クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

田舎教師は“利根川”をどう見たか? ―羽生文学散歩(13)―

2016年08月29日 | ブンガク部屋
『田舎教師』の主人公のモデル小林秀三は、
勤務地に近い利根川や松原に親しんでいたらしい。
音楽が好きだった秀三は、
児童たちのために作曲と作詞をした。
その作品の中に「利根の堤」というものがある。

 利根の堤に吹き匂ふ  すみれ、たんぽぽ、れんげそう
 花色々の春の朝 吹く朝風もそよそよと
 
堤につづく松原の 間に見ゆる帆かけ船
 流るる水もゆるやかに 白帆の影を写しつつ

 やぐらは何処西の方 見上ぐる空に雲もなく
 陽炎燃えて日は長けぬ うれしや今日は日曜日

 遥かに遠く河上に 汽笛の声も勇ましく
 古河丸は上り来ぬ あれあれ波が岸をうつ

 夕日の光輝きて こがね色なす夕波も
 竿にくだきて渡し船 唄ふ船うたおもしろや

この詞は明治35年頃の作と言われる。
この詞に登場する「やぐら」は、
かつて発戸の堤に建っていた内務省測量用の高やぐらという(渋谷専助談)。

「古河丸」は小蒸気船。
東京からこの羽生付近まで運航していた。
利根川には新旧のいくつもの船が行き交っていたのだろう。
川はいわば物流を支えるハイウェイのようなもの。
「堤につづく松原の間に見ゆる帆かけ船」という節は、
かつて盛んだった舟運交通をうかがわせる。

古河丸はドラを鳴らしていたらしい。
先の渋谷専助の話によれば、
ドラの音を聞いた発戸の人たちは昼食にしたという。
お昼のサイレン代わりにしていたということは、
運航時刻は比較的正確だったのだろうか。
いまでは見ることのできない光景だ。

さて、利根川で遊んでいた人間として、
「古河丸は上り来ぬ あれあれ波が岸をうつ」のフレーズはよくわかる。
ぼくらが遊んでいたとき、蒸気船ではないが、
ごくたまにボートが川を滑っていくことがあった。

そのとき水面に波ができ、次々と川岸に打ち寄せるのだ。
普段流れていても波は立たない川。
打ち寄せる波はとても新鮮で、
中学生のぼくらはその一時しか立たない波で遊んだものだ。

いま思えば、その儚い波は、利根川で同級生たちと遊ぶ時間が永遠ではなく、
やがては終わってしまうことを教え、また象徴していたかもしれない。
小林秀三もまた、利根川の流れに何を見ていただろう。
「かくて我は運命に順ふの人なり」と、明治34年の暮れに日記に記した秀三。
打ち寄せる小さな白波はやがて大きな波に変わり、
抗いようのない運命の中へ秀三を呑み込んでいくのだった。


羽生市を流れる利根川
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もしも3度も目を切らなかったならば…… ―ウラ部屋―

2016年08月27日 | ウラ部屋
妻が“ものもらい”を患った。
手術して切るのかと思ったが、放っておいても治るものらしい。

手術して切る。
そんな発想になったのは、保育園から付き合いのあるS君が、
小学生のときにものもらいで手術したからだ。
しかも1度だけではない。
少なくとも3度は切っていた。

彼はそれを「三度目のものもらい」と題して作文を執筆。
コメディタッチで、「作文」というより「小説」のようだったと思う。
それが文集「ささぶね」に掲載された。
すると、他校の生徒から多くの手紙が寄せられる。
感想文という体裁だが、中にはファンレターも含まれていたのではないだろうか。

その当時、S君とは個人的に親しかったわけではない。
クラスのみんなが注目する中、
束になった手紙を先生から受け取るS君を不思議と覚えている。

30代後半になったいま、
S君とはときどき会って酒を呑む。
今夏のはじめにもS君に会い、
駅近くの小さな居酒屋カウンターで肩を並べて呑んだ。

そのとき本の話題に触れた。
高校生の頃、推理小説や星新一の作品に親しんでいた自分に比べ、
古典とか太宰治ばかり読んでいたな、とS君はぼくに言った。

ぼくはいまでも彼の本棚を思い浮かべることができる。
そこには赤川次郎の青い背表紙や、星新一の文庫で埋まっていたが、
安倍公房や遠藤周一、サリンジャーの本もあった。

