クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

1994年、町にコンビニは一軒しかなかった?

2017年02月24日 | ふるさと歴史探訪の部屋
旧大利根町にはコンビニが一軒しかない。
クラスメイトからそう聞いたことがある。
1994年のことだ。

僕はそれまで自らの意志で大利根町へ行ったことがなかった。
その町が具体的にどこにあるのかさえわかっていなかったし、
クラスメイトがどのような経路で通学しているのかも謎だった。

田舎町らしい。
コンビニが一軒だけあって、
夜になると暴走族の爆音が響き渡る。
外灯も少なく、あるのは田んぼばかり。
クラスメイトから聞く「地元」の話はそのようなものだった。

1994年の秋、僕は大利根町まで自転車を走らせた。
何の宛ても目的もなかった。
クラスメイトが住む町を
一度目にしたいというのが動機だったかもしれない。
だからどこにもゴールがなかった。

初めて目にする大利根町は僕の住む「地元」とさほど変わらないように見えた。
低地に広がる田んぼ、
何本も流れる用排水路、
まばらに通り過ぎる人と車。

自転車を走らせながら、
クラスメイトとばったり会う期待感がなかったと言えば嘘になる。
どうせ行くなら会う約束をすればよかった。
声をかければよかった。
そう思った。
しかし、僕はクラスメイトが町のどこに住んでいるのか知らなかったし、
ばったり会うにはあまりに闇雲すぎた。

確かにコンビニはどこにもなかった。
日中のせいか、暴走族の爆音は聞こえてこない。
大利根の道をどこまで走っても、
コンビニの看板は見当たらなかった。

どのくらい過ごしただろう。
帰路に就いたそのときだった。
目に突然飛び込んできたものがある。
デイリーヤマザキ。
緩やかにカーブする道の脇にそれは建っていた。

見付けた! と内心思った。
が、すぐにこうも思った。
コンビニなのか?

デイリーヤマザキの前を通り過ぎた。
店内に人影が見えた気がする。
もちろんそれはクラスメイトではなかった。
記憶はそこで途切れている。
デイリーヤマザキからどのような道を辿ったのか。
川沿いか、それとも国道沿いか……。
綺麗に欠落している。

翌日、クラスメイトに大利根町へ行ったことを話したのだと思う。
しかし記憶がないということは、
デイリーヤマザキが一軒のみ存在するコンビニではなかったということだろう。

では、そのコンビニはどこにあったのか?
それはいまだに謎となっている。
聞けば教えてくれるかもしれない。

僕が目にしたデイリーヤマザキはいまでも存在している。
向かいには郵便局があり、近くに中川が流れている。
店も周囲も記憶と変わらないように思える。
が、細部はだいぶ違っているのだろう。

現在の大利根にはコンビニを多く見かける。
利根川に架かる橋の麓には道の駅もある。
クラスメイトが言った「たった一軒のコンビニ」はいまでも存在しているのだろうか。

小さな謎のようで不思議と心に残り続ける。
事件性は何もないようで妙に心を惹きつける。
手を伸ばしても届かない。
戻りたくても戻れない。
この20年間、大利根のたった一軒のコンビニは、
僕にとってフランツ・カフカの『城』のように、
辿り着くことのできない場所として存在し続けている。
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元荒川はどこにつながっている?

2017年02月22日 | 利根川・荒川の部屋
元荒川と中川の合流地点。
埼玉県越谷市で両川は顔を合わせている。
中川の橋を渡れば吉川市で、
きっと中川にも元荒川にもナマズはたくさん生息しているのだろう。

息子と訪れたのは雨の降る夏の日だった。
息子を抱き上げ、傘をさしながら橋を渡る。
欄干は低く、もし転んだりしたら
親子とも元荒川に入水していたかもしれない。

星川と合流し、岩付城址の近くを流れ、
文教大学越谷キャンパスの前を流れる元荒川は、
やがてこの場所に流れ着いているわけだ。
あのとき流れていた水もやがてこの場所に辿り着いていたのだろう。
合流場所はそんな感慨をよぎらせる。

息子は傘に手を伸ばし、雨水をはじいて遊ぶ。
橋の上は、雨と川の匂いが入り交ざっている。
音もなく合流する川。
その水面下はどうなっているのだろう。
橋の上、父子2人で佇む姿は川に呼ばれているようだったかもしれない。
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ぶどう寺“大善寺”に降る雨が何かを隠す?

