万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

2025年の大阪万国博覧会には国がない?-画一化された未来像

2018年11月30日 17時16分11秒 | 国際政治
大阪府は、2025年開催の万国博覧会を誘致いたしました。高度経済成長の象徴ともなった‘1970年の大阪万博の夢をもう一度’ということなのでしょうが、財政負担の問題もあり、今一つ、全国的には歓迎ムードに欠けるようにも見えます。その理由の一つは、2025年と1970年の両万博とを比較しますと、そのコンセプトに決定的な違いがあるからなのかもしれません。

 万国博覧会には、全世界の諸国からそれぞれの独自の文化を紹介するパビリオンが出展された、いわば、世界規模のテーマ・パークといったイメージがあります。万国博覧会の入場ゲートをくぐると目の前には‘ミニ世界’が拡がっており、小さな空間でありながら、会場を一周すれば、全世界の諸国を模擬体験できるような‘わくわく感’があったのです。海外旅行が一部の人々に限られ、インターネットも普及しておらず、テレビでさえ海外取材の番組が乏しかった時代には、自国に居ながらにして世界の多様性を体験できる万国博覧会は、国民を熱狂させるに足る魅力に満ちていました。因みに、1970年の大阪万博では6000万人を超える来場者があり、凡そ、外国からの来場者を差し引いても国民の半数ほどが‘ミニ世界’を楽しんだ計算になります。

 日本国におけるこうした万国博覧会のイメージは、博覧会場に足を運べば全世界の諸国で培われてきた多様な伝統文化に触れることができる一生に一度か二度の貴重なチャンスであるというものなのですが、半世紀の時の流れは、万国博覧会のコンセプトを著しく変質させています。それは、大阪府が誘致に際して作成したプロモーションビデオを見れば一目瞭然です。そこには、‘万国’がないのです。描かれた会場予想図はSFなどに登場するような未来都市であり、同博覧会のコンセプトも“未来社会の実験場( People’s Living Lob)”です。そして、2025年の大阪博覧会の狙いは、上述した国内の来場者に世界各国の文物を紹介する場ではなく、逆に、日本から世界に向けて未来技術等を発信する場としているのです(多数の外国人来場者を見込んでいる…)。

 メイン・テーマが「いのち輝く未来社会のデザイン」であることからも、2025年の大阪万国博覧会では、世界各国の文化や芸術が‘展示’されるのではなく、様々な先端技術が駆使されている未来都市のモデルが‘提示’されることになるのでしょう。そしてそれは、グローバル化の先に見える画一化された人類の未来社会図なのかもしれません。グローバリストの人々は常々多様性の尊重を掲げておりますが、その行き着く先は、やはり、世界中どこにいっても同じ光景が広がる、文化の多様性が消滅した無味乾燥とした世界なのでしょう。

 そして、‘万国博覧会’の始まりが、ヴィクトリア時代の1851年に産業革命の発祥の地であるイギリスのロンドンで開催された「万国産業製作品大博覧会(Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations)」であった点を思い起こしますと、さらに複雑な気持ちにもなります。同博覧会は、当時にあって世界最先端の技術の粋を集めた発明品等の展示会であると共に、植民地主義が色濃く漂う自然や文化の祭典でもあったからです(第二回万国博覧会であるパリ万博は、諸国の伝統文化を展示するというコンセプトとなっており、日本からも、多くの伝統工芸品が出展され、称賛を受けた)。科学技術の発展とリンケージした未来志向については第一回のロンドン万博の原点に戻ったとも言えるのですが、果たして、19世紀に遡る科学万能主義的なヴィジョンが未来都市のモデルとして全世界に拡散されることが人類にとりまして望ましいのか、疑問を感じざるを得ないのです。

画一化される人類の未来図への抵抗から、辞退という方法もあるかもしれませんが、せめてもの願いは、未来都市のヴィジョンの如何に拘わらず、研究・技術開発予算が低水準にある中、万国博覧会の成功を目指して、日本国政府、大阪府・市、並びに民間企業が、世界に誇る日本発の独自技術の開発に積極的に取り組み、日本国が、人類が抱える諸問題を技術を以って解決する力を有することを全世界に示すチャンスとすることではないかと思うのです。この点に鑑みれば、見かけよりも内容で勝負し、会場建設費よりも展示品となる技術開発にこそ予算を注ぎ込むべきなのではないでしょうか。

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入国管理法改正法案はパンドラの箱を開けたのか?

2018年11月29日 15時15分56秒 | 日本政治
入管法、参院委で審議入り=与野党攻防が激化
入国管理法改正案は審議を尽くすことなく衆議院本会議を通過し、残る手続きは参議院のみとなりました。政府は、人手不足を根拠として何としても来年の4月1日から同法を施行したいようですが、今般の法改正については、世論の動向を敏感に察知してか、珍しくも大手メディアにあっても慎重論が多く、‘後世に禍根を残すような拙速な成立は避けるべき’とするのが永田町以外での常識的な意見のようです。

世論の反対に耳を塞ぎ、形振り構わずに採決を急ぐ政府の姿は、一般の国民の目には、重大な何かを隠そうとする不審者の行動に映るのですが、国民に知られたくない事情とは‘国際密約’なのではないかとする推測も、強ち否定もできません。2017年11月には、カナダのトルドー首相も3年間で100万人の移民受け入れを表明しています。34万人という数字も、日本国に割り当てられた‘移民受け入れノルマ’なのかもしれません。

 本法案に対する政府説明が‘ちぐはぐ’なのも、そして、保守党であるはずの自民党が真逆の方向に走るのも、太平洋戦争当時、アメリカがフランクリン・ルーズベルト大統領率いる民主党政権であったためか、日本国は、戦後を通して共産主義や新自由主義を奉じる国際リベラル勢力の強い影響下に置かれてきたからなのでしょうか(あるいは明治維新から?)。同法案の可決によって最も利益を得るのは、送り出し国となる共産主義国、派遣業者、グローバル企業、コンビニエンスストアやチェーン店型の外食産業など、同勢力、あるいは、それをバックとしてきた人々です。そして、本法案の国会での審議を短時間で切り上げたい動機もまた、‘国際密約’の存在が明かされる‘リスク’なのかもしれません(消費税率10%上げも、当時の野田首相による国際公約から始まる…)。加えて、仮に、外国人労働者の採用希望が上限数を超えた場合、どのように認定枠を配分するのか、という疑問についても白紙のままです。’早い者勝ち’であれば、既に募集を開始しているとされる政府近辺の事業者が圧倒的に有利となりますし(再生エネ法施行に際してのソフトバンク…)、何らかの合理的な基準を設け、事業者間に優先順位を付けるとしますと、相当の時間を要することでしょう。

 仮に、34万人という数字が分野ごとの調査によって集計された数であるならば、政府が、野党からの質問に受けて、改めて分野別の人数割り当てを示すはずもありません。法案提出に先立って現状説明として必要人数を提示し、それからその受け入れの検討を求めるはずです(政府は当初、上限枠を設けないと説明していた…)。しかも、政府は、都市部に外国人労働者が集中することを避けるために、人手不足が著しい地方での受け入れを増やすための何らかのインセンティヴを与える措置も検討しているそうです。この措置は、現実には、人口減少に直面している地方自治体でさえ積極的な受け入れには消極的である現実を示しています。また、政府は、中小企業の人手不足が甚だしいと力説していますが、受け入れ対象とされる14分野ではそれぞれ状況が異なっており、大手企業が外国人労働者を雇用しないとは言えないはずです。

昨今、働き方改革によって残業時間等に制限が設けられたり、副業も認められるようになりましたが、近年の政府の行動はあまりにも国民に対して背信的ですので、こうした一見勤労者に優しい政策も、新自由主義的経営手法の推進によって人員を削減し、リストラ完了後の労働時間短縮で意図的に人手不足の状態を造り出すという、外国人労働者を招き入れる複線であったのではないかと疑う程です。誰もが、人手不足を実感するように…。

