様性からしますと、‘正義’という言葉は、それぞれのケースに合わせて神聖性、正当性、合理性といった言葉に読み換えるべきかもしれません。何れにしましても、宗教的な教義のみならず、平和、自由、平等、人権、環境など、それがたとえ人類普遍の価値とされるものであったとしても、これらを絶対的な‘正義’として掲げる人物や組織に対しては、冷静なる警戒が必要です。とくに、邪悪な心を持つ者、荒くれ者、利己的で強欲な者に‘正義’の看板を掲げることを許しますと、悪しき暴力的な行為や詐欺的な行為の免罪符となりかねないからです。‘正義’をかざせば何でもできるならば、罪のない人々に対する情け容赦ない迫害や残虐行為がまかり通ることになりましょう。‘邪な者に‘正義’という看板を与えてはならない‘、これこそ決して繰り返してはならない、人類が歴史から学んだ教訓なのではないではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自民党憲法改正案」は上部からのミッションであったのでは?

2022年08月22日 13時29分15秒 | 国際政治
 平成24(2012)年4月27日に公表された「自民党憲法改正案」を読みますと、政教分離の原則の骨抜きによるカルト化に加え、憲法第9条の改正並びに緊急事態条項の新設により、現行の日本国憲法が定める民主的国家体制が全体主義的な独裁体制へと移行してしまうリスクを読み取ることができます。必ずしもこの‘悪い予感’が的中するわけではないのですが、改正案に内在するリスクを認識しておくことは、危険回避のためにも必要なことです。それでは、何故、自民党は、かくも疑わしい「自民党憲法改正案」を作成したのでしょうか。ここから先は大胆な推理となりますので、どうぞ、鵜呑みにはしないでください。

 同草案が作成された平成24(2012)年4月は民主党の野田政権期にあたり、自民党が下野していた時期となります。野党時代であったからこそ、「自民党憲法改正案」を纏める作業に費やす時間も余裕もあったのかもしれません。しかしながら、自民党は、結党から今日に至るまで、積極的に自主憲法の制定を訴えてきたのですから、2012年に至って突然に全文改正の草案を発表するのも不自然な感はあります。これまで党内で温めてきた案を公にしたのかもしれないのですが、その一方で、同時期であったからこそ、憲法改正を進める必要があったとも推測されます。

 それでは、同必要性とは、一体、誰の視点からの必要性なのでしょうか。もちろん、目を見張るような中国の軍事大国化を前にして、日本国が、防衛力強化の必要性に迫れていることは確かなことです。2010年には中国が国防動員法を制定しており、当時、中国は、習近平国家主席の旗振りの下で‘戦争のできる国’へと脇目も振らずに邁進していました。こうした中国の軍拡の動きからしますと、憲法改正の必要性を強く意識するようになったのは日本国となりましょう。しかしながら、仮に、近代にあって世界大戦を背後から操り、戦争利権によって巨万の富を築いてきた超国家権力体が存在していると仮定しますとどうでしょうか。‘陰のシナリオ’、あるいは、‘隠された工程表’の存在もあり得ないわけではありません。

 しばしば超国家権力体の存在は陰謀論、あるいは、ディープ・ステート論として揶揄されてきましたが、今日の国際社会を見ますと、陰謀の実在性は強まるばかりです。ワクチン接種率が世界最高レベルの国が感染率においても世界一となっている現状を見れば、陰謀、あるいは、全人類、とりわけアジア系に対してワクチン接種を推進したい超国家権力体の策略を疑わざるを得ません(ワクチン接種率が特に高い国は、日本、台湾、中国、韓国など・・・)。そして、戦争が同権力体の富の源泉の一つであるならば(戦争の他には麻薬、移民、オリンピックなど・・・)、全世界に紛争の種を蒔いておくことは、同権力体の利益に叶っています。不透明感が漂っているウクライナ紛争も、ウクライナがユダヤ系を中心とした同権力体の重要拠点であるだけに、予めシナリオが準備されていたのかもしれません。

 そして、共産党を‘細胞’として全世界にばらまき、裏で糸を引いてロシア革命を起こしたぐらいですから、中国の権力中枢部にも同権力体のメンバーは巣くっているものと推測されます。戦時体制の構築を兼ねて習近平独裁体制をバックアップしてきたのも、同権力体なのでしょう。その一方で、台湾侵攻であれ、尖閣諸島に対する直接的な対日軍事行動であれ、アジアにおけるシナリオの一つとして米中開戦を予定しているのであれば、日本国側にあっても戦争を準備させる‘必要性’があります。この推測が正しければ、「自民党憲法改正案」を公表し、憲法改正を実現する‘必要性’は、超国家権力体の側にあると言うことになりましょう。

 超国家権力体にとりまして、非民主的な独裁体制が望ましいのは言うまでもありません。今日の民主主義国家を含め、全ての諸国に独裁者として自らの‘代官’を配置すれば、同勢力による世界支配体制は整います。自らの命令や指令をこれらの‘代官’、いな、‘悪代官’に伝達する、あるいは、シナリオを配布して演技させれば、思いのままに人類を騙して世界を操ることも夢ではないのです。

 民主党政権は短命に終わり、「自民党憲法改正案」の公表から八ヶ月後の2012月12月26日には第二次安倍内閣が発足しています。このタイミングからしますと、同改正案は、自民党が政権与党に復帰するために超国家権力体が示した‘条件’、あるいは、実現が課せられた‘ミッション’であったのかもしれません。平和統一家庭連合(元統一教会)が日本国をコントロールのための同権力体の出先機関の一つであるならば、安部元首相を含め、同草案の作成に携わった自民党政治家の多くに統一教会との関連性が指摘される理由も自ずと分かってくるのです。
 
