クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

幼な子と行く幸手の“権現堂堤”は?

2017年03月29日 | ふるさと歴史探訪の部屋
冬に息子と行った権現堂堤。
埼玉県幸手市にある。
桜の名所としてよく知られており、
毎年ここに足を運んでいる人は多いだろう。

権現堂堤は戦国時代終わりの天正4年に築かれたと伝わる。
確証はない。
ただ、この時期の築堤だとすれば後北条氏の存在が浮かび上がってくる。

なお、ここは巡礼母娘が人柱になったとも言われている。
大水で堤が切れたとき、巡礼母娘が自ら入水して水神の怒りを解いたという。
が、伝播された話の可能性が高い。
権現堂の人柱伝説は有名とはいえ、
似た伝説は各地にあるのだから。

冬枯れした桜並木の下を息子と歩いた。
さすがに人はまばらで、
息子は堤の上を全力疾走した。
桜が満開に咲く頃になればそうはいかない。
多くの観光客で賑わい、全力疾走すればたちまち人にぶつかるだろう。

僕は権現堂の桜並木は好きだが、
いわゆる「観光地」が苦手だ。
人混みが多いとどうしても躊躇してしまう。
よく知られた場所よりも、
自分だけの秘密基地を見付けたい感じ。

息子はどうだろうか。
父親にマニアックな場所ばかりに連れ出されているから、
その反動として「観光地」が好きになるかもしれない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

“グローインアップップ”でいずれ離れていくものは? ―コトノハ―

2017年03月25日 | コトノハ
春になると流れる「グローインアップップ」(宮藤官九郎作詞、星野源作曲)。
Eテレの番組「みいつけた!」のエンディング曲の1つ。

1番の歌詞は「ごはんを食べるイス」、
2番は「三輪車」がモチーフで、
子どもの成長の過程で訪れる別れを歌っている。

体が大きくなったから幼児用のイスとはお別れ。
三輪車も成長したから自転車を買ってもらう、という内容だ。

子の成長は嬉しくもあり、少しだけ寂しい。
健やかな成長を願う一方で、
そのあどけなさをいつまでも見ていたいと思う。
「イス」や「三輪車」のように、
いずれ親からも離れていくのだから。

離れていく人。
見送る人。
前へ進む人。
新しい誰かを待つ人……。

春は環境の変化の季節のせいか、僕はあまり得意ではない。
嫌いではない。
でも苦手。
春にそんな感情を持つ人は多いのではないだろうか。

通勤途中で毎朝すれ違う高校生がいた。
名前も何年生なのかもわからない。
でも、3年間すれ違い続けてきたから、
この春で卒業だったのだろう。
1月からその姿を見かけなくなった。
3月半ばを過ぎたから、もうすれ違うことはないに違いない。

進学か、浪人か、就職か、はたまた自分を見つめ直すのか……
何にせよ環境が変わる。
通い慣れた場所から離れ、新しいところへと行く。
名前も知らない学生だったけど、
去っていくのを見送る「三輪車」のような表情になってしまう。

見送る人も変わらないわけではない。
春になれば、出会い、去っていく。
それは「成長」の過程なのだろうか。

出会いと別れ。
成長と後退、
はたまた足踏み。

だから求めてしまう。
時として、あるいはいつも。
変わらない何かを。
それが幻想だとわかっていても。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

海沿いに悲恋の詩が刻まれている? ―竹久夢二―

2017年03月22日 | ブンガク部屋
海のそば。
せつない詩が刻された碑がある。

まてど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月もでぬそうな

悲恋を詠った竹久夢二の詩。
千葉県銚子市海鹿島町の高台にその詩碑はある。
ほかのところへ嫁いでいった人を想いながら詠んだという。

海岸沿いの道からほんの少し離れたところに建っている。
周囲は住宅が建っているが静けさに包まれている。
碑の裏には小さな水路があって、
せせらぎの音が静けさを深くする。

