万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

不可解な安倍首相の親中急旋回

2019年05月31日 11時06分10秒 | 国際政治
首相 RCEP最終的妥結へ連帯呼びかけ
 本日の日経新聞の朝刊一面には、日本国の安倍晋三首相が、第25回国際交流会議「アジアの未来」の晩餐会においてWTOを枠組みとしたデータ流通圏の構築を提唱したとする記事が掲載されておりました。加えて、同首相は、暗礁に乗り上げていたRCEP(東アジア地域包括的連携)の妥結をも呼びかけているそうです。WTOを枠組とすれば当然にその加盟国である中国も含まれますし、RCEPにおいて最大市場を擁するのも中国です。同首相の呼び掛けでは中国の国名には直接には触れていませんが、何れの提案も、中国に配慮したものであることは確かなようです。

 同首相の親中提案は、つい数日前に国賓として訪日したトランプ大統領との親交を温めた点に思い至りますと理解に苦しみます。トランプ政権は対中貿易戦争の手を緩めず、一向に振り上げた拳を降ろす気配はないのですから。訪日に際しては、日米貿易交渉について深入りは避けておりますので、対中政策についても踏み込んだ要請はなかったのでしょうが、同大統領は、同盟国である日本国に対して対中結束を呼びかける立場にあります。

仮に、マスメディアが報じるように、同大統領の訪日が日米関係をなお一層強化し、首脳同士の親密さを増したならば、同大統領離日後の安倍首相の態度は、トランプ大統領の意向を汲んで反中に傾斜するはずです。中国との経済関係を見直しこそすれ、データ流通圏や自由貿易圏に中国を含めるといった提案はあり得なかったはずです。ところが、現実はその逆であり、WTOやRCEPといった国際的な枠組みを隠れ蓑にして、アメリカが構築してきた中国包囲網を融解させかねないリスキーな提案を行っているのです。一体、安倍首相の親中急旋回は、どのように理解すべきなのでしょうか。情報が不足しているため、確かなことは言えないのですが、幾つかの推論を述べて見ますと、以下のようになります。

第1の推論は、マスメディアの見解とは違い、トランプ大統領の訪日は、日米の距離を拡げてしまったとするものです。華々しい報道の裏側で、政治・経済の何れか、あるいは、両面において、両国の間で決定的な対立が生まれた可能性も否定はできません。例えば、対日要求の厳しさを前に、日本製品の輸出先としての米国市場を諦めざるを得なくなり、‘敵の敵は味方’の感覚から中国にシフトしたと言うものです。もっとも、アメリカの対日要求が苛烈を極めたとしても、暴力主義国家である中国に接近する必然性はなく、安倍首相の中国シフトはより危険な選択とも言えましょう。

第2の推論は、トランプ大統領から安倍首相に対し、中国に‘逃げ道’を用意するように依頼されたとする説です。この推論では、米中貿易戦争は同大統領の選挙戦略上の演出、あるいは、政治ショーに過ぎず、本心では、中国を追い詰めるどころか、同国の経済圏や勢力圏拡大に協力していることとなります。RCEPは、事実上の‘中華経済圏’となる可能性が高く、WTOにおいてデータ流通のルールを策定しようとすれば、中国が主導する‘チャイナ・ルール’となるかもしれないのですから。アメリカとしては表立ってはできないことを日本に代替してもらうというのが第2の推論です。

 これらの二つの推論は、報道と現実との間のギャップを前提としていますが、トランプ大統領の訪日よる日米関係の緊密化に危機感を募らせた中国、あるいは、中国中心の広域経済圏を構築したい国際勢力が、日本国内のあらゆる人脈や工作網を駆使して安倍首相を親中側に引き寄せた、というのが第3の推論です。同推論が成立するには、一国の政策を変えさせるほどの相当規模の対日工作網が日本国内で既に形成されている必要があります。つまり、日本国の独立性が脅かされている可能性も否定はできないのです。

以上に三つの主要な推論は、何れも日本国にとりまして望ましいものではありません。国民の多くも、手の裏を返したような親中急旋回には首を傾げることでしょうから、説明責任を果たす上でも、米中対立の中での親米と親中という相矛盾する政策の追求について、安倍首相は、国民が納得するような丁寧な説明をなすべきではないでしょうか。国民に説明ができないようであれば、ますます国民の政治不信が強まるのではないかと思うのです。

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皇統は正統性の問題-皇位継承争いを避けるには

2019年05月30日 14時56分02秒 | 日本政治
最近の週刊誌等の報道をみますと、皇室関連の批判記事が秋篠宮家に集中しているように見受けられます。もちろん、国民に対する正確な情報提供はマスメディアの使命ですので、報道自体には問題はないのでしょうが、仮に、皇位継承問題が背景に潜んでいるとしますと、一連のマスメディアの動きも‘皇位継承争い’の一環なのかもしれません。世論を味方に付けるという…。実のところ、皇位の継承順位を変更する皇室典範の改正問題は、立法という現代的な手段を用いるものでありながらも、紛れもない‘皇位継承争い’なのですから。

 古今東西において散見される皇位や王位の継承権争いの常からしますと、ライバル候補者の陣営側が仕掛けたとも推測されるのですが、今般、新天皇の即位により、女性・女性天皇や女性宮家の問題が浮上してきている点も気に掛かるところです。どれ程世論を正確に反映しているのかは怪しいものの、最近の世論調査を見ますと女性・女系天皇を容認する容認派は過半数を越えているようです。もっとも、国民の多くが女性天皇と女系天皇の区別さえ付けていない状態でのアンケートですので、皇室に関する知識や情報が拡がれば、この数字は大きく変化するかもしれません。何れにしましても、女性の継承権問題は、今日、皇室の制度改革において最も注目を集めている、否、マスメディアが集めたい課題なのです。

 ところで、世襲にあっては、ポスト就任の正統性を支えるのは、唯一、その血統にあります。日本国の天皇位は世襲制を採っており、かつ、初代天皇である神武天皇の即位以来、男系を正統とする継承法を維持してきました。仮に、女系天皇、すなわち、皇統を引く女性を母としても、父親が皇統を有さない天皇が即位するとなりますと、伝統的な日本国の皇位継承法に照らせば正統性のない天皇が日本史上はじめて登場することとなるのです。乃ち、国家開闢以来、辛酉改元という制度まで設けて慎重に避けてきた革命(王朝交替)が起きるのですが、ここに、世論は大きく分裂することとなりましょう。あくまでも古来の皇位継承法を尊重し、内心において女系天皇にその正統性を認めない人々と、皇位継承法の変更を認め、女系天皇にも正統性を承認する人々です。あるいは、醜い皇位継承争いにうんざりし、これらのどちらの立場にも与しない無関心派も出現するかもしれません。

 そもそも、正統性とは、人々の心の問題です。言い換えますと、たとえ法律によって、女性天皇に合法性を付与されたとしても、内心においてその正統性を認めない国民が多数存在していれば、それだけ、天皇の地位は不安定化することを意味します。この側面は、皇族の婚姻についても言えることであり、皇室と姻戚関係を結んだ正田家、小和田家、及び、川島家につきましても、その血筋が天皇家の半分を構成するのですから、たとえ国民との距離が縮まり、親近感が増したとしても、天皇位の正統性を薄める方向に働いたのは否定し難い事実です。代を重ねる毎におよそ半減して行く皇統に加えて(かつては母系の血筋は関係ないとされたが、今日の遺伝学は、子は両親のDNAを継承することが判明している…)、況してや男系継承の原則をも放棄するとなれば、たとえ法律を以ってその皇位を保証し、新継承法を認める国民があったとしても、伝統的な世襲制度としての皇位の正統性は限りなくゼロに近づくことでしょう。つまり、世襲制の維持と皇統の維持が両立しないという深刻なジレンマに陥るのであり、このことは、天皇の正統性の危機とも言えましょう。この点を考慮すれば、女系天皇を認める案は、旧皇族復帰論よりも遥かに分裂リスクが高いと言えます。

