万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

歴史が示す戦争の経済的要因-危ない現状

2022年10月31日 13時09分11秒 | その他
 戦争とは、領土争いといった政治的な国家間の対立のみを原因としているわけではありません。とりわけ、近代以降の戦争の背後には、経済的な利益追求や利害関係が分かちがたく絡んでおり、どちらが主因であるのか判然としない、あるいは、本当のところは定説とは逆に後者が主因であるのかもしれません。何れにしましても、戦争を抑止しようとすれば、経済的要因にも注目する必要がありましょう。

 例えば、戦前のドイツにおけるナチスの台頭は、第一次世界大戦における敗北そのものよりも、同戦争の対独講和条約であるヴェルサイユ条約がドイツに課した天文学的な賠償金の支払い問題にあります(第一次世界大戦も、主たる要因は世界大での権益争い・・・)。支払いに窮したドイツは、国内においてハイパー・インフレーションを起こすことで債務の負担軽減を試みた結果(凡そ1921年~23年)、ドイツ経済は崩壊の危機に瀕し、資産を失い、失業の憂き目にあった国民の不満を吸収したナチスが、民主的選挙にあって躍進します。その一方で、第一次世界大戦後にあって戦勝国となり、国土も殆ど無傷であったアメリカは、戦間期にあって未曾有の好景気を謳歌しますが、投機ブームに踊ることになったアメリカも、遂に証券市場のバブルが崩壊し、運命の1929年9月4日を迎えるのです。全世界に広がった大恐慌による長期不況が資源をめぐるブロック経済化をも招来し、第二次世界大戦の遠因、あるいは、主因であったことはしばしば指摘されるところです(不況に伴って発生した大量の失業者は徴兵と軍需産業が吸収・・・)。

 現代史を紐解いても経済が如何に戦争と密接に結びついているのかが理解されるのですが、上記の二つの関連する歴史的出来事は、深刻なインフレーション、バブル崩壊、長期不況、資源の供給減、失業の増加などが、国境を越えた連鎖反応を起こして戦争への道を敷くことを示しています。こうした諸点に照らしますと、今日もまた、戦争リスクが高まっているように思えます。

 その発端は、今年の2月に始まるウクライナ危機にあるのですが、ロシアに対する経済制裁は、各国の経済・金融政策の不調和によって上記の要因を揃えつつあります。アメリカやEU諸国をはじめとする対ロ制裁は、禁輸措置によりエネルギー資源の供給不足を招いております。近年のカーボンニュートラル政策と相まって、エネルギー資源市場における価格上昇が、凡そ全ての諸国にあって物価高の要因となっていることは言うまでもないことです。物価の上昇は国民生活を圧迫しますので、アメリカのFRBは、まずはインフレ抑制を名目として金利を上げる措置をとっています。しかしながら、この教科書的な国内向けの対策は、世界経済全体を見ますと、絶壁の崖へと続く危うい道となりかねません。

 そもそも、アメリカにおける物価高の原因は、資源価格の上昇による輸入インフレとは言いがたい側面があります。シェールガス革命によりアメリカは資源輸入国ではなくなりましたし、むしろ、エネルギー価格の上昇は、アメリカ経済にプラスの効果をもたらすはずです。となりますと、FRBの金利上げは、輸入インフレ対策というよりは、輸出増にともなって海外から流入するお金の流通量の増大に対応するための‘輸出インフレ対策’と表現した方が適切かもしれません。リーマンショック以来の低金利政策、並びに、近年のコロナ対策としての財政支出増に加え、コロナワクチンや治療薬を製造しているファイザーやモデルナといった米国大手製薬会社にも、日本国政府を含む外国政府から兆単位の支払金が流れ込んでいることも注目されるでしょう。こうした側面からしますと、FRBの高金利政策は、複合的な要因によって生じている‘お金余り’によるインフレ抑制として理解されましょう。

 しかしながら、輸出入に起因するインフレに対しては、中央銀行による金利操作の効果は期待薄であり、否、逆効果となるリスクもあります。何故ならば、教科書的には、インフレ対策としての中央銀行による金利上げは、民間における融資全般を抑制することで過熱気味の景気を抑える、あるいは、各種市場におけるバブルの発生を防止すると説明されているからです。このため、外因性のマネーサプライの増加には、殆ど政策効果が及びません。若干の効果があるとすれば、自国通貨高による国際競争力の低下による輸出減なのですが、エネルギー資源のように産出国が限られている場合には、輸出インフレを抑制する効果にも限りがあります。つまり、政策手段と政策効果との間に不一致が見られるのです。

それどころか、アメリカの高金利政策への転換は、低金利国から同国へのマネーの流れを加速化しています。とりわけ、止まらない日本国の円安の主因は、おそらく拡大する一方の日米の金利差にあるのでしょう。円を売ってドルに換え、利回りの高いアメリカでこれを運用した方が、遙かに高い収益あげることができるからです。言い換えますと、インフレ抑制のための政策が、逆にそれを亢進したり、あるいは、バブルを発生させてしまう可能性も否定できなくなります。しかも、アメリカの実体経済を見ますと、近年、急速なITの普及やデジタル化による合理化が進んでいますので、起業、雇用、消費などがマネー量に比例して増加し、急激に経済が成長・拡大するとも思えませんし、金利が上昇すれば、借り手も減少します(一部のIT大手、資源関連企業、製薬会社などに資金が集中する一方で、経済全般は冷え込むのでは・・・)。

中国では習近平独裁体制の長期化が同国の経済の減速要因となるとの指摘がありますが(国民の不満を外部の敵、即ち、戦争に逸らすかもしれない・・・)、アメリカへのマネーの集中にも、戦争を引き起こしかねない危うさがあります(因みに、欧州中央銀行は075%の利上げを実施して政策金利を2%とし、対米金利差を縮めてる・・・)。現状を放置しますと、過去の二度の世界大戦と同様の状況に陥りかねず、戦争の経済的要因を事前に取り除くという意味においても、日米両国の政府を含む各国政府は、理論的な対応よりもより現実的で効果的な対策を急ぐべきではないかと思うのです。

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ウクライナ紛争は局外中立を宣言すべきでは

2022年10月28日 10時52分11秒 | 国際政治
今年の2月18日に始まるロシア軍のウクライナへの進軍は、ウクライナのみならず自由主義諸国によって国際法に違反する‘侵略’と認定されています。このため、大半のマスメディアは、ロシアを強く批判し、同軍事行動に対しても侵略や軍事侵攻、即ち、‘侵’の一文字を用いてその違法性を強調しています。国連憲章では、紛争の平和的解決を加盟国に義務づけると共に内政不干渉を定めていますので、ロシアの軍事行動は、人道的介入であったことが証明されない限り、手段としては国際法に反していると言えましょう。また、同軍行動に伴ってブチャ等で住民虐殺などが行なわれたのが事実であるならば、戦争法にも違反することになります。

もっとも、ウクライナ紛争の本質が、ロシア系住民が多数を占める東部の分離・独立問題である点を考慮しますと、ロシアの軍事行動を領土拡張やウクライナの征服を目的に純粋にウクライナに対する奇襲的侵略と見なし難くなります。既にウクライナからの分離・独立を求める親ロ派武装勢力を交戦団体とする内戦状態にあったのですから、事実の検証は後日としても、ロシア系住民の保護を口実とした同国に対するロシアの軍事介入とする見方の方が事実に即しています。すなわち、民兵から昇格した極右組織であり、過激な行動を繰り返し、東部地域のロシア系住民に攻撃を加えたアゾフ連隊の存在が、ロシアに介入の口実を与えたからです。そして、このアゾフ連隊が、ウクライナにとりまして獅子身中の虫なのか、それとも同国を挑発するための鉄砲玉であるのか、何れの可能性も否定はできないのです。

このようにウクライナ紛争の主因は、国内における多民族混住地域における分離・独立運動にあるのですから、国際社会は、一国の内戦が世界大戦へと拡大しないよう、適切かつ賢明な措置をとるべきです。同紛争が第三次世界大戦へと発展した場合、核戦争を招くリスクは高く、愚かしい人間による人類滅亡の悲劇が目前に迫っているかもしれないのですから。そして、世界大戦へのドミノ倒しのメカニズムが、二国間並びに多国間の軍事同盟に必然的に内在している点に注目しますと、まずは、北大西洋条約をはじめとした同盟条約が締約国に義務付ける集団的自衛権の発動を止める必要がありましょう。

ウクライナ紛争が集団的自衛権の発動条件に当てはまらないとなれば、当然に、集団的自衛権は発動できなくなります。この点、ウクライナはNATOのメンバーではありませんので、同盟条約に基づく集団的自衛権の発動対象とはなりません。同条約の第5条は、個別的股は集団的自衛権の発動要件に関して「締約国は、欧州または北米における一または二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃と見なすことに同意する。・・・」と記し、締約国のみに適用されることを明記しています。NATOは既に参戦の準備を始めているようにも見えますが、国際法に従えば、ウクライナに対して集団的自衛権を発動することはできないはずなのです(もっとも、ユーゴスラビア紛争では、NATOは人道的介入を実施している・・・)。もちろん、日本国もウクライナとの間に如何なる軍事同盟関係もありませんので、ウクライナに対して自衛隊が援軍する義務はありません。

 国連憲章が認める集団的自衛権は、ロシアが直接にNATO加盟国を攻撃しない限り、現段階では発動の法的根拠が欠如しています。となりますと、次なる措置は、ロシアがウクライナ以外の諸国を攻撃しないよう、先手を打つこととなりましょう。そして、その先手こそ、当事国以外の他の諸国による局外中立の宣言ではないかと思うのです。

今日、アメリカを含むNATO諸国はウクライナ側に味方する形で軍事支援並びに対ロ制裁を行なっています。NATOの動きに日本国も小規模ながら追随しているのですが、NATOがウクライナの後ろ盾となることは、軍事同盟条約の連鎖的発動が世界大戦をもたらした第一次世界大戦の再来ともなりかねません。セルビア人一青年がオーストリア皇太子夫妻暗殺したサラエボ事件が世界大に戦火を広げたのは、当時、オーストリアの背後にはドイツが、セルビアの後ろにはロシアが控えていたのですから。

