クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

弥勒でつながる『田舎教師』と『鬼平犯科帳』? ―羽生文学散歩(17)―

2016年09月28日 | ブンガク部屋
羽生市弥勒には「弥勒野」が広がっていた。
ここに生えていた萱(かや)は、忍城の屋根修理に使われていたという。
ゆえに、一般の者が無断で刈り取ることはできなかった。

黄色い“おみなえし”の花が一面に咲いていたという弥勒野。
いま目にするものとは全く別の光景が広がっていたのだろう。

現在は高速道路が通り、住宅や会社が建っている。
“羽生パーキングエリア”があるのも弥勒だ。
池波正太郎の『鬼平犯科帳』の世界をモチーフとした「鬼平江戸処」があるパーキングとしても知られる。

中に入るともう別世界。
多くの人で賑わい、たくさんのお土産と食事処がある。
足を運んだだけでも旅をしている気分になれる。
弥勒野が広がっていた頃には想像もできない世界だろう。

「田舎教師」と「鬼平犯科帳」。
教師物語と捕物帳。
僕が中学生だった頃には全く想像もできなかった世界だ。
弥勒にはそんな面白い題材の組み合わせを見ることができる。
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孔雀の間には月下の棋士がよく似合う? ―起雲閣―

2016年09月25日 | ふるさと歴史探訪の部屋
高校生のとき、『月下の棋士』に夢中になったことがある。
いまはない羽生市内の古本屋でたまたま立ち読みし、
迷わず即買した放課後。
以来、再読を含めて愛読している。

その題名の通り、棋士をモチーフにした漫画だ。
作者は能篠純一。
小学館から全32巻単行本が発行され、
のちにドラマ化もされた。

あらすじ紹介は避けるが、
最後は主人公「氷室」と「滝川」が宿命の対決をする。
その対決の舞台となった「初きよ」。
物語では、近代ビルが建ちあまり知られていないように設定されているが、
起雲閣がモデルになっている。

実際、著名な棋士が起雲閣で対決している。
それは誰か?
“谷川浩司”と“羽生善治”だ。

第5期竜王戦で激しく火花を散らした舞台としても知られる。
対決部屋は孔雀の間。
1992年の12月のことだった。

『月下の棋士』の愛読者としては、谷川・羽生両棋士の対決よりも、
その部屋がどの場面で登場したかに想いを馳せてしまう。
実際に『月下の棋士』を持って起雲閣へ行けば、親近感は倍増だろう。

ちなみに、孔雀の間は作家舟橋聖一にこよなく愛されたという。
彼が特注した満寿屋の原稿用紙を持って、この部屋でペンを走らせたのだろうか。
作家・武田泰淳もこの部屋で執筆したらしい。

それぞれの歴史がこの部屋には刻まれている。
起雲閣へ行き、『月下の棋士』を読み返したくなる人は多いに違いない。


孔雀の間(静岡県熱海市)




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旧北川辺町に“砂丘”が残っている? ―飯積河畔砂丘―

2016年09月23日 | 利根川・荒川の部屋
飯積河畔砂丘は、旧北川辺町(現加須市)にある。
現在の利根川の流れではなく、旧流路が形成した砂丘だ。

砂丘の全長520メートル。
往古はもっと長く連なっていたのかもしれない。
時代の流れと共に消えたのだろう。
文化財に指定されているわけではない。
物言わず、静かに横たわっている。

砂丘の上には民家や寺が建っている。
砂丘の麓には工場もあり、
「昔」と「今」が交錯している印象を持つ。

30歳の夏、自転車でここを訪れたことがある。
夢を叶え、外国で仕事をしていたNさんが帰って来たばかりで、
およそ7、8年ぶりの再会に一緒に呑むことが多かった。

光陰矢の如し。
気が付けば、それから7年の歳月が流れている。
Nさんは外国人と結婚。
いまやいつ日本に帰って来るかもわからない。

Nさんとは、2人目の子どもの出産を間近に控えているときに会ったのが最後となっている。
お腹の大きな彼女を見るのは初めてだった。
「おっさんになったな」と、彼女はぼくを見て笑った。

Nさんは外国の空の下で暮らしている。
未来に思い描く夢を居酒屋で話していた20代は遠い。
飯積河畔砂丘まで自転車を走らせた夏も離れていく。
日々は川の流れのように過ぎ去り、
かつての季節を思い出すことはなくなっていくのかもしれない。

