万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

お知らせ

2023年07月31日 19時50分34秒 | その他
 本日7月31日、癌を患っておりました母が帰幽いたしました。常に家族に心を配り、家庭的なやさしい母でした。つきましては、暫くの間、本ブログの更新をお休みさせていただきたく存じます。どうが、ご容赦くださいますよう、心よりお願い申し上げます。

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移民受け入れ側の権利とは?

2023年07月28日 10時25分02秒 | 国際政治
 グローバリストが推進してきた移民政策は、権利保護の対象を移民に限るとする不平等で片務的な原則によって支えられてきました。言い換えますと、移民偏重の同原則が、受け入れ国側を公然と‘差別’していたと言っても過言ではありません(差別と逆差別は表裏一体・・・)。移民する側は、それが個人的な要求であっても自らの文化の受容を受け入れ国側に求めることができる一方で、受け入れ国側は、同要求を無碍には断れず、内外から強い受け入れ圧力を受けることとなるのですから。今日、移民問題が社会的分断の要因となり、公共空間において様々な問題や軋轢が生じる原因も、日本国政府を含めて各国政府も遵守している同原則に求めることができましょう。

 それでは、移民に関する不平等原則をどのように正すべきなのでしょうか。先ずもって確認すべきことは、受け入れ側の権利の具体的な内容です。受け入れ側の権利には、集団レベルと個人レベルの両者があります。

 集団レベルの権利とは、団体としての集団が有する権利であり、国家の場合には、その筆頭に上がるのが主権とも表現される法や政治上の権利となります(領域に関する権利も受け入れ国側の権利・・・)。すなわち、国境管理や国籍等を決める権利を含めて主権に関する権利は受け入れ国側の権利なのです。この側面からしますと、今日の国家の大多数が民主主義国家であり、主権在民を原則としていますので、参政権、すなわち、自治の権利は総体としての国民が分有していることとなりましょう。日本国では、地方自治体であれ外国人に参政権を認めていませんが、これは、仮に同権利を外国人に認めますと、いとも簡単に外国人によって受け入れ国側の統治権力が行使される道を開くこととなるからです(外国人支配、内政干渉、属国化を招くリスクの発生・・・)。

 第二に挙げる権利とは、自然発生的な集団における共通要素に関する権利です。共通要素としては、例えば、国民相互のコミュニケーションのツールとなる言語や社会的な慣習などを挙げることができます。近年、行政や企業等に対して多言語への対応を求める声もありますが、仮に、移民する側の全ての言語に対応するとなりますと、膨大な労力とコストを要することとなりましょう。国内が複数の言語空間に分裂してしまう作用に加え、話者が少数となる言語は、コミュニケーションのツールとして使うこともできなくなります。多言語対応を含め多文化対応の要求とは、現実には不可能であるにも拘わらず、受け入れ国に対して無理を強いているのです。

 第三に尊重されるべき権利は、長い年月をかけて形成されてきた固有の歴史、伝統、文化等に関する権利です。その多くは、上述した共通要素に関する権利とも重なるのですが、既得権としてこれを認めませんと、全人類が自らの来し方が不明となり、伝統や文化も失われることとなりましょう(グローバル・カルチャー一色に・・・)。何故ならば、固有の歴史、伝統、文化とは、外来文化の刺激を受けて発展するケースはあるものの、基本的には個人ではなく集団において形成される性質のものであるからです。

 以上に集団レベルにおける主たる権利について述べてきましたが、受け入れ国側の国民の基本的な自由や権利が移民する側と同等に尊重され、保護されるべきは言うまでもありません。先日、パリにあって暴動が発生しましたが、移民問題については、保護されるべき受け入れ国側の権利を明確にすると共に、その保護に関する国際的なコンセンサスを形成することこそ、急務なのではないかと思うのです。

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河野デジタル相の‘お仕事’とは?

2023年07月27日 09時04分50秒 | 国際政治
 河野デジタル相と言えば、無神経で傲慢な発言が国民の神経を逆なでしてしまい、しばしば炎上を起こすことで知られています。今般も、国会にてデジタル相の職にありながら、マイナンバーカードのシステムに重大なエラーが発生したにも拘わらず、7月中旬に計10日以上に亘って外遊する姿勢が厳しく追及されることとなりました。7月12日から16日の5日間はフィンランド、スウェーデン、エストニアを、17日から22日までの6日間は、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを訪れています。

 度重なる外遊は、マイナンバーを所管するデジタル庁のトップとして無責任と言うことになるのですが、同大臣は、同機関はトラブルの実態調査を実施していた機関であり、回答を待っている待機期間中に「デジタル庁におけるほかの必要な仕事をするのは当たり前」と述べたと報じられています。‘外遊はデジタル庁のお仕事’という認識なのですが、この弁明、本当なのでしょうか。

 前半の外遊先であるエストニアは、‘電子国家’と称されるほどにデジタル化が進んでいる国です。もっとも、エストニアがデジタル化を急いだ理由は、ソ連邦に併合された過去の苦い経験に基づくものです。たとえ実態としての国家を失ったとしても、‘電子国家’としてサバイバルできる体制を今から準備しているという側面があります。日本国とエストニアが置かれている状況は異なるのですから、日本国のデジタル相が敢えて同国を自ら訪問する必要性はそれ程には高くないように思えます。それとも、将来にあって起きうる中国による日本占領に備えようとしているのでしょうか。

 エストニアについてはデジタル化との関連性がないわけではないものの、フィンランドやスウェーデンについては、敢えてこの時期に訪問する必要性も必然性も見当たりません。中東参加国の訪問も、デジタル先進国とも言えるイスラエルについては参考となる面もあるのでしょうが、ヨルダンやパレスチナを訪問先に選んだ理由も今ひとつはっきりしません。言い換えますと、河野デジタル相が弁明したように、欧州諸国や中東諸国への訪問が‘デジタル相としてのお仕事’であったのかどうか、至って疑わしいのです。

 それでは、何故、河野デジタル相は、かくも積極的に海外に赴こうとするのでしょうか。その真の目的を推測してみますと、やはり、世界権力のお仕事であったようにも思えます。河野デジタル相は、クリントン政権時代に国務長官を務めたオルブライ女史の愛弟子ともされ、リベラル系の人脈に属しています。オルブライト女史は、カトリック教徒ではあるものの、その出自はユダヤ系とされます。また、安倍政権にあって外相を務めた頃から、‘日本のエネルギー資源の供給地’として、中東和平に対する関心を強め、頻繁の同地域を訪問しております。ここにも世界権力と繋がるエネルギー利権の影が見えるのですが、今般の中東諸国の訪問も、実のところはデジタル相のお仕事ではなく、同相の個人的な活動、否、世界権力のミッションを受けていたとも推測されるのです。

 国民からの厳しい視線を受けてさすがに8月の訪米は見送ったものの、河野デジタル相が世界権力の僕であるならば、同相が、国民を無視する理由も頷けます。そして、これまで賞賛されてきた‘突破力’も、実のところは、世界権力に対する揺るぎない忠誠心の現れであったのかもしれません。そして、同相の言行は、グローバル化の時代であるからこそ、政治家と国境を越えた巨大な利権組織との繋がりに注意を払うべきことを教えているようにも思えるのです。
 