 果たして、この「自民党憲法改正案」を超国家権力体からのミッションとする推測、当たっているのでしょうか。それとも、私は、‘迷探偵’なのでしょうか。自民党が、口先だけで平和統一家庭連合(元統一教会)との関係を断絶できないのも、教団の背後に控えている権力体との繋がりが強いからであるのかもしれません。仮に、たとえ日本国民から批判を浴びて同教団が壊滅したとしても、それは‘トカゲの尻尾切り’となりましょう(創価学会は温存される?)。日本国政府が‘代官所’に過ぎないのであるならば、今日、日本国民は、戦後最大の危機に直面しているのではないかと危惧するのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緊急事態では国会の'ブレーキ機能'も期待できない

2022年08月19日 13時37分29秒 | 統治制度論
 緊急事態条項に伴う首相への権限集中による独裁化、並びに、これとセットとなる国民の基本的な自由や権利の制限に関する懸念については、国会が制御機能を果たすとして問題視しない意見も聞かれます。同見解が主張するように、「自民党憲法改正案」の第98条並びに第99条には、国会の関与を定める幾つかの条文を確かに見出すことができます。しかしながら、国会に期待されている制御機能は、無力化してしまう可能性が高いのではないでしょうか。

 憲法改正案に記されている国会の関与とは、第一に、内閣総理大臣の緊急事態の宣言に際して、事前または事後において国会の承認を得なければならないというものです(第98条2項)。第二に、国会の事前または事後的承認を得られなかった場合、あるいは、国会が事態の推移によりもはや同宣言を必要としないとする決議した場合には、内閣総理大臣は同宣言を解除しなければなりません(第98条3項前段)。また、緊急事態宣言が100日を越えて継続される場合には、100日を越えるごとに国会の承認を得なければならないとしています(第98条3項後段)。加えて第三に、内閣総理大臣が制定する政令並びに処分についても、国家の事後承認を要します(第99条2項)。

 このように、幾重にも国会によるチェックがあり、かつ、緊急事態宣言を停止させる権限まで認められているのですから、多くの国民も、国会が担う首相の暴走に歯止めをかける安全装置が付けられているのを見て安心するかもしれません。首相独裁体制化は杞憂に過ぎないと・・・。ところが、この制御機能、第99条4項によって台無しになってしまうのです。同項には、以下の条文があります。

「緊急事態宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。」

この一文、よく読みますと、恐ろしいことが書いてあります。‘衆議院は解散されないものとし’までならばまだしも、その続きとして両議員の任期と選挙期日に関する特例の記述があるからです。つまり、特例を設ければ、衆議院議員4年、参議院議員6年の国会議員の任期を延長することができると解されるのです。緊急事態宣言下では首相に各種の重要権限が集中しますので、同特例も、内閣、否、首相の一存による政令、あるいは、指示として設けられるのでしょう。

この条文を根拠とすれば、緊急事態の宣言と同時に、首相は、国会議員を選出する民主的選挙を休止させることが可能となります。これは、事実上、一時的ではあれ、日本国から民主主義が姿を消すことを意味しましょう。そして、国会議員の側からすれば、緊急事態が続く限り国政選挙は実施されないのですから、自らの議員としての地位は安泰となります。言い換えますと、首相と議員は、緊急事態宣言の長期化において利害を共有することとなるのです。緊急事態宣言が両院の国会議員の地位、名誉、並びに、リッチな生活をも支えるとなりますと、国会に上述したブレーキ機能を期待することは難しくなります。首相と国会議員は、一蓮托生の関係にあるのですから、両者結託して緊急事態の長期化を図るかもしれないのです。

それでも、あくまでも危機的状況に対応するための臨時的な措置なのだから、緊急事態が長期化するはずはない、とする反論もありましょう。しかしながら、過去並びに現在の状況を観察していますと、長期化の懸念は深まるばかりです。かのディストピア小説、『1984年』では、世界を三分割する三つの国の独裁者が、各々戦争の危機を国民に訴えることで軍事独裁体制が維持されています。現実にあっても、かつてのソ連邦にあって全世界を震撼させたスターリンの独裁体制は、戦争終結後も武装解除せずに軍事体制を維持したことに起因していますし、北朝鮮の金王朝独裁体制の永続化の要因も、休戦状態にある朝鮮戦争を背景に常に臨戦態勢が敷かれている点に求めることができます。また、ウクライナ紛争を見ましても戦況は膠着化する兆しがあり、長期化を予測する専門家もおります。否、狡猾な政治家、あるいは、超国家権力体であれば、‘緊急事態’を意図的に長引かせることで、憲法上の緊急事態条項を悪用して、民主主義国家を合法的に独裁体制に移行させようとするかもしれません。

その一方で、震災や水害などの自然災害であれば、国民の多くは、同宣言の継続期間を体験的に予測できますので、長期化のリスクは著しく低下します。緊急事態条項新設の説明に際して、自民党が自党のウェブサイトで震災への備えを強調するのも、国民が独裁体制の永続化リスクに気がつかないための国民意識の誘導なのでしょう。もっとも、自然災害であっても、政府が被災地の混乱を放置したり、復興を意図的に遅らせるような場合には、非常事態宣言が長期化されます。加えて、今般のCOVID19のように変異性が高いウイルス、あるいは、現代の医学を以てしても有効な対策や治療法が存在しない病原体であれば、疫病を根拠とした緊急事態宣言の延長もあり得ましょう。今般の憲法改正に際して、緊急事態宣言条項が特に国民の関心を集めるようになったのも、政府によるロックダウンの強行やワクチン強制接種への不安があったからなのでしょう。

