クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

古墳から“霊鏡”が現れた? ―赤城塚古墳―

2016年07月27日 | 考古の部屋
“三角縁神獣鏡”(三角縁仏獣鏡とも言う)が発見された古墳が群馬県板倉町にある。
それは“赤城塚古墳”。
渡良瀬川のほど近くにその古墳は横たわっている。

円墳で墳頂には西丘神社が祀られている。
4世紀から5世紀にかけて築造された古墳と考えられている。

三角縁神獣鏡は発掘調査によって出土したわけではない。
延宝4年(1676)に地元の農夫によって発見された。

突然こんなものがでてきたのだから驚いたのだろう。
鏡に対する知識がなくとも、霊験あらたかなものという直感は働く。
ゆえに「霊鏡」と呼び、「鏡陵天太神」と名付けられた。

そして、発見経過を刻した“鏡陵皇太神碑”を建立。
それは安政4年(1857)のことだった。
碑には三角縁神獣鏡の完形が刻されている。
この碑そのものも町の指定文化財。

神社の境内は木々が生い茂り、空気が違って感じられる。
前方後円墳のように見えるが、円墳だという。
三角縁神獣鏡は一体どこからやってきたのだろう。
想いを馳せれば、渡良瀬川や利根川が意味深に見えてくるかもしれない。


赤城塚古墳(群馬県板倉町)



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羽生に「蒲団」の娘が眠っている? ―羽生文学散歩(7)―

2016年07月25日 | ブンガク部屋
あまり知られていないことだが、
建福寺には田山花袋の小説「蒲団」ゆかりの人物が眠っている。
それは一体誰か?
“三村千鶴子”である。

田山花袋の「蒲団」と言えば、
去っていく女弟子の蒲団に顔をうずめ匂いを嗅ぐという
日本近代文学に多大な影響を与えた作品として知られている。
内容としては、昔もいまも「しょーもない」と思う読者が大多数だろうが、
当時としてはセンセーショナルな小説だった。

私小説の草分け的存在だ。
本来自然科学的なものだった自然(しぜん)主義が、
自然(じねん)小説へ梶を取ったと言っても過言ではない。

「蒲団」にもモデルがいる。
蒲団の匂いを嗅ぐ文学者は花袋自身。
その蒲団で寝ていた女弟子は、
“岡田(永代)美知子”がモデルとなっている。
実在した人物であり、花袋のもとで実際に文学修行をしていた。

“千鶴子”は美知子の長女だ。
無論、花袋の子ではない。
永代静雄との間にできた子だった。

事情により、千鶴子は建福寺住職・太田玉茗の養子に入ることとなる。
花袋がその間に入っていたことは言うまでもない。
岡田美智子自身も羽生に来たこともある。
当然、建福寺の山門も潜っている。

玉茗に預けられた千鶴子は、
順調に成長していればどんな人生を歩んでいただろう。
文学を毛嫌いするようになったか、
それとも実母や養父の影響を受けて創作の道を辿る人生もあっただろうか。

しかし、千鶴子はわずか2歳でこの世を去ってしまう。
明治44年6月30日のことだった。
7月2日に葬儀。
花袋も葬儀に参列した。

玉茗は懇ろに弔い、建福寺境内にその墓碑を建てた。
引き取ってまだ間もなかったとはいえ、
玉茗には実子の娘がおり、心は決して穏やかではなかったはずだ。

田山花袋は千鶴子のはかない人生に想いを馳せ、
小説「幼きもの」を書く。
その作品は、明治45年1月の「早稲田文学」に掲載されることになる。

三村千鶴子の墓碑は建福寺の一角に現存している。
小さな墓だ。
気を付けなければ見落としてしまう。

墓碑の表面に刻されているのは、「鶴仙沙彌尼」の銘。
小林秀三の墓参りに行っても、
千鶴子の墓へ足を伸ばす人は多くはないだろう。
『田舎教師』とは直接的な関係はないが、
田山花袋と太田玉茗、そして岡田美知子の不思議なつながりをいまに伝えている。