確かに、S君とは読むものが違っていたかもしれない。
でも、ぼくはS君の影響を受けていたし、
本を買うときは決まって彼の顔が思い浮かんでいたものだ。

そのことをぼくが言うと、S君は笑ってビールジョッキを傾けた。
冗談に聞こえただろうか。

10代の頃、ぼくはS君とEさんから読書の影響を受けている。
本の貸し借りをしたり、小説の感想を言い合ったりする2人に
いつの間にか刺激を受けていたものだ。
もし彼らとの接点がなければ、
本棚を本で埋めたいなどとは思わなかっただろう。
ぼくの本棚にはいつまでもザクⅢ(プラモデル)が飾られていたはずだ。

本を読めば、不思議と自分でも書きたくなる。
それはS君やEさんも同じではなかったか。
ましてやS君は「三度目のものもらい」が文集に掲載され、
たくさんの手紙を貰った実績がある。

ぼくは、2人がいつか物書きになるのではないかと漠然と思っていた。
勝手なぼくの想像だ。
2人がそんなことを言ったことはない。
が、物書きになった2人の横に、
ぼくもいられたらいいなとぼんやり考えていた。
16歳が思い描く具体性も根拠もない未来像。

そんな漠然とした考えを、高校を卒業しても持ち続けることになろうとは、
そのときは思いもしなかった。
ただの想像でしかないはずだった。
こだわりを持つつもりもなかった。

あれから短くはない歳月が流れ、
S君は3児の父親として息災に暮らしている。
S君は販売と経営関係、Eさんは教育関係の仕事をしている。

あの頃想像もできなかった30代後半。
ぼくは高校生の頃に漠然と描いていたものを追いかけ、
何かを失い続けても忘れられないでいる。

箸にも棒にも引っかからない文章を多々書き散らしながら、
いくつかは活字となって紙面に掲載され、出版もした。
思い描いた未来とは違っていても、
本を読み、文章を書くという軸の線上に日常がある。

もしもS君がものもらいにならなかったとしたら……。

今夏のはじめに呑んだS君。
妻のものもらい。
カチリと何かがかみ合う音が聞こえた気がした。

もし彼が、ものもらいを3度も患わなかったとしたら、
それを作文に書かなかったとしたら、
何の反響もなかったとしたら……。

本棚のザクⅢは飾られたままだったろうか。
あるいは全く別の人がぼくの日常にいただろうか。

ぼくは一度もものもらいになったことがない。
痛いのか痒いのかすらわからない。

ちなみに、「ものものらい」は麦粒腫(ばくりゅうしゅ)の俗称で、
「よその家から物をもらうと眼病がなおるという俗信から生まれたもの」だという(『日本国語大辞典』)。
結局彼は、小学生の頃に何度目を切ったのだろう。

ものもらいかもと言う妻の目を見ながら、
居酒屋カウンターで合ったS君の目を思い出した。
S君の姿は小学生や高校生の頃の姿に変わる。
窓の外で鳴くツクツクホウシ。
書き散らした原稿が風に舞うように、
記憶の断片があちこち交錯していた。
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埼玉県内で“三国橋”が架かっている?

2016年08月25日 | 利根川・荒川の部屋
小さな水路に架かる小さな橋。
三国橋と言う。

埼玉県民や茨城県民にとっては、
その名を聞くと渡良瀬川に架かる三国橋が思い浮かぶかもしれない。
が、その「三国橋」ではない。
彦八郎用水(古川落)に架かる橋である。

それは埼玉県内にある。
県をまたがっていない。
なぜ三国橋というのか?
行田、騎西、加須にまたがっていることに由来している。

厳密に言えば「国」ではない。
またがっているのは村。
すなわち、関根村(行田)、外田ヶ谷村(騎西)、阿良川村(加須)の三村だ。
あるいは領。
忍領、騎西領、羽生領の3つにまたがっている。

この辺りは、古利根川と荒川(星川)の影響を受けていた。
高低差があり、水不足に悩まされるところもあれば、
水がなかなか抜けない場所もあっただろう。
現在は水田が広がっているが、このような景色はごく最近のことと思われる。

何気ない場所で何気なく架かっている三国橋。
渡るのに子どもの足でも1分もかからない。
その傍らには、道地圦樋に関連する石碑が2基建っている。

妙に心惹かれる橋だ。
昼間もさることながら、深夜に足を運んだこともある。
昼と夜とで何かが変わるわけではないが、
暗闇にひっそりと架かる橋というのも風情がある。
雨に打たれる橋も個人的に好きだ。