 以上に述べてきましたように、「自民党憲法改正案」には、国会のブレーキ機能への期待も虚しく、日本国が独裁体制へと体制移行してしまうリスクが潜んでいます。自民党は、こうしたリスクを認識した上で、すなわち、意図的に同改正案を作成したのでしょうか。あるいは、そこまで深く憲法案に内在する問題点を精査することなく同案を発表してしまったのでしょうか。この謎については、さらなる洞察と推理が必要なように思うのです(つづく)。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緊急事態条項への尽きない懐疑

2022年08月18日 12時16分24秒 | 日本政治
 憲法改正と申しますと、先ずもって誰の頭にも浮かぶのは、日本国憲法第9条ではないかと思います。同条は、戦争放棄を定める故に日本国憲法の最大の特徴であり、この条文があってこそ、戦後長らく日本国の平和が守られてきたと信じる国民も少なくありません。その一方で、冷静崩壊後の中国の急速な軍事的台頭や北朝鮮の核・ミサイル開発問題は、日本国の安全を脅かしております。日本国を取り巻く国際情勢が著しく変化しているため、国民世論も、憲法改正賛成に大きく傾いてきています。このまま憲法改正の流れが加速し、政治レベルでも改正手続きに入る勢いであったのですが、ここに来て、雲行きが怪しくなってきています。何故ならば、コロナ禍を機に緊急事態条項の新設という、新たな問題が浮上してきたからです。

 ‘新たな問題’とは申しましても、平成24年に公表された「自民党憲法改正案」には、既に緊急事態条項は、第98条並びに第99条(第9章)として書き込まれています。新設されたこれらの条文を読みますと、いささか背筋が寒くなります。何故ならば、これらの緊急事態条項は、政府またはその‘雇い主’である超国家権力体によって濫用、あるいは、悪用されかねない‘隙’に満ちているからです(これらの‘隙’は、敢えて意図的に設けられているのでしょう・・・)。

 なお、自民党は、今般の憲法改正に際して強調している「4つの変えたいこと」の一つに「国会や内閣の緊急事態への対応を強化」を挙げています。現在公開されている自民党のウェブサイトでは、同条項新設の必要性について将来における南海トラフ大地震や首都直下地震への備えとして説明しています。その一方で、「自民党憲法改正案」では、想定される事態として「我が国に対する外部からの攻撃」を一番目に挙げており、地震等の災害時については二番目の「内乱等の社会秩序の混乱」に続いて三番目となります。この順序からしますと、2012年にあって想定されていた緊急事態とは安全保障上の有事であったことが分かるのです。

このことは、10年前と今日では緊急事態に関する認識の比重に順位に変化が生じており、今日にあっては、災害時における同条項の活用が現実味を帯びてきていることを示唆しています。マスメディアも、頻繁に南海トラフ地震の発生が近づいているといった警戒報道を繰り返しています。あるいは、多くの国民が懸念しているように、大地震の想定は国民を納得させるための‘表看板’に過ぎず、真の狙いは、今般のコロナ禍といった疫病の蔓延をも緊急事態に含めることで、ロックダウンの強行やワクチンの強制摂取に憲法上の根拠を与えたいのかもしれません。

いささか回り道をしましたが、憲法改正後に緊急事態の宣言がなされる事態として、安全保障上の有事に加え、自然災害という想定されていることを踏まえ(内乱等については、中国や北朝鮮系の国内居住者による蜂起、あるいは、政府に対する国民の反乱への備え?)、以下に、同条項の危険性について検討してみることにしましょう。

先ずもって確認すべきは、緊急事態宣言が発令されますと、日本国の統治権力は、内閣総理大臣に集中するということです。第99条1項には、「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効果を有する政令を制定できるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」とあります。

この条文からしますと、緊急事態宣言が発せられた場合、国会による立法措置を経ることなく、内閣総理大臣は、内閣に諮りつつも自らの独断で法律を制定し、命令を発することができます。加えて、地方自治体の長は内閣の指示に従う義務が生じますので、地方自治も事実上停止されます。結果として、日本国の統治機構における権力分立が、垂直(中央・地方)・水平(立法・行政)の両レベルで消滅することでしょう(司法の独立性も人事等を介して風前の灯火に・・・)。いわば、首相独裁体制とでも言うべき体制が出現することとなります(有事にあっては、何れの国も戦時体制に移行する・・・)。

こうした集権体制は、国民の側の義務の強化によって完成されます。同条の3項には、「緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体、財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関が発する指示に従わなければならない」とあり、政府の指示に従う国民の義務が定められています。ここに国民の義務が明記されていますので、同体制下では、国家と国民との間に命令と服従という関係が成立するのです。

緊急事態における強制措置については、自国の存亡に関する危機的な状況、即ち、敵国からミサイル攻撃を受けたり、自国に敵軍が上陸するような場合には一定の根拠を認めることはできます。国民を避難誘導したり、攻撃を受けた場合、被弾に際して被害拡大の可能性のある施設などを撤去する必要があるからです。この点、局所的となる自然災害の方が必要性が高いとは言えないかもしれません。否、今般のコロナ禍のように、ロックダウンが経済活動を停止させたり、ワクチンの効果や安全性に疑いがある場合には、政府による強制的な措置は、むしろ国家が自国民の生命、身体、財産を損ねかねないという問題も生じます。

同宣言の発令条件の曖昧性からすれば、首相による恣意的な決定もあり得ますので、首相への権力集中に対する懸念の声が強まるのも当然です。もっとも、こうした批判や懸念に対しては、国会の関与を根拠とした反論もないわけではありません。確かに、緊急事態宣言の発令に際しても、国会による事前・事後の承認等が定められており、内閣に対して国会の制御機能が働くように設計されています。しかしながら、これらの安全装置も、実際に働くのかどうかは怪しい限りなのです(つづく)。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政教分離を‘骨抜き’にする自民党の憲法第20条改正案-カルト国家化への道?