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移民の自由と責任の問題

2023年07月26日 09時51分04秒 | 社会
 広域的な欧州市場を形成したEUでは、国境を越えた域内の移動の自由は基本原則の一つともされています。EUのみならず、グローバル時代を迎えた今日の国際社会を見ますと、‘移民は正義’とばかりに、国境を越えた人の自由移動は奨励されてきました。近年、移民問題の深刻化を受けて歯止めがかかってきたものの、日本国政府を見る限り、海外からの高度人材の取り込みや人口減少や労働力不足を補うための外国人の受け入れ促進など、移民奨励政策を変更する兆しは見えません。グローバルな移民促進政策は、国連や世界経済フォーラムと言った世界権力の基本方針なのでしょうが、IMOの基本理念に忠実に従うかのように、各国政府とも、移民する側の自由並びに権利保護に政策の軸足を置いていることは疑いようもありません。

 戦争や内戦等によって故郷を追われ、住む家も失い着の身着のままで逃げ出さなければならない事態に直面した人々、つまり難民は、避難先となる受け入れ国にあっては一時的に保護されるべき人々なのでしょう。その一方で、今日にあって大多数の諸国が直面している移民問題は、主に経済的要因によって発生しています。とりわけ、グローバリズムの拡大は、安い労働力を手にしたい先進国のグローバル企業と貧困から抜け出したい途上国の移民希望者との利害を一致させることとなりました。世界権力が、受け入れ国側には‘寛容’あるいは‘忍耐’を強要する一方で、移民の側の保護に熱心であったのも、それが自らの経済的利益に解きがたく結びつていたからなのでしょう。難民と経済移民との区別は曖昧となり、外国人という同一のカテゴリーにおいて手厚い保護の対象となったのです。全世界の諸国において際限なく‘マイノリティー’を創ることができるのですから、移民推進は、世界権力にとりましては一石二鳥、否、それ以上の作戦なのでしょう。

 しかしながら、この構図、受け入れ国側の国民のみに理不尽な負担を強いることとなるのは言うまでもありません。外国人=弱者=保護の対象とする構図が成立している以上、外国人が受け入れ国側の国民の基本的な自由や権利を侵害したとしても、大目に見られてしまうのです。外国人容疑者が何故か不起訴処分となったり、果てには、外国人移民の犯罪組織が‘地下’に広く深く根を張ったり、その居住地域が警察さえ足を踏み入れることができない一種の‘治外法権’と化してしまうといったケースも現れるようになりました。移民の増加によって治安が悪化する原因の一つは、権利保護において国民と移民との間の格差に求められましょう。結果として、法の下の平等原則も損なわれると共に、政府や公的機関は移民の側の権利を厚く擁護しますので、国民は、権利保護という統治機能を十分に受けられなくなるのです。これでは、国家の存在意義さえ問われてしまいます。

 そして、ここで一つ問題として提起すべきは、移動の自由にも責任が伴うのではないか、という問いです。しばしば、‘自由には責任が伴う’とされます。凡そ如何なる自由にあっても無制限な自由はなく、必ずやその結果には責任を負わなければならないという意味です。移動の自由についても、当然に責任が伴うはずです。ところが、先述したIMOの理念(「正規のルートを通して、人としての権利と尊厳を保障する形で行われる人の移動は、移民と社会の双方に利益をもたらす」)には、移民の側の責任について言及する部分が欠けています。これでは、移動の自由を行使した結果、受け入れ国側が如何なる被害やマイナス影響を受けたとしても、責任を免除する‘免罪符’が移民側に与えられているかのようです。

 とりわけ経済的な要因による移民は、グローバル人材事業者が営む移民ビジネスにあって債務を負う身ではあっても、自発的に海外に職や居住地を求めた人々です(受け入れ国に対する責任は免除されても、債権者に対する借金の返済義務からは逃れられない?)。こうした人々に対しては、弱者として責任を免除するのではなく、一人の独立した人格を持つ人々として尊重し、責任を求めた方が余程人権尊重の精神に合致しているように思えるのです。

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国際移住機構の基本理念は正しい?

2023年07月25日 13時31分05秒 | 社会
 2018年末の安倍政権時代に入国管理法を改正し、日本国政府は外国人労働者の受け入れ拡大に向けて舵を切ることとなりました。外国人労働者の日本国内での定住を想定している点において、同法の改正は労働市場の開放のみならず、移民推進政策への転換として捉えられたのです(永住資格の取得に繋がる特定技能2号への移行規程の設置)。安倍首相暗殺事件を機に自民党の体質が露呈した今日にあって振り返ってみますと、自公政権による移民政策の推進は、保守政党の看板を掲げていた自民党の‘偽旗作戦’であった証ともなるのですが、移民政策をめぐる政府側の国民に対する一方的な‘耐忍要求’は、今に始まったわけではありません。

 国連をみますと、世界人権宣言や国政人権規約等の成立に寄与するなど、同機関は、グローバルな移民の保護・推進機関の役割を果たしてきています。例えば、2016年9月には、「難民および移住に関する国連サミット」が開催され、ニューヨーク宣言が採択されています。この際には、国連とは別機関として1951年に設立された国際移住機関(IMO)も、国連機関の一員に加わりました。そして、まさしく日本国の入管法改正と同時期となる12月10日には、ニューヨーク宣言に基づいて「安全で秩序ある正規移住のためのグローバル・コンパクト」並びに「難民に関するグローバル・コンパクト」が採択されているのです。なお、改正法の成立は、「世界政府」とも称されている世界経済フォーラムの年次総会を翌2019年1月22日から25日に控えていた時期でもありました。

 このように、日本国の移民受け入れ政策への転換は、グローバルな動きと連動しているのですが、移民の増加による治安の悪化や社会的な対立や分断の深刻化は、今や移民受け入れ国に共通する社会問題となっています。積極的な推進策をとる政治サイドでは、政府レベルであれ、政党レベルであれ、外国人差別反対や多文化共生主義などを掲げ、受け入れ国の国民に対して寛容を求めています。‘寛容’という言葉自体は柔らかなのですが、現実には、言論の自由を侵害しかねないヘイトスピーチ法やポリティカルコレクトネスなどによる社会的規制が敷かれ、殆ど‘強制された寛容’に近い状況を呈しているのです。

 結局、受け入れ国の国民の不満ばかりが高まる結果を招いたのですが、それでは、何故、このような事態に陥ってしまったのでしょうか。その理由は、上述したIMOの基本理念を読みますと、自ずと理解されてきます。IMOの基本理念とは、「正規のルートを通して、人としての権利と尊厳を保障する形で行われる人の移動は、移民と社会の双方に利益をもたらす」というものです。同理念で注目されるのは、移動する側の権利と尊厳が保障されれば、移民と社会の両者に利益をもたらすとしている点です。この基本理念を文字通りに解釈しますと、人権や尊厳の保障は、移民の側にしか及ばないこととなりましょう。

 理念とは、あくまでも言葉で表現された活動の方向性を示す精神的な原則に過ぎません。このため、理念と現実がかけ離れることは珍しいことではなく、むしろ、理念の先走りが現実にリスクや損害をもたらすことも少なくありません。IMOの理念も例外ではなく、現実には移民する側のみの権利や尊厳を保護さえすれば、必ずしも受け入れ側の社会に利益をもたらすわけではないのです。否、多くの国で移民問題が表面化しているように、忠実に同理念に従った結果、一般の国民は、犯罪リスクに直面するのみならず、様々なルートを有する移民の側からの文化的寛容の要求に苦慮していると言えましょう。

 昨今、イスラム教徒による土葬許可の要求が報じられていますが、IMOの基本に従って移民側の文化をも受容せざるを得なくなりますと、今後は、インドの風習が根付いて全国の河川敷にあって水葬を目にする日も訪れるかもしれません(チベット人が要求すれば風葬も・・・)。移民問題については、IMOのアンフェアで非現実的な基本理念、否、移民ビジネスから巨額の利益を得ている偽善的な世界権力の基本方針という問題にまで遡って考えるべきであり、受け入れ側の諸権利の保護を認めないことには、事態は悪化の一途を辿るばかりではないかと危惧するのです。

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ウクライナの核武装は正当化できるのか?