7年前と変わらない印象で横たわる飯積河畔砂丘。
「今」と「昔」がつながるそこには、
「夢」も一緒に織り交ざっている。

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田舎教師の“教室”は弥勒高等小学校内のどこか? ―羽生文学散歩(16)―

2016年09月21日 | ブンガク部屋
弥勒高等小学校跡は羽生市弥勒にある。
現在は跡地に文学碑が建っているが、
学校の面影は見当たらない。

『田舎教師』の主人公“林清三”は、
はじめ行田からこの小学校まで通勤していた。
主人公のモデル“小林秀三”も実際にその距離を通勤していたらしい。
あまりにも遠いので羽生の建福寺に移るが、
それでもなかなかの距離だ。

秀三は明治34年から弥勒高等小学校の教壇に立ち、
生徒たちに勉強を教えていた。
女生徒の「田原ひで子」(大越もん)さんはここで秀三から教えを受け、
作文の添削指導を受けている。
作品には登場しないが、
のちに日本画家として活躍する“小林三季”も秀三の教え子として通っていた。

学校には「校長」(平井鷲蔵)をはじめ、
同僚の「関訓導」(速水義憲)もいた。
小川屋の娘の「お種」(小川ネン)は、
この学校まで弁当を届けていたというわけだ。

学校の校門は街道に向かって建っていた。
玄関は校舎の中央に位置していたという。
秀三が教えていた教室があったのは東の隅。
風水的視点で見ると、教室はいい位置にあったのかもしれない。

秀三はここで何を考え、どんなことを想いながら働いていたのだろう。
小説のように、最初は田舎に埋もれていく自分に悲観していただろうか。
ただ、秀三は生徒から慕われていたらしい。
本人がどう思うにせよ、教師の職は向いていたのではないか。

もし秀三が病を患わず長生きしていれば、
正教員となって長く教鞭を執っていただろうか。
そうなれば多くの教え子が巣立ち、故郷に錦を飾っていただろう。
そして花袋の創作意欲を刺激せず、
『田舎教師』は生まれなかったに違いない。

運命に従う者を勇者という。
花袋は作品の中で主人公にそう言わせている。
主人公はいち教師として生きていくことを決意し、病に倒れていった。
秀三の「運命」とは、
小説の中で「教師」と生きていくことだったのかもしれない。

※写真は旧文学碑(埼玉県羽生市弥)
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羽生・加須の“旧日本橋”は歴史になった?

2016年09月19日 | 近現代の歴史部屋
かつて加須から羽生市三田ヶ谷方面へ向かったとき、
レトロな雰囲気を漂わす橋が架かっていた。
その橋を“日本橋”という。

中川に架かっていた県道三田ヶ谷礼羽線の橋だ。
昔の街道を感じさせるものだったが、
平成24年に新しい橋に架け替えられた。
道路も整備され、「昔の街道」といった雰囲気は薄れてしまった。

旧日本橋はこの世から消えてしまったのだろうか。
いや、そうではない。
実は、加須市に現存している。

国道125号線沿いの小さな広場に移設された。
かつて「一清堂」という書店があったが、
その近くと言えばわかりやすいだろうか。
(新旧の125号線が合流するところ)
往時の姿を後世に残すため、そこに移設したという。

それほど親しまれ、愛され続けてきた橋だったのだろう。
確かに、壊してしまうにはもったいない雰囲気がそこにはあった。
旧日本橋は架け替えられ、「歴史」となったということだ。

ちなみに、旧日本橋は昭和13年の建設という。
なぜ日本橋なのか、その由来は不明。
戦前に建設された橋ということもあり、
その老朽化が懸念されたために架け替えられる運びとなった。

移設されたとはいえ、往時の雰囲気をそのまま残すには無理がある。
下を川が流れ、近くには民家や樹木が立ち、
広がる田んぼたちと一体となって独特の存在感を放っていたのだ。
橋だけとなったいまは、歴史的建造物としての雰囲気を漂わせている。
こうして第二の時を刻んでいくのだろう。

現在は国道沿いの広場にポツンと佇む旧日本橋。
見学する人はいても利用者はいない。
しかし、地域の歴史を伝えるものとして、
未来の懸け橋となっていくに違いない。


旧日本橋(埼玉県加須市)
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羽生の郷土資料館の“30年”を振り返る?