ふと、海に行きたくなるときはどんなときだろう。
何かが変わろうとしているとき、
抱えた不安が大きいとき、
心から何かが抜け落ちしているとき、
心が大きく損なわれているとき、

「来ぬ人」への想いが胸を締め付けるとき、
「来ぬ人」を忘れたいとき、
でも忘れることができないとき……

竹久夢二の詩碑は昭和46年の建立。
周辺には多くの詩碑や句碑が建っているが、
竹久夢二の碑は作者のレリーフもある。
この詩碑は「来ぬ人」をいまも待ち続けているのだろうか。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

羽生の“さくらまつり”へ行きませんか?

2017年03月20日 | お知らせ・イベント部屋
今年も羽生市で「さくらまつり」が開催される。
正式には「葛西堤羽生さくらまつり」。
第31回を数えるという。

葛西用水路沿いの桜並木がライトアップされる。
その距離およそ500メートル。
期間は3月25日(土)~4月8日(土)まで。

4月2日には観賞イベントが開催される。
ムジナもんをはじめとする羽生のキャラクターもイベントを盛り上げる予定だ。

今年の桜はどんな風に見えるのだろう。
どこまでも綺麗で華やかなのか、
それともちょっぴり切ないのか……
あなたの目に今年の桜はどのように映るだろうか。
羽生で春の訪れを感じたい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

羽生の歯科医院で想う春は?

2017年03月18日 | はにゅう萌え
20年以上通っている羽生の歯科医院がある。
「通っている」と言っても、
虫歯が見付かり次第の通院だ。

30歳を過ぎた頃から虫歯に悩まされている。
痛みがなくても、実は大きな虫歯でしたということがあって凹む。

歯科医院の待合室では本を読んでいる。
活字を追いながら、記憶が呼び起こされることがある。

太宰治の『津軽』を読みながら順番を待っていた10代。
友人のおじいちゃんとばったり会ったことや、
歯科医院の帰りに長渕剛のCDを買ったこと。
歯科医院から直接参加した飲み会や、
「歯医者さんの匂いがする」と言われことなどなど……

待合室は何も変わっていないように見える。
細部は変わっているのだろうが、西向きに設けられたベンチや、
すぐそばのトイレや受付の向こうから聞こえてくる治療の音など、
記憶の中とさほど変わらない。

では、歯科医院の周辺はどうだろか。
「変化なし」というわけにはいかない。
隣接する家の屋敷林はなくなった。
近くのお店も少しの距離を移転。
団地のそばにあった公衆電話も撤去された。

その公衆電話は、高校生のときにポケベルで使ったのが最後だった。
どんなメッセージを送ったのかも覚えている。
実はその日にちも。
とても悲しい放課後だったから。

その後、公衆電話は20年以上も建ち続けた。
が、ついに撤去されてしまったらしい。
横を通り過ぎたとき跡形もなくなっていた。

そばの団地には、かつて同級生の姉夫婦が住んでいた。
姉夫婦と子どもたちはもういない。
あのとき同級生が抱いていた赤ん坊は20歳になっているはずだ。

公衆電話があった場所のそばには川が流れている。
春になると川沿いの桜並木は満開の花に彩られる。

歯は削られ、公衆電話が消えてなくなる春。
20年前と変わらないもの。
今年も満開の桜が咲き、
春の到来を告げるのだろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

饒舌なピアノの曲に思い浮かぶ情景は?

2017年03月16日 | グルメ部屋
食事中に曲が耳に入った。
スタッフを呼んで、流れている曲名を聞く。

親切に対応してくれたスタッフ。
すぐにやってきて、
DJ okawariの「Luv Letter」だと教えてくれた。
澄んだピアノの音が、繊細な味によく合った。

この曲は春を連想させる。
いい曲ほど饒舌だと思う。
喚起されるイメージが湧いてくる。

「Luv Letter」に歌詞はない。
が、多くの言葉を発している気がする。
胸によぎる情景は記憶の断片か。
それとも予知するものか……
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

古代に“杓子持ち出し事件”が起こった?