2023年07月24日 12時03分19秒 | 国際政治
 ‘ウクライナに対して核兵器を供与すべき’とでも主張しようものなら、平和主義者のみならず、‘世界’というものから強い反発を受けそうです。大手メディアをはじめ、各国政府もからもウクライナの核武装はあり得ない、として即座に却下することでしょう。しかしながら、軍事大国に対しても抑止力を発揮する核の効果を考慮しますと、ウクライナの核武装は、最初から選択肢から外すのは早計であるように思えます。それでは、ウクライナの核武装は論理的に正当化できるのでしょうか。

第1に、NPTのように戦争当事国の一方に対してのみ兵器に関する制約を課すことは、ナンセンスの極みです。かつて、チンギス・ハーンが世界帝国を建設し得たのはモンゴルの機動力に優れた騎馬部隊に追うところが大きく、銃火器の発明とその使用が世界史を大きく変えたことはよく知られています。第二次世界大戦末にあっても、連合国並びに枢軸国の両陣営とも核兵器開発競争に鎬を削ったように、古今東西を問わず、戦争の勝敗は兵器の能力によって左右されたのです。戦争という行為が、対等な立場にある当事国による兵器保有・開発競争を伴う以上、一方側の制約は、戦争が始まる前から勝敗を決めているようなものです。常識的に考えれば、戦争当事国によるNPTの遵守はあり得ないことと言えましょう。しかも、仮にロシアを国際法に違反する‘侵略国’と見なすならば、なおさらに理不尽です。

第2に、NPTでは、核兵器国に対して核の拡散は禁じ、核軍縮交渉を義務化してはいても、その使用については無言を貫いています。このため、ウクライナ紛争の激化を前にして、国際社会では核兵器の使用禁止が訴えられることにもなったのですが、使用禁止の明文を欠くのは、使用まで禁止しますと相互確証破壊の論理が働かないとする判断が働いたからなのかもしれません。しかしながら、禁止条項が設けられていない以上、ロシアであれ、中国であれ、核兵器国は、自国の核兵器の使用について合法性を主張することができるのです。NPT体制の現状は、核保有国のみが核兵器の保有も使用も可能であり、かつ、核の抑止力の恩恵にも与っていることとなりましょう。この現実は、主権平等の原則に照らしてもあまりにも不平等です。

そして第3に指摘すべきは、NPTには、核兵器国に対して軍事同盟国に対する核の傘の提供、並びに、核兵器の配備を禁じていない点です。仮に、これらの行為が条約上の禁止行為であるならば、同盟国への核配備を伴うニュークリア・シェアリングも違法行為と言うことになります。しかしながら、現実には、NATOにあってはベルギー、ドイツ、イタリア、オランダ、トルコの五カ国にはアメリカの核が配備されています。ロシアも、先日、NPT加盟国であるベラルーシに対して核配備を完了させました。これらの事例は、軍事同盟国に対する核配備は同条約によって禁じられている‘核拡散’としては見なされず、合法的な行為とされていることを示しています。もっとも、ベラルーシのルカシェンコ大統領が主張するように、同大統領がロシア供与の核兵器の‘核のボタン’を単独で押すことができるならば、その合法性については議論が起きるかもしれません。

それでは、正式にアメリカと軍事同盟を結んでおらず、NATOの加盟国でもないウクライナの場合はどうなのでしょうか。2022年5月9日には、アメリカにあって対ウクライナ武器貸与法(ウクライナ民主主義防衛・レンドリース法)が成立しており、先日、注目されることとなったクラスター爆弾の供与も同法に基づいています。そして、法文を読む限り、‘支援兵器から核兵器を除外する’と明記するパラグラフは見当たらないのです。

以上の諸点を考え合わせますと、ウクライナの核武装という選択肢は、頭から否定はできないように思えます(正当性を主張できる・・・)。ウクライナには、NPTからの正式の手続きを経た脱退、並びに、アメリカによる供与の何れであれ、核保有もしくは核配備の道が閉ざされているわけではないようです。もっとも、後者の場合には、いざという時になってアメリカの判断次第で核の傘が開かない可能性もありますので、ウクライナとしては、前者の方がより望ましい選択肢かもしれません。何れにしましても、ロシアに核使用を躊躇させ、かつ、戦闘のエスカレーションを押さえる抑止力として働くならば、ウクライナの核武装は、紛争を沈静化に向かわせる可能性を秘めていると思うのです。

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ウクライナの米提供クラスター爆弾使用の行方

2023年07月21日 18時11分24秒 | 国際政治
 昨年の2022年6月、民間の人権団体であるアムネスティ・インターナショナルが、ロシア軍がハルキウでクラスター爆弾を使用したとする調査報告書を発表しました。クラスター爆弾とは、多数の小型弾や地雷を搭載した大型爆弾であり、これを使用しますと、広範囲に亘って殺傷・破壊効果が及びます。建物に対する破壊力は低いものの、絨毯爆撃と同様の殺傷力を有するため、投下された場合には多数の民間人の被害も予測されるのです。このため、国際社会は非人道的兵器かつ復興の阻害要因として同兵器の規制・禁止の方向へと向かい、2010年8月には「クラスター爆弾禁止条約(オスロ条約)」も発効しました。

 オスロ条約では、クラスター爆弾について、その使用、開発、製造、取得、貯蔵、保持、並びに移譲の何れの行為が禁止されています。日本国も発効に先立って加盟のための批准手続きを終えたのですが、全世界の諸国が同条約に参加しているわけではありません。同爆弾を使用したとされるロシアを始め、アメリカ、中国、イスラエル、サウジアラビア、イラン韓国、北朝鮮といった諸国は署名さえしていないのです。2023年4月の段階で111カ国が参加してはいるものの、紛争当事国であるウクライナも非署名国の一国です。

 かくしてオスロ条約とは、他害行為の相互的禁止という法の一般原則にも叶った内容、即ち、一般国際法としての性質を有しながらも、不参加国には法的拘束力が及ばず、国際社会全体から見れば適用の一般性に欠けております。こうした不完全な状況下では、ロシアによるクラスター爆弾の使用も、アメリカによる同爆弾のウクライナへの提供も、一先ずは国際法上の違法行為とはなりません。上述した今般のウクライナによるアメリカ供与のクラスター爆弾の使用についても、問題視しない声も少なくないのです。ロシアが使用した以上、それがアメリカの提供したものであれ、ウクライナが使用することには何らの法的な問題はないとして・・・。しかも。何れの参加国とも、オスロ条約の加盟国ではないからです。しかしながら、たとえ法的な違法性を問えないとしても、ウクライナ側によるクラスター爆弾の使用は、今後の紛争に影響を与える可能性はありましょう。

 第一の懸念は、ウクライナ紛争の激化です。この見解については、アメリカからの供与を受ける以前から、ウクライナ側もクラスター爆弾を使用していたとする反論もあります(旧ソ連製のクラスター爆弾?)。仮に、既に両国とも同爆弾を使用しているとすれば、アメリカによる新たな供与が戦局を変えるほどの影響はないという主張です。しかしながら、仮にこの指摘が正しいとすれば、アメリカからの供与はウクライナ側のクラスター爆弾の在庫が底を突いた結果であり、今後は、際限なく同爆弾が紛争地に投下され続けることを意味します。つまり、紛争の長期化を招くおそれがあるのです。ウクライナにとりましては、自国領に両国が投下したクラスター爆弾の雨が降りそそぐことになりますので、広域的な破壊により復興はさらに難しくなることでしょう(日本国に対する復興支援要求額も上昇する・・・)。

