クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

元祖「羽生音頭」はいつ発表された?

2019年10月11日 | 近現代の歴史部屋
小学生のとき、「羽生音頭」を躍った記憶があります。
ただ、僕が躍ったのは「新・羽生音頭」の方でしょう。
「新」ということは、「旧」があります。

元祖羽生音頭は、昭和30年6月発行の「羽生市広報」にて初めて発表されました。
『行田・加須・羽生の昭和』(いき出版)には、
その「羽生音頭」を躍る人たちを写した写真が出てくるでしょう。

「羽生音頭」の作詞者は“柳八重”で、
作曲者は“米山正夫”です。
歌手は“霧島昇”と“久保幸江”、
振付は“則武昭彦”といった面々です。

柳八重氏は「柳夢路」というペンネームを使用していますが、
八雲神社の宮司であり、羽生町役場の助役を務めた人物でもあります。
この八重氏が師事していたのは玉敷神社の宮司であり、
国学院大学の総長だった河野省三氏です。
そのような縁もあってのことでしょうか。
「羽生音頭」作詞の校閲は河野氏が行いました。

同年5月30日、臨時市議会にて羽生音頭製作に係る予算が議決。
6月2日にレコードに録音、
同月14日には振付指導会も終了し、
翌15日発行の市広報に発表となった次第です。

さて、作詞者の柳八重氏は20代の頃から妙に惹かれる人物です。
若気の至りで小説のモデルに書いたこともありましたが、活字にはなっていません。

明治29年生まれの八重は、同44年に河野省三に師事。
翌年に羽生町役場に就職し、助役まで務めましたが、
戦後の昭和21年に自らその職を辞しました。
没したのは昭和33年のことで、
「運命とは……運命とは……」と口にしたのが最後の言葉だったそうです。

読書家で文筆家の一面を持っていた八重は、
『羽生町誌』や『羽生町要覧』などを著しています。
親族の方の話によると蔵書があまりにも多く、
「お宅は本屋ですか?」と訊ねる人もいたのだとか。

ちなみに、羽生城研究者の冨田勝治氏も柳氏と親交があり、
郷土研究会などでしばしば顔を合わせていたようです。
神職や行政の顔を持つ八重氏ですが、
主に歴史の面で冨田氏と研鑽し合っていたのでしょう。

そんな柳八重氏が作詞した「羽生音頭」は、
羽生の地域資源と言っていい単語が多く出てきます。
町場と上新郷にゆかりのあるものが多く、
冨田氏と親交があったとはいえ、さすがに「羽生城」の言葉は登場しません。
市民がわかりやすく、親しみのあるものをピックアップしたのでしょう。

せっかくなので、「羽生音頭」の1番の歌詞を引用して、
この記事を締めくくりたいと思います。

  羽生良いとこ音頭もはずむ サテ
  足袋と被服の ソレ
  足袋と被服の宝島
  ヨイヨイ ヨイトコ宝島
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映画「人間失格」に描かれる太宰治に

2019年10月08日 | ブンガク部屋
映画「人間失格」のポスターは太宰治役である小栗旬が大きく写っていますが、
実のところ、主役は太宰をとりまく3人の女性たちです。

妻の美知子、
伊豆の太田静子、
太宰と共に入水する山崎富栄。
実際、この映画の副題は「太宰治と3人の女たち」。

田部シメ子(田辺あつみ)は一瞬登場しますが、
さすがに太宰の晩年を描いているので小山初代は出てきません。

大人になると太宰の印象は変わってきます。
10代に親しんだ作家が、そのままの像でいることは稀かもしれません。
太宰治は好きな作家の1人であることは変わりませんが、
「人」としての評価は十代の頃とだいぶ違います。

映画の中では、太宰は流行作家として描かれています。
さも自立しているような印象ですが、
彼が大地主の息子であることを忘れてはならないでしょう。

太宰が小説を書き続けられたのも実家かから仕送りがあったからです。
それは所帯を持ってからも続いていました。
その経済的援助がなければ「作家太宰治」が現在の評価を得ていたかは疑問です。

非合法運動、卒業しようとしない大学、鎌倉での心中事件、
小山初代の過ち、水上での自殺未遂とハチャメチャな青春時代を送っています。
だからなのか、十代の頃は太宰が言う「苦悩」の言葉は違和感を覚えませんでした。
映画でも太宰が「苦悩」の言葉を口にするシーンがありますが、
大人になるとパロディとして感じてしまうのは寂しいことかもしれません。

ところで、映画「人間失格」で最も目に留まったのは子どもです。
太宰治の子どもたちが登場します。
妻との間にできた3人の子、
また太田静子の間にできた赤ちゃんですが、
父太宰治はどのように見えていたのでしょうか。
(内2人は作家になったことは周知のとおりですが)

大人になると、山崎富栄が太田静子の元へ行かせようとしなかったことに、
やるせない気持ちになります。
つまり、太田静子が産んだ子ども(のちの太田治子氏)は、
一度も父親に会えなかったわけです。
それを不憫に思ってしまうのは、十代のときにはなかった感情です。
太宰を「男」でなく「父」として見ているからなのでしょう。

太宰が入水したとき、遺書のほかに玩具が3つ置かれていたということです。
自分の子どもに宛てた玩具だったようですが、やはりやるせない感情を覚えます。
太宰が死の間際に子どもを想う気持ちがあったということが、
かえって切ないのです。

映画「人間失格」は女性目線で描かれています。
観客も女性が多かったように思います。
それにしても、作家が映画の主人公になってしまうのは太宰治ならではでしょう。

桂英澄は、太宰のことを「懐かしい人」と言っています。
一度も会ったことがなくても、いまでも多くの人に読まれているのは、
太宰が「懐かしい人」として私たちの心の琴線に触れるからなのかもしれません。
コメント (2)
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