小さな道なので、車は通らないと油断することなかれ。
思いのほか車が通る。
欄干も低いから、子どもと一緒に行くときは細心の注意を払いたい。
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見沼代用水路の傍らにあるレンガ造りの近代化遺産は? ―落合門樋―

2016年08月22日 | 近現代の歴史部屋
“落合橋”という橋が見沼代用水路(星川)に架かっている。
加須と鴻巣の境界線で、
近くには田ヶ谷郵便局が建っている。

この落合橋付近に“落合門樋”がある。
レンガ造りのレトロな建設物だ。
それもそのはず。
明治36年に造られたもの。
これは見沼代用水路からの逆水を防ぐために設置された。

この下には古川落が通っている。
小さな溝であり、護岸もされている。
だいぶ整備の手が加わったことがうかがえる。

落合門樋が明治36年の建造とはいえ、
完全なレトロ感を出しているわけではない。
コンクリートの階段が見て取れる。
そこだけ妙に現代的だ。
古川落の改修時に手が加わったらしい。

この門樋は、現在加須市指定史跡となっている。
つまり文化財。
一部姿を変えたからと言って、
貴重な建造物であることに変わりない。

古川落は整備され、星川(見沼代用水路)も改修された。
落合門樋から道を挟んだ田んぼは一段低くなっているが、
これは星川の旧流路跡だろう。
とどまることを知らないときの流れの中で、
落合門樋は今日もたたずんでいる。


落合門樋(埼玉県加須市)


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羽生の発戸には“松原”が広がっていた? ―羽生文学散歩(11)―

2016年08月20日 | ブンガク部屋
昼食後に向かったのは羽生市発戸。
小説『田舎教師』にしばしば登場する地域だ。

利根川に面した発戸(ほっと)には、
かつて“河岸”が存在していた。
江戸へ物を運ぶと同時に、
江戸から来る物や人がたくさんあった。
いまで言う「駅」みたいなものだ。

現在、全く面影はないが、
かつて利根川沿いには“松原”が広がっていた。
往古、発戸に足を運べば、
雄大な利根川の流れを背景に、
美しい松原と河岸の賑わいを目にできたはずだ。
『田舎教師』では次のように描写される。

平凡なる利根川の長い土手、其の中で此処十町許りの間は、松原があって景色が眼覚めるばかり美しかった。ひょろ松もあれば小松もある。松の下は海辺にでも見るような綺麗な砂で、処々小高い丘と丘との間には、青い草を下草にした絵のような松の影があった。
(二十章)

利根川はいまも流れている。
ただ、行田の利根大堰で堰き止められているから、
水量は昔ほどではないだろう。
カエルが小便をしただけで洪水になる、
という印象は受けない。

松原は消滅している。
田山花袋が『田舎教師』に書いたような景色を見ることはできない。
なぜか?
利根川の土手の工事のためだ。

洪水から守るため、利根川の土手は拡幅され、高く土が盛られた。
拡幅工事によって、松原は消滅を余儀なくされる。
時代の流れによるものであり、
もし現存していたならば、文化財に指定されていただろうか。

いまは、利根川の土手が万里の長城のごとく連なっている。
その土手を登れば遠くまで景色を望むことができる。
対岸のずっと向こうにそびえ立つ日光連山。
南を向けば真っ平らに広がる関東平野。
羽生の景色を鳥瞰できる。

昭和54年生まれのぼくが思い浮かべる「利根川の風景」は、
この土手の上からの眺めだ。
物心がついた頃から高い土手が連なっていた。
松原の景色は写真でしか見たことがない。

時代によって「利根川」の印象は異なる。
田山花袋にとって、羽生の利根川と聞いて連想するのは、
川沿いに広がる「松原」だったかもしれない。

Sさんたちを利根川の土手に案内した。
羽生に来たならば、利根川を目にしておきたい。
息を呑むほどの絶景というわけではないのだが、
利根川独特の不思議な空間が広がっている。
この川を背景に人々は生活を営み、
歴史を編んできたことを感じさせてくれるだろう。

ちなみに、田山花袋は『田舎教師』を書くとき、
あちこち踏査をしたが、発戸にも足を運んだらしい。
発戸河岸の松原付近を実際に見たと述べている(『東京の三十年』)。
ゆえに、『田舎教師』に登場する発戸の描写は、
花袋の主観がふんだんに盛り込まれているのだと思う。

