クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生城主・広田直繁伝(3) ―人質―

2018年04月29日 | ふるさと人物部屋
永禄4年(1561)に小田原城を攻めた上杉謙信でしたが、
落城には至りませんでした。
後北条氏が降参することはなく、
それ以後も敵対勢力として火花を散らしていくことになります。

小田原の陣を解いた謙信は、
鶴岡八幡宮において上杉家の名跡を継ぎます。
謙信の生涯の中で、最も華々しいと言われる瞬間です。
名跡を継ぐと同時に関東管領となり、
関東に出陣する大義名分を正式に得ることができました。

つまり、関東の将軍的な存在である古河公方を補佐し、治安を守る。
換言すれば、関東の治安を乱す後北条氏や武田信玄は敵。
「だからみんな俺についてこい」といったところでしょうか。

謙信は国衆から人質をとっていました。
永禄4年に忍城主成田氏は幼子を上杉方へ送っています。
この人質を受け取ったのが、謙信を慕って関東に下向し厩橋城にいた近衛前嗣です。
「成田の幼い者(人質)が昨日の夕方に来ました」と書き送っています(「上杉家文書」)。

広田直繁の子“為繁”も、
人質として出されていたようです。
その時期は不明ですが、おそらく成田氏が幼い者を出したのと同じくらいでしょう。

人質となった為繁は、長年謙信の本拠地である越後で過ごしました。
身を寄せたとはいえ、冷遇されるわけではなかったと思われます。

そして、ある程度年齢を重ねると自国へ戻されました。
為繁が羽生城に帰ったのは、元亀2年(1571)に比定されます。
謙信は為繁に次のように書き送りました。

 路次中無相違帰着之由目出簡要候、長々在府候ニ、
 別而不加入魂無心元候
 (『歴代古案』)

宛名は「菅原左衛門佐」とあります。
広田姓ではありませんが、
直繁の子の為繁(直則)と考えられています。

為繁が羽生に戻ったのは、年齢のせいばかりではないかもしれない。
この頃、父広田直繁が謀殺されていた可能性があるからです。
羽生城の立て直しを図るために、遺子が戻されたとすれば、
謙信が為繁に寄せる期待もあったでしょう。

人質に出すのが当たり前の時代とはいえ、
我が子を遠い異国へ出す親の不安や心配は想像に難くありません。
もし状況が悪化すれば殺されてしまいます。
二度と会うことができないかもしれない我が子を、
直繁はどのように送り出したでしょう。

父として、厳しさを持つ反面、優しさもあったように思います。
案外、子煩悩だったかもしれません。
表面には出さずとも、子との再会を待ちわびていた。
我が子のことを思わない日は一もなかった……。
とすれば、成長した子を見ずして謀殺されたかもしれない直繁の無念さは、
察するに余りあります。
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春の羽生にて ―藤―

2018年04月27日 | はにゅう萌え
大天白公園は、毎年春の終わり頃になると“藤”の花で彩られる。
隣に鎮座するのは大天白神社。
安産・子育ての神さまとして知られている。

公園には池があり、鯉が泳いでいる。
僕が高校生のときに目にした鯉から何代目にあたるのだろう。
それとも鯉は長寿というから、
まだ元気に泳いでいるかもしれない。

古老によると、かつて公園は桑畑だったのだとか。
現在は、トイレ有り、ベンチ有り、駐車場も有りの市民の憩いの場所となっている。
4月30日から5月6日までは「大天白藤まつり」が開催(平成30年)。
藤の花を見て、初夏の訪れを感じる人は多いのではないだろうか。

ちなみに、藤の花言葉は、
「優しさ」「決して離れない」などがあるという。
今年も羽生の藤は色鮮やかな花を咲かせ、
見る者の目を楽しませている。
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羽生城主・広田直繁伝(2) ―小田原城攻め―

2018年04月25日 | ふるさと人物部屋
永禄4年、長尾景虎(のちの上杉謙信。以下統一)は小田原城を攻囲しました。
その数およそ11万5千余騎。
関東の国衆(領主)たちが謙信のもとに参集し、
後北条氏の本拠地小田原へ乗り込んだのです。