2016年09月16日 | お知らせ・イベント部屋
羽生市立図書館と郷土資料館は、
今年で開館30周年を迎えている。
それを記念して、9月17日(土)より「郷土資料館30年を振り返る」展を開催する。

市広報によれば、パネル展示とのこと。
昔懐かしい講座の写真や展示ポスターなどが展示されているのだろう。

30年前、ぼくは小学生だった。
「郷土資料館」は図書館の一部と思っていた頃で、
“羽生城”の存在を同館で初めて知ったときの衝撃は忘れられない。
『田舎教師』や清水卯三郎、
宮澤章二や自然系の生きもの展、昔の暮らし展などが開催されていたことなど懐かしい。

郷土資料館は地域の“歴史”や“文化”との出会いの場だ。
同時に“資料”との出会いでもある。
振り返って、図書館とは違う形の学びの場だったと思う。

もし郷土資料館がなければ、地域の歴史や文化に触れる機会は少なかっただろう。
羽生城を知るのもずっとあとになっていたかもしれない。
その意味で同館から受けた影響は大きい。

「郷土資料館30年を振り返る」は、羽生城のポスターも展示されているだろうか。
展示物を通してその時代に想いを馳せながら、
当時の自分自身にも会えるかもしれない。

開催期間(前期)は9月17日(土)~10月2日(日)まで。
開館時間は午前9時~午後5時。
休館日は、毎週火曜日と9月23日(金)となっている。
この機会に足を運びたい。
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同級生ラーメンには何が寄り添う?

2016年09月13日 | グルメ部屋
秋にはラーメンがよく似合う。
秋風が吹くと、ラーメンの温かさが優しく感じられる。

K君は新規のラーメン店に連れて行ってくれる。
情報通でいろんな店を知っている。
K君と会えば呑むことの方が多いのだけど、
時折ラーメン店のカウンターに並んで麺をすすっている。

K君とは中学時代からの付き合いで、高校も一緒。
入学したばかりの頃は一緒に弁当を広げていた仲でもある。
高校を卒業してからは接点がなくなったが、
文学賞を受賞したのをきっかけに声を掛けてきてくれて、
時折会ってはお酒を呑んだり、ラーメンをすすったりしている。

K君は会うたびにはまっているものが違う。
あるときはジャズ、あるときはオタク(?)歌手、あるときはゲームで、
村上春樹とマルセル・プルーストを愛読し、
一人でヨーロッパを旅したかと思えば、長崎のグラバー邸に足を運び、
特盛ラーメンを愛すジロリストのK君。

いまは何にはまっているのだろう。
会ってしばらく経っているから、
新しい分野を開拓しているかもしれない。
新規ラーメン店もリストに加わっているだろうか。

同級生と食べるラーメン。
湯気の向こうに、日常の慌しさが身を潜めている。
新しく行く店でも初めてではないような。
味わったことのないラーメンでも学食で食べたことがあるような。
同級生と肩を並べてすするラーメンには、
いつも懐かしさが寄り添っている。
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田舎教師の銅像をどの角度から眺める? ―羽生文学散歩(15)―

2016年09月11日 | ブンガク部屋
羽生市弥勒には“田舎教師の像”がある。
法元六郎の手による銅像だ。

パンフレットなどでよく使用される銅像でもある。
主人公のモデル小林秀三より、
銅像の写真の方が多く使用されているかもしれない。

小林秀三は小説のモデル。
銅像は「田舎教師」のイメージ像。
この銅像を目にして『田舎教師』を読むと、
思い描く主人公の造形に多少影響があるだろうか。

銅像は24時間いつでも見ることができる。
昼に見てもよし、深夜に訪ねてもよし。

今回の文学散歩では、時間の都合で車中からの見学だった。
歩いてじっくり見てもいいし、
車中から眺めてもいい。
正面からではなく、背中や横から眺めるのを好む人もいるだろう。

羽生駅から田舎教師の銅像まではだいぶ距離がある。
歩いて1時間で着くだろうか。
そういう次元。
それでも歩いて銅像を訪ねる人はいるらしい。
そのとき銅像はどんな表情で来訪者を迎えるのだろうか。
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大利根の砂原に“砂丘”がある? ―原道河畔砂丘―