 それでは、解き難いジレンマを伴う問題に対して、国民の多くが納得するような解決策は存在するのでしょうか。皇族に婚姻の自由を認めている以上、将来にわたって皇統は希薄化することが予測されますので、天皇については、憲法の第一条から第八条までを占める程に、国制上にあって重要な地位を維持すべきかどうか、という問題が生じることとなりましょう。特に、明治期に西欧から導入した立憲君主制の名残とも言える形式的な国事行為については、日本国の伝統ではありませんので、政治から完全に切り離す上でも見直しを要するかもしれません。その一方で、天皇位の維持には、国家祭祀や宮中文化等の日本国の歴史や伝統を後世に伝える意義があるとするならば、これらの継承を担う公職とし、その就任要件については、皇籍の有無に関係なく(明治期に造られた皇籍制度は廃止しても構わないのでは…)男系の皇統を引く日本国民の中から選任するのも一案のように思えます(資格要件や選任手続き等の詳細については、法律で定める…)。

この案ですと、政治の領域にあって民主主義と抵触することもありませんし、皇位継承の正統性の問題が世論を二分する事態を招くことも回避できます。また、内外勢力による天皇の政治利用や皇族利権がなくなれば、国民も、見たくもない名誉欲、権力欲、支配欲が渦巻く皇位継承争いを見なくても済むのではないでしょうか。

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政治とシンボル・カラーの問題

2019年05月29日 14時06分45秒 | 国際政治
各国の国旗の配色には、それぞれ意味付けがなされており、赤、青、黄、緑、黒、白といった原色がしばしば使用されています。共産主義のシンボル・カラーは、暴力革命に際して流された夥しい血の色から‘赤’であるとされており、おどろおどろしいイメージでありながらも、ソ連邦の国旗や中華人民共和国の国旗の色は赤を基調としています(なお、中国の国旗の五星紅旗の星の黄色は‘光明’を表すらしい…)。その一方で、‘赤’とは、邦訳すれば‘赤い盾’となるロスチャイルド家の家名に因むとする説もあります。

 本日、何故、このような政治とシンボル・カラーについて記事を書くのかと申しますと、EUの分極化が強まったとされる今般の欧州議会選挙の結果を見ますと、4つの政治勢力による奇妙なバランスが出現しているように思えたからです。当初、いわゆる‘極右’、あるいは、‘ポピュリスト’政党の躍進が予測されながら、蓋を開けてみますと、最も議席数を伸ばしたのが中道リベラル派と緑の党でした。この結果、欧州議会は、およそ、中道右派、中道左派、統合懐疑派(所謂‘ポピュリスト’政党)、並びに、環境派の四者に色分けされることとなりました。乃ち、青、赤、黄色、緑に…。なお、マクロン仏大統領が率いる共和国前進等のリベラル派はどの色に属するのかと申しますと、同大統領の経歴からしますとロスチャイルド財閥との関係が深く、おそらく‘赤’なのでしょう(共産主義と新自由主義は表裏一体…)。また、黄色の‘ポピュリスト’政党も、その政策綱領からしますと全体主義的な色彩が強いという特徴があり、真の意味において保守政党であるのかは疑問なところです。

 この四色、マイクロソフト社のロゴマークにも使用されているのですが、ここで、一つの仮説があり得るように思えます。それは、これらの四色とは、ドイツのフランクフルトのゲットーに設けられていたとされる東西南北の門の色なのではないかという…。上述したロスチャイルド家の家名は、同家が‘赤い門’の傍らに邸宅があったことに因んで命名されています。日露戦争で日本国の国債を大量に引き受けたことで知られる金融財閥のシフ家は、‘緑の門’の近くに屋敷を構えていました。フランクフルトのゲットーの門は、ナポレオン戦争に際して全て破壊されましたが(因みに、マクロン大統領はナポレオンの再来とも称されている…)、失われたはずの門の色は、シンボル・カラーとしてヨーロッパのみならず全世界を目に見えない壁で取り囲んでいるようにも思えるのです。

 しかも、メビウスの輪戦略が基本路線ですので(メビウスの輪のツイストは、二本の帯に限らず、三本でも四本でも可能…)、四色の門の勢力は、外見においては互いに対立しているように見せかけながら、裏側では相互に協調を保ちながら人類を自らの望む方向に囲い込んでいるのかもしれません。この戦略に一般の人々は気が付いておらず、何れかの政治勢力を支持して一票を投じたとしても、結果はみな同じとなるのです。かくして民主主義は形骸化され、国民の権利としての参政権も意味を失ってしまうこととなりましょう。

 フランクフルトのゲットーには、ユダヤ人のみならず、イスラム教徒といった東方の異教徒や異邦人も居住しており、さながら、様々な人種や民族が入り乱れる今日のグローバル社会をも髣髴とさせます。ゲットーは消えたのではなく、それは、目に見えない四つの門が象徴するカラーによる世界支配の仕組みとして全世界に拡大したのかもしれません。果たしてこの仮説、杞憂に過ぎず、既に失われた世界の幻影を見ているだけなのでしょうか。情報不足等から仮説を実証することは困難なのですが、今日、各国が直面している政治の現実、即ち、民主主義の危機をどことなく説明しているようにも思えるのです。

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日米通商交渉の行方―自由貿易理論と多角的貿易との間のギャップ問題

2019年05月28日 18時31分22秒 | 国際政治
 国賓として来日していたトランプ米大統領は、本日、帰国の途に就いたようです。米中貿易戦争がエスカレートする中でのアメリカ大統領の訪日とあって、日米間の通商関係に対する関心も嫌が応にも高まったのですが、特に懸念されているのが、アメリカによる日本製品に対する関税の引き上げです。

 中国のケースでは、膨大な額に上るアメリカ側の対中貿易赤字の他に、米中間の政治・軍事的な対立が中国製品に対する関税引き上げの要因となりました。一方、日米関係の場合には、中国のような政治・軍事的な対立はありません。トランプ政権が、自動車等の日本製品に高率の関税を課すとすれば、その主たる理由は、純粋に対日貿易赤字の削減ということになります。しかしながら、考えても見ますと、日米間で貿易収支を完全に均衡させるとしますと、非常に難しい問題が発生するように思えます。

そもそも、第二次世界大戦後の国際通商体制とは、GATTを軸とした自由貿易体制を基調としており、全ての諸国が複数の諸国とお互いに貿易を行う多角的貿易を目指していました。一対一の二国間貿易ではなく、多対多の多角的貿易こそが戦後の理想であったのです。ところが、自由貿易主義の基礎的理論となるリカード等の比較優位説のモデルは、二国間貿易を想定して組み立てられています(しかも、通貨の問題や貿易収支等については捨象している…)。ここに、自由貿易主義における二国間モデルと多国間モデルとの間のギャップが見られるのですが、現実が多角的貿易であるとしますと、二国間で貿易収支を均衡させることは不可能に近いとしか言いようがないのです。