失業率が低下したとはいえ、未だに34万人の数を超える40万人の日本国民が失業しており、ハローワーク等に登録していない人々を加えればその数はさらに増しましょう。日本人の失業者よりも外国人の雇用を優先するのでは、棄民政策としか言いようがありません。また、外国人労働者を雇用してまでして海外に日本製品を輸出するのはナンセンスであり、現地生産・現地雇用・現地販売の方が遥かにリスクは少ないはずです。政府は、TPP11の成立を追い風に中小企業に対しても海外展開を促していますが、事業拡大によりさらに人手不足が深刻化するならば、日本国内での製造は、国内市場の向けに絞るのも選択肢の一つです。あるいは、米中貿易戦争によって中国からの輸出が困難となった中国系企業が日本国に製造拠点を移し、中国人労働者を雇用して日本国を対米輸出の基地にしたいのでしょうか。仮に、参議院においても衆議院と同様の事態が再現されるとしますと、国民の失望は計り知れません。日本国政府は、同法案の成立を急ぐばかりにパンドラの箱を開けてしまったのではないかと思うのです。

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入管法改正と日産問題の共通点―権力集中による独立性喪失のリスク

2018年11月28日 13時36分19秒 | 日本政治
入管法、午後に参院審議入り 首相出席で本会議
ゴーン前会長が逮捕された日産問題と昨日衆議院本会議を通過した入管法。日本国を揺るがせているこれら二つの事件には、一見、何の関連性もないように見えます。しかしながら、両者ともグローバル化がもたらした事件であり、日本国の危機をも象徴しています。今や日本国は、企業の経営陣、並びに、働く現場の労使双方の場において外国人化の問題に直面しているのです。あたかも、上下から挟み撃ちにあうかのように…。

 政府が素知らぬ顔で否定しようとも、一般国民の不安は募るばかりなのですが、入管法改正と日産問題には、もう一つ、ガバナンスの側面において重要な共通点があります。それは、権力集中の傾向が強く見られることです。

 日産の場合、多くの識者が指摘しているように、ゴーン前会長が長年に亘って違法、あるいは、不正行為を働くことができた理由は、日産、ルノー、三菱自動車から成る三社連合トップを束ねた同氏への権力集中にあったとされています。ルノーとの提携を機に、リストラのみならず日産の組織改革も断行され、社内の意思決定システムは、徐々に同氏への集権化の方向へと向かったそうです。そして、連合トップへの権力集中は、犯罪の温床を準備したに留まらず、当然に同連合の企業経営にも及んでおり、日産側の不満が爆発したとする見解も理解に難くありません。

報道に拠りますと、日産がEV自動車向けのリチウムイオン電池を独自開発したにもかからわず、ルノー側が同社の提携先である韓国サムスン製の採用を、安値を理由に要求したため、日産側がこれを拒絶したところ、結局、日産の米国と英国での電池生産事業、並びに、神奈川県内にある電池開発や生産技術部門が中国系再生エネルギー事業者のエンビジョングループに譲渡されることが決まったそうです(NECと共同で出資する電池事業会社のオートモーティブエナジーサプライも同時譲渡…)。この経営判断は、ゴーン前会長のグローバル戦略によるのでしょうが(あるいはルノー、ルノーの筆頭株主であるフランスのマクロン政権、もしくは、その背後に潜む中国をもコントロールする国際金融?)、日産が培ってきた技術力は、ゴーン独裁体制の下で中国企業へと流出してしまう結果を招いたのです。

‘日本の技術力と中国の生産力が組めば最強である’とする見解は、以前から聞かれましたが、この戦略は、グローバル戦略という美名の下で、あらゆる手段を駆使して日本国から産業技術力や開発研究成果を取り上げて中国に移す‘日本使い捨て戦略’として、今日、表面化しているように思えます。そして、日本企業(開発技術者を含む日本人従業員)側の反対を押し切ってその目的を実現するためには、日本企業にトップが独断できる集権体制を構築する方法が採られたのではないか、と推測されるのです。

日産の事例は、社内の集権体制の構築とグローバル化が同時並行的に進行した場合、外国人、あるいは、外国の意向を受けたトップの判断で、日本企業の‘虎の子’の技術力や開発研究の成果が海外に流出するリスクを示しております。そして、同様の問題性を含むリスクは、入国管理法改正案においても見られるのです。

何故ならば、同法案もまた、法務大臣に対して新在留資格の具体的詳細を決める権限を与えているからです。国境管理に関する権限は、イギリスのEU離脱において争点となったように、主権的であると共に、国民投票に付すほどの重要な権限でもあります。国籍や永住資格の付与については、既に法務大臣に比較的広い裁量権を与えており、法治行政の原則からそれ自体が問題視されてきましたが、今般の法改正は、これに輪をかけて入国管理に関する政府側の権限、法務大臣の裁量権を強化しているのです。野党側の‘白紙委任’批判は、審議時間の短さよりも、入国管理体制における集権化に対してこそ相応しいとも言えましょう。こうした議会制民主主義の軽視は、日本国の統治体制が、国民が気が付かぬ間に党と官僚が支配する中国の共産党一党独裁体制に類似してきた徴候かもしません。

 今般の政府与党の動きを見ておりますと、国民の声に応える様子もなく、何らかの国際密約さえ疑われるスケジュールを組んでおります。29日に予定されていた安倍首相の訪欧前に同法案を成立させる方針であったとも推測されていますが、もしかしますと、同法案成立こそ‘おみやげ’であったのかもしれません。そして、こうした政府の‘海外ファースト’の姿勢は、日産と日本国とが重なって見える原因でもあります。統治システムの集権化を伴うグローバル化の負の側面を直視しませんと、日本国の国も企業も、その独立性を失いかねないのではないかと懸念するのです。

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自民党議員は党議拘束に従うのか?-入国管理法改正案の‘奇襲採決’

2018年11月27日 11時00分07秒 | 日本政治
入管難民法、27日に衆院通過へ 与党が方針、野党は反発
ようやく国会での審議が始まったと途端、入国管理法改正案は、本日にも法務委員会、並びに、衆議院本会議にて可決させる模様です。この日程は、葉梨法務委員会委員長の‘独断’とのことですが、その理由は、“あと2時間もあれば審議は尽くされる”とのことのようです。2時間程度の時間で審議が尽くされるはずもなく、この説明に納得する国民は殆どいないのではないでしょうか。今般の政府の同法案に対する姿勢には、国民を騙したとしか言いようのない幾つかの問題点があります。

 第1の問題点は、既に各方面からの指摘があるように、移民政策の定義をめぐる詭弁であることです。同法案は、政府が頑なに否定しようとも、外国人受け入れのための環境整備政策や予算を要するのですから、移民政策の側面があります。一般の日本国民の負担も重く、また、従来、自民党は移民政策には反対してきたわけですから、本来であれば、国政選挙において政策転換を選挙公約として明記し、国民に判断を仰ぐべき重大な問題でもありました(安倍政権は、移民政策を行わないと明言してきただけに、たとえ公約違反ではなくとも、代議員制度のもとで国民の負託に応えるはずの政治家としての信義則に反します)。

 第2の問題点は、同法案の原案を読みますと、この法案、法治ではなく‘人治’を志向している点です。何故ならば、同法案は、新在留資格に関する詳細をルールとして定めるのではなく、事実上、法務大臣にこれらを基本方針として決定する権限を与えるための法改正であるからです。このため、一旦、同法案が成立しますと、閣議決定を要するものの、国会での審議を経ることもなく、法務大臣は、如何様にも新在留資格の詳細を決めることができるようになります。外国人労働者の受け入れ人数の上限は法案成立後に定める、とする政府の説明も、この‘人治主義’に基づいているのです。

第3に指摘し得る点は、審議過程において同法案に含まれる諸問題がきちんと整理されていない点です。この問題は野党側にも責任があるのですが、‘審議を尽くす’も何も、最初から諸議題が理路整然と列挙され、論点整理もなされていないのですから、実のある議論などできるはずもないのです。言い換えますと、葉梨委員長は、同法案について十分に議論を尽くすべく委員会の審議の流れを構成する委員長としての職務や義務を怠っているのです。また、見方を変えれば、葉梨委員長は、委員長権限によって実質的に代議士による自由な議論を拒否、あるいは、妨害しているようにも映ります。議会制民主主義の根幹を揺るがしかねない職権乱用ともなり得るのです。

第4の問題点、それは、言うまでもなく、‘奇襲採決’とでも称するべき突然の採決です。国民の多くは、同問題については国民的な議論や合意の形成を望んでおり、ましてや、今国会での成立については否定的です。それにも拘らず、強行採決という手段に訴えるとしますと、国民の多くは、同法案が内包する問題点が表面化する前に法案を通してしまおうとする政府側の‘やましい意図’を感じ取るはずです。いわば、国民が政府から騙し討ちに遭ったように感じることでしょう。

 以上に同法案の採決に関する主要な問題点を述べてきましたが、果たして、自民党の議員の方々は、同党の党議拘束に従うのでしょうか。国会議員は、国民から選ばれた国民の代表の立場にありますし、しかも、同法案が自民党の公約違反を強く疑われる中で賛成票を投じるとしますと、自民党の候補者に一票を投じた有権者の多くは、同議員に裏切られたと考えるかもしれません。自民党もまた、同法案については、自党議員の有権者に対する責任に照らして党議拘束を外すべきなのではないでしょうか。

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中国の‘消費大国化’はアメリカ抜きのグローバル戦略か?