2017年02月20日 | 神社とお寺の部屋
山梨県甲州市の“大善寺”を訪ねたことがある。
本尊の薬師如来が右手に葡萄を持っていることから、
ぶどう寺とも呼ばれている。

妻が選んだコースだった。
実家が寺のためかそれとも仕事柄か、
おそらくぶどう寺は行きたい場所の上位にあったに違いない。

当日は雨が降っていた。
強い雨だった。
僕らは雨が嫌いではない。
旅の当日に雨が降ったことに一度も不満を言わなかった。

雨だったせいか、大善寺の境内は僕ら以外に誰もいなかった。
まだ歩き始めたばかりの子を抱きながら傘をさし、本堂に続く階段を登った。

境内は静かだった。
雨の音しか聞こえてこない。
実は、どの寺宝よりもその静けさが印象深い。

本堂に安置された仏像たち。
親切に説明してくれた寺の案内者。
古文書や書物なども展示されており、
僕らはゆっくり見て回った。

子はまだ幼かったから、
突然走り始めたり大声を出したりはない。
泣き出すこともなかった。
よくわからないままに寺宝を眺めていたのだろう。

帰りも子を抱きながら傘をさして階段を下った。
ほかの参詣者とは一度もすれ違わなかった。
どこまでも静かで、雨の匂いが僕らを包み込んでいた。

ずっとあとになって、そんな記憶をふと何気ないときに思い浮かぶのだろうと思う。
大人になった「トロッコ」(芥川龍之介)の主人公ように。

いま思い浮かべても妙に懐かしく、少々寂しい。
楽しい記憶というより寂しさが先に来る。
なぜだろう。
あの瞬間や時間が二度と戻ってこないからだろうか。
それとも雨が何かを見えなくさせているからだろうか。

何年も前というわけではない。
それなのに妙に遠い。
戻りたいわけでもないのに変に悲しい。
あの境内の静けさと雨の匂いが心の奥へと入って来る。

ぶどう寺大善寺。
また訪ねるとしたらまた雨の日を選びたい。
雨が何かを隠したならば、
知らないままでいた方がいいのかもしれない。


大善寺(山梨県甲州市)
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幼な子を“合の川”跡に連れて行くと?

2017年02月16日 | 利根川・荒川の部屋
旧北川辺町にある“合の川”跡。
加須市と板倉町を分ける境界線になっているが、
別の言い方をすれば埼玉県と群馬県の境目でもある。

この川はかつて利根川の一部だった。
現在も堤跡が残り、その流路跡をはっきり望むことができる。

息子を連れて埼玉県側から合の川を再訪。
土手の畔に鎮座する神社にも参拝した。

流路跡のほとんどは田畑に利用されている。
その中で、所々にあるのは沼。
水深が深かったため、川が流れなくなったあとも沼として残っている。
場所によっては釣り堀に利用されている。

なんてことはない沼なのだが、妙に心くすぐられる。
日がな一日眺めていても飽きないかもしれない。
雨がシトシト降る日などは風情があるだろう。
かつて土砂降りの夜に沼を眺めに行ったことがあるが、
夜闇に溶け込んでよくわからなかった。

息子は土手を駆けていく。
沼より土手上の方が気持ちいいらしい。
凧あげをする親子を何組か見かけた。
凧も気持ちよさそうに泳いでいる。

沼の水面に映る凧。
そんな沼の中を泳ぐ凧をいつまでも眺めていたい。


埼玉県旧北川辺町(現加須市)
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春、河口からの声が騒がしい?

2017年02月14日 | 利根川・荒川の部屋
春が近づいてくると
河口からの声が妙に騒がしい。
海へ行きたい。

18歳の春、海へ向かって利根川沿いに自転車を走らせたせいかもしれない。
いまでも遠くで光る橋の明かりを見ると、
海へ行ったあの日のことが胸によぎる。

片道およそ5時間。
いや、正確には6時間だったか。

辿り着いたのは銚子ではなく東京湾だった。
葛西臨海公園が広がっていた。
少し遠くにディズニーランドが見えた。
海の上を何機もの飛行機が飛んでいた。

東遷後の利根川ではなく、
古利根川の河口へ向かったことになる。
無計画な18歳の一人旅。

川と海と対面し、とことん語り合った。
春の陽を浴びて、きらきら光る海は優しい色をしていた。
もうあんな風に海を眺めることはできないのだろう。

電柱に登ろうとする女。
約束を交わした先生。
生霊の乗った改造車をすっ飛ばす隣町に住む男……。
あの頃当たり前のようにいた人たちはみんな遠い。
海へ行くみたいに。