 何故ならば、日本国を例とすれば、日本国は、工業製品の輸出による対米貿易黒字によって国際基軸通貨である米ドルを獲得し、それを以ってオセアニア、中近東、南米、アフリカ、等から石油や天然資源等を輸入してきたからです。つまり、対米黒字を維持しなければ、他の諸国から原材料やエネルギー資源を輸入することができないのです。このことは、日本の貿易構造に限ったことではなく、何れの国の貿易状況を見ましても、二国間で貿易が完結している事例はほとんどないのです。

 多角的貿易の観点からしますと、日米間における貿易収支の均衡化は、今後、日本国の貿易を縮小させる可能性があります。仮に、無理をしてでも両国間の貿易収支を均衡させようとすれば、日本国は、完成品をアメリカ向けに輸出する一方で、石油やシェールガスといったエネルギー資源を含め、日本国内での製造に要する原材料をアメリカから輸入する必要がありましょう。

 日米貿易交渉は緒に就いたばかりですが、交渉に当たっては、自由貿易理論と多国間貿易の現実との不整合性や米ドルの国際基軸通貨としての役割等についても考慮すべきではないかと思うのです。

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欧州議会選挙の行方-イギリス離脱問題にも影響?

2019年05月27日 14時50分55秒 | ヨーロッパ
親EU二大会派、半数割れ 欧州議会選、懐疑派は拡大
イギリスでは、メイ首相が辞任の意向を表明するなど、EU離脱問題をめぐる混迷は深まるばかりです。泥沼状態が続く中、EUでは、今月26日を投票の締切日として欧州議会選挙が実施され、その行方に関心が集まっています。

 EUの統合推進の旗振り役を務めているマクロン大統領のお膝元であるフランスでは、既に選挙結果が判明しており、与党の共和国前進は僅差ながらもマリー・ルペン氏率いる国民連合に敗北を喫しています。黄色いベスト運動を引き起こしたように、強引に新自由主義的政策を推し進めるマクロン大統領に対する失望が逆風となったのでしょう。その一方で、伸び悩みが指摘されてはいるものの、その他の諸国でも、EUへの権力集中に抵抗し、移民政策にも反対の立場にある懐疑派の政党が議席数を増やすものと予測されています。

加盟国代表によって構成される理事会を‘上院’に見立てると、欧州議会は欧州市民を代表する下院とも称されており、理事会と対等の立法上の権限を付与されています。このため、仮に懐疑派が相当数の議席を確保するとしますと、メルケル独首相とマクロン仏大統領が手を結んで進めている統合推進路線の行方も怪しくなります。議席の全体数からすれば懐疑派は過半数を下回ってはいても、中道右派の動き次第では、統合推進法案に対するブレーキ役となる可能性があるからです(法案は原則として欧州委員会が提出…)。中道右派もまた各国の保守層を主たる支持基盤としており、必ずしも主権のEUへの一層の委譲や移民政策の一元化には賛成していないからです。

 そして、仮に、欧州議会の勢力図が懐疑派を含めて右方向に移動するとなりますと、その影響は、イギリスの離脱問題にも及ぶかもしれません。そもそも、イギリスが国民投票によってEUからの離脱を決意した主な理由は、国家の主権的権限である国境管理の政策権限をEUに奪われるとする危機感が国民に広く共有されたところにあります。離脱派の政治家の人々は口々に‘イギリスの主権を取り戻そう’と叫んだのであり、このスローガンには、EUに対する財政移転に関する国民の不満の解消のみならず、主権奪還による移民流入の抑制も含意されていたとも言えます。

こうしたイギリスの立場は、‘人の自由移動’の原則をあくまでも貫く姿勢を崩さなかったEU側とは相いれず、両者が妥協の余地なく対立する要因となったのですが、欧州議会における右派勢力の拡大は、EUの側からイギリスに歩み寄る可能性をもたらします。言い換えますと、イギリスが変わるのではなく、EUが変わるかもしれないのです。国境管理の権限を加盟国に戻す方向で改革が行われ、それが、イギリス側が満足するレベルであるならば、イギリスは離脱を思い止まるかもしれません。あるいは、EU側の変化を理由に、前提条件が崩れたとして、イギリスは、国民投票の再実施を以って再度EUからの離脱の是非を国民に問うかもしれないのです(もっとも、それでも、必ずしも残留票が多数となるとは限らない…)。

従来、欧州議会選挙は、EUに対する親近感が薄いために一般国民からの関心が低く、その投票率も低迷を続けておりました。しかしながら、移民問題といった一般国民の日常生活にまで関わる領域にその権限が広がった結果、加盟国の一般国民も同選挙に対して無関心ではいられなくなっています。欧州議会内の勢力図の変化は、EUのみならず、イギリスの将来をも左右するのではないかと思うのです。

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善悪区別否定論は巧妙な‘罠’?

2019年05月26日 15時01分32秒 | 社会
近年、マスメディア等では、善と悪の区別を曖昧にするために意図的に否定論を広められているような気配がします。善悪二元論は子供じみた幼稚な思考であり、現実の世界では両者は混然としており、区別はできないとする…。

 しかしながら、善と悪とを区別する能力こそ、人類が高度な知能を有する証でもあります。生存本能に従って生きる他の動物達は、弱肉強食の世界にあって両者を殆ど区別していません。道徳や倫理の基礎となる善悪の判断こそ、人と動物とを分かつ人類の特性であるにも拘わらず、何故か、メディア人や知識人たちも善悪の区別に対しては、嘲笑するかのような冷ややかな視線を投げかけているのです。

 善悪の区別の曖昧化は、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の『白熱教室』などに見られるような両論並立型の議論にあってさらに強まる傾向があります。『白熱教室』は、日本国内では2010年にNHKがシリーズとして放映しましたが、正解のない、あるいは、参加者が合意に達するのが難しいテーマをめぐって議論を闘わすスタイルは、ある一面から見れば‘善’であり、他の一面から見ますと‘悪’ともなるケースを扱っており、両者の議論は常に平行線を辿ります。このため、視聴者の多くは、この世の中では至る所で善と悪とが融解しているような印象を受け、この世には絶対善もなければ絶対悪もないと信じ込むのです(もちろん、サンデル教授が善悪の融解を同教室の目的にしているわけではない…)。

 それでは、善と悪とは、本当に区別することはできないのでしょうか。ここで気を付けなければならない点は、ある一つの事象に対する善と悪との両面的な評価は、むしろ、善と悪とを区別しているからこそできることです。そもそも、善と悪との区別がなければ、善、あるいは、悪という観念さえ存在しないのですから。乃ち、善と悪とが融解しているように見えながら、その実、『白熱教室』のような解のない議論は、ある一つの事象において併存する複数の善の間の優先順位、あるいは、善が悪を伴う場合や逆に悪が善を内包するようなケースについて論じているのであり、善と悪との間の二者択一の問題ではないのです。

