万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

新型コロナウイルスをめぐる二者択一の問題

2020年03月31日 14時06分39秒 | 国際政治

 本日の日経新聞朝刊の記事に、イスラエルの歴史学者であり、『サピエンス全史』の著者でもあるユヴァル・ノア・ハラル氏による寄稿文が掲載されておりました。同記事にあって、ハラル氏は、新型コロナウイルスに直面した人類の今後に進むべき方向性について指南しています。その際、ハラル氏は、二つの二者択一の問題を挙げて考察しています。その一つは、「全体主義的監視」か「市民の権利」かであり、もう一つは、「国家主義的孤立」か「グローバルな結束」かの選択です。

 第一の二者択一である「全体主義的監視」と「市民の権利」との選択は、前者を中国の一党独裁体制、後者を自由主義体制と見なし、国家体制の選択として置き換えることもできましょう。この選択について、ハラル氏は、もう一つの二者択一を補助的に持ち出すことで、回答を得ようとしています。それは、中国が新型コロナウイルス対策として強力に推進している生体測定システムを念頭に置いた「健康の維持」と「プライバシーの保護」との間の二者択一です。今日のITの発展レベルをもってすれば、全国民にスマートウォッチ等の装着を義務付けることにより、体温、血圧、心拍数等々、身体に関するありとあらゆる個人データを収集することができます。この選択については、同氏は「健康の維持」と「プライバシーの保護」とは二者択一にすべきではなく、両者を両立させるべきとし、二者択一の選択を避けているのです。そして、両者の両立可能性を主張することにより、「全体主義的監視」と「市民の権利」の二者の間の選択については明確に後者、すなわち、自由主義体制を選択しているのです。

 ハラル氏の論法は、‘二者択一を否定することで二者択一の選択する’というアクロバティックな手法なのですが、この訳の分からないような論法が説得力を有するのは、最初に提起した二つの二者択一が同質ではないからなのでしょう。「全体主義的監視」と「市民の権利」との二者択一は、善と悪との間の選択である一方で(もちろん、前者が悪で後者が善…)、「健康の維持」と「プライバシーの保護」は両者とも善であるからです。つまり、市民の情報を独占的に収集する全体主義的な国家が、人々の健康を人質にしてその基本的な自由や権利、そして人格やプライバシーを侵害することこそ悪なのであり、この悪を取り除くためには、「全体主義的監視」と市民の「健康の維持」との関係を切り離してしまえばよいということになります。この主張の先を予測するとすれば、ITが個々のプライバシーを害することなく健康維持に貢献するよう、情報・通信技術の発展の流れを変える必要があるということになりましょう。善悪の判別が比較的はっきりし得る場合には、二者択一の選択は難しくはありません。

その一方でハラル氏は、「国家主義的な孤立」か「グローバルな結束」かとの二者択一については、問答無用に後者、即ち、「グローバルな結束」を迷うことなく選択しています。しかしながら、上述したように、二者択一において選択が比較的容易なのは、善悪の区別が明確なケースに限られます。ところが、「国家主義的な孤立」と「グローバルな結束」の両者の選択にあっては、「健康の維持」と「プライバシーの保護」との間の選択のように、どちらが善でどちらが悪であるのか決めつけることは極めて困難なのです。

例えば、同氏は、「医用機器、特にウイルス検査キットと人工呼吸器の生産と配分についてはグローバルに協力する必要がある」とも述べていますが、供給量が絶対的に不足している状態にあって、自国民への供給を制限しても他国に供給する余力を持つ自己犠牲的な国が出現するとは思えません(国民から激しい批判と反発を買ってしまう…)。こうした国があるとすれば、他国に先駆けて生産活動を再開させた中国なのでしょうが、他国が窮乏する中で自国のみが余剰を有するのであれば、中国政府は、この状況を、世界支配を目的とした国家戦略として大いに利用することでしょう。あるいは、世界政府のように国家に対して強制的に特定の物資を供出させることができる権力体を創設すれば同氏の提言を実現できるかもしれませんが、WHOでさえ中国の出先機関と化しましたので、‘第二のWHO’を誕生させるに過ぎなくなるかもしれません。

 予期せぬ危機に際しては、他国依存体質は国民の命を危うくしますし、特に中国への依存は国家の独立性までをも脅かしますので、無碍には「国家主義的な孤立」を否定することはできないはずです(スペインが、自国内で不足している医療検査キットを、中国に受注したところ、送られてきたキットが不良品であったがために返品した事件は、他国に頼ることの危険を示唆…)。中国を含めた「グローバルな結束」は、中国に覇権実現の舞台を提供することになりかねませんし、国際的な協力であれば、各国とも必要最低限の供給量を自国で製造できるよう、マスクや医療機器等の製造、医療体制の整備、人材の育成等に関する各種の支援を行った方が、他国依存のリスクを下げることができるかもしれません。

「健康の維持」と「プライバシーの保護」が両立する道を探ったように、「国家主義的な孤立」と「グローバルな結束」の選択についても二者択一の問題として捉えるよりも、より柔軟な思考から両者が両立する形態を模索した方が賢明なように思えます。二者択一を迫る手法は、しばしばどちらをとっても不利益となる隘路に追い込まれることにもなりますし、最も現実的であり、かつ、倫理・道徳にも適っている方向への道を塞いでしまう場合もあるのですから。

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ようやく中国政府を信じなくなった日本国政府

2020年03月30日 11時38分07秒 | 国際政治

 中国政府の公式見解によれば、中国国内での新型コロナウイルスの新規感染者数の殆どは海外からの入国者となり、同ウイルスの国内での抑え込みに成功したそうです。他の諸国が非常事態に直面する中、中国政府は、早々に経済活動の再開に踏み出しており、日系企業を含め、同地での工場の稼働も平常時に戻りつつあります。

今や立場が逆転し、中国側が同ウイルスの逆流を防ぐべく海外からの入国者を制限する側に転じたのですが、報道によりますと、日本国政府も、同ウイルスの国内流入を阻止するための入国制限をさらに強化する方針を明らかにしています。中国全土に対しても、先日、同国からの入国者に対して14日間の待機措置を要請する措置をとりましたが、全面的な入国禁止という最高レベルの制限を課すこととなったのです。遅きに失するとはいえ、ようやく日本国政府も、発生現地である中国からの感染ルートを遮断する運びとなりました。

従来の措置では、中国人団体旅行者、チャーター便で帰国した在中邦人、ダイアモンド・プリンセス号の下船乗客といった人々の移動経路や接触範囲等は追跡できましたが、ビジネスマンや個人旅行客についてはこれらを把握することは困難でした。日本国内において‘感染経路不明’と公表されているケースについては、おそらく、個人レベルで中国から来日した人々からの感染であったことは想像に難くありません。公共交通機関、商業店舗、飲食店、イベント、あるいは、ビジネスマンであれば社内の会議室など、感染現場と推定される場所は多々あります。中国全域からの入国が禁止されれば、少なくとも今後については、‘感染経路不明’による感染リスクは格段に低下することとなりましょう(もっとも、この効果は一次感染のみに限られますが…)。

そして、ここで注目すべきは、日本国による中国全土を対処とした全面入国禁止の効果は、実のところ、上述した中国政府の公式見解の否定の上に成り立っている点です。日本国政府は、同時にアメリカ、イギリスを含む欧州全域、韓国全土、並びに、東南アジアやアフリカの一部からの入国も禁止しますが、これらの国や地域は、現在、感染が拡大過程にあり、危機的な状況にあります。入国禁止には、感染ルートの遮断というれっきとした理由があるのです。

その一方で、中国については、仮に上記の公式見解通りに新型コロナウイルス禍が終息しているのであれば、入国規制をさらに厳格化して入国禁止措置を採る必要は然程にはないはずです。表向きの数字を信じれば、中国国内では新たな感染者は発生していないのですから。しかしながら、中国政府発の情報発信については、同ウイルスによる感染症が最初に発生した時点から疑義を呈されており、公表された数字は全く当てにならないことが判明しています。

今般の事実上の‘終息宣言’についても、最早、誰もがそれをそのまま受け止めてはいません。そもそも、新型コロナウイルスは未発症でも感染力を有しますし、完全に回復したとされる人の中には、退院後に再発したり、再検査した結果、陽性の判定を受ける人も報告されています。医科学的見地からも疑問が呈されている段階での‘終息宣言’は、本来、あり得ないのです(‘政治的宣言’に過ぎない…)。それとも中国は、‘終息宣言’を出せるような新型コロナウイルスの特性について、他国では知られていない情報を独占的に隠し持っているのでしょうか(中国政府は、アメリカ軍起源説を主張していますので、この立場に立てば人工ウイルスに関する詳細な情報を有しているはずはない…)。

何れにしましても、日本国政府による中国からの入国全面禁止措置は、ようやく日本国政府が、中国政府の呪縛を解き、忖度することなく自らの判断で対応措置を決定したことを意味します。おそらく、中国政府を迂回して収集した情報やデータに基づけば、中国の現状は未だに予断を許さず、感染リスクに満ちているのでしょう。今般の措置に見られる日本国政府の方向転換は重要であり、それは、中国政府に対する不信任の表明として理解されるのではないかと思うのです。