2016年09月08日 | 利根川・荒川の部屋
古利根川沿いには“河畔砂丘”が現存している。
利根川が運んだ土砂を季節風が巻き上げて形成された砂丘だ。
日本では珍しい内陸砂丘だが、その多くは文化財に指定されておらず、
時代の流れとともに消滅していく可能性が高い。

羽生市で二俣に分かれていた利根川は、
会の川と浅間川と呼び名がそれぞれ変わる。
前者は南下する流れ、後者は東へ向かう筋。

とはいえ、そのまま千葉県銚子に向かって流れるのではなく、
江戸湾へ注いでいた。
旧北川辺町(現加須市)を流れる合の川筋もあれば、
加須市佐波付近で南下する浅間川筋があったりと、まさに八百八筋。

分かれた川は、そのまま別方向に向かうのではない。
やがて合流する。
それに時代によって流れも変わるから、
複雑怪奇で一筋縄ではいかない。

そんな古利根川を追いかけるのに、河畔砂丘は一つに目印になるだろう。
会の川沿いには発達した河畔砂丘が現存し、
志多見の砂丘は埼玉県の天然記念物に指定されたばかりだ。

もう一つの流れ、浅間川沿いにも砂丘はある。
例えば旧大利根町。
砂原から細間にかけて砂丘が横たわっている。
全長1,400メートル、最大幅は180メートルの砂丘で、
最大の標高は24.8メートルに及ぶ。

この砂丘を“原道河畔砂丘”という。
砂丘のそばには民家や工場が建ち、やや肩身が狭そうに見える。
時代の流れによって削り取られた箇所も少なくないだろうが、
その高まりは確かな存在感を放っている。

とはいえ、意識しなければ決して目には留まらない。
前述したように、文化財に指定されているわけではないから説明板はどこにもない。
それが「河畔砂丘」ということを知らない地元民もいるかもしれない。
確かな存在感を放つのは、見る側が確固とした意識を持ったときだ。

ちなみに、原道河畔砂丘の北側には、人柱伝説を持つ砂原弁財天が祀られている。
社殿の周囲にある池は復元されたものだが、
元々は大水の切れ所だったという。
そのそばに河畔砂丘が発達しているのも頷ける。


旧大利根町(現埼玉県加須市)にて


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お種さんの資料館はどこにある? ―羽生文学散歩(14)―

2016年09月06日 | ブンガク部屋
“お種さんの資料館”は羽生市弥勒にある。
円照寺というお寺内にそれは建っている。

知る人ぞ知る資料館だろう。
羽生市民でも、その資料館を知っていて、
かつ実際に足を運んだ人はどのくらいいるだろうか……

我々一行は発戸を離れ、お種さん資料館へ。
田園風景や道端に咲く紫陽花を眺めながら弥勒へ向かった。

お種さんとは誰か?
小説『田舎教師』に登場する小料理屋の娘だ。
お種さんは次のように登場する。

 この時、清三は其処に立っている娘の色白の顔を見た。
娘は携えて来た弁当を其処に置いて、急に明るくなった一室を眩しそうに見渡した。
(三章)

このあとすぐに、お種さんの人物描写になる。
「評判な美しさというほどでもない」と田山花袋は書く。
そう、とびきりの美人ではない。
が、お種さんは眉のところに人に好かれるような艶があったらしい。
また、ふっくらとした感じの娘だったのか、
頬や腕に豊かな肉付きが見えた、と花袋は描写している。

お種さんにも実在のモデルがいる。
それは“小川ネン”。
料理屋「小川屋」の娘であり、
小説に登場するように弥勒高等小学校へ弁当を届けていた。

お種さんは、『田舎教師』の内容に大きく関わってくるわけではない。
主人公に葛藤を与えるわけではないし、
教え子というわけでもない。

しかし、お種さんには妙な魅力がある。
小説にほんのわずかしか登場しないのに、
「お種さんの資料館」が建っているくらいだ。
田山花袋も彼女に好感を持っていたのだろう。
小説の終わりの方に、お種さんのその後について触れている(五十七章)。
ただ、これは史実とは異なるようだ。

生前のお種さんを知る人は、「とても優しいおばあちゃんだった」と言う。
お種さんを語るときの目は和やかだ。
優しく包み込むような人だったのかもしれない。

お種さん資料館は、その名のとおり小川ネンさんゆかりのものが展示されている。
展示点数が多いわけではない。
小さな一室であり、有志によって構成された展示といった感じ。
小川屋で使用されていたという食器なども展示されている。