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幸手に残る“押堀”は? ―高須賀池―

2016年07月22日 | 利根川・荒川の部屋
高須賀池は埼玉県幸手市にある。
天明6年(1786)の利根川堤防の決壊によってできた池で、
いわゆる押堀だ。

とはいえ、いまある形は昭和22年のカスリン台風によってできたもの。
以前は、南北に伸びる形をしており、最大深度は6メートルだったとか。
(現在は水深10メートルを有している)

池の南側は水田が広がっているが、
かつてはその辺りが池に覆われていた。
その用水は明治期の迅速図などで確認できる。

埋め立ての話も持ち上がったこともあったらしい。
が、現在は公園として整備されている。
釣り場としても知られていて、
休日になると釣り人の姿が目立つ。

なお、池の北側は昔懐かしい雰囲気を漂わす土手が連なっている。
権現堂堤の一部だ。
この堤がいつ作られたのかはいくつ説がある。
天正4年(1576)に後北条氏によるものと考えられている。
天正2年に関宿城を掌握した後北条氏が、
その勢力を大きく伸ばした時代背景が関係しているだろう。

土手の畔には、目や歯の病に効く薬師様が祀られている常福寺が有り。
釣りやウォーキングなど、
人々に親しまれる場所となっている。

ちなみに、戦前には池の生き物や地質など、
学者たちから熱い視線を注がれていたという。
昆虫専門の学芸員と高須賀池について話をする機会があったが、
やはり熱い場所らしい。
「虫目」を持つと、きっと豊かな世界が広がっているに違いない。


高須賀池(埼玉県幸手市)


旧堤
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神霊の宿った“ソロ”の霊験は? ―瘤様―

2016年07月20日 | 奇談・昔語りの部屋
加須市南大桑に“瘤様”がいる。
いや、「ある」か。

瘤様とは何か?
それは“ソロ”の木を指す。

安政年間のこと。
近くに建つ定泰寺には、
淳栄法印という住職がお寺を守っていた。
通称豆木法印とも言い、不思議な力を持っていたらしい。
鳥の鳴き声を人の言葉に聞き分けることもでき、
雨降りの予言もできたとか。

ソロの木はすでにその頃古木だった。
そして大きな瘤があった。
住職は瘤の付いたソロを見上げながら言う。
「一心に祈り、後世のために人々を救おう」

その決意は固かった。
以来、住職は祈り続ける。
祈ること3721日。
真冬でも冷水を浴び、祈願し続けた。

するとどうだろう。
ソロに神霊が宿ったらしい。
この古木に祈れば、
どんな病でも瘤となってはがれて治ると話題になった。

この話はたちまち広がる。
近在はもとより、
遠方から参拝する人があとを絶たなかったという。

ソロの木は、いつしか「瘤様」と呼ばれるようになった。
そして、世代を超えて信仰されることとなる。
まさしく、住職が望んだように、
後世のため人々を救い続けたのだ。

現在も瘤様は信仰を寄せられている。
その由来を伝える石碑が傍らに建てられているし、
「伝承 瘤様」と書かれた標柱もある。

ソロの木は古利根川の堤防上に立っている。
近くは工業団地だが、とても静かな場所だ。
往古は堤防が連なり、流路跡も残っていたのだろう。
いまもわずかながらその名残を目にすることができる。
古利根川に心惹かれる者は、
瘤様もさることながらその地形に目がいくと思う。

それにしても、淳栄法印とはどんな人物だったのだろうか。
鳥の鳴き声を人語と聞き分けられた住職。
鳥と会話もできたのかもしれない。
ほかにも不思議な力があったのではないか。
そんな淳栄法印の精神と霊験は、いまも瘤様に宿っている。


埼玉県加須市

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建福寺前を羽生城の外堀が通っている? ―羽生文学散歩(6)―

2016年07月18日 | ブンガク部屋
建福寺の前を通る道を挟んだところに“溝”がある。
現在はコンクリートの蓋で覆われ、
注意深く観察しないと気付かない。
これは“曼荼羅堀”(まんだらぼり)と呼ばれる堀の一部だ。

建福寺から北に堀を伝って行けば、元キンカ堂の方へつながっている。
南に伝えば正覚院の裏を通り、くねくね曲がってやがて羽生南小方面へ行く。
冨田勝治氏はこれを“羽生城の外堀”と比定した。
城下町を囲う惣構のようなものだ。