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外出する若者たち―自律できないと他律される

2020年03月29日 12時29分45秒 | 国際政治

 新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大、並びに、それに伴う医療崩壊を回避すべく、東京都を含め都市部の地方自治体が週末の外出自粛を求める中、少なくない若者が繁華街へと繰り出していたとする残念なニュースが報じられています。誰もが自由を好みますし、他者から行動を縛られるのは嫌なものです。特に若者ともなりますと、自宅に閉じ籠って過ごすにも時間を持て余すのでしょうし、ましてや反抗期ともなれば、‘上からの指図’に反射的な拒絶反応を起こし、その逆をしたがる年頃かもしれません。何れにせよ、若者たちの外出は、高齢者や持病を持つ人々の命を危うくし、クラスターを起こしかねない危険行動として認識されています。

 善き社会の理想とは、年齢、性別、職業、所得といった個々の属性等の違いに拘わらず、全ての人々の基本的な自由や権利が保護され、相互に侵害されない状態を意味します。治安の維持が政府の重要な役割の一つであるのも、現実には公権力を用いなければ善き社会が実現しないケースがあるからであり、それは、政府の存在意義をも説明します。もっとも、政府が必ずしも当然のことのような顔をして登場してくるわけではなく、社会を構成する人々が自らの行動が他者に与える結果を予見し、自らの行動を自律している場合には、その限りではありません。自律の精神が行き届いていれば、危険行為の禁止を定める法律を制定する必要性は低下しますし、そもそも、取り締まるべき危険行為を行う人も現れなくなるのです。

 ここに、自由と法律との間のパラドクシカルな関係を見出すことができます。それは、行き過ぎた自由を行使する人、すなわち、他者の自由をも侵害する自由を行使する人が増えるほど、自由が強制的に制限されてしまうという傾向です。もちろん、加害行為に対する寛容性が高い社会もありますので一概には言えないのですが、禁止行為の法定化や禁止命令の発動の事例を観察しますと、それに先立つ加害行為の増加や深刻化があるものです(このため、より厳格な法律を制定することを目的に、敢えて極端な加害行為を自作自演するマッチポンプの事例も見られる…)。‘他者を害する自由’とは、即ち‘犯罪’と同義となりますので、自由もまた、‘善き自由’と‘悪しき自由’とを区別する必要があり、後者については自律できない場合には、他律されてしまうのです。

自由に関する区別についての議論はさて置くとしても、今般の新型コロナウイルス禍における若者たちの行動は、それが他者の命や健康を脅かすだけに‘悪しき自由’の部類に入るように思えます。密集地へと外出した若者たちは、開放感に浸り、自由を謳歌しているのでしょうが、自由のはき違えによって起きるその後については何も考えていないのかもしれません。仮に若者で賑わった繁華街や歓楽街が集団感染の発生地ともなれば、自らの自由を制限する原因を自らの手でつくったこととなりましょう。

新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正により、首相は、公布日の翌日にあたる3月13日より緊急事態宣言を発令することができるようになりましたし、東京都も首都封鎖をも検討しているとも伝わります。新型コロナウイルスの感染の爆発的拡大に直面した他の諸国と同様に日本国でも、法的根拠を以って移動や外出の禁止や都市封鎖が行われるかもしれません。若者たちの他者を慮ることのない自己中心的な行動は、他の全ての人々の自由をも制約しかねないのです。自らの自由を護るためにも、若者たちには自律の精神に目覚めていただきたいと思うのです。


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考えさせられるローマ法王の呼びかけ―司祭はコロナ感染者の許へ

2020年03月28日 13時07分20秒 | 国際政治

 バチカンのお膝元にあるイタリアではカトリックの伝統が今なお息づいており、死の床に司祭が付き添うのが慣習として根付いています。ところが、今日、同国では一日のうちに多数の人々が新型コロナウイルスによって一度に命を落とす危機的な事態に至っており、教会もその対応に苦慮することともなりました。こうした中、フランシスコ法王は、司祭に対して勇気をもって感染者の許を訪れるように呼び掛けたのですが、その後の成り行きを見ますと、法王の言葉は適切であったのか思わず考えさせられてしまいます。

 何故ならば、イタリアでは、既に少なくとも50人の司祭の方々が亡くなられているからです。今まさに神の御許に召されようとする感染者の方々に心の安らぎを与えるのですから、臨終に際しての司祭の役割は崇高なものです。神父の祈りの言葉に、死を迎える人々の恐怖心がどれだけ和らげられたか知れません。この点は否定もしようもないのですが、感染症が蔓延する中での病床への訪問推奨ともなりますと、医科学的な知識に基づく配慮が必要であったように思えます。

 ウイルスによる感染症では、死の間際に特に感染力が強まるとされており、防御服も着用することなく‘終油の秘蹟’を行う司祭の方々は(感染者の額、目、口などに聖油を塗り、神に罪の許しを請うと共に祝福を与える…)自ら感染するリスクに晒されています。否、相当の確率で感染するものと推測され、上記の死亡者数50人という数字は医療関係者をも上回るそうです。中には、信者から寄付された人工呼吸器を自らよりも若い患者に譲った72歳のジュゼッペ・ベラルデッリ神父の事例も報告されています(もっとも、同美談にはフェイク説がある…)。何れにしても、司祭ほど感染リスクが高い立場はないため、法王が敢えて訪問を奨励した背景には、多くの司祭には、患者のもとを訪れるべきか否か迷いがあったからなのでしょう。

それでも、自らの命をも顧みず他者を救わんとした、キリスト教精神に基づく尊い自己犠牲とも言えます。上記のベラルデッリ神父の死についても、イエズス会士のジェイムズ・マーティン神父は、新約聖書のヨハネによる福音書の言葉「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」を引いて讃えたそうです。フランシス法王もイエズス会出身ですので、カトリックの組織の長として積極的な自己犠牲を奨励しているとも解されます。

 しかしながら、イタリアはいわばカトリック教国ですので、神父の社会的な役割は広範囲に及んでいます。神父自身が神に召されますと、死の前に祈りを捧げてくださる方はいなくなりますし、感染した神父がスプレッダーとなるリスクも否めません。教会でのミサは、密封空間、人と人との間隔の近さ、相当時間の共有という集団感染発生の3条件を満たすと共に、飛沫感染や接触感染、そしてエアロゾルなど、何れの感染形態が同時に起きる可能性があります。他者の魂を救おうとする尊い行動が、より多くの人々の命や健康を奪いかねないのであり、この場合、自己犠牲の奨励は、意図的ではないにせよ、多数の無辜の人々の命を奪いかねない他害行為の奨励に他ならなくなります。

 このように考えますと、訪問を奨励するならば、感染防御効果のある司祭の服装を考案したり、患者との間に直接的な接触のない‘終油の秘蹟’のあり方を考えるべきなのかもしれません。また、新型コロナウイルスの感染者は、重篤な段階にまで至ると意識が混濁するそうですので、医療関係者やロボットによる代行といった方法もあるはずです。フランシスコ法王は自らもウイルス検査を受けると報じられており、同法王は、言行一致の範を示して自らも感染者の許に出向いたのかもしれません。果たして、天にあって神は、同法王の発言をどのように思召し給うのでしょうか。


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新型コロナウイルス禍とイベント中止問題

2020年03月27日 11時18分14秒 | 国際政治

 先日、日本国政府、並びに、埼玉県の再三にわたる中止要請を振り切って、6500人余りの観客を集めて格闘技イベントの「K-1」で開催されました。その参加者の数の多さにも驚かされるのですが、官民とも新型コロナウイルス拡散防止に努める中での強硬開催には批判も寄せられています。その一方で、イベント中止による経済的損失を主張し、政府に対して補償を求める間接的な擁護論も聞かれます。

 感染症という性質を考慮しますと、確かにイベント業は危機的な状況にあります。中止ともなりますと、興行主側は収益がゼロになるばかりか、会場のキャンセル料やチケットの払い戻しなど余分な出費も覚悟しなければなりません。こうした経済的な損失等を考慮すれば、開催を強行した主催者側の気持ちも理解に難くはないのですが、それでも開催強硬はあまりにも無責任であったように思えます。

 その理由は、言わずもがな、「K-1」の会場は、新型コロナウイルス感染拡大に関する3条件をすべて満たしているからです。すなわち、厚生労働省が公表している(1)屋内の閉鎖的な空間、(2)人と人とが至近距離、(3)一定時間以上交わる、の三者です。主催者側もこれらの条件に当てはまることを十分に承知していたわけですから、「K-1」側は、新型コロナウイルスの集団感染を引き起こすリスクよりも、興行収益を優先したことになります。つまり、‘人命よりも利益’を選択したのであり、道徳や倫理に照らして同選択が批判を受けるのは当然のことなのです。

 そして、この‘命と利益を天秤にかけた選択’の結果は、「K-1」の主催者側に別の問題をも提起することにもなりましょう。別の問題とは、仮に集団感染の震源地となった場合、その責任をとることができるのか、という問題です。大阪のライブハウスで発生した集団感染のケースでは、ライブハウス側は感染のリスクがあることを知らずに通常通りに営業していましたので、‘善意’が推定されます。一方、「K-1」の場合には、上述したように政府も地方自治体も自粛を求め、かつ、感染要件についても百も承知していたはずですので、弁明のしようもありません。つまり、‘悪意’が推定されるのであり、感染拡大の責任を逃れることはできなくなるのです。