 また、ロシアに対する刺激となることは、当然に予測されます。仮にメディアが報じるように、プリゴジンの反乱によってプーチン大統領が‘手負いの虎’の状態にあるとしますと、ウクライナ側によるアメリカ製のクラスター爆弾の使用は、体制引き締めに利用されるかもしれないからです。国民に対して危機感並びに敵愾心を煽り、より攻撃的な行動に及ぶかもしれません。核兵器の使用を仄めかしているのも、その兆しとしても解されます。

 何れにしても、アメリカによるクラスター爆弾の提供は、紛争の行方にマイナス方向への影響を与える可能性が高いのですが(世界権力は紛争の長期化と拡大を望んでいる・・・)、その一方で、プラス、即ち、紛争の終結の方向に働く可能性がゼロというわけではないように思えます。もちろん、クラスター爆弾のウクライナへの供与が同国の反転攻勢を勢いづかせ、ロシア軍を紛争以前の国境線の外に押しだし、クリミアをも奪回するとする楽観的な予測もありましょう(武力による平和・・・)。同攻撃を機にウクライナ側が完全なる勝利を得て紛争を終わらせるというシナリオもないわけではありませんが、この状態に至る過程にあって双方共に甚大なる被害が生じるのは必至です。もっとも、このシナリオの先には、敗戦を何としても回避したいロシアによる核兵器の使用もあり得ますので、結局は、プラス効果はマイナス効果に転じてしまうかもしれません。

 それでは、今般のアメリカ供与のクラスター爆弾の使用にあって、紛争を鎮静化に向かわせるプラス効果は皆無なのでしょうか。仮に存在するとすれば、ウクライナの核武装に根拠を与える効果かもしれません。ウクライナは、ロシアのクラスター爆弾の使用をもって自らの使用を正当化しています。ロシアとウクライナ、並びに、アメリカは何れもオスロ条約の非加盟国ではあるものの、NPTには、国家存亡の危機に際しては同条約を脱退する権利を認めています。先述したように、ロシアは、紛争を終結させるための‘最終手段’として核兵器の使用を示唆しているのですから、ウクライナは、ロシアによる核の威嚇を根拠として同条約から脱退できるはずなのです。

 ただし、アメリカが核兵器をウクライナに提供できるのか、という問題については、議論を要することとなりましょう。しかしながら、2022年5月にアメリカにあってウクライナに対する「武器貸与法」が成立した時点で、集団的自衛権に関する法文は設けられていないものの、ウクライナとは準同盟関係にあるとする解釈も成り立ちます。ロシアは、ベラルーシに対して核兵器を配備しましたが、この点を考慮しても、アメリカによる核兵器の供与の可能性も完全には否定できなくなりましょう。何れにしましても、ウクライナ紛争を早期に終結させるためには、世界権力が目指す方向とは違う道、即ち、抑止力を活用した和平へと至る道を見出す必要があるのではないかと思うのです。

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政治家達の海外詣では総理大臣の椅子争い?

2023年07月20日 10時54分28秒 | 日本政治
 日本国は、建前としては民主主義を基本的な価値の一つに据える独立国家です。主権在民を定めた憲法に従い、多党制の元で普通選挙が実施されており、国民は、選挙の都度、‘清き一票’を投票箱に投じています。被選挙権も保持していますので、国民の誰もが選挙に立候補して政治家となることができるはずです。ところが、日本国の現実は、法的な外観とは著しくかけ離れているように思えます。

 7月に入り、岸田文雄首相をはじめとして、大手メディアが自民党の次期党首、否、日本国の首相候補と見なす政治家達が相次いで外遊に出かけています。岸田首相は、7月11日から14日にかけてリトアニアとベルギーを訪問し、その後、16日から19日にかけては、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)並びにカタールの中東3カ国を訪れました。河野太郎デジタル相も7月12日から16日の日程でフィンランド、スウェーデン、エストニアを歴訪した後に、17日から22日までの6日間は、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルの順で外遊スケジュールを組んでいるそうです。岸田首相と河野デジタル相は、欧州+中東の組み合わせですが、茂木敏充幹事長の場合は、ペルーとブラジルの南米二カ国と東欧のポーランドという組み合わせとなります。同幹事長の日程は、7月9日から17日までの8日間です。

 何れの外遊も日本国内にあっていたって評判がよろしくなく、自民党並びに当人達の支持率アップに繋がるどころか、さらなる支持率低下の原因ともなりかねない状況にあります。岸田首相については、海外での目に余る‘ばらまき’が公費のポケットマネー化とする世論批判を浴びています。しかも、国民に対する増税政策とセットの如きに推進されているために、同首相の海外優先の姿勢が下げ止まらない内閣の支持率の主因ともされるのです。今後とも、首相が外遊する度に、支持率も連動して下落してゆくことでしょう。

 河野デジタル相については、マイナンバーカードのシステムトラブルが相次いでいますので、推進者にして責任者でもある同相は、目下、渦中の人でもあります。本日も、他者の銀行口座に公金が誤って振り込まれた事件が報じられていました。コロナ・ワクチン接種プロジェクトに際しても、河野氏はワクチン担当相として辣腕を振るい、ワクチンリスクをもデマとして否定した過去もあります。健康被害が明るみに出たことで、国民からの信頼を失う結果を招いたのですが、デジタル化にせよ、ワクチン接種推進にせよ、何れも海外のグローバル利権と密接に結びついています。このため、河野デジタル相の外遊も、国民から海外への利益誘導、即ち、国民に対する背信行為が疑われる要因ともなりましょう。

 茂木幹事長に至っては、この時期に海外を訪問するだけの根拠が希薄です。何故ならば、同氏はあくまでも自民という政党の幹事長であって、政府の役職にあるわけではないからです。ペルーとブラジルの南米二国については、来年開催される国際会議の議長国であることから連携強化を訪問理由として挙げ、ポーランド訪問の目的はウクライナの復興支援における意見交換として説明しているものの、これらの目的からすれば、日本国の政府を構成する外相が担うべき仕事であって、政党の幹事長ではないはずです。政府と政党との二重外交ともなりかねず、同リスクは、二階元幹事長が証明したばかりです。以前にも、サングラスに白いスーツ姿の出で立ちで‘バカンス気分’の外遊として批判を受けましたが、今般の茂木幹事長の海外訪問も、国民世論の支持を得られるとは思えません。

 それでは、何故、国民からの不評を承知で岸田首相、河野デジタル相、茂木幹事長は、同時期に海外へと旅立っていったのでしょうか。これら三者は、外相経験者という共通項があります。そして、岸田首相は現職としても、他の二者は「ポスト岸田」レースの最有力候補ともされています。もっとも、上述したように、河野氏も茂木氏も国民からの信頼は至って薄く、メディアの世論と実際の世論とは必ずしも一致しません。マスメディアが実施する世論調査では「首相になって欲しい政治家」に選ばれているものの、本当のところは、「首相になって欲しくない政治家」の上位に顔を揃える政治家なのではないかと疑う程です。となりますと、現状でさえ国民から不評を買っているにかかわらず、より支持者が離れるような外遊を敢えて行なうには、それなりの‘政治的な目論見’があったとしか考えられないのです。

 岸田首相、河野デジタル相、並びに茂木幹事長の国民には目もくれないような態度は、実のところ、日本国のキングメーカーが海外に存在していることを示唆しているのかもしれません。同三者は、日本国の総理大臣の椅子に座らせてもらうために、各自、自己アピールに励んでいるとも推測されるのです。日本国のキングメーカーとは、おそらく世界経済フォーラムをフロントとする世界権力なのでしょうが、同権力への貢献こそ、総理の椅子を得るための必須条件であるのかもしれません。同推測が正しければ、日本国の独立性も民主主義も形骸化してしまうわけです。そして、何れの外遊の日程にも、7月14日、即ち、フランス革命記念日が含まれているのも、偶然の一致ではないようにも思えてくるのです(因みに、昨年の2022年7月14日には、アメリカのバイデン大統領がイスラエルでラピド首相と会談し、その後、パレスチナとサウジアラビアを訪問している・・・)。

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AIはウクライナ紛争を解決できるのか?