2018年11月26日 15時13分39秒 | 日本政治
米中貿易摩擦の最大要因は、中国が巨額の貿易黒字をため込む一方で、アメリカが貿易赤字に苦しむという貿易収支の不均衡にあります。このため、アメリカは、中国製品に対する関税率を引き上げるなど、立て続けに中国の貿易黒字削減に向けた措置を強化しておりますが、中国側も、貿易不均衡の批判を躱すために、自らの市場を開放し、輸入を拡大する方針を内外に表明するに至っています。

 その具体的な現れの一つは、11月5日から11日にかけて上海で開催された「第1回中国国際輸入博覧会」です。第1回という数字が示すように、中国にとりましては初の試みであり、この博覧会について、在日中国人コミュニティーの情報誌である『東方新報』は、(1)輸出型から消費型への転換、(2)閉鎖型から開放型への移行、そして、(3)中国によるグローバル化の推進の三つのシグナルが込められていると分析しています(11月22日付のダイアモンド・オンラインに掲載)。このシグナルからしますと、技術力に優る日本企業に商機も勝機もあるとする論調なのですが、果たして、この方針は、米中貿易摩擦を解消し、かつ、『東方新報』が予測するように日本企業にとりましてチャンスとなるのでしょうか。

 JETROによれば、同博覧会における国別の最大の展示面積を占めたのが日本企業であり、米企業ではなかったようです。この事実から、目下、角を突き合わせている米中両国の異なる思惑が推測されます。その一つは、中国側が同博覧会を開催した目的は、対米黒字の削減ではなく、アメリカ抜きの中国中心の‘グローバル化’を進めようとしているというものです。仮に、対米譲歩としての輸出拡大であるならば、米企業に対してより積極的に参加を呼び掛けているはずなのです。そして、国別で日本国が最大の出展数を記録したとしますと、中国側の真のターゲットは、日本企業、否、その技術力を吸収するところにあるのかもしれません。

 そして、もう一つの推測は、トランプ政権の対中強硬方針により、米企業の多くが同博覧会への出展を見送ったと言うものです。言い換えますと、トランプ政権は、中国に対して輸入拡大を強く要求する一方で、本心では、中国経済との関係を断とうとしているとする憶測も成り立つのです。仮に、アメリカが本気で米企業による対中輸出拡大を目指しているならば、同博覧会で最大の展示面積を占めるのは同国の企業であったはずなのです。

 展示面積からは、米中関係改善の徴候は見えてこず、むしろ、中国によるアメリカ抜きのグローバリズムの方向性が浮かび上がってくるのですが、中国の消費大国化が、日本国の輸出拡大チャンスとなるかと申しますと、長期的にはこれも怪しくなります。何故ならば、中国企業は、潤沢なチャイナ・マネーを駆使して既に東芝の白物家電分野などを買収し、消費財の生産能力、並びに、技術力を飛躍的に高めているからです。13億の市場を背景に中国企業による生産能力が高まれば、生産過剰が問題視されてきた鉄鋼分野のように、廉価な中国製品が日本市場にも流れ込んでくるかもしれません。また、中国が後押しをする形でグローバル化の一環である資本移動の自由化も促進されれば、規模の経済において優位に立つ中国企業は、ますますその資金力を背景に日本企業のM&Aに熱心になることでしょう。今般、ゴーン前会長逮捕事件は、仏ルノーによる日産の合併問題も明るみになりましたが、たとえブランド名は残ったとしても、近い将来、日本企業が実質的に中国企業となる事例が激増するかもしれないのです。中国市場の‘開放の扉’が開かれても、期待とは逆に、中国から企業、製品、資本等が他国市場に進出してくる可能性の方が高いのです(しかも、輸入条件として、貿易決済通貨に人民元を使用するよう求めてくるかもしれない…)。

 結局のところ、中国の消費大国化は、必ずしも輸入増加に繋がるとは限らず、むしろ、アメリカから断念を求められている「中国製造2025」を、アメリカなしで実現するための戦略なのかもしれません。『東方新報』は、中国側が特に輸入品として関心を示したのは食品・農業分野であった伝えており、工業製品では決してないのです。日本国政府は、同盟国であるアメリカとの関係を重視すると共に、中国の一帯一路構想とも結びついた自国中心の長期戦略を見抜くべきではないでしょうか(伝統的な中華思想から脱却できない中国こそ、‘自国ファースト’の権化…)。そして、日本企業も、中国の戦略に利用されぬよう、ここは、慎重に構えるべきではないかと思うのです。

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北方領土問題は日ロ二国間で解決できないのでは?

2018年11月25日 14時52分19秒 | 国際政治
日露平和条約交渉を後押し、外相間でも議論へ
 戦後、解決の日を迎えることなく70余年が経過した北方領土問題。ところが、今般、安倍晋三首相が1965年の日ソ共同宣言を基礎に、平和条約締結に向けた日ロ交渉を進める方針を示したことで、俄かに同問題が国民の関心を惹くこととなりました。同共同宣言では、色丹島と歯舞群島の二島の引き渡しのみを定めているため、日本国政府が、択捉島、並びに、国後島の主権、並びに、領有権を放棄し、ソ連邦の侵略行為を事後承認するのではないかとする懸念も燻っております。

 日ロ間の交渉の行方については不透明感が漂うものの、北方領土問題に関しては、戦後一貫して日ロの二国間で解決すべき問題とする認識が定着してきました。その背景には、ソ連邦は、連合国の一員でありながらサンフランシスコ講和条約の締約国ではないという特別な事情があるのですが、国際法上の一般的な手続きに照らしますと、本問題は、たとえ問題の当事国であったとしても、二国間の合意で解決できないように思えます。

 戦争が双方とも複数の国家群から形成される陣営対陣営を構成する場合、戦争を終結し、平和を回復するに当たって、全ての当事国が参加する講和会議が開かれてきました。同講和会議における全参加国による合意こそ平和条約の締結であり、領土の帰属問題も、講和条約を以って解決されたのです。例えば、全ヨーロッパを巻き込んだナポレオン戦争の後にはウィーン会議が開催され、第一次世界大戦後の講和会議の地はフランスのパリでした。後者では講和条約自体は国別に作成されたものの、講和会議に全当事国が参加し、合意を形成しなければならない理由は、それが、戦後の国際体制を構築する行為に他ならなかったからです。乃ち、講和会議には、単なる和解を越えた国際秩序上の重要な意義があったのです。

 それでは、第二次世界大戦ではどうであったのでしょうか。実のところ、1945年7月26日に発せられたポツダム宣言の頃までは、戦後の国際秩序に関しては、ソ連を含めた体制の構築を構想していたようです(なお、この点は、ひと月前の同年6月に署名された国際連合条約からも確認することができる)。そして、同宣言の八には、「カイロ宣言の条項は、履行せられるべく、また日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限されるべし」とあります。この一文で注目すべきは、‘吾等の決定’という言葉です。何故ならば、この表現は、連合国間での合意を意味しているからです。乃ち、諸小島の帰属については、ロシア(ソ連邦)一国で決定することができない問題なのです。しかも、カイロ宣言でも、「同盟国は、自国のためには利益も求めず、また領土拡張の念も有しない。」とし、大西洋憲章で掲げた原則を再確認していますので、ロシア(ソ連邦)は、その領土拡張を日本国に対して求めることもできないはずなのです。そして、実際に、アメリカは、1965年の日ロ共同宣言に際して日本国政府に警告したように、ロシア(ソ連邦)による北方領土の領有を認めてはいませんし、英仏も不承認の姿勢にあります。

