永禄4年(1561)に小田原城を攻めた上杉謙信でしたが、
落城には至りませんでした。
後北条氏が降参することはなく、
それ以後も敵対勢力として火花を散らしていくことになります。
小田原の陣を解いた謙信は、
鶴岡八幡宮において上杉家の名跡を継ぎます。
謙信の生涯の中で、最も華々しいと言われる瞬間です。
名跡を継ぐと同時に関東管領となり、
関東に出陣する大義名分を正式に得ることができました。
つまり、関東の将軍的な存在である古河公方を補佐し、治安を守る。
換言すれば、関東の治安を乱す後北条氏や武田信玄は敵。
「だからみんな俺についてこい」といったところでしょうか。
謙信は国衆から人質をとっていました。
永禄4年に忍城主成田氏は幼子を上杉方へ送っています。
この人質を受け取ったのが、謙信を慕って関東に下向し厩橋城にいた近衛前嗣です。
「成田の幼い者(人質)が昨日の夕方に来ました」と書き送っています(「上杉家文書」)。
広田直繁の子“為繁”も、
人質として出されていたようです。
その時期は不明ですが、おそらく成田氏が幼い者を出したのと同じくらいでしょう。
人質となった為繁は、長年謙信の本拠地である越後で過ごしました。
身を寄せたとはいえ、冷遇されるわけではなかったと思われます。
そして、ある程度年齢を重ねると自国へ戻されました。
為繁が羽生城に帰ったのは、元亀2年(1571)に比定されます。
謙信は為繁に次のように書き送りました。
路次中無相違帰着之由目出簡要候、長々在府候ニ、
別而不加入魂無心元候
(『歴代古案』)
宛名は「菅原左衛門佐」とあります。
広田姓ではありませんが、
直繁の子の為繁(直則)と考えられています。
為繁が羽生に戻ったのは、年齢のせいばかりではないかもしれない。
この頃、父広田直繁が謀殺されていた可能性があるからです。
羽生城の立て直しを図るために、遺子が戻されたとすれば、
謙信が為繁に寄せる期待もあったでしょう。
人質に出すのが当たり前の時代とはいえ、
我が子を遠い異国へ出す親の不安や心配は想像に難くありません。
もし状況が悪化すれば殺されてしまいます。
二度と会うことができないかもしれない我が子を、
直繁はどのように送り出したでしょう。
父として、厳しさを持つ反面、優しさもあったように思います。
案外、子煩悩だったかもしれません。
表面には出さずとも、子との再会を待ちわびていた。
我が子のことを思わない日は一もなかった……。
とすれば、成長した子を見ずして謀殺されたかもしれない直繁の無念さは、
察するに余りあります。
落城には至りませんでした。
後北条氏が降参することはなく、
それ以後も敵対勢力として火花を散らしていくことになります。
小田原の陣を解いた謙信は、
鶴岡八幡宮において上杉家の名跡を継ぎます。
謙信の生涯の中で、最も華々しいと言われる瞬間です。
名跡を継ぐと同時に関東管領となり、
関東に出陣する大義名分を正式に得ることができました。
つまり、関東の将軍的な存在である古河公方を補佐し、治安を守る。
換言すれば、関東の治安を乱す後北条氏や武田信玄は敵。
「だからみんな俺についてこい」といったところでしょうか。
謙信は国衆から人質をとっていました。
永禄4年に忍城主成田氏は幼子を上杉方へ送っています。
この人質を受け取ったのが、謙信を慕って関東に下向し厩橋城にいた近衛前嗣です。
「成田の幼い者(人質)が昨日の夕方に来ました」と書き送っています(「上杉家文書」)。
広田直繁の子“為繁”も、
人質として出されていたようです。
その時期は不明ですが、おそらく成田氏が幼い者を出したのと同じくらいでしょう。
人質となった為繁は、長年謙信の本拠地である越後で過ごしました。
身を寄せたとはいえ、冷遇されるわけではなかったと思われます。
そして、ある程度年齢を重ねると自国へ戻されました。
為繁が羽生城に帰ったのは、元亀2年(1571)に比定されます。
謙信は為繁に次のように書き送りました。
路次中無相違帰着之由目出簡要候、長々在府候ニ、
別而不加入魂無心元候
(『歴代古案』)
宛名は「菅原左衛門佐」とあります。
広田姓ではありませんが、
直繁の子の為繁(直則)と考えられています。
為繁が羽生に戻ったのは、年齢のせいばかりではないかもしれない。
この頃、父広田直繁が謀殺されていた可能性があるからです。
羽生城の立て直しを図るために、遺子が戻されたとすれば、
謙信が為繁に寄せる期待もあったでしょう。
人質に出すのが当たり前の時代とはいえ、
我が子を遠い異国へ出す親の不安や心配は想像に難くありません。
もし状況が悪化すれば殺されてしまいます。
二度と会うことができないかもしれない我が子を、
直繁はどのように送り出したでしょう。
父として、厳しさを持つ反面、優しさもあったように思います。
案外、子煩悩だったかもしれません。
表面には出さずとも、子との再会を待ちわびていた。
我が子のことを思わない日は一もなかった……。
とすれば、成長した子を見ずして謀殺されたかもしれない直繁の無念さは、
察するに余りあります。