確かにこの堀を伝うと、
羽生城下町の北と南の出入り口と比定される「戸張」につながる。
1部は「曼荼羅堀」ではなくなるが、
羽生の町場をぐるっと囲むような形になっているから興味深い。

実は『田舎教師』には、明治当時の曼荼羅堀の描写がほんの少し出てくる。
例えば五十章。

 警察の傍の道に沿った汚い溝には白い小さな花がポチポチ咲いて、
 錆びた水に夢見るような赤いねむの花が微かに映った。

ここに登場する「溝」がまさしく曼荼羅堀だ。
「警察」とはかつてあった警察分署のことで、
現在の警察署の位置ではない。
いまはコンクリートの蓋に覆われて道の一部と化しているが、
当時は「白い小さな花」や「赤いねむの花」の咲く光景が見られたのだ。

1部の堀は広くて深かったというし、
春になれば菜の花に彩られ、たくさんの蝶々が飛んでいた場所もあったと
古老から聞いたことがある。
「曼荼羅堀」(まんだらぼり)の名前の由来も、
町を一周するようにあちこち通っているからともいう。
が、はっきりしたことは不明だ。

「曼荼羅堀=羽生城の外堀」はあくまでも“説”である。
発掘調査の成果による裏付けがあるわけではない。
推測の域を出ない。

もしこれが史実だとしても、惣構が作られたのは近世に入ってからのことだろう。
すなわち、大久保忠隣時代による城の整備と思われる。
戦国期の広田・木戸氏時代には惣構はなく、
天然の沼や湿地で城の守りを固めていたのではないか。
羽生城は縄張りさえもはっきりしない城。
だからこそ、歴史ロマンあふれる城と捉えることもできるだろう。

学生時代、歴史が得意だった小林秀三が、
羽生の歴史に興味があったかは定かではない。
そもそも「羽生城」の存在を知っていただろうか。

少なくとも田山花袋は忍城を知っていても、
羽生城は知らなかったきらいがある。
もし曼荼羅堀を城の外堀とみなしていたならば、
別の書き方をしていたはずだ。
小説の中に「古城天満宮」も登場していたかもしれない。

しかし、小林秀三が城の存在を知らなかったという証拠はない。
弥勒高等小学校の道すがら、立ち寄ることもあったかもしれない。
そんなことを思うのは楽しい。

『田舎教師』と曼荼羅堀。
作品の内容としては何ら関係ないが、
細部の裏側で歴史が交錯している。
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本日、羽生の“図書館・郷土資料館まつり”が開催中です

2016年07月16日 | お知らせ・イベント部屋
本日は羽生の“図書館・郷土資料館まつり”。
両館は併設された施設で、羽生市下羽生948にある。

語り夢空間による昔語り、遊び唄、大道芸
くるみ座による人形劇やおはなし
琵琶演奏と朗読
昔の遊び体験(福笑い、貝合わせ、あやとり、紙相撲など)

という内容が、それぞれの時間帯で開催される。
午前9時30分~午後4時30分までの開催だ。
羽生市立図書館・郷土資料館でお会いしましょう。

※羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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羽生の“図書館・郷土資料館まつり”へ行きませんか?

2016年07月15日 | お知らせ・イベント部屋
羽生市立図書館・郷土資料館は、
平成28年で開館30周年を迎える。
これを記念して、7月16日(土)午前9時30分~午後4時30分に、
“図書館・郷土資料館まつり”が開催される。

語り夢空間による昔語り、遊び唄、大道芸
くるみ座による人形劇やおはなし
琵琶演奏と朗読
昔の遊び体験(福笑い、貝合わせ、あやとり、紙相撲など)

という内容が、それぞれの時間帯で催される。
詳細は図書館・郷土資料館ホームページへ。
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/

開館から30年も経つというのだから、
人も年を取るはずだ。
オープン当時ぼくは小学生だったし、
郷土資料館が併設された施設とは知らなかった。

2階の学習室へ行けば同級生に会えた頃はもはや遠い。
学生時代、図書館で勉強していたという声はよく聞く。
それぞれ思い出があるだろう。
その思い出を振り返るとともに、
7月16日のおまつりに足を運んでみてはいかがだろうか。
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夏休み、虫取りの思い出を“羽生”で作る? ―自然観察会―