 愛知県において感染者の一人が‘ウイルスをうつしてやる’と公言し、実際に接客業の人を感染させた一件では、警察は刑事事件として捜査を開始しました(もっとも、その後、容疑者は死亡…)。「K-1」の強硬開催にあっても構図は似通っており、‘悪意’の認定レベルによっては、「K-1」の会場から感染した観客から被害届が提出されたり、賠償を求められないとも限りません(未必の故意…)。アメリカでも、情報を隠蔽して海外への感染拡大を許した中国に対して集団訴訟が起こされるそうです。将来的には刑事罰に問われたり、賠償責任をも負う可能性をも考慮しますと、「K-1」開催中止による損失は微々たるものである可能性も否定はできないのです。

その一方で、感染リスクを知りながら会場に足を踏み入れた観客の自己責任論もあり、刑事であれ、民事であれ、仮に訴訟に至った場合、この点がどのように裁判官によって判断されるかは微妙なところです(あるいは、損害賠償の請求先は元凶となった中国になる?)。自己責任論にも一理はありますが(しかしながら、自己責任の場合には、主催者側は、参加者に対して、万が一感染した場合には自己責任となることの同意を、文書にて得る必要があったのでは?)、感染症という性質上、観戦者本人のみならず、その家族や知人、さらには、公共の場にあって無関係の他者をも感染させる可能性がありますので、集団感染を引き起こした「K-1」は、社会的責任を厳しく問われることにもなりましょう。

「K-1」側は、自らを被害者として位置づけていますが、将来的には加害者、あるいは、被告人の立場となり得るのですから、長期的、かつ、社会的責任の視点からは、やはり一時的な損失を潔く受け入れ、中止を決断すべきではなかったかと思うのです。この側面は延期が決定した東京五輪にも言えることであり、経済的損失を嘆くよりも、人命を第一に考え、開催国としての社会的責任を誠実に果たす方が、余程、日本国に対する信頼感が増すのではないでしょうか。


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中国は‘転んでもただでは起きぬ国’―‘マスク戦略’の罠

2020年03月26日 13時26分25秒 | 国際政治

 中国という国は、‘転んでもただでは起きぬ国’のようです。一時は瀕死の状態に陥った中国経済も、今では封鎖措置が徐々に解かれ、稼働停止状態にあった工場での生産再開も報じられています。習近平国家主席は、国内にあっては落ち込んだ経済を回復基調に乗せようと急ぐ一方で、対外的には責任追及から逃れるべく反転攻勢に転じたと指摘されているのです。

 同戦略を遂行するに当たり、中国は硬軟入り混ぜた手法、即ち、‘アメとムチ’を使い分けているようです。‘ムチ’としては、国際社会において新型コロナウイルス米軍起源説を積極的に流布して情報を操作しつつ、トランプ大統領等による‘武漢ウイルス’や‘中国ウイルス’の発言に噛みついて激しい批判の言葉を浴びせるなど、‘逆切れ戦法’で臨んでいます。その一方で、反転攻勢戦略の‘アメ’、即ちソフト路線を担っているのが、‘マスク戦略’、あるいは、‘医療品’のようなのです(‘マスク外交’よりレベルアップ…)。それでは、‘マスク戦略’のからくりとは、どのようなものなのでしょうか。

 新型コロナウイルスの感染拡大によって中国国内での生産活動が停止していた時期にあっても、マスクを含む医薬品等の生産のみは継続していたはずです。この時期、中国は、輸出向けに生産していたマスクを国内向けに切り替えており、実際に、中国政府当局はマスクの輸出規制を実施しています。本日の日経新聞によると、2月上旬には中国メーカーに生産委託していた医療用マスク企画・販売会社の仕入れもストップしたそうです。14億の人口規模を考慮しますと、中国政府の内需優先の措置も理解に難くはありません。

 日本国内のマスク市場を見ますと、コロナ以前にあって市場の7割が中国製品で占められており(輸品入は全体の凡そ8割…)、国内生産分も原料となる不織布の2割は中国からの輸入に頼っていました。中国依存度がとりわけ高い市場であり、中国からの輸入停止が即国内の品薄に直結したことは疑い得ません。その後、3月上旬には上述した日本の医療用マスク企画・販売会社に対する中国からの出荷が再開されましたが、仕入れ量はコロナ以前の20分の1の水準に留まっているそうです。かくして今日に至るまで、日本国内ではマスク不足の状態が続くこととなるのです。

 中国政府の公式発表によれば、既に中国では新型コロナウイルス禍は一先ずは終息しており、マスク需要も減少傾向にあるはずです。中国政府が輸出規制を緩和させたのも、国内状況の変化による判断なのでしょう。こうした中、新聞やネット記事において目につくのが中国の地方自治体や大手企業等によるマスクの日本国を含めた諸国に対する寄贈です。このことは、既に中国では、他国に寄付できるほどのマスクの供給量に余剰が生じていることを意味しています。そしてこのことは、それでは何故、輸出量が回復しないのか、という疑問を生むこととなるのです。

 報道によりますと、スペインは、中国との間に総計520億円にも上るマスクや人工呼吸器等の医療器具を購入する契約を結んだそうです(内訳は、マスク5億5千万枚、人工呼吸器950台、550万回分の迅速なウイルス検査キット、手袋1100万枚…)。また、中国国内での生産過剰を背景に、ステラのイーロン・マスク氏も中国製人工呼吸器のアメリカの医療機関への寄贈を表明したとも伝わります(同氏は、かつて「テスラの本社は将来中国に置かれ、将来のCEOも中国人になる」と述べたとも…)。

 こうした矛盾した現象を読み解きますと、中国の‘マスク戦略’、あるいは、‘医療品戦略’が浮かび上がってきます。それは、マスク等の医療器具の‘世界の工場’であった強みを生かし、無償提供であれ、輸出であれ、自国製品の対外供給をコントロールすることで、他の諸国を親中に誘導しようとするものです(中国の終息が虚偽であれば、中国国民を犠牲にするかもしれない…)。日本国に対しては、輸出を低いレベルに制限する、あるいは、後回しにすることでマスク不足の状況を長引かせつつ、同時に寄付攻勢をかければ日本国側に恩を売り、かつ、日中友好をアピールすることができます。また、イタリアやスペインに対する医療器具の優先的輸出には、形成されつつある対中包囲網の一角を崩すと共に、これらの国を中国寄りに引き寄せる効果が期待できます。また、アリババ・グループのジャック・マー氏やステラのマスク氏によるマスクや医療器具の大量寄付も、中国に対する印象を好転させるための世論誘導の一環なのかもしれません。つまり、国際市場における‘独占的な地位’を利用し、事実上の‘分配権’を握ることで、全世界を自国に有利な方向にコントロールしようとしているのでしょう(いかにも共産主義的…)。

 以上に中国の‘マスク戦略’を推測してみましたが、新型コロナウイルスのパンデミック化によってマスク需要が全世界的に高まる一方で、日本国を含めた多くの諸国が、そのマスクの供給を中国に依存してきたのは現実です。こうした状況を脱するためには、医療品生産の国内比率を高め、中国依存体質から脱却するしかないように思えます。今般、シャープがマスク生産に乗り出しましたが、医療・医薬品不足の長期化も予測されますので、国産パルプの活用や人材や資金のサービス業からの移行を含め、同市場への新規参入を促すべきではないでしょうか。変化への迅速な対応こそ、中国の戦略をはねのけ、外部環境に左右されない強い日本経済の再建に向けた第一歩ではないかと思うのです。

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‘自国ファースト’は政府の義務では?

2020年03月25日 14時35分07秒 | 国際政治

 トランプ大統領が前回の大統領選挙で掲げた‘アメリカ・ファースト’のフレーズは、大統領の座を競う民主党を中心としたリベラル派のイメージ戦略もあって、自国中心主義として批判されてきました。今般の新型コロナウイルス禍でも、国境閉鎖や入国禁止措置、あるいは、マスクや医薬品の国内配布といった各国政府の対応に対しても、‘アメリカ・ファースト’批判の文脈から‘自国ファーストは怪しからん’とする意見も聞かれます。‘国際協調こそ優先すべき’として…。

 そこで浮かぶのが、‘‘自国ファースト’がダメならば、誰をファーストとすべきなのか‘という素朴な疑問です。模範解答は、上述したように’国際協調‘なのでしょう。しかしながら、’国際協調‘という言葉は極めて抽象的であり、’ファースト‘として遇すべき対象が具体化されますと、素朴な疑問は懸念へと変わるかもしてません。

例えば、国境を越えて広がる感染症のように入国禁止措置を採らなければ自国民の生命や健康が確実に脅かされるケースでは、禁止対象国をファーストとして扱いますと、自国民が確実に犠牲となります。実際に、日本国政府の中国に対する入国禁止措置の遅れは、’チャイナ・ファースト‘の結果であったと言えましょう。マスクや防御服についても、日本国内において感染者が報告されるに至った後でも日本国から中国への寄贈が続き、国内におけるマスク不足が深刻化しました。その後、地方自治体レベルでは、中国から返礼としてマスクが日本国へも贈られるケースも散見されるようになりましたが、笑顔で日中友好、即ち、国際協調がアピールする政治家の姿には、中国の策略に嵌まる危うささえ感じられるのです。少なくとも日本国における’国際協調・ファースト‘とは、’チャイナ・ファースト‘を意味しているようなのです。