では、主人公のモデル小林秀三はどうだったか?
同僚の一人速水義憲の話によると、
発戸に児童を連れて行ったことはほとんどなかったという。
連れていったのは村君方面。
確証を得るには、もう一人くらい証言が欲しいところだ。


埼玉県羽生市発戸
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見沼代用水路の旧流路跡がいまに残る? ―田島橋と藤間橋―

2016年08月18日 | 利根川・荒川の部屋
見沼代用水路の旧流路跡。
かつて国道125号線に面してあったコンビニのわきを入りしばらくすると、
護岸されていない沼がある。
周囲は樹木に覆われ、雰囲気のある沼だ。

これが見沼代用水路の流路跡で、往古は悠々と水が流れていた。
見沼代用水路は江戸期に開削されたものだが、
元々流れていた星川を利用した。
この星川がかつての荒川の本流だった可能性を考えれば、
荒川の旧流路跡と言えよう。

現在、“田島橋”が架かっている。
が、この橋の下の流れは本来なかったということだ。
川が流れていなければ橋もない。
だから、我々は比較的新しい時代に整備された川と橋を渡っていることになる。

その下流の“藤間橋”も同様のことが言える。
現在は直線的に流れているが、
往古は藤間神社(稲荷神社)から西に向かって蛇行していた。
つまり、いまの流れはショートカット。

旧流路跡とおぼしきものがかろうじて確認できる。
旧流路の流れか、人の手が加わったものか、あるいはその両方か、
堤らしきものが見て取れる。
一部は水田になっており、やや低い。
そして小さな水路が流れている。
これは旧流路跡を使用したのだろう。

その一部の水路は見沼代用水路から取水している。
そう、用水路に落とすのではなく逆に引いているのだ。
小さな流れだが、旧流路の視点で見ればもう目が離せない。

藤間橋付近の旧流路跡は沼になっているわけではない。
ひと目見てそこが流路跡とは思わないだろう。
が、そのような意識をもって眺めるとたちまち川が出現する。
と同時に、藤間橋とその下の流れが消える。
(いや、勘違いの可能性も往々にしてあるのだが……)

知識を持つと、見知った景色が一変する。
名もなきものたちがたちまち存在感を表す。
最初からそこにあったわけではない。

なぜそれは誕生し、どのような経緯を辿ったのか。
また、後世にどんな影響を及ぼしたのか?
そしていまの我々にどうつながり、この先どうなっていくのか?
知らなったことを知り、見えなかったものが見え、
今と未来と自分自身を考えるのは純粋な悦びだと思う。
いささかおおげさかもしれないが。


田島橋周辺の旧流路跡(埼玉県行田市)


藤間橋周辺の旧流路跡か(同上)


同上


同上


藤間橋
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発戸の詩碑には何が刻されている? ―羽生文学散歩(12)―

2016年08月16日 | ブンガク部屋
羽生市発戸には詩碑が建っている。
小説『田舎教師』に登場する詩が、
碑には刻されている。

 松原遠く日は暮れて
 利根に流れのゆるやかに
 ながめ淋しき村里の
 此処に一年かりの庵

 はかなき恋も世も捨てて
 願いもなくて唯一人
 さびしく歌うわがうたを
 あわれと聞かんすべもかな

この詩碑は利根川の中腹に建っている。
ただ、現在は利根川土手の拡幅工事の最中であり、
このまま工事が進めば碑は移動を余儀なくされるだろう。

拡幅された土手は、もう詩碑の眼前まで迫っている。
ふと足を運ぶと、高校生の頃にロードレース大会で走った利根川の道は、
土手の中に消えていた。

歳月が過ぎても、長く変わらないだろうと思っていた利根川が、
予想に反して急激に変貌している。
土手の麓に建っていた民家や神社などはすでに移っているところも多く、
景色はすでに変わりつつある。

感傷めいた気持ちにならなくもないが、
時代の流れだから仕方がない。
松原が消えてなくなるときも、心を痛めた人はきっといただろう。

松原の碑は知る人ぞ知ると言っても過言ではない。
駅から遠く離れているし、
近くに案内板が建っているわけでもない。
高校生の頃、最低でも3回はロードレース大会で松原の碑のそばを通ったはずだが、
ぼくはその存在を知らなかったし、目にも留まらなかった。
初めて知ったのは、郷土史に興味を覚えて以降のことだ。

足を運んだところで、『田舎教師』に描かれたような松原が見られるわけではない。
発戸河岸も跡形も消えている。
詩碑も間もなくここで見られなくなるかもしれない。
何の情報もなければ目に留まることすら難しいのだが、
ときどき不思議な引力でときどき惹きつけられることは間違いない。


発戸の詩碑(埼玉県羽生市)


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“起雲閣”と“大宮”をつなぐ『人間失格』?