2016年07月14日 | お知らせ・イベント部屋
幼い頃、ぼくの家の近くには里山があって、
よく虫取りに出かけた。
ターゲットにしたのは、カブトムシとクワガタ。
時々ヘビに遭遇したが、楽しかった記憶しかない。
大人になったいまでも夢に見るくらいだ。

ただ、当時から感じていたことがある。
虫の名前や種類を知っていたらもっと楽しいんだろうな、と。

だからと言って図鑑を片手に里山に入ることはついぞ一度もなかった。
行動に移すまでの強い気持ちではなかったということだ。

昆虫博士と呼ばれるような同世代や大人もいなかった。
そんな人と幼い頃に出会っていたら、
人生変わっていたかもしれない。
それほど虫取りが好きだった。
ファミコンと同じくらい夢中になっていた。

この夏、羽生市立郷土資料館では
7月30日に“自然観察会”を実施するという。
題して「身近な自然をのぞいてみたら…」。

羽生市水郷公園に生息する生きもの(昆虫など)をアミで捕まえて、
実際に観察してみるという内容だ。
講師は埼玉県立自然の博物館の“曾根﨑猛史”氏。
いわばプロである。
昆虫を観察してふと湧いた疑問など答えてくれるだろう。

幼い頃、こんな企画と出会っていたら間違いなく参加していたと思う。
カブトムシやクワガタ以外に視野を広げるチャンスだ。
知識が深まれば、里山がもっと好きになっていただろう。
色んな生きものと出会えたに違いない。

いまは虫を毛嫌いする子どもが多いという。
だからこそ、自然観察会のような講座に参加したい。
知識が入り、視野が広がれば、新しい世界が広がる。
それによって自然を好きになるかもしれない。
自然環境について考えるきっかけにもなる。
あと、親子のコミュニケーションも深まるのではないだろうか。

参加してさらに虫が嫌いになる可能性もあるが、
それはやってみないとわからない。
人生が変わる夏の可能性だってある。
夏休みの1ページを、羽生の自然観察会で飾ってみてはいかがだろうか。

参加対象は羽生市内の小学生とその保護者。
参加するには、羽生市立郷土資料館まで事前申し込みが必要だ。
詳細は羽生市広報7月号に掲載されている。
問い合わせは同館まで(048-562-4341)。
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『田舎教師』の主人公のモデルはどこに眠る? ―羽生文学散歩(5)―

2016年07月12日 | ブンガク部屋
建福寺には、『田舎教師』の主人公のモデル小林秀三の墓碑がある。
墓地の南側の一角、墓碑は東を向いて建っている。

これまで何人の人が墓前に手を合わせたのだろう。
この人物が存在してなければ、
あるいは21歳の若さで亡くならなければ、
もしくは日記を残さなければ、
『田舎教師』は書かれることはなかったかもしれない。

わりと誤解されることだが、小林秀三は羽生生まれではない。
生まれたのは栃木県足利郡小俣村。
埼玉県ですらない。
先祖は小俣城に仕えた武士で、明治期には織物産業によって潤っていたという。

しかし、火災により埼玉県の熊谷へ移転。
明治33年には熊谷から行田へ移った。

翌年、埼玉県第二尋常中学校を卒業。
弥勒高等小学校の代用教員として勤め始めたのは、その年の4月のことだった。
すなわち、行田から羽生の弥勒まで通うことになった。
ゆえに、『田舎教師』は「四里の道は長かった」と書き出される。

学業生活の中で、秀三が得意としていたのは唱歌・理科・歴史だった。
だから音楽学校を受験し、
日記の中にも植物の名が多く登場するのだろう。

秀三は、代用教員になる数カ月前から日記を書き記していた。
のちに、田山花袋が小説を書くにあたって参考にしたものだ。
この日記がなければ、『田舎教師』は別の形になっていたかもしれない。