最初に触れたが、お種さん資料館は公共施設というわけではない。
お寺の境内にある。
見学する際は、お寺のご迷惑にならないようにしましょう。
なお、小川ネンさんは同寺に眠っている。
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川底を歩いて向こう岸に渡る? ―合の川―

2016年09月02日 | 利根川・荒川の部屋
旧北川辺町(現埼玉県加須市)と板倉町(群馬県)の境目には、
かつて利根川が流れた跡が残っている。
その旧流路を“合の川”という。

羽生から加須にかけても“会の川”という旧流路が存在する。
音は同じでも漢字が違うからちょっとややこしい。

かつての利根川は、北川辺の飯積で進路を北に向けていたことがあった。
北を蛇行して、再び南下するというコースだ。
現在この合の川は流れていない。

利根川は、旧大利根町(現加須市)を突っ切るようにショートカットしている。
人工的に川を掘り、ショートカットしたのだ。
川は「新川通」と呼ばれ、利根川東遷事業の一つに数えられている。

合の川跡は田んぼに利用されているところが多い。
場所によっては沼が残っている。
川が締め切られ、残った水が沼となったといった印象だ。
この沼も利根川の名残と言っていい。
釣り堀に利用されているところもある。

合の川の両側には堤が現存している。
車で通ることのできる箇所も有り。
堤を下りて向こう岸に行ける箇所もあるから、
川底を潜って渡るような感覚だ。

ここを滔々と水が流れていた頃はどんな風景だったのだろう。
穏やかに流れていたときもあれば、
人を寄せ付けないときもあったのか。
合の川は天保9年(1838)に締め切られた。
利根川が運んだ土砂と季節風が形成した砂丘の一部残っている(飯積河畔砂丘)。


合の川の底(埼玉県加須市)
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未来館の麓に歴史的遺構がある? ―旧利根川堰堤跡―

2016年08月31日 | 利根川・荒川の部屋
かつて利根川は八百八筋に流れていた。
その流れは時代によって異なりとても複雑だ。
往古はどれが本流かわからないほどだっただろう。

戦国時代末期頃に権現堂堤が築堤され、
川の整備が始まったと考えられている。
文禄3年(1596)には、
羽生で二俣に分かれていた川の一筋(会の川)が締め切られる。

もう一筋は通称“浅間川”と呼ばれ、現在の流路を辿ったあと、
加須市外野付近で南下した。
同市大越付近で北に向かう合の川筋もあり、
川向うの北川辺が埼玉県なのもこの川の影響による。
土地勘がないとなかなかわかりにくい。

現在、利根川には埼玉大橋が架かっている。
が、実はその下の流れは新しく掘られたもの。
元和7年(1621)に開削され、渡良瀬川筋と合流した。
いわゆる「利根川東遷」に数えられる事業として一般的に言われている。
旧大利根町には「新川通」の地名が残っている。

この新川通が開通したことで、
浅間川は主流ではなくなった。
その後の改修により、浅間川は天保9年(1831)に締め切られる。
かつて利根川の本流だった浅間川は川としての機能を失い、
流路跡は水田に変わっていくことになる。

この締め切った堤の一部が現存している。
加須未来館の麓だ。
旧利根川堰堤跡として埼玉県指定史跡になっており、
昭和3年造の石碑も建っている。
説明看板も有り。

石碑の写真が自治体史等に掲載されることも多い。
とはいえ、スーパー堤防の築堤により、周囲の景観は急変している。
写真と現在の景観とでは雰囲気が異なる。
旧堤もスーパー堤防の一部と言ってもいいかもしれない。
現存する堤は一部であり、時代の流れによって消えていった。

堤防のすぐ麓は近代化の波を感じてならない。
しかし、そこから旧流路跡を辿れば、まだ旧提が現存している地区がある。
いまとなっては見向きもされていないかもしれないが、
耳を澄ませば往古の川の流れが聞こえてくるかもしれない。


埼玉県加須市


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田舎教師は“利根川”をどう見たか? ―羽生文学散歩(13)―

2016年08月29日 | ブンガク部屋
『田舎教師』の主人公のモデル小林秀三は、
勤務地に近い利根川や松原に親しんでいたらしい。
音楽が好きだった秀三は、
児童たちのために作曲と作詞をした。
その作品の中に「利根の堤」というものがある。