2016年08月14日 | ブンガク部屋
太宰治の『人間失格』を最後まで読み通したのは1994年の夏のこと。
この作品が熱海の起雲閣と埼玉の大宮で書かれたと知ったのは、1995年の秋だったか。
そのせいだろうか。
夏と秋になると太宰の世界に触れたくなる。

第二の手記を起雲閣で書き上げた太宰は、
三鷹で書き進めたあと大宮で完成させた。
その間、山崎富栄がずっと寄り添っている。

太宰は起雲閣の別館に滞在し執筆したという。
その別館はすでにないが、
昭和23年3月18日に宿泊したという「大鳳」の間は現存している。
初めて起雲閣に足を運んだ富栄は、3月7日付の日記にこう記した。

 熱海銀座を眼下に、眺望のいい起雲閣に登る。
どうも、どうも、山の上だけあって全く「登る」です。

そう、起雲閣は高いところにある。
霧に覆われたときにはより一層高く見えたという。
「山の上」で書き始めた『人間失格』は、
平地の大宮で書き終えられたことになる。
大宮台地によって小高いところもあるだが、
太宰が寄宿していた場所は平坦そのもの。
そうした地形の違いが執筆に影響を与えたかもしれない。

起雲閣に滞在中の太宰は決して体調がよくなかったらしい。
不眠症に悩まされ、血痰に近い痰がでていた。
時に富栄を叱り飛ばしたり……。

 恋をしているときは楽しくて
 愛しているときは苦しい

富栄がそう日記に綴ったのも起雲閣だった。
いまにも壊れそうな、あやふやで不確定な時間が流れていた。

彼らが多くの時間を過ごした起雲閣別館が取り壊されたのは、昭和63年のことだった。
すでに太宰も富栄もこの世の人ではない。
紐で二人の体を結び付けて、玉川上水の飛び込んだことはよく知られている。

ぼく自身、まだ太宰の作品には親しんでいない。
取り壊しがもっと後のことだったならば、
なくなる前に足を運んでいたかもしれない。
だからぼくは起雲閣別館の空気を知らない。

今年も夏が来て、『人間失格』を手に取った。
同作品の朗読CDも聞いた。
心に『人間失格』がよぎると感じる夏の到来。
大宮の執筆場所はすでになくなっているが、
起雲閣は熱海にあって、太宰治とのかかわりをいまに伝えている。


大鳳の間(静岡県熱海市)


大宮を象徴する氷川神社(埼玉県さいたま市)
太宰は氷川神社を参拝しただろうか。
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行田の荒木で合流する2つの流れは? ―見沼公園―

2016年08月12日 | 利根川・荒川の部屋
見沼代用水路と星川の合流地点。
行田市荒木に位置する。
利根大堰から南に下って少し行ったところだ。

その周辺は公園に整備されており、
訪れやすい場所となっている(見沼公園)。
春になれば満開の桜に彩られる。

かつての荒川に比定される星川。
合流地点に立って眺めていると感慨深い。
胸にふと湧き立つものがあるが、
それを掴まえるのはなかなか難しい。

ビジュアル的に特徴があるわけではない。
ただの合流地点と言えばそれまでだ。
ただ、歴史的視点で眺めたとき、
その川の流れは壮大になりぐっと深くなる。
ずっと昔に親しんだ川の光景が浮かんでは消えていく。

川は場所によって表情が異なる。
上流は上流の、下流は下流の表情がある。
ただ、それは土手から眺めた流れ。
川の中からはどんな風に見えるのだろうか。
過去だけでなく、
未来からの視点でも川を眺めたい。


合流地点(埼玉県行田市)
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うなぎには“文学”と“酒”がよく似合う? ―羽生文学散歩(10)―

2016年08月10日 | ブンガク部屋
駅前通りに面する店で昼食。
メニューはうなぎのかば焼きだ。
鮎料理をご所望だったが、羽生は中流域なので鮎はなかなか難しい。
うなぎやナマズ、コイやドジョウといった川魚がメインとなる。