 例えば、ある人が、自らの利己的な欲望を満たすために他者を殺害すれば、当然にこの行為は‘悪’と判断されます。悪とは、利己的他害性を本質とするからです。ところが、同じ殺人であっても、無差別殺人を繰り返してきた凶悪犯によって無辜の人が殺害されそうな場面に遭遇し、生命の危機に直面していたその人を助けようとした末の殺人であった場合には、善悪の判断は格段に難しくなります。人々は、凶悪犯を殺害した人を弱きものを援け、社会の安全を守った正義の人として讃えるでしょうが、殺人は殺人です。人の命を救うことは‘善’ですが、殺人一般は‘悪’であるからです。このケースは、善悪の‘区別’そのものがなくなったのではなく、善意からの行為が悪を伴うために、全体としての善悪の‘判断’が難しくなるのです。こうした善悪が混在するケースに対しては、善が悪に優る場合にのみ許容される、あるいは、罪が軽くされるのでしょうが、その判断は、善と悪との比率や価値の優先順位等を勘案してなされるのです。
 
 以上に述べてきたように、善と悪とは区別はやはり人類社会の基礎であり、両者の区別は消滅してはいません。むしろ、善と悪との区別を否定する人々は、人類を動物レベルに貶める悪の擁護者ともなりかねないのです。もしかしますと、敢えて善悪区別否定論を流布している人々は、人類を罠にかけようとさえしているのかもしれません。この世から‘悪’がなくなれば、他者を自らの利己的な欲望の犠牲に供しながら、その悪行が罰せられることもなくなるのですから。道徳や倫理さえも疎んじられる今日であるからこそ、社会の安全と健全性を取り戻すためにも、意識して善と悪とのを区別するよう努めるべきではないかと思うのです。

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国制上の皇室に関する議論を進めるには-‘人’と‘制度’の未分化問題

2019年05月25日 13時18分13秒 | 日本政治
政治家やマスメディアは、何らかの問題が発生する度に改革や変革を訴えてきました。‘聖域なき改革’や‘身を切る覚悟’といったフレーズを良く耳にするのですが、他者に対しては犠牲を強いる改革を迫っても、自分自身は‘例外’と決め込んでいるようです。そして、もう一つ、‘例外’が設けられているとしますと、それは、皇室ではないかと思うのです。それでは、何故、皇室に関する議論が控えられる傾向にあるのでしょうか。それには幾つかの原因や理由があるのですが、本記事では、‘人’と‘制度’の未分化の問題から説明してみたいと思います。

 ‘人’と‘制度’との未分化の問題は、世襲制に特有の問題でもあります。何故ならば、世襲制では、法や慣習等のルールによって、ポストの就任と血統に基づく相続が不可分に一致してしまうからです。血族以外の他のメンバーから選ばれる選挙制や、時には権力闘争を伴うサバイバル型の制度など、他の就任手続きとは違い、ポストもまた特定の家族の世代間で継承し得る‘相続財産’となるのであり、世襲とは、いわば、血統を基準とした資格が決定する‘自動就任システム’なのです。

民間における伝統工芸や伝統芸能等の分野でも、技や知識を確実に次世代に継承させる観点から世襲制が採られている分野もあるものの、特に問題となるのは、それが、君主や天皇と言った国家の公的ポストである場合です。民間であれば私的領域でのお話であり、他の一般の人々との間に法的な関係は生じないのですが、国家のポストともなりますと、全国民がいわば‘関係者’となります。憲法において天皇には国事行為が定められておりますので、それが政治的権能ではない形式的なものであれ、国政上の手続きの一部や儀礼的な役割を担っています。国民は、皇室の経費を負担する立場にありますし、公的な儀式に際しては、恭しく隣席を仰がなければなりません。

国家の制度上に設けられた公的ポストであり、かつ、全国民が関わる以上、皇室についても自由な議論に付されるべきは当然なのですが、上述したように、皇室については、自由な議論が抑えられています。ここで、これを拒む要因として挙げられるのが、‘人’と‘制度’の癒着です。世襲では、血統が正統性の唯一の根源ですので、‘自動就任システム’が統合機能としても円滑に働くためには、全国民が本心から崇敬させ得るほどの血統を保持しなければならないのです。それは、君主制であれば、建国の父や王朝の開祖の血統となるのでしょうが、日本国の場合には、神代に遡る皇祖の血統、即ち、皇統となります。戦前にあって天皇は‘現人神’と国民に認識され、神に近い超越した存在であったからこそ、このシステムは安定していたとも言えましょう。

そして、世襲制の維持の要となるのが‘人’の超越性である以上、この制度を維持するためには、公的ポストに就任した‘人’に対する神格化やカリスマ化は有効な方策となります。独裁体制でもしばしば散見されますが、‘自動就任システム’である世襲制では、とりわけ後継者の能力や人格は不問に付されますので、親衛隊を組織したり、‘さくら’を配置するといった、同調圧力を利用した演出効果が重視されるのです。このため、国家の制度改革としての議論まで、‘人’、即ち、超越的、あるいは、神聖とされる血統に対する不敬や侮辱として問答無用に封じられてしまうのです。

加えて、減数分裂によって婚姻により皇統が希薄化するほどに、血統の神聖性による神格化よりも、パーソナルなカリスマ化、あるいは、アイドル化?へと重心がシフトします(パーソナル・カルト化?)。皇族の車列が通る道路わきなどから女性の一団があたかもアイドルのファンのように熱狂的に‘お声掛け’する光景は、昭和以前には見られなかったものです。そして、一般国民との間に血統上の差が殆どなくなると、今度は、一般国民のレベルに自らを置いて‘人権侵害’を盾にした言論封じが始まるのです。

 以上に述べたように、世襲制では、本来、公的な議論の議題であるはずの制度改革が、これと不可分に結びついている‘人’という要素によって阻止されてしまうという忌々しき問題点があります。果たしてこうした状態は、健全なる言論空間と言えるのでしょうか。そして、日本国の国制上の発展にとりまして望ましいのでしょうか。世襲による‘人’と‘制度’との一体化によってもたらされる問題を解決するためには、まずは、両者を区別して考え、地位の正統性に関する皇統の問題を含め、‘制度’に関連する事柄については、たとえ‘人’が関わる事柄であったとしても、自由な議論に付す必要があるのではないでしょうか。

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皇族の世襲と序列社会の問題-平等と公平

2019年05月24日 11時14分07秒 | 日本政治
政治的ポストの就任を世襲とする制度にはそれ固有の重大な欠点があり、今日では、否定的な見解を持つ国民の方が多いのではないでしょうか。世襲の否定は、政治的な価値として今日根付いている民主主義の制度的特徴の一つでもあり、かつては古今東西を問わず国制の大部分を占めていたものの、政治権力が特定の家族のみに独占され、私的財産の如くに次世代に相続される国家形態は地球上から消えつつあります(サウジアラビア等の世襲君主国家も現存していますが…)。かくして少なくとも政治体制としての世襲は消滅すべき運命にあるのですが、世襲の問題は、政治分野に限ったものではありません。しばしば、世襲は、社会秩序と密接に結び付いてきたからです。

 現行の日本国憲法、並びに、新しい民法の制定により、日本国は平等社会が実現しています。籍において身分の区別を設ける華族制度がなくなると共に、家長が一族を担う家制度も廃止されました(もっとも、家制度が一概に‘悪’とも言い切れず、家長の権限が強い反面、家族に対する扶養等の責任も重く、権利と義務をバランスさせていた側面がある)男女の平等原則も憲法に書き込まれ、何れにしても、戦後の日本社会は、法的には極めてフラットな形態へと移行したのです。法律においては個人間の平等原則が徹底されたとも言えましょう(もちろん、私的空間では従来の風習は残されていたかもしれない…)。ところが、公的な空間において、平等原則が及ばない領域が一つだけ残されることとなりました。そして、それこそが皇室に他ならないのです。