 利根の堤に吹き匂ふ  すみれ、たんぽぽ、れんげそう
 花色々の春の朝 吹く朝風もそよそよと
 
堤につづく松原の 間に見ゆる帆かけ船
 流るる水もゆるやかに 白帆の影を写しつつ

 やぐらは何処西の方 見上ぐる空に雲もなく
 陽炎燃えて日は長けぬ うれしや今日は日曜日

 遥かに遠く河上に 汽笛の声も勇ましく
 古河丸は上り来ぬ あれあれ波が岸をうつ

 夕日の光輝きて こがね色なす夕波も
 竿にくだきて渡し船 唄ふ船うたおもしろや

この詞は明治35年頃の作と言われる。
この詞に登場する「やぐら」は、
かつて発戸の堤に建っていた内務省測量用の高やぐらという(渋谷専助談)。

「古河丸」は小蒸気船。
東京からこの羽生付近まで運航していた。
利根川には新旧のいくつもの船が行き交っていたのだろう。
川はいわば物流を支えるハイウェイのようなもの。
「堤につづく松原の間に見ゆる帆かけ船」という節は、
かつて盛んだった舟運交通をうかがわせる。

古河丸はドラを鳴らしていたらしい。
先の渋谷専助の話によれば、
ドラの音を聞いた発戸の人たちは昼食にしたという。
お昼のサイレン代わりにしていたということは、
運航時刻は比較的正確だったのだろうか。
いまでは見ることのできない光景だ。

さて、利根川で遊んでいた人間として、
「古河丸は上り来ぬ あれあれ波が岸をうつ」のフレーズはよくわかる。
ぼくらが遊んでいたとき、蒸気船ではないが、
ごくたまにボートが川を滑っていくことがあった。

そのとき水面に波ができ、次々と川岸に打ち寄せるのだ。
普段流れていても波は立たない川。
打ち寄せる波はとても新鮮で、
中学生のぼくらはその一時しか立たない波で遊んだものだ。

いま思えば、その儚い波は、利根川で同級生たちと遊ぶ時間が永遠ではなく、
やがては終わってしまうことを教え、また象徴していたかもしれない。
小林秀三もまた、利根川の流れに何を見ていただろう。
「かくて我は運命に順ふの人なり」と、明治34年の暮れに日記に記した秀三。
打ち寄せる小さな白波はやがて大きな波に変わり、
抗いようのない運命の中へ秀三を呑み込んでいくのだった。


羽生市を流れる利根川
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もしも3度も目を切らなかったならば…… ―ウラ部屋―

2016年08月27日 | ウラ部屋
妻が“ものもらい”を患った。
手術して切るのかと思ったが、放っておいても治るものらしい。

手術して切る。
そんな発想になったのは、保育園から付き合いのあるS君が、
小学生のときにものもらいで手術したからだ。
しかも1度だけではない。
少なくとも3度は切っていた。

彼はそれを「三度目のものもらい」と題して作文を執筆。
コメディタッチで、「作文」というより「小説」のようだったと思う。
それが文集「ささぶね」に掲載された。
すると、他校の生徒から多くの手紙が寄せられる。
感想文という体裁だが、中にはファンレターも含まれていたのではないだろうか。

その当時、S君とは個人的に親しかったわけではない。
クラスのみんなが注目する中、
束になった手紙を先生から受け取るS君を不思議と覚えている。

30代後半になったいま、
S君とはときどき会って酒を呑む。
今夏のはじめにもS君に会い、
駅近くの小さな居酒屋カウンターで肩を並べて呑んだ。

そのとき本の話題に触れた。
高校生の頃、推理小説や星新一の作品に親しんでいた自分に比べ、
古典とか太宰治ばかり読んでいたな、とS君はぼくに言った。

ぼくはいまでも彼の本棚を思い浮かべることができる。
そこには赤川次郎の青い背表紙や、星新一の文庫で埋まっていたが、
安倍公房や遠藤周作、サリンジャーの本もあった。

確かに、S君とは読むものが違っていたかもしれない。
でも、ぼくはS君の影響を受けていたし、
本を買うときは決まって彼の顔が思い浮かんでいたものだ。

そのことをぼくが言うと、S君は笑ってビールジョッキを傾けた。
冗談に聞こえただろうか。

10代の頃、ぼくはS君とEさんから読書の影響を受けている。
本の貸し借りをしたり、小説の感想を言い合ったりする2人に
いつの間にか刺激を受けていたものだ。
もし彼らとの接点がなければ、
本棚を本で埋めたいなどとは思わなかっただろう。
ぼくの本棚にはいつまでもザクⅢ(プラモデル)が飾られていたはずだ。

