クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

年末年始は本を片手に史跡めぐり? ―資料展示「越後の龍 上杉謙信」―

2018年12月30日 | ふるさと歴史探訪の部屋
12月30日現在、年末年始で休館ですが、
埼玉県立熊谷図書館において「越後の龍 上杉謙信」と題して、
上杉氏や謙信、またゆかりの人物や城に関する資料(蔵書)を集めた展示を開催中です。

これは、埼玉県立嵐山史跡の博物館で開催中の企画展「越山―上杉謙信侵攻と関東の諸城―」に関連しての展示なのでしょう。

展示資料リストを見ると、熱い本たちが一堂に会しています。
80年以上、羽生城研究に命を燃やした冨田勝治先生の『羽生城―上杉謙信の属城―』もピックアップされていました。
そしてガラスケースに展示。
20代の頃、心躍った本もたくさん展示されており、
研究者たちの息吹が伝わってくるようです。

ところで、年末年始は読書と史跡巡りが比較的可能な時期です。
振り返っても、忘れられない史跡との出会いや、
後年とても影響を受けた本を読んでいたのも年末年始だった気がします。

1年の中でも、世界中がお祝いムードに包まれる時期です。
どちらかと言えば、僕は内省的に過ごしたい方で、
親戚挨拶や初詣、人と会う時間以外は史跡巡りや読書、
もしくは執筆などで世界を深めたいと思って過ごしてきました。

言っても、20代の頃は時間がありました。
自転車を走らせて神社参詣のハシゴをしたり、
コタツに入って1冊の本を書き写したりと、
お酒は飲まなくても本と史跡があれば十分酔えたものです。
その酔いはいまも続いていて、二日酔いどころではありません。
二十年酔いはしているでしょうか。

歳月は流れ、まつやま書房さんから声がかかって2冊の本を上梓しました。
ふと思いました。
自分が本と過ごした年末年始のように、
楽しい思い出として残っているように、
自分の出した本が誰かのそばにいられればいいな、と。
そして、それをもとに埋もれた歴史や史跡に会いにいくきっかけになれれば、
これ以上の喜びはありません。

『歴史周訪ヒストリア』は、羽生・加須・行田の“城”や“古墳”、“神社仏閣”、
『古利根川奇譚』は、羽生から杉戸町にかけて残る“伝説”や“河畔砂丘”について取り上げました。
自分で書いたものだからというわけではありませんが、
もしも受け手だったならば、本を片手に史跡巡りをしたくなる気がします。
(そもそも、自分自身が巡って楽しいから本に書いたのですね)

2018年の暮れは寒波が到来しています。
年末年始はどうお過ごしでしょうか。
実家に帰る人、旅行に行く人、家で過ごす人、勤務する人などさまざまだと思います。
暮れにどんな本を読み、
新年とともにどのような本を手に取るでしょう。

「心に残る本」リストに挙がり、
ガラスケースに展示をしたくなるような本と出会いたいですね。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧吹上町に1基だけ残る前方後円墳は? ―三島神社古墳―

2018年12月28日 | 考古の部屋
旧吹上町(現埼玉県鴻巣市)に唯一残る前方後円墳があります。
その名は三島神社古墳。
墳頂に三島神社が祀られているためその名が付いたのでしょう。

息子は古墳やハニワが好きなので、
クリスマスイヴに旧吹上町と東松山市の古墳へ2人で足を運びました。
娘は発熱のためお休み。

周囲は住宅街で、隔世の感を否めません。
往古はもっと多くの古墳があったはずで、
三島神社古墳は社が鎮座していたために生き残ったのでしょう。

現存しているとはいえ、だいぶ破壊が進んでいます。
墳頂には何基もの石碑が並び、
例え合祀されたものとしても、
古くからこの場所が宗教施設だったことが窺えます。
地元の人には、「古墳」よりも「神社」のイメージなのではないでしょうか。

境内には、石室の一部とおぼしきものが横たわっています。
ということは、被葬者も副葬品はとっくに消えてなくなっている可能性が高いのでしょう。
古墳1基につき、石室が1つだけとは限りませんが、
見た目からしてもう眠っている人はいない気がします。
古墳の築造年代は6世紀後半と推察されています。

ところで、管見によりますが三島神社の鎮座は珍しく感じられます。
氷川神社や久伊豆神社、鷲宮神社ではなく「三島神社」。
祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、商売繁盛や家庭円満、
病気平癒のご神徳があるそうです。

創建は不明です。
ただ、村を開墾した鶴間氏の鬼門除けに祀られた可能性があるとのこと。
同家が勧請したのでしょうか。
明治6年に村社となり、いまに至っています。

息子と訪ねたときは寒風が吹きすさび、
昼間とはいえ長居できませんでした。
古墳よりも、キャラ化しているハニワの方が心をくすぐられるのかもしれません。
帰りたがる息子をなだめ、
後ろ髪を引かれる思いで古墳をあとにしました。



コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「百瀬、こっちを向いて。」から読み解く“青春”の終わり方 ―コトノハ―

2018年12月26日 | コトノハ
記憶は、エピソードのような一幕として残っているのがほとんどではないでしょうか。
数時間あるいは数分の断片的なものが残っている。

まるで詩のようかもしれません。
時系列で描写されることの多い小説とは異なり、
切り取られている一つ一つの出来事。

だから、忘れていることも多いのでしょう。
出来事は覚えていても、そのときどんな時系列のもとにあったのか、
いつの間にか時間は圧縮されています。

だから、そのときどんな精神状態で、誰が不在で、どんなものが間近に迫り、
何を見て、どこを目指して過ごしていたのか、など、
形に残らないそれらは、時間の流れとともに自然と忘れていってしまうものです。

さて、「百瀬、こっちを向いて」は中田永一氏の小説です。
2014年には映画化もされました(舞台化もされたそうな)。

ジャンルは恋愛小説。
主人公“相原ノボル”と“百瀬陽”は「恋人」として演技し、
仮面をかぶって過ごしながらもやがて恋を知り、あるいは失い、
それぞれの想いが交錯しながら進んでいきます。

小説と映画では内容がいささか異なります。
僕はまだ映画を観ていませんが、シナリオは読みました。
結末が異なるとはいえ、
ノボルは百瀬に対してまなざしを変えていくことは共通しています。

一方、百瀬の感情ははっきりとは見えません。
ノボルに真っ直ぐな視線を向けていないことは確かでしょう。
いつも別のところを見ています。
その多くは好きな先輩「瞬」のこと。
屋上に登れば、「雲以外になんにもない」空よりも下を見つめる百瀬。

映画では、30歳のノボルは作家になっています。
作家として初めて世に出した作品のタイトルは『初恋』。
経験に基づくものではないと言っていますが、
百瀬を過ごした季節がモチーフになっている可能性は否めません。

百瀬が全てではないにせよ、
一緒に重ねた時間が彼を「作家」へ導かせたことは想像に難くないでしょう。
シナリオを手がけた狗飼恭子氏は、
「初恋から自由になる瞬間を描こうと思った」と述べています(「シナリオ」2014年6月号、日本シナリオ作家協会)。
ノボルは小説を書くことで、百瀬への恋を精算したとも読み取れます。

「百瀬、こっちを向いて。」の主要人物は4人です。
すなわち、ノボル、百瀬、宮崎瞬、神林徹子。

彼らのそれぞれが影響し合っています。
そのときの選択や人間関係が、
将来の職業や生き方、関係に結びついていると言っても過言ではありません。

一緒に過ごしたのはほんのわずかな時間だったはずです。
でも、彼らのそれぞれの存在と出来事が、未来に大きな意味を帯びています。
そんな「百瀬、こっちを向いて。」(シナリオ)からのコトノハ。
(※同作品の結末に抵触しています)

  徹子「(前略)卒業してからもいろいろあったけど、でも乗り越えられたのはあの頃があったからだと思う」
  ノボル「あの頃」
  徹子「そう」
  ノボル「あの頃が、楽しかったですか? それとも、……」
  徹子「どっちも。相原くんは?」
  ノボル「……、どっちも」

もちろん、4人全てがハッピーエンドではありません。
傷付く者もいれば、気持ちを吹っ切る者もいます。
そのそれぞれが、まるで伏線のようにその後の人生につながっていくのです。

いま過ごしている現実が、
未来においてどんな歴史的意義を持つかなどわからないものです。
その意義を見い出すには、時間の洗礼が必要なのでしょう。

大切に思えても、案外すぐに忘れてしまうもの。
逆に、重要視せずともかえって記憶に留まり続けているものもあります。
4人にとって、その期間がのちにどれほど影響を及ぼすかなど、誰にもわからなかったはずです。

人は生きた時間の分だけ、過去という「歴史」を背負っています。
過去と現実は断絶されるものではありません。
「現実」は積み重ねられた「歴史」の延長線上に存在し、
未来もその向こうへと続いています。

「現実」を肌で捉え、未来へまなざしを向けるには、
過去という歴史が必要です。
未来もまた、歴史を必要としているのでしょう。

でも、人は忘れていく生きもの。
全てを記憶することは不可能です。
忘却は、生きていく上で必要なのかもしれません。

どんな出来事が重要か否かという捉え方をするつもりはありません。
ただ、時間の洗練を受け、強く心に残っている人・出来事もあれば、
滅多に思い出さないものなど、それぞれ差異はあります。

人との出会いは不思議なものです。
もしも出会うのが数年(いや数日?)早かったり遅かったりしたならば、
その存在は全く別のものになったはず。
わずかな時間でも、そのとき、その場所で出会ったからこそ、
強く影響を受けるのでしょう。

いつもどこか遠くを見ている百瀬。
季節が移り変わり、離れ離れになっても、
ノボルはこっちを向いてほしいと願い続けていたように思えます。

一方、百瀬にとってノボルはどんな風に見え、どんな存在だったのでしょうか。
それはノボルの視点である以上、解くことのできない謎です。
その季節にノボルがいたことは、彼女にとってどんな意義があったのか?
その瞳にはどのように映っていたのか……?