 フラット化された日本社会にあって、公的な世襲制が維持されている皇族は、皇統によって生まれながら、あるいは、皇族との婚姻によって高い身分が約束されています。個人的な人格や能力が問われることもなく、陛下、殿下、あるいは、○○様(さま)といった敬称を付して呼称され、その動向は敬語を以って報じられます。儀式やセレモニーに臨席するともなれば、他の出席者は頭を下げて丁重にお迎えしますし、地方や海外への移動に際しても皇族専用の車両や政府専用機が特別に供されます。

特権が付与されている一方で、皇族にとっても、位階秩序が支配する空間は必ずしも快適とは言えないかもしれません。皇族の内部における序列もすこぶる厳しく、天皇を頂点に各宮家の‘格’によって上下関係が固定され、今日の一般国民の目からしますと異様なまでに厳格な序列が敷かれています。また、ノーブレス・オブリージュが強く求められるため、私的自由に対する制約を受け入れなければならない場面も少なくありません。皇族に対する‘人権侵害’なる批判もありますが、皇室の制度とは、民主主義、自由、基本的な権利の保障、法の下の平等といった、近現代国家が備えるべき様々な価値とも衝突しかねない危うさを抱えているのです。
 
 国民の誰もがメディアが映すこうした光景を当然のことのように眺めがちですが、皇統の希薄化が進行し、皇族自身もその行動が俗化し、かつ、天皇の‘公的な義務’が曖昧、かつ、政治的リスクさえも伴うに至る中、‘この状態を将来に亘って続けてゆくことに疑問はないのか’と問われるとしますと、‘ない’と返答することは自らの心に嘘を吐いているように思えます。仮に、無理にでも維持しようとすれば、翼賛団体の協力(新興宗教団体…)、組織的な動員、国民洗脳といった、全体主義国家の常套手段さえも用いざるをえなくなるからです。

実のところ、こうした問題に対しては、平等の原則のみならず、権利と義務のバランスを求める公平の原則からも考察する必要はありましょうが、少なくとも、皇室が世襲に基づく序列を体現し、国民が自らの思考を停止させて天皇を礼賛するようでは中国や北朝鮮の体制と変わりは無くなります。国民も皇族をも不幸にするシステムであってはならず、天皇位とそのポストの選任方法、並びに、皇族については、新たな制度を考案すべき時期に差し掛かっているように思えるのです。

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宮家の問題整理も必要では?

2019年05月23日 14時56分27秒 | 日本政治
 日本国の政界やマスメディアでは、皇位継承、即ち、女性・女系天皇の是非に焦点を絞りがちですが、皇族の継承権に関する問題は、天皇位に限られているわけではありません。女性宮家の創設も提唱されており、宮家についても、歴史を遡った考察が必要なように思えます。

 ‘宮’とは、そもそもは天皇や皇族の居所を示し、所在地の地名等に因むものでしたが、鎌倉以降に至りますと、宮の名称が‘屋号’の如くにその子孫が代々継承する世襲宮家が登場するようになります。江戸時代には、室町期から続く伏見宮を筆頭に、桂宮、有栖川宮、閑院宮の4家が親王宣下によって新王位をも継承し得る世襲親王家として特別の地位が認められていました。明治の時代を迎えると、世襲親王の制度に替って、親王宣下を経ることなく永代に世襲し得る永世皇族制が採用され、現行の皇室典範にも、嫡男系嫡子を条件に同制度が引き継がれています。なお、永世皇族制度が設けられた際に世襲親王家本家、並びに、これらから分かれて設けられたのが旧宮家と総称される11宮家です(もっとも、今日では多くが断絶し、伏見宮系の宮家しか残っていない…)。

 また、宮家には新たに創設される形態もあります。時の天皇の子女や兄弟を以って創設された宮家であり、これらは直宮家と称されています。明治以降にあっては、大正天皇を祖とする秩父宮、高松宮、三笠宮、昭和天皇を父君とする常陸宮、及び、上皇から分かれた秋篠宮が同タイプです。ただし、三笠宮からさらに分家した高円宮は直宮家ではない例外的な事例であり、寡婦継承が認められた点で、事実上の‘女性宮家’であるとも言えます。

 以上に述べたように、宮家には二つの種類があり、世襲親王家の系譜である11宮家は戦後にあって皇籍を離脱しているため、今日まで存続しているのは直宮家、並びに、特例としての高円宮家のみです。そして、皇位継承の安定化が議論される中、宮家についても幾つかの問題が浮かび上がってくるのです。

 第一の問題点は、再三指摘されているように、女性宮家では、皇位継承の安定化に繋がらないことです。この問題をクリアするには、皇室典範を改正した上で、女性宮家の創設条件(皇籍を残す?)として旧宮家の男子との婚姻を義務付けるという方法もありますが、狭い範囲とはいえ複数の選択肢があるにせよ、婚姻の強制を意味しますので、法による義務付けには憲法に違反の問題が伴います。もっとも、かくも複雑で回りくどい方法を採るよりは、皇統を引く男系男子からの養子を認める方向で皇室典範を改正した方が、より明快で簡便な解決手段となるかもしれません。

仮に、将来において皇室典範が改正され、日本国の神武天皇以来の原則であった男系男子による継承を正統とする天皇位の継承法を変更し、女系天皇が認められるに至った場合には、男女平等の原則は宮家にも及ぶことでしょう。この結果、現存する宮家も廃絶されることなく将来に亘って存続します。つまり、男系であれ、女系であれ、今後、全ての天皇の子、あるいは、高円宮を前例として孫にまで宮家創設の権利を与えるとしますと、将来的には膨大な数の宮家が出現します。つまり、第2に、如何なる形態の宮家であれ、永世皇族制度を認めるか、否かの問題が問われることになりましょう。

第3点として挙げられるのは、仮に永世皇族制度が維持された場合、今日、旧宮家の皇籍復帰に対する反対論の根拠となっている‘現天皇家との血縁が遠い’という理屈は、これらの宮家にも当てはまることとなります。しかも、代を重ねる毎に双方とも皇統が薄まります(国民にとりましては、意義不明な存在に…)。

 第4の問題点は、現状にあっても宮家には何らの法的根拠を有さない点です。今日、各宮家に対して国庫より経費が支出されていますが、公費からの支出は慣例に過ぎません。宮家の数が増える程に国民負担も増加するのですから、法的位置づけをどうのようにするのか、と言う問題も避けて通れない課題なのではないでしょうか。

 以上に主要な点を挙げて見ましたが、皇室をめぐりましては難題が山積しております。そして、正直に申しますと、今日、一般の国民は、その存在意義を探しあぐねているようにも思えます。国民意識や価値観も時代と共に変化している折、皇室をめぐる議論は、国民の多くがこれまで気が付かずに過ごしてきた様々な諸問題を明らかにすると共に、今一度、日本国の国制を問う機会ともなるのではないかと思うのです。

