万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

政府による‘タブー化’の問題

2023年02月28日 11時12分06秒 | 社会
 現代という時代は、情報化時代とも称されています。インターネットやIT等の普及により、人々の活動空間や生活空間はデジタル情報で溢れています。情報量が爆発的に増え、人々が様々な情報を入手しやすくなる一方で、昨今、新たな問題が持ち上がることともなりました。

 大手メディアの情報とネット情報が異なる場合でも、それが、両者とも民間の範囲に留まっているのであれば、たとえ内容が真逆であったとしても、それぞれ根拠や証拠を示して自らの正しさを主張することができます。大手側が有利ではあるのでしょうが、それでも、多くの人々が自発的に検証作業に参加したことで、虚実が判明することもあります。しかしながら、政府といった権力や権威が関わりますと、どうでしょうか。これらによる介入や圧力がありますと、公開性や客観的な検証性は著しく損なわれます。ここに、情報の問題は、情報統制という政治問題へと行き着くことになります。

 古今東西を問わず、為政者の多くは、情報統制や管理を支配の手段としてきました。権力や権威を保持するためには、国民に対して自らに関するマイナス情報を伏せておく必要があるからです。何れの国であれ、国民からの批判や民心の離反、そして忠誠心の消滅は、為政者の地位を危うくするのです。このため、情報統制が効果的な支配の手段となるには、国民の心理にまで及ぶ強い圧迫をかける必要がありました。つまり、為政者への批判を、社会全体を覆うタブーとしてしまえば、権力や権威は安泰であったのです。悪しき為政者であればあるほど、国民の間に自己規制の空気を醸し出すタブー化を渇望したことでしょう。

一方、今日の民主主義体制の国家では、言論や出版等を含む表現の自由が保障されていますので、原則としては、どのような情報であっても一先ずは公開することができます。しかしながら、多かれ少なかれ、タブーなるものが存在する国は少なくありません。タブーの問題は、アメリカでは、ポリティカル・コレクトネスとして表出していますし、日本国でも、タブーとして幾つかの‘カーテン’、例えば、‘菊のカーテン’、‘鶴のカーテン’、‘桜のカーテン’等があるとされています。いずれのカーテンもが、政治性を帯びたタブーです。

こうした定番の‘タブー’のみならず、昨今の状況を見ておりますと、政府によるタブー化のケースが相次いでおり、国民を誤った判断に導いている事例が後を絶たないように思われます。特に、ワクチン問題はその最たる事例であり、極めて強い政治的圧力が社会全体にかかったことは、多くの人々が感じたことではなかったかと思います。政府のみならず、国民全体に同調圧力が働くように、マスメディアのみならず新興宗教団体を含むあらゆる下部組織が総動員された観もありました。ワクチンリスクについては、政府からの嫌がらせや周囲からのハラスメントにより、初期段階で認識していた専門家でさえ口に出すことが難しく、たとえ指摘したとしても信じるに足りない陰謀論として片付けられてしまう状況が続いてきたのです。政府は、リスク情報を隠蔽するのみならず、リスクの指摘をタブー化することにより、国民全体に思考停止の魔術をかけようとしたのでしょう。恐怖心を利用するのですから、タブー化とは、恐怖政治の手段の一つとも言えます。

現代のタブーなるものも‘政府主導’あるいは‘官製’であるならば、そのタブーは、今も昔と同じく、権力や権威のマイナス情報、即ち、悪しき面を隠すために造られたのでしょう(悪事の隠れ蓑・・・)。マイナス情報が存在しなければ、そもそもタブーを設ける必要などないのですから。このような政治的なタブーは、定番のものであれ、政策的な意図によるものであれ、ないほうが善いに決まっております。否、ワクチン問題のように、政府によるタブー化こそ、無辜の国民の多くに被害が及ぶ事態を招いていた元凶とも言えましょう。

情報は、人々が判断や評価を行なうに際しての基礎的な材料であり、かつ、民主主義国家では議論の共通の土台ともなります。情報の重要性に鑑みればこそ、できる限り事実に即した正確なものであるべきですし、とりわけ公的な情報は原則として全て隠さずに公開されるべきです。国民をリスクに晒すタブー化が二度と起きないようにするためには、法律によって政府に対する情報公開の義務づけを強化すると共に、現状にあっても、政府によるリスク情報の隠蔽は、政府の怠慢行為に対する行政訴訟として裁判所に提訴するという方法もあるように思うのです。

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善い利他主義と悪い利他主義-ジャック・アタリ氏の利他主義論への懐疑

2023年02月27日 11時37分22秒 | 社会
フランスの著名知識人であるジャック・アタリ氏は、かねてより未来の人類社会に向けた目標として利他主義を提唱しております。利己主義から利他主義への転換こそ、来るべき未来のあるべき人類社会の姿であると訴えているのです。しかしながら、利他主義の薦めには、細心の注意を払うべきかもしれません。

 利他主義という言葉を耳にして、不快に感じる人は殆どいないことでしょう。この言葉は、自己の利益のためには他者の利益を犠牲にしても厭わない利己主義の反対語として常々用いられており、利己主義=悪、利他主義=善という認識が凡そ固定概念として定着しています。このため、アタリ氏が利他主義を唱える時、それは、善意からの発言と凡そ受けとめられることでしょう。

 利他主義の提唱は、ここ数年来の同氏の持論であったようなのですが、昨今の同氏の発言を聞いておりますと、利他主義も、その使いようによりましては、他害的な結果をもたらすように思えてきました。否、政治的に見ますと、全体主義に利用されてしまうリスクも見えてくるのです。何故、このように考えるに至ったかと申しますと、2月14日付けでAERAdot.で掲載された「“世界屈指の知識人”ジャック・アタリが指摘するパンデミックの原因と、未来のキーワード「利他主義」と「命の経済」」と題する記事を目にしたからです。

 同記事において、アタリ氏、地球温暖化問題やコロナワクチン接種を引き合いに出しながら、利他主義に言及しています。新型コロナウイルスによるパンデミックが発生した時点で「今は利己主義と利他主義の戦いだ」という記事を執筆したとする同氏は、他者のためにワクチンを接種する行為を利他主義が広く理解されてきた証しとしています。「ワクチンを接種することで他人を保護することに、私たちが関心を持っていること、つまり利他主義の重要性を理解していることが示されました。」として。

 一読する限りでは問題はないように思えるのですが、よく読みますと、この発言には、利他主義のレトリックが巧妙に隠されているように思えます。何故ならば、他者のためにワクチンを接種することが利他主義のあるべき姿であるならば、全員がワクチンを接種すべきであり、接種しない人は、利己的な人、即ち、悪人と言うことになるからです。この論法は、同調圧力の最強の根拠となり得ます。そして、ここに重大な問題が持ち上がるように思えます。

 ワクチン接種が誰に対しても無害であり、利益となるならば、何らの問題もないのでしょう。例えば、‘殺人をしてはいけない’、‘窃盗をしてはいけない’、‘他害的な嘘をついてはいけない’といった行動規範であれば、全員がこの規範を誠実かつ厳格に遵守すれば社会の安全性は格段に高まり、皆が安心して生きる社会が実現します。ところが、全てが有害行為の禁止のように全員に利益が及ぶケースばかりではありません。利他的な行為として推奨された行為において、自害性や他害性が含まれる場合には、利他的行為は、いとも簡単に自害行為や他害行為へと反転してしまうのです。現実に、人口削減計画説が信憑性を帯びるほど、コロナワクチンによる健康被害は、日本国内を含めて先進国を中心に世界レベルで広がっています。利他的精神からワクチンを接種に協力した人々がワクチンの犠牲となりながらも、‘全体を救うためには致し方ない犠牲’と嘯く冷たい声も聞かれるのです。

 また、アタリ氏は、「利己的な利他主義」とも述べており、他者の利益に資する行為は自らを護るための行為でもあるとする見解も示しています。「情けは人のためならず」という諺もあるように、善行を説く古今東西の格言や道徳律にも通じるこの見解は、確かに利他主義の利己な一面を説明しています。しかしながら、この見解も、無害な行為のみに当てはまります。自害性や他害性が含まれるケースでは、‘自分のため’にも‘人のため’にもならないかもしれないのです(ワクチン接種により、他者に対するシェディングも起きるとする指摘も・・・)。

 利他主義の名の下で善意でワクチンを接種した人々は、たとえ被害を被ったとしても自己責任となりますし、同調圧力をかけた周囲の人々も、リスクについて知らない状態であれば、利己的行為を戒めるために接種を薦めたことになります。何れもが、自覚のないままに、被害者あるいは加害者となってしまうのです。

被害者も加害者も善意であり、責任の所在は曖昧になりがちなのですが、実のところ、責任の所在を明らかにすることは、それ程、難しいことではありません。こうしたケースでは、全責任は、政府や世界権力をはじめ、コロナワクチンの接種を利他的行為=絶対善として国民に対して宣伝した人々にあると言わざるを得ないからです(二重思考の手法としての価値の先取りであれば、ワクチン接種=利他的行為=善という構図を最初に作ってしまう・・・)。

 そして、仮に、利他主義をもってワクチン接種を薦めた人々が、同ワクチンのリスクを予め知っていたとすれば、利他主義とは、接種を薦めた側の究極の利己主義と言うことになりましょう。自らの目的を達成するためには、‘他者’であれば全員が被害を被っても構わないと考えたことになるのですから(高齢者集団自決発言にも同様の思考が・・・)。利他的行為を自分自身ではなく他者に薦める人は、恐るべき自己中心主義者かもしれません。