2023年07月19日 12時08分42秒 | 統治制度論
 先日、スイスのジュネーブで開かれたAI for Good Global Summitにあって、ヒューマノイドロボットの‘ソフィア’は、自らの指導者としての能力を高く評価し、「人間よりもうまく運営できる」と発言しています。人間を上回る能力を自負しているのですが、それでは、‘ソフィア’、あるいは、AIは、ウクライナ紛争を解決することができるのでしょうか?

 人間に優る根拠として、‘ソフィア’は、大量の情報処理能力に加えて、人間のように感情に流されたり、偏見をもたない故の公平性を挙げています。AIであるからこそ、全ての人々から超越的な立場から物事を判断し、中立・公平な決定を下せると述べているのです。仮に、この自己申告が正しいとすれば、‘ソフィア’の能力は、人々を政治的に‘指導(lead)’する能力と言うよりは、争い事に判定を下す(judge)能力に長けていることとなりましょう。中立・公平性とは、司法部門においてこそ求められる資質であるからです。しかも、裁判所では、裁判官は、日々、膨大な数の証言、証拠、資料等を精査し、これらの情報を分析・解析した上で判決を下します。データ処理能力に優れ、かつ、公平なAIにとりましては、裁判官はうってつけのポストと言うことになりましょう。もっとも、‘ソフィア’は絶対君主制を敷くサウジアラビアの国籍を保有していますので、政治的に中立と言えるかどうかは疑問のあるところです。

 ‘ソフィア’が裁判官として資質に優れているとすれば、ウクライナ紛争についても、中立・公平な立場から判断することができるはずです。生成AIを用いれば、ウクライナ並びにロシア双方から聴取した膨大なデータを瞬時に解析し、流麗な‘判決文’を書き上げることでしょう。法源となる現行の国際諸法のみならず、紛争に至るまでのマイダン革命やミンスク合意を含む全経緯の詳細やロシア側の主張をもデータ化して入力するのですから、今日、ウクライナ側を支援するNATO陣営が主張するようには、‘国際法に違反したロシアによる一方的な侵略’とする判断は下さないかもしれません。実際に、ネオナチ系ともされるアゾフ連隊等によるロシア系住民に対する迫害行為もありましたので、ウクライナ側に全く非がなかったとは言えない状況にあるからです。

 そして、仮に‘ソフィア’が、厳正なる事実確認を経た上でロシア=侵略国=絶対悪の立場を取らないとしますと、同裁判官は、両国に対して和解を勧告するかもしれません。そして、同ヒューマノイドロボットが真に人類の知能を越える優れた知恵者であるならば、当事国のみならず、全世界の諸国が納得するような和解案を提案してくれることでしょう。もっとも、ウクライナ紛争を長期化あるいは第三次世界大戦に拡大させたい世界権力という‘抵抗勢力’にぶつかるかもしれませんが・・・。

 あるいは、得意の知力を発揮して、‘ソフィア’はウクライナ紛争が陰謀であることを見抜いてしまうかもしれません。バイデン大統領、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領、ルカシェンコ大統領、及びプリゴジンといった主要人物達の言動、並びに、大手マスコミの報道には余りにも矛盾が多く、合理的に考えれば辻褄が合わない、あるいは、不自然な出来事の連続であるからです。‘ソフィア’より知性の劣る人間でさえ、同紛争に対して懐疑的な人も少なくないのですから、より知能に優れた‘ソフィア’であれば、法廷にあって‘真犯人’の名を告げるかもしれません(法廷がどよめくことに・・・)。

 ‘ソフィア’が人間の能力を越えたと宣言するならば、実際に、その実力を証明する必要があるように思えます。そして、ウクライナ紛争をスマートに解決できないのであるならば、AIの能力には、自ずと限界があると言うことになりましょう。何れにせよ、AIの判断はデータに依存しますので(公平性を主張するならば入力データは全て公開すべき・・・)、AIに判断を委ねるに先立って、自己評価の通りに中立・公平性が確保されているのか、という問題から検証すべきかもしれません。

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AI失業を救う‘新しい職業’は幻?

2023年07月18日 12時40分17秒 | 社会
 今や、AI自身が人類に対して知的能力において勝利宣言する時代を迎えています。生成AIの登場は、人類のデバリュー、あるいは、格下げにさらに拍車をかけており、‘人間を必要とする時代はもう終わったのだ’と言わんばかりなのです。

 AIの普及が大量失業をもたらす怖れに対しては、AI for Good Global Summitが主催した記者会見の席で、ヒューマノイドロボットがきっぱりと否定しておりましたし、メディア等に登場する識者の見解の大半も、‘新しい仕事’が生まれ、失業が吸収されるとする楽観論です。‘産業革命時にあってもラッダイト(機械打ち壊し)運動が起きたけれども、ホワイトカラー職の需要増加によって失業問題は難なく解決した’として・・・。

 デジタル化を歓迎するAI普及推進派の人々は、過去の前例を引き合いに出して人々の不安を払拭しようと務めているのですが、ラッダイト運動の時代と今日とでは、状況は大きく違っているように思えます。前者にあって失業を吸収できたのは、おそらく、この時期、経済の拡大に伴う企業数の増加や企業の組織化、並びに活動内容の複雑・広範化が進んだからなのでしょう。企業活動にあって基礎的な部分となるのは製造ですが、近代以降、企業は、組織の管理・運営のみならず、財務、法務、人事・採用のみならず、マーケティング、営業、市場調査、研究開発、宣伝・広報・・・などにおいて人員・人材を要するようになったからです。また、サービス業の多様化や外注化も失業問題の緩和に大いに貢献したことでしょう。製造部門である工場において労働者の雇用数が減少しても、ホワイトカラー職の叢生がその受け皿となったのです(もっとも、世界恐慌に起因する大量失業問題は、戦争によって解決されたとも・・・)。

 ところが、現在の状況は、ラッダイト運動の時代とは大きく違っています。そもそも、何れの諸国にあっても、雇用数の拡大を伴う右肩上がりの経済成長期にあるわけではありません。しかも、AI失業の問題は、上述したようなデスクワークを主とするホワイトカラー職を直撃する性質のものです。AI失業に対して楽観的な予測を述べる人々は、‘新しい職業’の出現を期待して人々の不安を解消させようとするのですが、具体的な職業の名の一つさえ上がっていません。‘新しい職業’ではあまりにも抽象的であり、不安払拭には程遠いのです。

 ITのみならず、AIも人に代替する、即ち、合理化や省力化をもたらすテクノロジーですので、人員削減に効果を発揮しこそすれ、雇用創出効果については疑問を抱かざるを得ません(実際に、IT大手は人員削減に邁進中・・・)。また、デジタル化によって確かにプログラマーやシステム・エンジニアといった‘新しい職業’が出現しましたが、デジタル専門職の雇用数は全体からしますと極めて少数に過ぎません。その一方で、デジタル化にはデータ入力作業を要しますので、従来のブルーカラー職とは異なる単純作業に従事する人々が現れたたことも確かなことです。AIについては、プログラミングさえ誰でもできるようになるとされていますので、従来型の職業のみならず、知的能力を要する専門職さえもAIに奪われる一方で、AIへのデータ入力者の需要のみが増大してゆくのかもしれません。なお、生成AIを含めて、ネット・サービスの利用は、同時にユーザーの個人情報の自発的な入力作業としての側面があります。