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皇籍は明治期の創作では?-皇位継承資格の範囲問題

2019年05月22日 13時42分28秒 | 日本政治
改元、並びに、新天皇の即位は、日本国における天皇という存在について改めて国民が考えてみる良い機会となるかもしれません。マスメディアは、女性・女系天皇や女性宮家など、女子の継承権に関する問題に国民の関心を集めたいようですが、より根本的な制度的問題についても広く議論すべきように思えます。皇室を取り巻くスキャンダルや皇統の希薄化問題に加えて、天皇の存在意義、即ち、公的な役割については見直す必要がありますし、今日、古代から伝わる伝統であると国民が信じ切っている皇室関連の制度にあっても、実のところ、歴史が浅いものも少なくないからです。

例えば、皇位の安定的継承を理由に、敗戦を機に皇籍を離れた旧宮家を皇籍に復帰させる案が唱えられています。推古天皇、元明天皇、持統天皇といった女性天皇であれ、歴代の天皇は、男系において神武天皇の皇統を引く者のみが天皇位を継承してきたからです。父方から皇統を継ぐ女性天皇であっても一代限りとなりますので、男系を以って皇位継承に正統性を認める日本国の継承法に照らしますと、旧宮家の皇籍復帰は、日本古来の継承法に沿った主張と言えましょう。

 その一方で、皇籍という制度の歴史そのものは長くはありません。明治期に至り、宮内庁の歴代天皇に関する調査の結果として皇統譜が作成されたのであり、皇籍(皇統譜)とは、近代国家を建設するに当たってその中心となるべき天皇、並びに、皇族の地位を確かにし、神代に辿る万世一系を以って権威を高めるために、明治政府によって創設されたものなのです。なお、皇族が記載されている皇籍に対して一般国民の籍は臣籍と称されましたので、民主主義や平等原則が定着した今日の国民感覚からしますと、その名称自体に違和感を覚えるかもしれません(皇族には国籍や戸籍が存在しないと言う説がありますが、皇籍を戸籍の一種と見なせばこの説は当たらない…)。

今日の旧宮家復帰の議論は、皇籍こそ皇位継承の資格を意味するとする、明治以来の慣例とでも言うべき固定概念に基づくものです。しかしながら、現行の皇室典範を読みますと、その第一条には「皇位は、皇統に属する男子が、これを継承する。」とあり、また、継承順位を定めた第二条にも、皇位継承の要件として皇統譜への記載を明記はしていません。皇籍(皇統譜)については、第二六条において「天皇及び皇族の身分に関する事項は、これを皇統譜に登録する」と記すのみです。民間から皇室に入った女性達も、皇統譜に名が記されるようになりますように、皇室典範の解釈次第では、皇統譜にその名が見られなくとも皇位継承は不可能ではなくなります。伊勢神宮では宮家や社家等から大宮司に就任する事例が見られますが、天皇位につきましても、皇統譜に拘らずに皇統を引く然るべき方々のなかから選ぶという方法もあるはずです。

このように考えますと、仮に皇位継承に関する不安を取り除きたいならば、その最も効果的な具体策は、皇籍と皇位継承資格を分離させることなのではないでしょうか。皇位継承資格者の範囲を拡げれば、簡単に解決する問題なのですから。しかも、上述したように、この方法は現行の皇室典範にあっても解釈を変更すれば、法改正を経なくとも実現可能です。女性・女系天皇論の背景には、おそらく‘皇室利権’なるものも関わっているのでしょうが、現皇室の現状を見ますと、皇籍の創作によって狭められた一家族の血脈に固執せずに皇位継承資格者の枠を広げ、併せて、制度そのものの在り方を自由に議論した方が、余程、日本国の国制は安定するのではないかと思うのです。

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北方領土を対中政策の具とすることなかれ

2019年05月21日 17時28分58秒 | 日本政治
 米中関係が悪化する中、ロシアとの関係については、対中政策の意味合いにおいて関係改善を求める意見も聞かれるようになりました。仮に、両国間の対立がエスカレートして第三次世界大戦に発展した場合、共に核を保有する軍事大国である中国とロシアの連携だけは何としても避けたいからです。

 昨今、日本国政府が積極的に北方領土の解決、並びに、平和条約締結に向けてロシアと歩調を合わせるようになったのも、その背後に、ロシアを日米同盟側に引き寄せておきたい思惑があるのではないか、とする憶測もあります。対ロ関係の改善を急ぎたい安倍首相も、本心では北方領土問題は色丹と歯舞群島の二島返還を以って手を打ちたいのかもしれません。しかしながら、中ロ間の離反のために北方領土問題で妥協することは、後世に禍根を残すことになるのではないかと思うのです。

 その主たる理由は、たとえ日本国側が全島返還の原則、否、国際法上の正当な領有権を放棄し、ロシアに北方領土を割譲したとしても、永遠にロシアを中国から遠ざけることはできないからです。仮に、中ロ間の軍事同盟の禁止に法的な効力を持たせようとすれば、平和条約の条文に対中同盟禁止条項を書き込む必要がありましょう。ロシアが、北方領土の返還条件として、同地域に米軍基地を置くことを禁じるように。しかしながら、ロシアが、この要求をすんなりと呑むとは思えません。否、一時的には合意したとしても、状況次第で、あっさりと反故にされてしまうリスクの方が高いのです。第二次世界大戦にあっては、日本国の敗戦が決定的になったのを見て、すかさず日ソ中立条約を破棄したという前例があります。‘永遠の同盟はない’とは逆に‘永遠の離反もない’のかもしれません。とりわけ、ロシアという国は、他国との条約によって自らの政策を縛られることを嫌うのではないでしょうか。

 このように考えますと、北方領土を対中政策の具とするのは、あまりにも危険な行為のように思えます。ロシアを信じた結果、北方領土を永遠に失うのみならず、平和条約締結の主たる目的であった中ロ連携阻止も実現しないかもしれないのですから。しかも、近年の日本国政府は対中関係の改善にも積極的ですので、第二次世界大戦における陣営形成の離合集散と同様に、国民が望んでもいないにもかかわらず、中ロを中核とする全体主義陣営に引きずり込まれるかもしれないのです。日本国政府は、対ロ交渉に際してくれぐれも過去の失敗を繰り返さぬよう、慎重姿勢に徹するべきではないかと思うのです。

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トランプ大統領のロシア疑惑ー米中ロの三国関係

2019年05月20日 14時05分05秒 | 国際政治
 通商面における米中関係の悪化は、安全保障分野における両国の対立と背中合わせでもあります。将来的な米中の軍事衝突も予測の範囲に入り、アメリカと同盟関係にある日本国もまた、中国の軍事大国化と激化する米中対立は国家の存亡にかかわる大問題です。緊迫化する国際情勢にあって、日本国政府は周辺諸国との関係をめぐり正念場に差し掛かっておりますが、特に鍵となるのはロシアとの関係です。

 同盟国であるアメリカでは、捜査報告書が公表されたとはいえ、事あるごとにトランプ大統領のロシア疑惑が持ち上ってきましたが、この現象も、背後に米中対立を想定しますと理解に難くはありません。ヘンリー・キッシンジャー元国務長官に代表されるように、筋金入りの親中派は共和党にも少なくないものの、クリントン政権やオバマ政権等、歴代の民主党政権は、基本的には親中路線を継承してきたからです。中国がアメリカの敵国として国民に意識されるに至った今日、米民主党には、自らの中国との近い関係に対する批判を避けるためにも、かつては主要敵国であったロシアを前面に押し出すことで、トランプ大統領をロシアに国を売る‘裏切り者’のイメージを植え付けたいのでしょう。

