万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

戦争ビジネス論が示唆する真の愛国者

2023年12月29日 12時23分29秒 | 国際政治
 戦争ビジネス論は、今日の政治の世界に激震をもたらすかもしれません。保守もリベラルも、マネー・パワーに操られた‘傀儡’に過ぎず、国民が信頼を寄せるに足る存在ではなくなるからです。リベラルが謳う民主主義や自由は偽善に聞こえ、保守勢力が声高に唱える祖国防衛も愛国主義も、懐疑的な視点に晒されます。左右軸の何れにあっても政治家の姿が国民の目には‘詐欺師’に映る今日という時代は、人類史にあって危機の時代とも言えましょう。

 戦争ビジネス論の信憑性の高まりは、国民が、政党や政治家の主張を鵜呑みにしてはならないことを示唆しています。例えば、仮想敵国から国民を護り抜くとする力強い訴えや国民に対する愛国主義の鼓舞も、その真意は、戦争ビジネスのために国民を戦争に駆り立てるところにあるのかもしれません。ヒトラーの巧みな演説術はドイツ国民の多くを陶酔状態に陥らせましたが、第二次世界大戦頃までは、戦争利益を目的とした誘導であれ、純粋な国家間戦争であれ、戦意高揚のプロパガンダの効果は覿面でした。しかしながら、戦争ビジネス論が現実性を帯びている今日にあっては、国民は、従来の条件反射的な反応は避けるべきと言えましょう。

 それでは、この危機に対して、人類はどのように対処すべきなのでしょうか。全世界の諸国に対して政界からメディア、さらには、宗教界にまで及ぶ全包囲的なコントロール網を構築するぐらいですから、マネー・パワーの力は強大です。このことは、戦争の時代から人類が離脱するためには、先ずもって人類の多くが戦争ビジネスと世界支配の関係並びにその集金・集権メカニズムとしての‘からくり’を熟知し、世界権力がグローバルに構築した‘指揮命令系統’を無力化する必要がありましょう。ところが、アメリカをはじめ民主的な選挙制度を維持してきた自由主義国家でさえ、国民の政治的自由並びに権利の行使は封じられているに等しい状態にあります。左右の何れを選択しても、二頭作戦にあっては無意味となるからです。

 ここで、人類は、民主主義の機能不全という厳しい現実に直面することとなります。国民の参政権の事実上の‘剥奪’に加え、強大なマネー・パワーを駆使し得る世界権力に抗い、真に自由で民主的な国家を国民が手にしようとすれば、同勢力から妨害を受けたり、不利益を被るリスクがあるからです。マネーには、人々の良心を曲げたり、堕落させるほどの魅力がありますし、そもそもマネーがなくては生きてゆくことができないのが現実です。このことは、現代という時代、即ち、三次元戦争の時代における真の愛国者とは、どのような人々であるのか、を問うているとも言えましょう。

 従来の愛国者とは、自国並びに自国民のために目前の‘敵’に対して武器を取り、怖れを知らずに勇敢に戦う者、あるいは、その勇ましい姿勢を支持する人々として理解されてきました。しかしながら、戦争ビジネス論の文脈からすれば、同反応は、国民の自然な心理に基づいてはいても、結局は、世界権力による集金・集権システムの罠にかかってしまいます。この側面に注目すれば、現代において隷属化の危機から人々を救おうとする愛国者とは、力には力ではなく、マネー・パワーによる迫害リスクを背負いつつ、自らの良心に照らし、知性を働かせて世界権力が張り巡らしている支配のネットワークを無力化する人々、ということになります。世界権力の代理人に堕した政府やマスメディア等の意図を見抜き、プロパガンダや同調圧力を利用した誘導にも流されない人々こそ、真の愛国者であるのかも知れません。そして、自らのなし得る範囲で自由、民主主義、法の支配、平等・公平といった普遍的な価値に沿った、国民のための地道な制度改革を試みる人々でもあります。こうした愛国者があらゆる分野にあって増えれば増えるほどに迫害リスクも低下し、世界権力のマネー・パワーの威力が削がれてゆくことでしょう。

しかも、現代の真の愛国者は、何れの国にあっても戦争回避を目指すのですから、暴力を否定し、平和と幸せを願う人類愛とも両立します。本記事が、2023年最後となりますが、来る年にあって真の愛国者が一人でも多く増えることを願ってやまないのです。

*本年は、本ブログにお越しくださいまして、ありがとうございました。拙い記事ではありますが、わずかなりとも皆様方のお役にたちましたならば、大変、うれしく存じます。また、本年は喪中につき、新年のご挨拶はご遠慮させていただきますことを、どうぞ、お許しくださいませ。

 私事ながら、今年の7月に母を亡くし、わずか1年半の間に両親を失うこととなりました。生まれてからこの方、人生の大半を家族4人で仲良く暮らしてまいりましたので、残された双子の姉妹二人での生活は寂しい限りです。とは申しましても、両親がこの世を離れる際に起きた出来事の数々は、私どもの死生観や心境に大きな変化をもたらすことともなりました。

 亡き父につきましては、危篤の知らせを受けて病院にかけつけた時は、父は既に心肺停止の状態で病室のベッドに横たわっておりました。ところが、私どもが大きな声で呼びかけますと、直線状態にあった心電図の波形が動き出したのです。かくして父との最後の会話は心電図ということになったのですが、私どもが‘お父様、私が天国に逝くときにはお迎えに来てね’とお願いしますと、心電図がピコピコと反応したのです。この最後の父との会話は、私どもへの最大にして最高のプレゼントとなりました。何故ならば、死というものが全く怖くなくなってしまったからです。

 また母の臨終も、まことにドラマチックでありました。最後は鎮静の措置をとりましたので、眠るように亡くなるものと思っていたのですが、母は、病室の窓から見える青空を目を見開いてじっと見つめ、最後に一言、驚いた表情を見せて‘お’とだけ申して息を引き取ったのです。その‘お’が‘お父様(父または祖父)であったのか、あるいは、’お母様(祖母)‘であったのか、今でも全く分からないのですが、旅立つ母のために、誰かがお迎えにきていたのが、ベッドの傍らで母の手を握る私どもにもわかったのです。

 この他にも不思議な現象が幾つも起きており、今では魂実在論者になりつつあります。この意味におきまして、時折、両親を思い出しては涙しつつも、両親を失った寂しさや悲しさが幾分和らげられており、今では、ご先祖様も合わせまして御霊と一緒に暮らしているような気がしております。そして、魂に対する関心は、現代科学にも向けられるようになりました。スウェーデンボルク氏の著書を読んでみたりもしたのですが、特に量子論は、物質とエネルギーとの間の互換性を示しておりますので、大変、興味深いところです。先日も、心肺停止後にあっても脳内において「死の波」とも称される著しい脳波の変化が見られるとする記事がありました。こうした実験は、臨死体験が脳内に放出された物質等による幻覚に過ぎないことを証明するために行なわれたのでしょうが、あるいは、意識のエネルギー化のプロセスを観察したとも解されましょう。何れにしましても、生命は、まだまだ謎に満ちております。

最後に、今年の大晦日に寄せて

  世を去りし みたまのつどふ 年越しは こゑなくにぎはふ 静かなる夜
 
来年は、1月4日よりブログの更新を再開いたしますので、その節は、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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戦争ビジネスと愛国心の利用

2023年12月28日 13時43分56秒 | 国際政治
 戦争ビジネス論には、人々の政治に対する認識を大きく変える可能性があります。とりわけ、強い影響を受けるのは、平和主義を唱えながら戦争に加担するリベラルも然ることながら、保守系の政治団体も無傷ではいられなくなります。何故ならば、リベラルとは別の意味で、国民を騙しているかも知れないからです。

 戦争に誘導するためには、あらゆる方面から国民を誘導する必要があります。このためには、積極的な国民に対するプロパガンダや扇動活動、並びに、‘仮想敵国’や周辺諸国がもたらす脅威をアピールし、何時でも国民が自発的に戦争に協力する環境や体制を整えておかなければならないこととなります。とりわけ、侵略等の行為が国際犯罪化した今日にあっては、犯罪と同義となる領土拡大政策は国民からの支持を得ることは難しくなりましたので(もっとも、ロシアや中国では、今もって帝国主義的なプロパガンダは通用するのかも知れない・・・)、‘国民を護るための防衛力強化’や‘国家存亡の危機’が最も国民の心に訴えるフレーズとなりましょう。何と申しましても、全ての国民にとりまして、他国によって自国の領土を侵害されたり、主権を奪われることは、祖国喪失の危機という死活問題となるからです。

 自らの生まれ育った国を護りたいとする心は、誰もが奴隷やジェノサイトの対象にはなりたくないように、およそ全ての国民に宿っております。多少の差こそあれ、国民には愛国心がありますので、保守勢力による自国防衛のアピールは、戦争に対する国民の心理的な受容を促すのです。しかも、古今東西の歴史を振り返りますと、領土を奪われたり、他国から一方的な攻撃を受けた事例は枚挙に暇がありません。英雄伝の多くは、常々、愛国心に燃えて危険を顧みずに勇敢に敵を打ち倒した救国者の物語ですし、古来、国家を護るのために自らの命を捧げた兵士達も、英雄として崇拝されてきました。少なくない国民が、祖国防衛を訴え、愛国心に訴える政治勢力に共感し、頼もしいと感じてもおかしくはないのです。