息子の手を引いて、海に入ったことがある。
夏だった。
息子は初めて見る海にはしゃいでいた。

子らはいずれ18歳を迎える。
そのとき海はどんな風に見えるのだろう。
自分の18歳はもう来ないが、
子にはそれがある。
そのことが嬉しくもあり、
また少しだけ切なくもある。

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戦国時代、旧大利根町に“船橋”を架けた?

2017年02月11日 | 戦国時代の部屋
戦国時代、旧大利根町(現加須市)には利根川が流れていた。
現在の流れではない。
町の北側を流れるのは江戸時代に開削されたもの。
それ以前は町の中を縫うように流れていた。

浅間川と言った。
旧大利根町の「阿佐間」を流れていたため、その名称になったと言われる。
現在、浅間川は消滅している。

しかし、戦国時代には確かに流れていた。
しかも決して小さな川ではなかったらしい。
渡るには「舟橋」を架けなければならなかった。

 まくち御領分之由、河東在陣之間者、舟渡往還共、堅令停止候、
 船を引上、被指置、能々可被仰付候、船橋一ヶ所ニ定置候
 (「相州文書」)

天正13年(1585)、北条氏照が一色氏に出した書状には、
間口(旧大利根町)において無闇に舟で渡ることが禁じられている。
あまつさえ、舟橋は1か所のみと定められた。

間口は川が合流する地点だった。
先に見た浅間川のほかに、栗橋方面から流れてくる古利根川が合流していた。
対岸は高柳で、雪下殿空然(足利義明)や古河公方足利晴氏などが、
一時住んでいた場所として知られる(高柳御所)。

かねてより水運交通の要衝地であり、
政治的にも着目される場所だった。
ゆえに、北条氏照は舟橋を一か所のみと定め、
無闇な舟渡を禁じたのだろう。

そもそも川がなければ「舟橋」を架ける必要はない。
舟で渡るどころか、徒歩で進むことができる。
しかし、当時の旧大利根町は浅間川や古利根川が悠々と流れていた。
敵の進攻を阻むと同時に交通の窓口でもあった。

当時はどのように流れ、どんな光景が広がっていたのだろう。
消えてしまった川だからこそ刺激を受ける。

旧大利根町には、そんな幻となった川が流れている。
その存在を意識したとき、町は別の輝きをもって目に映るだろう。
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大落古利根川はどこに流れ着く?

2017年02月08日 | 利根川・荒川の部屋
久喜市から流れている大落古利根川はやがて中川に合流する。
合流地点は越谷市。

合流場所に立ったとき、雨が川面を叩きつけていた。
そんな日にわざわざ土手を下りて川を見ている人などいない。
と思ったら、人がいた。

お仲間か?
期待感が高まる。
が、業者の人だったらしい。
雨に打たれながら作業をしていた。

おつかれさまです。
雨は容赦なく降り続ける。
川岸にしばらくたたずみ川を眺めたあと、
その場から立ち去った。
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風邪を

2017年02月06日 | ウラ部屋
ひきました。
皆さまもお体をご自愛ください。
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そのリュックは“赤”がいいか、それとも“青”か?

2017年02月02日 | ウラ部屋
ファッション誌を買っていた高校生の頃、
僕は時々S君と一緒に上野のアメ横へ出かけた。
あの頃服屋で何時間も過ごすことができたし、
実際に僕らは多くの時をそこで過ごした。

ジーンズ、スニーカー、Tシャツ、トレーナー……。
アメ横でどれほどのものを買ったのだろう。
高校生のバイト代などたかが知れている。
でも、たまに背伸びをすることもあった。

ファッションはオシャレをしたいという気持ちの裏に、
自己変身願望があると思う。
ファッション誌を定期的に買っていた頃、
そんな気持ちが根底にあることを感じていた。