花袋は日記を読み、秀三が実際に歩いた場所を訪ね、人から話を聞いた。
作品の中に植物の名が多く出てくるのは秀三の日記のためだ。
花袋自身は全く詳しくなかったらしい。
花袋は秀三の日記を太田玉茗から知らされた。
使用後は秀三の母親の元に返され、羽生にはない。

秀三は児童たちに慕われる先生だったらしい。
児童たちを可愛がる優しい先生だったのではないか。
ある児童の作文に赤を入れた直筆の添削文が郷土資料館で展示されていたが、
優しく指導する姿勢が垣間見られるものだった。

人を惹きつける何かがあったのかもしれない。
花袋は秀三と1、2度顔を合わせただけであり、特別な印象は持たなかったようだが、
心の琴線に触れさせる何かがあったのだろう。
もし、21歳の若さでこの世を去らなければ、
別の形で歴史に名を残す人物になっていただろうか。

病に倒れ、秀三は羽生にて死去。
明治37年9月22日のことだった。
翌年9月9日には墓碑が建立される。
これは家族の手によるというより、
友人や教え子たちが奔走したことが大きい。

その墓碑の傍らには、「田舎教師」と刻された文学碑がある。
こちらは画家の小杉放庵の筆によるもの。
花袋や国木田独歩と親交にあった画家で、
昭和9年に建立された。

秀三の墓碑は立派なものだ。
本体には「故小林秀三君之墓」と刻され、
台座には「生前辱知」とある。
この墓碑を見れば、秀三がいかに慕われていたかがうかがえる。
秀三の墓碑を訪ねる者はあとを絶たない。
『田舎教師』の中にも、
「墓には絶えず花が手向られた」と書かれている(六十四章)。


※最初の画像は雪化粧した小林秀三の墓碑(埼玉県羽生市)
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栗橋の八坂神社は“コイ”が神使?

2016年07月10日 | ふるさと歴史探訪の部屋
旧栗橋町(現久喜市)の夏祭りは“八坂神社”の祭りだ。
天王さまとも呼ぶ。
八坂神社は利根川に架かる利根大橋のそばに鎮座している。

この神社に足を運び、まず目に付くのは神使だ。
神社というと、本殿前の“狛犬”が参拝者を出迎えるのが多い。
が、八坂神社の場合は“コイ”になっている。

魚のコイだ。
それが2体、本殿前におわしている。

狛犬のようないかめしさはない。
このコイは霊験あらたかなもので、無病息災に効くという。
コイに触れ、自分の体をなでるよい。
そのほかに家内安全、商売繁盛、縁結び、
学業成就といった幸も運んでくれるそうだ。

なぜ、神使がコイなのだろうか。
これは八坂神社の創建に由来する。
旧栗橋町は利根川沿いに位置し、しばしば大水に襲われていた。
近くに横たわる宝治戸池は、
大水によって決壊したおっぽり(落堀)と言われる。

慶長年中のことだ。
降り続いた雨によって利根川は満水状態となり、
村人は堤が決壊しないようその補強工事に追われていた。

するとそのときだった。
神輿とおぼしきものが悠々と流れてくることに気付く。
村人たちは覚えず目を見張った。
神輿の周囲を泳ぐコイとカメに視線を釘づけにされた。

1匹や2匹どころではない。
あまたのコイとカメが神輿を囲むように泳いでいたという。
これは霊験あらたかな神輿に違いない。

村人たちは神輿を引き上げ神として祀る。
これが八坂神社の興りとなった。
元は牛頭天王社と名乗ったが、明治期となって現在名に変わった。
ゆえに、八坂神社の神使はコイというわけだ。

利根川沿いの地域ならではの逸話と言える。
漂着したものを祀り、神社となるパターンは多い。
現在は色々な幸をもたらしてくれる八坂神社だが、
以前は疫病退散に最も効いていたのかもしれない。

コイは貴重なたんぱく源でもある。
釣り上げたコイはキャッチアンドリリースはせず、
おいしくいただいていた。

しかし、八坂神社の氏子にとってコイは尊い神使。
食することには抵抗があったのだろう。
とはいえ、貴重なたんぱく源。
そのため八坂神社の祭り月にコイを食すのを避けた。
以前は6月が祭り月だったため、
年齢性別を問わず、氏子たちは誰もコイを食さなかったという。