かつて川魚は貴重な蛋白源だった。
川や沼でとれた魚はキャッチアンドリリースはせず、
感謝の気持ちを込めていただいていた。

ぼくの両親が幼い頃は、その辺の小川でもうなぎが捕れたらしい。
母親は風邪を引くと、父親が近くの川でコイをとってきて、
アライにして食べたという。
風邪をひいたらコイを食べるという人は、
母親と同世代の人は多いかもしれない。

近所の川や沼で魚は捕れたが、行商で売りに来る人もいた。
『田舎教師』にも群馬県板倉町の方からフナを売りに来る行商人と、
主人公の上司がやりとりをするシーンがある(二十八章)。

板倉には、かつて“板倉沼”という大きな沼があった。
『万葉集』に詠まれた「伊奈良沼」に比定される沼だ。
そこでは大量に魚が捕れ、羽生のみならず、
加須、行田、熊谷、栗橋、古河、佐野、足利、小山へと売り歩いていた。
ここでとれた魚は美味しかったらしい。
田山花袋は『田舎教師』で次のように記す。

 利根川を渡って一里、其処に板倉沼というのがある。沼の畔に雷電を祭った神社がある。
 其処らあたりは利根川の河底よりも低い卑湿地で、小さい沼が一面にあった。
 上州から来る鮒や雑魚の旨いのは、此処らでも評判だ(中略)
 「どうも、上州の鮒は好い。ゴケがまるでこっちで取れたのとは違うんですからな」
 (二十八章)

板倉では、川魚専門の問屋があった。
この問屋は関東一円に川魚を卸していて、
羽生の料理屋でもこの魚を仕入れていたかもしれない。
フナのほかに、コイやモツゴ、エビなどを卸していた。

いまではなかなか捕れなくなったウナギだが、
かつては用水路にいたというほどだ。
昔の人は天然のウナギを食していたのだろう。
かば焼きにするのはウナギだけではなく、
ナマズやドジョウもかば焼きにして食していた。
特に後者は美味で、ウナギと間違われるほどなのだとか……

羽生で採った昼食には、ウナギのほかにコイのアライも出てきた。
東京にお住まいのSさんたちのお口に合うかどうか不安だったが、
北埼玉ならではの味にご満足いただけたようだ。

ちなみに、Sさんたち女性陣はビールで乾杯。
ふと、正津勉先生のゼミのノリを思い出す。
花見や登山、ゼミが終わったあとの居酒屋か笑山荘で飲み会……。
そこにはいつも文学と酒があった。
逆に文学と酒のない詩人のゼミは一度も見たことがない。

Sさんたちは詩人・長谷川龍生塾の塾生たちだ。
創作をしている方もいる。
文学をやる人には酒が事欠かない。

ちなみに、ぼくは酒をほとんど飲まない。
詩人のゼミへ行っていた頃が、一番酒の摂取量の多い時代になりそうだ。
呑みすぎて終電を逃したことは数知れない。

うな重とビール。
『田舎教師』と川魚。
文学と酒。
Sさんたちが呑むビールグラスの向こうに、
過ぎ去った季節が透けて見える気がした。


コイのアライ(埼玉県羽生市にて)
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星川で古代ロマンを釣る? ―星川―

2016年08月08日 | 利根川・荒川の部屋
小学生の頃、父と朝釣りに出かけたことがある。
場所は星川。
行田市を流れる星川で父と並んで釣り糸を垂らした。

星川は熊谷市を起点としている。
父とぼくが使っていたのはへら竿で、
ほかにも釣り人がいたがみんなへら師だった。
バス釣りは一人もおらず、
あの頃はへら師の方を多く見かけたものだ。

コンビニで買ったおにぎりを朝食にして、
昼近くまで釣り糸を垂らした。
最初は不調だったが、時間を追うごとに魚が食いついてきて、
結果的には大漁だったのを覚えている。

いまその場所へ足を運ぶと、
雰囲気が異なっていることに気付く。
橋が新しく架け替えられたのだろうか。
当時とは違ってだいぶ人工的な匂いがする。

釣り人の姿もない。
行田で講演をする前に何とはなしに足を運んだのだが、
川面に映るネクタイ姿の自分に時の流れを感じた。

星川は古代荒川の流路の可能性がある。
父と釣りに行ったときはそんな視点で見るはずもなかった。
星川を下るとやがて見沼代用水路と合流する。
ここまでの流れを上星川という。