特に、言いようのない痛みや想いを抱えているときなどは変身願望が強くなる。
オシャレして自分を変え、少しでも相手に見てもらいたい、知ってもらいたい。
振り返ってみれば、そんな気持ちの表れだったような気がする。

17歳になろうとしていた冬、僕はアメ横で青いリュックを買った。
ブランド物だった。
が、購入する直前までそのメーカーの存在すら知らなかった。
全く同じ形で、赤いリュックを買ったS君に便乗したのだ。
S君のすぐあとで青いリュックをレジに持っていく僕に、
彼は「真似するなよ」と笑った。

それからしばらくの間、リュックは議論の的となった。
格好いいのは赤か、それとも青か?
僕らは冗談口調で自分が選んだ色のすばらしさを主張した。
結論は出なかったが、もし彼が青のリュックを買っていれば、
僕は赤を選んでいたことは間違いない。

なぜS君に便乗したのか?
自分を変えたかったからにほかならない。
どんなにオシャレな服を買っても、学校に着ていくことはできない(制服だったから)。
でも、リュックならばそれに教科書を入れて持っていくことができる。

その頃僕はとにかく自分を変えたくて、でもその手段がよくわからなくて、
直感的にピンとくるものがあれば手あたり次第顔を突っ込んでいた。
S君がリュックを買ったときもその直感が働いて、青色に手を伸ばしたのだ。
リュックを新しくしたところで自分が変わるわけではない。
でも、あのとき抱えていた色々な想いがそうさせたのだと思う。

自己変身願望。
どんな自分になりたいのか?
どういう風に変わりたいのか?
見た目を変えることは案外簡単かもしれない。
着飾ったり、痩せたり、太ったり、見た目による「印象」は変わる。
そもそも年を取れば嫌でも変わる。

でも、内面や価値観を変えるには、
根本的なところから手をつけなければならない。
3つ子の魂百までという。
百まで続く「魂」を変えるのだから容易なことではない。

だから、180度変える必要はないと思う。
そもそも人はそこまで変わることはできない。
ならば、元あるものを活かしながら変えればいい。
白紙から始めるのではなくて。

人にはそれぞれの個性があり良さがある。
そこをベースとして変えていく。
ベースからかけ離れているように見えても、実はつながっている。
川がどんどん枝分かれしても、その水源は同じように。

元ある自分は変えられない。
僕自身、色々と模索した時期もあったし、
十代を知る人から見れば意外な一面性を感じるらしい。
が、根本的なところは変わっていない。

上野で青いリュックを買った日の帰りだった。
立ち寄った書店で購入したのはヘミングウェイの『老人と海』。
それまでヘミングウェイを一度も読んだことがなかったのと、
挫折しそうもないボリュームだったから文庫本を手に取った。
帰宅してゲームをするS君のそばで、『老人と海』を読んでいたのを覚えている。

あの日買った色違いのリュックは、
ときどきS君と話題にのぼることがある。
笑い話として、遠い昔の話として。

青いリュックとヘミングウェイ。
その2つは僕の手元にある。
16歳は遠ざかり、色々なものを忘れ、失っているのだろう。
ただ、どんなに月日は流れも、
その2つを選んだ価値観はいまも僕の中で生き続けている。
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幼な子を“志多見河畔砂丘”に連れて行くと……

2017年01月31日 | 利根川・荒川の部屋
古利根川沿いに点在する砂丘の中で、
志多見河畔砂丘(埼玉県加須市)は最大級の規模だ。
近年では埼玉県の史跡にも指定され、これから末永く守られていくことを願いたい。

最大規模だから、東西に広く伸びている。
息子を連れて砂丘上に鎮座する神社を参拝。
九頭龍大権現の石祠を確認するためだった。

実は、拙作「光り川」のラストはこの神社を参拝したときに思い浮かんだものだ。
いまから10年以上も前の話だが、
参拝するのはそのとき以来だ。

神社は砂丘の上に鎮座しているため、とても高い。
国道125号線を見下ろすことになる。
木々はすでに紅葉を終え、
地面は枯れ葉に彩られていた。

息子は葉っぱを手に取って遊ぶ。
保育園できっと遊んだのだろう。
しきりに「葉っぱ、葉っぱ」と言っていた。
そして、葉っぱの1枚を九頭龍大権現の上に奉納。
父親の姿を見ていたらしく、社殿の前では手を合わせていた。

息子を抱っこして砂丘を上り下りする。
滑って国道に飛び出したら怪我だけでは済まされない。
慎重に歩いたが、気が付けば服には植物の種がたくさん付いていた。

山城ほどではないにせよいささか汗ばむ。
神社そのものは何も変わっていないように見えるが、
10年の歳月による変化は色々あるのだろう。
時の砂は一体何を埋めているのだろうか……
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関根落の終着点は?