 冷戦の激化により、サンフランシスコ講和会議では、全世界を包摂する新たな国際秩序を形成することはできませんでした(国連も機能不全に…)。そして、慣習国際法ともなっていた戦争終結の正当な手続きを考慮すれば、北方領土問題は、日ロ二国間ではなく、旧連合国諸国が合意し、日本国等を交えた国際会議を招集し、かつ、新たな国際体制の一環として解決すべき問題なのではないでしょうか。第二次世界大戦において掲げられた連合国の大義が、侵略国家と戦い、全体主義の頸木に繋がれた諸国に自由と民主主義をもたらすことにあるならば、ロシア(ソ連邦)による北方領土侵略は、決して承認されることはないでしょう(日本国は、東京裁判において戦争犯罪を問われた…)。そして、第二次世界大戦に際して払われた連合国、並びに、枢軸国諸国の国民の多大なる犠牲が唯一報われる道があるとすれば、それは、全ての諸国の正当なる権利と安全が保障されるべく、法の支配に基づく侵略なき国際法秩序を築くことではないかと思うのです。

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恐るべき韓国の事実認識の誤り

2018年11月24日 13時52分46秒 | 国際政治
米国務省、日韓に連携促す声明 慰安婦財団の解散で
 先日、韓国の最高裁判所は、所謂‘徴用工裁判’において、日本企業に原告一人当たり1000万円余りの賠償を支払うよう判決を下しました。‘所謂’と付けたのは、原告は、戦時の国家総動員法に基づいて徴用されたわけではなかったからです。韓国の場合、事実認識に誤りがあるケースが多く、韓国側が一方的に「和解・癒やし財団」の解散、並びに、事業を終了させた慰安婦問題もその一つです。韓国人の元慰安婦達とは、日本軍に強制連行されたわけでも、無報酬で奴隷化されたわけでもなかったのですから。

 そして、韓国側の事実認識の誤りは、1965年の日韓基本関係条約に際しての国際情勢に関する認識にも見られます。上記の韓国側による二重払い要求の背景には、当時にあって韓国の国力は乏しく、日本国側から十分な‘賠償’を得ることができなかったとする認識があるからです。つまり、今日の国力を以って対日交渉に当たれば、より巨額の資金を日本国から引き出せると考えているのです。この認識には、以下のような誤りがあります。

 第一の誤りは、冷戦期、しかも、朝鮮戦争後の1960年代ほど、日本国と交渉するに際して有利な時代はなかった点です。確かに、韓国の国力は、GDPや軍事力を基準にして現在と比較しますと劣りますが、アメリカのバック・アップと言う面では、現在よりも遥かに恵まれた立場にありました。ソ連邦と対峙し、かつ、北朝鮮とも休戦状態にありましたので、アメリカは、韓国支援のために日本国に対して対韓譲歩を強く求めたからです。加えて、朝鮮戦争で疲弊した韓国経済を立て直すためには、巨額の資金を要するとの判断が手伝ったことも否めません。言い換えますと、国力が弱小であったからこそ、アメリカを後ろ盾とした強気の交渉ができたのであり、この時こそ、韓国にとりまして最適な時期はなかったはずなのです。

 第二の誤りは、再交渉をすれば、日韓請求権協定に定められたよいも多額の資金を日本国から引き出せると考えていることです。日本国による韓国併合は武力ではなく条約によるものであり、サンフランシスコ講和条約でも、一部地域の独立に際しての国、並びに、国民間の請求権に関する相互清算の規定として第4条を置いています。韓国との間では戦争賠償は存在せず、サンフランシスコ講和条約第21条でも朝鮮は賠償対象国から除外されていますので、純粋に請求権を相互に清算するならば、韓国側の対日支払額が日本国側の対韓支払額を上回るはずでした。しかしながら、第一の誤りで指摘した事情から、アメリカが、経済支援の名目で純粋な清算を越えた支払いを日本国側に求めたのです。仮に、韓国側が、日韓基本関係条約を破棄し、再交渉を求めるとすれば、交渉のスタートラインは講和条約第4条が定める請求権の相互清算となり、むしろ、韓国側が日本国に対して‘支援金’を全額返還してもまだ足りないこととなりましょう(日本国は、朝鮮半島にインフラを残すと共に、朝鮮半島に居住していた日本人は全財産を奪われている…)。

 第3に指摘し得ることは、韓国側は、朝鮮半島の統治を賠償の対象と見なしている点です。特に日本国の場合には、再三指摘されているように、統治時代を通して日本国から財政移転が行われており、同地の人々を搾取したわけではありませんでした。物的、並びに、財産上の損害を与えていないのですから、日本国は、賠償する法的な義務を負わないのです(旧宗主国に対して旧植民地に賠償を義務付ける国際法は存在していない…)。韓国側は、義務教育等を介して、日本国による統治時代を残酷で非人道的な植民地支配として国民に刷り込んでいますが、これこそ、事実とは異なる悪質な‘フェークニュース’に他なりません。

 韓国の人々は、何故、事実を丹念に拾い上げて調べ上げ、自分自身の頭で歴史を再構築して真相を掴もうとしないのか、不思議でなりません。また、客観的な事実認識と主観的な歴史認識との違いを理解しようとしないのでしょうか。アメリカの国務省は、慰安婦財団の解散に関して日韓に連携を促す声明を発表しておりますが、韓国が事実を正確に認識しないことには、永遠にこの問題は解決しないのではないかと思うのです。

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日産問題から見える日仏を超える支配?

2018年11月23日 14時14分08秒 | 国際政治
日産ルノー連合継続「強く支持」 日仏閣僚会談、沈静化図る
日産のゴーン会長逮捕事件は、同社が仏ルノーと提携関係にあるため、日仏両政府が揃って日産ルノー連携の維持を支持する共同声明を発表する事態にいたりました。混乱の早期鎮静化を狙った支持表明ですが、フランス政府がルノー社の15%の株式を保有する筆頭株節であるのに対して、日本国政府は日産株を保有していませんので、ここでもグローバリズムが想定する政経分離は理念に過ぎなかったことになります。そして、日産問題は、‘統合’に纏わるもう一つの問題を提起しているように思えます。

 ‘統合’とは申しましても、細かく分類して見れば幾つかのタイプがあります。例えば、(1)参加者が全員対等の立場となる並列型、(2)参加者のうち、特定のメンバーが他のメンバーを支配する垂直型、(3)全参加者の上部にこれらを統括するポストを新設する超越型、さらには、(4)参加者が組織である場合には、一旦、全ての構成員を分解して再組織化する融合型などを挙げることができます。グローバリズムの理想は(4)なのでしょうが、日産、ルノー、三菱自動車の三社連合のケースを観察しますと、これらの要素を全て含む混合型のように見えます。表向きは三社対等の(1)でありながら、資本関係からその実態はルノーが主導権を握る(2)であり、日産の経営陣の構成に注目すれば、(4)の側面もないわけでもないからです。そして、同三社連合には、(3)、即ち、超越型の要素も垣間見られるのです。

 報道に拠りますと、ゴーン容疑者の不正行為の温床となったのは、オランダの子会社であったそうです。実のところ、三社連合の本拠地とは、日本国でもフランスでもなく、オランダのアムステルダムに設置されており(アムステルダムには、ルノーと日産が対等出資して設立された共通本社機能を有するルノー日産BVと日産の投資子会社ジーアの二社があるらしい…)、同氏は、この地を居住地としていたらしいのです。同地に本拠地を構えた理由については、日産の幹部の憶測として‘個人情報の開示義務が緩く、所得税も低い’点が挙げられておりましたが、この憶測が正しければ、ゴーン容疑者は、自らの個人的な金銭欲のために三社連合を私物化し、私益のために利用したこととなります。日産の利益がルノーに吸い上げられ、かつ、決定権も握られる資本関係から生じる両社間の‘いびつな日仏企業間関係’の他に、今般の事件には、カルロス・ゴーン容疑者個人、並びに、そのパーソナルな属性に起因する(3)の超越型による‘企業乗っ取り’、あるいは、利益を外部に横流しにする‘ループ造り’というリスクが認識されるのです。しかも、その舞台がオランダであることには、陰謀めいた意味があるようにも思えます。(*2019年1月に発信された情報では、アムステルダムの統括会社は、日産・ルノーではなく、日産・三菱自動車の二者による共同出資で設立されたらしい。)