ノボルにとって、百瀬は「青春」の象徴と言ってもいいでしょう。
映画では30歳になっている彼は、
もはや「青春」は遠い季節と言えます。
あるいは、ちょうど終わる頃でしょうか。
記憶の場所をなぞっても、どこにも百瀬はいません。

作家になったノボルは、
ノヴァーリスの小説『青い花』を題材にした次回作を構想しているようです。
シナリオでは、
「一番はかないものはなにか?」「不当に所有することよ」
という引用文が2度登場します。

狗飼氏が言う「初恋からの自由」は何を指すのかわかりません。
少なくとも、全てを忘れることと同義ではないように思います。
青春が終わり、大人になったノボルは、
これまでとは別の視点や立場で、百瀬やその季節を見つめていくのかもしれません。

遠ざかり、切り取られた断片として残る記憶たち。
ときには懐かしく、ときには寂しく、
ときには痛みを伴うこともあるでしょうか。
そんな詩のような記憶を抱え、ノボルはこれから言葉を紡いでいく気がします。
「こっちを向いて」という想いを胸に。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今冬、上杉謙信が“嵐山”にやってきた?

2018年12月24日 | 戦国時代の部屋
埼玉県立嵐山史跡の博物館にて、
企画展「越山―上杉謙信侵攻と関東の諸城―」が開催されています。

関東戦国期に心を寄せる者であれば、
直球的なテーマではないでしょうか。
展示構成は以下のとおりです。

1 謙信と越山
2 戦国時代の戦の舞台―城とは何か―
3 上杉謙信の越山と城攻め
4 関東の戦国時代と越山
5 城郭探訪

そもそも越山(えつざん)とは何か?
戦国時代、上杉謙信の関東出陣を意味する言葉です。

当時、小田原城を本拠とする後北条氏が飛ぶ鳥落とす勢いで勢力を伸長していました。
それに押され、関東の将軍「古河公方」を補佐する上杉憲政は、
関東にいられなくなり、越後の謙信を頼ります。
反北条の国衆の要望もあって、
「関東の秩序を取り戻して!」といった感じで謙信のもとへ赴くわけです。

義に厚い謙信です。
永禄2年(1559)に京都の将軍から「秩序を取り戻しない」というお墨付きをもらうと、
翌年に初めて関東へ出陣したのです。
(これ以前に上杉氏の小部隊が関東に入ったことはあります)

越後から関東に入るには、険しい三国峠を越えなければなりません。
川端康成が越後湯沢で小説『雪国』を書いた頃のように、
山を貫くトンネルや汽車があったわけではありません。
山を越えなければならなかったわけで、そのため「越山」と呼ぶわけです。

永禄3年(1560)の越山以来、謙信は何度も関東へ出陣しました。
憲政から上杉氏の名跡と関東管領職を引き継いだこともあり、
関東の旧秩序の回復を大義名分に掲げ、
後北条氏や武田信玄と火花を散らすことになるのです。

そんな時代の大きな流れの中、関東の諸城も影響を免れません。
上杉氏に付くか? 
それとも後北条氏に従属するか?
その選択に迫られ、ときには離反と従属を繰り返すことになります。

そんな中、終始一貫して上杉謙信に付いたのが羽生城(埼玉県羽生市)です。
周囲の城がみんな北条方になびいたにも関わらず、
最後まで謙信を裏切ることなく、後北条氏に抵抗したのでした。

博物館で開催の「越山」にも、そんな羽生城のことが取り上げられています。
写真パネルですが、羽生城の絵図が展示され、
図録の「あいさつ」の背景にも同資料使用されていました。
埼玉県立歴史と民俗の博物館の過去の展示といい、
羽生城が取り上げられる機会が増えているように思います。

近隣の忍城や騎西城は北条方に付き、
特に前者とは干戈を交えたこともありました。
羽生城勢との戦いによって戦果を挙げた者への感状も残っています。
しかし、孤立無援で城の維持が望めないと判断した上杉謙信は、
自らの手で羽生城を落とすのです。
ときに天正2年(1574)閏11月のことでした。

本稿では、羽生城を視点にして書きましたが、
埼玉の諸城が取り上げられています。
羽生城の惜しいところは、遺物や遺構がないことです。
文書や文献に頼らざるを得ません。
考古学的成果はこれからといったところでしょう。

埼玉県立嵐山史跡の博物館における企画展「越山―上杉謙信侵攻と関東の諸城―」は、
平成31年2月17日までの開催です。
展示ゆえ、面白いか否かは個人それぞれの感じ方によりますが、
「越山」と聞いただけでワクワクする方は足を運んでみましょう。

※年末年始を挟むため、開館情報には気を付けましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリスマスの夜は羽生の“砂丘”と“合戦場”へ行く?