2017年03月13日 | 地名の部屋
旧大利根町(現加須市)には、“杓子木”という地名がある。
杓子とはしゃもじを指す。

古代、樋遣川(加須市)から村君(羽生市)へ嫁に行った娘がいた。
娘は樋遣川に里帰りをする。

実は娘にはある企てがあった。
実家はお金持ちゆえ、何かを黙って持ち帰って来いと夫から言われていた。

朝、娘はこっそり杓子を持って実家を出る。
それに気付いたのは母親だった。
母親は娘のあとを追いかける。
娘は慌てて逃げ去った。

もう駄目だと思ったのだろうか。
娘は杓子を投げ捨てて逃げたという。
その杓子が捨てられた場所が現在の「杓子木」と言われている。

伝説とはいえ面白いエピソードだ。
現代人の感覚から言えば、何も杓子などを持ち去らなくても……と思ってしまう。
もっと金目のものがあったのではないか。

されどこの杓子、重要な意味があった。
女性は杓子を使って家の者たちに食事を出す。
食糧を分配する。
今後の消費を見越して差配する。
つまり、杓子は「家」における女性の権力の象徴だった。

だから、嫁いだばかりの嫁は杓子を持つことは許されなかった。
杓子を握るのは姑であり、
それを嫁に渡すことは隠居を意味していた。

例えば、嫁が気を使って杓子で飯を盛ると嫌がられたという。
姑にとっては下剋上。
早く権力をよこせと言っているに違いないと疑われた。
気を使った嫁にとってはとんだ濡れ衣だ。
逆に言葉なき本心を露わにしたい場合は、杓子を持てばよかったのかもしれない。

実家から杓子を持って逃げ去る娘。
これはもしかすると、実家権力の包摂を意味していたのではないか。
樋遣川にも村君にも古墳群がある。
当時の勢力図は不明だが、力関係が変わっていくことを暗示していると捉えられる……
というのは穿った考えだろうか。

杓子持ち出し事件(伝説)は、単なる後世の創作話の可能性も高い。
樋遣川から杓子木方面への逃亡は、村君と逆方向でもあるのだから。

現在、杓子を持つのは女だけとは限らない。
男も持つ。
ついでにご飯を盛ったところで「下剋上だ!」とは思わないだろう。

ただ、よその家ではどうだろうか。
「包摂しようとしている!」とは思わないだろうが、
杓子を持つ方も持たれる方も、あまりいい気持ちはしないかもしれない。
僕はいまだかつて、よその家で杓子を持ったことは一度もない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

楠正成がたくましく描かれた絵馬がある?

2017年03月10日 | 民俗の部屋
羽生市立郷土資料館で開催中の「収蔵資料展」。
その中に何枚かの“絵馬”が展示されている。
内1枚は「桜井の別れ」がモチーフになっている。

きたる合戦に際し、“楠正成”と“正行”父子が桜井にて今生の別れをするというものだ。
『太平記』に描写された桜井の別れでは、
息子の正行はわずか11歳。
父と共に戦場へ行くことを望んでいる。
が、父はそれを許さない。

正成はすでに死を覚悟している。
自分が死んだあとの世の中の流れもわかっている。
逃げようと思えばできなくもない。
死を回避することができる。

しかし、戦場を選ぶ正成。
「命が助かりがたいために長年の忠節を失ってはならない」と説く。
そして息子に向かって次のように言う。

 一族若党一人も死に残ってあらん程は、金剛山に引き籠もり、
 敵寄せ来たらば、命を兵刃に堕として、名を後代に遺すべし、
 これを汝が孝行と思ふべし
(『太平記』)

これが親子の最後の別れだった。
正成は湊川の合戦で壮絶な最期を遂げる。

ここでは政治的なものではなく、「物語」として捉えたい。
展示された絵馬には正成がたくましく描かれている。
マッチョでとても強そう。
11歳とされる正行は幼い。
それだけに父のたくましさが強調されている。