 本事件では、ゴーン容疑者の他に、代表取締役を務めていた腹心のグレッグ・ケリー容疑者も逮捕されておりますが、果たして、超越型の統合による三社連合の掌握は、ゴーン容疑者一人の個人的な野望によるものなのか、それとも、組織的な活動であったのか、この点については情報不足のために不明です(両者ともイエズス会系の教育機関で学んでおり、共通点がある…)。しかしながら、‘統合’の結果、企業連合の最高決定権が同連合を構成するメンバー企業の手を離れ、個人、あるいは、外部者に移ってしまうリスクがあるとすれば、国際的な企業間連携には、相当の注意が必要ということにもなります。

 なお、日産問題も元をただしますと、規模を追求せざるを得ないグローバル時代の企業間競争の在り方に問題があります。WTO改革では、知的財産権の保護や政府補助等の問題が中心課題となるようですが、今般の事件を機に、規模に優るグローバル企業、あるいは、企業グループしかサバイバルできない、否、サバイバルしているように見えながら、その実、‘統合’による独立性の喪失、あるいは、従属化というリスクをはらんでいる現状を、競争政策強化の観点から見直すべきではないかと思うのです。

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日産問題は‘統合vs.独立’の相克の縮図

2018年11月22日 15時55分13秒 | 日本政治
日産・ルノー・三菱自、ゆらぐ力関係 「扇の要」失脚で3社連合に暗雲
カルロス・ゴーン会長の逮捕劇は、日産、仏ルノー、三菱自動車の三社連合の要であった同氏の立場が立場なだけに一民間企業の一個人による不祥事として扱うには、あまりに多くの問題を含み過ぎております。そしてそれは、今日、人類が直面している‘統合’と‘独立’との間に見られる相克の縮図でもあるように思えます。一般的には、‘統合’と‘分離’、並びに、‘支配’と‘独立’が一対の反対語とされています。ところが、今日のグローバル時代にあって、抜き差しならない状況に至ったのは、‘統合’と‘支配’、並びに、‘分離’と‘独立’が一体化して進行する現象が起きているからです。

日産の事例を見て見ますと、日産と仏ルノーとの関係は、後者が日産の議決権付き株式の43.4%を有する大株主である一方で、前者は、仏ルノーの議決権が付与されていない株式を15%保有しています。しかも、フランス政府もルノー株の15%を保有しており、同社はグローバル企業、かつ、半官半民のハイブリットな企業でもあるのです。その一方で、日産・三菱自動車との関係は、日産が同社の株式の34%を保有する形で形成されていますが、三社連合の目的が、グローバル市場における‘規模の経済’の追求にあったことは容易に想像できます。

 株の持ち合いの構図からすれば、仏ルノーが三社グループの筆頭の地位にありますが、企業としての売上高を基準に三社を比較しますと、三社間の関係は変化します。2017年の売上高を見れば、ルノー7.6兆円、日産12.0兆円、三菱2.2兆円となりますので、日産とルノーとの関係は逆転し、同グループにおける‘稼ぎ頭’は日産となるのです。

 こうした株式保有と売上高との間に見られる非対称な‘ねじれ関係’は、日産側に不満をもたらす原因ともなってきました。同社は、ルノー側の巨額出資とゴーン会長の辣腕により経営危機を脱したものの、今や、ルノーの売上高の半分が日産による株主配当等の‘移転’によって支えられる状況が常態化してしまったからです。しかも、三社連合では、企業活動を9つの分野に分けて分野ごとに統合を進める「機能統合」という手法が採用されているそうです。このシステムでは、各分野の統括者として設けられた「アライアンス・リーダー」の各々がトップのゴーン会長に報告する集権型の指揮命令系統となります。三社の上部に超越的地位を設けるパーソナルな統合形態こそ、ゴーン集権体制を支えてきた仕組みなのです。つまり、3社は並列的な関係ではなく、グループ内の垂直的、かつ、人治的なシステムに組み込まれているのであり、この結果、日産側は、独自の決定権限を‘三社連合’にいわば奪われる格好となるのです。

 マスメディアの風潮では、グローバル化の時代とは統合の時代でもあり、特に国境を越えた企業間の結びつきは手放しで称賛されております。しかしながら、統合とは、常に独立性の喪失と背中合わせであり、これは、ヨーロッパ諸国がEUと加盟国との間で権限の配分をめぐる‘綱引き’として嫌と言う程に経験してきたことでもあります。日産のケースでは、出資比率が三社間の‘序列’の決定要因となったため、見方によっては、日産がルノーに‘支配’され、EU以上に不平等な関係が固定化されてしまったとも言えます。そして、ゴーン氏が、フランス政府の意向を受けて、日産の完全子会社化といった手法で日産を仏ルノーに‘献上’し、完全統合を目指したまさにその矢先に、今般の事件が発生したのです。

 タイミングがタイミングだけに、‘日産のクーデタ’とも評されるのですが、本事件は、‘統合’というもののリスクを余すところなく示しております。今後の行方につきましては、ポスト・ゴーン体制として、より人に頼らないよりシステマティックな三社間の統合を深化させる、あるいは、資本関係を中国企業等の他国企業にも広げて統合を拡大させる、といった意見も聞かれます。しかしながら、資本力が優位となるグローバル時代にあって、‘統合’が独立性を失い、支配されるリスクを伴う現実を考慮しますと、日産は自社の独立性こそ高める道を探るべきかもれません。真のグローバリズムとは、国家間にあっても企業間にあっても独立性や対等性が確保されてこそ全人類に益するのであり、‘統合’が‘支配’と同義となってはならないのではないと思うのです。

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移民政策の行く末を暗示するカナダ旭日旗撤去問題

2018年11月21日 15時16分30秒 | 国際政治
カナダの学校で旭日旗撤去 歴史教材、不快と生徒署名
日産の前会長のカルロス・ゴーン氏の逮捕をはじめ、最近、‘グローバリズム’の理想を‘グローバリスト’自身が打ち砕く事件が相次いでいるように思えます。そして、本日報じられたカナダのバンクーバーで起きた旭日旗撤去問題も、理想と現実とのギャップを際立たせているように思えます。

 旭日旗撤去問題とは、カナダのバンクーバー市に所在する中高一貫教育校において、教室の壁に教材として旭日旗が貼られたところ、これを‘不快’と感じた韓国系生徒等が「日本の戦争犯罪を想起させる」として署名活動を展開し、学校側に撤去させたとする事件です。何故、この事件がグローバリズムの理想を脆くも壊してしまうとかと申しますと、グローバリズムの宣伝文句では、グローバルな時代に生きる人々は、もはや、国籍、人種、民族、性別といったあらゆる属性から‘解放’された、最も‘進歩’、あるいは、‘進化’した人類と見なしているからです。

 今般の事件に見られる韓国系生徒たちは、表面的には‘グローバリスト’の申し子のような存在です。太平洋を隔ててカナダで学校生活を送り、おそらく、国籍についても、カナダ国籍取得者の子孫、あるいは、多重国籍者であるかもしれません。また、その行動を観察しましても、署名活動は、カナダ国内に留まらず、国境を越えて北米大陸にも展開しており、歴史問題で共闘関係にある中国系の人々とも連携していることでしょう。活動範囲のグローバル性に加えて、その撤去理由も、一先ずは、ナチスドイツと戦前の日本国を同一視し、戦争犯罪を糾弾するという論法を採用しており、普遍主義的な立場を装っています。

 しかしながら、彼らが、国籍、人種、民族といった属性から完全に‘解放’されているのか、と申しますと、現実は、その逆ではないかと思うのです。国籍の如何にこだわらず、また、地球上のどこに居住していても、韓国人のアイデンティティーを頑なに保持しつづけ、出身国である韓国、並びに、その主観的な‘歴史認識’に絶対的な忠誠を誓い(しかも客観的な事実とは異なる…)、同国の利益のために活動しているからです(所謂徴用工判決や慰安婦基金の解散など、韓国での反日政策は、目下、過激化の一途を辿っている…)。言い換えますと、彼らにとりましての‘グローバリズム’とは、自らの正体を隠す隠れ蓑、もしくは、敵視する相手を糾弾する方便でしかなく、その実態は‘過激なナショナリズム’であり、国境の内側に留まって相互に認め合う‘健全なナショナリズム’よりも、無境界の拡散性がある故に、厄介としか言いようがないのです(もっとも、)。