2022年08月17日 11時16分54秒 | 日本政治
 平成24(2012)年に公表された「自民党憲法改正案」を読みますと、天皇の神聖性が失われ、皇族の俗人化も急速に進む時代にありながら、天皇を中心とした‘神の国’の建設を目指しているように思えます。‘神の国’、あるいは、‘神聖国家’と申しますと、国民の多くは、日本国の伝統宗教である神道に基づき、現人神である天皇を国家祭祀の長とする戦前の国家体制を思い浮かべるのでしょう。しかしながら、世界平和統一家庭連合や創価学会等の新興宗教団体による活発な政治活動をからしますと、自民党が改正案で示している方向性は、必ずしも明治憲法下の国家体制への回帰ではないようです。

 それでは、自民党が理想とする国家像にあって、政治と宗教とは、どのような関係となるのでしょうか。「自民党憲法改正案」は、政教分離の原則を定めた現行憲法第20条についても、改正案を記しています。この改正、実のところ、政教分離原則の骨抜き案なのです。何故ならば、現行の憲法第20条に明記されていた「いかなる宗教団体も、・・・政治上の権力を行使してはならない」とする政教分離の核心となる箇所が削除されているからです。即ち、憲法が同草案通りに改正されるとなりますと、特定の宗教団体が政治権力を行使することが憲法上許されることとなり、近代国家の統治上の原則ともされてきた政教分離の原則が日本国から消滅してしまうのです。

 政治の領域を宗教的非合理性から守る防波堤の役割を担ってきた政教分離の原則が失われるのですから、この問題は重大です。国民も危機感をもってより強い関心を寄せるべきなのですが、マスメディアを始め、政治サイドにあっても同改正案については積極的に触れようとはしません。その背景には、‘寝た子を起こすな’と言わんばかりに、国民が睡眠状態にある間に改正案を通してしまいたい同党の思惑が推察されるのです。

宗教であれ、政治的イデオロギーであれ、権威の絶対化や洗脳は、国民を自らに服従させ、強力な支配の手段となるのは、中国や北朝鮮の国家体制を見れば一目瞭然です。神やイデオロギーを持ち出せば、如何なる人物でも権威を纏うことができますし、人々もその言葉に従わざるを得なくなるからです(凡庸な‘おじさん’でも、ひとたび教祖を名乗ると人々がひれ伏す権威となってしまう・・・)。それ故に、権威主義体制における儀式は、国民の心理操作のための舞台装置であり、大げさな演出が施されるのでしょう。

しかも、宗教的権威者の言葉が‘神の言葉’として発せられますと、人々は、世俗の政治問題や政策であっても、自由に議論することが難しくなります。今般、自民党の改正案が実現すれば、国民が民主的選挙によって選んでもいない人物が、宗教団体の長という立場から日本国の政治を左右する光景を目にすることとなりましょう。否、自民党と世界平和統一家庭連合、並びに、公明党と創価学会との関係を見れば、この懸念は、既に現実のものとなっています。公明党は、連立与党の一角として政治権力を行使していながら解散を命じられないのは、違憲訴訟が起こされ、違憲判決が下されていないからに過ぎないからです。図らずも、今般の自民党の改正案は、現憲法下にあって公明党や世界平和統一家庭連合等の活動が違憲であることを示すことにもなったのですが(改憲しなければ合憲性を得られない・・・)、この手法は、悪しき行為を犯罪と認定されないために犯罪リストから外し、同悪質行為を野放しにするようなものです。

人々を内面からも支配したい者の側からすれば、政教分離の原則は自らの目的達成には障害となるのであり、自由や民主主義と並んで取り除きたい原則の一つです。そして、この改正案は、保守政党の立場から自民党が伝統宗教である神道を重んじたいのではなく、公明党や世界平和統一家庭連合、あるいは、超国家権力体からの要請なのでしょう。公的団体による宗教活動の禁止については、社会的儀礼や習俗的行為の範囲を越えなければ許容されるとする一文が加筆されていますが、この基準はいかにも曖昧です。超国家権力体の‘工程表’には、第一段階において新興宗教系の宗教政党を既成事実化し、第二段階においてはこれらを合憲・合法化し(今般の改正案・・・)、最終段階では、これらの新興宗教団体が天皇家に浸透する、あるいは、乗っ取ることで‘神の国’としたいのかもしれません。実際に、‘天皇’という名称だけは継承されつつも、新興宗教団体等からカルト的要素が既に流入し、今日の皇室は、著しく変質した‘別物’となりつつあるようにも見えます。

憲法改正に際しては、自民党は、目下、「4つの変えたいこと」として「「自衛隊」の明記と「自衛の措置」の言及」、「国会や内閣の緊急事態への対応を強化」、「参議院の合区解消、各都道府県から必ず1人以上選出へ」、並びに、「教育環境の充実」の4項目を挙げています。国民の関心もこれらの項目に集まりがちですが、カルト国家への道となる政教分離の原則の骨抜きにつきましても、それが日本国の国家体制や独立性にも関わるだけに、日本国民は十分に警戒すべきではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正案にみるカルト的要素