このとき、広田直繁をはじめとする「羽生之衆」もその陣に加わっていました。
布陣していたのは第二陣です。
「上杉年譜」には次のように記されています。

  二陣ハ武州忍城主成田中務少輔長康、同下総守長氏、
同羽生城主廣田式部大輔(後略)

第一陣には岩付城主・太田資正の姿がありました。
智将と言われる資正です。
3千5百騎の軍勢で城を攻めました。
その戦いは目覚ましく、城内の蓮池門まで突破したということです。

一方、広田直繁を含む第二陣は、1万2千余騎で攻撃を開始しました。
城の東北より進軍し、奮戦します。
資正の進軍を勢いづけたと「上杉年譜」は記しています。

広田直繁が具体的にどんな戦いをしたのか、それを伝える資料はありません。
おそらく忍勢らと共に戦ったのでしょう。

この小田原城攻めに際し、作成されたとみられる「関東幕注文」には、
「馬寄 羽生之衆」とあります(「上杉家文書」)。
その前に列記されているのは忍城主成田氏の軍勢です。
「武州之衆」とあります。
忍勢に羽生勢が加わっていることを示し、共に小田原城を攻めたことが窺えます。

直繁が武辺者だとすれば、大いに腕を振るったのではないでしょうか。
敵勢との一騎打ちなんてものもあったかもしれません。
というのは憶測の世界。

合戦は華々しいものではありません。
血を流す者がいただけでなく、田畑は荒らされ、
民家は放火されて灰燼に帰しました。
「雲煙天ニ充テ炎火地ヲ焦ス」と「上杉年譜」も記しています。

日本人同士が戦っていたこの時代。
別の領地は「他国」であり、
食糧が不足すれば略奪の対象でした。
上杉謙信や北条氏康が「義」や「正義」のために戦っても、
理念など無関係に暴れ回っていた雑兵たちもいたでしょう。

謙信は関東の秩序を取り戻すため、上杉憲政を奉じて進軍しました。
その頃、関東で勢力を伸長していたのは後北条氏です。
そのため小田原城を攻めたわけですが、
後北条氏から見れば、謙信が関東の静謐を乱す張本人に見えたでしょう。

関東戦国史の中で、転換期とも言える謙信の小田原城攻め。
広田直繁は、謙信の関東平定が速やかに成功し、
羽生城主としての安定した支配を期待していたでしょうか。
いまとなってはそのときの直繁の内面を知ることはできませんが、
上杉方に付いたことは間違いありません。
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羽生城主・広田直繁伝(1)

2018年04月24日 | ふるさと人物部屋
戦国時代に“広田直繁”(ひろたなおしげ)という人物が命を燃やしました。
歴史の教科書には載っていません。
だから学校で習うこともなければ、テストに出るわけでもありません。

広田直繁は羽生城の城主です。
埼玉県羽生市にはかつて城がありました。
そこを治めていたのが直繁というわけです。

いや、羽生城主といえば「木戸忠朝」ではないのか?
そう思う方もいるかもしれません。

そう、羽生城主として名前が登場する頻度は「木戸忠朝」の方がダントツです。
地元に残る羽生城史を伝える文書にも、
ほとんど木戸氏となっています。

ところが、木戸忠朝には兄がいました。
この兄こそが広田直繁です。
忠朝が羽生城主になる前、兄の直繁が羽生領を治めていたのでした。

しかし、直繁は歴史の途中から忽然と名前が消えてしまいます。
「煙のように……」と言っても過言ではありません。
そのためでしょうか。
時代の流れとともにその名は薄れ、
羽生城主であったこともいつしか忘れ去られてしまいました。

そんな直繁の素性を明確にしたのは、冨田勝治氏です。
明治42年生まれの氏は、
10代の頃から羽生城に興味を持ち、80年以上も研究を続けていました。
今日、羽生城史を知ることができるのも、
氏の研究の成果の何ものでもありません。