2018年12月22日 | 歴史さんぽ部屋
クリスマスの夜、一人自転車を走らせたことがあります。
向かった先は“桑崎砂丘”(埼玉県羽生市)。
“桑崎三神社”と言えばわかりやすいでしょうか。

砂丘は古利根川沿いに連なるように存在しています。
利根川が運んだ土砂や火山灰が強い季節風によって巻き上げられてできたもので、
一般的には「河畔砂丘」(かはんさきゅう)と言われています。

境内に足を運べば、地面が砂地であることを実感するでしょう。
また、古利根川(会の川)沿いを歩けば、地面の高まりに気付くはずです。

河畔砂丘が現存しているのは羽生市だけではありません。
ただ、「中川低地の河畔砂丘群」として最北に位置し、
埼玉県の天然記念物に指定されています。

その指定地は桑崎三神社の境内です。
稲荷社、天神社、八幡社の3柱が祀られているため「三神社」の名前が付いていますが、
元はばらばらに存在していました。

中でも八幡社は“羽生城”にゆかりの深いものです。
会の川を挟んで忍城と干戈を交え、勝った記念に祀られた社と伝わっています。
桑崎地区に「堀の内」という小字があるのは、
川を監視する砦のようなものがあったからかもしれません。

また、「金山」と呼ばれる高まりが存在していました。
伝承によれば、上野国の金山城兵が援軍にやってきて、
そこに陣を張ったためにその名がついたそうです。

忍城勢との合戦や八幡社の創建は伝説の域を出ません。
それを前提として考察を加えるならば、
忍城勢との戦いを越相同盟が崩れたばかりの元亀3年と比定したとき、
後北条氏方だった金山城兵が上杉方の羽生城に援軍に来るはずはありません。
逆に、忍城主成田氏への援軍だったということになります。
とすれば、羽生城勢は、会の川を挟んで忍城勢と金山城勢を相手に戦ったのでしょうか。
八幡社は戦勝記念に建てられたのではなく、全く別の理由があったことも考えられます。

そんな歴史熱に浮かされていた20代の頃、
わざわざクリスマスの夜に桑崎まで自転車を走らせました。
むろん一人遊びです。
クリスマスだからと言って境内でお祭りが開かれていたわけではありません。

神社も砂丘に夜闇に包まれ、寒風が吹きすさんでいました。
人影はありません。
そこにいるのは僕くらいです。
閑散とした寂しい空気に包まれており、
もしパトカーが通ったならば、僕は間違いなく職務質問を受けたことでしょう。

しかし20代。
そんなことが楽しくて仕方ありませんでした。
埋もれた歴史だから価値がある。
そこに光を当てる意義がある。

まぎれもなくときめいていました。
秘密基地を探し出すようなワクワク感に似ていた気がします。
「一人で何をやっているんだろう」と思わなくもありませんでしたが、
20代の頃にずっと追いかけていた夢と歴史熱が、それを凌駕していました。

あの日のことはいまも印象深く記憶に残っています。
なので、拙著『古利根川奇譚』(まつやま書房)の中に書きました。
この本には「河畔砂丘」の章があります。
むろん “桑崎砂丘”も取り上げ、クリスマスエピソードを織り交ぜた次第です。

なお、桑崎三神社と羽生城の関係については、
同じく拙著『歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)で詳しく書きました。
未読の方はご参考にしてください。

クリスマスの夜に桑崎砂丘へ行ったときから、何年もの歳月が流れています。
もし記憶をなぞるように一人自転車を走らせても、
あのときのような楽しい気持ちにはなれないのかもしれません。
その場所の歴史的意義は当時より深まっても、
秘密基地を見つけ出す新鮮味とワクワク感はすでに失われている気がします。

気が付けば39歳。
心の琴線も変わっていることでしょう。
寂しさを感じるのは、クリスマスの夜に一人で暗い場所にいたことよりも、
そうした感性がきっと失われていることなのかもしれません。
コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランスの“モン=サン=ミシェル”の塩のお味は?