一方、NATO諸国や日本国を含む他の諸国が局外中立を宣言すれば、ロシアは、これらの諸国を攻撃する口実を失います。これと同時に、連鎖的に世界大戦に巻き込まれるリスクが著しく低下しますので、NATO諸国の国民も日本国民もそして局外中立を宣言した全ての諸国の国民にも、三度目の世界大戦を回避する道筋が見えてきたとして安堵感が広がることでしょう。局外中立宣言には、他の諸国を戦場から引き離し、集団的自衛権の濫用を封じる効果が期待されるのです。

もっとも、当事国以外の諸国が局外中立を宣言すれば、軍事大国であるロシアの圧倒的な軍事力を前にしてウクライナの敗北は凡そ決定的となります。このため、‘ウクライナを見捨てるのか’という批判も当然に予測されましょう。局外中立の宣言は、必ずしもロシアの放置を意味しているわけではありません。実際に、何れかの軍隊によって住民の虐殺行為が行なわれているのであれば、住民保護の範囲で警察力として軍事力が使用される必要がありましょうし、東部地域の分離・独立問題は、平和的かつ合法的に解決されるべきことです。こうした残された問題については、国際警察活動あるいは平和的紛争解決制度の創設という形で進めることができれば、人類は、世界大戦の呪縛を解くことができるかもしれません。何れにしましても、局外中立宣言は、平和的な紛争解決に向けた仕切り直しという意味において、有望な選択肢の一つではないかと思うのです。

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国民国家体系の再構築こそ人類の重要課題

2022年10月27日 12時45分52秒 | 国際政治
 かつて、国民国家体系は、国家が戦争の行動主体とみなされていたために、人類の未来において消滅すべき、忌まわしき国際秩序として見なされる向きがありました。特にますクス主義の強い影響下にあった左派の人々は、国家の破壊に正義があると信じてきたのです。国民国家体系の克服こそが人類に平和をもたらすと・・・。

しかしながら、国家の存在そのものが戦争の主たる要因とは言えないように思えます。特に大規模な国際戦争が頻発した近代以降の戦争は、領土や国境線と言った純粋に国家の地理的支配領域をめぐる争いはそれほどには多くはなく、多くは、別の要因に基づくからです。ヨーロッパでは宗教改革を機として宗教戦争の嵐が吹き荒れた末に陣営対立となった三十年戦争に発展しましたし、ナポレオン戦争は、フランス革命への近隣諸国の武力介入を発端としています。また、二度の世界大戦も、世界大での権益をめぐる勢力圏争いが主たる戦争要因となったのです。近代以降の戦争も、表面的には国家という単位が戦争の行動主体ではあるのですが、その要因は、国家の存在そのものにあるわけではないのです。‘国家=戦争主体⇒平和のための消滅’という国家否定論は乱暴な極論であり、善良な人々がいるにもかかわらず、「人間とは悪事を働く存在であるから、全人類は滅亡すべき」と唱えるようなものなのです。

 国家の基本機能、否、存在意義は内外の脅威から国民を保護することにありますので、国家の存在否定は、即、人類を危険に満ちた野獣の世界に放り込むことを意味します。国家に代わって統治機能を全ての人類に提供する組織は、存在していません。相互破壊と夥しい数の人命の犠牲を意味する戦争をこの世からなくそうとするならば、国家の存在を消し去るのではなく、紛争の要因を取り除く、あるいは、平和的な解決手段を見出す方が理にかなっているのです。この側面からしますと、今日の国際社会は、極めて奇妙、かつ、危険な状況にあることが理解されましょう。

 何故、奇妙で危険な状態にあるのかと申しますと、本来、小規模で収まるはずの国家間の領域争い、即ち、地域紛争が世界戦争へと発展するメカニズムを内蔵しているからです。第二次世界大戦後にあっては、宗教や宗派を原因とする戦争や経済的利益をめぐる勢力圏争いとしての戦争は、少なくとも表面からは凡そ姿を消しています(国際法の整備も進み、もはや、自国の領土拡張や勢力圏拡大を理由とした侵略戦争は起こせない・・・)。民族自決の原則に基づいてアジア・アフリカの植民地もその多くが独立を果たしましたので、むしろ、ヨーロッパに限定されていた国民国家体系が、全世界を包摂するに至ったのです。本来であれば、この時点で、国際秩序は主権平等の原則に基づく並列的でフラットな構造へと転換され、全ての諸国は国際法の下、即ち、法の支配の下に置かれたはずです(国連も、この状況下にあってこそ、‘世界の警察官’の役割を果たしたかもしれない・・・)。そして、たとえ二国間の小規模な地域紛争を全てなくすことはできないにせよ、第三次世界大戦へと連鎖する可能性は著しく低下したはずなのです。

ところが、第二次世界大戦の終結を待たずして、超大国間の対立を背景に登場した冷戦構造は、ようやく成立した現代国民国家体系を台無しにしてしまいます。言い換えますと、米ソ間の対立が、国家間対立を越えて左右のイデオロギーを対立軸とする陣営対立を世界規模で形成し、双方の陣営には、帝国ならぬ超大国が盟主として君臨することとなるからです。超大国を中心とする陣営形成にあって諸国結合の役割を果たすのは、集団的自衛権を伴う二国間あるいは多国間の軍事同盟であることは言うまでもありません。

ここに、国民国家体系の下にありながら、超大国と一般諸国との間の歴然とした軍事力の差により、地域紛争が世界大戦へと発展してしまうメカニズムが準備されます。すなわち、超大国から軍事的脅威を受けている諸国は、もはや一国の兵力で闘うことができず、陣営に属さなければならなくなるからです。その一方で、NPTは、超大国を含む核保有国に絶対的な軍事的優位性のみならず、同盟国に対する‘核の傘’を提供する役割をも与えたため、陣営対立の構図が固定化されてしまうのです。第三次世界大戦が核戦争を導く可能性が高い理由は、こうした構造的な問題にありましょう。なお、国連については、米ソ超大国を含む安保理常任理事国に事実上の拒否権を与えたのですから、発足当初から機能不全が運命付けられていたのかもしれません。

主権平等を原則とする国民国家体系は、17世紀に三十年戦争の講和条約であったウェストファリア条約によって成立し、19世紀に民族自決が国際社会の原則と化したことから、オーストリア・ハンガリー帝国やトルコ帝国からの中東欧諸国の独立によって拡大された国際体系です。即ち、民族を枠組みとした自決の権利並びに帝国の崩壊があってこそ誕生し得たとも言えましょう。たとえその背後に列強や経済勢力の思惑があったとしても、人類に民族自決と主権平等をもたらした国民国家体系には歴史的な意義があるのです。

この点を考慮すれば、今日の国際社会にあって変えるべきは、超大国による覇権主義的あるいは拡張主義的な思考であり、そして、グローバル化と共に表舞台に姿を現わしてきた、裏からこれらの超大国をも操る世界権力が抱く人類支配への飽くなき野望なのかもしれません。21世紀にあっても、‘現代の帝国’あるいは世界権力の崩壊なくして、真の国民国家の独立も、法の支配を基礎とした国民国家体系の再構築もあり得ないのです。かくも危険な構造をどのようにしたらより平和なものに転換できるのか、これこそ、今日の人類が抱える大問題であると思うのです。

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東西の島国と帝国の二重性-大日本帝国系保守の問題

2022年10月26日 14時03分35秒 | 国際政治
イギリスにおけるスナク政権の誕生は、同国の歩んできた歴史に基づく国民国家と帝国との二重性の問題を問うています。この問題、ユーラシア大陸の東端に浮かぶ島国である日本国とも無縁ではありません。戦前にあっては日本国もまた、大英帝国ならぬ大日本帝国であったからです。

現在のイギリスは、独立を果たした旧植民地諸国との間にコモンウェルスと称される緩い枠組みを残しており、敗戦を機に外地が完全に切り離された日本国とは状況が全く違っているように思えます。しかしながら、地理的な枠組みは消えたとは言え、大日本帝国の幻影は未だに日本国内を徘徊しているのかもしれません。その理由は、今日、国民国家としてのイギリスが世界権力とも目されるグローバル勢力によってコントロールされているように、日本国も、必ずしも独立国家とは言い切れない側面があるからです。

例えば、今般の世界平和統一家庭連合(元統一教会)の問題も、大日本帝国の幻影から説明することができます。自民党が保守政党でありながら、かくも韓国系の新興宗教団体との関係が密接であったのか、その理由は、イギリスと同様に、日本国にも大日本帝国系の保守勢力が存在しているからなのでしょう。本ブログでは、以前、日本国には、古の時代から受け継がれてきた固有の伝統を守ろうとする日本系保守と明治維新以降にあって異民族を包摂し、帝国となった時代の保守、即ち、大日本帝国系の保守の二種類が混在していると述べました。後者の保守であれば、観念上であれ、朝鮮半島はかつての大日本帝国の版図に入ります。イギリスにインド系のスナク政権が誕生したように、前者の保守は、日本国に韓国系政権が出現しても違和感も抵抗感も全くないのかもしれません。否、旧帝国領内の異民族に出自を遡る政治家は、保守政党の名の下で‘征服者を征服すること’に情熱を傾けているかもしれないのです。帝国の宿命、あるいは、‘征服者’への復讐として・・・。

ここに、大日本帝国系の保守と古来の日本系の保守とは真逆の存在となり、後者から見ますと、前者は、国民を欺く偽旗作戦の実行者であるト共に、村上議員がその発言において表現されたように‘売国奴’とならざるを得ません(一般国民の保守層の大半は後者・・・)。今や異国であり、かつ、日本統治時代を過酷で残虐な植民地支配として断罪している近隣諸国に日本という国を明け渡そうとしているのですから。両者とも保守を名乗りながら、真っ向から対立することとなるのです。報じられているように、世界平和統一家庭連合(元統一教会)との間に政策協定が締結されていたとすれば、第9条や緊急事態条項の創設を含む憲法改正も、日本国の軍備増強も、日本国の防衛や安全保障を盤石とするのが目的なのではなく、将来的な第二次朝鮮戦争における援軍のみならず、第三次世界大戦を視野に入れた‘自衛隊の利用’が真の狙いであるかもしれないのです(大航海時代から、日本国は、海外の勢力から‘兵力’として期待されている・・・)。