この利他主義の狡猾な悪用の側面は、ワクチン接種のみならず、地球温暖化問題などにも共通しているのかもしれません。そして、全体主義体制とは、まさしく利他主義の美名の元で国民を最低のレベルまで引き下げ、自己を捨てさせた上で画一化する体制とする見方も成り立つように思えます。利他主義には、それが利己主義者に悪用されますと合法的な国民抹殺や弾圧の口実となりかねないリスクがあるのですから、善い利己主義と悪い利己主義を賢く見定める必要があるように思うのです。

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日本国のウクライナ支援1兆円を考える

2023年02月24日 10時30分19秒 | 国際政治
 日本国の岸田文雄首相は、東京都内で開かれたシンポジウムにおいて、ウクライナに対する7370億円の追加財政支援を公表したと報じられております。これまでの拠出額の凡そ1950億円を合わせますと、1兆円に迫る額となります。融資ではなく無償提供となりますと、財政支援は、ウクライナの戦費を日本国民が負担することを意味します。中国や北朝鮮の軍事的脅威が高まる中、ウクライナへの財政支援は妥当な政策判断なのでしょうか。

 日本国は、ウクライナとの間に軍事同盟を締結しているわけではありません。また、今般、国連総会においてロシアに対する無条件撤退決議が採択されましたが、仮に、ロシアを国際法上の侵略国家とする立場を採るならば(もっとも、安保理ではロシアの拒否権により同決議は不成立・・・)、ウクライナ紛争の解決のための費用は、国連が負担すべき、すなわち、全世界の諸国が応分に負担すべきとなりましょう。しかしながら、日本国政府は、支出済みを含めて自国の一年間の防衛費の凡そ5分の1に当たる1兆円もの負担を決定しているのです。

 コロナ対策を根拠として政府の予備費が増額されており、現在、その予算は5兆円ほどに膨れ上がっております(例年の10倍に・・・)。政府は、同予備費からウクライナ支援を拠出するとしますと、国会での事後的な承認手続きは要するとしても、支援の必要性や支援額に関する然したる議論もなく、国際公約として財政支援を実施することでしょう。先日、インドのベンガルールで開かれたG7財務相・中央銀行総裁会議では、共同声明として総額で約5.3兆円の対ウクライナ支援の増額が表明されているからです。岸田首相は、この決定を受けて日本国側の負担を公表したと推測されるのです。しかしながら、同支援には、幾つかの問題点があるように思えます。

 第一に、日米同盟を挟んで間接的な繋がりはあるものの、上述したように、日本国には、ウクライナを特別に支援する国際法上の法的義務がありません。国際法秩序の維持に対するコストであると主張するならば、中国によって不当に併合されたチベットやウイグル、あるいは、ブータンなどの諸国に対しても財政支援するべきでとなりましょう。となりますと、今般の支援は、アメリカを中心としたNATO陣営の一員としての政治的決断であったこととなります。

 政治的決断であるならば、それは、岸田首相のものであったとは限りません。同盟国であるアメリカ、あるいは、同国をも操る世界権力の要請、もしくは、圧力があったものと推測されます。そしてそれは、日本国が、同盟国のアメリカや世界権力の一存で、国会での真剣な議論や国民的なコンセンサスを得ることもなく、戦争に巻き込まれてしまうリスクを示しています。

 その一方で、今般の日本国政府によるウクライナ支援は、将来的な日本有事に備えたものであるとする見解もあります。NATOに協力してウクライナを支援しておけば、中国が台湾に侵攻したり、日本攻撃に及んだ場合、NATOの対日支援を期待できるというものです。現在の1兆円の支援は、将来においては数兆円の支援として返ってくるかもしれません。しかしながら、ウクライナ支援で疲弊したNATO諸国には、将来における東アジア有事に際して、巨額の支援を実施するほどの余力は残されているのでしょうか。仮に、有事に際してNATO諸国から確実に支援を受けられるならば、日本国には、防衛費増額の必要性は低下するかもしれません(なお、中国との間に「中国ウクライナ友好協力条約」を締結している当事国のウクライナに、同額の支援を期待するのは非現実的・・・)。また、当事国に対する支援が政治的判断であるならば、ベネフィットとリスクを冷静に比較考量して、NATOは対日支援を控えるという選択を行なうリスクもあります。法的義務がないにも拘わらず、巨額の支援を実施するならば、NATOに対しては、日本有事に際しての支援を確約しておくべきと言えましょう。第2の問題は、言葉が悪く恐縮いたしますが、日本有事に際しての‘見返り’です。

 第3に挙げるべき点は、支援の継続性です。ウクライナ紛争の行方は不透明ですが、戦闘の長期化も予測されております。仮に、今後、戦争が長引くとしますと、日本国の財政負担も長期的なものとなりますし、たとえ停戦や和平等により破壊行為が止まったとしても、今度は、莫大な復興資金を要求される可能性もあります。日本国は災害国であり、日本国民は、東日本大震災の復興を目的とした復興特別所得税を2037年12月31日まで負担しております。南海トラフ地震も懸念される中でのウクライナ支援につきましては、国民の理解を求めるのは難しくなりましょう。むしろ、中国の決断次第で台湾有事や日本有事も現実にあり得るのですから、海外に大盤振る舞いするほどの財政的な余裕はないはずです。

 第4の問題は、日本国をはじめウクライナ支援国が拠出する支援金が、使途不明金となるリスクです。ウクライナは、開戦前夜にあってデフォルトの危機に直面していた上に、政治腐敗が著しい国でもあります。先日、ゼレンスキー大統領は、政府内部の汚職一掃を敢行しましたが、支援金が債務の返済など、別の用途に流用される可能性も否定はできず、巨額の支援を実施する以上、厳格なモニタリングが必要とされましょう。ウクライナにアカウンタビリティーを要求することなく支援を実施しますと、日本国は、同国のATM化する怖れがあります。

 そして、最後に指摘すべきは、ウクライナ紛争が、金融・経済財閥を中枢とする世界権力によって仕組まれた‘茶番’である可能性です。ウクライナ支援の増額が戦闘の激化を意味するとすれば、追い詰められたロシアが核兵器を使用する可能性も高まります。実際に、プーチン大統領は、戦略核兵器削減条約の履行停止を公表すると共に、昨日の23日には、「複数の核弾頭を搭載できる大陸間弾道ミサイル(ICBM)「サルマト」を配備する方針を明らかにした」とも報じられています。地域紛争から第三次世界大戦、並びに、核戦争への拡大が世界権力のシナリオに書き込まれているとすれば、国際社会は、この方向に操られていることとなりましょう。

 以上に主要な問題点を述べてきましたが、ウクライナへの支援増額には深刻な問題があり、拙速な対応は避けるべきと言えましょう。そして、何れもが出口の見えない絶望的な状況を予測している以上、早期和平の実現こそが、世界権力からの解放という意味においても、人類が目指すべき道なのではないでしょうか。

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成田悠輔氏こそ‘精神の老害’では?-全体主義の発想

2023年02月23日 10時25分15秒 | 社会
 イエール大学アシスタント・プロフェッサーの肩書きを持つ成田悠輔氏が言い放った高齢者集団自決発言は、内外から厳しい批判を受けることとなりました。集団自決とは、老若を問わず追い詰められた人々が死を共にする行為を意味しますので、この言葉そのものに自決に至った人々の悲しみや苦しみが込められています(幼い我が子に手をかけた親もいたはず・・・)。言葉に敏感であれば、軽率に口にすることはできないはずなのですが、同氏は、少子高齢化問題の解決策として、平然と集団自決論を語っているのです。しかも、昨今の報道によりますと、ある年齢に達した時点で、自動的に安楽死させるシステムまで提案していたというのですから驚かされます。

 成田氏の背景については、自己の利益に不要と見なした一切を切り捨てようとする経営者視点を指摘しましたが、こうした経営者視点は、全体主義とも共通しています。全体主義も、国民を含めた国家全体を一つの‘事業体’と見なすからです。企業では、人事権を握る経営幹部は、社員や従業員を採用したり、配置転換したり、さらには解雇することができます(特に非正規社員であれば解雇は容易・・・)。言い換えますと、自らが決定した事業方針に照らして、上部の位置から自らの組織に所属する人々を自由に動かすことができるのです。

例えば、企業幹部の会合では、「○○年に入社した○○期の社員達は、技術が旧式化したので今やお荷物となっている。しかも、給与は高額だ」、「コスト削減のために、全員、一斉に解雇した方がよいね。」、「いや、労働法による規制あって、解雇は難しい」、「それでは、自主退職させるように職場で嫌がらせをしてはどうか」・・・といった会話がなされているかもしれません。そして、この経営者達の解決策は、成田氏の提起した‘最終的解決案’にも当てはまるのです(なお、ホロコーストでユダヤ人は虐殺されたとされますが、このことは、グローバリストの中枢にいる多くのユダヤ系の人々が、多民族の存在に対して‘優しい’ことを意味しない・・・)。