2018年12月20日 | グルメ部屋
お土産に“塩”を貰った。
僕は塩好きで、たまにお土産に塩を買ってきてくれる人がいる。

一応断っておくと、しょっぱいものを好むわけではない。
醤油やソースはかけない派だ。
寿司は醤油を使わないし、
コロッケや揚げ物もソースはかけない。

でも、塩をかけておいしいものは適度に振る。
そのせいか、食事はあっさりしたものを好む。
カルビとタン塩だったら後者、
つぶ貝とマグロだったら前者、
塩系とクリーム系のパスタだったら前者を選んでしまう。

ところで、塩を買いそびれてしまった場所がある。
それはフランスのモン=サン=ミシェル。
言うまでなく、世界遺産に登録された修道院だ。
世界的な観光地と言っていい。

モン=サン=ミシェルの塩は有名らしい。
ここで塩味の卵焼きを食したのだが、
とてもおいしかったのを覚えている。

お土産に塩を買って帰ろう。
そう思っていた。
ところが、修道院をあまりにも熱心に見学してしまったためタイムオーバー。
塩を買う時間がなくなってしまった。

後ろ髪を引かれる思いでモン=サン=ミシェルをあとにする。
逃した塩は大きい。
それから何年も経つのに、
買いそびれた塩のことがときどき思い浮かぶ。

その気になれば、ネットや日本のどこかで購入できるのかもしれない。
手に入れるのは比較的容易だろうか。
でも、改まって調べてはいない。

モン=サン=ミシェルと買いそびれた塩。
ややしょっぱい思い出。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世は松平と白ウサギに誘われた世界のまま? ―旧博物館動物園駅―

2018年12月18日 | 近現代の歴史部屋
前日に夢を見た。
かつて目にした「松平」と呼ばれた白い生きもの(?)を。

なぜ「松平」という名前なのかよくわからない。
たぶん一般的な呼び名ではないと思う。

徳川家に関係があるのだろうか?
と思いきや、特に接点はないらしい。
どんな生きもの(?)だったかといえば、
レッサーパンダだったかタヌキだった気がする。

脈絡は覚えていない。
ただ、夢の中ではそれを「松平」と認識した。
どうもお久しぶり。
お目にかかるのはいつぶりでしょう。
まどろむ夢の中、ひどく懐かしく思った。

目覚めたあと、何かに出会える気がした。
松平の夢占い。
例えば、『不思議の国のアリス』の白ウサギみたいな何かが現れて、
どこかへ連れて行ってくれるような……。

そんな翌日のこと。
本当に白ウサギに出会った。
場所は上野。
具体的に言うと旧博物館動物園駅だ。

東京文化財研究所へ行く途中、
人だかりができていると思ったら、見えたのは巨大な白ウサギの胴体。
何だろう?
それを見たら、十中八九の人は立ち止まってしまうのではないだろうか。

ウサギがいた。
しかも巨大なウサギ。
元駅舎の入り口で、
人間の何倍もの大きさの白ウサギが、
顔を地面にめり込ませて転んでいたのだ。

アリスに登場するウサギは、時計を見ながら走り過ぎていく。
しかし、上野では転んでいる姿。
物語が始まるような始まらないような……

アート作品の一種らしい。
タイトルは「旧博物館動物園駅の公開と展示 アナウサギを追いかけて」。

2019年2月24日まで開催されているという。
1週間の内、金・土・日曜の公開展示らしい。
午前11時~午後4時の間で見ることができる。

夢に出てきた松平。
この白ウサギに出会うための伏線だった気がした。

いや、違うのかな。
だって、夢の中に松平が出てきたのは39年の人生の中で初めてだったから。
別の伏線なのかもしれず、
あるいは僕の心の何かを表しているのだとすれば、
どんな意味があるのだろう。

上野の白ウサギは外から見ることができる。
ただ、元駅舎の中に入るのは整理券が必要らしい。
何の情報も知らなかった僕は外から白ウサギを眺めた。

その日、東京文化財研究所では無形民俗文化財に関する報告や討議がなされた。
獅子やナマハゲ、神さまに捧げる舞いなど、
「文化財」のフィルターを外せばどれも不思議な世界だ。
旧博物館動物園駅の白ウサギも、
どこか不思議な世界観を漂わせていた。

思えば、松平もそんな空気をまとっていたかもしれない。
僕が松平という彼(彼女?)に会ったのはほんの一瞬のことだったから、
その世界はもうとっくに遠ざかったものと思っていた。
物語で言えば「Fin」を迎えたような……

いや、本当にそうなのだろうか?
夢の中の松平。
上野の白ウサギ。
延長線上というわけではない。
何年も会わずとも、例え接点がなくとも、
この形作られた世界は松平に誘(いざな)われ、
入り込んだ世界のままなのかもしれないのだから。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽生の城橋で起きた惨事は?