2022年08月16日 14時34分05秒 | 日本政治
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、日本国の隷従化を公言して憚らない韓国系新興宗教団体である上に、教祖独裁とも言うべき神政政治を目指していただけに、同教団と密接な関係を築いてきた自民党は、目下、保守政党としてのイメージ崩壊という危機に直面しています。しかも、新興宗教団体による政治介入の問題は、連立を組む公明党にも波及しており、政界全体に対する国民の政治不信を決定的なものとしています。国民から湧き上がる真相究明を求める声に対して、自民党は、政治家個人の問題、あるいは、霊感商法や献金などの反社会的活動の問題に矮小化しようとしていますが、同党の弁明の通り、組織全体としての影響は全く受けていないのでしょうか。

 この問題を考えるに当たって、注目されるのは自民党の憲法改正案です。同案は平成24年4月27日に「日本国憲法改正草案」として公表されています。憲法改正に際して、同等は、現行の憲法を下敷きにしながらも全文を書き換えるという方式を採用しており、実際に、自民党の改正箇所は、前文から補足を定める第11章にまで及んでいます。憲法というものは、国家体制そのものを定める最高法規である以上、全文改正とは、それが如何に微少であれ、国家体制の変更という意味合いを持ちます。このことから、自民党案には日本国の国家体制を変えようとする強い‘意思’が窺えるのです。

例えば、改正案の前文にあって「天皇を戴く国家」という表現が見られることに加え、その第一条では、天皇を元首として位置づけています。さらに、第102条では、その第1項で国民の憲法尊重擁護義務を明記する一方、第2項では天皇をその義務の主体から外しています。第102条については、自民党は、「日本国憲法改正案Q&A(増補版)」において「政治的権能を有しない天皇及び摂政に憲法擁護義務を課すことはできない」と説明していますが、憲法は政治的権能のみについて記しているわけではありませんので、同党の説明で納得する国民は多くはないことでしょう。

そして、天皇が‘国民ではない’とすれば(同問題については見解が分かれている・・・)、天皇は、憲法によって憲法を遵守する義務から免除された特別の存在となります。近年、自公連立政権下にあっては、安部元首相の国葬をはじめとして、憲法や法律に根拠がないからこそ、超法規的な決定が行われる事例が目立つようになりましたが、悪しき反対解釈が蔓延れば、憲法を遵守する義務がないのですから、天皇が憲法において禁じられている政治的権能をその権威において行使する可能性も否定はできなくなります。

‘不可侵’な存在として君主を法の枠外に置く形態は、プロシア憲法などかつての立憲君主制の国の憲法にしばしば見られるのですが、自民党の目指す国家像とは、国民から超越した頂点において天皇が君臨する戦前の明治憲法下の体制に逆戻りしているようにも思えます。国体というものが、天皇と日本国とを一体化した国家体制を意味するならば、日本国は、‘天皇の国’ということになりましょう(森元首相も、「日本は天皇中心の神の国」と発言・・・)。

戦前であるならば、あるいは、自民党の国家間に対して賛意を示す国民も少なくなかったかもしれません。神武天皇を初代とする皇統の万世一系が固く信じられ、天皇は、現人神とされていたのですから。しかしながら、今日にあっては、皇統の継続性に関する懐疑論に加え、民間から皇妃を迎えるのが一般化するにつれ、血統における皇族と一般国民との違いは急速に薄らいでいます。天皇については、地位と血統との乖離が生じており、伝統に根ざした国民的な信仰の対象とは言い難くなっているのです。むしろ、メディアの報道ぶりからしますと、北朝鮮をも彷彿させるパーソナル・カルト化が懸念される状況にありましょう。

こうした天皇や皇族を取り巻く今日的な状況に鑑みますと、天皇並びに皇族のパーソナル・カルト化は、世界平和統一家庭連合との接点としても理解することもできます。何と申しましても、同教団の教祖である文鮮明氏は、「日本の天皇と韓国の王とが交差結婚をしなければならない。」「日本の皇室と(文教祖の)孫たちが結婚する時が来て、すべての国の王権の代表者たちと結婚する時代に入る。」とも述べているのですから。

憲法改正を改正することによって自民党が描く日本国の未来像は、世界平和統一家庭連合の文鮮明の子孫による日本国支配というカルト国家構想とそれほどには離れてはいないかもしれません。そして、この両者の近似性は、背後に姿を隠している超国家権力体の世界支配構想においてこそ説明されるように思えるのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岸田政権の防衛費増額方針への懸念-通常兵器では勝てない

2022年08月15日 13時42分42秒 | 日本政治
 本日8月15日は、昭和天皇が玉音放送により連合国が発したポツダム宣言の受け入れを表明した日として人々の記憶に刻まれています。毎年、決まって青い空が広がる蒸し暑い日となるのですが、先の大戦において失われた尊い命への思いから、どこか厳粛な空気に覆われます。鎮魂と平和への祈りの日でもあるものの、今年は、例年といささか様子が違っているように思えます。ウクライナに続き台湾にあっても有事が絵空事ではなくなり、戦争というものが、再びリアルな情景として迫ってきているからです。

先日、岸田文雄首相も、今般の内閣改造にあたり、対中防衛力強化を目的とした防衛費増強の方針を重ねて強調していました。ペロシ米下院議長の訪台を機とした台湾海峡の緊張の高まりを受けた、国際情勢の変化への迅速なる対応として国民にアピールする狙いもあるのでしょう。あるいは、中国脅威論をもって故安部元首相の‘遺志’ともされる憲法改正への追い風としたい思惑もあるのかもしれません。同方針に異を唱えるマスメディアも殆どなく、あたかもシナリオ通りに既定路線を歩いているかのようです。