父が子を想う気持ちはいつの時代も同じだろうか。
中世に生きた人々と、現代人とでは価値観や物の捉え方は異なっていると思う。

もしも子が一緒に死地へ赴きたいと言ったらどんな言葉を伝えるだろうか。
正成の言葉の意味合いとは違うかもしれないが、
やはり拒む気がする。
生きてほしいと願うのかもしれない。

「収蔵資料展」は5月7日までの開催。
桜井の別れの絵馬は普段展示されているわけではないだろう。
この機会に目にしておきたい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

卒業前に放課後の図書室へ行ったら……

2017年03月08日 | ウラ部屋
高校の卒業式の1ヶ月前だったか、
数週間前のことだったか具体的には覚えていないけど、
ささやかな記憶。

閉室間際の図書室で会ったSさんと駅までの道を歩いた。
日はすでに暮れ、外は夕闇に包まれていた。
電車通学のSさんの横を、僕は自転車を転がして歩いた。

そのときSさんとどんな会話をしたのか記憶がはっきりしない。
1年生のときから同じクラスだったSさんは、
放課後遅くまで話をしたり、
一緒に帰ることがしばしばあった。

仲のいい同級生。
そう言ってしまえばそれだけだった。
ただ、その枠だけでは捉えきれないものがSさんにはあった。

心が読めない。
Sさんは1年生のときから気持ちがよく見えない人だった。
単に僕がそう感じていただけだろうか。
どんなに言葉を交わしても、
彼女との間には一定の距離が横たわっているのを感じた。
そこを踏み越える勇気や自信もなかった。

駅までの距離は短い。
ライトをつけた車が何台も通り過ぎていく。
でも静かだった。
歩道を歩きながら、
過ぎ去っていった時の砂がシンシンと落ちている気がした。

もしも……と思う。
並んで歩く僕らの距離が変わっていた3年間もあったかもしれない、と。
隣を歩くSさんが全く別に存在しているもう一つの現実。
枠を越えたところにその現実はあっただろうか。
どんなに考えても答えは出ないけれど。

駅に着き、駅舎の前でSさんと別れた。
それがSさんと帰った最後の放課後だった。
クラスが離れていた彼女には、卒業式にさよならも言えなかった。

もう一つの現実。
もしかすると存在していたかもしれないもう一つの現実を想像することはあるだろうか。
岐路と呼ばれる「事件」以外にも選択肢はある。
日常のさりげないところに隠れている。
何とはなしに選んだものが人生を大きく変えることもある。
例え選択を間違ったとしても、その良し悪しは誰にもわからない。

どれを選ぶか。
それは自分を取り巻く状況や心のあり方に大きく左右される。
いまなら絶対に拒むものでも、
そのときと同じ環境や心の有り様に戻れば同じものを選ぶのだろう。

少なくとも、僕は別の選択肢を選ぶ自信がない。
それを選んだ過去の自分を不思議に思うことはある。
ただ、それを選んだ自分自身が全てなのだ。
のちにどんなに後悔しても、
自分が自分でなくならない限り同じ選択をするのだと思う。

Sさんは駅舎の中へ消えていった。
卒業はもう目前だった。
はっきりとは覚えていないけれど、そのとき卒業後の進路は決まっていたのだと思う。

高校時代の記憶がのちにどんな風に残るのか全くわからなかった。
でも、何か大切なものが終わろうとする予感だけは感じていた。
4月になれば別の時間が流れ始める。
僕らを取り巻く環境も大きく変わってしまう。

Sさんは一つの象徴だったのだろうか。
切なさに似た痛みを感じた。
見送ったのは、過ぎ去ろうとしていく大切な何かだったのかもしれない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

幼な子を“金山城”へ連れて行くと?