本を読めば、不思議と自分でも書きたくなる。
それはS君やEさんも同じではなかったか。
ましてやS君は「三度目のものもらい」が文集に掲載され、
たくさんの手紙を貰った実績がある。

ぼくは、2人がいつか物書きになるのではないかと漠然と思っていた。
勝手なぼくの想像だ。
2人がそんなことを言ったことはない。
が、物書きになった2人の横に、
ぼくもいられたらいいなとぼんやり考えていた。
16歳が思い描く具体性も根拠もない未来像。

そんな漠然とした考えを、高校を卒業しても持ち続けることになろうとは、
そのときは思いもしなかった。
ただの想像でしかないはずだった。
こだわりを持つつもりもなかった。

あれから短くはない歳月が流れ、
S君は3児の父親として息災に暮らしている。
S君は販売と経営関係、Eさんは教育関係の仕事をしている。

あの頃想像もできなかった30代後半。
ぼくは高校生の頃に漠然と描いていたものを追いかけ、
何かを失い続けても忘れられないでいる。

箸にも棒にも引っかからない文章を多々書き散らしながら、
いくつかは活字となって紙面に掲載され、出版もした。
思い描いた未来とは違っていても、
本を読み、文章を書くという軸の線上に日常がある。

もしもS君がものもらいにならなかったとしたら……。

今夏のはじめに呑んだS君。
妻のものもらい。
カチリと何かがかみ合う音が聞こえた気がした。

もし彼が、ものもらいを3度も患わなかったとしたら、
それを作文に書かなかったとしたら、
何の反響もなかったとしたら……。

本棚のザクⅢは飾られたままだったろうか。
あるいは全く別の人がぼくの日常にいただろうか。

ぼくは一度もものもらいになったことがない。
痛いのか痒いのかすらわからない。

ちなみに、「ものものらい」は麦粒腫(ばくりゅうしゅ)の俗称で、
「よその家から物をもらうと眼病がなおるという俗信から生まれたもの」だという(『日本国語大辞典』)。
結局彼は、小学生の頃に何度目を切ったのだろう。

ものもらいかもと言う妻の目を見ながら、
居酒屋カウンターで合ったS君の目を思い出した。
S君の姿は小学生や高校生の頃の姿に変わる。
窓の外で鳴くツクツクホウシ。
書き散らした原稿が風に舞うように、
記憶の断片があちこち交錯していた。
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埼玉県内で“三国橋”が架かっている?

2016年08月25日 | 利根川・荒川の部屋
小さな水路に架かる小さな橋。
三国橋と言う。

埼玉県民や茨城県民にとっては、
その名を聞くと渡良瀬川に架かる三国橋が思い浮かぶかもしれない。
が、その「三国橋」ではない。
彦八郎用水(古川落)に架かる橋である。

それは埼玉県内にある。
県をまたがっていない。
なぜ三国橋というのか?
行田、騎西、加須にまたがっていることに由来している。

厳密に言えば「国」ではない。
またがっているのは村。
すなわち、関根村(行田)、外田ヶ谷村(騎西)、阿良川村(加須)の三村だ。
あるいは領。
忍領、騎西領、羽生領の3つにまたがっている。

この辺りは、古利根川と荒川(星川)の影響を受けていた。
高低差があり、水不足に悩まされるところもあれば、
水がなかなか抜けない場所もあっただろう。
現在は水田が広がっているが、このような景色はごく最近のことと思われる。

何気ない場所で何気なく架かっている三国橋。
渡るのに子どもの足でも1分もかからない。
その傍らには、道地圦樋に関連する石碑が2基建っている。

妙に心惹かれる橋だ。
昼間もさることながら、深夜に足を運んだこともある。
昼と夜とで何かが変わるわけではないが、
暗闇にひっそりと架かる橋というのも風情がある。
雨に打たれる橋も個人的に好きだ。

小さな道なので、車は通らないと油断することなかれ。
思いのほか車が通る。
欄干も低いから、子どもと一緒に行くときは細心の注意を払いたい。
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