 ところが、戦争ビジネス論が登場し、真実味を帯びきますと、国民の保守政治勢力、あるいは、右派やタカ派に対する信頼は大きく揺らぐことになります。何故ならば、これらの勢力は、国民の祖国防衛に対するや愛国心を、戦争への誘導を目的に利用しようとしているのではないか、とする払拭しがたい疑いが国民の心の中に自ずと生じるからです。仮に、戦争ビジネス論が事実であれば、保守系の政治勢力は、自らの私的な利益のために国民を戦争へと駆り立てていることになり、これは、国民に対する背任並びに詐欺的行為に他ならなくなります(戦争利益のための偽旗作戦の実行者・・・)。

 そして、この疑惑は、近年、深まりこそすれ消えることはありません。戦争ビジネス論を裏付けるような事件や事象が数多く発生しているからです。例えば、日本国内では、自民党が掲げてきた‘保守政党’の看板は偽りではなかったのか、とする疑念が生じています。日米同盟の強化やウクライナ支援等を熱心に訴えても、自国民を犠牲に供しつつ、アメリカあるいはグローバル軍需産業に奉仕している疑いが晴れないのです。その一方で、戦争ビジネス論は、中国の急速なる軍拡や北朝鮮による頻繁な威嚇的な核開発やミサイル発射をも説明します。戦争を待望する勢力は、権力が一個人に集中しているほど外部から操るのが容易となりますので、独裁体制は好都合なのでしょう。かくして、マッチポンプ式に新興宗教団体を含む様々なルートから双方の敵愾心を煽り、創作されたカバー・ストーリーに沿う形で戦争への道が準備されるのです。

 岸田政権に対する支持率の低下も、国民の多くが安全保障上の脅威を根拠とした防衛費増額のみならず、デジタル化社会(デジタル全体主義)化等の推進も含め、上述した仕組みに気がついてきているからなのかも知れません。もっとも、左右の相違に拘わらず、政治団体というものの大半が戦争ビジネス勢力の息がかかっているとしますと、同危機は、政権交代によって簡単に解消できる性質のものでもありません。右のものを左に移しても、左のものを右に移しても、結果は変わらないのですから(つづく)。

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戦争ビジネス論が既存の政治に与えるダメージ

2023年12月27日 12時34分25秒 | 国際政治
 陰謀論と申しますと、どこか胡散臭く聞こえるのですが、‘戦争利益共同体’による戦争の誘導を戦争ビジネス論と表現すれば、多くの人々が真剣に受け止めてくれるかも知れません。もちろん、戦争ビジネス論も死の商人に焦点を当てた一面的な表現に過ぎず、その長期的なメカニズムを含めた全体像を描こうとすれば、別の言葉を要することでしょう(戦争統制経済化論や戦争全体主義化論・・・)。また、‘戦争利益共同体’を世界権力の別称と捉え、平和的手段による全体主義下の手段であるとしますと、デジタル社会化の促進による所謂デジタル全体主義化につきましては、さらに違った表現を探さなければならないかも知れません(世界権力人類支配論・・・)。何れにしましても、今日、人類の頭上には、一網打尽に人類の家畜化を狙う‘捕獲ネット’が降りてきているように思えます。

 さて、最も一般的に受容性が高いと推測される戦争ビジネス論なのですが、同論は、各国政府やマネーの動きを注意深く観察すれば、半ば実証されているに等しいとも言えましょう。戦争回避、停戦、和平、そして、平和的な解決手段が数多ありながら、何故、‘都合良く’戦争が起きてしまうのか、そして、長引かされるのか、その謎も、同論は見事に解き明かしてくれるのですから。そして、この現実に対する説明力が、今日の政治に影響を与えないはずもありません。静にかつ確実に人々の政治に対する認識を変えてゆくからです。

 戦後の米ソ対立を軸とした冷戦構造にあって、左右の二項対立は、国際社会のみならず、自由主義国国内の政治的構造でもありました。日本国ではしばしば五十五年体制とも称されたのですが、保革の左右対立が、民主主義国家における多数決の原則と相まって、イデオロギーの選択として常に二者択一を国民に迫っていたとも言えましょう。同構図にあって、国民は保守か革新かのどちらか一方を支持せざるを得なかったのです。米ソ冷戦終焉の後も、中国の台頭を背景に国際社会は新冷戦の様相を帯びると共に、国内にあっても保守対リベラルの対立構図は完全なる解消には至りませんでした。それどころか、政治の世界が多様化に向かうのではなく、逆に、保守とリベラルとの差異や境界線が曖昧になり、逆転現象まで起きることとなったのです。そして、自由、民主主義、法の支配と言った諸価値の実現を謳いながら、保守政党であれ、リベラル政党であれ、全体主義への一本道に向けて歩み始めたのです。

 おそらく、最初に‘化けの皮が剥がれた’のは、左派のリベラルであったかも知れません。言論統制の域に達した過激なポリティカルコレクトネスやファクトチェック等に象徴されるように、リベラルによる欺瞞や偽善が明らかとなったからです。前回のアメリカ大統領選挙でも、民主党側に選挙不正疑惑が上がったのも、同党の清廉なイメージ並びに信頼性を著しく損ねることとなりました。そして、今般の戦争ビジネス論は、保守派やタカ派の側により深刻なダメージを与えるかもしれません。

 戦争によって富を得る人々は、戦争や安全保障上の脅威がなくなりますと利益の源泉を失うことになります。これらの人々こそ、戦争を起こす動機を持つ人々とも言えるのですが、実際に、安全保障上の緊張を高める、あるいは、戦争を誘発するためには、水面下にあって工作活動を行なう必要があることは言うまでもありません。裏工作については、次回のアメリカ大統領選挙において台風の目とも称され、民主党を離党して無所属での立候補を表明しているロバート・ケネディ・ジュニア氏が、全世界の紛争におけるCIAの関与を指摘していますが、アメリカのCIAに限らず、戦争当事国としての適性を持つ全ての諸国の政界、官界、財界、マスメディア、教育界等に対して働きかけを行なっていることは容易に推測されます。

 それでは、戦争を起こすには、どのような‘準備’が必要なのでしょうか。先ずもって細心の注意が払われていると推測されるのは、‘自然に見える’というものです。誰もが思わず納得してしまうようなカバー・ストーリーを作り、それを信じ込ませなければならないのです。このためには、常に国家間に対立要因があることが望ましいのは言うまでもありません。領土に関する問題であれば、即、戦争に発展し得ますので、なお望ましいと言えましょう。また、戦争の当事国、あるいは、周辺諸国に安全保障上の脅威を与える国の国家体制としては、独裁体制の方が民主主義体制よりもコントロールが容易となります。一人の人物に権力を集中させておけば、指令一つでその人物を外部から操り、思いのままに軍事的緊張を高めたり、開戦を決定させることができるからです(つづく)。

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戦争という自由主義国の危機

2023年12月26日 15時40分16秒 | 国際政治
 戦争が人類にとりまして極めて危険な存在である理由は、戦闘や爆撃等による国民の多大なる犠牲や国土の破壊のみではありません。一端、戦争が始まる、あるいは、安全保障上の危機が到来しますと、国家体制を戦時体制という名の全体主義型に転換せざるを得なくなるところにあります。同転換は、全面的な移行とまでは言わないまでも、戦争当事国のみならず、同盟や通商等の関係を介して他の諸国においても自由主義経済を浸食し、じわじわと変質させてゆきます。‘蟻地獄’とも表現できるのですが、それでは、どのようなメカニズムで同変化は起きてくるのでしょうか。

 軍需の領域にあっては、国家のみが独占的な調達者です。しかも、その基本的な目的は自国の防衛や安全保障ですので、他の政策分野に優先し得る根拠を有しています。戦争並びに安全保障リスクが高ければ高いほど、優先度が上がってゆくのです。リスクが極限まで達して遂に開戦に至れば、国家存亡の危機として最優先事項として位置づけられ、如何なる犠牲やコストを払ってでも、あらゆる資源が他に先んじて軍事に投入されます。この政府による戦争に対する‘優先的資源配分’の側面は、戦争を欲する人々の存在をも説明します。戦争を介した政府と軍需産業との癒着は、両者が‘戦争利益共同体’となり得るからです。

 しかしながら、政府と軍需産業との一体化は(軍産複合体とも表現されている)、大多数の国民に不利益をもたらします。自国が戦争の当事国になれば、当然に自国の政府から徴兵されたり、敵国から爆撃を受ける可能性もありますし、統制経済の下にあって、国民の生活レベルが著しく低下するからです。もっとも、国民は、祖国防衛といった戦争の大義を前にしては、自発的に戦争に協力せざるを得ません。それでは、戦争当事国ではない国はどうでしょうか。

 経済面からしますと、他国の戦争は、非当事国にとりましては自国の兵器製造・輸出やサプライチェーンに含まれる関連企業、並びに、戦費調達に関わる金融事業者等のビジネスチャンスとなります(かつては、傭兵が戦争ビジネスの代表格であったが、今日では、若干、ワグネルなどが存在するに過ぎない・・・)。否、当事国ではありませんので、自国の軍隊や国民の犠牲を払わずして経済的な戦争利益のみを享受し得る好都合な立場にあるとも言えましょう。この点に注目すれば、アメリカが、とりわけ第二次世界大戦後は、他国の戦争に介入はしても当事国とはならない、あるいは、当事国となったとしても自国を戦場にしない理由が説明されるかも知れません。