それとも、‘国際協調ファースト’とは、国連といった‘国際機関ファースト’を意味するのでしょうか。国際協調の本来の意味からしますと‘全世界の諸国を包摂する国際社会の協力を第一に考えよ’ということになりましょう。この点、一般国際法といった法的拘束力があり、全ての国家が誠実に順守すべきルールについては、‘国際法ファースト’は首肯しえます。しかしながら、WHOの実態が中国の出先機関であることが判明したように、本来あれば中立・公平であるべき国際機関でも国力を背景とした政治力やマネーがモノを言いますので、‘国際機関ファースト’は、やはり‘チャイナ・ファースト’に行き着いてしまいます。況してや当の中国自身が国際法違反の常習犯である現実を前にしては‘国際協調’も色褪せてしまうのです。

一方、域内における人の自由移動を基本原則の一つとして掲げてきたEUにあっては、イタリアにおける感染拡大の惨状を目の当たりにして、加盟国の間で隣国との国境を封鎖する動きが広がりました。これまでEUは、地域を枠組みとした国際協調の鏡とされてきましたが、それでも国家レベルにおける自国民の安全確保を優先せざるを得なかったのです。

‘国際協調ファースト’にはどこか政治的な偽善の影が付きまとうのですが、そもそも、政府の統治権は国民から委託されたものですし(主権在民…)、その活動の財源も国民が負担しています。政府と国民との基本的な関係に立ち返りますと、‘自国ファースト’は至極当然の原則であり、否、仮に他にファーストとすべき対象、すなわち、自国よりも優先させなければならないような国家や組織が存在するとすれば、それは、その国や組織に対して自国が下位にあることを認めたことにもなりましょう。むしろ、‘自国ファースト’、あるいは、‘自国民ファースト’は政府の国民に対する義務であるといっても過言ではありません。

アメリカの場合には、第二次世界大戦後、同国が国際社会のリーダー役であったことから‘アメリカ・ファースト’は特別の意味を持ちますが、少なくとも日本国を含めた一般の諸国にあっては、‘自国ファースト’は否定すべき原則ではないように思えます。他国を優先するととりわけ自国民を犠牲に供するような事柄については致し方ないとして、むしろ、他国や他国民を害さない限り、積極的に‘自国ファースト’をお互いに認め合う方がよほど国際ルールとしては望ましいように思えるのです。

 


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自らグローバリズムを潰した中国

2020年03月24日 13時03分34秒 | 国際政治

 第二次世界大戦後、一貫して自由貿易主義の旗振り役を務め、グローバリズムをも推進してきたアメリカは、今日、その役割から降りようとしています。替わって、中国が新たなグローバリズムの旗手として名乗りを上げたのですが、今般の新型コロナウイルス禍は、自らの手でその舞台をぶち壊してしまったかのようです。

 自由貿易主義を希求する政府であれ、グローバリズムの元で広域的な経営を目指す企業であれ、その正当性を主張するキーワードは利益を基準とした‘最適化’です。自由貿易主義の基本理論とされる古典的なリカード流の比較優位説も、現実には稀にしかあり得ない二国間貿易における‘最適化の理想モデル’の一つとして理解することができましょう(当事者の双方の最適化行動が相互利益を帰結する稀なケース…)。合理的で効率的な国際分業とは、それが水平分業であれ、垂直分業であれ、国境を越えた‘最適化’の結果なのです。

とりわけグローバリズムにあっては、全世界が一つの市場に統合されれば、企業は、最も高い収益性を実現し得るように、自らの経営ネットワークを世界大に広げ、各国に役割を割り振ることができます。高性能製品の消費地は所得水準の高い先進国、大量生産品の消費地は人口大国、製造拠点は労働力の安価な途上国、研究開発拠点は教育水準の高い国、資金調達は国際通貨の発行国あるいは金融センターの所在地、投資先は経済成長率の高い国等々、企業は、自らの経営戦略に合わせて‘最適地’を自由に選ぶことができるのです。そして、当然に、企業戦略において有利な条件を備えた国が選択されるのですが、それは、全世界の諸国に等しくチャンスを与えるというわけではなかったようです。むしろ、選択基準となる有利点を多数同時に備えた国に集中したと言えましょう。そして、その集中国こそ、国家戦略としてあらゆる選択要件を満たすべく‘最適国家化’を推進した中国に他ならなかったのです。

しかしながら、グローバリズムと中国との‘最適化’で結び付いた共同歩調は既に変調をきたしてきています。最も重大な変化は、グローバリズムの波に乗った中国経済の急成長による‘選ばれる立場’から‘選ぶ立場’への転換であり、それは、経営戦略として中国を選択してきた海外企業にとりましては、もはや中国が‘最適’の選択ではなくなったことをも意味します。今では、GAFAと並んで中国系企業がデジタル社会を牽引するグローバルIT企業として立ち現れており、‘情報が世界を制す’をモットーに他国にもプラットフォームを広げようと積極的な売り込み攻勢をかけています。つまり、企業の最適化行動としてのグローバリズムと中国の最適化行動としての産業戦略と分離し始めてきたのです(もっとも、金融界にあっては両者に貸し付けているかもしれない…)。

一方、トランプ政権の誕生を以ってアメリカがグローバリズムから自国優先主義へと舵を切り替えたのも、グローバル企業による最適地選択が、米国にとっては不利に働いたからです。とりわけ製造拠点としての劣位性は雇用の喪失と直結しましたし、有利性を回復しようとすれば、生活水準の低下と凡そ同義となる賃金下げを受け入れざるを得ません。また、グローバル時代における個人レベルでの‘最適化行動’がより所得水準の高い国への自由移動であるならば、アメリカを含む先進諸国における移民の増加は必然的な結果とも言えましょう。グローバル時代における’最適化‘は、スケールメリットを備えた企業や情報・通信分野で圧倒的な支配力を有するプラットフォーマーを除いで、全ての人々に果実をもたらすわけはなく、先進国における中間層の破壊のみならず、全人類に漠然とした不安を与えることとなったのです。一部の人の最適化は全ての人の最適化ではなく、誰の’最適化‘なのかを問うことは重要であり、多様なテイクホルダーの利益を考慮せよとする近年の資本主義見直し論もこの文脈において理解されるかもしれません。

新型コロナウイルスとは、まさにこうした変調期にあって出現した世界規模での危機であり、水面下で進行していたグローバリズムの内包する欺瞞を一気に表面化させてしまったように見えます。何故ならば、企業の最適選択による製造拠点の中国への集中は、危機に際しての自国産業の脆弱性を露わにしましたし、最適化の果にある国際分業のリスクを認識させる機会ともなりました。また、国境を越えた人の自由移動が疫病拡大の要因であることは疑いようもありません。加えて、日本国内におけるマスクや感染防止グッズの品薄、並びに、値上がり要因の一つに在日・訪日中国人による買い占めや転売が指摘されており、世界大に広がった華人ネットワークが他の諸国の需給状況や価格にも影響を与えることも判明したのです。グローバリズムの推進者を買って出た中国が、自国発の感染症によってその限界とリスクを人々に知らしめたことは、何とも皮肉なこととしか言いようがないと思うのです。


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何れにしても‘中国の原状回復’はあり得ない理由

2020年03月23日 13時35分14秒 | 国際政治

新型コロナウイルスの起源をめぐっては、人工ウイルス説対自然発生説との対立をはじめ、様々な憶測が飛び交っています。意図的な散布とする陰謀論においても、中国共産党による少子高齢化を前にした高齢者人口の削減、感染予防を口実とした5Gを基盤とする新たな国民監視システムの導入、体制維持のための反体制の拠点潰し、アメリカ軍による生物兵器の使用、第三次世界大戦への誘導を目的とした影の国際組織による犯行などなど、諸説が入り乱れています。何れも小説や映画の世界でのお話のように聞こえるのですが、実のところ世界史の裏側が陰謀や謀略の連続であった現実に思い至りますと、人工ウイルス説も陰謀論も無碍には否定できないようにも思えます。

情報が隠蔽、あるいは、改竄されている状態にあって、真相に行き着くことは容易ではないのですが、中国国内では、人工ウイルス説が最も信憑性の高い説として支持を得ているそうです。しかも興味深いことに、中国国民の大多数が武漢のウイルス研究所による漏洩説を信じる一方で、方や中国政府は、当初の野生動物由来説から陰謀説―米軍起源説―に乗り換えており、人工ウイルス説では両者は一致しながら、政府と国民の間でその‘犯人’については見解が一致していません。この相違は、中国国民の自国政府に対する強い不信感を表しており、中国政府が自らの前言を翻しても外部者への責任転換を試みる動機の一つなのでしょう。

諸説紛々の状態でありながら今般のパンデミックにあって一つだけ言えるとすれば、それは、中国が新型コロナ以前の状態に戻ることは極めて難しいということです。習政権としては早期に事態を収拾し、中国経済を再び高度先端技術主導の成長軌道に戻したいと考えているはずです。早くも今月3日には生産再開を指令しており、未だ封鎖状態が続いていた武漢でもようやく移動制限が緩和されたと報じられています。ネットチェック・システムによる外出許可を要するものの、武漢市民も職場に戻る運びとなり、正常化への一歩を踏み出そうとしているのです。