2017年03月06日 | 城・館の部屋
寒い日に行った金山城跡。
群馬県太田市にある。
国指定史跡。

夕暮れ時で冷たい風が吹いていた。
だから、展望台だけで断念。
少し歩けば整備された本丸跡などを見ることができるのだが、
息子のテンションがいいとは言えず、次の機会へ。

いまの季節はハイキングとして訪れていいかもしれない。
山城ゆえ、花粉が気になるところではあるが……
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

庚申の夜に“枕”を使う?

2017年03月03日 | 民俗の部屋
羽生市立郷土資料館で開催中の「収蔵資料展」の中に、
民間信仰として“庚申信仰”に係る資料が展示されている。
羽生市内の地域で実際に使われていたものらしい。
掛軸、箸、箱枕……

枕?
そらしかけた視線を思わず戻してしまう。
庚申信仰とは、体内に棲む三尸という虫が天帝に行かせないよう夜通し過ごすというものだ。

なぜ天帝のもとへ行かせてはならないのか?
三尸はその人の罪過を告げるという。
その罰として早死にしてしまうと言われている。
そのため庚申の日に天帝へ行こうとする三尸を見張るわけだ。

日本では貴族たちの間で広まったが、時代を経るごとに庶民にも伝わった。
江戸時代になると村内でも庚申講が組まれる。
青面金剛や猿田彦の掛軸の前で念仏を唱え、食事をし、
農作物のことや世間話をしながら夜を過ごした。

庚申の日は60日に1回のペースでやってくる。
「その話は庚申の夜に……」というように、
信仰というよりも話し場・宴の場としての要素が強かったようだ。

展示されている掛軸や箸は、庚申の夜に実際に使われていたのだろう。
しかし枕。
先述したように、庚申信仰は三尸を天帝に行かせないようするものだ。
寝てしまったら天帝へ行ってしまう。
告げ口される。
なのに枕がある……。

実はこの枕、寝たことにはならない逸品らしい。
つまり、この枕で寝れば夜通し起きていたことになるという。
なんとも素晴らしい。
ドラえもんのポケットから出てきたような枕だ。
三尸も真っ青になるのではないか。

ただ、これは聞いた話。
全員で寝てしまうと見張る者がいなくなるが、
箱枕を使って交代で束の間の休息をとればいいとも言える。
地域によっては箱枕の別の効用を伝えるところもあるかもしれない。

人々は庚申の夜にどんな話をしていたのだろう。
農作物の作柄や世間話以外にも、色々な話題が出ていたに違いない。
内緒話や秘密話の類もあったかもしれない。

本来は夜通し過ごすものだった。
が、時代が下ると10時~12時にはお開きとなった。
若者ならいざ知らず、年を重ねると徹夜は体に堪える。
翌日の仕事にも差し支える。
したがって切りのいいところでお開きとなったのだろう。

こうした庚申講は次第に行われなくなっていった。
会社勤めをする人が増えれば「村」という共同体は薄くなる。
情報交換をするにしても共通の話題は少なくなっていく。
多くの人が農業に従事していた頃に比べて仕事もそれぞれ違う。
新興住宅が増え、どこに誰が住んでいるのかもわからない。

庚申講が組まれなくなったのは、
時代や社会のニーズに応えるものではなくなったという一面がある。
時代と共に、社会や人々の価値観は変化している。
そのことを庚申講は一つの側面から物語っていると言える。

ところで、展示されている箱枕は小物入れのようだ。
現代人が使うフカフカの枕ではない。
指し物の箱枕は現代人の目には痛そうに見える。

しかし、使ってみると案外そうでもないのだろうか。
意外と寝心地がいいのかもしれない。
熟睡しても大丈夫。
なんてたって、この箱枕で寝れば寝たことにはならないのだから……。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