 人類の歴史を振り返りますと、古代ローマにあって、征服地から集められた多様な民族出身者が‘奴隷階級’として一緒くたに扱われたように、属性の消去は、必ずしも‘解放’を意味しません。それどころか、人類のみが、その分散定住に根差した多様な歴史や文化を有する存在であるとしますと、個々人から帰属集団の属性を消し去るという意味での‘解放’とは、人類が動物化することに他ならず、‘進歩’どころか‘後退’であり、‘進化’どころか‘退行’なのかもしれないのです。

 グローバリズムの時代にあっても属性を完全に払拭することはできないとする認識から、過渡的な措置として多文化共生主義が前段階として用意されたのでしょうが(同化政策では世界各国の固有の文化を破壊できないから…)、人は無色なモノではない以上、日本国内でも、バンクーバーと同様の事件が頻発することでしょう。韓国出身者は旭日旗のみならず、日の丸の撤去を求めるかもしれませんし、中国出身者は、日本国の教科書の内容にもクレームを付けることでしょう。事実よりも‘歴史認識’を重視する諸国は、自国のそれが日本国内で唯一絶対の‘公定の定説’の地位を得るまで決して満足しないかもしれません。人の自由移動が活発化するグローバル化の時代では、諸外国で起きた事件は、自国の国内でも当然に起こり得るのです。

 日本国政府は、入国管理法の改正により、事実上の移民政策を進めようとしておりますが、その先の混乱と破壊を見て見ないふりをしているとしましたならば、人類の動物化に加担する確信犯なのではないかと思うのです。

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日産ゴーン会長逮捕が暴く‘グローバリスト’の実像-野蛮への回帰リスク

2018年11月20日 13時08分19秒 | 国際政治
ゴーン流20年で統治不全「権力集中、負の側面」
 昨日、速報で報じられた日産のカルロス・ゴーン会長の逮捕は、同社が典型的なグローバル企業の一つであっただけに、衝撃的なニュースとして全世界を駆け巡りました。同氏が会長を務める仏ルノーの株価は大幅に下落し、東京やニューヨークの株式市場でも日産の株価が急落しています。経営危機にあった日産を立て直したゴーン氏は、一夜にしてその名声を失ったかのようです。

 ゴーン会長逮捕の一件は溜ってきた膿を出すチャンスともなり、長期的には企業経営にプラスに作用しますので株価下落もやがて収まるのでしょうが、本件は、‘グローバリスト’の実像をも明らかにしたように思えます。何故ならば、同事件で報じられたゴーン会長の罪状は、文明社会の規範や企業倫理とは遠くかけ離れていたからです。

 第1に、ゴーン会長は、公私の区別がつけていません。同氏は、オランダの日産子会社を介して海外の高級住宅を購入し、私的に使用していたそうです。あたかも会長ポストに付随する当然の特権かのように、会社の組織も財産も私物化しているのです。この他にも、会社資産の個人的な流用も疑われており、公私混同のメンタリティーは、前近代的な思考様式と言わざるを得ません。ゴーン氏は、レバノン系ブラジル人として出生し、パリで教育を受け、アメリカや日本国で働いた経験を有する典型的なグローバリストですが、このグローバルな多様性は、必ずしも清廉潔白にして自己を厳しく規律する理性的な現代人のメンタリティーを伴うわけではありません。むしろ、先進国に前近代的なメンタリティーを持ち込む‘キャリアー’ともなり得るのです。

 第2に挙げられる点は、その植民地主義への回帰です。日産社員の談によりますと、日産とルノーとの関係は、表面上は対等を謳いながらもその実態は日産がルノーによって‘植民地’にされているかの如きなそうです。ルノーの利益の凡そ5割は日産から上がっており、後者の利益が前者によって吸い上げられているのです。植民地支配の特徴の一つは宗主国による植民地の搾取ですが、財政移転の方向性を基準にすれば、ルノーが日産を植民地化しているとする見方も成立するのです(なお、日本国の朝鮮統治が植民地支配ではないとされる理由は、財政移転の方向が宗主国⇒現地であり、植民地一般と逆であるから…)。グローバリズムによる企業間の連携やM&Aは、時にして植民地主義を復活させてしまうのです。

 第3に指摘すべきは、傲慢な独裁主義の長期化です。日産のトップに就任して以来、ゴーン氏が同社においてリストラの柱としたのは大量の人員削減でした。日本国の企業は、‘村社会’とも称されたように、伝統的な村落に類似した共同体的な組織を企業文化として培ってきましたので、情が働いて解雇といった社員を路頭に迷わせるような酷な手段を極力避ける傾向にありました。日産のように経営が倒産の危険水域まで傾いた場合には、しがらみのない部外者を招いて合理主義に徹した改革を実行するのも致し方ない面もあり、実際に同氏招聘による改革が奏を効してV字回復を遂げたのでしょうが、長期的に見れば、日産の社内体質を変え、独裁体質を根付かせてしまう機会となったことも否めません。その後も同氏は、日産の救世主の名の下で君臨しつづけ、5年間で50億円という法外な報酬を受け取り続けたのですから。しかも、日産立て直しの期間にあっては実績と報酬は釣り合っていたものの、それ以降は、同氏の報酬は実績を伴ったとは言い難くなります。先立って発覚した検査不正事件に際しても、ゴーン会長は、最高責任者として陣頭指揮を執って対処するどころか、関西のとある島で家族と過ごしていたそうです。無責任なトップが高給を食み、豪遊しているようでは、社員の士気も下がりましょう。これではまるで、どこかの国の独裁者かのようです。

‘グローバリスト’と申しますと、時代の先端を切り開くクールで理知的、かつ、遠の昔にネポティズムや権威主義とは決別した‘新しいタイプの人々’とするイメージがありますが、その実態が欲望にすこぶる弱い泥臭い‘おじさん’であったことを、ゴーン氏は、図らずも自らの身を以って明かしてしまったのかもしれません。

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外国人労働者をも不幸にする‘前借金システム’-入国管理法改正案の問題点

2018年11月19日 15時36分26秒 | 日本政治
誤集計の失踪実習生調査、元データを与野党に開示 法務省
大航海時代の幕開けにより、‘人の移動’とは、自らの力を信じ、新天地に夢を求めて海を渡る独立心と進取の精神に富んだ人々のチャレンジとするイメージが振り撒かれています。しかしながら、この華やかな冒険時代の裏側では、新大陸の需要に応えるべく労働力として売買された奴隷貿易船も広大な大西洋を行き交っていました。‘人の移動’に纏わる‘光と影’は、‘自由と束縛’と見事なまでに対照を成しています。

 そして、‘人の移動’の影の部分に注目すると、近代の奴隷狩りによる奴隷売買とは異なる別の‘束縛’の手法をも見出すことができます。奴隷の歴史を遡りますと、戦争が最も典型的な奴隷化の契機ですが、他にも幾つかの奴隷化の形態があります。その一つに債務奴隷と呼ばれるものがあり、これは、借金を返済できなかった債務者が債権者の奴隷とされるという形態です。例えば、古代ギリシャのアテネでは、早くから貨幣経済の発展した商業都市であったこともあり、債務奴隷の数が激増したため、紀元前594年には、執政官となったソロンが借金の帳消し政策を実施し、奴隷に転落した人々を市民に復帰させると共に、海外に奴隷として売り払われた元アテネ市民をも祖国に呼び戻しています。この時代、借金とは、金銭を得るのと引き換えに、奴隷身分への転落や海外売却のリスクを伴う危険な行為でもあったのです。

 債務奴隷制度は古代に限られたことではなく、近代に至るまで、姿や形を変えながら同様の制度が世界各地で行われてきました。シェークスピアの名作『ベニスの商人』も、借金の形に命を失い兼ねなかった青年の救出劇として知られています。また、実のところ、特定の職業への就業に伴う前借制度は、日本国でも、炭鉱労働や風俗業などにしばしば見られた形態なのです(もっとも、日本国の場合には、これらの職業は労働条件こそ厳しいものの、報酬については平均所得を超える高額の賃金が支払われていた…)。‘身売り’とも表現されたように人身売買的なニュアンスが伴うため、国内では前借による雇用契約は殆ど姿を消しましたが、今日なおも完全に消滅したわけではないようです。そして、僅かに残された‘前借金システム’こそ、海外における外国人労働者の募集に他ならないのです。