2017年01月29日 | 利根川・荒川の部屋
羽生と行田の境を流れる関根落。
高校時代のほんの一時期、この落とし堀をよく渡ったが、
当時は全く目に留まらなかった。

これについて語るものは特にない。
語るとすればもう少し先にしたい。

関根落はどこにつながっているのだろう。
野通川と合流するのは旧川里町(現鴻巣市)の北根だ。
見沼代用水路を伏せ越して野通川に合流している。
(かつては見沼代用水路に合流していた)

小さな川だ。
意識しなければ目を引くものはない。
が、ある種の熱さをもってそこを流れている。

合流地点のすぐ近くに鎮座しているのは久伊豆神社。
境内には弁才天が祀られている。
合祀される以前は、おそらく川の近くに鎮座していたのだろう。

何気なく流れている落とし堀だが、
視点を変えれば目を離すことができない。
油断できない。


増水時の関根落し
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ムジナもんたちが紹介する羽生の魅力とは?

2017年01月27日 | はにゅう萌え
羽生の大型ショッピングセンターに展示されたパネル。
ムジナもんたちが羽生の魅力を紹介している。
3階の南側。
ほぼ中央だろうか。

世界キャラクターさみっとin羽生や藍染、
羽生のグルメなどが紹介されている。
その中には、江戸時代に日光脇往還沿いに植えられた“勘兵衛松”や
郷土の偉人“清水卯三郎”のこと、
“図書館・郷土資料館”も載っていた。

羽生の魅力がわかりやすく、工夫して作られている。
見付けたらつい立ち止まってしまうだろう。
羽生の大型ショッピングセンターへ行った際はぜひ目にしておきたい。


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幼な子を利根川・渡良瀬川の合流地点へ連れて行くと?

2017年01月25日 | 利根川・荒川の部屋
息子と娘を連れて行った利根川と渡良瀬川の合流地点。
旧北川辺町(現加須市)の土手から眺める。

夕暮れ時だった。
音もなく川は流れ、合わさっていた。
土手上には利根川と渡良瀬川を紹介する説明版が建っている。
利根川の項には、小説『田舎教師』のモデル小林秀三が書いた一文が引用されている。

 利根の堤に咲にほふ すみれ たんぽぽ れんげ草
 花色々の春の朝 吹く朝風もそよそよと

土手から川まではだいぶ離れている。
ましてや合流地点間際まで行くには結構な距離だ。
利根川で遊んでいた10代の頃ならば突き進んでしまうかもしれないが、
息子や娘の前では「大人」を演じてしまう。

近くの東武日光線には何台もの電車が通り過ぎていた。
まだ幼い息子にとっては川より電車にご執心だ。
下流の鉄橋を渡る宇都宮線の音も聞こえてきて、息子は終始テンションが高かった。

僕の実家からではこの合流地点は近いようで案外遠い。
川を越える箇所は限られている。
自転車で行くにはコンビニ感覚では少々骨が折れる。
電車を使うにしても同じことだろう。

妻に言って「ポケモンGO」を開いてもらう。
そこに何かモンスターがいるかどうか調べてもらったが、
電波がうまくつながらなかったらしい。
川が合流しているからか。

それぞれの川が合わさって一つの流れを作る。
人と人との縁のよう……
などと言ったら気恥ずかしい。
ここは特殊な場所。
パワースポットとしても眺めたい。


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妻沼の“日向城”はどこにある?