八坂神社(埼玉県久喜市)
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今日は羽生の夏祭り

2016年07月09日 | お知らせ・イベント部屋
今日は羽生の天王さまこと夏祭り。
夕方まで雨が残るか心配ですが、
羽生でお会いしましょう。
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昭和13年、3人の文学者が羽生を訪れた? ―羽生文学散歩(4)―

2016年07月07日 | ブンガク部屋
旧本堂の前には、“田舎教師史跡巡礼の旅”を記念して建立された碑が建っている。
誰が巡礼に来たのか?
それは川端康成、横光利一、片岡鉄兵の文学者たちだ。

昭和13年、3人の文学者は田舎教師ゆかりの地を訪問。
発案者は片岡鉄兵だった。
それに「いいね」と同意した川端と横光だったが、
実はそれまで『田舎教師』を読んだことがなかった。

列車に揺られ、お三方は北埼玉へと向かう。
『田舎教師』ゆかりの建福寺や羽生館、
利根川や中田などを巡った。
そのときの様子が写真に何枚か残っている。
カメラマン役を引き受けたのは川端康成だった。
そのため写真には川端の姿は写っていない。

文学者たちは羽生で一泊。
宿泊先は、作中にもちらりと登場する「梅沢旅店」だった。
現在の「羽生館」がその場所に当たる。
そのとき横光は巡礼の旅の記念として、
旅店の扇に句を書き記した。

 山門に木瓜咲きあるる羽生かな

この文字が、建福寺の巡礼の碑に刻されているというわけだ。
小説『田舎教師』と直接的なものではないが、
建福寺へ足を運んだ際は併せて目にしておきたい。
なお、このときの巡礼の旅は、
片岡鉄兵が後日「文学的紀行」という小文にまとめている。
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羽生の“天王さま”はどこの例大祭? ―夏祭り―

2016年07月05日 | 民俗の部屋
2016年の“羽生の夏祭り”は7月9日(土)の開催だ。
プラザ通りを含む羽生町場の一部が歩行者天国になり、
各町内の神輿が練り歩く。
山車も有り。

この祭りは明治42年刊行の小説『田舎教師』にも描かれ、
羽生の伝統行事の一つに数えられる。
この行事は、どこの例大祭なのだろうか。

やや見落とされがちだが“八雲神社”だ。
羽生北小学校の近くにその神社は鎮座している。

とはいえ、奥まったところにあるから、
プラザ通りから本殿を見ることはできない。
小さな鳥居は目にすることができるから、
それを目印にすれば辿り着けるだろう。

八坂神社という名称となったのは明治以降のこと。
それ以前はどんな名前だったか?
“牛頭天王社”と言った(『武蔵志』・『新編武蔵風土記稿』)

明治政府の政策による関係で社名が変わったわけだが、
その名残はいまでもある。
「羽生の天王さま」と呼ぶ人はいまでも多い。
地域を疫病や悪霊から守り、息災に日々を過ごせることを祈った。

羽生ではかつて4と9の付く日に“市”が開催されていた(六斎市)。
八雲神社(牛頭天王社)はその市神さまでもあった。
市に出品する商人の多くは八雲神社に参拝しただろうが、
現在はそうした空気は希薄だ。

いずれにせよ、夏祭りは羽生が熱く盛り上がる行事の一つであることに間違いない。
十代の頃は、祭りの開催と共に夏の到来を感じたもの。
ちょうど、中間テストが終わるくらいの時期だったのを覚えている。
7月9日(土)、夏の1ページを羽生で飾ってみてはいかがだろうか。

なお、7月7日(木)から13日(水)にかけて、
各町内の神輿が市民プラザ1階にて展示される。
興味のある方は、併せてご覧いただきたい。

※羽生市ホームページ内
http://www.city.hanyu.lg.jp/docs/2014072400024/
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ボタンを押すと“たなばたさま”が流れる橋は? ―豊野橋―

