クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生の古写真で“昔”を振り返ってみませんか?

2019年03月31日 | 近現代の歴史部屋
羽生市広報の4月号は、
「羽生市65年の軌跡」という特集が組まれています。
平成31年は市制施行65周年にあたる年。
なので、このような特集が組まれたのでしょう。

特集では、市民から提供のあった古写真が掲載されています。
古写真を見ながら、過去を振り返るというもので、
懐かしい写真もあれば、全く知らない光景が写っているかもしれません。

実は、この古写真の解説をするという機会を得ました。
「案内人」ということで、僕の顔も掲載されることになり、
寝耳に水でしたが急遽写真撮影。
(こんなことならダイエットしておけばよかったかな……)

写真の解説は文字数がかなり限られていました。
だいぶ悩ましく、何度も書き直し。
それに、昭和54年生まれの僕にとって、
姿形のない時代に取れた写真ばかりです。
色々な文献を繙きましたが、書物には載っていない情報を得るには限界があります。
そのため、88歳のS先生からご教示をいただきました。

10年以上も前のことですが、
S先生とは古写真の解説を書くというある出版社の仕事を一緒にしたことがあります。
S先生が書く情報は文献には載っていないものばかりで、
とても面白かったのを覚えています。

今回もS先生とお会いし、
先生が実際に見聞きした遠い過去の話をたくさん聞きました。
時代の流れはどんどん早くなり、年輩者の昔の話は貴重さを増していますね。
S先生に改めて感謝申し上げます。

さて、市広報に掲載された古写真の1枚に、
「上杉謙信の旗掛けの松」と呼ばれる松があります。
「現市役所の場所に立っていた一本松」というタイトルです。

そのタイトルの通り、この松は現市役所庁舎の場所に存在していました。
現庁舎が完成したのは昭和49年のこと。
それ以前は田んぼが広がっており、民家は少なく、
東武鉄道の車両が見えたそうです。

いくつかの小さな沼もあり、釣りとしたという記憶を持つ人もいるでしょう。
この沼は、かつて羽生城を囲んでいた沼の名残です。
田んぼ以前は沼が広がっており、天然の堀として城の守りを固めていました。
慶長19年(1614)に羽生城が廃城になり、沼を埋め立てて新田としたのです。

そんな沼跡に一本松は立っていたことになります。
「上杉謙信の旗かけの松」というのは別称で、
単に「旗かけの松」と呼ぶ人もいます。
かつて羽生城が合戦をするときに、この松に旗をかけて周知したと伝わっています。

ただ、写真で見る限り、この松は戦国時代まで遡るのでしょうか。
植物は全くの門外漢ですが、幹の太さや高さから言って、
上杉謙信の時代までは遡らない印象を受けます。

では、どうして「旗かけの松」という名が付いたのか?
注意したいのは、松の麓に小さな祠が写っていることです。
写真では何の祠なのかわかりません。
神さまが祀られたものとすれば、この一本松は依り代だった可能性があります。
依り代とは、神さまが降臨し、より憑く対象物です。

祭礼のとき、この松に旗をかけたのでしょう。
神さまを呼び寄せる松として、あるいはご神木として。
「旗かけの松」はここに由来しているのかもしれません。
上杉謙信や羽生城の合戦という言葉が結びついたのは、
この祠が神田明神の可能性が高いことや、
羽生城址に近いことが挙げられるでしょう。

とはいえ、言い伝えのため真偽は定かではありません。
写真に写る一本松は実は二代目で、
戦国時代まで遡る初代が立っていたとしたら、
上杉謙信や羽生城と何らかの接点があってもおかしくようにも思えます。

いまでこそ市役所が建ち、周囲は民家やお店などが並んでいる場所です。
しかし、一本松が立っていた時代はとても寂しく、
人があまり近付かない場所だったそうです。
それだけに、一本松や祠を神聖視する人も少なくなかったかもしれません。
松を伐採するとき、悲しんだ人もいるでしょう。
(だから撮影したのでしょうか?)