 このように考えますと、AIによって人類が支配されるに至らないまでも、大多数の人類がデータ入力者としてAIに奉仕するという未来の到来も絵空事ではないように思えてきます。しかも、ディープラーニングや国民監視の技術がさらに発展すれば、自発的かつ自動的に個々人のデータを収集してしまうかもしれません(人間は不要に・・・)。仮にこうした未来が訪れるとしますと、人類は、‘どこかで道を誤った’、否、’誤った道に誘導されてしまった’ということになるのではないかと思うのです。

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ヒューマノイドロボットは開発の背景を探るべきでは

2023年07月17日 11時46分44秒 | 統治制度論
 先日、7月6日から7日にかけてスイスの首都ジュネーブで開催された国連のAI関連サミット(AI for Good Global Summit)において、AIが「人間よりもうまく運営できる」と発言したことがメディア等で話題となりました。同発言の主は‘ソフィア’という女性名のヒューマノイドロボットであり、2017年10月にはサウジアラビアから市民権も得ています。

 AIによる人間に対する勝利宣言とも言えるのですが、この発言、内容を詳しく精査してみますと、そら恐ろしくなります。何故ならば、‘ソフィア’は、「格段に効率的かつ効果的(with a great level of efficiency and effectiveness than human leaders)」に「指導(lead)」できる潜在的能力があると述べているからです。このことは、‘ソフィア’の認識では、統治とは人類を導く行為であり、その際に評価の基準となるのは、効率性と効果性ということになりましょう。

 しかしながら、どうした訳か、‘ソフィア’は、肝心の統治の目的や役割について何も語っていません。統治の基本的な役割とは、国家と国民を保護し、人々の生活を守るために存在しますので、必ずしも強大な指導者を必要としているわけではありません。また、比較の対象は人間のリーダーであって、そのリーダーが選出されてきたシステムについての言及もありません。このことは、民主主義国家であれは、民主的制度が全て不要なものとして見なされていることを意味します。それとも、‘ソフィア’は、大量に生産された自らのコピーを各国に派遣し、国籍を得た上で選挙に立候補しようとしているのでしょうか(あるいは、自らを絶対的指導者とする世界政府の設立を構想?)。因みに、市民権を保有してはいても、絶対王制かつ厳格なイスラム国家(ワッハーブ主義)であるサウジアラビアでは、女性でもある‘ソフィア’には選挙に出馬するチャンスはありません。また、‘ソフィア’は、自らの優越性を根拠としてサウジアラビア王家に対して統治権の移譲を要求しているとも推測されます(同国の体制を考慮すれば、’ソフィア’は大逆罪に問われることに・・・)?

 ‘ソフィア’は、自らを最善の判断をなし得るリーダーとしての資質を高く評価する根拠として、AIには人間のような感情も偏見もない公平性、並びに、大量の情報を瞬時に処理できる能力の2点を挙げています。しかしながら、上述したように、民主主義も法の支配も無視する態度からしますと、効率性や効果性の最大化を‘善’として判断してしまうリスクがあります。むしろ、‘ソフィア’の傲慢さが人々のAIに対する警戒心を強めてしまうのですが、AIが入力または学習したデータに依存している以上、‘ソフィア’の‘勝利宣言’については、同ヒューマノイドロボットを作成した‘人間’やそれを支援する組織に注目する必要がありましょう。

 ‘ソフィア’とは、香港を拠点とするハンソンロボティックスによって開発され、2016年3月にアメリカのテキサスでデビューしたヒューマノイドロボットです。専門家によれば、同ロボットは人の知能に達しているとは言いがたく、今般の発言も、正確に自己の能力を評価するレベルに至っていないことの現れであるのかもしれません。そして、ソフィア開発の経緯は、同ロボットの怪しさを倍増させます。

 本拠地の香港は、2014年の雨傘運動後にあっては一国二制度が形骸化し、北京政府による支配が及んでします。言い換えますと、最初に公開されたのがテキサスであったとは言え、‘ソフィア’は、一党独裁国家に生まれているのです。おそらく、香港は中国のシリコンバレーとも称される深圳市と隣接していますので、同国の先端的なITやAI技術をも吸収し開発されたのでしょう。言い換えますと、‘ソフィア’は、もとより独裁体制との親和性が高く、しかも、徹底した国民監視・管理を志向しているとも推測されるのです。サウジアラビアにあって市民権を付与されたのも、サウード家独裁体制を支える役割が期待されていたからかもしれません(統治能力不足という世襲制の欠点をカバー?)。日本国の岸田政権が、外相レベルの「戦略対話」を設置するなど、頓にサウジアラビアとの関係強化に動いているのも気にかかるところです。

 また、同サミットを主催したのは、情報通信分野における国際機関として国連に設置されているITU(国際電子通信連合)なのですが(第二次世界大戦後に万国電信連合と国際無線電信連合が統合・・・)、同サミットを見ますと、アントニオ・グテーレス事務総長、WHOのテドロス・アドノム事務局長、IT大手のCEO、研究者、スイス政府関係者などの他にも、ユヴァル・ノア・ハラリ氏やハンソンロボティックスの創設者であるデヴィッド・ハンソン氏などが顔を揃えています。そして、この顔ぶれ、否、思考傾向は、どこかかの世界経済フォーラムとも重なって見えてくるのです。グローバル企業の組織形態も、実のところ、絶対君主制に類似しているのかもしれません。

 一体、ヒューマノイドロボッとの開発目的がとこにあるのでしょうか。現実に、ハンソンロボティックスは、‘ソフィア’の量産体制に入っているそうです。ソフィアの発言に驚嘆するよりも、まずは、その背後関係を含めて究極の目的を見極める必要があるのではないかと思うのです。

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‘バイデン・ゼレンスキー・岸田ライン’は存在するのか?

2023年07月14日 10時29分49秒 | 国際政治
 アメリカのバイデン大統領については、本日も、現代ビジネスのWEB版に中国の石油大手「華信能源」(CEFC)との関係を報じる記事が掲載されておりました。かのハンター・バイデン氏も関係していたとされるのですが、バイデン一家には、ウクライナの天然ガスをめぐる重大な疑惑もあります。中国のCEFCにせよ、ウクライナのブリスマにせよ、エネルギー利権が関わっておりますので、これらの疑惑を突き詰めてゆきますと、グローバルに同利権を牛耳ってきた世界権力が姿を現わしそうな気配もあります。CEFC疑惑とは、習近平国家主席が旗振り役を務めてきた一帯一路構想へのバイデン一族に対する協力見返り疑惑であり、‘グローバル戦略’との関連性も窺えるのです。

 世界権力の関与が疑われる理由は、エネルギー利権における共通性やグローバルな戦略性のみではありません。バイデン大統領個人、あるいは、一族のみでは到底行い得ない組織的な司法介入が行なわれている点も、疑いを深める要因の一つです。共産党一党独裁体制を敷く中国は権力分立に基づく司法の独立そのものが存在しないのですが、ウクライナにあっては、ブリスマに対する検察の捜査が妨害されました。そして、司法の独立が制度的に保障されているはずのアメリカにあっても、司法への不当な介入が行なわれたとされているのです。