2018年12月16日 | 近現代の歴史部屋
羽生市内を流れる葛西用水路には、
「城橋」という名前の橋が架かっています。
その名前はかつて存在した“羽生城”に由来するものでしょう。

ただし、葛西用水路が掘削されたのは1660年であり、
羽生城が廃城となったのは1614年です。
「城橋」は地名や呼び名から採ったと考えられますが、
かつての城の堀を利用して用水路が掘削されたのだとしたら、
元々そこには橋の前身なるものがあったかもしれません。

現在はコンクリート製の橋であり、
日々多くの車が行き交っています。
しかし、始めからコンクリート製だったわけではなく、
かつては木製でした。
つまり木橋。

コンクリート製よりも強度は落ちるのでしょう。
90歳の羽生在住の方から聞いた話です。
戦前だったか、かつて木製だった城橋は重みに耐えかねて、
崩れ落ちてしまったことがあったそうです。

バラバラになって川に沈む木材。
季節は冬だったのでしょうか。
流されることはなかったようです。

現在なら、クレーン車を使って落ちた木材を引き上げるところでしょう。
ところが昔のこと。
人力で木材を川から引き上げたそうです。

とはいえ、すんなりできたわけではありません。
木材はかなり重く、落ちたのは川の中。
多くの人力を必要としました。
引き上げるのに数日間を要したということです。

この間、城橋は通行止めになっていたはずです。
木材を引き上げたあとは、また組み直さなければなりません。
仮設の橋が架けられたのでしょうか。
現在ほど交通量が多くないとすれば、
簡易的な仮設橋でも間に合ったのかもしれません。
城橋にはそんな一幕があったということです。

ちなみに、小説『田舎教師』(田山花袋作)の主人公のモデル小林秀三は、
この城橋を渡って職場である弥勒高等小学校まで通っていました。
当時はもちろん木橋でしょう。

小説を書くために羽生へしばしば踏査に訪れた田山花袋も、
城橋を渡ったことがあるはずです。
その友人であり義兄の太田玉茗もまたしかり。
現在は道路の一部と化している城橋ですが、
歴史の重みを背負って架かっています。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知っているようで知らない君、あなた ―コトノハ―

2018年12月13日 | コトノハ
小説は書き出しが命、とよく言います。
書き手が最も考え、こだわり、頭を悩ますところでしょう。
小説の数ほど“書き出し”があるわけですが、
デュマ・フィスの『椿姫』の始まり方は、好きな作品の一つです。

 ある国の言葉を真剣に学んだ場合にしか、その言葉は話せない。それと同じようにきちんと人間を研究したあとでなければ小説の登場人物を創りだせない。私はつねづねそう考えている。
 創作をする歳にはまだまだ間がある私は、もっぱら事実を語るだけにとどめておこうと思う。
 (デュマ・フィス作、西永良成訳『椿姫』より、光文社)

これを読むと、僕は人に対して一体どれくらいのことを知っているのだろうと思ってしまいます。

ある人間を描こうとする。
「情報」は書けるかもしれません。
たとえば、身体的な特徴や、どんな食べ物が好きで、どういう職業に就き、どのような本を読むのかなど、
目に見え、あるいは言葉を交わして知り得たもの(情報)は列記できます。

ただ、その人の内面、持つ世界、どんな思想や価値観で、どんな葛藤を抱え、どのような夢を描いているのか、
その奥へ踏み込むには、もっと相手に寄り添わなければなりません。

ただし、どんなに寄り添っても、書き手にも「主観」というものがあります。
描こうとする相手のどの部分に着目するかは、
書き手の持つ考えや価値観によるでしょう。
さらに、年上、同じ年、年下という年齢差によっても見方は異なるものです。

人を描くというのは複雑であり、難しいものです。
履歴書の項目を埋めればいいというわけではありません。

また、小説は人物伝のように説明や論じるのではなく、「描写」が原則です。
これほど書き手に自由権が委ねられ、いわばどう書くこともでき、
なおかつこれほど難しいものはないように思えます。

若僧の頃は、何とでも書けると思っていました。
見たままのことを書けばよい、
実際にあった出来事をそのまま描けばよい、と高を括っていたものです。

年を重ねると、それが「若気の至り」であることをつくづく感じます。
特異・特殊な体験や出来事であれば、そのまま書いても十分読ませられるかもしれません。
しかし、そう単純なものではないというのが実感です。

ある人のことを描こうとする。
その人のことを自分はどれくらい知っているのだろう。
その人の何を描こうとするのだろう。

自分が思うほど、相手のことを知らない。
よく知っているつもりでもそれは表面的なものにすぎず、
その内面には触れられていないのではないか。
そしてペンが止まるのです。

自分はどれほど人に寄り添えてきたのだろう、
どこまで相手のことを想えたのだろうと考えてしまいます。
思い浮かぶのはこれまでの自分の身勝手な行動ばかり。

世界の中心にいて、何でもわかっているような気がしていた若僧の頃。
あの頃の自分が懐かしく思えます。

と言っても、『椿姫』を書いたとき、デュマ・フィスは24歳。
この小説は、忘れられない想いやかつての恋人の死が原動力となり、
約1ヶ月で書き上げたそうです。
若さゆえに生まれた名作と言えるでしょう。
24歳は24歳の、
39歳は39歳の描き方があるということですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽生に“万年筆病院”があった?