僕は、写真に写る一本松を実物で見たことはありません。
物心がついた頃から現在の市役所は建っており、
そこは決して寂しい場所ではありませんでした。

歳月は流れ、一本松の記憶はどんどん遠ざかるばかりです。
一本松の写真は、記録として貴重なものです。
雨降る日、僕はときどき市役所の敷地内で城沼と一本松に想いを馳せることがあります。
「旗かけの松」と呼ぶ人は少なくなっているかもしれませんが、
上杉謙信や羽生城といった地域の歴史と一緒に次代へ伝わっていくはずです。
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元荒川にある旧吹上町の“榎戸堰”

2019年03月24日 | 利根川・荒川の部屋
旧吹上町(現鴻巣市)にある“榎戸堰”。
元荒川に設けられた堰で、現在は公園として整備されている。

堰の所見は延宝2年(1674)まで遡るという。
長い歳月の間でさまざま改修された。
最初は木造だったが、明治期に入ってレンガが使用された。
現在はコンクリート製だが、ごく一部にレンガの名残が見られる。
左岸から堰を望むように見れば気付くだろう。

荒川はあまりピンと来ない。
でも、元荒川には惹かれるものがある。
相性としか言いようがない。
すぐ近くには荒川の高い土手が連なっている。
その土手を登っても、やっぱり元荒川に目がいく。

公園内は水の流れる音が終始響いている。
春になれば桜に彩られるのだろう。
どこにでもあるような堰に見えるが、
地域の歴史を静かに湛えている。
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縄文人のゴミ捨て場にて ―寺西貝塚―

2019年03月24日 | 考古の部屋
寺西貝塚は群馬県板倉町の史跡として指定されている。
標柱と文化財説明板も建っている。

とはいえ、奥まっているところに佇んでいるため、
見付けるのにいささかウロウロするかもしれない。

海のない群馬県。
海は遠い。
なのに、古代の人々が食べた貝殻が出土。
ロマンを感じてしまう。

縄文時代、気温が暖かかったため、
海が関東の奥まで入り込んでいた(縄文海進)。
当時、いまとは全く異なる風景が広がっていたのだろう。

寺西貝塚では主にヤマトシジミの貝種が確認されたという。
貝殻に混ざってニホンシカの角や馬の骨なども出土。
同貝塚は、昭和21年と同38年に調査が実施されている。
いまでも現地では貝殻を見付けることができるらしい。

なお、板倉町文化財資料館では、
寺西貝塚の土層を剥ぎ取ったものが展示されている。
いまでも地中に眠る貝殻は多くあるかもしれない。

寺西貝塚の標柱や展示資料の前に立つ。
海から遠く離れた群馬県板倉町で、
潮の匂いを感じられるかもしれない。
心にそっと吹く風は潮風か。


寺西貝塚の遠景(群馬県板倉町)
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板倉沼が消滅してちょっと寂しそう? ―沼除堤―

2019年03月05日 | ふるさと歴史探訪の部屋
かつて広大な面積を有していた板倉沼。
37haあり、藺草(いぐさ)が生い茂っていたらしく、
その情景が『万葉集』に詠まれている。

現在は完全に消滅した沼だが、
往古は人々の暮らしと密接していたのだろう。
恵みをもたらす沼である一方、
水の脅威も隣合わせだった。

それを示すように、「沼除堤」が現存している。
これは冠水した板倉沼の水を避けるために築かれたもの。
標高は18、1mを測り、
これは元あった自然堤防を利用したのではないだろうか。

いつ築かれたのかは不明。
定期的に修築もされていたと思われる。
すぐ近くを谷田川が流れ、
水場ののどかな景色が見られる。

昭和54年生まれの僕は、板倉沼を一度も目にしたことがない。
生まれたちょうどその頃に、沼は埋め立ての真っ最中だったことになる。

沼がなくなったいま、沼除堤は不要になったのだろうか。
堤はいささか寂しそうに見える。
相棒を失い、ケチョンとなっているような……。

いや、沼除堤は板倉町の歴史を語る証言者。
沼は消えても歴史がなくなったわけではない。
水場の町・板倉を語る者として、
沼除堤は今日も訪問者に語りかけている。


沼除堤
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