もしも冨田先生が研究しなければ、
広田直繁は謎の人物のままだったかもしれない。
いえ、誰かによって解明されたとしても、もっとあとのことだったでしょうか。

「広田直繁は羽生城主である」と判明しても、
この人物について語る資料は少ないのが現状です。
肖像画もありません。
したがって、どんな容姿をしていたのかも謎です。

ところで、かつて広田直繁を素材にした小説を書いたことがあります。
いまから10年くらい前、いやもっと前だったでしょうか。
冨田先生を始めとする方々が、
直繁の位牌を羽生市内の寺院に奉納したのがきっかけだったように思います。

僕がイメージする広田直繁は「武辺者」です。
弟の忠朝が歌を好む文化人気質だったとすれば、
直繁は武闘派でバタバタと敵をなぎ倒していくタイプ。
想像の域を出ないのだが、僕はいまでもそんなイメージを直繁に持っています。

書いた小説は出版社に送りました。
予選を通って「広田直繁」の名前が付くタイトルは文芸誌に掲載されたものの、
陽の目を見ることはありませんでした。
若書きで、想いだけが先走っていた気がします
いま読み返すには、あまりに気恥ずかしさが伴う作品です。

あれから10年以上が過ぎ、
ふと旧川里町(現鴻巣市)の広田を通り過ぎる機会がありました。
そう、広田。
ここはかつて御家人・広田氏が治めていた土地です。

何とはなしに懐かしさを覚えました。
この10年間、広田直繁のことは色々な場面で書くことはありました。

羽生市の広報に羽生城のことをおよそ2年連載したことがあります。
拙著『歴史周訪ヒストリア』の羽生城の項を書くときも、
直繁を避けて通ることはできませんでした。
でも、ここにきて改めて直繁に会いたくなったのはなぜでしょう。

もう一度広田直繁に会いに行くような気持ちで、その軌跡を辿ってみようと思います。
あくまでも史料を根拠としますが、
謎めいた部分は小説的な発想で補うかもしれません。
弟の木戸忠朝以上に資料がない人物なのですから。

いまから400年以上も前、
動乱を生きた羽生城主・広田直繁。
肖像画はなく資料も少ない人物ですが、
その名は確かに歴史に刻まれています。
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春の羽生にて ―下村君の古藤―

2018年04月23日 | はにゅう萌え
羽生市下村君に鎮座する鷲神社の境内には“古藤”がある。
羽生市内では、大天白神社の藤に目が奪われがちだが、
下村君(しもむらきみ)には歴史ある藤が毎年花を咲かせている。

そもそも、村君(むらきみ)が歴史のある地域だ。
市内で最大の前方後円墳である“永明寺古墳”があるし、
彦狭島王が眠る伝説のある“御廟塚古墳”も横たわっている。

鷲宮神社の社殿は、古墳の上に鎮座しているとされている。
かつて境内には五重塔があったと言われており、その礎石が現存。
村の王(君)がいたため、「村君」の地名がついたということから、
古くから拓けた地域だったのだろう。

近年では、村君地区の名(みょう)から口琴が出土。
現在のところ日本最古と言われている(「屋敷裏遺跡」)。

村君地区の歴史を語れば尽きない。
拙著『歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)でも、
村君地区の古墳と城跡を取り上げたので参照されたい。

下村君の古藤は、“村君公民館”の西隣に立っている。
そばには弁才天が祀られており、
水神ゆえに水堀に囲まれている。

古藤とはいえ、観光客で賑わうわけではない。
静かに、慎み深く咲いている。

華々しく、前へ前へ出ていくタイプではないかもしれない。
クラスでも、あまり目立たないタイプといったところだろうか。

でも、知っている人は知っている。
確かな存在感を持っている。
歴史という奥行きの深さを持っている。
そんなタイプが好みの人には、
下村君の古藤に親近感がわくかもしれない。


埼玉県羽生市


村君公民館
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春の羽生にて ―キヤッセ羽生のビオラ―

2018年04月21日 | はにゅう萌え
キヤッセ羽生(埼玉県羽生市三田ヶ谷)の「四季の丘」は季節の花で彩られる。
春はビオラ。
色とりどりの花々が目を楽しませてくれる。