しかしながら、中国政府が発表する武漢での新規感染者ゼロの数字には内外から疑問が呈されており、統計上はゼロにカウントする‘感染者隠し’が指摘されています。また、陽性と判定されながら症状の出ていない人も感染者数には数えられておらず、潜伏期や無症状による感染も報告されています。加えて、回復した感染の中には症状が再発した人もおりますので、生涯にわたり体内にウイルスが残存する潜伏型である可能性も否定はできません。この状態で経済活動を全面的に再開すれば、再度、各地で感染の拡大が起きることは目に見えています。たとえ中国政府が‘安全’を宣言したとしても、中国に製造拠点等を有する海外企業が中国での生産体制の維持に不安を抱くのは当然の反応です。

また、発生当初、中国政府が主張し、かつ、日本国内では‘公式見解’と見なされている野生動物由来説が事実であったとしても、中国に対する見方はプレ・コロナとポスト・コロナとでは違ってきます。2003年のSARSも、中国の広東省に始まっています。また歴史を遡れば、14世紀におけるヨーロッパにおけるペスト禍はモンゴルの世界帝国建設と無縁ではなく(中国大陸で発生していたペスト患者を、いわゆる“生物化学兵器”としてモンゴル軍がヨーロッパにて使用)、1918年に始まるスペイン風邪の大流行についても、中国北部起源説も唱えられています。つまり、中国は、過去における‘グローバル化’の過程にあっても世界的なパンデミックを引き起こしてきた疫病の発生地であり、感染症のリスクが飛びぬけて高い土地柄なのです。しかも、SARS禍から新型コロナウイルス禍の発生までの期間はわずか18年しか経過していません。中国系の科学者が主張するように自然界における遺伝子の突然変異によってかくも短期間にウイルスが強毒化するならば、今後、こうした事態は何度となく繰り返されることでしょう(人工ウイルスであればなおさらのこと…)。

真実が如何なるものであれ、新型コロナウイルスのパンデミック化は、中国という国のカントリー・リスクを格段に高める結果となりました。命に関わるほどの高いカントリー・リスクは、中国に進出した企業が同国からの脱出を図ろうとする合理的な理由となりますので、これらの企業にとりましては、サプライチェーンの再編や国内回帰への、重大な転換点となるものと予測されるのです。しかも、中国の過度な生産設備への投資や巨大IT企業の育成が全世界レベルで値崩れや供給過剰、さらには、軍事面や政治面での脅威をもたらした点を考慮しますと、14億の市場も海外企業にとりましては期待薄です(海外企業は技術だけ吸収されて‘使い捨て’にされてしまうかもしれない…)。新型コロナウイルス禍がグローバリズム修正の転機となるならば、米国同様に日本国政府も、中国脱出路線を政策の基本方針に据えるべきではないかと思うのです。


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中国発の対新型コロナウイルス‘国際共闘’推進に警戒を

2020年03月22日 11時42分00秒 | 国際政治

 新型コロナウイルスのパンデミック化を背景に、国際社会では、ウイルスと闘うべく緊密な国際協力が叫ばれています。同ウイルスは、国境を越えて広がっていますし、得体の知れないウイルスなだけに何れの国も対応に苦慮しているからです。実際に、緊急のテレビ会談として開かれたG7では、治療薬の開発や感染拡大防止における協力等が首脳間で話し合われたそうですし、同ウイルスをめぐって火花を散らしている米中関係にあっても、両大国の協力を求める声が聞こえてきます。しかしながら、少なくとも中国の戦略については警戒すべきように思えます。

 過去の行動からも容易に分かるように、中国は、真偽や立場を逆転させる技に長けています。狡猾な中国にかかれば、事実がフェイクとなり、いつの間にか加害者も被害者に成り代わってしまうのです。今般の新型コロナウイルス禍にあっても、中国は、既に加害者の立場から被害者の立場に移りつつあり、米軍起源説を持ち出すなど、同路線をひた走っています。しかも、他国に先駆けて爆発的な感染が起きながらその抑え込みにいち早く成功した国として、ウイルスとの闘いにおいても主導権を握ろうとしているのです。

 中国としては、できるだけ迅速に自国経済を新型コロナウイルス以前の状態に戻し、「中国製造2025」に描かれたスケジュール通りに、政経ともにアメリカをも凌ぐ世界第一位の超大国の座に上り詰めたいのでしょう。同目標を達成するために、中国が躓きの石となった新型コロナウイルス禍をも踏み台として利用しようとても不思議ではありません。目下、‘マスク外交’でアプローチを開始していますが、今後は、膨大な感染者データに有する優位性を生かして他国に先駆けて有効性の高い治療法や医薬品を開発し、それを立場逆転の梃子としたいところなのでしょう。

 そして、予測されるもう一つの戦略的手段は、やはりWHOの政治利用なのではないでしょうか。WHOは既に中国の走狗と化したと批判されていますが、先日も、加盟諸国に対する医薬品支援に際して、同機構が中国企業に大量発注したとする記事が報じられていました。日本国政府もWHOに対して対ウイルスを目的とした支援金を緊急に拠出しましたが、凡そ全世界の諸国から‘集金’された資金は、同機構の恣意的な決定によって医療・医薬品分野における中国企業の国際競争力を強化する、あるいは、経営を後押しする方向で使用されたこととなります(公平な公開入札制度は存在していないのでしょうか…)。WHOを自らの出先機関とした中国は、今後とも、同機構を自国の戦略目的の達成のための道具として使ってゆくことでしょう。

 中国の最終目的が‘中国の夢’の実現、すなわち、世界支配であることは明白ですので、他の諸国は、国際協力の美名のもとで中国が提唱している対ウイルス共闘の誘いには迂闊に乗ってはならないこととなります。しかも、パンデミックが深刻化すればするほど、中国系企業が医療・医薬品の国際市場でシェアを伸ばし(一種の‘焼け太り’…)、かつ、医療体制の脆弱な途上国ほど中国に依存しなければならない状況が現出しかねないのです。おそらく中国は、感染拡大によって窮地に陥った諸国に対して、イタリアと同様に専門的な医療団を仰々しく派遣し、相手国に恩を着せることでしょう。

グローバリズムの実態が‘チャイニズム’であったように、同分野において国際協力を推進すれば、‘大中華圏’に取り込まれる事態にもなりかねなません。そして、今般の危機は、中国であれ、WHOであれ、一人の人物に権力を集中させる組織形態の危険性をも知らしめているように思えるのです。


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中国が嫌われる理由とは

2020年03月21日 13時14分14秒 | 国際政治

 トランプ大統領の‘中国ウイルス’発言に対して、新型コロナウイルスのパンデミック化の責任を回避したい中国は怒りを露わにしております。しかしながら、中国が全世界に同ウイルスをばら撒いたのは動かしがたい事実であるため、同ウイルスの脅威にさらされている諸国では中国や中国人に対するヘイトも報告されるようになりました。

人種・民族差別にことさらに敏感に反応するマスメディアは、こぞってチャイナ・ヘイトを抑え込もうと必死です。日本国内では、アジアの人々の見分けがつかない欧米諸国では、中国人差別はアジア人差別となり、日本人もヘイトの対象となるとして、日中一体論を以って中国人に対する反感を鎮めようとする論調も散見されます。もっとも、たとえ同論理を以って日本国内で嫌中感情を押させたとしても、欧米諸国の現状が変わるわけではありませんので、手法としてはあまり意味がないように思えます。それでは、何故、中国は全世界の人々から嫌われているのでしょうか。

好悪の感情とは、外部に対する反応として自然に心に備わるものであって、表面を取り繕うことはできても、自らの内心にあってコントロールすることは困難です。好悪の感情を持たない人は凡そこの世には存在しておらず、世間一般では悪しきこととされながらも、‘憎しみ’は、当たり前の反応なのです。そして、人々に‘憎しみ’という感情を引き起こす要因を探ってみますと、それは一つではないようです。

第1の要因は、不当なる被害や損害の発生です。人とは、理由もなく自らの生命、身体、財産、名誉、人格等を他者から傷つけられたり、奪われたりする場合、その傷つけた相手に対して‘憎しみ’の感情を抱きます。この感情は半ば条件反射的でもあり、刑事事件の被害者は、にこやかに姿を見せることはなく、犯人に対する怒りや憎しみに満ちた顔で、犯人の逮捕や処罰を人々に訴えるものです。

第2の要因は、自らの思い通りに他者が行動しなかった場合です。社会一般において、人は他者に対して何らかの期待を寄せるものです。しかしながら、他者にも自らの行動を決める意思も自由もありますので、自分が望むようには動いてはくれません。この結果、自分自身が被害や損害を受けるわけではないものの、期待に反した行動をとった他者に対して好感を持てなくなるのです。他者の期待に添わなかった人は、‘何も悪いことをしていないのに’一方的に憎まれてしまうのです。なお、自分自身が‘こうなりたい’と思う自己の理想像に至らなかった場合、自己嫌悪という感情に苛まされることにもなります。