羽生のムジナもんは今年で何歳? ―誕生日会―

2017年03月01日 | お知らせ・イベント部屋
羽生市のキャラクター“ムジナもん”が誕生して14年になるという。
つまり14歳。
人間で言えば中学生だ。

3月4日(土)、イオンモール羽生においてムジナもんの誕生日会が開催される。
時間は午前10時から午後4時までの間。
キャラクターによるステージやグッズ販売、ムジナキッズのステージもあるという。

市外から駆け付けるキャラもいる。
さのまるやふっかちゃん、与一くんなども来て祝うという。
とても賑やかな誕生日会になりそう。

ムジナもんが14歳。
14年前はどんな年だったろうか。
自分自身はそのとき何をしていたんだっけ……。
そんな感慨も起こってくる。
3月4日(土)は羽生へ行ってムジナもんたちを祝おう!
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

その“箱膳”にはどんなドラマが隠されている?

2017年02月27日 | 民俗の部屋
羽生市立郷土資料館において「収蔵資料展」が開催されている。
開館30年以来、同館が収集し保存してきた資料の一部を展示しているというもの。

展示資料の中に“箱膳”がある。
僕は箱膳を使ったことはない。
ちゃぶ台が登場する前は一般家庭で使われていた。

見た目は箱。
箱の蓋を開ければ茶碗や椀、小皿、箸が入っている。
蓋をひっくり返して箱にセットすれば膳になる。
一般家庭では小学生に上がる頃になると箱膳を与えられた。

かつて白米はご馳走だった。
毎日食べることはできず、主食と言えば麦飯や雑穀が多かった。
白米を日常的に食べられるようになったのは、
陸田化が可能になった昭和30年代以降のこと。

味噌汁の具も、豆腐やワカメが入っていることは珍しかった。
主となるのは大根やネギ、ナスといった畑で採れる野菜。
卵も滅多に口にできなかった。
卵の殻が多く捨てられていると、家の中に病人がいるんじゃないと言われたらしい。

おかずも、畑で採れる野菜を調理したものが多かったという。
川や沼で採れた魚を食すこともあったが、現金収入にする人もいた。
肉類は卵を産まなくなった鶏や、高齢化した牛を食用とした。
感謝の念をもっていただいたのだろう。
どんなものも無駄にしないという精神が垣間見られる。

“食”に視線を向ければ当時の“暮らし”が見えてくる。
政治史とは違う側面から地域の歴史や文化を知ることができる。
その土地でどう生き、どんな知恵を育んできたのか。
書かれていない歴史を読む思いがする。

箱膳は次第に使われなくなっていった。
それは戦後のこと。
なぜか? 
理由の一つとして「不衛生」が挙げられる。
食事の最後は注いだお茶で残りかすを取り、それを飲み干して終了となる。
再び食器を箱に戻して片付ける。

つまり洗わないのだ。
石鹸を付けてスポンジでごしごし……ということはない。
皆無だったわけではないが、洗うのは月に数回程度だった。
これを嫌ったのは軍隊帰りの男たちだったらしく、
以来ちゃぶ台に食器を載せて食事をするスタイルへと変わっていった。

星一徹がひっくり返すちゃぶ台文化は案外新しい。
もし箱膳のままだったら、星一徹のちゃぶ台返しは見られなかったことになる。
箱膳をひっくり返す星一徹を想像しても、
次の食事に自分の分だけ食器がない姿が浮かんでしまう。

「収蔵資料展」は5月7日までの開催だ。
毎週火曜日、3月31日、4月27日が休館日。
何気なく展示されている箱膳だが、奥が深い。
そこにはどんなドラマがあったのだろう。
かつて地域の人々の命を支えた箱膳は、
いまは「資料」として生き続けている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

1994年、町にコンビニは一軒しかなかった?

