クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生城主は上杉謙信から“藤岡”を与えられる予定だった?

2020年03月19日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
永禄13年(1570)1月5日日付の宛名のない上杉謙信(当時は輝虎)の起請文があります。
この起請文の大きな特徴は、
謙信の花押の表に血痕があることです。
この血判はおそらく謙信自身の血液でしょう。

佐野城攻めに参陣した某者に対し、
「先忠の験いよいよ感じ入り、輝虎存命の内は忘失あるまじく候」として、
「藤岡」の地を与えると書き綴っています(「上杉家文書」)。

今度当口え出馬処、世間不見合則着陳(陣)、先忠之験弥感入候、
輝虎存命之内者、忘失有間敷候、然者、任先約、藤岡可出置候、
併無拠備ニ候者、相当以替地可申合候(中略)
   永禄十三年庚午
     正月五日      輝虎(花押・血判)

この「藤岡」の地は、
上野国(群馬県藤岡市)や下野国(栃木県栃木市旧藤岡町)が比定されます。
ここに見える「当口」は佐野城が比定されるため、
その近隣に所在し、佐野城攻略のネックともなっていた下野国の藤岡城が可能性としては高いと思われます。

では、この起請文は誰に宛てられたものだったのでしょう?
実は、羽生城主“広田直繁”及び皿尾城主“木戸忠朝”兄弟の名が挙がります。
「謙信公御書集」には

  広田出雲守殿
  木戸伊豆守殿

と、宛所の名前のみが記された断簡が所収されており、
これが起請文とつながる可能性を帯びているのです。

直繁・忠朝兄弟は、上杉氏に一度も離反することはありませんでした。
謙信の佐野城攻めにも参陣。
また、同年2月28日に謙信は広田直繁に館林城を宛がっており、
その文言は先に見た起請文と似ています。
とすれば、起請文と宛名のみの断簡は元々一つだった可能性が濃厚です。

なお、起請文の続きには、
藤岡の備えがよんどころなければ、同地相当の替地を宛がうとしています。
実際、「藤岡」が広田直繁・木戸忠朝に手に渡ることはありませんでしたが、
宛て行われたのは館林領です。
しかも、広田直繁のみの拝領で、
忠朝は皿尾城から羽生城に入ったと見られます。

館林城の宛て行いは、何も藤岡に不備があったからではないでしょう。
越相同盟の成立により、上杉氏と後北条氏の争いは一旦落ち着いたように見えたものの、
いつ離反するともわからない金山城主由良氏や忍城主成田氏らの国衆の抑制として、
「忠信」の厚い広田直繁に館林城を与えたことが考えられます。
つまり、楔を打ち込むがごとく直繁を配置したのです。

これは、兄弟にとっても羽生城にとっても大きな転機となりました。
あえて「もしも」の言葉を使えば、
直繁への宛て行いが館林城ではなく藤岡城だった場合、
その後羽生城が辿る歴史も変わっていたかもしれません。

直繁は、館林領の善長寺で長尾氏に謀殺されることなく存命。
とすれば、全く別の展開があった可能性は否めず、
後北条氏による武蔵国平定も、天正2年(1574)ではなくもっとあとになっていたでしょうか。

藤岡城主広田直繁もしくは木戸忠朝の誕生。
それは幻のものとなりました。
そもそも、起請文は直繁・忠朝兄弟には送られなかった可能性があります。
血判を捺したのになぜ送り届けられなかったのか?
宛名が切り離されているのはどうしてなのか?
本当に直繁・忠朝宛ての起請文だったのか?

書き記された文字の向こう側。
血判を捺した上杉謙信の胸の内。
そこには知られざる物語が眠っているかもしれません。
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2 コメント

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Unknown (hisaizuraiden)
2020-03-19 20:52:57
ご無沙汰しております。皿尾城久伊豆大雷神社の青木です。しばらくぶりの羽生城を巡る戦乱の縮図のお話を拝読させて頂き、嬉しく思います。様々な文献を時間をかけて研究されているご様子が伝わってまいります。歴史にたらればはないといいますが、文献一つで当時の状況を読み解き、想像を膨らませることで、歴史のながれがまたより身近に感じることができました。
ここ数年かけまして皿尾城土塁跡を少しずつ整備しております。氏子の皆様のご協力にて、竹藪を伐採し、裏の道路も舗装されました。行田市内でも開発から取り残された場所でありますが、貴重な史跡として残してまいりたいと思っております。
御多忙とは存じますが、お近くにいらした折には足をお運びいただければ幸いです。
Unknown (クニ)
2020-04-20 23:29:27
ご無沙汰しております。
実は、昨年の初冬くらいから戦国期をテーマにした原稿を本腰入れて書いています。

戦国期は面白くて難しいですね。
調べれば調べるほど難しさを実感します。

改めて資料を読み直していますが、解釈の仕方や捉え方が以前とは変わってきており、書きあぐねることが多々あります。
20代のときに出会った「皿尾城主木戸忠朝」は、当時は優しく迎え入れてくれましたが、
その後知れば知るほど難解さが増している気がします。
新資料もあるので、先人たちの研究成果に敬意を払いながら、
自分ならではの歴史像が描けたらいいなと思っています。

20代のときに貴宮へ初めて参拝しましたが、整備が進んでおられるのですね。
整備前の堀に入って写真を撮ったのが懐かしいです。
そろそろ周囲の田んぼに水が入る頃と思いますが、
「深田」に囲まれた要害然とした皿尾城址の景色が個人的には好きです。
境内の土塁もしばらく目にしていません。
新型コロナウィルスが連日報道され外出がなかなか難しいご時世となっていますが、
落ち着いた頃に改めて参拝させていただければと思います。

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