 バイデン一家とCEFCとの関係を暴露したのは、イスラエル人のガル・ルフト氏なのですが、同氏は、米下院の監査委員会での証言を試みたところ、滞在先であったキプロスで拘束されています。この一件は、ウクライナのみならずキプロスの司法当局をも動かす闇の権力の存在を示唆しているのですが、バイデン大統領の出馬を危惧した同氏は、2019年3月に、FBIに情報提供を行なったそうです。ところが、同情報は、FBIの内部にあってもみ消された上に、マスコミにあっても一切報じられませんでした。加えて、米国内でCEFCの事務局長であったパトリック・ホー氏が贈賄の罪で逮捕された際に、検察官から、裁判では‘バイデン’の名を出さないようにと忠告したとされています。これらが事実であれば、闇の権力は、司法部門、とりわけ検察等の捜査機関に浸透していることとなりましょう。因みに、ルフト氏によれば、ホー氏は司法省による外国人登録法違反の‘でっち上げ’を恐れてアメリカに入国できず、下院での証言ができない状況にあるそうです。

 かくして、闇の権力は、全世界に張り巡らした組織を以て国境を越えて各国の公的機関に介入していると見なさざるを得ないのですが、日本国はどうなのでしょうか。この点については、二つの記事が参考になるかもしれません。二つの記事とは、「ゼレンスキー氏、不満表明から一転「成功」 NATO首脳会議(毎日新聞)」並びに「バイデン大統領、岸田氏ベタ褒め 「ウクライナのため奮起」(共同通信)」です。前者は、今月12日にリトアニアで開催されていたNATO首脳会議におけるウクライナ加盟に対する冷淡な態度に憤りを見せていたゼレンスキー大統領が、バイデン大統領との会談において同国に対する長期的な支援プログラムの提供が約束されたことで、態度を一変させたという内容です(クラスター爆弾の提供にも謝意・・・)。後者の記事は、同日に設けられたG7の首脳会議において、バイデン大統領が、岸田首相のウクライナ支援を高く評価したと報じています。同大統領は、「キシダは防衛費を増やして、ウクライナで起きていることにも直接関与している。すばらしい」と述べたとされており、日本国内のマスメディア等が報じる以上に、日本国政府は、ウクライナ紛争に深入りし(直接関与と表現・・・)、ウクライナに対して資金提供を行なっているのかもしれません。

 これらの情報を照らし合わせますと、どことなく、バイデン大統領、ゼレンスキー大統領、岸田首相の3者を繋ぐラインが浮かび上がってくるように思えます。同ラインには、アメリカを盟主とするNATOによる武器提供、戦地を提供するウクライナ、並びに、戦費・復興を負担する日本国という、三者間の役割分担も透けて見えるのです。しかも、表向きは国家間の関係ではあっても、その実態はそれぞれの国家のトップを務める私人間の協力・連携関係であり(プーチン大統領、ルカシェンコ大統領、プリゴジン氏等にも役割が振られているのでは・・・)、各国間の役割分担を決め、それぞれのトップ達に指令を下しているのは世界権力なのでしょう。そして、一連の‘世界的な事件’は、何れの国や国民からも浮遊したバーチャル・リアリティの世界にも思えてくるのです。

 なお、ガル・ルフト氏はイスラエル人ですので、世界権力にまで追求の手が及ばないように、バイデン一族のみに全ての罪を押しつける‘とかげの尻尾切作戦’である可能性にも留意しておく必要がありましょう。

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量子コンピュータの限界とは?

2023年07月13日 12時22分09秒 | 社会
 デジタル時代の先には、量子の時代の到来が予測されています。その中核となる量子コンピュータの開発も進んでおり、その実用化の日も遠くはありません。本日も、イギリスの企業が量子コンピュータの常温稼働と量産を実現する技術開発に成功したとするニュースが報じられていました。古典的なコンピュータとは異なり、量子コンピュータは、膨大なデータが瞬時に並列処理されますので、複雑な問題をも解析する能力を備えています。このため、当初話題となった解読不能な暗号の開発のみならず、地球の気候変動の予測や地震等の自然災害の事前予測など、量子コンピュータに対する人々の期待は高まるばかりです。しかしながら、万能にも見える量子コンピュータにも幾つかの限界があるように思えます。

 量子コンピュータの出現によるシミュレーションや予測能力の飛躍的な向上が、人類に大きく貢献することは確かなことです。例えば、天気予報を含む気候変動をより正確、かつ、長期的に予測できるようになれば、先々の計画が格段にたてやすくなります。一ヶ月先、あるいは、一年先のお天気が分かっていれば、雨天を心配せずに運動会などの屋外で催されるイベントのスケジュールを決めることができますし、農家の人々も、日々の雨量や風向き、あるいは、豪雨や台風の到来時などを前もって知ることができます。また、古来、甚大な被害を与えてきた地震、津波、火山の噴火などの地球の活動に起因する自然災害につきましても、発生日時や規模等を正確にはじき出す技術は、被害を最小限に押さえ込むためには是非とも手にしたいテクノロジーです。建物等の物的な被害や損害は完全には避けられないとしても、人々は事前に余裕をもって安全な場所に避難ができますし、多くの命も救われることでしょう。

 超コンピュータともされる量子コンピュータを用いれば、不可能なことは何もないようにも思えるのですが、量子コンピュータの限界の一つとして挙げられるのは、必要となるデータの測定技術が追いつかないという問題です。上述した天候・気候や地震の予測についても、関連性を有する全ての数値を測定し、それをデータ化する必要があります。地球マントルや核の温度や対流、地域ごとに異なる太陽光の影響、全世界の海水温度、全ての大陸プレートの移動速度、地盤の地質構成と強度、大気の流れ・・・等など、数え挙げたら切がありません。しかも、リアルタイムで測定し、同時にデータ化しなければならないのです。

 それでは、常に変化し続けているこれらの数値を確実に測定する技術は存在しているのでしょうか。この点につきましては、は至って怪しくなります。例えば、地球とは地殻、上部マントル、下部マントル、外核、内核の5層から成るのですが、これら全ての温度変化をリアルタイムで測定する方法は、今のところは存在していません。

 もちろん、今後、非接触型の体温計のように電磁波を利用して測定するという方法もあるのでしょうが、たとえ測定方法が開発されたとしても、地球全体の‘体温変化’を満遍なく計ろうとすれば膨大なエネルギーやコストを要するかもしれません。最悪の場合には、大規模な地球レベルでの測定事業を優先させた結果、人類の生活水準が下がってしまう可能性も否定はできなくなるのです。

 地球温暖化論者が予測するようには、両極の氷塊による海面上昇によって太平洋諸国が水没して消滅したり、ヒマラヤの氷河湖が決壊する事態が起きないのも、現在のデジタル・コンピュータにあっても測定データが不足しているからなのでしょう(温暖化二酸化炭素説に科学的な根拠を与えるために、恣意的なデータの取捨選択が行なわれているとする指摘もある・・・)。このデータの不完全性の問題は、量子の時代にあっても変わりはなく、如何に優れた技術でも、それを活用するに際して必要となるテクノロジーが欠けている場合には、宝の持ち腐れになりかねないのです。

 今日、バーチャル・リアリティーやmRNAワクチンなどを含め、テクノロジーの独善的な先走りが人類をディストピアに誘うリスクとなりつつあります。量子コンピュータもまた、上述した問題以外にも、その卓越した能力故に、世界権力による人類支配の道具とされるかもしれません。全ての人類がSFチックなテクノ社会を望んでいるわけではないのですから、未来型のテクノロジーについては、今一度立ち止まり、その使い方や実用化に伴う問題について多方面からの議論を経てからでも遅くはないと思うのです。