戦前であれば、政府やマスメディアによる煽りに乗せられて、国民の多くも‘時代の潮流’に抗うこともなく、突然に舞い込んできた‘開戦の報’に狂喜さえしたのでしょう。しかしながら、今日の日本国民の多くは、同大戦が残した歴史の教訓に学んでいますし、かつ、核時代を生きています。岸田政権が誘導する方向に国民が動くかどうかについては、すこぶる疑わしいのです。

そもそも、真珠湾攻撃という奇襲については、当時、イギリスがアメリカの参戦を渇望していた点を考慮しますと、‘嵌められた戦争’という見方も強ち否定はできません。また、国際社会全体が地政学的戦略思考という魔に取り憑かれていた時代でもあり、不要な戦争を、二項対立を経た世界支配の段階的プロセスにおける必然、あるいは、合理的な行為として遂行されていた側面もありました(ヘーゲル哲学の影響?)。戦後は、世界各地において植民地の独立もあり、民族自決(民主主義)、主権平等、内政不干渉等の原則に基づく現代国民国家体系が成立しましたが、戦後にあっても、しばしば世界支配の思惑がグローバルな経済利益と結びついて顔を見せるのです。そして、第三次世界大戦、並びに、核戦争のリスクが現実的な危機として認識される今日もまた、超国家権力体が描くシナリオが発動される危険な局面にあると言えましょう。

 それでは、日本国が得た歴史の教訓と核兵器の存在は、岸田政権の防衛力増強方針にどのような疑問を投げかけているのでしょうか。先ずもって、通常兵器の増強は、仮想敵国が軍事大国、かつ、核保有国である中国である以上、結局、財政上の無駄となるどころか自国に破滅的な被害を招きかねないのではないか、という重大な懸念があります。たとえ、中国が、核兵器の先制不使用の原則を堅持し、双方が通常兵器のみで戦う場合、戦場となるのは日本国となる公算は極めて高いと言わざるを得ません。台湾をめぐり米中開戦となった場合でも、中国は、米軍基地が置かれている日本国に対して攻撃を仕掛けるでしょうし、尖閣諸島に対する人民解放軍による直接的に軍事侵攻が発端となって日中戦争に至る場合にあっても、主たる攻撃の対象は日本国となりましょう。そして、先の戦争にあって、仮に原爆投下がなければ本土決戦となり、一億玉砕を覚悟しなければならなかったように、今日の対中戦争でも、通常兵器による攻撃は日本国を焼き尽くかもしれません。ロシアの軍事介入によって占領されているウクライナ東部は、主戦場となったために破壊し尽くされ、廃墟と化しているとも報じられています。

 また、本ブログで再三指摘しているように、一方が核保有国であり、かつ、もう一方が非核保有国である場合には、戦う前から戦争の結果は分かっています。核兵器の使用が勝敗の決定要因となる点も、第二次世界大戦の経験を得た教訓です。先の大戦では、日本国側が著しい劣勢にある状態での米軍による使用でしたが、日本国も、起死回生を期して原子爆弾の開発に取り組んでいました。核兵器を前にしては通常兵器における闘いは無に等しく、非核保有国にとりまして核の非対称性は越えることができない限界を意味するのです。

 もっとも、日本国は、日米同盟の下でアメリカから核の傘の提供を受けていますので、アメリカが日本国を見捨てない限り、上記の懸念は杞憂に過ぎないと言うことになります。しかしながら、自国が中国から核攻撃を受けるリスクを覚悟しつつ、日本国のために核のボタンを押すとは考えられず、上記の懸念は現実のものとなる可能性は決して低くはありません。アメリカが同盟国を信頼していれば、日本国が核を独自に保有することには抑止力を増強こそすれ何らの問題もなく、むしろ、肩の荷が降りるはずです(日米間にも核の相互抑止が働きますし、今日にあって、原爆投下の復讐のためにアメリカに対して核攻撃すべきと考える日本人は殆ど皆無では・・・)。

 合理性に徹して予測すれば、岸田政権による防衛力増強の具体的な内容には、核保有が含まれる必要がありましょう。通常兵器だけを増強しても、核という強力な後ろ盾がなければ、防衛力のみならず、抑止力としての効果も自ずと限られてしまいます。また、アメリカとの核シェアリングではなく、核の単独保有でなければ、核の非対称性に陥るリスクから逃れることができません。NPTにあっても合法的に脱退できますので、日本国は、独自に核武装をし得る状況下にあります。それにも拘わらず、岸田政権が、非核化の路線に固執し、核武装を政策オプションから外すのであれば、日本国民の多くが薄々気付いているように、岸田内閣が、超国家権力体の傀儡政権である可能性は俄然高まりましょう。先の戦争における悲劇を繰り返さないためには、国民こそ、“時代の潮流”なるものに迂闊に流されることなく、知恵を絞って罠から逃れる術を探るべきではないかと思うのです。そして、この問題は、‘世界大戦’並びに‘世界支配’と不可分に結びついているだけに、日本国のみの問題ではないのかもしれません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岸田内閣改造を三次元構造論から見ると-深まる世界支配?