2018年12月11日 | 近現代の歴史部屋
2018年も羽生市民プラザ(中央3丁目)はイルミネーションに彩られ、
テンションが高い場所となっています。
ここで好きな相手に告白した人もいるかもしれませんね。

さて、現在は「市民プラザ」が建っている場所ですが、
大正時代にこの辺りを撮影した古写真を見たことがあります。
何が建っていたのか?
写真には「文華堂書店」というお店が写っています。

注目されるのは、書店の右側に掲げられた「万年筆病院」という看板です。
文華堂書店は文具店を兼ねていたのでしょうか。
万年筆の修理を行っていたようです。

向かって左側にはディスプレイがあり、
ペンのようなものが見えます。
万年筆も展示され、販売されていたのかもしれません。
その当時、羽生には学生から社会人まで、
万年筆を使う人が多かったのでしょうか。

万年筆を愛好する僕は、「文華堂書店」が現存していれば一度は行ってみたいお店です。
今夏、ペリカンの万年筆を修理に出したばかりです。
外国製ということもあり、修理にはいささか時間がかかりました。
「文華堂書店」があれば、どんな万年筆でも瞬く間に直った……のかも。

「文華堂書店」がいつからそこにあったのか不明です。
明治35年刊行の『埼玉県営業便覧』にその名が見られないことから、
それ以降の創業だったか、もしくは元あった店が商売を変えたのかもしれません。
そしていつ閉店したのでしょう。
いまのところ、僕はこの書店について聞いたことは一度もありません。

現在、文華堂書店の跡地には羽生市民プラザが建ち、
多くの市民が利用する場所に変わりました。
そして年末になるとイルミネーションに彩られ、
きらびやかな光に包まれます。
それはかつて文華堂書店を愛用した者の目に映った
綺羅星のような輝きに似ているのかもしれません。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

届かなかった恋文の行方は? ―コトノハ―

2018年12月08日 | コトノハ
西野カナの「Bedtime story」を知って以来、
意識して聴こえてくるのは“恋うた”。

恋うたは星の数ほどありますが、
Every Little Thingの「恋文」は好きな曲の一つです。

リリースされたのは2004年。
でも、僕がこの曲を知ったのは、ずっとあとになってからのことでした。
たまたまお店で耳にして、ひと聴き惚れしたのを覚えています。
そんな「恋文」からのコトノハ。

  君とふたり過ごした日々
  青い空の下 何を想い
  ひとつふたつと目を瞑って
  指折り数えた愛しき日々…
  いろんな君の仕草に恋をした
  さざめきあう風の中 愛を知った

  僕が見つめる先に 君の姿があってほしい
  一瞬一瞬の美しさを、
  いくつ歳をとっても また同じだけ笑えるよう、
  君と僕と また、笑いあえるよう……
  (持田香織作詞「恋文」より)

「恋」というより、もっと深い感情を歌っているように聴こえます。
一人称が「僕」で、二人称が「君」なので、
男性が女性への想いを伝えているのでしょう。
(PVの内容は無視します。主題歌に使われた映画も同様です)

しかし、タイトルは「恋文」。
顔を合わせ、直接伝えているわけではありません。
想い人に宛てて、男性が書き綴っていることになります。

つまり、この恋文が女性の手に渡ったものとは限らないわけです。
そこに表現された感情が、
男性の心の内にしまい込まれてしまう可能性もあるわけで、
あるいは想いを伝える直前のコトノハかもしれません。

例えばもし「恋文」が届かなかったら、
見つめる先に「君の姿」はないでしょうか。
いくつ年を重ねても、「君」と笑いあえることも……ない?

届かなかった恋文。
伝えられなかった気持ち。
あえて秘めた想い。
そんなコトノハを人はいくつ持っているのでしょう。

そんなもの忘れたよ、という人もいるでしょうし、
記憶にあったとしても、もう心を動かすものではないかもしれません。
色褪せていくコトノハたちがほとんどだと思います。
でも、全てが色褪せてしまうのでしょうか。

季節の流れとともに移ろいゆくのは環境や人の気持ちです。
どんなに望まなくても、
誰にもその流れを止めることはできません。

出会いがあれば別れもある。
傷付くことがあれば惹かれることもある。
新しい恋もあるでしょう。

でも、そんな時間の流れとは切り離された場所が
人の心の中にはあるのかもしれません。
特別な場所に留まり続けるコトノハ。
色褪せることなく、深く洗練されていく……。

回帰願望とは違う。
感傷でもないし、後ろ向きな気持ちというわけでもない。
ごく自然に心の一部として生き続けている……。

むろん、「恋文」は曲なので、
そんなことを考える必要はありません。
自分の想像通りに聴けばいいと思います。
綺麗なイメージを持っている人も少なくないはずです。

ただ、「恋文」の詞は、
色褪せることのないコトノハとして読めます。
届けられなかった、あるいは届けなかった「恋文」として。

それでも見つめる先に「君の姿」があったとしても、
「僕」の姿はどう映っているのでしょう。
笑いあう「君」の前で、
どんな笑みを浮かべているのでしょうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽生の城跡で催される祭りは? ―酉の市―