第3の要因は、自他の相違です。人とは、自らの常識や意識、倫理観等に照らして、それとは異なる言動を行った他者に対しても、嫌悪の感を持つ傾向にあります。人種・民族差別反対や多様性の尊重は、主としてこの要因に基づいています。この要因にあっては他者の基本的な自由や権利を害するわけではありませんので、自らとの違いを以って他者を不当に扱うことは、倫理・道徳的に責めを負うべきとされているのです。

第4に指摘し得る要因は、嫉妬心です。人には他者よりも優りたいとする欲望、あるいは、自らの劣っている点については引け目に感じる劣等感があるものです。‘憎しみ’とは、こうした他者との比較において生じる場合があり、自らよりも優れている人、美点を持つ人、あるいは、自らのコンプレックスを刺激する人に対しては、その人がどのような人柄であれ、憎しみの対象としてしまうのです。

以上に簡単に憎しみの感情が生じる諸要因について分類してきましたが、‘ヘイト’もまた、必ずしも全面的に否定できない側面があります。特に第一の要因については、悪を憎む感情、すなわち、正義感とも解されますし、仮にこの憎しみの感情が備わっていなければ、この世の中は、他者に危害を加える凶暴な者や他者の自由や権利を侵害する邪悪な者が大手を振って歩く犯罪天国となってしまいましょう。

それでは、何故、中国は憎まれるのでしょうか。今般の中国のケースを分析してみますと、マスコミは、第3の要因を以って中国に対するヘイトを倫理・道徳的に批判していますし、中国自身は、その中華思想から、自らがヘイトされる理由は、第4の要因にあるとみなしているかもしれません。しかしながら、中国に対する‘ヘイト’は、主として第1の要因に基づくように思えます。新型コロナウイルスの諸外国への‘一時感染’は、中国の指導部が、危険情報を隠蔽した上に全国民に対して海外渡航の禁止措置をとらなかったところにあります。言い換えますと、日本国を含めた全世界の諸国の国民の命と健康に甚大なる被害を与えたのです。こうした事実がある限り、マスコミ等を動員して世論誘導を仕掛け、中国に好意を持つように働きかけても、それは無理というものです。

加えて、中国指導部の自己中心的な行動は、第2の要因を満たしてもいます。パンデミックの震源地となり、かつ、適切な措置をとらなかった上に、謝罪することもなく居直っているのですから。中国は、他国諸国の新型コロナウイルスに対する措置や対策をあげつらって反省を促したり、アメリカ起源説を以って責任転嫁さえ試みています。また、ようやく中国政府も15か国に対して渡航禁止措置を発令しましたが、この措置は遅すぎますし、日本国を除外している点は‘嫌がらせ’ととられても致し方ありません(日本国側は中国からの渡航を全面的に禁止したい…)。常識から外れた行動で他国の期待を悉く裏切ってきたのですから、その傲慢で利己的態度は、憎しみの火に油を注ぐようなものです。


いささか理屈っぽくなりましたが、中国は、自らが加害者であるが故に嫌われているという事実を真摯に受け止めるべきなのではないでしょうか。願わくば、自らの罪の深さを自覚し、自らの手で、こうした世界大の被害の拡大を齎す元凶となった一党独裁体制の店じまいをしていただきたいと思うのです。


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東京オリンピック中止の賠償問題

2020年03月20日 16時15分19秒 | 国際政治

 アメリカのトランプ大統領が今夏に予定されている東京オリンピック・パラリンピックの延期を示唆したことで、同大会の中止は現実味を帯びてきました。新型コロナウイルスのパンデミックを前にして、既に国際社会はスポーツの祭典どころではなくなっているようです。明日の命さえ知れなくなっているのですから。日本国内で実施された世論調査の結果でも、過半数を超える国民が予定通りの開催は難しいと見ています。

 内外の空気がオリンピック中止に傾きつつも、開催地である東京都も日本国政府も、同大会の中止を決断しかねているようです。もちろん、開催地の意向のみで決定されるわけではなく、最終決定権は主催者であるIOCにあるのでしょうが、ネット上にあって日本国側が中止に踏み切れない理由の一つは賠償問題があるとする指摘を目にしました。開催都市とIOCとの間で締結されている「開催都市契約(Host City Contract)」には、IOCは大会中止に伴うあらゆる賠償責任を免責されるとする条項があり、このため、開催国である日本国に賠償責任が生じるのではないか、というのです。つまり、日本国側は賠償責任を負う事態を避けるために、大会国中止を言い出せないでいる、という説明になります。

そもそも、現代オリンピックとは、人類への貢献を目的に崇高なアマチュア精神に基づく大会として始まっています。プロではなくアマチュアによる大会であれば、賠償責任なるものは本来存在し得ないはずなのです。参加国は、自らの国からスポーツに秀でた国民を選んで国家代表として大会に送り出すものの、選手団の参加は自発的なものであって、その費用も自己負担が建前です。喩えて言うならば、村祭りが雨天や災害等によって中止になった場合、その賠償責任は誰にも生じないのと同じことです。

しかしながら、IOCはサマランチ会長が就任したのを機に、商業主義へと大きく転換してゆくことになります。IOCは、資金を拠出した協賛企業にオリンピックのエンブレムやロゴ等の使用権を独占的に許す新たな制度を考え出し(商標化…)、収入源を広げます。今では、オリンピックの五輪マークを想起させるようなデザインを使おうものなら、知的財産権の侵害としてIOCから訴えられてしまいます。村祭りに喩えますと、この措置が如何に奇妙(‘がめつい’…)であるのか理解できます(村のエンブレムを村民は自由に使えない…)。加えて近年、各国の放送局に‘販売’される放映権料も跳ね上がっており、今般、日本国のNHKがIOC支払う金額も凡そ6000億円に上ります。また、多種多様な競技を種目とするため(東京大会では史上最大の33競技・339種目を予定…)、観戦チケットの販売から得られる収益も莫大であり(ただし、黒字分についてはIOCの取り分は20%…)、IOCは、いわばイベントの興行主と何ら変わらない存在となったのです。しかも、オリンピック誘致の裏にはIOCの委員をターゲットとした巨額のマネーも動いており、IOCの腐敗体質は常々問題視されてきました。

その一方で、オリンピックが国威発揚のために利用された歴史もあり、国家の側も、メダル獲得や国際舞台での自国選手の活躍に期待して、選手の育成や強化に国家予算をつぎ込んでいます。開催国ともなれば施設や交通インフラの建設費等を含めた財政負担は莫大であり、東京大会にあっても、誘致に際しては6000億円と見積もられていた予算は既に凡そ5倍の3兆円に膨らんでいます。オリンピック開催による波及的な経済効果の試算によって巨額予算は正当化されていますが、費用対効果のトータルにおいてプラスとなるのかは怪しいところです。国や地方自治体が開催期間である16日間で3兆円の投資を回収できとは思えず、結局は、開催地側の財政にあっては支出超となる公算が高いのです。

以上に述べてきた諸点を考慮しますと、大会中止によって甚大な損害が生じるとすれば、3兆円規模の予算を投じてしまった日本国をおいて他にありません。次いで収益源を失ったIOCということになりましょう(既に支払われた放映料等は返還へ?)。その一方、各国政府の国費から支給されるオリンピックに向けた選手強化費は他の国際大会にも活かされますので、必ずしも無駄にはならないかもしれません。そして、これらの損害の大多数は、オリンピックが商業主義に走ってしまったが故に生じたものであり、先に述べたように、オリンピック精神の原点に返れば存在してはならないものなのです。

 それでは、日本国側には、契約上の賠償責任が生じるのでしょうか。「開催都市契約」の第66条には、確かにIOCの免責が記されています。如何なる理由による中止や契約終了であれ、開催都市、NOC、並びにOCOGはIOCに対する損害賠償請求権を放棄するとされており、東京大会のケースでも、中止による損害の賠償をIOCに求めることはできません。

その一方で、同契約には、第三者からのIOCに対する賠償請求等に関する開催都市の義務についても記述があります。この部分が問題となるのですが、仮に第三者がIOCに対して中止に伴う損害賠償等を求めた場合、開催都市、NOC、並びにOCOGが‘補償’するとしているのです。同契約書にある‘indemnify and hold harmless’は、英文契約ではしばしば補償条項において使われる表現らしく、通常、一方のみに補償義務を負わせるのはアンフェアなため、こうした契約文章は修正に付されるそうです(東京都は修正を求めなかったのでしょうか…)。何れにしても、この条項に従えば、東京都、JOC、並びに組織委員会が‘補償’責任を負うことになるのですが、‘補償’は金銭的な賠償や肩代わりと同義であるのか解釈が分かれるでしょう(上記フレーズの前に‘undertake to’があり、解釈の幅が広がる…)。また、上述したように実際の損害は日本国側とIOCに集中しますし、建前としてはアマチュアリズムが原則ですので、IOCに対して法的な根拠を以って賠償等を請求する‘第三者(参加国、民間企業、放送局、あるいは、選手?)’が出現するとも思えません。なお、仮に、無条件に開催国側が中止に際して生じる全損害の賠償責任まで負わされるならば、今後、オリンピックの開催地に立候補する国は消滅することでしょう。

このように考えますと、賠償問題は然程に心配することではなく、オリンピックの中止とは、日本国にとりましては損害の受忍を決断することにあるように思えます(延期であれば、損害はより小さくなる…)。新型コロナウイルスのパンデミック化を前にして日本国民の多くは、全人類の命にかかわるのですから、‘やむを得ない’としてこの決断を受け入れるのではないでしょうか(そもそも、どの国も選手団を派遣できないかもしれない…)。そして、仮に第三者、あるいは、IOC自身が損害賠償を求めるならば、その請求先は日本国ではなく、開催中止原因となった同ウイルスを開催都市に拡散させた中国となるはずですし、日本国並びに東京都もまた、中国に対して損害賠償を請求できる立場にありましょう。

オリンピックが商業ベースの興行と化す一方で、人々のスポーツとの接し方も多様化した今日、オリンピックの公共性、アマチュアリズム、IOCの役割、国家や開催都市の費用負担、開催都市や国の責任等の諸問題も開催地契約改の正テーマとして議論に付す必要があるように思えます。新型コロナウイルスのパンデミック化は、経済や社会のみならず、オリンピックというシステムの在り方をもその根底から問うているように思えるのです。


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戦争の口実になりかねない習主席の起源追及指令

2020年03月19日 11時23分50秒 | 国際政治

 遂に世界的なパンデミックの宣言される中、新型コロナウイルスをめぐる米中間の軋轢も高まっております。中国が米軍起源説を示唆してアメリカへの責任転嫁に躍起になる一方で、アメリカもまた、‘武漢ウイルス’あるいは‘中国ウイルス’と呼称するなど、中国の無責任な態度に憤を隠してはいません。現状では言葉の応酬に留まっているのですが、中国の国柄を考慮しますと、米中間の戦争にまで発展しかねない危うさを孕んでいるように思えるのです。

 中国が新型コロナウイルスは外部から武漢に持ち込まれたとする説を唱え始めたのは、2月下旬頃のことです。最初は、確か中国の政府系研究機関が発生地は武漢の海鮮市場ではないとする調査結果を発表したと記憶していますが、発言者のレベルは段々と上がり、今では、中国の頂点に君臨する習近平国家主席が起源を調査するように命じております。そして、中国外交部の趙立堅副報道局長が米軍持ち込み説をツイートしていますので、習主席の指令も、米軍起源説を下敷きにしていることは容易に推測されます。

 ここで注意を要する点は、中国側は、本国の米国で感染していた民間のアメリカ人が武漢を訪問し、同ウイルスを持ち込んだ、とは言ってはいないことです。自動車産業をはじめ中国ハイテク産業の集積地の一つでもあり、内外の企業が拠点を設けている武漢という土地柄からすれば、中国側は、アメリカ人ビジネスマン、アメリカ人従業員かその家族、あるいは、観光客が持ち込んだと主張しそうなものです。しかしながら、中国側は‘米軍’と名指しており、敢えて‘米軍’と特定した点は無視できないように思えます。

 米中対立がエスカレートしているとはいえ、米中間の軍事交流が全く遮断されているわけではなく、両者が接触する機会は皆無ではないのでしょう。実際に、10月18日には武漢で軍人オリンピックが開催されており、米軍チームも参加しています。中国の主張には同オリンピックの存在があるのでしょう。

それとも、最有力説である武漢のウイルス研究所からの流出説を打ち消すための、苦肉の策なのでしょうか。武漢ウイルス研究所によるキメラウイルスの作成は、確かにノースカロライナ大学等のアメリカの研究機関との協力の下で行われています。キメラウイルスを構成する馬蹄コウモリ由来のウイルス(SHCO14)の棘突起タンパク質のDNA配列とプラスミドを提供したのが、武漢ウイルス研究所に所属する石正麗氏なのです。今日、遺伝子工学は人々の想像をはるかに超えるスピードで発展し、既に‘ウイルス工学’なる分野も登場しています。研究の世界では、人工ウイルス合成技術も出現しているのです(切り張りではなく塩基配列の組み立てによる合成ウイルスの作成が可能に…)。ノースカロライナ大学の研究チームによれば、中国がオンラインで公表した新型コロナウイルスの遺伝子コードをコンピュータで読み取り、民間の合成受託企業に注文すれば、同ウイルスを人工的に造ることはできるそうです(実際に計画中…)。こうしたウイルス工学の急速な発展、並びに、上記のキメラウイルス作成の実験場所がノースカロライナ大学であった点からしますと、中国のみならず、アメリカもまた新型コロナウイルスを作成し得る能力を有してはいます。しかしながら、新型コロナウイルスは、雲南菊頭コウモリに由来するとされますので、上述したキメラウイルスとは異なりますし、アメリカ起源説をとるのであれば、逮捕されたハーバード大学教授のチャールズ・リーバー博士と武漢理工大学との関係や中国人による米加等の研究所からのウイルス盗取事件こそ注目されるべきです(この場合には、中国は、アメリカに責任を転嫁することはできない…)。

何れにしましても、米軍起源説を主張する以上、中国は、暗にアメリカの生物兵器使用を糾弾していることとなります。事実はどうであれ、‘アメリカが意図的に武漢に同ウイルスを散布した’と主張して責任を追及しようとしているのです。しかも、中国側は、その発生場所を‘米軍施設’とも表現しています(アメリカの研究機関で作成された有毒ウイルスが米軍施設内において生物兵器として大量に培養された?)。

 米軍起源説を確定させることが習主席の目的であるとしますと、その先に予測されるのは苛烈な対米批判です。習主席は、‘科学的な調査’を指示していますので、中国は、高度に発展したウイルス工学を駆使して証拠を‘捏造’する、あるいは、敢えてアメリカから盗取したウイルスを世界各地に散布することで濡れ衣を着せるかもしれません。中国には‘綸言汗の如し’という格言がありますが、現代の‘皇帝’の言葉も一度発せられると取り消しがたいのです。そして、アメリカが生物兵器を用いて中国を攻撃したとして、アメリカに対して宣戦布告するかもしれないのです。戦時体制は、独裁者にとりましては自らの権力基盤を固め、国民監視体制をより一層強化する格好の口実ともなりますので、情報隠蔽体質が内外から厳しい批判されている習主席には、戦争を起こしたい動機があるのです。

 感染病拡大の脅威は有事に匹敵するとの認識も広がりましたが、殊、生物兵器と直結するウイルス工学が発達した今日あって、本物の戦争を誘発しかねない状況が出現しています。昨日、アメリカではトランプ大統領が国防生産法を発動しており、成り行きによりましては中国が戦争を仕掛けてくる事態をも考慮に入れた決断である可能性も否定はできないように思えてくるのです。

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新型コロナウイルス禍を機に内需ベースのグローバリズムへ

2020年03月18日 14時08分10秒 | 国際政治

 中国武漢発の新型コロナウイルスは、ニューヨーク証券取引所でのダウ平均の大暴落を引き起こす元凶となり、中国経済の世界大での影響力を全世界に見せつけることともなりました。‘ウイルス恐慌’なる表現も登場していますが、この現象は、80年代以降に急速に進展したグローバリズムが、その名とは裏腹に実のところ‘チャイニズム’であったことを示しています。グローバリズムとは、中国の改革開放路線への転換と凡そ軌を一にしており、中国の国家戦略と安価な労働力、輸出に有利な為替相場、並びに、緩い規制を求めた企業の利益が合致した中国の‘世界の工場化’こそその実態であったのかもしれません(もちろん、その背後では、投資リターンの最大化を求める金融界も推進…)。

 経済活動を介した一つの世界規模の自由市場を目指したグローバリズムの実態が‘チャイニズム’であったとしますと、新型コロナウイルス禍によって露わとなった中国の国家体制とその本質的な欠陥は、同国が、世界経済の中心にあってはならない、あるいは、同国に依存してはならないとする認識を深めさせるきっかけとなりました。そしてそれは、トランプ政権の誕生によって既に潮流となりつつあったグローバリズム見直し論を後押しするように思えます。同路線をそのまま進みますと、全世界が一つの‘勝者総取り’の市場となり(現状ではグローバル市場には独占等を取り締まる国際競争機関は存在していない…)、人口規模に優る国の企業が圧倒的に有利となることは目に見えています。また、そもそも全世界レベルで完璧な国際分業が成立するはずもなく(日本国は中国富裕層向けの観光地か高級農水産物、森林や水資源の提供地?)、一帯一路構想の元で全世界が単一の‘中華圏’に併呑されてしまう展開も予測し得るからです。あるいは、GAFAとの世界二分割となるか、最終的には一騎打ちとなるのでしょうか。

 グローバリズムの行く先が見えてきた段階にあって、新型コロナウイルス禍によるサプライチェーンの分断や中国製品の輸入減少は、それが一時的なものであれ、一国の経済が他国に依存するリスクを現実のものとしました。しかも、今日のグローバリズムには、古典的な自由貿易とは異なり、サービスの自由移動も伴いますので、インフラを掌握した米中のプラットフォーマーによる経済・社会支配も絵空事ではなくなっています。特に情報・通信分野において基盤システムが海外企業に抑えられてしまいますと、国家の機密情報を含め、あらゆる情報が海外に筒抜けとなり、それは、自国の独立性をも危うくする政治的リスクにもなりかねないのです。