ビオラの花言葉は「誠実」「信頼」。
週末になると家族連れで賑わう。
うどんや地ビールが味わえるのもおいしい。

うどん店の営業は週末のみ。
地ビールは、羽生の物産を販売するキヤッセ内の「むじなも市場」で購入可能だ。

隣接するのは淡水魚専門のさいたま水族館。
その南隣には食虫植物ムジナモの自生地がある。
羽生へ遊びに行く、と言ったら候補に挙がるのが三田ヶ谷だろう。

僕が小中学校の頃に比べると、その変貌は目を見張る。
そもそもキヤッセ羽生は存在していなかったし、
水族館の西に広がる公園もなかった。
いまの子どもたちが大人になる頃は、どんな変貌を遂げているのだろう。

四季の丘は、季節によって咲く花が異なる。
春のキヤッセ羽生と三田ヶ谷を楽しみましょう。






地ビール(キヤッセ羽生にて・埼玉県羽生市大字三田ヶ谷1725)

キヤッセ羽生ホームページ
http://kiyasse.jp/
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幼子を“織田信長”に会わせると? ―群馬県立歴史博物館―

2018年04月19日 | 子どもの部屋
群馬県立歴史博物館では、
平成30年5月13日まで企画展「織田信長と上野国」が開催されている。
幼子を連れて同館へ足を運ぶ。

信長関連文書や箕輪城出土遺物、
落合左平次道次背旗(4月15日まで)や滝川一益関連文書などが展示されており、
とても見応えがある。
解説も今風に工夫されていてわかりやすい。

とはいえ、幼子にとっては「信長ってだれ?」も同然。
長篠合戦や神流川の戦いもあったものではない。
信長よりチョロミー(「ガラピコぷ~」)。
滝川一益よりもハニワだ。

同館のミュージアムショップのそばには、
ハニワや土偶が入っているガチャガチャがある。
信長展から早く出たがっていた息子が、
そのガチャガチャをせがんだのは言うまでもない。

ところでいまから数年前、
友の会の依頼を受けて、講師として博物館の一室で講演をしたことがある。
テーマは「武蔵国から見た上野国の戦乱」という主旨のもの。

いま思い出しても恐縮してしまう。
と、同時に感謝もしている。
機会を与えていただき、ありがとうございました。

その頃はまだ息子も娘も生まれていなかった。
妻と新潟へ行く途中に群馬県立文書館に立ち寄り、
『群馬県史』を購入して旅の道連れにしたのを覚えている。

そして、宿で開いた『群馬県史』。
美味しいお酒と肴には『群馬県史』がよく合う。

依頼を受けて調べたものは、
この拙ブログでも「上州争乱」としてアップしたことがある。
いまから4、5年前のことだっただろうか。

とても楽しく書いた記憶がある。
並行して小説も書いていた。
そして「上州争乱」がアップし終えた頃に、
まつやま書房から本の執筆依頼があった気がする。
(拙著『歴史周訪ヒストリア』を未読の方はご笑覧ください)

記憶がやや曖昧なだけに懐かしい。
だから、群馬県立歴史博物館には親近感を覚える。

同館はリニューアルオープンしたばかりだ。
常設展も見応えのある内容となっている。
群馬の歴史は深くて熱い。

娘は人見知りするくせ、案外愛想がいい。
館内の職員にしきりに手を振っていた。
この博物館は、子どもにも居心地のいい場所なのかもしれない。
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3つのエンディング ―コトノハ―

2018年04月17日 | コトノハ
『ミュージアム』と『まっすぐ前 そして遠くにあるもの』からのコトノハ。

  エンディングは3つあった
  (巴亮介『ミュージアム』より 講談社)

  道が3つあった。
  目の前のは平らな道
  左のはゆるやかにあがる道
  右のは下にさがる道
  どの道もそれぞれにおもしろそう
  どの道も先が見えない
  どの道を行こうか
  (銀色夏生『まっすぐ前 そして遠くにあるもの』より 幻冬舎文庫)

『ミュージアム』はサスペンスホラー。
映画化もされ、
1990年代に話題になったアンソニー・ブルーノの『セブン』を連想させる。
最初、博物館学に関連するのかなと思って手に取ったら全く違っていた。
良い意味の裏切りだったが。