2018年12月06日 | お知らせ・イベント部屋
2018年も暮れ、今年も開催されるのは古城天満宮の酉の市。
羽生市東5丁目に鎮座する“古城天満宮”にて、
100年以上続いているというお祭りです。

「古城」の名が付くように、
神社は羽生城址の一角とされる場所。
境内には「羽生城址」の石碑が建っています。

羽生城の築城年代は定かではありませんが、
江戸初期の1614年まで存在していました。
(最後の城主は徳川の重臣“大久保忠隣”)

戦国時代には“上杉謙信”に属し、
その忠節はほかに比類がないと謙信自身に讃えられたほど、
己の信念を貫いた城です。
(現在、埼玉県立嵐山史跡の博物館で開催中の企画展「越山」で、その一部に羽生城が取り上げられています)

そんな城址で開催される「酉の市」。
羽生城と祭りは直接的な関係はなさそうですが、
自分想いを貫き、また願いを成し遂げる力となるでしょう。
景気のいい掛け声や手拍子は、
かつてこの地に生きた羽生城の“つはもの”たちの熱を彷彿とさせるかもしれません。

羽生の酉の市は、12月25日(火)の開催です。
時間は午後5時~午後9時まで(予定)。
境内に並ぶ熊手で福を呼び込みましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽生駅の近くに“映画館”があった?

2018年12月04日 | 近現代の歴史部屋
以前、拙ブログで紹介したことのある「セントラル」。
かつて羽生にあった映画館です。
2館存在した内の一つで、「セントラル」は羽生駅の近くに建っていました。

営業していたのは昭和40年代までだったでしょうか。
閉館した具体的な年を僕は知りません。

映画「ゴジラ」をこの映画館で観たと話してくれた人がいます。
夏休みには東映映画祭りが開催され、
入口から親子連れの長蛇の列ができていたのだとか。

僕が物心ついた頃、
厳密に言えば自転車で町場まで行くようになった頃には、
映画館はすっかりなくなっていました。
当時、映画を観るとすれば、熊谷まで足を伸ばさなければならなかったのです。

セントラルの跡地は、電報電話局の北隣です。
羽生JAほくさい羽生中央支店から、道路挟んだ向こう側と言えばよいでしょうか。
現在は駐車場になっています。
実際に足を運んでも、
映画館があったことを偲ばせるものは何もありません。

娯楽が少なかった頃、映画は多くの人たちを魅了していたことでしょう。
夏休みになると長蛇の列ができたのですから、
当時の少年少女たちはワクワクして足を運んだはずです。
大切な思い出として記憶している人も少なくないかもしれません。

ところで、2016年に公開された「シン・ゴジラ」を、
僕は羽生のイオンで観ました。
何度も観たい映画の一つです。

「シンゴジラ」は怪獣と戦うものではなく、
極めて社会性の強いものです。
少年少女がワクワクする内容ではないかもしれません。
中には退屈する子もいるでしょう。

セントラルとイオン。
ゴジラとシンゴジラ。
町の移り変わりとともに、ゴジラ(映画)も変化しているということですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界キャラクターさみっとin羽生でほっこりする?

2018年12月02日 | はにゅう萌え
1週間前に開催された「世界キャラクターさみっとin羽生」。
僕は11月25日(日)に行きました。
と言っても仕事です。

それでも昼休み中に会場へ足を伸ばすことができました。
毎年、相変わらずの賑わいです。
どこを見ても人・人・人。

僕が目にする限り、みんな笑顔でした。
キャラクターを追いかける人、
ご当地グルメに舌鼓を打つ人、
気球に乗る人や、ステージに群がる人など、
誰もがとても楽しそうで、こちらもつられて笑顔になった次第です。
(ひとりでニヤニヤしていたら怪しいですね)

むろん、全ての人が笑顔だったわけではないでしょう。
不満を持つ人が一人もいなかったというのは現実的ではありません。

ただ、多くの人たちが羽生に来て、
大勢の笑顔を目にしていると、心がほっこりします。
楽しい思い出をたくさん作ってほしいな、と心から思いました。

仕事は1日立ちっぱなしで、ときたま腰に走るのは電流。
日中は暖かかったのに、日が沈むと気温がどんどん下がっていきました。

世界キャラクターさみっとin羽生が終わった直後は、
なぜかいつもラーメンが食べたくなります。
冬の開催だからでしょうか。
終了後、今年もあつ~いラーメンを食べて帰路に就いた次第です。
さみっと参加した人たちは、帰りに何を食べたのかな……。

追伸
仕事中、お声をかけてくれた方がいます。
秋の羽生散策ツアーに参加された方でした。
ありがとうございました。


さみっとの会場で浮かぶ“ムジナもん”の気球
最初の画像は、今年も羽生にやってきた“ひこにゃん”
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする