クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

妻沼の“日向城”はどこにある?

2017年01月23日 | 城・館の部屋
妻沼(現熊谷市)の日向城へ行く……
と言っても城の遺構はなく、どこに存在していたのかわからなくなっている。

おそらく長井神社付近なのだろう。
神社の境内を分けるところに、堀と土塁らしきものがある。
これが城の遺構なのかは不明。

戦国時代、日向城に在城していたのは嶋田氏だった。
長井神社縁起によると、嶋田氏の先祖は人々を苦しめていた大蛇を退治したという。
おそらく嶋田氏は治水の功労者だったのだろう。
日向村に暮らし、村を治めていた。

戦乱の世になり、住んでいた館を武装化。
堀を張り巡らし、土塁を高くし、曲輪を設けたのかもしれない。
すなわち城郭化した。
大規模な改修ではなく、時代の流れと共に少しずつ手を加えていったと思われる。
嶋田氏の館はいつしか「日向城」となった。

日向村は忍領の一部だ。
北には福川と利根川が流れ、舟運を利用することができる。

しかし、どういうわけか嶋田氏は羽生領の木戸氏に心を寄せていた。
平成に入り、嶋田氏と羽生城の関係を示す文書が発見された。

なぜ嶋田氏が羽生城に属していたのかは定かではない。
年を追うごとに情勢が悪化していく中、
羽生城主木戸忠朝は嶋田氏を頼りにしていたと思われる。
ただ、同盟者というより羽生城に仕える立場だったようだ。

2016年の暮れ、改めて日向城を訪れると共に長井神社を参拝した。
最後に訪れたのがいつだったのか覚えていない。
いつの間にか歳月が流れてしまったらしい。

とはいえ、長井神社も日向の地域もさほど変わりなく思える。
長井神社は厳かに鎮座し、日向の景色はのどかで心落ち着く。
ワクワクしながら自転車を走らせて訪れたときの記憶を、
変わらない景色がすぐに思い出させてくれる。

息子が参道を駆けていく。
社殿の前で、お年を召されたご婦人とそのお孫さんらしきお2人とすれ違った。
少しだけ言葉を交わす。
お2人が去ったあと、もしかすると神社の関係者だったかもしれないと思う。
話をうかがうチャンスを逃した気がして少し後悔した。

どこからともなく田んぼを耕すトラクターの音が聞こえた。
その日は風もなく、穏やかに晴れていた。
眠気を誘うのどかな空気に包まれている。

戦国時代、いつ戦いが起こってもおかしくはない状況とはいえ、
現在と同様ののどかな景色が見られたに違いない。
川は穏やかに流れ、鳥はさえずり、草花がそっと揺らぐ……。
いまから約450年前も、ネコは日向で昼寝をしていただろう。

長井神社の近くに存在していたであろう日向城。
のどかな風景の中にも、戦国乱世の足跡が埋まっている。


埼玉県熊谷市(旧妻沼町)
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道興准后も渡った“浅間川”はどこを流れる?

2017年01月20日 | 利根川・荒川の部屋
旧大利根町(現加須市)を流れていた浅間川。
かつての利根川の流れだ。
現在も各所で流路跡を目にすることができる。

年も新しく開けたので、とりあえず浅間川にごあいさつ。
流路跡には用水路か排水路が流れていることが多い。
旧流路を使って堀を掘削したのだろう。

この流れに乗っていけば、現在の久喜や杉戸へ行くことができた。
上れば羽生や行田へ。

高校生の頃、おそらく一度だけ自転車でこの浅間川跡を渡っている。
もしその当時、そこが川跡と知っていたならばどう眺めていただろうか。
大利根に住む同級生とそんな川の話をしたかもしれない。

ところで、京都の聖護院の僧“道興准后”は関東に足を伸ばし、
浅間川を渡ったことがある。
そして歌を詠んだことはよく知られている(『廻国雑記』)。

 名にしおふ 山こそあらめ浅間川 行せの水もけぶりたてつつ

道興准后の目には、水勢激しく流れる浅間川が映ったのだろう。
道興准后は「むら君」(羽生市)を通って浅間川を渡った。
そして、中田(古河市)へと向かっている。

彼が浅間川を渡ったのは外野(加須市)付近と思われ、
ちょうど利根川が分岐して南流するところだ。
彼が関東に赴いたのは文明18年(1486)のこと。
この頃の浅間川は悠々と流れ、
遠い将来に消えてなくなることなど想像もできなかったかもしれない。

いまは田んぼと化している浅間川。
意識しなければそこに川の姿を思い描くのは難しい。
が、ひと度思い描けば、常にそこには川が流れている。
自分の心の中にしか流れない川。
そんな川の畔かど真ん中でつい立ち止まってしまう。


埼玉県旧大利根町(現加須市)
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羽生で“節分会”が復活する?