 ベトナム等の東南アジア諸国では、現行の外国人実習制度を通して訪日する外国人の多くは、手数料や日本語研修等の名目で100万円ほどの借金を斡旋業者等に負っているそうです。日本国での給与は月収12万円ほどですので、生活費を差し引けば借金完済には相当の年月を要します。また、職場に対する不満から途中で帰国しようとしても、借金が残っているためにその望みも叶いません。外国人実習生制度の問題点は、低賃金や労働条件のみならず、前借金システムによる斡旋業者や派遣業者による束縛にもあるのです。

 入国管理法改正によって新資格が創設されれば、外国人技能実習生の多くが特定技能1号に移行すると説明されていますが、日本人と同等の賃金や待遇が約束されても、‘前借金システム’が温存されていれば、外国人労働者は、特定の斡旋業者や派遣業者、あるいは、それの背後に控えている金融業者の‘餌食’となりましょう。また、5年間で最大34万人もの受入枠が設定されておりますので、市場の‘パイ’も大きくなります。もっとも、政府の説明では、外国人労働者やその家族の日本語教育等については雇用者や地方自治体等が責任を負うとしており、これが来日外国人労働者の個人負担の軽減、即ち、前借の不要化、あるいは、減額を意味するならば外国人労働者にとりましては朗報となります。しかしながら、その分、特に一般の日本国民は財政面のみならず、行動面や精神面でも負担だけを負わされますので、同法案に対する反対の声はさらに強くなりましょう。

何れにしても、‘人の移動’をビジネスにしている人々は、外国人労働者、並びに、受け入れ国の一般国民を犠牲にしつつ、自らの負担やコストは他者に転嫁すべく‘いいとこ取り’を狙っているようにも見えます。国境を越えて人を移動させるだけで、自らの懐に莫大な利益が転がり込むのですから。入国管理法改正よりも、まずは、‘前借金システム’を含め、既成事実化されてしまっている外国人技能実習制度の諸問題について議論すべきなのではないでしょうか。1872(明治5)年、当時の日本国政府は、人道主義を唱えて清国から‘輸出’された苦力を解放しましたが(マリア・ルス号事件)、今日にあってなおも、日本国は、名誉ある人道国家であるべきと思うのです。

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日本国政府が‘国営派遣業者’になる?-入国管理法改正案の問題

2018年11月18日 14時33分15秒 | 日本政治
国民が注視する中、事実上の移民受け入れ政策への転換とも評される入国管理法改正法案は、政府側が提示したデータに虚偽があったことから、国会での審議入りが中断しております。この法案、その影響が広範囲に及ぶために様々な問題が山積しているのですが、関連情報から推測される日本国政府の姿はあたかも‘国営派遣業者’であるかのようです。

 ネット上では、同法案の草案が閲覧できないとする不満も上がっており、そもそも、改正案とはされていながら、漠然とした骨格程度しか記されていないのかもしれません。政府の説明もころころと変わり、しかも、外国人実習生の失踪原因に関するデータに虚偽があったくらいですから、政府が外国人労働者受け入れ拡大の根拠として挙げてきた人手不足等の数字も怪しいものです。つまり、‘最初に結果ありき’であり、おそらく、決定されているのは、今後5年間に予定されている受け入れ人数ぐらいなのではないでしょうか。その他の尤もらしい根拠は、国民を納得させるための後付けでしかないのでしょう。

 最大で34万人という数字は、欧米諸国での移民・難民受け入れ数の減少や中国等の余剰人口を考慮しますと、国連等を背景とした‘国際圧力’、あるいは、日本国政府も加担した‘国際密約’である可能性も否定はできません。これに加え、背後には、国際社会に蠢く移民・難民ビジネスの存在も垣間見えるのです。かのチンギス・カーンは、モンゴル帝国をユーラシア大陸一円に築くに際し、征服地の住民の多くを、ユダヤ・イスラム商人を介して奴隷として主に中近東・北アフリカのイスラム諸国に売りさばきました。奴隷とまではいかないまでも、近代にあっても、中国は、自国民を苦力として輸出していましたし、近年のシリア難民の中にも、低賃金労働者として使役されている人々も少なくないのです。古来、‘人の移動’は、ビジネスチャンスでもあった歴史を振り返りますと、国境を越えた‘人の移動’にはどこか胡散臭い怪しさが漂うのです。

 こうした観点から入国管理法改正案を見てみますと、対象とされる14分野における予定受け入れ人数に関して、メディアが、‘配分した’とする表現を用いている点が注目されます。つまり、人材不足に悩む事業者からの‘強い要望’と説明しながらも、政府は、人員を各分野に割り振る役割を果たしているようなのです。おそらく、34万人枠が当初から決められており、各分野への割振りは、日本国政府に委任されているのでしょう。そして、これらの外国人労働者は、特定技能1号の資格では5年を在留年限としておりますので、正規雇用でもありません。近年の傾向として、日本国の企業は正規雇用を増やしておりますので、外国人労働者とは、いわば、日本国が斡旋する派遣社員のようなものなのです。

 安倍政権の指南役としては、しばしば、新自由主義者にして派遣事業大手のパソナグループの取締役会長の竹中平蔵氏の名が挙がっておりますが、入国管理法改正による外国人労働者の受け入れ拡大は、正規社員の増加で市場が縮小した人材派遣業の救済策である可能性も否定はできません(当初、政府は事業者による直接雇用が望ましいと説明していたが、後に、間接雇用、即ち、人材派遣業を介する方法も容認している…)。特定の民間事業者に対する利益誘導の疑いがある一方で、入国管理権を握る政府自身が、外国人労働者の‘手配師’、あるいは、‘人入れ稼業’に従事しているようにも見えてくるのです。もしかしますと、人数枠が存在するとしますと、中国といった他国の政府との間で、既に秘かに‘国民の取引’が行われているのかもしれません。日本国政府は、1号資格者に対しても、特別の事情があれば家族の帯同を許すとしていますが、こうした特例の運用も、やがて管轄官庁(多文化共生庁?)の利権化するかもしれないのです。

 奴隷貿易や人身売買程ではないにせよ、他人を移動(就職)させるだけで利益を得る職業であるため、人材斡旋業は、古来、中間搾取的な側面から倫理的に批判もされてきました。国際社会にあっては、人の移動につきましては、グローバリズムにあっては当然視され、かつ、移民や難民側の権利尊重や人種差別反対の立場からの擁護論が幅を利かせておりますが、その負の側面にも関心を払うべきなのではないでしょうか。

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日ロ平和条約が第二の日ソ中立条約になる?

2018年11月17日 15時43分44秒 | 国際政治
報道によりますと、ロシアとの平和条約締結に向けて意欲を示した安倍晋三首相は、返還される北方領土には、米軍基地を置かない意向をロシア側に伝えたそうです。北方領土問題の解決を困難としてきた最大の要因はロシア側の軍事戦略上の対米懸念であったとする認識に基づく提案であり、この‘棘’を抜くことこそ、同問題解解決への最大障壁を取り除くことに他ならないと考えたのでしょう。しかしながら、相手国がロシアなだけに、仮に、米軍排除条項を含むのであれば、日ロ平和条約は、第二の日ソ中立条約になりかねないリスクがあります。

 日ソ中立条約とは、第二次世界大戦の最中の1941年4月に、ユーラシア枢軸構想、即ち、日独伊ソ四国同盟構想の下で、日本国とソ連邦が相互に中立を約した条約です。1945年8月8日の対日参戦に際してソ連邦が一方的に同条約を破ったため、日本国側は、ソ連邦の対日参戦、並びに、その後の北方領土の占領とソ連邦の国内法による併合は、国際法上の違法行為と見なしています。とりわけ、北方領土問題については、日本国のみならず、アメリカをはじめとした旧連合国諸国でさえ、ソ連邦違法説が共有されているのです。