見沼代用水路を下っていくと、
菖蒲図書館(久喜市)の近くで分水される。
そこから元荒川に合流するまでの流れを下星川という。

古代、この星川と会の川がつながっていた可能性がある。
さきたま古墳群をはじめとする流域に造成された古墳は、
川で結ばれていたと言える。
いわば点は線で結ばれる。

釣り糸を垂らしていた頃は魚に夢中だった。
でも、視点を変えて川を眺めれば古代ロマンが底流にあった。
川はいわば歴史につながる道。
遠い昔に遡ることのできる一本道。

同時にそれは未来にもつながっている。
星川に架かる橋に立ったとき、
そのことを感じずにはいられない。

星川の流れは、父と釣りをしたときと同じように思える。
しかし、実際は異なっているのかもしれない。
川の顔は時代によって異なる。
流路も変わるし、その影響もそれぞれ違う。
川は難しくて懐の深い存在だが、
我々を歴史と未来にいざなってくれる。


星川(埼玉県行田市)
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鴻巣は東日本最大級のハニワ生産地だった? ―生出塚遺跡―

2016年08月06日 | 考古の部屋
埼玉県鴻巣の大きな特徴と言ったら、
古代におけるハニワ生産地だったことだろう。

発掘調査によりハニワを焼く窯跡が検出された。
その数40基。
東日本最大クラスの規模を誇っている。
この遺跡を生出塚(おいねづか)遺跡という。

さきたま古墳群のハニワもここから供給されている。
近隣だけではない。
千葉・東京、神奈川にも運ばれた。
陸上交通ではなく、舟運を使っての供給だったのだろう。
むろん、ハニワを造る職人もいたはずで、
工房跡も見付かっている。

現在、生出塚遺跡から出土した遺物は、「クレアこうのす」の一部で展示されている。
遺跡そのものは埋め戻されているから、
窯跡そのものが見られるわけではない。
現在は宅地化が進み、意識しなければ目に留まることはない。

近くには免許センターがある。
行ったついでに「クレアこうのす」の展示室に足を運べば、
宅地と化した景色も古代ロマンをもって眺められるかもしれない。
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『田舎教師』のビデオが郷土資料館で見られる? ―羽生文学散歩(9)―

2016年08月04日 | ブンガク部屋
羽生市立郷土資料館はおよそ年に4回の展示を開催している。
企画展以外の常設展と位置づけられるのは、
「田舎教師と明治期の羽生展」だ。
この展示では、『田舎教師』ゆかりの資料をはじめ、
その背景となった「明治期の羽生」に焦点を当てている。

ただ、常に見学できるわけではない。
メインとなる展示室が1室のため、
企画展が開催しているときは、
自ずと「田舎教師と明治期の羽生展」はやっていないことになる。
展示準備期間中には閉室されていることもある。
ゆえに、見学する場合は事前に問い合わせをした方がよい。

ただ、展示室ロビーは『田舎教師』に関するミニ展示が設置されている。
初版本の復刻本をはじめ、
小説のモデルとなった人々を紹介するコーナーなどがある。

特に参考になるのは“デジタル掲示板”だ。
この掲示板で、『田舎教師』に関するビデオを観ることができる。
『田舎教師』を全く読んだことがなくても、
このビデオを観ればおおまかな概要はわかる。
あるいは、読む前にビデオを観た方がわかりやすいかもしれない。

ぼく自身、このビデオで『田舎教師』を知った。
10代だった1990年代の話。
当時はアナログのブラウン管テレビのビデオで、
いまでは考えられないが、展示室ロビーは休憩室(喫煙所)を兼ねていた。

だから勉強に疲れたとき、同級生とこの部屋に来て、
観るつもりはなくてもビデオのスイッチを入れていたものだ。
いたずらにスイッチを入れたものでも、
何度も目にしているとその内容は自然と入っていったし、
『田舎教師』がどんな話なのかを初めて知った。

義務教育の中で『田舎教師』に触れたことはある。
でも、概要をつかんだのは展示室ロビーにおけるそのビデオだった。

それをきっかけに『田舎教師』に興味を持ったわけではない。
全部通して読んだのはもっとあとになってからのこと。
とはいえ、ビデオからその世界に触れたことはとてもよかったと思っている。