2022年08月12日 12時05分46秒 | 国際政治
 安部元首相の暗殺事件は、山上容疑者が供述した動機が世界平和統一家庭連合(元統一教会)に対する恨みであったことから、同教団との癒着問題が、元首相に留まらず自民党全体に波及することとなりました。今般の岸田内閣改造も、国民からの批判をかわすための措置とされており、同首相も、組閣に際して‘統一教会外し’を行ったと説明しています。ところが、岸田改造内閣の顔ぶれをみますと、事態はむしろ悪化しているのではないかと疑わざるを得ないのです。

 当初より、今般の内閣改造が‘とかげのしっぽ切り’となることは予測されていたのですが、新たに任命された閣僚には、世界平和統一家庭連合との関係が指摘されていた政治家が多数含まれています。教団との関係が判明している7人の閣僚を交代したものの、改造内閣では、山際経済再生担当相、加藤勝信厚労相、寺田稔法相、西村明宏環境相、岡田直樹地方創生兼沖縄北方担当相など、既に7人の教団関係者が見出されているのですから。同教団との関係から職を解かれた萩生田光一経産相も自民党の政調会長に起用されています。新内閣ナンバー2とされる高市早苗経済安保相にも同教団系雑誌のインタビュー記事に登場した過去があり、濃厚な疑いがあるのですが、自民党の保守系議員を主要メンバーとする「日本会議」そのものも同教団と同系列との指摘もあります。

 それでは、何故、自民党、あるいは、自公政権は、世界平和統一家庭連合と絶縁することができないのでしょうか。仮に同教団が、数ある新興宗教団体の一つに過ぎないのであれば、あっさりと縁を切ることができたはずです。自民党に対する国民の信頼を根底から崩壊させるリスクをとってまで、同教団との関係を温存させるとは考えられないからです。このことは、それほどまでに同教団の‘パワー’が日本国の政治に浸透していることを示しているのですが、この常識では考えられない現象は、三次元構造から見ますと、案外、すんなりと説明できるように思えます。

 三次元構造論とは、国際社会を国家間関係から成る平面的な二次元世界としてのみ見るのではなく、国家を越える私的な超国家権力体の存在を仮定して三次元的に理解しようとするものです。超国家権力体の存在は作業仮説と言うことになるのですが、同権力体の最終目的は世界支配にありますので、まずもって、全世界において構築されている支配装置のからくりを推理し、現実と照らし合わせながら解明することが重要な作業となります。

 この視点からしますと、超国家権力体は、日本国を自らの支配体制に組み込むために、先ずもって、新興宗教団体や左翼活動団体を含む政治団体など、自らの息のかかった様々な組織を設立すると共に、皇室を含め、政党、官僚組織、企業、学校、伝統宗教法人などの既存の組織をその権力、並びに、権威もろとも乗っ取るという作戦を展開しているものと推測されます。これらの組織の末端のメンバーは、気がつかぬうちに超国家権力体の‘駒’や‘手下’として使われてしまうケースも少なくないことでしょう。

また、愛国心は、同権力体にとりましては世界支配の障害となりますので、できれば自らの縁者や海外に出自を遡る人物を上部に配置するか、あるいは、保守を装おり、国民の愛国心を煽りつつ、それを自らの目的のために利用する必要があります。戦争を遂行するためには、国民の自発的な愛国心の高揚も不可欠であるからです。自民党、世界平和統一家庭連合、日本会議、公明党との奇妙な連携はこの目的から理解されますし、その背後に、アメリカのCIAが韓国のKCIAが蠢いており、そのさらに深部には、同権力体がしっかりと手綱を握っているのでしょう。極右と称される政治団体が、必ずしも国民国家の枠組みに拘らず、超国家主義と称される理由も、その実態が超国家権力体の下部組織であるからなのかもしれません。こうした視点から見れば、岸田首相による防衛力増強の方針も、日本国民に対する戦争誘導策の一環であるとも推測されます。

そして、行政のデジタル化も国境を越えた世界の一元的な支配の強力な道具となりますので、早急に進める必要性を同権力体は感じているはずです。グローバルに接続したネットワークを用いれば国民の個人情報を含むあらゆる政府の情報を収集できますし、情報統制も思いのままとなります。ワクチンリスクの全否定から‘デマ太郎’という異名をとった河野太郎氏がデジタル相に起用されたのも、国民からの如何なる批判や反対をも押し切る‘突破力’が期待されているからなのでしょう。ITやAIといった現代的なテクノロジーが活用されつつも、超国家権力体の支配の手法は、皇帝に権力を集中させる一方で、広域的な官僚制(現代のグローバル・デジタル・ネットワーク・・・)を敷いた古来の帝国とさして変わりはないようです。

三次元構造論からしますと、岸田改造内閣は、超国家権力体による世界支配を強化するための布陣としての側面が浮かび上がってくるように思えます。経済を見ましても、円安の流れは、輸入インフレによる物価高のみならず、割安感から日本の資産が安値で外資に買い取られる事態を招いています。また、今日、中国の手先と揶揄され、かのビル&メリンダ財団が‘大株主’となっているWHOが日本国内に支部を設置することに、岸田首相が独断で同意したとする報道もありました。三次元構造論は単なる仮説なのでしょうか、それとも、現実を説明するのでしょうか。仮にそれが現実であるならば、今や、日本国の国家の命運、並びに、国民の命に関わる重大な危機が迫っているのではないかと思うのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国葬が問う国家と政治家個人との関係

2022年08月11日 12時33分04秒 | 日本政治
 安部元総理の国葬問題は、法律上の議論に加え、国葬というものについて改めて考えてみる機会を与えているように思えます。国葬とは、その名の通り、国家が主催して葬儀を執り行う葬儀の形態を意味します。