加えて、の問題は、軍事面にも当てはまります。経済的な相互依存は戦争を不可能とし、自ずと平和をもたらすとする説がありつつも、逆から見ますと、他国への経済的な依存は、相手国に自国の運命を握られることを意味します。かつて、中国の軍備は日米といった先進国の先端技術や部品輸入に頼っているため、貿易が遮断されれば戦争はできないとされていましたが、中国がこれらをおよそ内製化した今日、自由主義国の防衛兵器も中国製品なくして製造ができない状況となりますと逆の状況が発生し、中国からの攻撃の前にして敗戦は必至となりましょう。戦争遂行能力とも言える生産力が削がれるのですから。

 新型コロナウイルスの前後では人々の意識も大きく変化しており、各国の中国に対する警戒感は以前に増して強まっております。そして、グローバリズムの実態が‘チャイニズム’である点を踏まえますと、今後の国際経済システムは、まずは内需をベースにする方向に転換すべきではないかと思うのです。内需ベースとは、外需や外国企業に依存しなくとも、一先ずは国民生活が維持し得る状態を意味します。つまり、基本的には安定的な内需の土台の上に外需を乗せる二段構造となります。このためには、WTOの枠組みにおける通商ルールの大胆な転換を含めた新たな国際経済体系の構築を要します。

例えば、農産物分野、とりわけ、食糧安全保障の基礎となる主食穀物を自由化対象から外す、生活必需品など国民の生活基盤となる製品市場に対しても保護政策を認める、輸出競争力強化ではない、政府の情報管理や幼稚産業の育成を目的とした情報・通信分野での自国企業優先や政府補助を許容する、政府調達分野については海外企業を内国民待遇から外すといった方策が考えられます。加えて、競争法の分野にあっても、国内シェアの50%を超える海外企業による自国企業の株式取得や買収には制限を設けるといった方法も検討されましょう。これらの措置はほんの一部でしょうし、細かい点では調整を要するのでしょうが、政策目的としては内需ベースの基礎固めにあります。

第二次世界大戦後、自由貿易原理主義がスケール・メリットを追求するグローバリズムへと合流していった結果、今日、全世界の諸国は、経済大国と化した中国による世界支配の脅威に直面すると共に、ITによる世界の『1984年』化や『マトリックス』化のリスクに苛まれることとなりました。人類がこれらの恐怖から解放されるためには、弱肉強食を正当化しかねないグローバリズムの牙を上手に抜き、人類の多様性と親和する国民国家体系と調和させる必要があります。そして上記の保護措置は、個人レベルで言えば、‘基本的自由と権利’の保護、あるいは、独立した一個の人格の尊重に該当するのです。これまでの国際ルールは、‘ルールがないのがルール(自由化一辺倒…)’でしたが、国家としての存立基盤の維持を相互に認めることこそ、国際社会における真の意味でのルールなのではないかと思うのです。

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新型コロナウイルス対策の経済支援は知恵を絞って

2020年03月17日 11時29分37秒 | 国際政治

 日本国政府は、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐべく、国民に対して不要不急の外出を控えるなど協力を呼び掛けており、国民の多くも自衛し得る範囲で最大限の努力を払っています。外出自粛が国民の間でも浸透してきたため、観光をはじめサービス産業は打撃を受け、新型コロナウイルス倒産も発生する事態となりました。経済へのマイナス影響は株価下落にも表れ、日本経済の先行きにも不透明感が漂っています。

 リーマンショック時レベルの経済の縮小もあり得るため、日本国政府は、後手後手批判を払拭するためにか、‘今度は先手を’とばかりに経済支援策を矢継ぎ早に打ち出しています。しかしながら、この先手策、今度は逆に、先走りとなって裏目に出るリスクもないわけではないように思えます。

 その第一に指摘すべき点は、新型コロナウイルスの毒性の如何によって今後の経済システム自体が激変する可能性です。現状では、一先ず、日本国政府は、感染者の回復、並びに、無症状を以って同ウイルスの感染力は消滅するものと見なしています。この立場は中国も同様であり、3月10日に習近平国家主席が抑え込み宣言を発したのも、少なくとも湖北省以外の地で感染者が限りなくゼロに近づけば、最早同ウイルスはこの世から消滅したに等しいと考えたからなのでしょう。しかしながら、同ウイルスがステルス型であるならば、終息宣言は時期尚早となります。HIVのみならず、水疱瘡を引き起こすウイルスも、加齢等により免疫力が低下すると帯状疱疹を発症します。ステルス性が認められる場合には、一過性の疫病として扱うことはできず、応急措置的な支援は最悪の場合には全くの無駄になってしまう可能性もあるのです。

 第二の理由は、生産や消費が減少している局面での金融緩和は、インフレ、つまり、2%の政策目標をもゆうに越える物価上昇を招きかねない点です。ニューヨーク証券取引所では記録的な下げ幅となりましたが、株価暴落の懸念を受けて、各国の中央銀行とも金融緩和措置をとりました。株価対策としての一定の効果は認められるのでしょうが、緩和マネーの行く先には警戒が必要です。しかも、中国からの輸入品の減少による供給不足に加えて、各国とも、消費者の危機意識による備蓄志向から特定商品の買走り現象が起きており、トイレットペーパーといった日常品の品不足も深刻です。しかも、日本国内では、一時的であれお米が店頭から消える事態も起きており、今後とも、直接的な関連性の薄い他の商品分野にも値上がり現象が波及する怖れがあります。

 第三に挙げるべき懸念は、中国による新型コロナウイルス禍を機としたグローバル戦略です。3月11日以降、中国では休業状態であった生産を徐々にではあれ再開させており、トップから‘安全宣言’が出された以上、指導部は‘世界の工場’を誇った生産力を以前の状態にまで回復させようとするでしょう(労働力が不足する場合には、AIやロボットの導入も…)。その一方で、凡そ2か月間に及ぶ遅れを取り戻し、かつ、再躍進を図るために、他国の生産力を落とす戦略をとるかもしれません。その際、中国は、他国に自国の措置を範とするように強く求め、強制的な外出の禁止や工場の生産停止を推奨するかもしれません。つまり、中国型の対策の採用が、その実、生産力低下への誘導策となる可能性も否定はできないのです。生物兵器の使用目的は、戦場での敵兵を対象とした使用のみならず、相手国政府に財政負担をかけさせて破綻に追い込んだり、生産力を破壊することにあるとされています。同ウイルスの起源の真相はどうあれ、過度な財政出動や生産停止措置は、生物兵器使用の効果を自らで実行するようなものにもなりかねません。しかも、他国の生産が停止している間に一早く生産を再開させた中国は、各国における品薄状態をチャンスとしてこれまで以上に積極的な輸出攻勢をかけてこないとも限らないのです。

 以上に幾つかの問題点を挙げてみましたが、何れも否定しがたいリスクです。こうした事態に対しては、政府は、先手よりも慎重な見極めが必要なように思えるのです。第一の懸念については、新型コロナウイルスのステルス性に関する正確な情報を把握すると共に、回復後の感染リスクをも消滅、あるいは、激減させる治療法や特効薬、並びにワクチンの開発を急ぐべきと言えましょう。もっとも、疫病が終息したとしても、新型コロナウイルス禍は、現経済システムの脆弱性を晒すこととなりました。何れにせよ、原状復帰は難しく、根本的な経済システムの見直しを要することとなりましょう。この点を踏まえますと、新型コロナウイルス禍は時代を画する転換点として捉え、経済支援策は、新たな経済システムへの移行支援を目的とするべきかもしれません。
 
第二の問題については、日本国を含め、各国とも生産と消費を維持することで、まずは金融界のパニックを沈静化する必要があります。その一方で、実体経済は、脱中国に向けたサプライチェーンの再編成に取り組むと共に、内需の喚起に努めることが肝要です。この点は、第一の問題点と関連しています。また、新型コロナウイルスがステルス型であった場合には、観光業、飲食業、接客業などのサービス産業が、衰退産業となる可能性も否定できないため、新たなビジネスモデルの開発や代替産業の育成も重要な課題となるでしょう。また、観光業については、中国からのインバウンドに期待するのではなく、国内観光客を収益の基盤とする持続可能な形態への回帰を試みるべきかもしれません。そして、インフレを防ぐべく、政府も中央銀行も緩和マネーが商品市場に投機マネーとして流入しないよう監視を強化すると共に、国民の生活を護るために便乗値上げ等は厳重に取り締まるべきです。

第三の問題についても、第二と同様に生産と消費の維持し、経済の歯車を止めないことこそ、生物兵器使用効果、すなわち、自滅を招かないための有効な対処法です。この点、消費を維持するため減税策は、多くの国民も支持することでしょう。加えて、短絡的な‘ばらまき’や過度な財政出動は控え、財政破綻を招かない程度に抑制する必要があります。金融危機に加えて財政危機も重なれば、日本国のみならず、多くの諸国は‘戦わずして敗北’することになりましょう。

新型コロナウイルス禍が中国を原動力としてきたグローバル化の結果であることを認識し、その抜本的な是正を図ることで対処すべきかもしれません。この点、アメリカのトランプ政権によるデカップリング政策こそ先を見越した政策であり、日本国も参考にすべきなのではないかと思うのです。

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