しかしながら、たとえわずかなりとも共通する部分があったとしても、国家と企業とは基本的には別ものです。国家の政府は、国民に対して、生まれてからこの世を去るまでの生涯という長いスパンで配慮するのみならず、後の世まで国民生活の安定を実現する責務を負っているからです。言い換えますと、国家の政府は、現実はともあれ、良い意味において利他的なのです。しかも、個人の基本的な自由や権利を擁護することも政府の役割の一つですので、間違っても国民の命を軽視するような政策は採れない‘はず’なのです。

ところが、歴史を振り返りますと、古今東西を問わず、国民の生殺与奪の権を握り、恣意的に国民の命を奪ったり、財産を没収したりする為政者が散見されます。所謂‘悪政’というものなのですが、こうした‘悪政’は、現代史にあっても全体主義国家において見られます。ファシズム然り、ナチズム然り、そして、共産主義然りです。近代以降の人類の歩みは、政府が本来の役割を取り戻し、国民のために働く国家へと向かう、あるいは、人類史において人々が国家をつくったことの意義に立ち返る過程であったのかもしれません。今日、普遍的な価値とされる自由も、民主主義も、法の支配も、私物化されがちな国家を国民に資する存在へと変えてゆくために必要とされた原則とも言えましょう。こうした歴史の流れからしますと、経営者の視点は、過去の専制国家や全体主義国家並びに時代錯誤とされる共産党一党独裁国家とむしろ共通しており、現代人の視点からすれば、過去のものとなるべきもの、即ち、‘古い’と言えましょう。

今日、翳りを見せてはいるもののグローバリズムが時代の先端とされ、マネー・パワーを背景にマスメディアもIT企業のCEOやIT関連の起業家達をヒーローと見なし、しきりに持て囃しています。金融・経済財閥を中心とした世界権力が人類に対して支配力を及ぼしていますが、その精神性においては、必ずしも若々しいとは限らないように思えます。成田氏は、高齢者を‘老害’として批判しましたが、精神面においては、成田氏こそ‘老害’であるかもしれません。経済的な格差の要因が、ジョブ型雇用を含む雇用の不安定化や広範囲でのITやAIの導入等、そして移民推進政策等による社会の不安定化にあるならば、経営者視点での政策の推進は、若者層にとりましても明るい未来どころか、デジタル全体主義という名のディストピアに連れて行かれかねないのです。

そして、国民の基本権の尊重という大原則に立ち返れば、そもそも、成田氏には、他人である国民に対して集団死を促す発言をし得る立場にはないことに気がつかされましょう。生命に関する権利(生存権)はその人自身に専属していますので、他者が勝手に奪うことはできず(殺人などの犯罪により死刑判決を受けた場合などを除いて・・・)、なおも他者の死を以て解決策とすることは、それが自死であっても間接殺人の教唆を意味するからです(生存権を侵害するので憲法違反にもなる・・・)。経済学者であるならば、高齢者が最後まで自らの人生を豊かに生き、かつ、若者も様々なチャンスに恵まれ、かつ、一人一人が十分な経済力を持ち得るような政策こそ提案すべきなのではないでしょうか。

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ジャック・アタリ氏の‘日本軍事大国化の薦め’への素朴な疑問

2023年02月22日 10時52分16秒 | 国際政治
 ジャック・アタリ氏は、常々、マスコミが賞賛の言葉を付して紹介されてきたフランスの著名な知識人です。先日、ネットで公開されたAERAdot.の記事でも、‘世界屈指の知識人’あるいは‘人類無無比の頭脳’とされており、否が応でも読者の目を引きます。どのような卓見が述べられているのかと早速読んでみたのですが、同氏の見解には、どうしても納得がいかないのです。

 アタリ氏の記事のテーマは、「“人類無比の頭脳”ジャック・アタリが指摘する日本の成功と失敗 もう一度世界の将来を担うのに必要な3つの条件とは」というものです。インタヴュー記事なのですが、同記事において、アタリ氏は、日本国が世界のリーダーになるための3つの条件について語っております。タイトルでは、3つの条件とされているのですが、記事全体を読みますと、それ以上の条件が指摘されていますので、諸条件と述べた方が適切であったかもしれません。何れにしましも、記事を意訳しますと、アタリ氏は以下のような論理展開を試みています。

 ・現代という時代は、絶対的なリーダーの存在しないローマ帝国末期に似ている。
 ・20世紀も21世紀も、民主主義が勝利した時代である。
 ・次の時代も、ロシアや中国といった権威主義国家ではなく、民主主義国家が勝利すべき。
 ・伝統と文明(近代文明?)を両立させてきた日本国にも、‘条件を満たせば’、二極対立の狭間にあって世界のリーダー国になるチャンスがある。

ここまでが、条件を提示する前に先立って示されたアタリ氏の時代認識です。そして、いよいよ、条件について語り始めます。

 ・軍事大国になる。
 ・アフリカとのネットワークを構築する。
 ・人口政策を実施する。
 ・女性の権利を拡大し、外国人に対して開放的になる(この条件は、上記の人口政策の具体的な内容かも知れない・・・)。
 ・同調の文化ではなく、異論を称える文化を発展させる。

同氏の論調からしますと、最初の軍事大国が絶対条件であり、以下の4つの条件は、軍事大国化に必要とされる付随的な政策と言うことになりましょう。となりますと、同記事は、人類史において観察される極めて古典的で単純な因果関係を述べているに過ぎないこととなりましょう。つまり、軍事力をもって世界大に影響力を広げ、多民族・多文化国家となった国が世界をリードするというものです。言い換えますと、驚くべきことに、アタリ氏は、日本国に対してローマ帝国の現代版となるように薦めているのです。現状認識が古代ローマ帝国末期なくらいですから、メディアが宣伝しているような未来志向の知的でリベラルな思想家というイメージからはほど遠く、むしろ、軍事力にパワーの源泉を求めるリアリストに近く、かつ、前近代的な世界観の持ち主と言った方が相応しいかもしれません。

 しかも、細かなところに注目しますと、所々で論理が破綻しているようにも思えます。例えば、日本国を‘伝統と文明が共存する稀な国’として賞賛する一方で、条件の一つとして外国人に開放的になることを挙げています。外国人が増加すれば、強みであったはずの伝統は薄れ、やがて消えてゆくことでしょう。むしろ、ローマ帝国の末期には、絶え間ない多民族化により古来のローマ人はいなくなった、とされますので、帝国主義政策の薦めは、たとえ日本国という国名のみが残ったとしても、日本人が消えてしまう未来を描いていることにもなります。また、軍事大国化には、莫大な軍事費を捻出しなければなりませんので、日本国が世界のリーダー国となることが、日本国民の豊かさを保障するわけでもありません(それとも、アフリカ大陸の資源や利権の獲得や独占を薦めているのでしょうか・・・)。

 かくしてアタリ氏の説は支離滅裂なのですが、同氏が、世界権力のスポークスマンであると仮定しますと、同記事の意味も自ずと理解されるように思えます。端的に申しますと、世界権力のために貢献する国になるならば、日本国に世界のリーダー国の地位を与えてもよい(第3極?)、ということなのでしょう。しかしながら、リーダー国となる条件を飲みますと、一部の政治家等には地位も富も約束されるのでしょうが(おそらく、移民系の人々が選ばれるのでは・・・)、その他の大多数の日本国民は、奴隷とまでは言わないかもしれませんが、世界権力の‘サーバント’として働かされる立場となります。アタリ氏の示した条件とは、日本国のためではなく、世界権力のための交換条件であったとも推測されるのです。

 アタリ氏の勧誘に惑わされることなく、ここで考えるべきは、そもそも、人類は、軍事力を背景としたリーダー国家を必要としているのか、というより本源的な問題です。アタリ氏の予測する未来は、過去と何らの変わりはなく、軍事大国の数によって一極、二極、あるいは三極と言ったように、極の数が違うに過ぎません。

仮に日本国がリーダー国となるならば、こうした軍事力を決定要因とする世界観から脱する方向において、リーダーシップを発揮すべきように思えます。主権平等を基礎とした法の支配が国際社会に定着し、紛争を平和的に解決し得る国際制度を構築できれば、アタリ氏が想定する‘世界のリーダー国’はもはや要らなくなります。ウクライナ紛争に続き台湾有事も懸念され、第三次世界大戦のみならず核戦争のリスクに直面する今日、人類の歩みを法の支配の方向に転換することこそ、人類が求める真のリーダー像ではないかと思うのです。

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‘批判者の嫉妬心’という魔法の反論術

2023年02月21日 12時37分30秒 | その他
 昨今、不祥事、失言、違法行為、犯罪等に対する批判への反論として、批判する人々の嫉妬心を指摘するという手法が見受けられます。‘その批判は、貴方の私に対する嫉妬心です!’という・・・。この反論術には、実のところ、魔法のような効果があるようです。

 第一に、同論法を利用しますと、自らの責任を回避することができます。たとえ批判や非難を受ける原因となった出来事が事実であったとしても、批判の原因を、相手方の心理に求めることができるからです。つまり、批判を引き起こした原因は、自らの不良行為や不適切な発言にあるのではなく、相手方の心の内にあることになりますので、自らは責任を負わなくても済むのです。‘私ではなく、嫉妬心を起こした貴方に原因がある’ということになりましょう。

 第二に、自らを批判してきた人々に対して、上からの目線で諭す立場に立つことができます。‘批判や非難という行為は、不正を糺そうとする正義感からではなく、批判する側の深層心理にまで踏み込んで理解すべきである’とする‘高説’を垂れられますと、批判する側も、一瞬、立ち止まることになるからです。人々から糾弾され、平身低頭、身を低くしていなければならない状況下にありながら、嫉妬論を打ち出した途端に立場が上昇し、批判者との間の位置関係が逆転してしまうのです。