 もっとも、戦争利益はアメリカに限ったことではなく、何れの国であっても軍事関連の企業は、戦争こそビジネスチャンスです。ビジネスチャンスと言うよりも、戦争や安全保障上のリスクが存在しませんと存続が危うくなる戦争依存企業とも言えましょう。そして、一般の非軍事部門の企業も、軍需が拡大するほど、軍事部門の生産にシフトするインセンティブが高まります。中小の部品等の供給企業も含めれば、軍需産業の裾野はさらに広がってゆきます。かくして、国内経済における軍需部門の比率は上昇するのですが、これは、自由主義経済の範囲が縮小し、多くの企業が内外の政府調達に依存する官主導型の経済への移行を意味します。そして、これらの軍事関連の企業も、‘戦争利益共同体’の一員として組み込まれるのです。

 戦争の数が増加し、規模も拡大するにつれ、経済に占める軍需部門の比率も上昇しますので、経済全体の戦争依存度も高くなります。今日でも、ウクライナ紛争によって日本企業も潤っているので、必ずしも否定的に考える必要はないとする見解も聞かれます(この見解に従えば、戦争待望論となる・・・)。しかしながら、ここで考えるべきは、戦争というものが殺戮と破壊を伴う以上、人類普遍の倫理に照らせばお金のために悪魔に魂を売るようなものであり、かつ、経済が戦争に依存する経済体制への移行は、自由主義経済をも損ねてしまうという現実です。

 戦争を欲する‘戦争利益共同体’がグローバルレベルで登場するのであり、日本国も、その一員となりつつある、否、既になっていたようにも思えます。そして、首尾良く戦争を起こすには、敵対関係にある両者を戦争に誘導する必要がありますので、‘作られた戦争論’も決して侮れないのです。戦争の時代に終止符を打つためには、まずは、自由で民主的な国家体制の変質を迫りつつ、戦争が人類の一部に過ぎない世界権力に利益と権力をもたらすメカニズムから脱出すべきではないかと思うのです。

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戦争は‘蟻地獄’の集金メカニズム

2023年12月25日 12時19分18秒 | 国際政治
 ウクライナに次いでパレスチナの地にも戦火が広がり、台湾有事も囁かれる今日、頓に関心を集めるようになったのは、戦争ビジネスの問題です。先日も、ウェブ上のオンライン記事にあって「「戦争が止まらない原因」はアメリカにあった・・・」とするタイトルが目に留まりました。同記事は、戦争というものが、アメリカの巨大軍事産業の利益のために‘仕組まれている’実態を告発しています。この記事を読めば、ゼレンスキー大統領の‘祖国防衛の名演説’もネタニヤフ首相のハマスに対する‘怒りの鉄拳’も形無しとなるのですが、今日、戦争の真の姿が露わになりつつあるように思えます。

 ヴェネチア商人などによるシステマティックな戦争ビジネスは、ヨーロッパにあっては十字軍の時代から確認されるものの、古代にありましても、武具や武器の製造者のみならず捕虜奴隷商人も存在していましたので、戦争は、為政者並びに商人にとりましては絶好のビジネスチャンスであったのでしょう。近現代にあっても、軍需産業は経済全体において一定の割合を占めており、とりわけ全世界に基地網を構築し、グローバルに軍隊を展開し得る軍事大国にして、かつ、世界最先端の兵器をも製造するアメリカの軍需産業は、かつてアイゼンハウアー大統領が軍産複合体の脅威として警告したように、同国の政策を左右するほどのパワーを有しています。この現実からしましても、戦争がアメリカ企業、あるいは、グローバル企業に莫大な利益を齎すことは疑いようもなく、それ故に、上述した記事には説得力があるのでしょう。

 戦争が一部の戦争利得者が潤う巨大ビジネスであることは容易に理解し得るのですが、人類が警戒すべきは、戦争当事国が払う多大な犠牲のみならず、戦争リスクが、他の諸国をも巻き込む形で国家並びに経済体制をも全体主義体勢に移行させてしまう点にあるのかもしれません。つまり、‘死の商人’などの個人的な利益の問題に留まらず、国家や国際社会全体の問題に波及するのです。それでは、戦争、あるいは、戦争リスクは、どのようなメカニズムで全体主義体制へと人類を陥らせるのでしょうか。

 先ずもって指摘し得る変化は、経済における資源の配分が民から官へシフトすることにあります。第二次世界大戦時を見れば一目瞭然なのですが、連合国であれ枢軸国であれ、戦時にあっては、何れの諸国も戦時体制に移行しています。持てる資源あるいは動員しうる資源は優先的に軍事部門に配分され、民生品の製造は後回しとなるのです。この結果、武器を初めとした軍需品を受注する国策企業に経済が集中すると共に、一般の国民は、生活必需品さえ入手が難しくなります。自由かつ公正な競争を基盤とする自由主義経済は停止・後退状態となり、政府が経済に関してあらゆる決定を下し得る統制経済へと移行するのです。この体制、よく観察しますと社会・共産主義体制と変わりはありません。否、社会・共産主義体制とは、戦時体制が恒常化したものに他ならないとも言えましょう。

 この変化は、戦争当事国のみではありません。安全保障上のリスクを持ち出せば、全面的な体制移行ではなくとも、如何なる国でも緩慢なるシフトが起こりえます。例えば、日本国政府は、今月22日に武器装備移転三原則を改定し、アメリカへの日本製パトリオットの輸出を解禁する方針を決定しています。この改定の裏には、日本国からのウクライナへの財政支援(昨今の6500億円など・・・)⇒ウクライナ政府によるアメリカ政府からのパトリオットの高額購入⇒アメリカ政府による日本企業からのパトリオットの安値購入⇒日米官民の利益(日米政治家へのキックバックを含む・・・)・・・というメカニズムが想定されます。

日本国内における武器生産の拡大については、中国や北朝鮮などによる安全保障上のリスクをもって説明されています。しかしながら、おそらくアメリカ政府からの要請を受けた上での方針決定なのでしょう。このため、同メカニズムから得られるアメリカの利益は日本国側のそれを上回ることが予測されます。アメリカは、日本国からの安値購入とウクライナ側への高額売却で利ざやを得ますし、そもそもウクライナの武器購入財源は、日本国からの支援金です。言い換えますと、アメリカに代わり、日本国が、迂回ルートを通してウクライナの戦費を提供していることになりましょう。そして、日本国側のメリットとして指摘されている日本企業の輸出利益も、パトリオット製造のライセンス料の支払いもあることから、到底、‘投資額’を上回るとは思えません。むしろ、アメリカによって日本国が‘武器製造拠点’に指定されたとする見方の方が真相に近いのかも知れません。

そして、アメリカの政府並びに軍需産業の経営戦略に取り込まれる形で日本国内の武器製造・輸出のメカニズムが一度動き出しますと(その背景には、グローバルな世界権力の利益が潜む・・・)、政府や一部の軍需関連の企業等を除く大多数の日本国民は、それとは気付かぬうちに、蟻地獄の巣に落ちたアリの如くに奈落の底に引きずり込まれてしまいます。自らの足元の砂が少しづつ崩れ落ちていることに気付かずに・・・(つづく)。

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解きがたいジレンマに直面するユダヤ勢力

2023年12月22日 10時59分04秒 | 国際政治
 今般のイスラエル・ハマス戦争に見られるイスラエルの基本的なスタンスは、所謂‘無法者’なのではないでしょうか。暴力で奪った者勝ちを公言しているからであり、国際法など歯牙にもかけていないのですから。ところが、このスタンス、ユダヤ勢力を解きがたいジレンマに直面させているように思えます。

 同ジレンマとは、ウクライナ紛争との関連において発生します。何故ならば、同紛争にあっては‘無法者スタンス’にあるのは、ロシア側であるからです。ロシアが‘特別軍事作戦’の名の下で国境線を越えてウクライナ領に進軍した際、当事国のウクライナのみならずアメリカを初めとした‘西側諸国’は、即座にロシアの行動を国際法違反の侵略として認定しました。ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ系ですし、アメリカも、ユダヤ勢力に支配されていると言っても過言ではないほど、ユダヤ系ロビーが絶大な影響力を振るう国です。イスラエルは中立を表明したものの、ウクライナ紛争では、アメリカやNATOを陰から動かしつつ、ユダヤ人勢力は、‘国際法秩序の維持’を根拠として全力でウクライナを支えたのです。

 日本国政府がウクライナに多額の支援金を拠出してきたのも、国際法秩序の維持という大義名分があったからです。‘今、ロシアの侵略を阻止しなければ、国際法秩序が崩壊し、全世界が弱肉強食の無法地帯と化す’、“暴力で奪った者勝ちを認めるわけにはいかない”とする主張は、正論でもありましたので、国民の多くをウクライナ支援に納得させる説得材料であったのです(もっとも、ロシアに対する侵略認定は、中立・公平な国際司法機関による検証を経たものでもない・・・)。

 ところが、冒頭で述べたように、イスラエル・ハマス戦争におけるイスラエルの基本スタンスは、ロシアと同様に‘無法者’です。国際法秩序の維持を主張するならば、今般のイスラエルの行動は違法行為であり、イスラエルは、当然に、パレスチナ領域の併合という‘大イスラエル主義’は断念せざるを得なくなります。その一方で、‘無法者’の立場を貫くならば、イスラエルは、ロシアによるウクライナ領の併合を認めざるを得ないのです。昨今、同紛争に対するアメリカのダブル・スタンダードが内外から批判を浴びていますが、同国の一貫性の欠如は、ユダヤ人が直面しているジレンマの現れとも言えましょう。

 それでは、ユダヤ勢力、あるいは、‘ユダヤ人中枢’は、このジレンマをどのように解決しようとするのでしょうか。同ジレンマについて、グローバリストでもアルユダヤ勢力が事前に予測していたか否かは定かではありませんが、仮に、カナンの地における‘大イスラエル’の実現を最優先課題として位置づけているとしますと、同勢力は、(1)ウクライナ紛争ではロシアに勝たせ、既成事実主義を浸透させる(ゼレンスキー大統領等のユダヤ系協力者には逃亡先を用意・・・)、(2)ウクライナ紛争はそもそも両国を背後から操って演出したものであるので、勝敗を有耶無耶にした形でフェードアウトさせる、(3)ウクライナを勝たせた上で、イスラエルの国際法違反については、各国政府やメディアへの圧力など、マネー・パワーで批判を封じ込める・・・といった方法を採るかも知れません。これらの何れの方法であっても、大イスラエル主義に基づく限り、ユダヤ勢力のジレンマの解消は、武力による一方的な現状の変更、即ち、侵略や反人道的行為を是認する方向に向かう可能性が高いと推測されるのです。国際法秩序の維持という根拠は、ユダヤ勢力にとりましては、自らの野望や欲望を隠すための方便に過ぎないことが露呈したのですから。

 この流れからしますと、今日、ウクライナに対する6500億円の追加支援に際して復興特需論、あるいは、日本利益論が声高に主張されるのは、あるいは、国際法秩序の維持という大義名分が、ユダヤ勢力にとりまして不都合となってきたからなのかも知れません。また、アメリカがウクライナ支援を渋るようになったのも、ロシア勝利路線の方がイスラエルにとっては望ましいからとも推測されます。

 もっとも、国際世論のイスラエル批判は高まる一方ですので、イスラエルが、大イスラエル主義を諦めるという選択もあり得ましょう。ハマスが偽旗作戦のためにイスラエルが仕立てた要員であれば、‘ハマスの敗北’をもって今般の戦争を一先ずは‘正当防衛’の範囲に収め、カナン全域のイスラエル化の夢は断念するかもしれません。何れにしましても、人類の一部でしかないユダヤ勢力のジレンマが、人類の未来に多大なる影響を与えるという事態は、本来、あってはならない事です。紛争を平和裏に解決し得る公正・公平な国際法秩序の制度的な構築こそ、全人類にとりましての最優先課題なのですから。

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ウクライナ6500億円支援の大問題

2023年12月21日 12時26分16秒 | 日本政治
 日本国の鈴木俊一財務相が、オンラインでのG7財務相・中央銀行総裁会議を終えた後に、日本国には6500億円のウクライナ支援を行なう用意がる旨を公表した途端、日本国内では、同方針に対する批判の嵐が吹き荒れることとなりました。岸田政権は、常々海外への巨額の‘ばらまき’、あるいは、予算の政治家によるポケットマネー化が指摘されてきましたが、海外優先の政治姿勢は、一向に収まる様子はありません。その根本的な要因は、岸田政権を支えているのは日本国民ではなく、海外勢力であるからなのでしょう。

 実際に、鈴木財務省のウクラナ支援の表明に先立って、アメリカでは、ウクライナ支援に関する追加予算案が議会の承認を得られず、年内には同国への政府の支援金が枯渇するとするニュースが報じられています。この流れからしますと、G7財務相・中央銀行総裁会議において議題となったのは、アメリカに代わってどの国がウクライナ支援予算を拠出するのか、という問題であったのかも知れません。つまり、日本国は、アメリカの軍事費を肩代わりさせられているとする見方もできましょう。また、今月13日には、ドイツのショルツ首相が、連邦議会において2024年度のウクライナ支援の予算を当初計画の凡そ2倍となる1.2兆円に引き上げることを明らかにしています。もしかしますと、第二次世界大戦の敗戦国もしくは世界権力の半ば‘直轄地’と化した日独は、‘世界政府’によってATM化されているのかもしれません。

 かくして日本国による6500億円の支援は、日本国の民主主義も独立性も風前の灯火となっている現状を象徴しているのですが、この現実の糊塗に輪をかけて唖然とさせられるのは、同支援に対する擁護論です。‘戦後の復興事業に日本企業が参加できるチャンスとなるので、長期的な視点からすれば今般の支援は高くはない’とする日本利益論です。この主張も尤もらしく聞こえるのですが、倫理的な問題を含めて疑問に満ちています。

 第一に、戦争は、基本的には地上から消滅させるべき悪しき行為です。ところが、戦後の復興景気への期待は、この行為のエスカレーションを期待することを意味します。破壊の規模が大きければ大きいほど、復興事業の規模も拡大するからです。となりますと、6500億円の支援は、戦争という火に油を注ぐ行為であり、中国語の過激な表現では‘加油(戦争頑張れ)’となりましょう。つまり、日本国は、反倫理的行為である戦争を資金面で支えることとなるのです。真に日本国が平和国家であるならば、巨額の支援金を表明するのではなく、和平交渉の促進に努めるべきと言えましょう。

 第二に、対ウクライナ投資の費用対効果の面からしましても、日本側のメリットは怪しい限りです。今般の6500億円はおそらく同国の戦費として使われてしまうことでしょうから(人道支援部門であれば、より少額であるはず・・・)、戦後復興におけるインフラ再建に伴う日本企業の受注を期待するならば、戦争終結後に、さらなるウクライナ復興支援金の拠出を要します。既に日本国は1兆円以上の資金を拠出していますので、今後の復興支援金を合わせれば、日本の民間企業の利益を遥かに超えることでしょう。同額を直接に日本企業に配った方が、日本経済全体の活性化を促すはずです。それとも、ウクライナ国内の基本インフラの事業権を日本企業が取得し、半永久的にウクライナ国民から利益を吸い取ろうと言うことなのでしょうか(戦争を契機としたウクライナの植民地化には、ウクライナ国民も警戒すべきでは・・・)。

 第三に、外国からの借金は、ウクライナ政府のデフォルトリスクを高めてしまいます。今般の6500億円はおそらく無償供与、つまり、ウクライナ政府に返済義務のないタイプなのでしょうが、今後の復興支援については有償支援となりましょう。ウクライナは、戦前から財政危機を抱え、かつ、政府の清潔度の低いダーティーな国ですので、外国からの多額の借金は、ウクライナの財政状況を一層悪化させると共に、政府腐敗も助長させることでしょう(日本国の政治家にもキックバックがあるかもしれない・・・)。そして、デフォルトともなれば、同国に融資した国も民間金融機関も、そして、復興事業を受注した受注企業も多額の回収不能の債権を抱えることにもなりかねません(あるいは、同6500億円は、同時にグローバル金融の利益のために、過去の債務の返済に使われるかも知れない・・・)。

 そして、第四に指摘し得るのは、ロシア勝利のリスクを全く無視している点です。同擁護論は、ウクライナ勝利を前提としていますが、仮にロシアが勝利すれば、多額の支援も全くもって無に帰してしまいます。しかも、戦争で破壊された地域はロシアの併合地となりますので、ロシア政府がウクライナを支援した日本国の企業に対して自国の復興事業を開放するとは思えません。また、たとえウクライナが勝利したとしても、‘世界政府’が設定している日本国の役割はATMですので、利益率の高い事業は、世界権力の傘下にあるグローバル企業によって占められることでしょう。

 日本国内では、東日本大震災の爪痕も残されており、自然災害の復興さえままなりません。国民の多くが復興特別所得税を納めている中、外国の戦後復興に巨額の予算を振り向けようとする政府に対して批判の声が上がるのは、当然すぎるほどに当然なことです。以上の主要な四点の他にもまだまだ問題含みの支援なのですが、今日、日本国を含め各国に必要とされているのは、自立的決定権を意味する主権が侵害され、民主主義が形骸化されている現状を打破する道を見出すことではないかと思うのです。

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イスラエルの凄まじい自己破壊

2023年12月20日 13時36分03秒 | 国際政治
 イスラエルによるガザ地区に対する攻撃は、‘敵’に対する凄まじい破壊力を全世界に見せつけています。先日は、イスラエル軍が地下トンネルを破壊するために海水注入を開始したとの報道がありましたが、この‘水攻め’も現代人の視点からすれば、残酷極まりません。ハマス戦闘員の地上への追い出し作戦と説明されているものの、アメリカのバイデン大統領は、人質の身を案じて批判的な見解を示しているところからしますと、民間人を含め、地下トンネル内の人々が溺死することは想定内なのでしょう。否、海水注入が大量殺害の方法であるならば、この手法は、恰も害虫駆除のようであり、人を人とも思わない蛮行と言わざるを得ません。

 水攻め作戦にも見られるように、イスラエルの‘敵’に対する破壊は容赦ないのですが、その一方で、こうした非人道的な行為が、同時に、イスラエル、あるいは、ユダヤ人自身の自己破壊行為であるとする認識は薄いようです。そして、この自己破壊の結果が極めて広く多岐に亘り、かつ不可逆的に広がると言うことにも・・・。

 第一に挙げられる自己破壊とは、自らのイメージの破壊、即ち、ユダヤ人の被害者イメージです。この点については、多くの人々が既に指摘しており、その度を超した加害性は、イスラエルに対する批判の中心的な要素となっています。かつてユダヤ人は、ドイツのナチス政権自体における‘ホロコースト’をもって、自らを非寛容的な民族差別による犠牲者として位置づけてきました。しかも、組織的な民族浄化の標的ともなり、アウシュビッツに代表される強制収容所では、ガス室送りによって命を落とした夥しい数のユダヤ人がいたとされるのです。

 後にナチス政権が崩壊し、ドイツが第二次世界大戦の敗戦国となると、ユダヤ人は、‘ホロコースト’による被害を盾として、ユダヤ批判の封じ込めを開始します。その代表的な組織となるのがマルコポーロ事件で知られるサイモン・ヴィーゼンタール・センターなのですが、ユダヤ人はグローバルなネットワーク、並びに、潤沢な資金力を駆使して、ユダヤ人批判をタブーとする風潮を作り出すことに成功したのです。その努力は、今般のイスラエル・ハマス戦争にあっても初期の頃は功を奏し、イスラエルの国際法違反行為に対しても‘反ユダヤ主義’のレッテルルを貼ることで半ば封じることができました。

 ところが、同戦争の実像が、イスラエルによるパレスチナ人の民族浄化の様相を呈するに至ると、雲行きは怪しくなってきます。イスラエルに対するパレスチナ人に対する残虐行為は、まさに、ユダヤ人が受けてきた被害そのものではないか、とする批判が噴出することになったからです。言い換えますと、多くの人々が、イスラエル、あるいは、ユダヤ人を加害者側として認識するにいたったのです。そして、この認識は、如何なる非人道的な行為であっても被害者であるユダヤ人の行為は不問に付すという、これまでの‘ホロコースト・マジック’を解いてしまいました。全世界の政府のみならずマスメディア、学界、教育界などに投じてきた巨額の投資は水泡に帰し、自らが依存する‘被害者ポジション’を自らの手で破壊してしまったのです。懐疑論もある‘ホロコースト’の実態については、今後、事実の確認という検証を要しますが、今般のイスラエル・ハマス戦争におけるイスラエルの蛮行は、誰も否定ができない事実そのものなのです。

 しかも、さらに悪いことに、イスラエルは、‘被害者は被害を受ける側の気持ちを理解できるので、加害者になるはずはない’とする、性善説的な人類一般の期待をも裏切ってしまいました。‘他者の欲せざる事を為すなかれ’も人類普遍の道徳律でもあります。かくして、イスラエルは、被害者イメージのみならず、率先して異なる者への寛容や人権の尊重を提唱してきた道徳的な人々、というイメージをも失ってしまったのです。

 そして、もう一つ壊されたイメージがあるとすれば、ユダヤ人は、人類の最先端をゆく知的で洗練された人々であるとするイメージです。イスラエルはIT・AI大国でもあり、テクノロジーにあっても一歩先を行く国です。このため、『サピエンス全史』の著者である歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏などは、ユダヤ人をイメージして進化したホモ・ゼウスの概念を打ち出しています。ところが、今般のイスラエルの振る舞いを見る限り、進化どころか野蛮への退行としか言い様がありません。理性や高度な知性をもって平和な国や社会を構築するのではなく、逆に暴力をもって自らの野望を達成しようとしているのですから。

 ネタニヤフ首相は、敵の破壊が自らの破壊であることに気がついているのでしょうか。ユダヤ人を無批判な安全地帯に置いてきた被害者、リベラルな博愛主義者、超人的な知性を持つ人々というイメージは一度壊れますと、構築し直すことは極めて困難です。真にユダヤ人が賢ければ、自己破壊こそ恐れるべきなのではないかと思うのです。

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‘ヤフコメ’の北方領土断念論の不可思議

2023年12月19日 12時17分43秒 | 国際政治
 本日のウェブ・ニュースにおいて、奇妙な現象を発見いたしました。それは、Yahooニュース上で起きた出来事です。それでは、どのような現象であるのかと申しますと、「対日領土論争「終わった」 ロシア外相、日本の反発必至」というタイトルの記事と、同記事に投稿された‘ヤフコメ’と称されているコメントとの間において、奇妙な不一致が生じているのです。

ロシアのラブロフ外相の発言の趣旨は、‘北方領土問題は、第二次世界大戦の戦勝国であるロシア(ソ連邦)への、敗戦国日本国による割譲という形で解決しており、日本国との領土交渉は打ち切る’というもののようです。ロシア側が一方的に終了宣言をするのですから、日本国政府並びに日本国民は必ずやロシアに対して強く反発するであろう、というのが、同記事のタイトルから読み取れる記配信者の憶測なのです。ところが、‘ヤフコメ’において最も多くの‘共感した’を集めているのが、北方領土を断念すべきと言うロシア側の主張に沿った意見なのです。

同コメントは、12月19日の午前7時46分の時点で専門家のコメントを押しのけて、2.1万人の共感を得たのですから圧倒的な数です。この数が正しければ、日本国民の大多数がラブロフ首相の意見に賛同していることとなります。言い換えますと、同記事を配信した側が推測した反応と実際の日本国民のそれとは真逆なのです。北方領土については、日本国側に歴史的並びに法的根拠がありますので、日本国民の多数が同領土の放棄に賛意を示しているとは俄には信じがたく、まことに不可思議な現象と言えましょう。なお、日本国政府はウクライナ紛争をロシアによる侵略と認定していますので、北方領土に対する‘侵略’の承認は自己矛盾であると共に、将来的にはさらなる軍事力によるロシアの領土拡大を是認することにもなります。

もっとも、最大数の‘共感’を得たコメントの論法は、いささかトリッキーでもあります。同論理構成は、(1)北方領土問題はロシア側が経済支援を得るための外交カードである⇒(2)ロシアによる終了宣言は日本国によるこれまでの支援の無駄を意味する⇒(3)日本国は北方領土を断念すると同時に経済支援も打ち切る決断をすべき、というものです。もっともらしくも思えるのですが、よく考えてもみますと、これは悪しき三段論法の典型であるかも知れません。何故ならば、経済支援の無駄遣いと領土放棄という結論の間には、論理飛躍があるからです。否、論理的断絶と言ってもよいかも知れません。経済支援の失敗を出発点とするならば、‘日本国は、‘歴史的・法的根拠に基づいて領土の返還要求は継続する一方で、経済支援は無駄であったことが判明したのだから、経済支援は止めるべき’という主張の方が、余程、論理一貫性があります。

 加えて、2万人を超える共感の数が正確であるのかどうかは不明です。何故ならば、試しに「北方領土を断念すべき」というコメントに対して、否定的な評価の‘うーん’をクリックしてみますと、「正常に処理できませんでした。暫くしてからお試しください」とするメッセージが表示されるからです。この表示からしますと、否定的な評価に対して運営主体であるYahoo側あるいは外部の何者かが操作している可能性もあります。日本人は多数迎合型であり、同調圧力に弱いとされておりますので、多数派の偽装もあり得ることなのです。否定評価がカウントされずに消されているか、あるいは、‘共感’の数に繰り入れられているのかもしれません。デジタル社会では、数字の操作は簡単なのですから。

 何れにしましても、ラブロフ外相の今般の発言は、北方領土を戦利品とするプーチン政権の従来の主張と大差はなく、目新しいわけでもありません。仮に、今という時期に同発言がニュースとしての価値があるとすれば、同コメントに見られるように対ロ経済支援の問題と絡めたかったのかも知れません。そして、同支援が安倍政権の下で推進されたことを思い起こしますと、昨今の自民党安部派に対する逆風とも関連しているとも推測されます。対ウクライナ支援並びに対イスラエル支援、あるいは、第三次世界大戦を想定した陣営がためのために、日本国側の対ロ感情を悪化させる目的で同発言をニュースとして取り上げたのかもしれません。

 アメリカを中心とした西側陣営が日ロ関係の悪化を狙って同情報を配信したとすれば、情報操作の疑いの濃い‘ヤフコメ’の北方領土放棄論は、ロシア陣営によるその‘カウンター’と言うことにもなりましょう。Yahoo内部に中国の影響力が及んでいるとしますと、ロシアを擁護しつつ日本国民の批判の矛先を安倍政権の対ロ政策、つまり、自国の政府に向わせるための、中国による対米・対日工作活動かも知れません。そして、ラブロフ首相の発言もヤフコメの北方領土放棄論も、共に戦争による結果の固定化を目論んでいるとすれば、一連の不可解な現象の背後には、イスラエル・ハマス戦争も絡んだイスラエル並びに全世界を上部からコントロールしようとするユダヤ勢力が潜んでいるとする見方もできましょう。

今般の出来事が、ニュースの配信のみならず、それに対するコメント、あるいは、世論までもが操作されている現実を象徴しているとしますと、これらの情報をそのまま信じるのではなく、発信する側や操作する側の意図を探知することこそ重要となります。人類の未来を暴力に委ねてはならず、国際社会における法の支配の確立こそが、パンドラが開けた箱に残された希望なのですから。

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‘神が与えた土地’では全人類が納得しない

2023年12月18日 16時46分34秒 | 国際政治
 イスラエル・ハマス戦争を引き起こしたネタニヤフ首相は、明白なる国際法違反であることを知りながら、あくまでも大イスラエル主義を貫く模様です。犯罪国家の汚名をものともせず、自らの“理想”を求めて暴走する同首相の背景には、シオニスムを含むユダヤ教原理主義があることは疑い得ません。ネタニヤフ首相にとっては、如何なるイスラエルの蛮行も、カナンの地をユダヤ人に与えた神の言葉の実行に過ぎないのです。同首相は、自らこそ神の忠実なる僕として自負していることでしょう。しかしながら、宗教的信念は、犯罪を合法化することはできるのでしょうか。答えは、否、に決まっています。

 宗教に関する教科書的な説明に依れば、同じく一神教であっても、ユダヤ教は、ユダヤ人固有の宗教であり、‘ユダヤ人’という民族的な殻を脱して普遍化したのがキリスト教とされています。その理由は、『旧約聖書』が、あくまでもユダヤ人の歴史に関する記述で占められているからです。このため、同書をよく読みますと、様々な疑問も沸いてきます。例えば、ユダヤ12氏族の祖はアブラハムとされていますが、アブラハム自身は、シュメールのウル出身の人物であり、兄弟達もいます。このことは、当然に、アブラハムを共通の祖先とする部族の他にも、その兄弟達を祖とする人々もあまたの人々のみならず、アブラハムとは血縁関係にはない夥しい数の人々が存在することを意味しています。言い換えますと、基本的には『旧約聖書』は、ユダヤ人限定の聖典であり、普遍的な側面には乏しいのです。この側面については、マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』に詳しいところです。

 なお、『旧約聖書』に人類普遍の価値を見出すとしますと、それは、モーセの十戒を置いて他にないかも知れません。何故ならば、第一条の‘私以外の神を信じてはならない’を除きますと、およそ人類社会の一般的な道徳律―利己的他害行為の禁止―が、神からの命令として列挙されているからです。‘汝殺すなかれ’をはじめとして。もっとも、この普遍的道徳律についても、アブラハムがシュメール出身であったためか、古代メソポタミア文明の法典にも神授の形態で同様の記述が見られ、モーセの十戒がオリジナルではないようです。何れにしましても、それが神から授かった者であれ、何であれ、社会の安寧と人々の安全を護るための道徳律には、普遍性が認められるのです。

 仮に、その後、『新約聖書』が現れなければ、『旧約聖書』は、自らの内輪だけで‘唯一の神’を信じるユダヤ人の聖典のままであったかもしれません。しかしながら、上述したようにキリスト教による普遍化は、『旧約聖書』から離脱、あるいは、その否定から始まるのではなく、同書と一体化する形で全世界に向けて布教されます。このため、ユダヤ教とキリスト教が混在するようなケースも見られるようになります。例えば、イベリア半島のマラーノ(ユダヤ教徒)のカトリックへの改宗によるユダヤ人カトリック司祭、とりわけイエズス会士の出現や十戒を基本教義とする太平天国の乱などは、キリスト教にユダヤ教的要素が入り込んでいる事例です。また、今日、アメリカの人口の4分の1を占め、同国最大の宗教団体とされるキリスト教福音派は、「ユダヤ人国家イスラエルは神の意志で建国された」と信じる人々であり、宗教的な信念からイスラエルを支持しています。たとえ、イスラエルが、十戒のみならずキリスト教が唱えてきた博愛主義に反する行為を行なったとしても・・・。

 こうした現象は、キリスト教の世界宗教化に伴って、その母体となったユダヤ教の‘唯一神’が聖典の民、少なくともユダヤ教徒とキリスト教徒の共通の神となり、唯一無二の絶対神に昇格したことに起因しています。そして、民族的な神から普遍的な神への変化は、今日、ネタニヤフ首相が世界に向かって‘大イスラエル主義’を唱え、ユダヤ人がアブラハムの子孫をもって‘大ユダヤ主義’を主張する宗教的な根拠ともなっているのです。自らの支配の正当性を神に求める主張は、王権は神聖なる神から君主に与えられたとする絶対王制期の王権神授説にも通じます。

 かくして、ユダヤ教並びにキリスト教徒の一部は、『旧約聖書』原理主義に陥っているのですが、これらの宗教の来歴を考えますと、ネタニヤフ首相の同書を根拠とした全パレスチナ支配の主張が、今日の国際社会にあって認められるはずもありません。アブラハムの子孫ではない人類の方が大多数であり、かつ、‘統治権神授説’もそれが通用するのは、せめてユダヤ教徒とキリスト教徒の一部でしかないからです。先ずもって、ネタニヤフ首相をはじめとした急進的なユダヤ人は、大イスラエル主義、並びに、大ユダヤ主義の限界を理解すべきではないかと思うのです。

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イスラエルの最も望ましいマネー・パワーの使い方

2023年12月15日 10時30分26秒 | 国際政治
 パレスチナの地では、今やイスラエルがパレスチナ人の息の根を止めようとしているように見えます。イスラエルのネタニヤフ首相は、今般の戦争を自らが描く‘大イスラエル主義’の総仕上げに位置づけているのでしょう。如何なる反対をも振り切って蛮行を強行しようとするその姿は、冷静かつ客観的な視点からはもはや狂信者としか見えないのですが、当事国が全世界にネットワークを張り巡らしているユダヤ人の国家であるだけに、全ての諸国、あるいは、人類は、傍観者の立場ではいられなくなります。停戦の見込みさえ薄い中、戦後のヴィジョンを語るのは、時期尚早あるいは的外れとの批判もありましょう。しかしながら、たとえイスラエルがパレスチナを武力で制圧したとしても、根本的な解決には至らず、将来的には同様の事態が繰り返されるリスクがあります。そこで、昨日の記事では、パレスチナ紛争の最終的な解決をもたらす試案を考えてみたのですが、本日の記事は、同試案の後半部分となります。

 解決案の第三は、第三次中東戦争の結果を反映する形で成立した1967年の国連安保理決議の扱いです。同決議については、武力による国境線の変更に当たりますので、第二の原則(合法性の原則)からしますと、本来であれば国際法上の強行法規違反として無効を主張し得ます。その一方で、オスロ合意にあって、パレスチナ側もイスラエル側もこの変更を承認しており、パレスチナ国が自国の領土をイスラエルに対して割譲したとする見方もできないわけではありません。しかしながら、国際法違反とする汚点は消し去ることはできず、仮に、この国境線をもって両者間の国境線を画定するならば、パレスチナ国並びにイスラエルとの間で再交渉を行ない、(3)の均衡の原則に従い、イスラエル側は、パレスチナ側に対して相応の補償を行なうべきと言えましょう。

 第四に、聖地イエルサレムについては、1947年のパレスチナ分割決議案では、国連による信託統治を定めています。今日、イエルサレムは、第3次中東戦争でレバノンから奪った東地区を含めてイスラエルによる占領状態が続いていますが、同決議に従えば、恒久化するか否かは別としても、暫くの間は、国連の委任統治下に置くべきものとなります。しかも、イエルサレムは、かつて度重なる十字軍の遠征を引き起こしたように、キリスト教の聖地でもあります。少なくとも、人類の大半が宗教を精神的な領域の問題とみなす状態に至る、あるいは、宗教というものの捉え方が変化するまでの間は、一先ず、何れの国家の領域に含めず、国際管理の下に置く方が望ましいのです。因みに、1993年のオスロ合意では、イスラエルの最終的な地位については、イスラエルとパレスチナ国の双方の話し合を経た合意に委ねています。

 もっとも、国際管理の方法については、必ずしも国連の信託統治の形態をとる必要はなく、同地を聖地とするユダヤ教、イスラム教、並びに、キリスト教の3宗教の代表によって共同管理するという方法もありましょう。真に唯一の神が平和を望むのであるならば、これらの3宗教の代表が、‘共同管理理事会’において相争うはずもないからです(各宗教の代表は、自らが神から使わされた平和の使徒であることを証明しなければならない・・・)。また、人類の全てが同3宗教の信者であるわけでもなく、仏教徒もいればヒンズー教徒もいますし、日本国の神道のように緩いながらも伝統的な宗教が基盤として存在する国もあります。さらには、共産主義国のように宗教そのものをも否定している国もありますので、国連よりも聖地としての価値を認めている宗教が、イエルサレムの平和を守る責務を負うべきなのです。因みに、エルサレムという都市名は、‘平和の御座す都市’を意味すると言います。

 以上に二回に亘って解決案について試案として述べてきましたが、特にポイントとなるのは、イスラエルによるパレスチナ国に対する償いです。言葉は悪くて恐縮いたしますが、実のところ、同案は、‘お金による解決’を提案しているのです。