大英帝国と大日本帝国は、世界地図からは姿を消しても、今日なおも内外の政治を動かしているのかもしれません。そしてそれは、時にして政治の表舞台に現れます。西のイギリスではインド系のスナク氏の首相就任として現れ、東の日本国では、世界平和統一家庭連合(元統一教会)との関係から安部元首相が大日本帝国系の保守であった可能性が浮上し、国民の保守不信を深める原因となっているのです。

そして、ユーラシア大陸の西と東の島国において、今日起きている現象は、近代以降、日本国を含む列強を‘帝国主義’へと駆り立てていたのは、一体、何であったのか、という人類史上の重要問題を問うています。どのような勢力が、何を目的として、地球儀を眺めながら列強を覇権争いへと誘導していたのでしょうか。今日にあっては、帝国主義はグローバリズムに看板を掛け替えており、世界権力にとりましては、何れの時代にあっても、国家の政府というものは自らの‘駒’、あるいは、‘駒’として自由に動かすことはできないまでも、コントロールの対象でしかないのかもしれません。ウクライナ紛争のみならず、中国にあっては習独裁体制が強化され、第三次世界大戦の足音が聞こえる今日、教科書には記述されていない世界史の裏側を探求することは、日本国民のみならず、人類が自らを救うための重要な作業になるのではないかと思うのです。

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‘島国は帝国なり’の二重思考の行方-スナク首相誕生

2022年10月25日 10時49分44秒 | 国際政治
 イギリスでは、保守党の党首にリシ・スナク氏が選ばれ、歴史において初めて同国の首相にインド系の政治家が就任する運びとなりました。国民の大半がアングロ・サクソン系の国であり、古来の伝統を大切に継承してきたイギリス、しかも、保守党政権においてアジア系の首相が誕生したのですから、内外から驚きの声も上がっています。しかしながら、かつて同国が大英帝国を構築し、今なおコモンウェルスを形成している点を考慮しますと、今日におけるインド系首相の登場も、どことなく理解されてきます。

 インド系としては初めてではあっても、非アングロ・サクソン系の首相の誕生は、スナク氏が最初の事例ではありません。大英帝国華やかなりしヴィクトリア朝(1837年~1901年)にあって二期に亘り政権を担ったベンジャミン・ディズレーリ首相はユダヤ系の政治家でした(「ディズレーリ」は「デ イスラエル」からの改姓)。13歳の時に英国国教会に改宗していますが、イタリア出身のセファルディム系移民の子として生まれていますので、祖先をさらに辿りますと、イベリア半島のスペインもしくはポルトガルを経由して中東のイスラエルあるいはバビロニアにまで行き着くのでしょう。そして、大英帝国の成立過程において、ヨーロッパの金融界を牛耳り、かつ、グローバルな商業ネットワークを有するユダヤ人との密接な協力関係が築かれていた点を考慮しますと、この時期にあってユダヤ系の政権が誕生したのも頷けるのです。

 そして、ユーラシア大陸の西端に浮かぶ小さな島国でありながら、世界大に勢力範囲を広げた帝国でもあったという‘二重性’は、今日に至るまで同国の政治に多大なる影響を及ぼしてきました。今般のインド系首相の出現も、同国の‘二重性’がもたらしたものといっても過言ではありません。イギリスは、領域としては切り離されましたが、旧植民地の出身の移民については優遇措置を設けて受け入れてきましたので、イギリス国内には、インド系コミュニティーも存在しています。アラブ系皇帝が誕生した古代ローマ帝国にも見られるように、帝国では、しばしば‘征服者が、被征服者に、征服される’という逆転現象が発生します。先のヴィクトリア期におけるユダヤ系政権の出現も、‘利用しようとした側が、利用された側に、利用される’ということなのかもしれません。ローマ帝国では、征服地の異民族にも市民権が与えられましたが、民主主義国家であれば、国籍や市民権を獲得すれば参政権を得られますので、同様の現象が起きるのです。

 民主的制度には、出自に拘わらず全ての国民に対して被選挙権を認めることで政治家への道を平等に開くという側面があるのですが、その一方で、現代の国民国家の枠組みと帝国の幻影との重なりが、民主主義にとりまして脅威となるケースもないわけではありません。例えば、スナク氏はイギリス国籍を保有していますので、首相の座に座る権利を当然に有しています。しかしながら、民主的制度が多数決を基本原則としている点において、スナク氏の首相就任が国民の自由意志の表明に基づく選択であったのか、という点については疑問符が付いてしまうのです。

 保守党内の党首選出のプロセスを見ても、スナク氏の選出は、最有力と見なされていたジョンソン元首相が立候補を断念し、ペニー・モーダント下院院内総務も立候補に必要とされる推薦人数を集めることができなかったことに依ります。いわば、棚ぼた式に転がり込んできた首相の座であり、必ずしも民意を反映しているわけではありません。議院内閣制では、与党党内の党首選の結果として首相が決定されますので、民意との乖離が生じやすい、即ち、制度上の欠陥があります。今般のスナク市選出にも、民主主義の原則に照らしますと、民意とは異なる方面からの力が働いている節があるのです。

 例えば、イギリスの人口におけるインド系の占める割合は5%にも満たないこと、今やインドは中国を抜いて世界第一の人口大国であり、国際政治の舞台にあって重要なアクターに成長していること(インドからの政治介入のリスク・・・)、同氏にはゴールドマンサックスに務めるなど金融畑を中心に人生を歩んできた経歴があること(同じく最年少でトップの座に就いたフランスのマクロン大統領の経歴と類似・・・)、富裕層に属すること(物価高等による国民生活の悪化に対する理解が低い・・・)、義父はインドの有数のIT関連企業の創業者であること・・・などは、スナク氏が、幻の大英帝国の首相、即ち、国益よりもグローバル利益を優先するグローバリストであることを強く示唆しています(世界権力の申し子?)。インドにはユダヤ系インド人も多く、あるいは、同氏もしくは夫人は、ディズレーリと同様にユダヤ系なのかもしれません(スナク氏自身はヒンドゥー教徒とも・・・)。何れにしても、一般のイギリス国民から支持を集め得る要素には乏しいのです。

 もっとも、スナク氏は政権の長期化を目的として、国民寄りの政治家への転換を見せるかもしれません。しかしながら、減税政策によって失脚したトラス首相と同じ轍を踏まないよう、そして、グローバル利益を損なわぬよう、国民生活を犠牲にしても金融並びに財政の安定を最優先事項に設定するものと推測されるのです。果たして、‘島国は帝国なり’というイギリス流の二重思考は、如何なる結末を迎えるのでしょうか。

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劇場型政治の誤算-胡錦濤前国家主席の‘退席事件’

2022年10月24日 11時59分11秒 | 国際政治
中国共産党にとりましては、毎年10月に北京公会堂で開催される党大会では、国民に‘政治’を見せる絶好の舞台なのでしょう。今年の大会では、胡錦濤前総書記があたかも連行されるかのように退出させられるシーンが報じられたようです。同大会では、習近平国家主席が規約に反して三期目を確実にし、長期独裁体制への足場を固めただけに、同退出事件は、国民に誰が帝国の頂点に君臨する皇帝であるかを見せつけるための、閉会式に相応しい‘ラスト・シーン’であったとする見方が有力です。

 政治の劇場化は、共産党一党独裁、否、主席による個人独裁体制が敷かれている中国のみに見られるわけではなく、近年、自由主義国にありましても、政治の劇場化が進行しているように思われます。劇場型政治の蔓延が、舞台で演じる側の政治家とそれを見入る客席側の国民との間にはっきりとした立場の違いを設け、政治家と国民の分離・分断による民主主義形骸化の要因ともなっているのですが、民主的選挙や議会という舞台を持たない中国の場合、党大会や全人代と言った大会こそが、全国民が注視する大舞台と認識されているのかもしれません。そうであるからこそ、その脚本の作成や演出は、用意周到に準備されていなければならないのでしょう。

 今般の胡錦濤前国家主席の‘退出事件’も、同前主席がシナリオを知っていたのか、知らなかったのかは不明ないものの、党大会の開催に先立って、習国家主席側が集団指導体制から独裁体制への移行を目に見える形で国民に印象づける象徴的な出来事として、事前に計画されたものと推測されます。二人の職員に脇を押さえられながら席を後にする胡前国家主席の姿は、あたかも連行される‘容疑者’のようでもありました。これまで敬われてきた長老の身柄が公然と拘束されるのですから、同連行は、習主席の指図による共産党青年団閥に対する政治的粛正であることを暗に示しているのです(因みに、上海閥を率いてきた江沢民元国家主席は欠席・・・)。

 脚本家が狙った通りに進めば、ここで、国民という観衆は、‘長老’を追い出して唯一の独裁者となった習国家主席に畏敬の念を込めて拍手を送り、‘現代の皇帝’を崇め奉るはずであったのかもしれません。しかしながら、観客の反応とは、しばしば脚本家の意図とは異なることがあります。実際に、習主席を頂点とする個人独裁体制に対しては、北京市内の橋に独裁批判の横断幕を張り、自らの行動で示した「ブリッジマン」のみならず、それが内面であれ、反発や抵抗感を抱いている国民も少なくないはずです。

習独裁体制下にあっては、これまで以上に言論弾圧が強まることでしょうし、国民は、ITを駆使する当局によって徹底した監視下に置かれることでしょう。しかも、習国家主席は、台湾に対する武力侵攻の可能性を明言しています。台湾侵攻が米中戦争へと発展すれば、中国は戦場となるのですから、豊かな生活を経験した国民の多くは、戦時体制への移行による耐久生活を懸念し(改革開放以前への逆戻り・・・)、国土が破壊され、自国民の命が失われる事態の到来を警戒していることでしょう。一人っ子政策により若年層の人口も少なく、その多くが‘小皇帝’として育ってきたわけですから、できることならば戦争は回避したいはずです。

その一方で、戦時体制と独裁体制には共通性があることから、今般の党大会における習独裁体制の長期化は、中国国外にあっても台湾有事のリスクを高めると共に、人民解放軍の活動も活発化するとする見方が広がっています。中国大陸から聞こえる軍靴の音は、日本国政府による防衛力増強に根拠を与えると共に、国民も戦争モードに引き込まれかねない状況をもたらしています。また、ウクライナ紛争と台湾有事がリンケージすれば、戦火は瞬く間に全世界に飛び火し、第三次世界大戦へと拡大してゆくことでしょう。党大会のシナリオ・ライターは、同大会を習主席の権威を海外に対しても見せつける舞台としたかったのでしょうが、第三次世界大戦を避けたい全ての諸国の国民は、習独裁体制の成立を歓迎していないのです(もっとも、世界権力のコントロール下にある各国の政府は、シナリオに従って戦争への道を急ぐかもしれない・・・)。

しかし、内外共に習独裁体制に対して否定的な反応を示す、あるいは、粛正しきれなかった反習勢力による巻き返しが試みられていたとしますと、ここで、シナリオが大きく狂ってきているかもしれません。自らの望む方向に、国民も国際世論も誘導することができなかったからです。程なくして新華社通信が、胡前主席の退席は健康上の理由であったと報じたのも、シナリオの変更、あるいは、その破棄を迫られる事態が発生したからなのかもしれません。壇上に座っていた胡元主席の様子を見ますと、特に体調に異変が生じたようには見えません。新華社による‘取って付けたような言い訳’は、習主席の権力基盤が未だに盤石ではないこと、あるいは、内外の世論に配慮せざるを得なかったことを、図らずも示す結果となったとも言えましょう。

何れにしましても、劇場型の政治は、遅かれ早かれ、国民にシナリオの存在を知られてしまいます。シナリオが狂った時点で、誰もが疑うような辻褄の合わない説明や見え透いた嘘をつかなければならなくなるからです。政治の舞台では、シナリオの変更や崩壊によるごたごたが続き、わけがわからなくなります。かくして、国民からの信頼が消えてゆき、自らの権力基盤を掘り崩してしまうのです。今般のシナリオ・ライターは、習主席自身であるのか、あるいは、同主席をもコントロールする世界権力であるかは明確には分かりませんが、劇場型政治の行く先には、見るに堪えなくなった観衆による離反が待っているのかもしれません(自ら席を立ってしまう・・・)。

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NATO参戦を考える-戦争は必ずしも善が勝つとは限らない

2022年10月21日 17時33分49秒 | 国際政治
 西欧では、19世紀末に‘力は正義なり(Might is Right)’という言葉が登場し、日本国でも、ほぼ同時期に戊辰戦争を背景に‘勝てば官軍、負ければ賊軍’という言葉が広がるようになりました。何れも、強い者に正義がある、あるいは、戦争に勝った側に正義があるという意味として理解されております。勝者の側が自らを誇り、敗者を黙らせたい時に使われることもありますが、どちらかと申しますと反道徳、あるいは、没倫理的な意味合いを含みます。

 ‘力は正義なり’という言葉は、昔から語り継がれてきた諺と思われがちですが、1896年に出版されたアーサー・デスモンドの著書『力は正義なり』に初見されるそうです(ペンネームはラグナー・レッドビアード)。同書の特徴は、反道徳、反民主主義、反キリスト教、反ユダヤ主義(反十戒?)にあり、人には自然に備わった理性=道徳的行動の限界があるとする自然法をも否定していたそうです。平たく申しますと、社会的ダーヴィニズムに通じる弱肉強食の世界を肯定し、強者に正義があるであると主張したのです(逆から言えば、弱者は弱いと言うだけで‘悪’となる・・・)。ニーチェはドイツ人ですのでファシズムとの繋がりが強調されますが、デズモンドの存在は、英語圏諸国にありましても、同様の思想が一定の支持を得ていたことを示しています(出身国は詳らかではないものの、デズモンドは、ニュージーランドあるいはオーストラリアに生まれ、これらの諸国のみならず、アメリカやイギリスを渡り歩いていたらしい・・・)。

 デズモンドの思想は、現代人の一般的な倫理観からしますと危険思想そのものです。この言葉を文字通りに受け取りますと、暴力団であっても窃盗団であっても、‘力’を以て勝ちを収めれば、自らの正義を主張することができるのですから。殺人も強盗も暴力も、‘強い’という理由だけで許さされてしまうのです。しかしながら、殺人の罪で法廷に立たされた被告人が、‘私の方が被害者よりも強かったので、無罪です’と主張しても、この言い分は通用しないことでしょう。利己的他害性こそ悪の本質なのですから、勝ち負けは正義の所在とは関係ないのです。

ところが、戦争には、力に優る勝者に正義を与えがちであるとする悪しき側面があります。中国の歴代王朝が編纂を命じた史書が前王朝の悪政や腐敗ぶりを徹底的に糾弾し、自らが開いた王朝を天命を受けたものとして正当化しようとしたのも、‘正義’を得るために他なりません。勝者は、‘書かれた歴史’にあっては常に‘正義の味方’なのです。現実にはその逆であっても・・・(‘歴史は勝者によって書かれる’という諺も・・・)。

そして、戦争にあっては、勝者に正義があるならば、何れの当事国も陣営も、自らが‘悪者’あるいは‘賊軍’として歴史に刻まれてしまわないために、徹底抗戦を試みることでしょう。本日も、ウクライナ紛争への‘NATO参戦の可能性が高まっている’とするWEB記事が掲載されているのを発見しました。アメリカ並びにNATOが核の傘をウクライナに提供したことにより、核戦争を招くことなくNATOは‘安心して’参戦できるとする内容であり、同参戦の結果として、ロシアの‘即時、完全かつ無条件の撤退’の実現、並びに、プーチン大統領の国際軍事裁判所での有罪判決を期待しています。同記事の筆者は、NATOによる集団的自衛権の発動は国際法上において合法的であるとする立場にありますが、ウクライナは北大西洋条約の加盟国ではありませんし、国連憲章における地域的取り決めの利用も、ロシアが常任理事国の一国である以上、安保理理事会が同案に許可を与える決議を採択するとも思えません。

NATOにおける集団的自衛権の発動によって今般の紛争を戦争の延長線上に置くとしますと、通常の戦争と同様に、勝者側に正義を与えることにもなりかねません。言い換えますと、仮に、ロシアが予想に反して核を使用したり、何らかの先端兵器を使用した場合には、同記事の筆者の期待に反してロシア側が正義を獲得するケースもあり得るのです。この問題は、中国に当てはめてみれば、より良く理解できましょう。数十年後には、軍事力において中国がアメリカを追い抜くとされており、仮に、暴力主義国家が戦争で勝利すれば、正義の王冠を被るのは中国なのです。また、ウクライナ側が勝利したとしても、多くの人々が信じているイメージとは逆に、本当のところは、同国に正義があるとは言えないのかもしれません。

ウクライナ紛争を世界大戦に発展させないためには、通常の戦争と‘国際警察活動’を分けて考える必要がありましょう。つまり、仮にNATO軍が活動するとしても、それは、世襲団的自衛権の発動ではなく、また、ウクライナ側に立って参戦するのではなく、あくまでも、中立的な部隊による原状回復を目的とした軍事活動に限定されるべきです。ロシア軍の‘即時、完全かつ無条件の撤退’とは、原状回復に他ならないのですから。同時に、ロシアに対しては、プーチン大統領に国際軍事裁判所への出廷を求めるのではなく、中立公平な機関によるウクライナ側のアゾフ連隊の活動を含めた今般の事態に至った経緯に関する厳正な調査を約束すべきであるかもしれません。現段階では、どちらの側に正義があるのか、正確には判断できないからです(あるいは、真犯人は世界権力であるのかも・・・)。

何れにしましても、戦争というものが力を解決の手段とする以上、悪の側が正義を得てしまう可能性があります。人類がその精神において進化するものであるならば、‘力は正義なり’という野蛮な思考から脱却してゆくべきではないかと思うのです。

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グローバリズムと奴隷制との親和性が高い理由

2022年10月20日 12時21分56秒 | 国際政治
 グローバリズムが描く人類の未来像は、しばしば国際的イベントのプロモーションや企業のコマーシャルなどを通して、人々の頭の中に視覚的なイメージとしてインプットされています。それは、雑多な人種や民族が混じり合った世界であり、画面上に登場する全ての人々が笑顔を振りまいています。理想郷の到来を笑顔で表現しているのでしょうが、果たして、グローバリズムは、人類に笑顔があふれる世界をもたらすのでしょうか。

 グローバリズムの行く先を予測するに際しては、過去の前例を検証してみることも大切です。何故ならば、グローバリズムとは、80年代以降に始まったものではなく、むしろ今日の国民国家体系が成立する以前の、国境が曖昧であった時代に類似しているように思えるからです。例えば、イベリア半島の二国が先陣を切った大航海時代は、しばしば第一次グローバリズムの時代とも称されています。そして、この時代を振り返りますと、グローバリズムの未来像が理想とは逆となる可能性を示しているのです。

 近年、豊臣秀吉によるバテレン追放令には、海外への日本人奴隷の売却をやめさせる目的があったことが知られるようになりました。日本人奴隷については、ルシオ・デ・ソウザ氏が、その著書『大航海時代の日本人奴隷 増補新版』(岡美穂子訳、中央公論新書、2021年)において主にポルトガル側の資料に依拠しながら詳らかにしています。同書を読みますと、売買される奴隷達は、アジアやアフリカに出自を遡る全く異なる雑多な人種や民族によって構成されていたことが分かります。

例えば、ルイ・ペレスという名のユダヤ教からの改宗ポルトガル人の商人は、およそ三年間日本国の長崎に滞在していましたが、ペレス一家は、日本人奴隷のガスパール・フェルナンデスの他にもベンガル人奴隷一人、ジャワ人奴隷二人、カンボジア人奴隷一人を所有していました。その後マニラでは、日本人奴隷二人と朝鮮人奴隷一人を購入するのですが、各地の奴隷市場では、アジア系のみならずアフリカ系、とりわけ、織田信長の家臣となった弥助でも知られるモザンビーク周辺出身のカフル人奴隷や中国人奴隷なども数多く取引されていたようです。

ペレス一家はほんの一例に過ぎないのですが、奴隷を使役する主人の家では、上述したグローバルな未来像がおよそ実現していたことになります。出身地、人種、民族、宗教等の違いに関わりなく、共に主人ために仲良く?働いているのですから。慣習や奴隷同士の間で喩え反目や対立があったとしても、主人から命じられた仕事を笑顔を以て黙々とこなし、その命令に従順に従っていれば家内は平和であり、奴隷制という社会秩序も保たれていたのでしょう。

こうした大航海時代の奴隷の実態は、絶対的な命令者が存在し、かつ、命令者とあらゆる属性が消去され、出身母体から切り離されてばらばらにされた個々人との間に直接的な支配・被支配の関係が成立している場合には、‘多人種・多民族共生社会’、あるいは、‘民族の坩堝’が実現しやすいことを示しています。凡そ全ての物事が主人と奴隷との縦関係において完結するからです。むしろ、個々の奴隷に言語や習慣等に違いがある方が、奴隷同士の間に連帯感が生まれる難い状況となり、主人の側からしますと好都合であったかもしれません。

ところが、縦関係を基盤とした社会秩序は、自由人や解放奴隷の存在によって脅かされることとなります(日本人奴隷の場合、年季奉公の終了説も・・・)。何故ならば、これらの人々は自由に行動できるため、出身地や民族等を同じくする人々が独自のコミュニティーを造ろうとするからです。これらの同族意識に基づく横関係のコミュニティーは、しばしば現地にあって反乱や暴動を起こしたり、独自の反政府あるいは反社会組織を結成したりしたため、植民地当局の監視対象ともなるのです。

以上に大航海時代の奴隷について考察してみましたが、当時の状況は、今日の移民問題を考える上で大いに参考になります。安価な労働力の調達手段として移民政策を推進したい企業の意識と当時のポルトガル等の商人達のそれとは凡そ変わらず(不要となれば’売却(解雇)’・・・)、その一方で、移民が形成するコミュニティーや同族集団による治安の悪化等に苦しめられるのは一般の国民であるからです。移民や外国人労働者の基本的な自由は手厚く保障されていますので、現代の国家にあっては、後者のリスクは大航海時代以上です。言い換えますと、国境を越えた個人の移動の自由が高まるほど、国内にあっては個人の結集の自由がもたらす公的なリスクも高まるのです。しかも、大航海時代の奴隷貿易は、現在に至るまでアメリカに人種差別という癒やしがたい傷を残していますし、今日のウクライナ危機は、国民の民族構成が帰属問題にまで発展するリスクを示しており、国家分裂の危機をも招きかねません。

このように考察いたしますと、大航海時代における奴隷の実態は、人類に深く考えるべき歴史の教訓を伝えていると言えるのではないでしょうか。

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全世界が直面する憲法第9条問題-ウクライナの核武装

2022年10月19日 10時43分12秒 | 国際政治
 日本国憲法第9条NPTとの間には、国内法と国際法という違いがありながら、双方とも軍事分野における自己抑制の規律を定めているという共通点があります。前者は、文字通りに読めば日本国という一国家に対して軍隊の不保持を定めており、後者は、全世界の諸国に対して核兵器の不拡散を義務づけています。両者とも軍縮並びに軍備管理を目的としているのですが、この他にもう一つ、重大な共通点があるように思えます。それは、致命的な不平等とも形容すべき国家間の軍事力の非対称性です。

 今般、ウクライナ紛争では、反転攻勢に出たウクライナ勢によってロシアが追い詰められる形で核兵器が使用される可能性が高まっています。プーチン大統領が核兵器の使用を辞さない構えを見せているため、ウクライナを支援する自由主義国も身構えざるを得なくなっているのです。核兵器使用の危機に対して、アメリカのバイデン大統領が核による報復を示唆する一方で、NATOストルテンベルグ事務総長も、ロシアに対して「深刻な結果を招く」とする強い牽制の警告を発しています。

もっとも、アメリカによる核兵器の使用は核戦争を伴う第三次世界大戦を招くため、同国内では反対論も根強く、バイデン大統領も、一旦は拳を振り上げたものの、その降ろし時を探らざるを得ないようです。また、NATOの対応も、言葉だけは勇ましいものの、具体的な対応策や‘報復’については、通常兵器の域を出るものではないようです。核兵器の破壊力に優る兵器は存在していませんので、事務総長の言葉は否が応でも虚しく響いてしまうのです。本日も、NATOがロシア側によるドローン攻撃を防御する先端的な防空システムをウクライナに提供するというニュースが報じられていましたが、飛んでくるのは核兵器です。しかも、NPTを読みましても、‘核保有国はそれを使用してはならない’という使用禁止の一文は見当たらないのです。

NATO側が効果的な対策に苦慮する一方で、ロシアの報道官は、早々に‘併合4州’に対して‘核の傘’の提供を明言しており、ロシアは、核兵器の攻守両面での利用価値を熟知した上で効果的に活用しています。核兵器を攻撃力のみならず、抑止力としても利用しようとしているのです。おそらく、ロシアは、4州を自国領として併合した形での現状の固定化を狙っているのでしょう。

ロシアが核戦略を十二分に発揮できるのも、NPTが加盟国間に対して不平等な法的地位を与えているからに他なりません。同条約は、ロシアを含む核保有国にのみ、攻撃力であれ、抑止力であれ、非核保有国に対する軍事的優位性を認めているからです。そして、この‘持てる者’と‘持たざる者’との間の非対称性は、日本国憲法第9条にも当てはまります。何故ならば、日本国一国が完全に軍事力を放棄するとすれば、それは即ち、憲法に同様の条文を持たない他の一般の諸国との著しい非対称性を意味するからです。軍事分野における保有兵器の非対称性とは軍事力の格差と同義ですので、核保有国と非保有国との関係と同様に、日本国は、他の諸国に対して絶対的な劣位が決定づけられるのです。

しかしながら、歴史を振り返りますと、日本国は、結局、自衛隊という名称の軍隊を保持することとなります。GHQの占領下にありながら、憲法作成・制定当時の日本国は、同憲法第9条の草案に潜むリスクに気付き、国会等において議論が起きています。‘将来において日本国が侵略を受けた場合、どのように対応するのか’、という無防備がもたらす国家滅亡のリスクに関する重大にして当然の問いかけです。マッカーサー原案では、自衛のための戦争も放棄するとされていたのですが、万が一の事態に備え、日本国は、後々、自衛のためであれば軍隊を保持できるとする解釈が成り立つように修正を加えたのです。敗戦に打ちのめされながら、当時の日本国の政治家達は、冷戦下における覇権主義的共産主義国家の脅威という現実を見据え、真剣に日本国の行く末を案じていたことになりましょう。

かくして今日、日本国には自衛隊が存在するのですが、日本国憲法第9条の修正に至る経緯と比較しますと、現状における核をめぐる議論は、あまりにも不甲斐ないように思えます。NPTや核兵器廃絶を金科玉条の如くに祭り上げ、現実の危機に目をつむりつつ、一切の見直しを拒絶しているように見えるからです。理想論に拘泥し、あたかも防衛権までをも放棄したマッカーサー原案のまま凍ってしまっているかのようなのです。アメリカもNATOも、完全とまでは言わないまでも、一定の効果が期待できるウクライナの核武装について言及も議論もしようとはしないのですから(10月10日付けの「ウクライナの核保有というトロッコ問題の回答」参照・・・)。しかも、かのゼレンスキー大統領さえも、自国の核武装については口を閉ざしているのです(ロシアの良心を信じているのでしょうか・・・)。全世界が憲法第9条問題に直面しながら理想論に固執する現実は、危ういとしか言いようがありません。

核保有の非対称性の問題は、核の抑止力を考慮すれば、ウクライナ一国に留まるものではありません。核保有国が軍事行動を起こす前に、核武装する必要があるからです。もっとも、核保有国の特権が維持されるように意図的に議論が回避されている、あるいは、オプションから外されているとすれば、ロシアとウクライナの両当事国のみならず、今日の国際社会は‘世界権力’によって上部からコントロールされていると考えざるを得ないのです。

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監視が必要なのは政界では?-マイナンバーカードのディストピア

2022年10月18日 12時25分20秒 | 統治制度論
何としてもマイナンバーカードを普及させたい政府は、健康保険証を廃止して同カードに一元化するという奇策を思いついたようです。病院の窓口にて健康保険証を提示しませんと、保険の適用を受けることができず、医療費が全額負担となってしまいますので、マイナンバーカードの取得は事実上の義務化とみなされています。政府にとりましては妙案であったのでしょうが、国民からは強い反発を受けているようです。

 現行健康保険証については使い回しといった不正使用の事例は後を絶たず、不正防止の観点からは顔写真付きのマイナンバーカードの利用には利点がありましょう。しかしながら、反対の大合唱が起きた背景には、日本国政府に対する根強い不信感があるようです。ゆくゆくは免許証もマイナンバーカードに一本化されるそうですが、国民の多くは、身分証明書を常に携帯しなければならない状況に至ることを深く懸念しているのでしょう。セキュリティーの問題もあるのですが、同マイナンバー構想からデジタル全体主義体制の全容がおぼろげながら浮かんでくるのです。

 デジタル全体主義の先例は、一党独裁国家である中国に見出すことができます。中国では、先端的なITを駆使することで、凡そ全国民の個人情報を政府が収集し、国民を監視下に置いています。一方、日本国は自由主義国であったのですが、マイナンバーカードは、自由な社会をデジタル監視社会へと転換させる切り札となり得るのです。身分証明書の役割を果たすのですから、誰もが外出等の際に携帯しなければならなくなるからです(将来的には、カードからスマートフォンへの移行やマイクロチップの生体埋め込みなども懸念されている・・・)。

その手始めが健康保険証との統合であるのは、個々人の身体に関する情報やデータを把握できるからかもしれません。今年の8月には、岸田首相とWHOのテドロス事務局長は日本国内に新たな組織を設けることで合意しており、先日も、モデル社が日本国にmRNAワクチンの治験拠点を設ける方針を明らかにしています。極めて高いワクチン接種率からしますと、日本国ほど、国民が従順(同調圧力に弱い?)で治験に適した国はないと判断されたのかもしれません。国民一人一人の病歴や治療歴等に関する情報が収集できれば、新たなワクチンや治療法、並びに、新薬の開発に役立つ膨大な基礎的データが、政府や民間企業に提供されることになるからです。

医療の発展への貢献という美名が纏わされるのでしょうが、マイナンバー・システムによって自らの身体に関するデータが収集される側からしますと、人体実験の被験者にされている、あるいは、モルモットにされているようで気持ちのよいものではありません。むしろ、自らの命や身体に関わる情報なのですから、基本的人権やプライバシーの侵害として受け止める国民も多いはずです。仮に、データが悪用されるようなことでもあれば、命の危険に晒されるのですから(例えば、アレルギーに関する情報が漏れると、意図的にアナフィラキシーを起こすこともできる・・・)。政府による身体情報の掌握とは、国民に対する生殺与奪の権を政府が握ることをも意味しかねませんし、民間企業にあっても、必ずしも同情報が人類の健康増進のために生かされるとは限らないのです(mRNAワクチンも有毒性が問題視されている・・・)。

そして、国民の個人情報が政府や一部の民間企業によって悪用されるリスクは、日に日に増してゆく一方です。河野太郎デジタル相は、自らのブログに対して批判的な人をブロックすることで知られていますが、同大臣の手法が政府全体に広がるとしますと、マイナンバー・システムも、やがては中国のように政府批判排除、あるいは、抑圧システムとして機能するかもしれません。マイナンバーカード普及の行く先にはディストピアしか描けないからこそ、国民の多くは、同カードへの個人情報の一元化を警戒し、反発しているのでしょう。

岸田政権に対する支持率の急落は、日本国政府、否、全ての政治家並びに政党に対する国民の不信感の現れでもあります。政府とは、必ずしも国民のために統治機能を提供する誠実で善良な存在とは言いがたく、むしろ、私欲や私益のため、あるいは、‘上部からの指令’を実現するためには国民の命をも軽視する冷酷な本性を現わしているのですから無理もありません(もはや政党というよりは悪党では・・・)。今や、政界は、国民にとりましては感染症にも優る危険な存在であり、目を離すとありとあらゆる悪事に手を染めそうなのです。世界平和統一家庭連合(元統一教会)といったカルト教団や利権団体との関係、さらには、世界権力の代理人化は、政界が密室であるからこそ起きた問題なのです。

このように考えますと、マイナンバーカードの先に見え隠れするディストピアの実現を防ぐには、政界全体を国民が監視するシステムこそ必要なのではないでしょうか。真に監視されるべきは、国民ではなく、政界なのではないかと思うのです。

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‘日本に投資を’のリスク-‘マイナス投資’の存在

2022年10月17日 13時27分49秒 | 国際政治
 投資という言葉には、一般的には肯定的な響きがあります。その理由は、経済発展を促す行為というプラスのイメージがあるからなのでしょう。安倍政権を含め、今日の岸田政権に至るまで、歴代の日本国首相も、国際会議等の席で‘日本に投資を’と積極的に呼びかけてきました。しかしながら、投資という言葉には、様々な意味が含まれており、必ずしも投資を受ける側の利益となるとは限らないように思えます。

 投資のプラスイメージは、企業等が事業の拡大や新規事業への参入、あるいは、新たな商品開発に向けた研究開発等に乗り出そうとする際に、必要となる資金を提供する行為と見なされているところにあります。イノベーティブな事業を始めたり、先端技術をもって起業する際にもまとまった資金が必要となりますので、投資は、経済成長のメカニズムに一端を担っているのです。このため、海外に向けて自国への投資を訴える一国の首相の姿は、一先ずは自国経済の有望性を積極的に売り込む‘トップ・セールスマン’のように見なされがちです。しかしながら、こうしたプラスのイメージとは逆に、海外からの投資が、その受け入れ国の経済に対してマイナス影響を与える‘マイナス投資’のケースもないわけではありません。

 第1のケースは、事業の発展性への期待ではなく、株式の保有を目的とした海外富裕層やファンド等による配当収入を目当てとした‘投資’です。株式を取得しますと、先ずもって、株主には保有数に即して配当金が支払われることとなります。このことは、自国からのマネー流出を意味します。国内株主が大半を占めているのであればマネーは国内経済に還元されますが、海外株主が大半を占めますと、それがたとえ一部であれ、企業収益は自国の経済発展には寄与しなくなるのです。株主配当率が高まれば高まるほどに搾取的色合いが強まり、日本経済は痩せ細ってしまいます。経済が停滞する一方で海外株主保有比率が上がっている現状は、まさに日本経済が‘生き血を吸われている状態’と言えましょう。

 第2のケースは、海外企業やファンド、あるいは、実業家等による自国企業の経営権の取得を目的とした‘投資’です。主として企業買収がこれに当たるのですが、株主には、配当金を受け取る権利のみならず、株主総会への議題提案権を介した経営に介入する権利も付与されています。筆頭株主ともなれば、経営陣もその発言や意向を無視できなくなりますし、50%越える株式を取得すれば子会社化して経営権を握ることもできます。子会社化されますと、海外の事業グループに編入されることも当然にあり得ます。このケースでは、自国の企業が他国の企業グループの傘下に入りますので、海外に所在する本部の経営方針に従わざるを得なくなり、自立的な経営権を失うこととなるのです(ルノーに買収された日産のケースなど・・・)。また、仮に海外グループの本部所在地が中国ともなりますと、中国共産党の経済戦略に組み込まれる事態も予測され、外国政府の影響さえ受けてしまいましょう。

 第2のケースに関連してもう一つ、第3のケースを挙げるとすれは、海外企業による先端技術等の入手を目的とした‘投資’です。合弁会社の設立は、しばしば技術移転の手段として用いられています。近年、中国の企業や企業グループが日本企業とタイアップして合弁事業を始める事例が増加しており、合法的な手段による技術流出に歯止めがかからない状況にあります。また、自国企業が海外企業や企業グループによって子会社化される場合にも、合法的に技術が流出していまいます。技術立国を誇ってきた日本国の地位が陥落寸前にあるのも、技術者の引き抜きや産業スパイによる知的財産権の侵害等のみならず、海外からの投資の呼び込みにも一因があるのです。

 ‘マイナス投資’の第4のケースとは、キャピタルゲインの獲得のみを目的とした株式や資産の売買です。証券市場における取得株式の値上がりや企業価値の上昇を期待した投資であり、最大利益の獲得が目的であるため、最高値、あるいは、売り時と判断された時点で売却されます。‘ハゲタカファンド’に代表される行為であり、標的となった企業は、これらの投機家の‘読み’や値動きに反応した‘投資判断’によって翻弄されるのです。長期的な成長を待つつもりなど毛頭なく、短期利益を重視した利益第一主義ですので、自国企業であっても、海外企業やファンドに売り払われることも珍しくありません。最悪の場合には、マネーゲームによる投機が過熱したあげくにバブルが崩壊し、その巻き添えとなる可能性もありましょう。

 そして、第5に指摘されるのは、農地や森林を含む不動産への投資です。近年、中国資本による水源地や自衛隊基地周辺の土地買収、並びに、再生エネ施設の建設が問題視されていますが、防衛やインフラにも関連する国土の重要な部分を海外勢が保有するとなりますと、国家の安全のみならず、国民生活をも脅かしかねません。また、少子高齢化の最中にあり、かつ、国民所得も伸び悩んでいるにも拘わらず、ここ数年、不動産価格は、何故か上昇傾向にあります。こうした不自然な現象も、中国資本による対日不動産投資が原因しているのかもしれません(中国における不動産バブルの崩壊を見越した逃避資金が流れ込んでいる可能性も・・・)。

 以上に‘マイナス投資’について幾つかの類型に分けてみましたが、円安に歯止めがかからない現状にあって海外からの‘投資’を手放しで歓迎して受け入れますと、日本経済が資金力に優る海外勢によって浸食され、支配されてしまうリスクに直面します。こうしたグローバリズムには、姿を変えた新たな植民地主義の側面があるのです。海外では日本経済の現状を‘バーゲンセール’と揶揄する向きもありますが、投資とは、必要資金の調達手段というプラスの側面がある一方で、自国の株式や不動産等の売却行為でもありますので、歴代首相による海外に向けた投資アピールが、日本国のたたき売りの声にも聞こえてしまうのにも、それなりの理由も根拠もあるように思うのです。

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東京都火葬場の中国系企業独占は独禁法違反では?

2022年10月14日 12時31分26秒 | 日本政治
 人は必ず死を迎えますので、誰もが火葬や埋葬を避けて通ることができません。このため、公益性が高く、いわば、社会インフラと言っても過言ではないのですが、東京都では、目下、思わぬ事態が発生しているそうです。それは、9カ所ある火葬場のうちの6カ所が、中国系資本の手に握られてしまったというものです。しかも、全9カ所のうちの7カ所が民営であり、そのうちの6カ所というのですから、民営部分がほぼ中国系に独占された状況となるのです。

 それでは、何故、このような事態が発生してしまったのでしょうか。中国系企業の独占は、日本企業の株式取得によって生じています。六カ所の火葬場は、これまで広済堂ホールディングスを親会社とする東京博善という会社によって運営されてきました。‘初代東京博善’は、明治20年に民間の実業家によって設立されものの大正期に一端解散となり、再出発後は僧侶による経営が戦争を挟んでおよそ60年間続いたそうです(株主の多くも寺院や僧侶・・・)。ところが、1983年には広済堂(旧名廣済堂)のオーナーの櫻井氏が株式を取得して筆頭株主となり、1994年には大規模な増資を経て東京博善を子会社化します。桜井氏の死後は廣済堂の経営は傾くものの、独占的事業による優良企業であったことから、ここに同社株の買い取り合戦が始まります。同合戦劇の舞台を見ますと、三井住友銀行、米ベインキャピタル系ファンド、村上ファンド、麻生グループなど、そうそうたる事業者の名が連なっています(なお、2019年には東京博善は完全子会社化される・・・)。

麻生グループが一歩リードする中、2019年7月に、一族から買い受けて同社株の12%を保有していた「エイチ・アイ・エス」澤田秀雄会長は、羅怡文氏をトップとするラオックス・グループの傘下にある人材派遣会社「グローバルワーカー派遣」に保有株のすべてを売却します。その後、同社は、麻生グループが手放した株を買い取るなど買い増しを続け、2022年1月には、広済堂グループが羅氏関連の投資会社に対して第三者割当増資を実施したことにより、遂に保有率は40%を越えるに至るのです。中国企業による買収の背景には、同社が有する高い火葬技術の獲得にあるとする指摘もあります(人口問題を抱える中国共産党は、古来の土葬から火葬へと転換を図る方針を示している・・・)。

 かくして、東京都の火葬場全体の凡そ3分の2、民間部門の7分の6が中国系企業によって占められることとなったのですが、問題はこれに留まりません。東京博善は、今年の7月から自らエンディング(葬儀)事業にも乗り出すこととなったからです。新規参入の理由は、火葬場の経営よりも葬儀事業の方が利益率が高いからなそうです。エンディング事業への参入は2019年における完全子会社化に際して既に決定されていたのですが、これに伴い、同社は、他の葬儀社に対して、'東京博善の斎場をウェブでの宣伝に用いることを禁じた'というのです。この結果、他の葬儀社の売り上げが激減するという危機を招いているのです。以上の経緯から、幾つかの問題点が見えてきます。

第1に、社会インフラとも言える火葬業は民営でもよいのか、という問題があります。全国の火葬場の99%は公営であり、東京都の民営維持には有力政治家や政治的利権の介在も指摘されています。火葬事業の高い公益性を考慮しますと、公営化した方が望ましいかもしれません。

第2に、民営事業には事業者間において競争が働くという利点がありますが、民間火葬市場が東京博善によって独占されている現状では、競争のメカニズムは殆ど働いていません。市場の占有率からしますと、市場を独占している東京博善は、独占禁止法に違反している疑いがあるのです。しかも、上述したように、東京博善は、自らエンディング事業を手がけ、かつ、競争関係にある他の事業者に対して不利な条件を課しています。これは、本来、不可欠施設(火葬場)を保有する事業者による、ライバル企業に対する排除行為に当たります(プラットフォームを有するIT大手による自社サービス事業の優遇による排除行為と同じ・・・)。つまり、東京博善は、水平並びに垂直の両者において、私的独占行為並びに優越的地位の濫用が問われることとなりましょう。

そして、第3に指摘すべきは、外資によるインフラ事業の独占問題です。テレビ局等のマスメディアにありましても、法律によって株式保有率を制限する外資規制がかけられています。東京都のような民間火葬業者の存在自体が極めて例外的な事例であるために法規制が遅れた側面もあるのでしょうが、日本国民、特に東京都民の多くは、中国資本による‘乗っ取り’を防ぐ法的措置を求めているのではないでしょうか。

第1と第3については具体的な立法措置を講じるには時間がかかりましょうから、即応を求めるならば、公正取引委員会の対応に期待すべきかもしれません(公営化、あるいは、法規制に関する議論も同時進行・・・)。排除措置命令によって、同委員会は、東京博善に対して事業分割やエンディング事業の切り離し等を命じることもできましょう。多死社会の到来が予測される中、日本人の死が中国のビジネスチャンスとなり、利益が国外に流れる現状は、何としても改善されなければならないと思うのです。

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政治家の資質は公平無私の精神では?-岸田首相の世襲人事

2022年10月13日 10時01分23秒 | 統治制度論
民主主義国家であれば、何れの国にあっても、政治家とは統治機能を提供するために国民から選ばれた公人、即ち、‘公務員’であり、国民に対して責任を負っています。日本国憲法の第15条2項にも、「すべての公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」とし、‘公務員’の選挙は普通選挙によるものとしています。ここで言う公務員は主として政治家を意味しており、憲法上の政治家とは、支配者ではなく、国民に対する奉仕者なのです。ところが、今日の政治状況を見ますと、同条文は空文化しているかのようです。

敢えて憲法が政治家を国民への奉仕者と定めた理由は、古今東西を問わず、為政者が私利私欲を優先し、統治権力を私物化する傾向にあったからなのでしょう。帝王学が世襲君主に対して幼少の頃から公平無私の精神を教え込もうするのも、国民思いの名君が代々語り継がれる伝説と化のも、国民のために統治を行なう為政者が稀であった証しなのかもしれません。近代以降、民主的選挙制度によって、暴君や強欲な為政者を政治の舞台から排除できるようになったものの、国民は、同制度を以て安心してはいられないように思えます。国民から選挙を介して選ばれた政治家であっても、必ずしも私利私欲を追い求めないとは限らないからです。否、憲法の条文は、民主主義の欠陥を見越し、政治家に対して釘を刺そうとしたのかもしれません。

民主的選挙制度が如何に不完全で脆弱なものであるのかは、今日、多くの国民が認識するところです。日本国内を見ましても、権力の私物化の事例がここかしこに散見されます。これは、政治家が、巧妙に民主主義を骨抜きにしているからなのでしょう。先日も、岸田文雄首相の自身の長男である翔太郎氏を首相秘書官に任命する人事が国民から激しい批判を浴びることとなりました。

日本の政界における世襲政治家の率は極めて高く、岸田内閣では閣僚の凡そ6割を占めるとする指摘もあります。また、組閣を含めた人事権が首相に集中している現行の制度も民主主義を歪める一因とも言えます。こうした制度上の問題に加え、政治家としての資質が国民には見えにくい現状も、権力私物化の一因となりましょう。かつて知の巨人であったマックス・ヴェーバーは、その著書『職業としての政治家』において政治家に備わるべき資質として‘情熱、責任感、判断力’の三つの要素を挙げましたが、今日の日本国にあって当選に必要となるのは、‘地盤、看板、鞄’の三者なのです。

もっとも、ヴェーバーの三要素の前提に政治家の公共心があることは言うまでもありません。‘世の中を善くしたい’、‘人々に幸せをもたしたい’、‘悪の蔓延る政治をただし、世直しをしたい’といった‘情熱’があってこそ、政治家は、政治家という職業を志すのであり、責任感とは、国家や国民に対する統治責任に他なりません。また、国家の運命や国民の人々の生活に拘わる政策の決定や法律の制定に携わる職であるからこそ、優れた‘判断力’が求められると言えましょう。ヴェーバーの挙げた三つの要素が政治家として備えるべき資質の全てではないものの、民主主義の時代における政治家の資質を正面から論じた点において大変興味深いのです。

それでは、今般の世襲人事から岸田首相の政治家としての資質を見てみますと、残念な評価とならざるを得ないように思えます。岸田家を政治家という職業を家業として親族に世襲させ、日本の政界における‘政治一族’として確立するための人事と見なされても致し方ないからです。政治家による世襲人事は岸田首相に限らず、過去並びに現在においても他に事例があります。麻生太郎副総理の長男も青年会議所の会頭に就任しており、重職への就任による箔付けなど、世襲に向けたレールが着々と敷かれてゆく様子が窺えます。

その一方で、‘政治家の親族であっても優秀であれば問題はない’とする優秀説による擁護論もないわけではありません。しかしながら、この擁護論、そもそも首相秘書官の職が一般国民に等しく開放されたものではなく、首相の一存による任命ですので説得力に乏しいのです。当人の能力や優秀さが、試験の結果や業績といった客観的な情報やデータとして国民に示されているわけでもないのですから。否、ヴェーバーの3つの資質の何れに照らしても、政治家としての適性を備えているのか、甚だ怪しいのです。仮に、翔太郎氏が‘判断力’に秀でていれば、岸田政権に対する支持率が急落し、逆風が吹き荒れる中での世襲人事が世論の反発を受けることは容易に予測できたはずです。31才ともなれば大人ですので、民主主義の重要性を理解していてしかるべきであり、たとえ父親からの就任要請であっても、自らの政治的価値判断で断ることも、また、世襲人事は望ましくないとする進言もできたはずなのです(世襲を是とする思考も世襲されているのでは・・・)。

以上に述べてきたことから、国民は、政治家の資質を見極めようとする場合、判断材料として世襲人事や縁故人事の有無に注目する必要がありそうです。私益優先なのか、公益優先なのか、言葉ではなく行動がそれを示しているからです。日本国の政治をより善くしてゆくためには、国民も政治家も、公務員は公平無私であるべきであり(権力を私物化してはならない・・・)、全ての国民に対する奉仕者であるとする、時代を超えた普遍的な規範に立ち返るべきではないかと思うのです。

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第三次世界大戦回避のためのロジックとは?

2022年10月12日 10時23分51秒 | 国際政治
クリミア橋爆破事件を機に、ウクライナ紛争はエスカレーションの危機に直面しています。双方の応酬が続く中、ロシアによる核兵器の使用やアメリカによる核の報復の可能性も指摘されており、人類は、第三次世界大戦の瀬戸際に立たされている感があります。ロシアは、高さ500メートルもの巨大津波を起こし、沿岸都市を破壊する威力を有するとされる魚雷型核兵器ポセイドンの使用も厭わないとする指摘もあり(仮に完成させていたとすれば・・・)、ウクライナで始まった危機は、人類を滅亡させかねないのです。それでは、どのような考え方をもって対処すれば、核戦争を意味しかねない第三次世界大戦への拡大を回避することができるのでしょうか。

二度も悲惨極まりない世界大戦を経験しながらそれを三度も繰り返すようでは、人類の愚かさを証明するようなものとなりましょう(もっとも、‘最終戦争’を想定している勢力にとりましては第三次世界大戦は既定路線かもしれない・・・)。歴史に学ぼうとはしないのですから。そこで、本日は、ウクライナ問題が第三次世界大戦に発展させないためのロジックを考えてみようと思います。その鍵となるのは、国際紛争における政治問題と法律問題との明確な峻別です。

それでは、何故、政治問題と法律問題を区別する必要があるのでしょうか。その理由は、ウクライナ問題の根本的な原因が政治問題である一方で、法律問題として問われているのは、ロシアによる軍事介入という手段や戦争法に反する行為であるからです。言い換えますと、特定地域の帰属や独立をめぐる政治問題(なお、‘歴政学’即ちヒストロポリティークHistro-politic‘という用語も必要では・・・)’であれば、軍事同盟は集団的自衛権を発動する要件を失い、法律問題であれば、軍事同盟の枠外にあって別途、国際社会が対応を講じるべき問題となるのです。

なかなか説明が難しいのですが、政治問題とは、当事国の双方が歴史的並びに法的根拠を有し、全面的ではないにせよ、当事国の相互に相手国の言い分を認めている問題です。クリミア並びにウクライナ東部・南部は何れも定住民族とは言えない多民族混住地帯であり、このため、これらの地域では分離・独立運動が起きる歴史的な土壌があります。今日の国際社会には、多民族混住問題を解決する万能な方法は未だに考案されておらず、その帰属や法的立場の変更については、住民に自決の権利を認め(地域的法人格の承認)、住民投票に基づいて決定するのが基本的な原則とされています。最近でも、スコットランドにあってイギリスからの独立を問う住民投票が実施されたことは記憶に新しいところです。2014年9月に調印されたミンスク合意では、ドネツク代表とルガンスク代表が署名しておりますので、ウクライナ政府も少なくとも両州の国際法上の主体性は黙示的であれ承認しています。

もっとも、中央政府は、概して自国地域の分離・独立や他国への帰属を望まないため、住民投票実施のハードルは高く(憲法において殆ど克服が困難な障害を設けている国も・・・)、自治権の拡大等をもって分離・独立の要求を押さえ込もうとする傾向にあります。ウクライナの場合も、これらの地域に対して幅広い自治権を認めました。しかしながら、完全なる独立を目指す同地域の親ロ派勢力は、自治権拡大では満足せずに武力闘争に訴えることとなるのです。この時点ではウクライナ国内の内乱なのですが、今般、ロシアが軍事介入に踏み込む一方で、ウクライナがロシアの行為を国際犯罪である侵略として糾弾したため、事実上、アメリカをはじめNATO諸国をも巻き込む国際紛争へと発展したと言えましょう。

以上に述べたように、ウクライナ問題とは多民族混地域における分離・独立問題ですので、ここに、ウクライナ側の軍事行動は自衛権の行使であるのか、という問題が生じます。国連憲章においては、個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、加盟国による武力の行使は自衛目的に限定しています。言い換えますと、侵略といった明らかに国際法に違反する国際犯罪ではない場合、即ち、政治問題である場合には(日本国内では、政治問題は‘領土問題’として認識されており、尖閣諸島問題では、中国の言い分を認めることとなる領土問題化は忌避されている・・・)、自衛権の発動要件を満たしていないこととなりましょう。実際に、1982年の3月にイギリスとアルゼンチンとの間で発生したフォークランド紛争では、同諸島をめぐる領有権問題を政治問題と見なしたアメリカもNATOも、当事国の一方であるイギリスはと軍事同盟関係にありながら集団的自衛権の発動を控えています。

ウクライナ紛争を政治問題と見なす上記のロジックは、仮にアメリカが直接的な軍事行動に踏み切った場合に予想される軍事同盟の連鎖的発動によるドミノ倒し的な第三次世界大戦への拡大を防ぐというメリットがあります。ロシアの軍事介入を侵略と見なす当事国のウクライナやアメリカ等のNATO諸国、そして、日本国政府からしますと‘ロシアの悪行を容認するのか’という批判もありましょうが、政治問題と法律問題とを分けて対処すれば、戦場で行なわれた非人道的な行為やロシアの軍事行動によってもたらされた損害については、ロシアに対して法律問題として賠償や補償等を請求することはできましょう(ロシアが無罪放免というわけではない・・・)。

本ロジックは、中立・公平な立場に立脚していますので、両当事国による拒絶が予測されるものの、早期に停戦を実現し、国際的な監視・管理の下での住民投票の再実施がやはり最も平和的な解決方法であるのかもしれません。何れにしましても、人類を核戦争による滅亡の淵から救うという至高の目的からしますと、同ロジックは、極めて有効な考え方なのではないかと思うのです。

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ウクライナ議会の北方領土日本領決議が問う倫理問題

2022年10月11日 12時11分02秒 | 国際政治
 先日、奇妙なニュースが日本国に飛び込んできました。それは、ウクライナ議会が、今月の10月7日に「北方領土はロシアによって占領された日本の領土であると確認する決議」を採択したというものです。メディアの解説に依りますと、同決議には、ロシアによって軍事占領され、国内法によって一方的に併合されてしまった東部・南部4州とロシアの占領下にある北方領土4島を同一視し、日本国との対ロ連帯を強める狙いがあるそうです。国際社会にあっては、これまで北方領土に対する関心は比較的薄かっただけに、遠方から思わぬ‘強い味方?’が現れたとして歓迎する向きもあるかもしれません。しかしながら、同決議案には、‘罠’ともいうべき深謀があるように思えてならないのです。

 先ずもって日本国側の認識として留意すべきは、同決議案は、明らかに戦時体制にあるウクライナの国家戦略の一環であるという点です。仮に、同国が、北方領土問題について純粋にロシアによる侵略行為として解決すべき問題と認識していたとしたら、遠の昔に同様の決議を行なっていたことでしょう。決議案のタイミングは、明らかにロシアへの対抗を意識したものであり、日本国に対する対ロ陣営への呼び水と言うことになりましょう。

 それでは、同決議は、日・ウ間の連帯感醸成という精神的なものに過ぎないのでしょうか。確かに、決議の内容は、直接にウクライナへの軍事支援を要請するものでも陣営への参加を呼びかめるものでもありません。「日本の北方領土に対する立場を支持する。国際社会は、北方領土が日本に帰属するという法的地位を定めるため、すべての可能な手段を講じるべきだ」とする決議の文面からしますと、国際社会に対して北方領土を法的に日本領と確定するように求め、同問題の平和的な解決を促しています。しかしながら、時期が時期であるだけに、以下のような推測も成り立つように思えます。

 それは、日本国を対ロ戦争、否、第三次世界大戦に引きずり込むというものです。仮に決議案の通り、国際社会が北方領土を日本領として認め、法的地位が確定するとしますと(領有権確認訴訟?)、自ずと日本国の立場にも変化が生じます。これまで、日本国は、北方領土を法的、並びに、歴史的根拠に基づいて自国領として主張しており、この基本的な立場には変わりはありません。しかしながら、北方領土には、ヤルタ密約など対日参戦等をめぐる連合国間の駆け引きが複雑に絡んでいるため、国際司法解決については消極的な側面がありました。今般、日本国の北方領土領有権が国際司法機関等の判決によって確立するとしますと、現状は、ロシアによる侵略、あるいは、不法占拠が確定することとなります

 北方領土問題の司法解決自体は、最も望ましく、最も理にかなった平和的解決方法です(国際法上の問題なので、鈴木宗男氏が主張するような二国間問題ではない・・・)。北方領土問題の司法解決自体は、最も望ましく、最も理にかなった平和的解決方法です。仮に、ロシアが国際司法判決に誠実に従い、北方領土を返還するとしますと、同問題は平和的に解決します。ところが、ロシアが日本国への返還を拒み、北方領土に居座るとなりますと、日本国は、領域の侵害に対する自衛行為としてロシアに対して武力行使を行なう正当な権利を有することとなります。もちろん、同権利を即時に行使せずに留保することは可能なのですが、ここに、ウクライナ側の狙いは、対ロ参戦の動機付け、あるいは、国際法上の根拠の提供にあるとする疑いが生じます。遠方のウクライナのために命をかけて闘わなくとも、自国領と確定した北方領土を取り戻すためであれば、日本人の多くは愛国心に燃えて戦場に赴くかもしれないからです。ウクライナとしては、兵力を割かざるを得ない二正面戦争にロシアを追い込むのは戦略上の得策なのです。

このように推測しますと、ウクライナの決議案を手放しで歓迎することはできず、むしろ、封を切るのが躊躇われる招待状であるのかもしれません。否、近い将来、日本国が対ロ戦争に参戦する事態ともなれば、相手国が核を含む先端兵器を保有する軍事大国なだけに、事は深刻なのです。国土が徹底的に破壊されるのみならず、国内外にあって日本国民の多くの命が失われかねないのですから。そして、仮にウクライナの思惑が、戦争に巻き込むことにあるならば、同国の方針は、倫理的責任をも問われることにもなりましょう(同方針は、ウクライナを操る世界権力のものであるかもしれない・・・)。自国、あるいは、自己の利益や目的のために他国に犠牲を払わせることは許されるのか、という・・・(ウクライナ紛争は、法律問題と言うよりも政治問題の側面が強い・・・)。ウクライナは、大半のマスメディアが報じるように‘ロシアから攻められているかわいそうな国’なのでしょうか。しばし考えさせられてしまうのです。

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