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AI・超人・天才と政治

2023年07月12日 13時51分03秒 | 社会
 近い将来、シンギュラリティーに達して人の知能を上回るとされるAIについては、その能力のずば抜けた高さ故に、人類支配の懸念が寄せられています。しかしながら、そもそも、知的能力の高さは、統治権力を行使する正当な理由となるのでしょうか。ここで、AI、超人、天才の三者と政治との関係について考えてみたいと思います。

 最近、web上で「ギフテッド」の子供達の問題を目にするようになりました。「ギフテッド」とは、教育現場にあってIQが高すぎるために現行の教育制度にあってトラブルや不適応反応を起こしてしまう子供達のことです。これらの子供達は、学校での授業が簡単すぎて不登校となったり、周囲から浮いてしまい虐めに遭ったり、周りの子供達に合わせようと無理をして心を病んでしまう傾向にあります。特に日本の教育制度では飛び級や「ギフテッド」向けの教室が設けられていませんので、「ギフテッド」達は救いのない状況に置かれているのです。

 「ギフテッド」は、知的な才能に恵まれながらも社会性が欠如していると見なされ、社会人となっても周囲の環境との不適合に悩み、ままならぬ人生を歩む人も少なくありません。こうした人々が安心して仕事ができる職業とは、知的好奇心や探究心を活かすことができる職、例えば研究者、高度な専門職、開発者や芸術家等とされており、どちらかと申しますと、他者と接する職業には向かないとされています。天才は政治家になるべき、とする主張も耳にしません。むしろ、政治家達は、その能力を伸ばしたり活かそうとするよりも、天才達を邪険に扱っている節もあり、不遇のうちに一生を終える天才も少なくないのです。

 ところが、超越性を有する人を「超人」と表現するようになりますと、政治との距離が一気に縮まります。ニーチェの思想の影響ともされますが、アドルフ・ヒトラーは、『わが闘争』において最優秀者による政治を正当化しています。最近では、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、ホモ・デウス論にてAIを含むテクノロジーを取り込むことで不死の神の域にアップ・グレードした人間の出現を予言していますが、近未来のホモ・デウスも、知力に勝る少数者による権力と富の独占を肯定しているとする点において、「超人」の系譜に属するのでしょう。こうした「超人」の発想には、ユダヤ教における選民思想や救世主(メシア)願望が潜んでいるとも推測され、世界権力の未来ヴィジョンを代弁しているのかもしれません。因みに、メディア等ではハラリ氏は‘超天才’として賞賛されているのですが、同氏に人類を支配してもらいたいと考える人は、それ程には多くはないかもしれません。

 そして、AIともなりますと、その卓越した能力故に、人類の支配者となることが、当然の如くに語られるようになります。テクノロジーの発展は誰も止められず、‘人間は、もはや逆立ちしても知的能力においてAIにはかなわないのであるから、その支配下に入るのは当然である’とする、必然論に飛躍してしまうのです。言い換えますと、AI人類支配論とは、未来を志向しながら、より優れた者が劣った者達を支配してもよい、あるいは、それが当然であるとする古来の優勝劣敗、あるいは、優生思想に舞い戻ってしまうのです。

 そもそも、現状にあってさえ、政治=支配・被支配関係と見なす政治観は過去のものとされております。今日の政治、あるいは、公的な機構の基本的な役割とは、各種の法律を制定したり、様々な政策を実施することで国民に対して統治機能を提供することにあります(国民の各々もそれぞれ異なる様々な能力や資質などをもっっている・・・)。ましてや民主主義国家では、国民が主権者であって政治に参加する権利を有しています。このように考えますと、‘AIに支配される’という発想自体が、時代錯誤のようにも思えてくるのです。

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AIではなくAI利用による人類支配のリスクでは?

2023年07月11日 12時25分07秒 | 統治制度論
 ディープラーニングの出現により、長足の早さで進歩を遂げているAI。生成AI技術の実用化も手伝って実社会においてもその存在感が増しつつあるのですが、同テクノロジーについては懸念の声も上がっています。AIが人の能力を超えるシンギュラリティーに達すると、人類は、AIに支配されるのではないか、という・・・。しかしながら、この懸念、杞憂に過ぎないかもしれません。

 真剣に心配するに足りない理由とは、第一に、AIが人類を支配し始めたならば、即、電源を落とす、という単純明快な対処法があるからです。AIの唯一のエネルギー源は、人によって供給される電力なのですから、ボディーガードやSPなどに幾重にも囲まれた人間の暴君や独裁者を倒すよりも、ある意味で簡単です。安全対策として、人間がスイッチさえ握っていればよいのです。なお、より簡単な対応としては、AIから発せられた命令に対して、人類が無視を決め込むという方法もありましょう(人類には、AIに従う義務もなければ、AIにも強制力はない・・・)。

 第2に、AIには、人類を支配する‘欲望’という感情が存在しないことです。AIには、感情も身体もありません。欲望というものが、人の感情が引き起こすのであるならば、AIには、権力欲も、支配欲も、金銭欲も、名誉欲もないはずです。古今東西を問わず、悪しき為政者とは、自らの私的な欲望に駆られ、あるいは、これらを満たすために権力を濫用するのですが、AIの方が、むしろこの心配はないのです。自らの快楽にお金を浪費する必要もないのですから、AIは、贅沢を尽くした暮らしのために人類を搾取しようとはしないことでしょう。考えようによりましては、私利私欲に走り、個人的な利権や利益誘導に悪知恵を働かせている人間の政治家よりも、‘まし’ですらあるかもしれません。

 第3の理由は、人類支配は、AI単独ではあり得ないことです。このため、まずもって組織造りをしなければならないのですが、先ずもって、生きている人々を適格に評価し、自らの命令を忠実に実行する部下として採用・あるいは、登用する必要があります。現状にあっては、インプットされたデータに基づいて人事評価を行なう能力はあるのでしょうが、AIには、同データの真偽を見抜くことできないようです(AIは簡単に騙される存在でもある・・・)。もちろん、ロボットを部下にすればよい、とする反論もありましょうが、AIが自らの手でロボットを設計し、それを製造し得るとは思えません。

 そして第4に、永続的な人類支配のための制度設計を自発的に行なう能力に欠けている点です。真にAIが賢ければ、自らが誤りをおかす存在であること自覚し(人間が入力したデータに誤があるリスクを認識・・・)、チェック・アンド・バランスが働くように権力分立を制度設計に組み込むのでしょう。つまり、ここに、AIは、神の如くに全知全能ではなく、あくまでも不完全な人間によるヒューマン・エラー、あるいは、フェイク・データを入力する人間の意思の存在という不可避的な制約があり、全ての権力を独占する独裁者にはなり得ないとする結論に至ってしまうのです(仮に、ヒューマン・エラーをAIが認識せず、自らを無誤謬と見なすならば、AIは、認知能力や判断能力としては人には及ばないと言うことに・・・)。

 以上に、AIによる人類支配の可能性について述べてきたのですが、AIによって人類が支配される可能性はそれ程には高くないように思えます。もっとも、AIを利用した人類支配という形態はあり得るかもしれません。テクノロジーとは、それを使う人によって善にも悪にも貢献するからです。AIを操って全人類を支配下に置こうとする人物が、AIに冷酷で強欲な独裁者のパーソナリティー、あるいは、自らの性格をデータとして入力すれば、‘人類を支配するAI’が出現する可能性も否定はできないのです。このように考えますと、AIについては、それを利用しようとしている欲望の亡者にこそ警戒すべきではないかと思うのです。

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