 トランプ大統領の無実の主張を信じるならば、ロシア疑惑は、まことに厄介な言いがかりとなります。何故ならば、中国との対立を睨んだ上での対ロ融和策、あるいは、ロシア懐柔策が採り難くなるからです。僅かであれロシアに対する妥協を示せば、疑惑の証拠と見なされかねないのです。米民主党、あるいは、その背後に控えている中国にとりましては、ロシア疑惑は、次期大統領選挙にあってトランプ大統領の当選を阻むと共に、現時点にあってもアメリカの対ロ接近を押さえることができるのですから、一石二鳥の効果が期待されるのでしょう。

 そして、ここで問題となるのは、ロシアの本心です。実のところ、大国でありながら、ロシアほど‘玉虫色’の国はありません。第二次世界大戦にあっても、ソ連邦は、共産主義を罵倒し続けてきたナチス・ドイツと突如として不可侵条約を結ぶ一方で、ドイツによるバルバロッサ作戦の開始で両国関係が破綻すると、唯一の共産主義国として単独でドイツと戦う選択肢がありながら、あっさりとプロレタリアートの敵であるはずの‘資本家階級’の国で構成される連合国陣営に鞍替えしています(英仏にあっても、ポーランドを防衛する条約上の義務はあっても、ロシアに対しては同様の義務を負っていない…)。ソ連邦の独裁者であったスターリンは、連合国陣営に加わった方が軍事力を以って周辺諸国を共産化、否、自国の勢力範囲に組み込むことできると計算したのでしょう。実際に、戦勝国として迎えた戦後にあって、東側陣営の盟主の地位を得たわけですが、ロシアは、自らの主義主張とは関係なく、その時々の損得勘定で自らが得をする方を選んでいるとしか言いようがなく、ロシアの行動原則は、自己中心的なご都合主義なのです。

もっとも、こうした同国の日和見的で打算的な性格は、英仏等の自由主義国内に潜む財閥系の国際組織との関係からもたらされたのかもしれず、ロシアの伝統的な国柄であったのかどうかは定かではありません(もっとも、モンゴルの支配を受けた期間が長いので、その騎馬民族的な性質を受け継いでいる…)。何れにしましても、米中対立が激化する今日にあっても、ロシアは、最終的にどちらの方向を向くのか、あるいは、どちらの陣営に与するのか、予め予測することは難しいのです。つまり、‘敵の敵は味方’の要領でロシアとの関係を改善しても、ロシアは、必ずしも‘味方’であり続けるとは限らず、常に、‘寝返りリスクを抱える国’として警戒するしかありません。ロシアには、道義も信義も通用しないのですから。そしてこの側面は、共産党一党独裁国家である中国にも言えることなのです。

トランプ大統領のロシア疑惑については、中国の関与、即ち、米中ロの三国間の関係として考慮すべきですし、ロシアの国柄やその背後関係を理解すればこそ、日米両国ともに、対ロ政策には慎重にならざるを得ないのではないでしょうか。

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‘元徴用工’原告団は国際司法の壁を越えられない

2019年05月19日 12時37分03秒 | 国際政治
元徴用工側が「被害救済案」検討 日韓両政府に提示へ
 韓国では、元徴用工の問題を巡って国家が融解するかのような状態に陥っております。三権分立の原則を厳守する立場から韓国政府は問題の解決を司法に丸投げする形となったのですが、先日の李洛淵首相による‘政府の限界発言’を受けてか、原告団が独自の解決案を日韓両国に政府に提示する方針を示しているようです。

 同原告団が提示するものと予測される解決案とは、両国政府、並びに、最高裁判所から賠償を命じられた日本企業が合同で救済基金を設立し、同基金から原告被害者に対して償い金が支払われるとものなのでしょう。報道では、解決案は年内を目安としてこれから作成されるかのように報じられておりますが、実際には、同案は日韓両国において既に広く知られていますので、当初の計画通りにスケジュールを進めているものと推測されます。

 同訴訟に見られる原告団の作戦の中心となるのは、徹底した司法制度の利用です。上述したとおり、近現代国家の統治機構の特色の一つは権力の分立にあります。特に原告団が目を付けたのは同原則に基づく‘司法の独立’であり、司法権を利用すれば、政府(行政権)や議会(立法権)から介入を受けることなく、自らの要求を実現できると考えたのでしょう。つまり、‘司法の独立’を、対日関係において日本国との間で韓国政府が締結した条約や協定に拘束されない立場を得るために体よく利用したのです。韓国政府も、原告団と申し合わせたかのように同問題から身を引いており、条約法条約にも明記されている合意順守等の原則を以って抗弁することも、政治分野への司法介入の限界を示す統治行為論を持ち出すことも、司法の暴走を抑制するためのチェック・アンド・バランスを働かせることもしませんでした。

 そして、原告側が頻繁に使用しているもう一つの司法利用の方法は、裁判所からの‘お墨付き’を得ることで自らの要求に法的強制力を付与することです。法的効力を有する判決という形に転換できれば、強制執行も可能となるからです。実際に、韓国の裁判所が在韓日本企業資産の接収や売却を実行すれば、日本国の民間企業ではなす術がありません。今後、原告団から提案される解決案も、韓国最高裁判所がこれを認めれば、和解勧告の形態を採る可能性もあるのです。

向かうところ敵なしのような勢いの原告団なのですが、果たして、この戦法、国際社会では通用するのでしょうか。確かに、賠償命令を受けた日本企業の在韓資産については、強制力を以って処分することはできるかもしれません。しかしながら、日本国政府や日本企業に対して救済基金への拠出を強制できるのか、と申しますと、これは、無理と言わざるを得ません。日本国政府や日本企業が同提案を拒絶すれば、原告側はお手上げとなります。そして、何よりも原告側にとりまして高い壁となるのは、1965年に日韓の間で締結された日韓請求権協定の存在です。日本国政府は、同協定に定められた仲裁手続き、さらには、ICJや常設仲裁裁判所等での司法解決を求めることでしょう。解決の場が国際司法のレベルに移りますと、韓国国内とは違い、原告側は、自らの思惑通りに司法を操縦することは最早叶わなくなります。そもそも、国際司法制度においては民間人には原則として原告適格を認めていませんので、同問題については、韓国政府が表舞台に立たざるを得なくなるのです。

もっとも、WTOの上級委員会が下した奇妙な判断のように、国際司法機関が常に公平で中立的な判決を示すとは限りません。韓国側は、国際レベルでも‘韓流’を以って司法機関に働きかける可能性もあり、油断は禁物とも言えましょう。日本国政府は、今度こそ、万全の準備を整え、国際司法の場で韓国原告団に翻弄されてきた‘徴用工問題’の決着を付けるべきなのではないかと思うのです。

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丸山議員戦争発言問題を考える

2019年05月18日 14時03分55秒 | 日本政治
自民、丸山議員への辞職勧告で対応苦慮
日本維新の会の片山虎之助共同代表と馬場伸幸幹事長の両氏は、除名処分とした丸山穂高衆議院議員の戦争発言について、ロシアのガルージン駐日ロシア大使に陳謝したと報じられております。近く、松井一郎代表も北海道を訪問して元島民に直接謝罪する方針を示しており、同党は謝罪行脚の様相を呈しております。加えて、野党6党は丸山議員の辞職を求める決議案を衆議院に提出していますが、この一件、しばし考えてみる必要があるように思えます。