ビデオは初心者向けに作られたものだ。
少しでも関心があれば、作品をより深く理解できるかもしれない。
ちなみに、ビデオは昭和の終わりに作られたものだから、映像がやや古い。
そんなところは羽生育ちにとってはノスタルジーに感じられるだろう。

多くの期間開いている展示室ロビーだが、
絶対に閉まらないとは言い切れない。
何らかの都合で閉まっているときもあるかもしれない。
だから、『田舎教師』のビデオを観に行くにも、
事前に連絡して確認した方がいいだろう。
言うまでもなく、休館日のチェックもお忘れなく。

羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/index.html
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町屋新田でたった1基のみ残った古墳は? ―鶴ヶ塚古墳―

2016年08月02日 | 考古の部屋
鶴ヶ塚古墳は加須市町屋新田にある。
南を手子堀川が流れ、その向こうには東北自動車道が通っている。

高速道路以外は田園地帯だ。
江戸時代に新田開発された地域である。
天和7年(1622)、代官の大河内金兵衛久綱が、
町屋の岡戸三左衛門に命じて開発。

新田開発されるまでは、荒地で誰も住んでいないようなイメージだが、
古墳が存在しているのだから、
往古から人類未踏の地だったわけではあるまい。

かつて集落だった場所も、時代によって人が住まなくなることは珍しくない。
一度拓けた場所が、そのままずっと続くとは限らない。
古墳を造成した人々が住んでいた集落は、
時代を経てなくなってしまったのかもしれない。

さて、鶴ヶ塚古墳は円墳だ。
前方後円墳の可能性もあるようだが、
現在は円墳として残っている。

詳細は不明。
靱形埴輪が出土しているが、
これ以外に古墳を物語る副葬品はいまのところ発見されていない。

墳頂には大神社が祀られている。
だから現存しているのだろう。
とはいえ、南側を流れる手子堀川によって一部が削られている。

鶴ヶ塚古墳以外にも古墳はあったはずだが、
現在は1基しか見当たらない。
周囲は湿地帯。
新田開発をするときに古墳を削り取り、
湿地を埋め立てたのかもしれない。

ちなみに、大神社は岡戸三左衛門が伊勢神宮から勧請したものと伝えられる。
境内には浅間神社や天神社、稲荷神社などの石祠が合祀されている。
鶴ヶ塚古墳を「稲荷塚」と呼ぶ人が多いというが、
この稲荷神社が由来している。

なお、境内には樹齢300年を越える松の大木が3本あった。
これは徳川将軍の日光参拝の折に、
三左衛門が随行したその褒美としてもらった松と伝えられるが、
枯死のためいまはない。
昭和56年の伐採というから、
松が消えてから40年近くが経っている。

鶴ヶ塚古墳は謎の多い古墳だ。
今後の調査によって何か新しい資料が発見され、
謎のベールが少しでも消えるだろうか。
たった1基のみとなってしまった鶴ヶ塚古墳は、
今日も孤高に町屋新田で横たわっている。


手子堀川と鶴ヶ塚古墳(埼玉県加須市)


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今夏、羽生で“身近な生きもの”と出会える? ―羽生市立郷土資料館―

2016年07月31日 | お知らせ・イベント部屋
とある埼玉の里山で出会ったクワガタ。
コクワガタは越冬するらしい。
このクワガタと出会ったのは5月の下旬頃だったから、
冬を越したのかもしれない。

ところで、この夏羽生市立郷土資料館では、
「埼玉の自然をのぞいてみよう」が開催中だ。
平地の田んぼや河川敷、
家や学校の近くなどに生息する生きものに焦点を当てた展示となっている。
カブトムシやクワガタの標本も有り。
ホームページに掲載された本展示の概要は以下の通り。

<開館30周年記念企画展「埼玉の自然をのぞいてみよう」>
開催日時:平成28年7月16日(土)から8月29日(月)午前9時~午後5時
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
主な展示物:生きもののはく製、骨格標本、昆虫標本、生きものや自然の写真等(埼玉県立自然の博物館所蔵資料)
休館日:毎週火曜日
主催:羽生市立郷土資料館・埼玉県立自然の博物館

今年の夏もまた、さわれる動物のはく製たちに出会える。
カブトムシやクワガタのほかに、
チョウやバッタなどの昆虫もいるから要チェックだ。
夏休みの1ページに、羽生の郷土資料館に出かけよう。

羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/index.html
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