国家とは異なり、人は生物である限り誰もが死を迎えますので、葬儀とは、本来、特定の人物の死に関わる私的な事柄です。ところが、国葬のみならず、しばしば、葬儀というものが公的に行われる場合があります。今日では減少傾向にありますが、例えば日本国では、社葬や学校葬といった、故人が所属していた組織が執り行う形態もありました。在任中ではなく退職後であっても、幹部職に就任した経歴を有する人が死去した場合には、組織が葬儀を挙げるのが慣例となっていたのです。‘組織葬’はごく一般的な出来事として身近に見られたことから、国葬という形態に対しても疑問に感じる人はそう多くはないのかもしれません。こうした葬儀の形態は、亡き人を悼むと言うよりは、これまでの仕事や業績に対する組織としての感謝の気持ちが込められているのでしょう。もっとも、‘組織葬’、特に、政治家の国葬については、今日、およそ3つの側面から曲がり角に来ているようにも思えます。

第一に、今日の民主的な統治制度にあっては、政治家とは、選挙による当選を経て就任し、法によって定められた任期の間のみ職務に当たる短期的な職業です。‘誰もが政治家になり得る’という民主主義の建前からすれば、落選や立候補の見送りなどによって議席を失えば、如何なる政治家も‘ただの人’となるのです。今日、政党という存在が、政治家という職を‘終身雇用化’しているのですが、制度としては選挙ごとのにポストの就任する人物が入れ替わることを想定しています。企業における社葬という形態の減少は、終身雇用制の揺らぎと無縁ではないのでしょう。

もっとも、民主主義国家であっても、大統領を務めた人物を国葬としてきたアメリカ等の事例を挙げて、日本国の首相の国葬を支持する反論もあるかもしれません。しかしながら、日本国は議院内閣制の国ですので、首相と国民との間にあって直接的な責任・信託関係が成り立っていません。国民は、普通選挙によって国会議員を選んではいても、実質的に首相を選んでいるのは政党です。この現実からすれば、元首相の葬儀は、国葬よりも党葬が望ましいと言えましょう。

それでは、議院内閣制における首相であっても、飛び抜けて国家に対する貢献度が高い人物であれば、国葬とすべきなのでしょうか。第二の側面として、政治家の国家に対する貢献度に関する評価が極めて難しい点を挙げることができます。政治的自由が保障されている民主主義国家では、政治家に対する国民の評価基準はまちまちであり、同一の人物であっても、国民の評価が分かれることも珍しくありません。

安倍元首相のケースでも、その経済政策であるアベノミクスに対しては、新自由主義に大きく傾斜したことから、左派のみならず保守層からも厳しい批判がありました。ましてや、安部元首相と元統一教会との関係が明るみに出たことにより、日本国を守る保守派の旗手としてのイメージも損なわれています。マスメディアの多くは、元統一教会の信者に対する多額寄付体質や霊感商法と言った反社会的な活動に焦点を当てて報じていますが、最大の問題点は、同新興宗教団体が、反国家、即ち、日本国の支配をもくろむ反日本国的な体質の組織であったことにありましょう。このため、元安倍首相が日本国という国家とその国民に貢献したのかと申しますと、大きな疑問符が付いてしまうのです。

また、貢献度という尺度ではなく、政権の時間的な長さを判断基準とするにしても、理由の後付けのような観は拭えません。安部元首相が銃弾に倒れなければ、国葬はあり得なかったことでしょう。また、長期政権化に価値があるならば、独裁化を肯定的に評価する前例ともなる懸念もありましょう(長ければよいというものでもない・・・)。また、岸田首相は‘世界’からの高い評価を国葬の理由として強調していますが、内外の評価が逆となる場合もあります。むしろ、海外からの賞賛される指導者の真の姿が、海外勢力の手先であるケースもあるのですから。なお、国民の誰もが納得する国葬とは、おそらく、戦争や公務の遂行に際して自らの命を捧げ、殉職された方々なのでしょう。しかしながら、元統一教会がらみの事件ですので、安部元首相は殉職でもないのです(海外勢力による暗殺であっても、その理由が判明しない限り、殉職とは判断できない・・・)。

第三の側面は、組織と個人との未分化です。かつて日本国の企業は、‘村社会’であると評されてきました。家族的なアットホームな関係であればプラス面となるのでしょうが、組織内における上司・部下の関係が私的な領域にまで及び、休日でも上司の私用のために駆り出されることもあったのです。終身雇用制が揺らぎつつある今日、組織内における関係性はよりドライとなり、職場と私的領域とを分ける傾向が強まっています。 ‘人生百年’とも言われるように寿命が伸びたこともあって、一端、組織から離れますと残りの人生は、個人として生きることとなるのです。

‘君主’などといった終身制の地位であれば、国葬は、当然のこととして国民に受け入れられるのかもしれません(もっとも今日では、君主であっても、国家との一体性が著しく希薄化している・・・)。しかしながら、安部元首相の場合、衆議院議員という公的な職にはありましたが、既に首相職からは離れています。首相を務めたという経歴が、どれほど日本国という国家と政治家個人の‘一体性’の根拠となるのか、疑問と言わざるを得ないのです(首相経験者を基準とすれば、反日政策を遂行した村山元首相や鳩山元首相も‘国家的な存在’に・・・)。

以上に主要な論点として三点ほど挙げてみましたが、国葬という葬儀の形態につきましては、今日的な視点から再考してみる必要があるように思えます。安部元首相の歴史的な評価が定まるのは、隠されてきたあらゆる事実が明らかにされた後となるのでしょうが、少なくとも、国葬を当然のこととして捉えてはならないように思えるのです。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする