万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

人種・民族差別問題を考える―3つの要求

2020年10月04日 13時21分32秒 | その他

アメリカにあっては人種対立の激化が懸念されているように、人種・民族差別問題は、社会を引き裂きかねない重大な対立要因です。この問題、あまりに深刻なために終着点が見えないのですが、まずは、基本にかえる、あるいは、別の切り口から考察してみることも必要なように思えます。そこで、まずは、人種・民族に関する3つの基本的な考え方があることを確認すべきではないかと思うのです。

 

 人間の理性や社会通念に照らした3つの基本的な要求とは、(1)マジョリティー側における自己のコミュニティーの維持要求、(2)マジョリティー、並びに、マイノリティー側の融合要求、(3)マイノリティー側の自己のコミュニティー維持要求、の三者です。現実にあってこれらの三者は混在していますので、何らかの解決策を探るに当たっては、これら三者の権利の正当性を慎重に検討すべきですし、基本的権利と同様に、基本的要求として、これらの内の一つが他の二つの考え方を、一方的に排除してはならないはずでもあります。

 

まず、(1)の考え方は、保守層の基本姿勢です。国民国家体系や民族自決主義にあって一民族一国家の原則に立脚する国家の場合、マジョリティーの自己コミュニティー維持要求は、歴史、伝統的な文化、社会的慣習等の保持と凡そ同義となります。異人種・異民族間の融合や移民の増加には否定的です(もっとも、自らがメンバーとして認め、同化する場合には認める…)。また、‘古き良き時代’として過去を郷愁し、先祖から受け継がれてきた社会の在り方や生活様式を肯定的に評価するほど、保守層は厚くなるのです。一先ずは多数派となりますので、多数決を原則とする民主主義国家では論理的には政治的決定力を有するはずなのですが、現実には、以下の現象の発生により、自己コミュニティー維持要求は蔑ろにされがちです。

 

(2)の要求は、人類平等性を謳うコスモポリタン的な思想に基づくものであり、全ての人種・民族は融合すべきとするものです。今日のグローバリズムにも通じ、コスモポリタニズムがアレキサンダー大王の大帝国から誕生したように、帝国主義とも高い親和性が認められます。理想通りに完全なる融合を目指すならば、既存の言語、慣習、規範、宗教などを全て消し去り、共通のものを新たに創るか、もしくは、一つを選らばなければならなくなるのですが、特定の人種や民族に対する法的な劣位待遇はおろか、人種や民族の違いによる文化・社会的な差異であっても、(2)の信奉者の主観的な視点からは‘絶対悪’と見なされる傾向にあります。グローバリスト、リベラルとも総称される社会・共産主義者、あるいは、普遍宗教の信者等がこの立場にあり、自らがマイノリティーに属していなくとも(そもそも、属性なるものを否定している…)、人種・民族差別反対を最も熱心に訴え、実際に、異人種・異民族間の婚姻や養子縁組等にも積極的な人々です。この考え方では、上述した既存の社会や文化の存続を許されず、(1)と(2)の考え方は両立しません。

 

そして、(3)の要求は、マイノリティーの側が、マジョリティーの中にあって自らのコミュニティーの維持を望むというものです。この考え方は、多数派か少数派かの違いはあれ、(1)の立場と共通しています。(3)もまた、保守思想の一種なのです。もっとも、マジョリティーが古来の定住者であるのか、新来の移民であるのかによって権利保護のレベルに違いがあり、前者のケースでは、少数民族の保護の観点から同要求が受け入れられる一方で、後者の場合には、マジョリティーとの同化を選択するのか、あるいは、コミュニティーの維持を要求するのか、という問題が生じます。何れにしても、(3)の考え方は、マイノリティー重視の姿勢においては(2)と共通しながらも、それぞれの人種や民族に対して固有の空間を認め、棲み分けを主張するという意味においては(1)の要求とは両立するのです。

 

以上に述べたように、人種・民族問題に対する人々の考え方の違いを3つに分けてみましたが、今日の政治の世界を見ますと、何故か、少数派であるはずの(2)の要求が‘絶対化’されているように見えます。その要因の一つは、他の要求の一切跳ねのけてしまう程に、人種・民族差別が‘絶対悪’として見なされているからなのかもしれません。このため、過去から受け継がれてきた自らのアイデンティティーの拠り所を大切にしたい、あるいは、善きコミュニティーを保ちたいという、(1)のような素朴な感情を持つ普通の人々であっても、差別主義者のレッテルが張られ、糾弾されるべき‘悪人’に仕立て上げられてしまうのです。

 

国際社会が基本的には一民族一国家を原則としている以上、保守層の要求もまた正当なる権利なはずです(独立国家を保有する正当なる権利…)。これを抹殺する思想こそ、多様性の尊重や寛容の薦めといったスローガンとは裏腹に、他者に自らの意思を一方的に押し付けるという意味で自己中心的で不寛容、かつ、排他的な思想とも言えましょう。否、(1)の考え方を持つ人々の正当なる権利を不当に侵害しているのかもしれません。このように考えますと、‘人種・民族差別’を武器とした融合方式の強要よりも、お互いの違いを相互に認め合う棲み分け方式の方がより多くの人々が納得する解決方法のようにも思えます。今日の国際秩序である国民国家体系とは棲み分け方式ですし、少なくとも、多数派となる(1)、並びに、少数派ではあっても(3)の人々の要求は一先ず満たされることとなりましょう。

 

それでは、(2)の人々の要求は完全に無視されるのでしょうか。上述したように(2)の考え方は今日全世界レベルで猛威を振るっており、各国とも都市の一部は、まさしくコスモポリタンな世界が出現しています。都市の一角を(2)の区域として残すという方法もありましょうし、あるいは、ITの発展により、(2)の世界は、特定の国や土地から遊離し、デジタル空間において実現するかもしれません(もっとも、混沌とした雑多な世界、あるいは、完全に融合されたモノトーンな世界に馴染める人は極めて少数かもしれない…)。

 

こうした解決方法であれば、3者とも妥協できるようにも思えるのですが、いかがでしょうか。もっとも、‘人種・民族差別反対’を掲げて言論封鎖を試みようとする(2)の人々の圧力により、棲み分け方式の提案や国民的な議論さえままならない今日の政治の現状こそ、危惧すべきかもしれません。いつの間にか、人種・民族差別を口実とした言論監視社会、あるいは、全てが‘ごちゃまぜ’のカオスの世界、バベルの世界に放り込まれてしまうかもしれないのですから。


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