2017年01月23日 | 城・館の部屋
妻沼(現熊谷市)の日向城へ行く……
と言っても城の遺構はなく、どこに存在していたのかわからなくなっている。

おそらく長井神社付近なのだろう。
神社の境内を分けるところに、堀と土塁らしきものがある。
これが城の遺構なのかは不明。

戦国時代、日向城に在城していたのは嶋田氏だった。
長井神社縁起によると、嶋田氏の先祖は人々を苦しめていた大蛇を退治したという。
おそらく嶋田氏は治水の功労者だったのだろう。
日向村に暮らし、村を治めていた。

戦乱の世になり、住んでいた館を武装化。
堀を張り巡らし、土塁を高くし、曲輪を設けたのかもしれない。
すなわち城郭化した。
大規模な改修ではなく、時代の流れと共に少しずつ手を加えていったと思われる。
嶋田氏の館はいつしか「日向城」となった。

日向村は忍領の一部だ。
北には福川と利根川が流れ、舟運を利用することができる。

しかし、どういうわけか嶋田氏は羽生領の木戸氏に心を寄せていた。
平成に入り、嶋田氏と羽生城の関係を示す文書が発見された。

なぜ嶋田氏が羽生城に属していたのかは定かではない。
年を追うごとに情勢が悪化していく中、
羽生城主木戸忠朝は嶋田氏を頼りにしていたと思われる。
ただ、同盟者というより羽生城に仕える立場だったようだ。

2016年の暮れ、改めて日向城を訪れると共に長井神社を参拝した。
最後に訪れたのがいつだったのか覚えていない。
いつの間にか歳月が流れてしまったらしい。

とはいえ、長井神社も日向の地域もさほど変わりなく思える。
長井神社は厳かに鎮座し、日向の景色はのどかで心落ち着く。
ワクワクしながら自転車を走らせて訪れたときの記憶を、
変わらない景色がすぐに思い出させてくれる。

息子が参道を駆けていく。
社殿の前で、お年を召されたご婦人とそのお孫さんらしきお2人とすれ違った。
少しだけ言葉を交わす。
お2人が去ったあと、もしかすると神社の関係者だったかもしれないと思う。
話をうかがうチャンスを逃した気がして少し後悔した。

どこからともなく田んぼを耕すトラクターの音が聞こえた。
その日は風もなく、穏やかに晴れていた。
眠気を誘うのどかな空気に包まれている。

戦国時代、いつ戦いが起こってもおかしくはない状況とはいえ、
現在と同様ののどかな景色が見られたに違いない。
川は穏やかに流れ、鳥はさえずり、草花がそっと揺らぐ……。
いまから約450年前も、ネコは日向で昼寝をしていただろう。

長井神社の近くに存在していたであろう日向城。
のどかな風景の中にも、戦国乱世の足跡が埋まっている。


埼玉県熊谷市(旧妻沼町)
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道興准后も渡った“浅間川”はどこを流れる?

2017年01月20日 | 利根川・荒川の部屋
旧大利根町(現加須市)を流れていた浅間川。
かつての利根川の流れだ。
現在も各所で流路跡を目にすることができる。

年も新しく開けたので、とりあえず浅間川にごあいさつ。
流路跡には用水路か排水路が流れていることが多い。
旧流路を使って堀を掘削したのだろう。

この流れに乗っていけば、現在の久喜や杉戸へ行くことができた。
上れば羽生や行田へ。

高校生の頃、おそらく一度だけ自転車でこの浅間川跡を渡っている。
もしその当時、そこが川跡と知っていたならばどう眺めていただろうか。
大利根に住む同級生とそんな川の話をしたかもしれない。

ところで、京都の聖護院の僧“道興准后”は関東に足を伸ばし、
浅間川を渡ったことがある。
そして歌を詠んだことはよく知られている(『廻国雑記』)。

 名にしおふ 山こそあらめ浅間川 行せの水もけぶりたてつつ

道興准后の目には、水勢激しく流れる浅間川が映ったのだろう。
道興准后は「むら君」(羽生市)を通って浅間川を渡った。
そして、中田(古河市)へと向かっている。

彼が浅間川を渡ったのは外野(加須市)付近と思われ、
ちょうど利根川が分岐して南流するところだ。
彼が関東に赴いたのは文明18年(1486)のこと。
この頃の浅間川は悠々と流れ、
遠い将来に消えてなくなることなど想像もできなかったかもしれない。

いまは田んぼと化している浅間川。
意識しなければそこに川の姿を思い描くのは難しい。
が、ひと度思い描けば、常にそこには川が流れている。
自分の心の中にしか流れない川。
そんな川の畔かど真ん中でつい立ち止まってしまう。


埼玉県旧大利根町(現加須市)
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