銀色夏生氏は高校生の頃から好きな詩人。
恋にときめいていたときも、失意のどん底にあったときも、
いつもそばにいた詩人だったと思う。
だから、いまでもその詩集を手に取りたくなる。

人との出会いと別れも、一つの「エンディング」の気がする。
生きている限り本当のエンディングではないのだけど、
一つの章が終わったという感覚。

ハッピーエンドがあれば、
痛みを伴うこともある。
別の形に変わって続くこともあるし、
自然に離れてしまうこともある。

「エンディング」を決める要素は何なのだろう。
どこが分水嶺なのか。
自分の気持ちか、
それとも時代の流れか、
はたまた周囲の人々によるものか。

「もしもあのとき……」と思う。
もしも別の選択をしていれば、
全く違った「エンディング」があったのかもしれない、と。

そのもう一つのエンディングを思えば、
出会う人、別れる人も変化を余儀なくされる。
出会うべくして出会う人はなく、
その人から影響を受けることもなかったのかもしれない。

かつて、1度も言葉を交わしたことがないのに、
僕の心を不安定にさせる人がいた。
できれば遠く離れていたい。
忘れるほど無関心になりたい。
彼の名字を10年近く口にしなかった。

嫌いだったわけではない。
恨みがあったわけでもない。
会話したことがないのだから、嫌いになりようがない。
でも、ある出来事をきっかけに僕の心は乱れ、
彼から目をそむけた。

もう一つの未来を思うとき、
僕は彼の顔が思い浮かぶ。
そんな「エンディング」とは別の未来があったかもしれない、と。
ときおり彼と重なる風景を見ても、
息苦しさを感じることのない“今”があったのではないか、と。

彼の消息はまるで聞かない。
一度も言葉を交わしたことがないのだから、
共通の友人さえいない。
それでも、彼のことはいまも胸の中にある。
嫌いでも好きでもないのに忘れられない。

そんなエンディングとは別にどんな結末があっただろう。
名前すらわからないまま消えていく結末?
彼らと一緒に笑って過ごすエンディング?

どこに続くかわからない3つの分岐点。
どれを選んでもそれが真実になる。

一線を引き、その名字を10年間書くことさえなかった彼の存在。
でも、もしかすると、
案外僕は彼との接点を望んでいるのかもしれない。
彼に会いたいのかもしれない。
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幼子を羽生の“大天白神社”へ連れていくと?

2018年04月15日 | 神社とお寺の部屋
大天白神社は羽生市北2丁目に鎮座している。
安産、子育ての神さまとして知られる神社だ。

息子と社を訪ねた。
息子にとって、妻のお腹の中にいる頃から訪れたことのある神社。
とは言っても、懐かしさはないだろう。

大天白神社はなぜ安産・子育ての神さまなのか?
それは、創建に由来する。
伝承によれば、羽生城の奥方が安産祈願のために神社を創建したという。

ということは戦国時代まで遡る。
伝承ではあるものの、
神社に隣接する正光寺は城主一族の母親が勧請したと伝えられることから、
遡ることができるかもしれない。

城主の奥方の具体名は定かではない。
「大天白神社縁起碑」では、城主を「木戸忠朝」としている。
弘治3年春に懐妊し、神社を創建したとあるが、
何を根拠にしているのか定かではない。
その後、生まれてきた者が誰なのかも不明。

推測だが、「城主」とは木戸忠朝ではなく、
その父“木戸範実”(きど・のりざね)を指すのかもしれない。
範実の奥方が祈願をし、“直繁”もしくは“忠朝”が誕生。
だとすれば、創建は弘治3年よりも遡る。

ちなみに、大天白神社は珍しい社で、現在の羽生市域ではほかにない。
熊谷に鎮座する「大天獏神社」を勧請したとすれば、
木戸範実の息子である直繁もしくは忠朝の時代も射程に入るだろうか。

というように、大天白神社は歴史的に見ても面白い。
神使が狛犬ではなく、キツネというのも興味深いこと。
タバコと犬がお好きではないらしいから、
境内に連れていかない方が無難というものだ。

息子と訪れたときも、小さな子を連れた参拝者が何組かいた。
大天白神社に寄せられる信仰はいまも厚い。
息子は無事に生まれたし、
甥っ子も元気に駆け回っている。

なお、大天白神社には絵馬が奉納されている。
それを目にすると、子の無事の成長を祈る親たちの想いが伝わってくる。
戦国時代から400年以上が過ぎても、
子を想う親の心は変わらないのに違いない。


絵馬
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春の羽生にて ―八重桜―

2018年04月13日 | はにゅう萌え
羽生の“岩瀬落し”沿いに咲く八重桜。
産業文化ホールの北側で、毎年満開に咲く。
とはいえ、数日前の風でだいぶ散ってしまったかもしれない。

岩瀬落しと呼ばれる川は、
葛西用水路の下を潜って流れている。
排水のための落とし堀で、
いつ掘削されたのかは不明。
ただ、葛西用水路が掘削された万治3年(1660)当時には存在していたようだ。

八重桜に見惚れて、岩瀬落しに落ちないよう気を付けたい。
ちなみに、八重桜の花言葉は「しとやか」「豊かな教養」など。
その下を流れる岩瀬落しも、
豊かな教養を湛え、しとやかに流れているように見える……?!


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謎を解く鍵は“なぜ” ―コトノハ―

2018年04月11日 | コトノハ
民権結社“七名社”の資料を見に、
息子と“埼玉県立歴史と民俗の博物館”へ足を運んだ。
自由民権運動が始まった頃、
埼玉県下で早い時期に結成されたのが七名社だった。

常設展の一角に関連資料が展示されている。
「七名社規約写」や「政談演説会傍聴牌」などの文書資料が中心だ。

管見によるが、七名社が単体で取り上げられるのはあまりなかったことではないか。
とてもレアな展示だ。
この機会にぜひ……と、県博に足を運んだ次第。
(平成30年4月22日までの展示)。

なお、同館では4月6日まで企画展「田んぼ―埼玉、人と水の風景―」が開催されている。
埼玉県の地形は山地や丘陵、低地などバラエティに富んでいる。
当然、稲作の方法も変わってくる。
それに合わせて使う農具も異なる。

はじめからそこにあったわけではない。
農具一つとっても、
そこには風土や時代、人々の暮らしなどの情報が含まれている。

さて、『悲しみのイレーヌ』と『人文系博物館資料論』からのコトノハ。

  どうやらとことん細部を追っていくしかなさそうだな。(中略)
  だが肝心なことを忘れるなよ。
  鍵になるのは“どうやって”じゃない。“なぜ”だからな。
 (ピエール・ルメートル『悲しみのイレーヌ』より 橘明美訳 文春文庫)

  ただし、すべての調査には、その資料の生まれた環境も調査することを疎かにしてはならない。
  何故、この資料が今ここにあるのか。
  この点を欠くことは、資料の本質を見逃すことになる。
  (杉山正司「博物館資料化への過程」より 青木豊編『人文系博物館資料論』所収 雄山閣)

『悲しみのイレーヌ』はフランス人作家が書いたミステリー小説。
『人文系博物館資料論』は博物館学に属する文献だ。

ちなみに、杉山氏は埼玉県の学芸員で、
これを書いたとき埼玉県立歴史と民俗の博物館に在籍していた。
最近では「ぶらタモリ」に出演し、
講演等で呼ばれるとその裏話を期待されるのだとか……。

ところで、息子はハニワに目がない。
常設展示の古代コーナーにあるハニワに足を運んだ。

なぜハニワなんてものが造られたのだろう。
展示ケースの前でふと思う。
ハニワと言っても、
なぜ人物埴輪や円筒埴輪など種類があるのだろうか。

歴史の必然性があって誕生したわけだ。
例え誰かが思い付きで造ったとしても、
必要性がなければ全国に広まることはなかったはず。

武士の登場、信仰の広まり、戦争の勃発……
義務教育で習う歴史は、
教科書に書かれていることをそのまま覚えることが多かったように思う。
十代のとき、“なぜ”の視点で歴史を見たことはあっただろうか。