 第三に、責任回避や立場の逆転のみならず、責任を転嫁することもできます。‘嫉妬心は、人間の悪しき感情の一つである’とする一般的な共通認識があります。何故ならば、嫉妬心とは、その人自身に何の落ち度や問題がなくとも、自分にはないものを持っていたり、何らかの点で優れていたりする場合、その人を不快な存在と見なす心の動きであるからです。嫉妬を受けた側は、一方的に悪意をもたれてしまいますので、一般的には、自らの欠如や相対的な劣位に起因する嫉妬は、嫉妬する側が悪いとされるのです(時には、嫉妬を受けた側に危害が加わることも・・・)。

このように嫉妬という行為は、‘悪’と見なされがちですので、嫉妬心を指摘する反論術を用いれば、批判する側を逆批判することもできます。批判の原因となっている事実を棚に上げて、相手を悪者に仕立て上げることも不可能ではありません。批判を受ける側が、実際に社会的地位が高かったり、富裕者であったり、高学歴であったり、知名度が高いなど、他者から羨望され、嫉妬されるような立場であればあるほど、この効果は強まります。つまり、自らに対する批判には耳を塞ぎつつ、‘私ではなく、嫉妬深い貴方が悪い’と言い返すことができるのです。

 さらに第4点として挙げるとすれば、正当な根拠に基づいて批判する人々をも萎縮、あるいは、自粛させてしまう効果です。嫉妬心の一般的な理解は‘悪’ですので、誰もが、嫉妬深い人とは見られたくないと思うことでしょう。このため、この論を持ち出されますと、自己保身の心理が働いて批判を控えてしまう人も少なくないのです(本稿も、嫉妬心から書かれていると逆批判されるかもしれない・・・)。

 以上に述べてきましたように、嫉妬心を用いた反論は、批判される側を窮地から救い出す魔法の杖のようなものです。この杖を一振りすれば、善悪を逆転させ、自らを高みに上げることができるのですから。しかしながら、この反論術の魔法が解けてしまう日も近いのかもしれません。何故ならば、その‘からくり’が分かれば、それが、魔法ではないことを多くの人々が知ってしまうからです。日常のみならず、同手法は、政治の世界でも頻繁に見られますので、大いに警戒すべきではないかと思うのです(しばしば、‘巨悪’を隠そうとして使われるケースも・・・)。

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日独こそ和平を促すべきでは?-日独の歴史的役割とは

2023年02月20日 11時21分56秒 | 国際政治
 昨日の2月19日、ドイツのミュンヘンで17日から開催されておりました国際安全保障会議が閉会となりました。同会議においては、ウクライナのゼレンスキー大統領がオンライン論説で参加各国の代表に対して迅速な武器支援を求める一方で、ドイツのショルツ首相は、同要請に対して消極的な姿勢を示したと報じられております。

 同会議は、アメリカをはじめアジア・アフリカを含む80の国並びに機関の首脳や閣僚が参加しており、ウクライナ紛争への対応が議題とされました。ロシアは招待されておりませんので、中国が参加しつつも国際会議とは名ばかりで、ウクライナに対する‘自由主義国側’の支援強化を目的として、友好国に声をかけた‘招集会議’なのでしょう。また、参加各国の代表が一方的に自らの見解を述べるにとどまり、具体的な対応策について活発な議論が交わされた形跡もなく、ロシアに対して結束を印象づけるパフォーマンス的な側面も見受けられます。

 どこかぎこちない国際会議なのですが、同国際会議の背後に世界権力の意向が潜んでいるとすれば、その狙いとは、ゼレンスキー大統領の要請に各国が応じ、主力戦車のみならず戦闘機などの供与にも踏み込むというものであったのかもしれません。しかしながら、報道からしますと、同会議は、世界権力の思惑通りには進まなかったようです。何故ならば、上述したように、ドイツのショルツ首相がさらなる武器の供与には難色を示したからです。同首相が消極姿勢に転じたのは、NATOが紛争に巻き込まれる事態を避ける、即ち、世界大戦化を危惧してのことであったようです。

 ドイツの躊躇には、おそらく二度の世界大戦における凄惨な戦争体験があったのかもしれません。第一次世界大戦にあっては、東西国境線の外側での塹壕戦となったために自国は戦場とはならなかったものの、敗戦国として天文学的な賠償金の支払い課せられた上に、ハイパーインフレーションによる経済的混乱に見舞われ、国民の生活窮乏に起因してナチス政権が誕生しています。ヒトラーのポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦では、破竹の勢いで周辺諸国を占領するものの、形勢が逆転すると、連合国軍の激しい空爆を受けてドレスデンやベルリンをはじめ主要な都市が灰塵に帰しています。戦争というものが人間性を失わせるほどの破壊力を持つ事例を目の当たりにしてきたドイツ人の心情を、政治家としてショルツ首相が敏感に感じ取っていたとすれば、戦争の拡大にブレーキをかけたのは、平和を願うドイツの世論と言うことになりましょう。

 国土が焦土と化した経験、並びに、敗戦国の悲哀を抱えながら生きてきたのは、ドイツ人のみではありません。敗戦必至の状況下で厳しい戦いを強いられた外地の戦場で、そして、空爆の標的となった国内の都市やその周辺において、日本国でも、多くの方々が命を落とされております。戦争から70余年が過ぎた今日、戦争記憶の風化が懸念されてはいますが、戦争の体験は、親から子や孫といった世代間のみならず、書物やネットの情報などを介して語り継がれ、幼年期の子供達まで広まっています。また、情報量が豊富となった今日であるからこそ、個人的な戦争体験のみならず、政治経済両面における当事の世界情勢についての知識を得ることもできます。否、70年を超える年月が過ぎたからこそ、ようやく冷静、かつ、客観的に開戦に至った原因並びに構造的な問題を検証することができる状況にあるとも言えましょう。このことは、今日であれば、日本国が世界大戦へと誘導されることなく、‘戦争に巻き込まれる愚’の繰り返しを回避できることを意味します。

 ドイツがウクライナに対する「レオパルト2」の提供を決断した際には、戦後の安全保障に対する消極的な姿勢からの転換として歓迎する声もありました。しかしながら、同転換が、第三次世界大戦への道を選択することを意味するならば、忌まわしい歴史は繰り返されることとなりましょう。日本国もドイツも、第二次世界大戦という災禍を経験した敗戦国であるからこそ、経験から謙虚に学び、より賢くなるべきですし、世界権力が仕掛けている謀略に対してはより研ぎ澄まされた感覚をもって事前に察知すべきなのではないでしょうか。

 ミュンヘンの国際会議では、ウクライナのゼレンスキー大統領は、武器供与についてはスピードが重要であると力説しておりましたが、スピードをもって物事を処理しますと、熟慮する時間なく重大な決断がなされてしまうリスクがあります。同大統領の演説については、‘魂の演説’といった歯が浮くような表現をもって礼賛される向きもありますが、魂とは、必ずしも善良とは限りません。ウクライナ情勢については、第三次世界大戦を未然に防ぐと共に、詐術的な経路で世界権力に富が流れる事態を阻止する必要がありましょう。岸田文雄首相は、今夏に予定されている広島サミットにおいてウクライナ支援を打ち出すとも予測されますが、日本国、そして、ドイツの歴史的な役割とは、国際社会の流れを和平の方向に変えることではないかと思うのです。

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価値の‘先取り’こそ人々を騙す手法-二重思考への誘導

2023年02月17日 11時03分21秒 | その他
 web上のニュースを見ておりますと、しばしば目にするフレーズがあります。気付かれた方もおられると思うのですが、それは、王室・皇室並びに芸能人等に関する記事において散見されます。多い時には毎日のように掲載されておりました。それは、‘○○の△△に、□□の声’というものです。例えば、‘××さんの装いに、賞賛の声’といった表現です。何故、こうした表現に違和感があるのかと申しますと、報道される以前の段階では、撮影者や周辺のほんの少数の人しか見ていないはずなのに、既に多くの‘賞賛の声’が寄せられているかのように報じているからです。時系列的に考えれば前後が逆であり、冷静になって考えてみればあり得ないのです。

 常々その不自然さを訝しく思っていたのですが、この奇妙な報道方法は、人々を二重思考へと誘導するテクニックの応用なのではないかと考えるようになりました。オーウェルの『1984年』にあってゴールドスタインの言葉として説明されているように、二重思考の主たる手法とは、虚を実の前に置くところにあります。‘前’とは、主として時系列における前後関係を意味しており、‘虚’‘を先手とするいわば‘先手必勝’を原則としているのです。

 最初に‘虚’を宣伝する、あるいは、人々の脳裏にすり込みますと、実態との違いが曖昧となります。あるいは、実態と虚との違いに気がついたとしても、それを言い出しづらくなるのです。この手法は、政治の世界でも頻繁に用いられているように思えます。近年では、DX、GX、SGDsそしてコロナワクチンなどにおいて顕著に見られます。安全保障の分野における国連やNPT体制もその一つとも言えるかもしれません。何れにおきましても、最初の段階でこれらを‘絶対善’とするプロパガンダが徹底的に行なわれるため(価値を先に付与する・・・)、事実が逆であったとしても異論が許されない空気がもたらされてしまうのです。

 例えば、地球温暖化とそれに付随するGXにしても、太陽光発電施設の乱開発による自然破壊、悪しき環境利権の温床化、太陽光パネルの大生産国である中国へのエネルギー依存、電気料金の高騰、企業対策コストの負担増、反社会組織の事業参入、産業の空洞化など、二酸化炭素の排出量が一向に減らないどころか、本末転倒とも言える現状があります。しかも、世界各地で記録的な寒波が報告されており、地球温暖化二酸化炭素説も科学的に証明されているわけでもありません。挙げ句の果てに、地球を護るため、という大義名分の下で、寄生虫、細菌、ウイルスなどによる健康被害も懸念される昆虫食まで強いられるのでは、壮大なる地球環境詐欺を疑わざるを得ません。

 コロナワクチンにしても、政府は十分な安全性が確かめられていないにも拘わらず、ワクチンは安全である、ワクチンには効果があると国民に吹き込み、河野ワクチン担当相に至っては、健康被害に関する情報は全てデマであると言い切っていました。ところが、ここでも現状を直視しますと、超過死亡者数20万人以上ともされているように、‘大切な人のためにワクチンを打ちましょう’という政府の宣伝文句に騙されて、自らの命を失ってしまった心優しい国民も少なくないのです。最近に至り、具体的な健康被害やワクチン接種者の感染が報じられ、mRNAワクチンの危険性に関する研究も注目されてきたことから風向きが変わってきたものの、ワクチンによる健康被害や効果を疑う声は、それが現実のものでありながら、政府が先置きした‘虚’の前にかき消されてきたのです。

 こうした事例は、日本国内のみならず世界各地に見られますので、先手を打って‘虚’に絶対的な価値を与える手法は、おそらく、世界権力が各国の権力を不当に手にする過程で最も頼りとするものであったのでしょう。しかも、‘虚’を権威付けできれば、その効果は倍増されるはずです。ノーベル賞をはじめ各種の賞や影響力のあるポジションの人々の肯定的な発言も、‘虚’に信憑性を与えるために利用されてきたことでしょう(全ての歴代受賞者が利用されている訳ではないものの、2021年の物理学賞は二酸化炭素の地球温暖化への影響をモデル化した真鍋淑郎氏であった・・・)。各国の政治家をマネー・パワーで自らの仲間内として育成し、全世界のマスメディアをコントロールできれば、この手法は、絶大な効果を発揮するのです。

 それでは、世界権力による二重思考作戦は、今後ともその効果を維持することができるのでしょうか。‘過ぎたるは及ばざるが如し’とも申しますように、同手法の濫用は、手の内を明かしてしまう事態を招いているように思えます。多くの人々が、あまりの不自然さに、既に虚実の間の綻びや矛盾に気がついてしまっています。国民が二重思考へと誘う先取り作戦に騙されなくなったとき、それは、世界権力が構築してきたバベルの塔のレンガが一枚づつ剥がれ落ち、静かに崩れ始めるときなのではないかと思うのです。

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成田悠輔氏の集団自決発言に隠された意図とは?

2023年02月16日 10時52分13秒 | 日本政治
 経済学者にしてイエール大学のアシスタント・プロフェッサーを務め、マスメディアにも頻繁に登場してきた成田悠輔氏は、時代の寵児のごとくの存在であったようです。しかしながら、You Tubeの動画にて「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と発言したことから、日本国内のみならず、海外にも‘炎上’が広がっています。

 同発言に対しては、老害の深刻さを比喩的に指摘したに過ぎず、真意は別にあるとして擁護する声も聞かれます。日本国の衰退の主たる原因は‘老害’にあるのだから、表現は適切ではないにせよ、その問題提起自体は間違ってはいない、とする擁護論です。発言全体の中の一部を切り取って批判記事に仕立てるのはマスメディアの常套手段ですので、今般も、その一つに過ぎないと主張したいのでしょう。しかしながら、成田氏の従来の主張からしますと、高齢者集団自決論、並びに、一連の騒動には、隠された別の意図があったように思えます。

 成田悠輔氏の名を初めて目にしたのは、2021年8月18日付けの日経新聞に「民主主義の未来」というタイトルの連載で掲載された記事です。同記事において、成田氏は、アメリカにおいて提案されている「海上自治都市構想」について紹介しています(本ブログでも、9月16日付けの記事で同構想の非現実性について述べている・・・)。なお、民主主義と銘打ちながら、実際には、非民主的な構想が肯定的に紹介されていますので、ここにも二重思考の手法が見受けられます。

 同記事において、同氏は、海上自治都市について「既存の国家を諦め、思い思いに政治体制を一からデザインし直す独立国家・都市群が、個人や企業を誘致や選抜する世界を想像しよう。新国家群が企業のように競争する世界だ」と説明しています。つまり、富裕層の各々が、好き勝手に全世界から企業や人材を集めて海上に自分好みの自治都市を建設するという構想であり、実際に、ビルダーバーグ会議の運営委員の一人であるピーター・ティール氏が中心となって「海上自治都市建設協会」という団体も既に結成されているそうです。この記事から推測されることは、成田氏は、ダボス会議やビルダーバーグ会議に象徴されるグローバリスト、即ち、世界権力のスポークスマンなのではないか、ということです。

 成田氏が世界権力の代弁者であると仮定しますと、高齢者集団自決論も自ずとそれが内包する価値観、世界観、そして今般の騒動の真の目的も見えてきます。集団自決や切腹という表現に含意されている価値観とは、海上自治都市国家構想と同様に、企業であれ、個人であれ、自らに利益をもたらすもののみに価値があるとする、徹底的な利己主義です。この点、‘老害’とも表現されているように、高齢者は、自らの‘理想’の実現を阻む障害でしかないのでしょう。

 こうした経営者としての‘上から目線’は、集団自決という過激な表現をも説明します。経営者であれば、自らの事業に不必要な人材や不採算部門を切り捨て、トップの経営方針に反対する者は即座に解雇するのが最も効率的です。存在そのものを消すことが、利益のみを追求するような経営者としては当然の判断となるのです。自らが思い描く‘国家’を実現するためには、不要な国民や批判する国民は消すべき、とする非情で冷酷な発想は、経営者的な発想に由来するのかもしれません(沖縄戦にあって絶望と恐怖の中で自らの命を絶った人々の心情に思い至れば、集団自決という言葉は軽々しく使えないはず・・・)。しかも、同勢力は、自ら手を下すのではなく自死を推薦しているのですから、利用価値がないと判断した社員を陰湿な虐めで退職に追い込むブラック企業の精神をも肯定しているとも言えましょう。成田氏は、海上自治都市国家なるものの実態をも図らずも暴露しているのかもしれません。

 かくして、高齢者集団自決発言の背景は、世界権力による残忍な抹殺思考が潜んでいる疑いが濃厚となるのですが、それでは、かくも過激な発言をしたその真の目的は何処にあるのでしょうか。批判の嵐が起きることは、十分に予測できたはずです。となりますと、敢えて批判を承知で騒動を巻き起こしたとしますと、その目的は、擁護論者が主張するような問題提起ではないのでしょう。それでは、何かと申しますと、自らに対する批判の矛先を高齢者に向けようとしたとする推測も成り立つように思えるのです(世界権力は、常に対立から利益を得ている・・・)。

日本経済の衰退と若年層の生活の不安定化は、高齢者に起因しているのか、と申しますと、そうではないように思えます。真犯人は別にいるのではないでしょうか。真の原因は、政治家の籠絡を介して国家の政策権限を無力化し、裏からコントロールしてきたグローバリストにあるように思えるのです。日本経済は、グローバリズムに乗り遅れたから衰退したのではなく、容赦のないグローバリズムによって衰退したのです(国家の傀儡化、中国の台頭、産業の空洞化、中間層の崩壊など・・・)。今日、世界レベルでグローバリズムに対する批判が高まる中、高齢者を‘邪魔者’に仕立て上げることで若年層と高齢者とを分断させると共に、自らの安泰な地位を保つのが、世界権力の真の目的であったかもしれないのです。

この観点からすれば、成田氏の集団自決論もその後の擁護論も、世論のミスリードを狙ったものと推測されます。そして、仮に成田氏を擁護できるとすれば、それは、高齢者集団自決論こそ世界権力に根付いてきた長老支配という悪弊を暗に批判するものであった場合と言えましょう。ジョージ・ソロス氏にせよ、ビル・ゲーツ氏にせよ、世界権力中枢の構成員の多くは高齢者であるからです。同氏は、その経歴から頭脳明晰とされていますが、表向きは世界権力に媚びるように装いながら、得意のメタファーで同勢力の‘高齢指導者層’に退陣を求めていたとしますと、その看板には偽りはなかったのかもしれません。

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物価目標2%目標は国民には過酷では

2023年02月15日 12時47分52秒 | 日本経済
 異次元緩和に踏み出したことで、アベノミクスの象徴ともなってきた黒田日銀総裁。今般、同総裁の後任として政府から選任されたのが、経済学者の植田和夫氏です。同氏の就任に先立って議論されているのが、現在、日銀が掲げている物価上昇率2%の目標です。

 正式な日銀総裁就任には国会の承認を経るものの、植田次期総裁は、過去の発言などから金融緩和政策を維持するものと推測されています。金融緩和策の維持と2%目標がどのように関連するのか、と申しますと、現在、円安等に起因した輸入インフレ状態にあり、既に同目標値を超えてしまっているからです。一般的には、2%を超えるとインフレ抑制策として政策金利を上げるところなのですが、植田氏は、量的緩和維持の立場から、金融引き締めへの政策転換に否定的なのです。そこで、2%目標が修正されるのではないか、とする憶測が飛び交っているのです。

 こうした理由から、植田新総裁の下ではインフレ率2%目標が取り払われる可能性が指摘されているのですが、そもそも、インフレ率2%目標は、妥当なのでしょうか。不思議なことに、2%という目標率については深く議論されてこなかったように思えます。そこで、何故、2%なのか、という理由を探ってみますと、実のところ、合理的な根拠は見当たらないようなのです。

 国民の立場からすれば、物価上昇率2%が過酷であることは言うまでもありません。賃金上昇率が2%以下の現状では、物の値段が毎年2%上昇することは、年々、生活が苦しくなることを意味します。預金者にとりましても、預金額の目減りとなり、生涯設計が狂うことにもなります(もっとも、政府を含めて債務のある人には有利・・・)。今般、デフレから一気にインフレに転じたため、電気料金の高騰を含む物価高に国民が悲鳴を上げることとなりましたが、物価上昇は、たとえそれが2%であったとしても、大半の国民にとりましてはマイナス影響となりましょう。

 それでは、何故、2%なのかと申しますと、この2%という数値は、中央銀行による国債引き受けにより10%台といった高インフレ率に苦しんできた諸国の経験から、インフレ率の上限として設定されたものです。単一通貨であるユーロ導入に際して、欧州中央銀行が、南欧諸国の放漫財政によるインフレの抑制を目的にこの数値を定めたのが始まりと言えるかもしれません。その一方で、日本国の場合には、デフレ脱却のための目標値として2%目標が導入されましたので、その始まりからして目的が逆です。このことは、必ずしも2%という数値に拘る必要はないことを示していると言えましょう。

  2%が絶対的な数値ではないないとしますと、何%が最も妥当な物価上昇率なのでしょうか。敢えて設定するならば、貨幣の機能、並びに、中央銀行の役割に照らしますと、その数値は0%なのではないかと思うのです(2%目標とは、金本位制であれば、毎年、2%金貨が改悪されることに・・・)。貨幣の三大機能は、支払手段、価値尺度、価値貯蔵手段ですが、特に価値尺度は安定していたに越したことはありません。このため、中央銀行の主要な役割も通貨価値の維持とされています。国民にとりましては、日々、物の値段が上がってゆくよりも、一定に保たれていた方が暮らしやすいのです。

そして、金融政策において目標値を設定するならば、インフレには輸入インフレのように外因性のタイプもありますので、要因が多方面にわたる物価上昇率ではなく、国民の豊かさを示す指標のほうが望ましいと言えましょう。例えば、経済成長率や賃金上昇率などが考えられますが、日銀は、消費活動指数を作成していますので、こうした数字でも構わないのかもしれません。

植田次期総裁において予測されている量的緩和維持をめぐっては、その真の意図を、国際金融勢力の意向やFRBの動向にまで踏み込んで見極める必要があるのでしょうが、少なくとも、物価上昇率2%の目標については、金融政策の基本に帰るような見直しを要するのではないかと思うのです。

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検証できない数字は怪しい-世論調査の問題

2023年02月14日 12時10分02秒 | 統治制度論
 あらゆる物事が数値化されるデジタル社会が、人々が安心して暮らせる信頼社会となるためには、データとして示された数字が正確である必要があります。基礎となる数字に疑いがあれば、人々は、それに基づいて下した自らの判断をも疑わなければならなくなるのです。もっとも、この側面は、デジタル化の進捗度に拘わらず統計全般にも言えることであり、数字が不正確であれば、それに基づく分析も評価も当然に砂上の楼閣とならざるを得なくなります。

 数字は理系の世界でより頻繁に使われるため、主観が混じりやすい文字による言葉よりも科学的で客観性があると見なされがちです。例えば、新聞や雑誌等の大手メディアが「国民の多くは、政府が検討している○○政策を支持しています」とする記事を掲載するよりも、「世論調査を実施した結果、回答者の73%が○○政策を支持するという結果を得た」として世論調査の結果を発表した方が、余程、説得力があります。調査結果を円グラフ等にして掲載すれば、視覚情報も加わってさらに説得力が増すことでしょう。読者の多くが、調査結果として示された‘73’という数字を信じるからです。すなわち、前述した言葉による表現では、人々は、端からメディア側の主観に過ぎないと疑ってかかる一方、世論調査であれば、それが‘調査’の形式を採っている以上、科学的な実験結果と同類とされ、その結果にも自ずと信頼性が備わってしまうのです。

 それでは、世論調査の結果として示された数字は、本当に正しいのでしょうか。科学的な調査と世論調査とでは、実のところ、決定的な違いがあるように思えます。それは何かと申しますと、事後的な検証の有無です。如何なる画期的な発見あれ、将来有望な成果であれ、科学の実験では、再現性がなくてはその普遍性を認めてもらうことができません。誰が繰り返しても、同じ結果が得られなければならないのです。再現性の要求とは、結果として示されたデータの信頼性の問題であり、再現性の確認というプロセスを経ていない実験結果は、信頼するに価しないと見なされてしまうのです。‘数字’、あるいは、データは、常に厳しい検証を受けると言うことになりましょう。

 その一方で、世論調査をみますと、その結果の再現性は望むべくもありません。そもそも、同一の質問を同一の対象者に対して行なうことはナンセンスですし、実際に、殆ど不可能なことでもあります(時間の経過による人々の意識の変化を調べるという目的で実施するケースを除いて・・・)。言い換えますと、世論調査が示す数字とは、第三者による事後的かつ客観的な検証が不可能な数字なのです。

 数字の検証不可能性は、世論調査が悪用されてしまうリスクを意味します。検証できないのであれば、たとえ数字を書き換えたり、改竄しても、それが外部の人々に知られてしまうことはまずありません。仮に、メディアが政府や世界権力等の意向を受けて世論調査を実施したとすれば、‘多数派工作’による世論誘導のための強力な装置となりましょう。特に、民主主義国家では、国民にあって‘多数’の支持があることが重要です。世論調査の結果として虚偽の‘多数’が示された場合、多くの国民は、勝手に○○政策を支持していることにされてしまいます。政府も、世論調査の結果を政策推進の根拠として積極的に活用することでしょう。‘国民の皆さんも、賛成しています’と・・・。また、‘多数’が賛成しているとなれば、同調圧力の空気も醸し出され、不支持や反対を表明しづらくなります。真の多数が不支持や反対であっても、その声は押し潰されてしまうかもしれません。ここで、‘真の多数派’と‘虚の多数派’の逆転現象が起きてしまうのです。

 検証できない数字は怪しいのですから、世論調査につきましては、国民も、世論操作を疑って然るべきと言えましょう。そしてこの問題は、政治におけるAIの活用が模索される中、近未来のデジタル社会の危うさをも示唆しているように思えるのです。 

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‘二重思考’とは‘馬鹿の故事’の現代版であった

2023年02月13日 12時06分31秒 | 統治制度論
 ジョージ・オーウェルが没してから既に70年を超える月日を経た今日、同氏の代表作である『1984年』は、再び脚光を浴びています。ITが発展し、‘政府の嘘’が露呈してきた現代という時代が、同作品に描かれているディストピアに酷似してきたからです。オーウェル自身は同書の出版も1984年をも待たずに47歳の若さでこの世を去ったものの、国民監視装置としてのテレスクリーンの発想などは何処に由来するのか、極めて興味深いところです。

 政治思想の観点から見ても、オーウェルの『1984年』は、貴重な作品であるように思えます。現代の政治理論家や政治思想家が面と向かっては書かなかった、あるいは、‘書けなかった’支配者の側の統治術が記述されているからです。今日にあっては、理論や思想を評価する場合、民主主義、自由主義、基本権の尊重といった普遍的価値を基準としますので、‘邪悪な支配’そのものを対象とした研究や考察が疎かにされてきた側面あります。本来、悪政をもたらすメカニズムといった悪を直視した研究や分析こそ悪政を回避するために必要とされるのですが・・・。こうした悪から目を背けがちな現状からしますと、『1984年』は、ディストピアの形をとりながらも深読みすれば悪の統治や体制を客観的な視点から理解し得る希有な存在なのです。

 それでは、『1984年』において描き込まれている‘悪の統治術’とは、どのようなものなのでしょうか。その第一の特徴は、徹底した国民管理を実施するためのイデオロギーと装置を備えている点です。そして、思想管理の中核に置かれているのが、‘二重思考’という名の‘思考能力’の国民に対する強制です。‘二重思考’とは、「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」と説明されています。同作品に登場する反体制派の思想家エマニュエル・ゴールドスタインの解説によれば、‘二重思考’を‘常に虚構を真実より前に置くことで、党は歴史の流れを阻止することができる’とされ、国民が真実を見ないようにするための思考管理術(洗脳術)なのです。

いささか難解な説明なのですが、例えば、現実は非民主的な独裁体制でありながら、独裁者自身が国民の誰もがその価値を認める民主主義を掲げることで、独裁体制を民主主義体制と信じ込ませるというような手法です。‘我が国は偉大な民主主義国家である!’と高らかに宣言する独裁者を前にして、整列した国民が‘民主主義、万歳!’と叫んで手を挙げている光景が目に浮かびます。