 仮に、日ソ中立条約が存在していなければ、第二次世界大戦は全く違った展開を遂げていたことでしょう。ソ連邦は日独の挟み撃ちにあい、西方のヨーロッパ戦線に全兵力を投入することはできなかったはずです。ソ連邦が最も恐れていた東西二正面戦争を避けられたのは、偏に日ソ中立条約が締結されており、しかも、日本国が、この条約を誠実に遵守したからに他なりません。一方の日本国も、同条約がなければ、南方に戦線を拡大するよりも満州国の国境地帯に兵力を集中させたかもしれません(石油資源はインドネシアではなく、ドイツとの協力の下でソ連邦のバクー油田に求めたかもしれない…)。そして、千島列島や樺太のみならず、満州国や朝鮮半島でも、ソ連参戦時における民間人虐殺といった惨事を回避することができたことでしょう。同条約の締結は、目立たないように見えて、第二次世界大戦の流れを大きく変えたといっても過言ではないのです。

 そして、日ソ中立条約が歴史の教訓を残しているとしますと、それは、順法精神に欠けた国とは軍事的な約束を結んではならない、という戒めなのではないでしょうか。今般の日ロ平和条約も、米軍基地排除条項は、将来においてロシアが一方的に条約を破棄、あるいは、無視し(日中友好平和条約も既に空文化…)、日本国に対する軍事侵攻を試みた場合、第二次世界大戦末期の二の舞となる可能性を否定はできないように思えます。米軍基地を置かないとしても、自衛隊基地を設ければよいとする意見もありましょうが、ロシアは核保有国であることに加えて、軍事大国ロシアに対峙する北方の守りとしては手薄感があります。特に、将来的に米ロの対立が先鋭化した場合、アメリカにとりまして在日米軍基地は世界戦略上の重要な軍事拠点ですので、米軍基地排除条項は、日米両国に課せられた軍事上の制約条件ともなりましょう。

 もっとも、考えてもみますと、日本国内における在日米軍基地の最北端は青森県の三沢飛行場であり、現状にあっても北海道には米軍基地が設置されていないことから(ソ連邦(ロシア)を刺激しないため?)、米軍基地が北方領土問題の‘棘’であるとするロシアの主張は日本国への領土返還を拒む理由付けに過ぎず、真の目的は、米軍基地の問題を持ち出すことで日米同盟に揺さぶりをかけ、北方領土問題を日米離反に利用することなのかもしれません。あるいは、米中対立の深刻化を受けて、日米がロシアに対して譲歩している可能性もないわけではありませんが、ご都合主義的なソ連邦との同盟がもたらした期待外れの結末は、第二次世界大戦における連合国の歴史もまた証明しております(結局、共産主義国家ソ連邦が周辺諸国を頸木で繋ぎ、冷戦が発生した…)。

 何れにいたしましても、日本国政府は、ロシアによって条約を反故にされた苦い歴史的教訓を忘れてはならないのではないかと思うのです。同じ轍を踏まないよう、ロシアとの交渉に際しては筋を通し、迂闊に譲歩してはならないのではないでしょうか。

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プーチン大統領の北方領土戦利品論の不正義

2018年11月16日 11時24分41秒 | 国際政治
四島一括か二島先行か…揺れ続けてきた日露交渉史
東方経済フォーラムにおける首脳会議の席で、突如、日本国との条件なしでの平和条約締結を言い出したロシアのプーチン大統領。この時、日本国の安倍晋三首相は、一旦は同提案を拒絶しましたが、今に至り、56年の日ソ共同宣言を基礎として対ロ交渉を加速させる動きを見せています。

北方領土問題については、かねてよりプーチン政権は、北方領土は第二次世界大戦において獲得した‘戦利品’とする持論をロシア政府の公式見解としています。この見解、レーニンが不拡大主義を唱えたこともあって、‘戦利品’と言い切るまでには至らなかったソ連邦時代と比較しても過激であり、いわば、‘開き直り’宣言とも受け止められます。しかしながら、この主張、法のみならず、歴史的な事実に鑑みても不当としか言いようがないのです。

 ロシア側は、戦利品論の正当性を主張するために、第二次世界大戦において自国が払った犠牲の甚大さをしばしば強調しています。‘ロシア人の血は北方領土を以って贖われたと…’。しかしながら、ソ連参戦に至る歴史の経緯を顧みれば、ソ連邦は、日本国との戦闘においては殆ど人的、並びに、物的な被害や損害を受けていません。戦時にあって、極東に位置する日本国は、ドイツ、並びに、イタリアとの三国同盟の下で軍事同盟関係にはありましたが、ヨーロッパにおいて隣接する独伊のように共同で軍事作戦を採ることはありませんでした。しかも、戦時期は日ソ中立条約の有効期間にあり、日本国は、同条約を遵守しソ連邦との国境地帯は僅かな兵力しか置いていません。ソ連邦が闘った主敵はあくまでもドイツであって、日本国に対するソ連邦の戦いとは、日本国の敗戦を見越した一方的な侵攻と破壊、そして、民間人に対する非道な殺戮なのです。上記のプーチン大統領の言い分は、ドイツに対しては当てはまるかもしれませんが、日本国に対しては、全く通用しないのです(この点、ドイツは、旧同盟国である日本国の北方領土問題についてどのように考えているのでしょうか…)。

 ここに、軍事同盟関係に基づいて参戦して勝利した国は、その勝利を以って敗戦国に対する領土割譲の正当な根拠となし得るのか、という問題が提起されます(因みに、大西洋憲章では連合国の原則として不拡大主義が約されている…)。この問題を考えるに当たって、国連憲章の第55条において認められている集団的自衛権は参考になります。軍事同盟を構築する権利は、あくまでも自衛を目的とした権利であり、攻撃や侵略を目的としている場合には許されてはいません。なお、国連憲章の発効日は1945年10月24日ですが、その署名日はソ連邦が対日参戦を宣言した8月8月を一ヶ月以上も遡る6月26日です(もっとも、同憲章における‘敵国条項’は、ソ連邦の対日参戦を念頭に置いていたかもしれない…)。

ソ連邦としては、1941年12月のアメリカに対する日本国の真珠湾攻撃を同盟国の一国に対する攻撃と見なしたかったのかもしれませんが、この時点では、米ソ間に同盟関係はありませんでした。また、ソ連邦が参戦した時期は、日本国では、既にポツダム宣言受け入れは時間が問題となっていた戦争末期であり、日本側からソ連邦に攻撃を仕掛ける余力は最早残されてはおりませでした(ソ連邦が‘火事場泥棒’と批判された理由…)。況してや国連憲章では、他国の領土保全や政治的独立を脅かす武力の行使を戒めています。

乃ち、当時のソ連邦の行動は、侵略を違法とする慣習国際法にも反し(連合国はドイツの侵略行為を咎めている…)、連合国内で定めた行動規範―不拡大主義―からも逸脱する共に、国連の出発点にありながらそれが定める行動規範をも踏み躙っているのです。

 今般、色丹島と歯舞群島の2島の引き渡しを約した56年の日ソ共同宣言を基礎として交渉を始める方針が示されているため、日本国内では、安倍政権が択捉島と国後島をロシアに正式に割譲するのではないかとする懸念も広がっております。今後の日ロ交渉では、色丹島と歯舞群島の帰属問題も議題となるとされており、この点に関しては、プーチン大統領は‘戦利品論’を引き下げざるを得なくなりますが、択捉島と国後島の2島を永遠に失うのでは、駆け引き上手なロシアの策略の罠にかかったとしか言いようがありません。

そして、日本国の対ロ譲歩は、多大なる犠牲を払って第二次世界大戦で終止符を打ったはずの武力による領土獲得の歴史を蘇らせ、再度、人類を苦しめる結果を招きかねないのです。プーチン大統領は、臆面もなく戦利品論を打ち出していますが、仮に、ロシアが武力で領土を奪われた場合にも、‘それは戦勝国側の戦利品だから仕方がない’と諦めるのでしょうか。芥川龍之介の『羅生門』のようなお話になるのですが、ロシアの主張を認めることは、国際社会全体が弱肉強食の野蛮な世界に戻ることを是認するに等しいのです。ロシアが無法国家であり、真の正義を理解しない国である限り、妥協による北方領土問題の解決は、人類に退行をもたらすとともに、法の支配が行き渡る安全な国際社会を自ら放棄するようなものではないかと思うのです。

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