テストで点数を取れればそれでいい。
それは歴史に限ったことではない。
クイズ形式の理科の授業以外ではなかったかもしれない。

七名社なる民権結社が誕生したのも、
時代の流れによるものだ。
戦国時代に結成されるはずもない。

“なぜ”の視点で博物館の展示を見ると、
これまでと違った発見があるかもしれない。

なぜ息子はハニワに興味があるのか?
大人になったら永遠に解けなくなる謎なのかも。
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年度末に食べるラーメンは? ―同級生ラーメン―

2018年04月09日 | グルメ部屋
K君はおいしいラーメン屋を多く知っている。
中学・高校と毎日顔を合わせていたK君だが、
いまは時折会ってラーメンを食べに行く。

年度が変わる数日前に行ったのは旧菖蒲町(現久喜市)のお店。
通るといつもお客さんが並んでいる人気店だ。

麺はやや太め、スープは濃厚。
トッピングされたチャーシューより鶏肉の方が好みだった。

テーブル席には幼子のいる家族連れ、
カウンターには老夫婦が座っていた。
幅広い年齢層から愛されているお店であることが伺える。

ところで、このラーメン店から少し南に行ったところを流れているのは元荒川。
西方面には、埼玉県指定史跡の“天王山塚古墳”が横たわっている。
数ある前方後円墳の中でも県下有数の規模を誇り、
さきたま古墳群の古墳築造が下火になった頃に現れたとされる。
「動山」とも呼ばれ、“栢間古墳群”の一つに数えられる古墳だ。

古墳を見たついでにラーメン、
いや、ラーメンを食べたついでに古墳……というコースを辿ることができる。
ちなみに、栢間(かやま)の地名は、
萱が生じる沼地、低地から由来しているという(『埼玉県地名誌』)。

K君は4月から人事異動で職場が変わるらしい。
朝が早く、夜が遅いのだとか。
どんな同級生に会っても「仕事は楽だよ」と言う人はいない。
楽している人は皆無ではないのだろうけれど、
多くは年を重ねるごとに仕事に追われている。

時代のせいなのか、社会のせいなのか、
はたまた自分のせいなのわからない。
突き詰めればキリがない。
時間をかけるほどやることが増えていく。
だから、見切りをつけなければ延々と続いていく。

13歳のときに出会ったK君ももうすぐ40歳。
あの頃一緒に過ごした“彼”も“あの子”も40歳になる。
会わなくなった人たちはどう過ごしているだろうね。
そんなことを言ったら、言葉が宙ぶらりんに浮かんだ。

時間に追われても、
仕事が大変でも、体が第一。
精神のバランスも大切。

そんなことを話す年頃になった。
健康診断の結果が抜群にいいわけではない。
高望みはしないけれど、
たまに同級生に会って、一緒にラーメンを食べていたい。

年度が変わる数日前の春の夜。
K君と肩を並べて啜ったラーメンは、
部活帰りに食べた味とどこか似ていた。


天王山塚古墳(埼玉県久喜市)
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春の羽生にて ―砂山の菜の花―

2018年04月07日 | はにゅう萌え
羽生市砂山を流れる会の川沿いに咲く菜の花。
毎年、黄色く彩られる。
菜の花の花言葉は「快活」や「小さな幸せ」など。

会の川はかつての利根川の本流だ。
それを物語るように、川沿いには河畔砂丘が連なっている。
「砂山」という地名も、河畔砂丘や自然堤防に由来しているのだろう。

しかし、開発が進んで砂丘の多くは姿を消した。
砂丘の上に広がっていた松林も消滅する。

20年以上前、自転車で川沿いを走り海へ向かったことがある。
利根川や江戸川の土手は一面の葉の花で覆われていた。

辿り着いた海は東京湾。
かつての利根川の河口だ。
会の川が利根川の本流だった頃、
東京に向かって流れていた。

いま川沿いに咲く菜の花は帰化植物が多いという。
例えばセイヨウアブラナは明治初期に日本にやってきたのだとか。
でも、菜の花が風に揺れるたび、古い記憶がふとよぎる。
時の流れが遡るような……。
そんな気がする。