 ‘二重思考’のからくりが理解できますと、政治家が民主主義を連呼しても、どこか違和感が漂う理由も分かってきます。前回のアメリカ大統領選挙では不正選挙疑惑が持ち上がり、深刻な事態に発展しましたが、疑をかけられた側の民主党バイデン陣営が、不正疑惑そのものを民主主義の危機として訴えたとき、その言葉を素直に受け止めることができなかったのも、‘二重思考’という思考管理術が存在するからなのでしょう。日本国でも、言動からすれば全体主義や権威主義との間に親和性の高い政治家が、平然と民主主義を口にする光景が見られます。
 
 ‘二重思考’は、支配政党によって矛盾を矛盾と認識せず、虚偽を事実と信じ込むことができる‘高度な’思考能力とされています。ペダンティックに理論化されていますが、その本質は、国民を騙すところにあります。否、同訓練を繰り返せば思考能力そのものが壊され、精神が破綻してしまいます。もとより思考力の破壊を目的とした不可能な要求であるならば(大多数の国民は、政府の虚偽性に気がついている・・・)、‘二重思考’とは、決して難解な理論なのではなく、有り体に言えば、むしろ、中国の「馬鹿の故事」に近いと言えましょう。「馬鹿の故事」とは、秦帝国にちなむ逸話です。始皇帝没後、二世皇帝の治世で実権を握った宦官趙高が、皇帝に一匹の鹿が献上された際に、‘これは馬でございます’と述べたところ、生殺与奪の権を握る趙高の機嫌を損ねることを恐れた廷臣達も、鹿を馬と認めてしまったというお話です。

 ‘二重思考’が馬鹿の故事の現代版であるならば、今日にあって同統治術を用いている‘支配者’は、秦帝国の滅亡にこそ注目すべきかもしれません。「馬鹿の故事」は、馬鹿という言葉の語源の一つともされると共に、秦帝国の滅亡こそが主要なテーマであったからです。多くの人々が事実を事実として認めることができず、恐怖によって悪を善と言いくるめることができる体制は、程なく滅びる運命にあるのではないかと思うのです。

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LGBT問題は広範囲の法律に波及する

2023年02月10日 12時43分58秒 | 国際政治
 自民党は、保守政党としてこれまでLGBT問題については、消極的な姿勢を保ってきました。もっとも、安部元首相暗殺事件が示すように、この姿勢は保守的な思想に基づくものではなく、あるいは、元統一教会(世界平和統一家庭連合)の思想が影響しているのかもしれません(本稿では、家族や家庭を扱いますが、世界平和統一家庭連合とは全く関係はありません・・・)。また、さらに深く洞察すれば、LGBTとは、賛否両者の対立を煽ることで社会を分断するため、あるいは、世論の関心をより重大な政治や経済問題から逸らすための高等戦術である疑いもありましょう。政府高官の失言を機としてメディアや知識人等からも批判が沸き起こり、批判に押される形で保守政党がLGBT法案推進へと転じる経緯は、どこか、予め仕組まれている風でもあります(保守層を騙すための根拠造り?)。

 そもそも、LGBTは英語の略語でもあります。LGBTについては日本国も、世界権力が醸し出す国際レベルでの‘同調圧力’を受けているのですが、同調圧力をスルーしてしまう、という方法もないわけではありません。その一方で、現実問題として同性婚を切実に望んでいる人々が存在しているとしますと、たとえ少数であってもその声に耳を傾ける必要はありましょう。否、合理的、かつ、国民の間で幅広い合意を得られるような対応策があれば、それに越したことはないからです。徒に対立が長引きますと、社会的な分断や対立を招いてしまいます。

 日本国の場合、現在、LGBT問題で焦点となっているのは、法律において同性婚を認めるか、否か、という問題のようです。‘他の先進国の殆どは同性婚が認められているのに、日本国は、遅れている’という主張です。この点、日本国憲法ではその第24条において「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し・・・」と記されており、この問題は、憲法改正とも直結します。もっとも、同文における‘両性の合意のみ’の部分は、戦前にあっては一族による強制的婚姻や政略結婚などの当事者の意思が無視されるケースがあったため、限定を表す副助詞‘のみ’は、‘両性’ではなく‘合意’にかかるのでしょう。この条文は、どちらかと申しますと、婚姻に関する国民の自由と権利を擁護するためのものであったと理解されます。

 それでは、同問題への対処として憲法や法律を改正するとすれば、どのような内容とすべきなのでしょうか。そして、法は、何を保護の対象とすべきなのでしょうか。その一案は、婚姻の成立条件については民法に任せるとして、家族の尊重と保護のみを憲法に記し、法律による保護の対象は、その機能や実態に即して細かに判断してゆくというものです。

 婚姻の存在意義を子孫を後世に残すことのみに限定すれば、婚姻は両性に限るべし、とする説には説得力があします。しかしながら、婚姻の定義を広げ、家族形成の基盤として捉えるならば、おそらく両性に限る必要性は著しく低下することとなりましょう。人とは、居心地の良い安心できる私的な空間を求めるものであるからです(もっとも、一人暮らしが最も心安まるならば、その選択の方が幸せとも言える・・・)。愛情や思いやりといった心の繋がりによって長期的に生活を共にする形態の方が、むしろ、生殖に重点を置くよりも、より人間らしい婚姻とも言えるのかもしれません。

 そして、仮に家族の中心的な機能が安定した生活の場の提供にあるならば、法律が保護すべき家族の対象の判断については、同居の実態に比重が移ります。異性間であれ同性間であれ、法律上の婚姻関係が重視されるのではなく、親子、祖父母と孫、兄弟姉妹などの血縁者によって構成される家族であっても構わないこととなります。さらにこの基準から家族の範囲を広げれば、性別や年齢などに拘わらず、価値観や生活パターンを同じくする親和性の高い人々が自発的に集まって同居する非血縁的な家族という形態もあり得るのかもしれません。

 しかしながら、同性婚姻や非血縁家族等の場合、戸籍法や相続法といった血縁に基礎置く様々な法律分野において様々な問題が派生的に生じます(因みに、配偶者の三等親までは法律上の親族に・・・)。例えば、戸籍法については、どちらの姓を選択するのか、伝統的な慣習が存在しない同性婚の場合には、より深刻な問題となりましょう(この点、同性婚支持者は夫婦別姓支持者でもあるかもしれない・・・)。また、相続についても、同性婚の場合には、現在の法定相続の比率は、いわゆる配偶者の‘内助の功’が考慮されている異性間婚よりも根拠の合理性が低下するかもしれません。非血縁家族については、そもそも相続権を認めるか、否かが問題となりましょう(法的な養子縁組は親子関係しかカバーしない・・・)。

 その一方で、両性に基づく婚姻の場合には、生まれた子を育て、養育するという機能があります。同性婚でも養子縁組や生殖医療により子を育てることはできるのですが、一般論としては、この点において大きな違いがあります。このため、仮に法律が両性に基づく婚姻を特別に保護するのであれば、子育て機能にその根拠を求めることができましょう。そして、親が高齢者となった場合には、家族は介護機能をも担うため、この面においても保護を必要とするのです。

 以上に述べてきましたように、婚姻を含む家族には、子孫をもたらす以外にも、安心し得る空間の提供、子の養育、親の介護などの様々な機能があります。また、親族としての権利や義務も伴います。本案は試案に過ぎませんが、人生観や価値観の問題も含まれてくるため、LGBT問題につきましては、家族機能の実態に即して十分に議論し、派生効果が及ぶ全ての法律について、そのそれぞれについて国民の多くが納得するような現実的な対応を試みるべきではないかと思うのです。

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日本国が‘捨て石’になる可能性を考える

2023年02月09日 12時56分16秒 | 国際政治
 日本国民の大多数の人々は、日米同盟は外国からの侵略を防ぎ、日本国の安全を護る存在として認識しております。昨今、中国の軍事的脅威が高まる中、世論の動向を見ましても、増税問題は別としましても、日本国政府が示した防衛力増強の方針を支持する声が多数を占めています。しかしながら、日米の合同作戦の内容次第では、日本国が壊滅的な被害を受けてしまうリスクもないわけではありません。

この問題は、特に台湾有事に際して問題となります。何故ならば、台湾有事に際してアメリカで策定されたとされる「インサイド・アウト作戦」も、CSISが行なった机上演習においても、日本国が同有事において重要な役割を果たすことが織り込み済みとなっているからです。否、アメリカ軍の勝利条件が日本国の‘参戦’と言っても過言ではありません。中国からの直接的な対日攻撃であれば、防衛戦争の過程で日本国において犠牲が生じるのも致し方ない側面があるのですが、台湾有事となりますと、他国のために日本国は多大なる犠牲を払うこととなります。

日本国民の多くは、できることなら台湾を救いたいと思っていることでしょうし、軍事面での支援もやぶさかではないことでしょう。台湾は、民主的な国家であり、日本国とも価値観を共有しています。しかしながら、後方支援にとどまらず、日本国内にもミサイルの雨が降るとなりますと、ここで、一端、立ち止まって考えてみる必要があるように思えます。