2016年07月03日 | 利根川・荒川の部屋
もうすぐ七夕。
旧大利根町(現加須市)には、
渡ると「たなばたさま」の曲が流れる橋がある。

それは豊野橋。
中川に架かる小さな橋だ。

これは大利根町出身の音楽家“下総皖一”にちなんで架けられた橋。
下総皖一(しもふさかんいち)は「たなばたさま」をはじめ、
「野菊」や「ゆうやけこやけ」など数多くの童謡を手がけた人物として知られている。
豊野橋に「たなばたさま」を流れるようにしたのは、
町のイメージアップを図るための企画だったという。

この“メロディ橋”はいつ頃架けられたのだろう。
実は、20年以上前にぼくはこの橋に出会っている。
同級生と自転車を走らせて、
偶然ぶつかったのが豊野橋だった。

橋にボタンが付いている。
その横にはメロディ橋の説明。
ボタンを押すと「たなばたさま」が流れ始める。
高校一年生のテンションを上げるのにメロディ橋の仕掛けは十分だった。

どんな道筋で豊野橋に辿り着いたのかは定かではない。
どう帰ったのかも覚えていない。
ただ、メロディ橋の記憶だけはずっと残っていた。
1994年のこと。
少なくとも1994年当時にメロディ橋は存在していたということだ。

メロディ橋のボタンはあの頃と変わらないように思える。
その音色や、橋の下を通る中川の流れも……。

あの頃一緒に豊野橋に辿り着いた同級生は結婚し、
ウエディングドレス姿の写真が年賀状と共に届いた。
15歳のときのような好奇心はすでに失われているのかもしれない。
景色は変わらずとも、あの頃の光景とは大きな隔たりがあるのだろう。
それは自分自身との距離とも言える。
豊野橋に流れる「たなばたさま」は、少しの切なさをもって、
いまも心をくすぐり続けている。


豊野橋とボタン(埼玉県加須市)






中川
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田舎教師はお寺の本堂で下宿していた? ―羽生文学散歩(3)―

2016年07月01日 | ブンガク部屋
建福寺の立派な本堂のすぐそばには旧本堂が建っている。
つまりかつての本堂。
実はこの旧本堂の一室で、
『田舎教師』の主人公のモデル小林秀三が下宿していた。

本堂の右と左に六畳の間があった。
右の室は日が当って冬は好いが、夏は暑くって仕方がない。
で、左の間を借りることにする。
 (十四章)

寺に移った日の夜は晩餐だった。
住職と清三、友人の荻生君の3人がいろいろな話で盛り上がる様子が描かれている。

ちなみに、秀三が建福寺で下宿していたのは、
明治34年5月30日~同35年1月まで。
それ以前は行田から勤務先の弥勒高等小学校に通っていた。

昔の人がいくら健脚と言ってもかなりの距離だ。
連日通うには骨が折れる。
そこで建福寺に移ったのだが、現代人の感覚だと、
羽生の町場から弥勒までも決して近くはない。

そこは秀三にとっては許容範囲だったのだろう。
また、玉茗(作中:山形古城)から聞く文学の話などは、
若い秀三の心を刺激したに違いない。
「どうです、君も何か一つ書いて見ませんか」と、
住職に創作を勧められている(十七章)。

そこで主人公は「自分の才能を試して見よう」と意気込む。
才能もなく学問もない自分には、詩人としての道しかないとまで思う。
しかし、その気持ちは長くは続かない。
作品も完成しなかった。
「思は燃えても筆はこれに伴わなかった」(十八章)

建福寺において、主人公は一つの挫折を味わうことになる。
もしも作品を完成させられたならば、
その後の生き方も変わっていたかもしれない……。

ところが、主人公のモデルとなった小林秀三は、
わりと多く詩作している。
文学的というより、音楽が得意だった秀三は作曲をし、
そこに詩をつけていたようだ。
明治35年頃に作られた「利根の堤」という作などは、
大人になっても口ずさむ人もいたらしい。

だから、『田舎教師』に描かれているほど、
創作に対する挫折感は深くなかったのかもしれない。
「小林夕雲」というペンネームも持っていた。
表現者としての未来像を思い描くこともあっただろうか。
そんな主人公を、本堂に安置された釈迦如来は静かに見つめていた。
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