2017年02月24日 | ふるさと歴史探訪の部屋
旧大利根町にはコンビニが一軒しかない。
クラスメイトからそう聞いたことがある。
1994年のことだ。

僕はそれまで自らの意志で大利根町へ行ったことがなかった。
その町が具体的にどこにあるのかさえわかっていなかったし、
クラスメイトがどのような経路で通学しているのかも謎だった。

田舎町らしい。
コンビニが一軒だけあって、
夜になると暴走族の爆音が響き渡る。
外灯も少なく、あるのは田んぼばかり。
クラスメイトから聞く「地元」の話はそのようなものだった。

1994年の秋、僕は大利根町まで自転車を走らせた。
何の宛ても目的もなかった。
クラスメイトが住む町を
一度目にしたいというのが動機だったかもしれない。
だからどこにもゴールがなかった。

初めて目にする大利根町は僕の住む「地元」とさほど変わらないように見えた。
低地に広がる田んぼ、
何本も流れる用排水路、
まばらに通り過ぎる人と車。

自転車を走らせながら、
クラスメイトとばったり会う期待感がなかったと言えば嘘になる。
どうせ行くなら会う約束をすればよかった。
声をかければよかった。
そう思った。
しかし、僕はクラスメイトが町のどこに住んでいるのか知らなかったし、
ばったり会うにはあまりに闇雲すぎた。

確かにコンビニはどこにもなかった。
日中のせいか、暴走族の爆音は聞こえてこない。
大利根の道をどこまで走っても、
コンビニの看板は見当たらなかった。

どのくらい過ごしただろう。
帰路に就いたそのときだった。
目に突然飛び込んできたものがある。
デイリーヤマザキ。
緩やかにカーブする道の脇にそれは建っていた。

見付けた! と内心思った。
が、すぐにこうも思った。
コンビニなのか?

デイリーヤマザキの前を通り過ぎた。
店内に人影が見えた気がする。
もちろんそれはクラスメイトではなかった。
記憶はそこで途切れている。
デイリーヤマザキからどのような道を辿ったのか。
川沿いか、それとも国道沿いか……。
綺麗に欠落している。

翌日、クラスメイトに大利根町へ行ったことを話したのだと思う。
しかし記憶がないということは、
デイリーヤマザキが一軒のみ存在するコンビニではなかったということだろう。

では、そのコンビニはどこにあったのか?
それはいまだに謎となっている。
聞けば教えてくれるかもしれない。

僕が目にしたデイリーヤマザキはいまでも存在している。
向かいには郵便局があり、近くに中川が流れている。
店も周囲も記憶と変わらないように思える。
が、細部はだいぶ違っているのだろう。

現在の大利根にはコンビニを多く見かける。
利根川に架かる橋の麓には道の駅もある。
クラスメイトが言った「たった一軒のコンビニ」はいまでも存在しているのだろうか。

小さな謎のようで不思議と心に残り続ける。
事件性は何もないようで妙に心を惹きつける。
手を伸ばしても届かない。
戻りたくても戻れない。
この20年間、大利根のたった一軒のコンビニは、
僕にとってフランツ・カフカの『城』のように、
辿り着くことのできない場所として存在し続けている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

元荒川はどこにつながっている?

2017年02月22日 | 利根川・荒川の部屋
元荒川と中川の合流地点。
埼玉県越谷市で両川は顔を合わせている。
中川の橋を渡れば吉川市で、
きっと中川にも元荒川にもナマズはたくさん生息しているのだろう。

息子と訪れたのは雨の降る夏の日だった。
息子を抱き上げ、傘をさしながら橋を渡る。
欄干は低く、もし転んだりしたら
親子とも元荒川に入水していたかもしれない。

星川と合流し、岩付城址の近くを流れ、
文教大学越谷キャンパスの前を流れる元荒川は、
やがてこの場所に流れ着いているわけだ。
あのとき流れていた水もやがてこの場所に辿り着いていたのだろう。
合流場所はそんな感慨をよぎらせる。

息子は傘に手を伸ばし、雨水をはじいて遊ぶ。
橋の上は、雨と川の匂いが入り交ざっている。
音もなく合流する川。
その水面下はどうなっているのだろう。
橋の上、父子2人で佇む姿は川に呼ばれているようだったかもしれない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加