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30代最後の春に ―コトノハ―

2018年04月05日 | コトノハ
もしも、春が「好き」か「嫌い」か問われたら、
「好き」と答える。
でも、「得意」か「苦手」か問われたら、
後者を選ぶ。

春は変わり目の季節。
環境が変わり、何かが終わり、新しく始まっていく。
それを良いと思う反面、ストレスに感じることがある。
もし手放しで新しい季節を迎え入れられたならば、「得意」と答えると思う。

では、変わらなければいいのか?
そう単純ではない。
何の変化も迎えない春は、
どこからともなく不安や焦燥の風が吹いてくる。
春になっても自分だけが取り残されていくような。
その場で足踏みしているような……。

変わることにワクワクしていたのはいつだったろう。
変わらないことに不安や焦燥を感じていたのはいつだったろう。
これまで過ぎ去った春の分だけ、
いまは他人のような自分がいる。

又吉直樹の小説『火花』からのコトノハ。

  渋谷に向かう電車の中から町を見下ろすと至る所に桜が咲いていて、
  直視するには眩しすぎる。
  春という季節を恨めしく思うようになったのはいつからだろう。
  視線を車内に戻すと、学生や会社員が視界に入り、今度は激しい焦燥に駆られる。
  (又吉直樹『火花』より 文藝春秋)

たぶん、春は自分の心を映し出す鏡のようなもの。
春に湧き立つ感情は、いまの自分自身を映している。

僕はいま39歳で、その年の数しか春を知らない。
40代や50代で迎える春や
60代、70代はその季節をどう感じるのだろう。

『論語』の中で、孔子は40にして惑わず、
50にして天命を知ると述べている。
また、60では耳にしたがい(人の意見をよく聞いて相手の気持ちがわかる)、
70では、心の欲することをしても、規範から外れることはないという。

春の感じ方は、それぞれの年代で異なるのかもしれない。
時代が異なっても大きくは変わらないのだろう。
春の陽射しに目を細める。
30代最後の春を迎えているのに、
惑いはまだ消えそうにないけれど……
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利根川の麓に建つ木製の標柱は?

2018年04月03日 | 利根川・荒川の部屋
羽生市稲子の土手の麓に建つ案内標柱。
木の柱で、そこには「利根川」と「埼玉用水」と書かれている。

この標柱を北に向かうとすぐに利根川の土手だ。
「利根川」と「埼玉用水」を案内する標柱は、管見だがなかなか見ない。
昭和の時代に建てられたものではないだろうか。

僕が高校生だった頃、
ロードレース大会は利根川の土手の上を走るコースだった。
大天白神社近くからスタートとして、利根川に向かって走る。
そして土手を登り、永明寺古墳近くでUターンして帰って来る。

どこで利根川の土手を上り下りしたのか?
それは、木製の標柱が建つ場所だった。
標柱から北に向かえばすぐに利根川の土手がそびえ立っている。
ここから上り、村君に向かってひたすら走ったのだ。

僕が高校生の頃、標柱はすでに建っていた気がする。
少しだけ新鮮に見えたのを覚えている。
この道は、かつて存在した「稲子河岸」へ続く名残だろう。

西には諏訪神社、東には源昌院。
絶対に負けたくない同級生を相手に、
本気でロードレースを走った頃のこと。
源昌院の開基が羽生城主家臣の不得道可(鷺坂軍蔵)であることや、
稲子に伝わる人柱伝説など、まだ知らなかった頃の話だ。

ところで、利根川では引堤工事が進行中だ。
土手を強化するために幅を広くする工事で、
麓に建っていた家は近くに移ったり、
全く別の場所に転居するなどしている。

景色は少しずつ変わり、
僕らが走ったコースも間もなく消える。
木製の標柱はどうなるのだろう。
そのまま残るのか、それとも撤去されるのか……。

ちなみに母校では、
ロードレース大会に利根川沿いを走ることはないという。
荒川沿いがコースなのだとか。
それを思うと、利根川の麓に建つ標柱は、
退職した優しい用務員さんのように見えてくる。


埼玉県羽生市稲子
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