 軍事同盟とは、有事に際しては他国からの援軍を期待できると共に、平時にあっても軍事力の結合が強い抑止力となり、自国の安全をさらに高める役割を果たしています。軍事力において同等な場合には、両国の関係も相互に対等となるのですが、一方が軍事力において優っている場合には、両者の間には、依存関係あるいは保護・非保護関係が生じます。この側面は、封建時代における主君と臣下との関係にも見ることができます。主君が臣下の領地を‘安堵する(本領安堵)’、即ち、‘保障する’代わりに、封建的ヒエラルヒーにあって臣下の側は主君に対して忠誠を誓う下位の立場となり、主君が軍事行動を起こす場合にはそれに参加する義務を負うのです(対外政策に関する独立的な政策決定権を失う・・・)。

封建時代は既に過ぎ去ったはずなのですが、実のところ、そうとも言い切れないところがあります。特に現下のNPT体制にあっては、軍事大国である核兵器国が軍事力において他の非核兵器国に抜きん出ますので、自国の安全を確保しようとしますと、‘核の傘’の提供を受けるために核兵器国と安全保障条約の締結を必要とするからです。同盟国間の非対称性からしますと、現在の国際体制は、近代よりもむしろ中世の封建時代に近いと言えましょう。否、他国に自国の安全を委ねざるを得ない非核兵器国は、封建時代よりもさらに理不尽な状況に置かれているとのかもしれないのです。

何故ならば、現在の軍事同盟にあっては、非核兵器国は、事実上の保護国となる核兵器国の世界戦略に組み込まれ、その戦略を遂行するに際して‘捨て石’にされる可能性が否定できないからです(また、軍事面のみならず、様々な分野で相当の内政干渉を受ける・・・)。この構図では、封建時代のように‘君主’は‘家臣’の領地を保障しません。自陣営の勝利が目的ですので、この目的のためには、同盟国の一部が犠牲になっても構わないと考えるのです。世界全体をゲームのボードとみなす戦略家としては当然の判断なのでしょうが、戦略上、‘捨て石’の役割を担わされた国にとりましては、‘少し、待ってください!’あるいは‘冗談ではありません!’と言いたくなる場面となるのです。

第二次世界大戦にありましては、日独伊三国同盟が締結されていながら、これらの三国が一つの作戦を協力して実行する、あるいは、合同軍を結成して闘うことはありませんでした。しかしながら、今日の日米同盟の枠組みでは、日本国の防衛政策並びに安全保障政策は、今日に至るまでの日米ガイドラインの変遷が示すようにアメリカの世界戦略に取り込まれつつあります。日米の軍事協力の強化により対中抑止力が強化されると共に、日本国の安全も盤石となるというのであれば、大半の日本国民が賛意を示すことでしょう。たとえ有事となっても、米軍と自衛隊の共同作戦によって人民解放軍をほぼ無血であっさりと撃退するというのであれは、なおさらです。しかしながら、軍事分野での日米一体化が、日本国側が自国を‘捨て石’とする作戦の甘受と同義であるならば、話は別と言うことになり、同作戦に対しては、他の作戦への変更を強く求めるべきと言えましょう。

あるいは、日本国の現在のアメリカに対する従属性は、軍事力の格差に由来するのではなく、先の大戦における敗北に起因しているのでしょうか。そうであるならば、完全なる主権回復を意味するはずの講和条約は表面的なものに過ぎず、日本国の実態は、アメリカに征服された支配地となりましょう。そして、敢えて邪推を試みれば、日本国は、アメリカ、否、そのアメリカさえも背後から操る世界権力にとりましては未だに‘敵国’のままであり、米中対立が演出され、中国の手を借りる形で滅ぼされそうになっているのかもしれません。アメリカ陣営が勝利しても、日本国が廃墟となるのでは、少なくとも日本国にとりましての日米安保条約の存在意義は、根底から失われてしまうのではないかと思うのです。

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CSISの台湾有事机上演習が示唆する日本国の危機

2023年02月08日 12時06分37秒 | 国際政治
 台湾有事に関しては、今年1月19日付けのウォール・ストリート・ジャーナル紙に米戦略国際問題研究所(CSIS)による机上演習の結果が掲載されたそうです。何れにあっても米軍側が最終的に勝利を収める結果となったのですが、同勝利には、4つの条件が必要とされています。勝利のための条件とは、(1)台湾国民の戦闘参加、(2)武器の事前集積、(3)米軍の在日米軍基地への依存、(4)長距離対艦ミサイル(LRASM)の即時かつ集中投入となります。これらの4つの条件から、日本国も台湾も共に島国ということもあり、幾つかのリスクやそれへの対応が見えてくるように思えます。

 第1並びに第2の条件は、四方を海に囲まれた島国ですので、上陸してきた人民解放軍との白兵戦が予測されていることを示唆しています。この条件を整えるために、ウォール・ストリート・ジャーナルでは、台湾の徴兵制並びに即応体制の整備を提言しておりますが、仮に中国が日本国を武力制圧の対象として定めた場合、日本国も同様に、陸上戦を想定した対策を要することを意味します。なお、徴兵制の回避や民間人の命を守るための手段を考えた場合、ここで、核拡散防止条約のみならず、地雷禁止条約の是非の問題も持ち上がることとなりましょう(ウクライナでも、現在、地雷が使用されている・・・)。

 第3の条件につきましては、米軍の勝利条件が在日米軍基地の使用であるならば、これは、日本領内の米軍基地に対する攻撃や破壊活動が実行される可能性を示しています。台湾侵攻、あるいは、米軍の参戦とほぼ同時に、対日攻撃が開始されるかもしれませんし、先行する可能性さえあります。米軍基地を予め破壊しないことには、人民解放軍が必敗となってしまうからです。直接的な攻撃であればミサイルが使用されるでしょうし、間接的な手法を選択するのであれば、サイバー・テロを含む内部工作活動によって軍事基地としての機能を麻痺させることでしょう。日米同盟の重要性に鑑みれば、中国が日本国の自衛隊基地を見逃すわけもなく、同様の破壊活動が仕掛けられるものと想定されます(自衛隊基地周辺の土地が中国人に買い取られている現状は、通信傍受を含め、破壊工作のチャンスを与えているようなものでは・・・)。第3の条件は、台湾有事が日本有事に直結しかねないリスクを警告しているのです。

 そして、第4に指摘されているのが、長距離対艦ミサイルの即時的、かつ、集中的な投入です。中国は、台湾の武力制圧に際して空母を含む大艦隊を編成し、台湾周辺海域の制海権を掌握すると共に、台湾島への上陸を試みることでしょうから、これらを阻止するために、長距離対艦ミサイルをもって中国艦隊を破壊してしまおうとする作戦です。軍艦の走行速度とミサイルの速度を比較しますと、後者の方が遥かに高速ですので、同作戦が功を奏せば、最新鋭の中国艦隊といえども、ミサイル攻撃から逃れることは殆ど不可能です。監視衛星や高性能レーダー等により上空や遠距離からより正確に位置情報を獲得し得る今日、中国艦隊は絶体絶命となりましょう。

 もっとも、同机上演習では、長距離対艦ミサイルが想定されていますが、この作戦に疑問がないわけではありません。それは、対艦ミサイル攻撃は、必ずしも長距離ミサイルを用いる必要はないのではないか、というものです。詳細は分からないのですが、長距離対艦ミサイルの発射基地は、ミサイルの種類が長距離型である以上、アメリカ本土のものと推測されます。しかしながら、米国から台湾周辺海域に向けてミサイルを発射するよりも、台湾の対岸に設置されたミサイル基地からであれば短距離ミサイルで十分です。また、潜水艦に搭載したミサイルや魚雷をも併用すれば、同作戦の成功率はさらに高まることでしょう。

 対艦ミサイルの配備は、日本国の反撃能力としてのミサイル戦略にも直結します。日本国でも、今般、防衛力増強の手段としてアメリカからトマホークなどの巡航ミサイルの購入が取り沙汰されていますが(専門家によると北朝鮮への牽制に適しているらしい・・・)、中国艦隊を想定するならば、中距離対艦ミサイルの保有、あるいは、ミサイル搭載の潜水艦の即応体制の強化の方が効果的なのかもしれません。

 以上にCSISが行なった台湾有事の机上演習について述べてきましたが、同報告は、自衛隊が後方支援に留まるというシナリオではないため、発表当初から日本国を台湾有事に巻き込むものとして物議を醸してきたそうです。有事シミュレーションの一つに過ぎないのかもしれませんが、艦隊の派遣に先立っての台湾への集中的ミサイル攻撃も予測されており(台湾がミサイル攻撃で壊滅状態となれば、白兵戦の余地もなくなるのでは・・・)、今日の戦争が、相互破壊を伴うミサイル戦争へと移行してきている現状を示しています。スパイ気球をめぐり米中対立が激化する様相を見せる中、限られた予算の範囲で如何に効果的な備えができるのか、日本国政府も、真剣にミサイル戦略を練る段階に至っているように思えます。

 なお、台湾有事は、中国による台湾侵略に留まらず、米中戦争、さらには世界大戦並びに核戦争へと拡大するリスクが認められます(CSISの前身は、地政学者のカール・ハウスホーファーの弟子であったイエズス会士が創設した「エドマンド・A・ウォルシュ外交学院」であり、世界権力との繋がりも推測される・・・)。このため、いつも同じ結論にたどり着いてしまうのですが、最悪の事態に備えつつも、司法的アプローチや核の抑止力の利用も含め、未然防止のために最初の一歩を踏み出すことこそ、最善の策であると思うのです。

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