 金融や貿易の才に長けているユダヤ人は、古来、全世界においてその絶大なるマネー・パワーを発揮してきました。近現代における世界大戦も革命もその裏ではユダヤ利権並びに組織的な誘導があったと囁かれるほどです。言い換えますと、マネー・パワーを駆使して様々な国や勢力間における対立を煽り、人々を恐怖と混乱に陥れることで富を得てきたとされるのですが、パレスチナ紛争にあっては発想を転換する必要がありましょう

 つまり、自らが有する強大なマネー・パワーは、自らの安全の確保、すなわち、平和の実現のために使うべきなのです。軍事費に膨大な予算をつぎ込むよりも、パレスチナ国に対する補償並びに賠償金を支払った方が、遥かに建設的なのではないでしょうか。もちろん、仮に、イスラエル側がハマス等のテロによる被害を訴えるならば、イスラエル側も、補償・賠償額から自らの被害分の差し引きを要求する権利があります。イスラエルの最も望ましいマネー・パワーの使い方とは、合意尊重、合法性、均衡の原則に沿った解決、即ち、パレスチナとの恒久的な和平のための対価の支払いなのではないかと思うのです。

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パレスチナ紛争解決のための試案

2023年12月14日 12時10分04秒 | 国際政治
 1947年11月に国連総会で成立したパレスチナ分割決議は、独立国家としての法的地位をイスラエルに与えたのみで、他の決定事項については殆ど実現しませんでした。アラブ人国家の同時建国並びに経済同盟の設立のみならず、聖地イエルサレムを国連信託統治の下に置く構想も含めれば、同決議の内容の大半は忘却の彼方に去りつつあったと言えましょう

 ところが、ハマスの奇襲攻撃に始まるとされるイスラエル・ハマス戦争は、図らずもパレスチナ分割決議を多くの人々に思い出させるという、皮肉な結果を招いています。ハマスによるテロの一場面だけを切り取れば、イスラエルが主張する正当防衛論には理があるように見えます。しかしながら、長期的な視点からパレスチナ紛争の全体の流れを眺めますと、イスラエルは、明らかにパレスチナ領を侵害する加害者の立場にあることは明白です。そして、イスラエルを成立させた同決議こそ、イスラエル=加害側の法的根拠に他ならないのです。

 パレスチナ分割決議を出発点としますと、パレスチナ紛争の解決を考えるに際しては、まずもって、同決議という原点に帰る必要がありましょう。内外を問わず、原状回復は、紛争やトラブルの解決手段の一つです。しかしながら、パレスチナ分割決議の場合には、法文としての決議文は存在してはいても、現実にはその合意内容は実現していません(‘原状’が存在しない・・・)。しかも、同決議から既に76年もの年月が経過した点を考慮しますと、決議内容の実現が困難な事項や76年の歳月がもたらした知見によって見直した方がよい構想もあります。さらには、円満な解決のためには、新たに付け加えるべき内容もあるはずです。そこで、本稿では、これらの点を考慮しつつ、以下の平和的な解決案を考えてみました。

 平和的紛争解決に際しての基本原則は、以下の三つです。
  1. 基礎的合意としての決議内容の尊重(合意尊重の原則)
  2. 不法な武力行使・暴力による結果の追認不可(合法性の原則)
  3. 公正・公平な補償・賠償(均衡の原則)

 これらの三つの原則は、何れも法的解決の一般原則ですので、人類一般の理性に適っていることから、多くの人々が賛同することでしょう。それでは、以上の諸原則に従いますと、どのような解決案が妥当となるのでしょうか。

 第一に、パレスチナ分割決議は、先ずもってアラブ人とユダヤ人の双方に独立国家を約束していますので、アラブ人が国家を建国する、あるいは、その地位をより強化することが最優先事項となります。この点、既に全世界の国家数とされる196カ国の内、130以上の諸国が独立国家として承認し、国連でもオブザーバーの地位を既に獲得していますので、アメリカや日本国をはじめとした所謂‘西側諸国’は、アラブ人の国家であるパレスチナ国の国家承認を急ぐべきと言えましょう。アメリカも関わった1993年のオスロ合意でも、遅ればせながらもアラブ人国家の建国という分割決議の基本路線は踏襲されています。未承認国の承認は、合意尊重の原則にも適っているのです。

 第二に、パレスチナ全域を経済的枠組みで結びつけることを目的とした経済同盟については、決議成立から今日に至るまでの76年間の経験からしますと、両者の合意の下で白紙に戻した方が望ましいと考えられます。その理由は、イスラエルのみが享受した‘移動の自由’は、パレスチナ国のイスラエルに対する経済的な従属やイスラエルによる入植による領域の浸食を招きましたし、EUの事例が暗示するように、結局は、ユダヤ人脈による支配に帰結するかもしれないからです。むしろ、完全に独立した国家としての地位を固め、国境コントロールをはじめ、主権国家としての権限を自立的に行使し得る状態とした方が、イスラエルによる一方的なパレスチナ国に対する侵害を止めることが出来ます。ユダヤ人は、‘ホロコースト’の経験から自らの権利を護るためには国家を持つことが必要不可欠であると痛感したとされますが、今日にあっては、パレスチナ国こそ、この必要性を強く感じていることでしょう。

 なお、経済同盟の目的が、ユダヤ人による定住アラブ人に対する償いであったとすれば、恒久的な財政移転を意味する経済同盟の解消に際して、ユダヤ人は、同決議によって事実上土地を譲ることとなったアラブ人国家に対し、均衡の原則に基づいて補償金を支払うべきかもしれません。取引条件が公平であり、双方が満足するものであり、かつ、それが法的な契約として確立していれば、その後、紛争を招くことはないからです(つづく)。

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二国共存案の否定は侵略の肯定

2023年12月13日 12時03分19秒 | 国際政治
 イスラエルのネタニヤフ首相は、停戦を求める内外からの声を無視し、‘ハマス壊滅’を口実としたガザ地区制圧作戦をあくまでも貫く構えを見せています。同地区制圧後の将来的なヴィジョンについても、イスラエルを背後から支えてきたアメリカのバイデン大統領が二国家共存を主張する一方で、ネタニヤフ首相はこの案を否定しており、両者の間での意見対立も報じられています。

 解決策としての二国共存論、あるいは、二国併存論については、パレスチナ国に対するイスラエル側の入植状況に鑑みて、非現実的であるとする意見もあります。既に多くのイスラエル人が国連決議で定めた国境線を越えてパレスチナ領域内に居住している現状からすれば、今更これらの人々に‘立ち退き’を求めることは現実的ではないというのです。しかしながら、この‘既成事実の追認’という意味での‘現実主義’の主張は、同地域の歴史を振り返りますと、説得力に乏しいように思えます。

 何故ならば、イスラエルを建国したユダヤ人の人々こそ、僅かの期間に全世界から移住してきた人々であるからです。この移動の迅速性からしますと、入植地からの撤退も不可能なはずはありません。実際に、2005年には、アリエル・シャロン首相の時代に、自らの出身政党であるリクード党の反対を押し切って、1967年の第三次中東戦争以来占領してきたガザ地区並びに西岸地区の一部からの撤退を実行しています。なお、このとき、同撤退に強硬に反対し、シャロン政権の倒閣に動いたのがネタイヤフ首相ですので、今般のガザ地区制圧作戦は、同首相にとりましては‘失地回復’を意味しているのでしょう。何れにしましても、入植地からのイスラエル人の撤退は、イスラエルの決断次第で実現可能な範囲と言えましょう。

 パレスチナ国への入植地返還の可否を持ち出すまでもなく、平和共存路線は、既に1947年のパレスチナ分割決議で定められた既定路線でもあります。今日の状況を見ますと、アメリカをはじめ日本国などの‘自由主義国’はパレスチナ国に対して国家承認を与えていませんが、全体から見れば多数派となる130以上の諸国がパレスチナ国を国家承認しており、国連にあってオブザーバーの地位も獲得しています。バイデン大統領が二国共存論を主張するならば、まずもってアメリカが国家承認すべきとする指摘もあります。アメリカは、パレスチナ分割決議に際して賛成票を投じていますので、国家承認は義務的でさえあります。また、二国平和共存を目指すならば、日本国もまたパレスチナ国を国家として承認すべきと言えましょう。こうしたパレスチナ分割決議の成立から今日までの流れからしますと、パレスチナ国の国家としての地位を否定する方が余程非現実的なのです。

 しかも、今日の国際社会にあっては、一部に違反する国が出現したとしても、ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略は重大な国際犯罪として凡そ確立しています。イスラエルが既成事実主義に基づいて、ガザ地区からパレスチナ人を追い出す、あるいは、抹殺し、西岸地区をも武力や暴力をもって併合しようとしましても、その行為が国際社会にあって事後承認されることはまずあり得ません。むしろ、その結果だけを見れば、イスラエルの行動に対する支持は、侵略を支持することと同義となりましょう。たとえ奇襲やテロを受けた被害国であっても、正当防衛を口実に自らの侵略を正当化することはできないのですから。ネタニヤフ首相が大イスラエル主義の構想が実現しようとすれば、国際法上の侵略行為は不可避となるのです。

 国際社会にあって侵略、しかも、ジェノサイドや人道上の罪までも伴う武力による現状変更の追認が非現実的である以上、二国平和共存こそパレスチナ紛争の現実的な解決路線のように思えます。その否定こそ、侵略の肯定となるのですから。ネタニヤフ首相は、犯罪国家の汚名を着てまで大イスラエル主義の夢を追い続けるのでしょうか。

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EUが示唆するパレスチナ経済同盟の行方

2023年12月12日 12時42分53秒 | 国際政治
 1947年11月のパレスチナ分割決議は、イスラエルの建国に法的根拠を与える一方、パレスチナの地にアラブ人国家並びに両国による経済同盟が出現することはありませんでした。悲願であった自らの国家を建国したことに加え経済同盟にあって移動の自由のみをイスラエルが享受し得たとしますと、いわばイスラエルの‘いいとこ取り’に終わったこととなりましょう。しかも、同構想の頓挫は、イスラエルを戦争当事国とする第一次中東戦争によるものですので、半ば、武力によって強制的に潰されたようなものなのです。かくしてイスラエル建国以降、パレスチナ紛争は泥沼化することとなったのですが、経済同盟を基盤とする同構想は、あまりにも非現実的な儚い夢物語であったのでしょうか。

 この問いに対しては、今日のEUが、ある程度の回答を提供しているように思えます。EUとは、関税同盟を基礎としながら漸次に政策領域を拡大し、1993年に発効したマーストリヒト条約によりついに政治分野を含む国家連合に至るという道を歩んできました。しかしながら、統治体の類型としては、国内法として憲法が制定される連邦国家の形態ではなく、あくまでも国際法である条約に基づく国家連合です。おそらく、パレスチナ経済同盟の未来も、EUと同様に連邦国家に至るのは難しく、国家連合止まりであったかも知れません。たとえ、国家統合には重大な政治的決断を要するとして、両国において国民投票を実施したとしても、両国とも国民の賛成多数で合邦案が成立するとも思えないからです。イスラエル側では、これ以上の財政負担を厭うことでしょうし、パレスチナ側も、イスラエルに経済的に依存すると共に、自国がイスラエル企業の市場化している状態をよしとはしないことでしょう。今日、イギリスがEUを離脱し、大国の大企業に市場を席巻されている南欧や中東欧諸国にあってEUに対する不満が燻っているように。

 かくして、実際にはEUにあっても自動的な統合は起こらず、かつ、ヨーロッパが一つの国家になることもなく現在に至っているのですが、その一方で、ユダヤ人主導の政治的枠組みの構築という観点からしますと、この目的は、半ば実現しているようにも見えてきます。例えば、今般のイスラエル・ハマス戦争では、‘EUレベル’での態度は、あからさまなほどにイスラエル寄りです。フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長は、独断でイスラエルに訪問したり、イスラエルのガザ攻撃に対して国際法違反を問わなかったこと等から、内外から批判を浴びることともなりました。この件に関しては、シャルル・ミッシェル欧州理事会議長の陰は薄いものの、フォン・デア・ライエン委員長のイスラエル支持は際立っているのです。

 因みに、同委員長、並びに、欧州理事会議長の両者の来歴を調べてみますと、ある共通点があります。両者とも、一種の‘世襲政治家’であることです。フォン・デア・ライエン委員長の父親エルンスト・アルブレヒト氏は、EEC発足当初から委員会に職員として務めており、同組織にあって最後は競争総局長の職にありました(1957年~1970年まで・・・)。その後、ドイツ連邦参議院議長及びニーダーザクセン州知事を務めています。また、シャルル・ミッシェル欧州理事会議長の父親ルイ・ミッシェル氏はベルギーの政治家であり、2004年11月から2009年7月まで人道支援等を担当するEUの委員会で委員を務めた後、2019年7月まで欧州議会議員となった人物です。なお、前者のアルブレヒト家やフォン・デア・ライエン家にも繊維業を営む実業家が見られる一方で、ルイ・ミッシェル氏の父親がメーソン(un maçon:フリーメーソンの一員)であったとする情報があります(ウィキペディアのフランス語版のみ掲載・・・)。何れにしましても、EUの首脳達の個人的背景を見ましても、グローバリズムの地域版ともされるEUが、ユダヤ系が圧倒的な影響力を持つ金融・産業界に誘引されている様子が窺えるのです。昨今、顕著となってきた政治家が利権がらみで世襲化する現象は、世界権力のコントロール下にある全ての国や地域に共通する問題であるのかも知れません。

 イソップ童話には、「ずるい狐」というお話があります。二匹の猫が一つの食べ物を争っていたところに一匹の狐が現れます。外部者であるはずのこの狐、公平に同じ大きさにすると称して大きい方を削って食べるのですが、最後には、ずる賢いこの狐が、全部食べ物を平らげてしまうというお話です。EUの現状も、このお話に似たところがあります。政策権限を加盟国から徐々に削りながらEUに移譲することで最も利益を得ているのは、ヨーロッパ経済に深く根を張ってきたユダヤ系勢力であるかもしれないからです。

 EUの現状は、仮にパレスチナ全域に国家連合あるいは連邦国家が誕生したとしても、それは、ユダヤ人が外部者どころか当事者としてパレスチナ統一国家全体を支配する国であることを示唆しています。あるいは、経済同盟を運営する共同理理事会には、イエルサレムが国連の信託統治下にあることを背景に国連の経済社会評議会が任命する3人の外国籍の理事が含まれますので、国連経由でユダヤ人脈の’外部者支配’が忍び寄るかも知れません(1023年12月13日加筆・・・)。そして、今日、EUレベルでのイスラエル偏重に対して反対する加盟国が現れ、加盟国間で亀裂が生じていることは、パレスチナ統一国家が、EU以上に統合状態を維持することが困難であることを示唆しているとも言えましょう(つづく)。

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パレスチナ分割決議は将来的統合を期待していた?

2023年12月11日 12時55分14秒 | 国際政治
 1947年12月パレスチナ分割決議には、アラブ人並びにユダヤ人の双方が建国した二つの国家による経済同盟が組み込まれていたことは、‘カナン’の土地を分けてもらったユダヤ人によるアラブ人定住民に対する償いの意味が込められていたのかもしれません。同経済同盟が実現すれば、共通予算からのアラブ国家に対する多額の財政支出、すなわち、事実上のユダヤ人国家からアラブ人国家への財政移転が見込まれたからです。その一方で、もう一つ、考えるべきは、意図的に敢えて経済同盟という共通政策を伴う枠組みを設けたのか、否か、という点です。

 仮に、パレスチナの地に住んできた定住アラブの人々に対して土地の取得に伴う償いを行なうのであれば、敢えて経済同盟の形態を選択する必要性はそれ程には高くはないはずです。土地の取得代金あるいは立ち退き料等の名目において、双方が合意できる額を算定し、ユダヤ国家側がアラブ国家側に対して直接に補償金を支払うといった方法もあったはずです。むしろ、将来的な損得が不明瞭な経済同盟よりも、はっきりと補償額が確定し、法的な精算が済む方法の方が、両国民のわだかまりや怨恨も薄らいだことでしょう。少なくとも、今日のように、イスラエルが、償いどころか逆に一方的に定住アラブ人の人々に対して事実上の‘略奪’や‘侵略’を繰り返すことはなかったはずなのです。

 それでは、何故、経済同盟という、誰もがその目的を明確に理解することが難しい‘回りくどい’方法が採られたのでしょうか。その理由として推測されるのは、同構想を策定した人あるいはグループは、両国の将来的な統合を目指していたのではないか、というものです。それ故に、両国を完全に二つの独立国家としてセパレートするのではなく、経済同盟という単一の枠組みでカバーしたとも推測されるのです。

 そもそも、経済同盟に含まれる関税同盟は、政治的統合の前段階として認識されてきた歴史があります。1871年のドイツ帝国誕生に先だって結成されたドイツ関税同盟はその典型例であり、経済的な国境の消滅が、決定要件とまでは言えないまでも、幾つもの領邦国家や自治都市に分裂していたドイツを一つの国家にまとめ上げる環境を提供したことになります。そして、今日のEUについても、その出発点を振り返ってみますと、石炭と鉄鋼分野に限定されたECSC及びその拡大版となるEECの発足当初から、将来的にはヨーロッパ統合が構想されていたことが分かります。理論の世界にあっても、50年代後半以降には、エルンスト・B. ハースなどが唱えた一部の政策統合が隣接する政策領域を巻き込みながら、自ずと政治統合をもたらすとするスピルオーヴァー説が一世を風靡した時代もあったのです(新機能主義・・・)。

 こうした関税同盟から統一国家へ、あるいは、一部の政策統合が自動的に政治統合に至るとする発想が既に戦前から存在していたとすれば(1930年代には、デヴィッド・ミトラニィーによって機能主義が提唱されている・・・)、パレスチナ分割決議に見られる経済同盟においても、ゆくゆく先での両国統合への期待が込められていたとする推測は、強ち間違ってはいないように思えます。そして、その出現を予定されていた統一国家は、今日のドイツと同様に基本的には連邦制を採用しつつも、その主導権は、ユダヤ人国家が握るというものであったのかもしれません。平和裏にカナンの地全域をユダヤ人の土地とすることが、経済同盟の真意であるかも知れないのです(つづく)。

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