 「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」という同議員の発言を聴きますと、‘北方領土をロシアから取り戻すための唯一の方法は戦争しかない’と考えている節があります。しかしながら、望みは薄いとはいえ、日ロ交渉を通して北方領土の全島が返還される可能性はゼロではありませんし、司法解決という手段も残されています。元島民の方に対して戦争一択への同意を求めるような発言には、確かに首を傾げざるを得ません。

その一方で、同発言は、議員辞職に価するほどの許されまじき発言なのか、と申しますと、同議員が主張するように言論の自由に関わるだけに慎重な扱いが必要です。辞職を要求する側の言い分としては、新党大地の鈴木宗男代表の弁を借りれば、「政治家の究極の目的は世界平和。戦争による解決を持ち出す発想はあり得ない。」ということなのでしょう。日本国憲法の第9条には、‘国際紛争を解決する手段’としての戦争を放棄していますので、特に強い反発を招いたのかもしれません。しかしながら、国際社会は不変ではなく、自国を取り巻く状況が暗転すれば、日本国もまた、その変化への対応を迫られる可能性はあります。例えば、国際法秩序が崩壊し、国家間の合意を意味する条約や協定も紙屑となるような時代ともなれば、武力のみが解決手段であった時代に逆戻りすることでしょう。国際社会が無法地帯となった場合には、日本国もまた、最後の命綱が防衛力となるケースも想定され得るのです。

将来的な国際情勢の変化を考慮すれば、たとえ現行の憲法には反するものであっても、危機管理の一環としての政策提言や仮想の事態を想定した議論に対して、一切、言論を封じてしまうことには疑問を感じます(そもそも、憲法改正を主張することさえ違憲行為となってしまう…)。ましてや、北方領土がまさしく戦争、即ち、ソ連邦の侵略によって奪われた日本国の領土であった点に思い至りますと、武力による自国領土の回復は、倫理に照らして絶対に間違っているとは言い切れない側面があります。北方領土は自国領ですので、他国の領土を武力で奪う利己的他害性を有する侵略行為ではなく、正当防衛の論理が成り立ち得るからです。拒絶反応的に言論の自由に制約を課しますと、結果として、重大なリスクを招くこともあるのです。

もちろん、丸山議員は、唐突に問題となった質問をぶつけるよりも、戦争に至るまでの国際情勢の変化や憲法問題への対応、さらには、実際に戦争に及んだ際に問題となる日ロ間の戦力差などについても詳しく語るべきでした(一つ間違えると日本国は核保有国であるロシアによって焦土にされてしまう…)。政策議論として語れば、かくも激しい反発を招くこともなかったかもしれません。なお、私見を述べれば、日本国の政治家としては、国際法秩序の維持・発展に全力を尽くすと共に、対ロ政策としては、両国間の領土交渉が決裂したとしても、最終的には司法解決に持ち込める道筋を付ける方が得策となのではないでしょうか。

 以上に丸山議員の戦争発言について考えてみましたが、少なくとも、この件でロシアに対して謝る必要がないことだけは確かなことです。カルージン大使は、「戦争という言葉や、ロシアの混乱を望むようなことは、非常に不快だ」と述べたそうですが、ロシアこそ、北方領土を含め、国際法を無視して戦争で周辺諸国の領土を奪い続けてきた国家なのですから。否、丸山議員の発言は、むしろ、北方領土をロシアの戦利品と見なすプーチン大統領の主張に沿っているとも言えるかもしれなせん(プーチン大統領は、秘かにほくそ笑んでいるかもしれない…)。何れにいたしましても、戦争という言葉に対して条件反射的に批判したり、議員辞職を要求するよりも、これを機に、戦争という手段に訴えざるを得なくなるケースや現実的な手段としての是非を議論すべきなのではないでしょうか。議員辞職の問題も、北方領土を取り戻す政策手段については、同議員も参加するオープンな議論に付した上で、有権者の判断に任せるべきではないかと思うのです。

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ファウェイ排除問題-日本国政府も当事国では?

2019年05月17日 17時29分05秒 | 日本政治
アメリカによる中国製品排除は、米中関税合戦のエスカレートに次いで第2ステージに移った模様です。トランプ大統領は、今月15日、米民間企業によるファウェイ製品の調達を事実上禁じる大統領令に署名すると共に、米商務省も輸出管理法の運用を強化し、米企業による同社への部品やソフトの供給路を遮断する見通しです。

 アメリカの戦術とは、グローバリズムの波に乗ることで形成されたファウェイの世界大でのサプライチェーン、並びに、販売ネットワークを寸断することで、同社、並びに、中国企業の弱体化を図るというものなのでしょう。 ‘強み’とは、時にして‘弱み’に転じる場合がありますが、さしもの巨大企業も、世界戦略のために張り巡らしてきたネットワークを切断されたのでは、なす術もないように見えます。一種の‘兵糧攻め’であり、落城は時間の問題となるのです。

 それでは、日本国政府は、強まる一方のトランプ政権によるファウェイ排除をどのように捉えているのでしょうか。日本国政府も、同盟国であるアメリカに同調し、安全保障の観点からG5関連の政府調達からファウェイ製品を排除する方針を既に固めています。しかしながら、自ら積極的にファウェイ問題に取り組んでいるのか、と申しますと、そうではないように見えます。米中貿易戦争はあくまでも米中二国間の問題であって、自らを‘部外者’と自己認識しているかようなのです。しかも、ファウェイ排除の背景として同社とイランとの関係がありながら、同時期に安倍首相はイランのザリフ外相と会談し、両国間の友好関係の維持を確認しているのです。

日米の温度差には著しい違いがあるのですが、日本国にあっての最大の懸念材料は、アメリカが対象とするファウェイ取引企業の92社の内、村田製作所、東芝メモリ、ソニー、三菱電機など、日本企業が11社も含まれている点です。これらの日本企業にも内外に広がるサプライチェーンが存在していますので、特にアメリカから部品やソフトを25%を越えて自社製品に使用している企業は、上述した輸出管理法に基づく規制対象となるからです。言い換えますと、アメリカ政府によるファウェイ排除は、同時に、日本企業に対しても発動されることとなるのです。

トランプ政権としては、ファウェイ排除は、米企業にも損害が生じますので、‘身を切る’決断です。自国の不利益を覚悟してまで制裁を強化したのは、安全保障上のリスクを最優先としたからなのでしょう。この点を考慮しますと、日本国が‘部外者’の立場にあるのか疑問なところです。仮に、ファウェイ製品にバックドア等のスパイ装置が組み込まれていたとしますと、それは、アメリカ輸出向けに限定されているはずもないからです。日本国向けの製品にも当然に仕組まれているはずですので、日本国政府も、強い危機感を以ってファウェイ問題に対処する必要があります。アメリカよりも地理的に近く、かつ、尖閣諸島にとどまらず、日本国そのものの支配の野心を抱いている中国は、日本国にとりましてアメリカに劣らず安全保障上の脅威です。日本国政府は、決して‘部外者’ではなく、‘当事者’のはずなのです。

このように考えますと、日本国政府は、アメリカからの圧力ではなく、自らの政策としてより徹底したファウェイ排除を決定すべきなのではないでしょうか。そして、そのマイナス影響が予測される日本企業に対しては、他の販路の開拓、ファウェイ製に代替し得る製品の開発、日本企業向けの供給拡大など、損失を最小限に抑える対策の策定を促すべきではないかと思うのです。

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