2017年01月18日 | お知らせ・イベント部屋
2月4日(土)、羽生市内の毘沙門堂にて“節分会”が復活する。
戦後、一時節分会があったという。
昭和54年生まれの僕は目にしたことがない。
中断したのがそれ以前だったからだろうか。

毘沙門堂は羽生駅から下った1つめの踏切の脇にある。
古江宮田神社もあり古墳もある。
羽生っ子には、“初山祭り”でよく知られている場所だと思う。

節分会はおよそ50年ぶりの復活になるのだろうか。
2月4日当日は、ムジナもんをはじめとする羽生のキャラクターたちも参加するという。
かつての節分会とは雰囲気が違うかもしれない。
現代のカラーで盛り上がるのだろう。

時間は、午前11時から午後2時まで。
駐車場はないらしい。
だから、公共交通機関の利用を勧めている。
羽生の節分会で福を呼び込もう。
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遠い記憶の行方は? ―コトノハ―

2017年01月16日 | コトノハ
村上春樹作『ノルウェイの森』の第一章のコトノハ。

 それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまった。こうして記憶を辿りながら文章を書いていると、僕はときどきひどく不安な気持ちになってしまう。ひょっとして自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじゃないかとふと思うからだ。僕の体の中に記憶の辺土とでも呼ぶべき暗い場所があって、大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泥と化してしまっているのではあるまいか、と。

『ノルウェイの森』の主人公「ワタナベ」は37歳で、
飛行機の中で「ノルウェイの森」を聞いて混乱に陥る。
そして、過去を回想するという流れになっている。

僕自身37という年を迎え、過去の記憶を辿ろうとしても、
すでに多くのものが失われている実感がある。
かつてはもっと鮮明に思い出せたのに、細部は消えていくばかり。
「肝心な部分の記憶」はすでに失われているのかもしれない。

大まかなことは覚えている。
でも、そのときの言葉や自分自身の想いは、
手を伸ばしても届かないずっと遠いところへ離れてしまったのだろう。

だからと言って、「ワタナベ」のように混乱に陥るわけではない。
過去の悲しい想いに、まだ埋められない心の部分はあるかもしれないが、
日常に支障をきたすわけでもない。
過去は現在の一部となって生き続けている。

僕は1月半ばで37歳を終える。
『ノルウェイの森』を初めて読んだ17歳から20年もの歳月が流れている。
過去の記憶はリアリティを失い、
もはや古い映画を観るみたいに、
スクリーン越しに自分が当事者ではないように心に映る。

20年が経ったとき、記憶はどうなっているのだろう。
『古事記』のように神話の領域になっているだろうか。
もうすぐ38歳。
17歳のときにずっと大人に思えた「ワタナベ」の年を越えてしまう……
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幼な子を妻沼の“能護寺”に連れて行くと?

2017年01月12日 | 神社とお寺の部屋
妻沼(現熊谷市)の能護寺はアジサイ寺として知られている。
冬、息子を連れて参詣。
むろん、アジサイの花は咲いていない。

境内はとても静かで落ち着いている。
慌ただしくない。
周囲が田んぼに囲まれているせいもあるだろう。
騒音もなく、のどかでとても心落ち着く。

能護寺は真言宗のお寺で、
天平15年(743)の開山と伝えられている。
アジサイの中央にそびえ立つようにあるのは鐘楼。
能護寺の象徴のような建造物だ。
梵鐘は元禄14年(1701)の鋳造で、
市指定文化財となっている。

ベンチに座って鐘楼を眺める。
雨の日はもっと静かなのだろう。
心の中にある不安や心配事を静かに洗い流してくれそうだ。

本堂前で手を合わせて参拝。
息子は少し広くなっているところを行ったり来たり駆け足。
が、時折誰かに呼び止められたかのように立ち止まり、
鐘楼を見上げていた。


能護寺(埼玉県熊谷市)
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羽生の須影も変貌いちじるしい?

2017年01月10日 | はにゅう萌え
変貌いちじるしい羽生市だが、
中でも須影地区は顕著ではないだろうか。
時代の変わりゆく様を目の当たりにしている思いがする。

それは大型ショッピングセンター誕生の影響によるものだろう。
誕生をきっかけに、その周囲も変化の一途を辿っている。
真新しい家が次々に建ち、
工業団地までできてしまった。
新道路が敷設され、旧道も怒涛の勢いで拡幅。
国道沿いにも新しい店が建っている。

そんな時代の流れの中、
須影公民館付近では新たに道ができようとしている。
国道122号線を潜る地下道から、東へ伸びる道ができるらしい。
かろうじて残っていた里山も、
この工事でだいぶ消滅するに違いない。

道ができると景色が変わる。
人の動きも変わるし、道沿いに新しくできるものもある。
僕が幼い頃に見た須影の景色はどんどん消えている。
かつて須影でカブトムシがたくさんとれたことなど、
遠い「昔話」となっている。

年末年始と大型ショッピングセンターへ行った人は多いだろう。
市外からの来客もたくさんあったに違いない。
大型ショッピングセンターができる前は、
のどかな田園風景が広がっていたことなど、
幼い子たちは信じてくれないかもしれない。

変わることがいけないことではない。
変化は必然であり、時代がそれを求めているのだろう。
その時代を作っているのは、現代を生きる我々に他ならない。

いま岩瀬地区が大きく変貌しようとしている。
須影と同様、その変化による影響は周囲に波及するのだろう。
2017年の羽生も変化の著しい1年になるに違いない。
ますます羽生から目が離せない。
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幼な子と行く“羽生城”は?

2017年01月07日 | 城・館の部屋
羽生城址碑は神社の境内に建っている。
だから、羽生城へ行くとなると神社に向かうことが多い。

神社の名前は天神社。
古城天満宮とも言う。
『新編武蔵風土記稿』によるとここは天神曲輪の跡という。

そう、本丸ではない。
おそらく城の鬼門を守る場所だったのだろう。
城が落ちるとき天神の森から舟を出し、
城主の奥方と子どもが落ち延びたという伝説もある。

息子を連れて羽生城を訪ねたのは夜だった。
すでに境内は暗闇に包まれている。
景色がよく見えない。

目で見ようとするのではない。
心の目で見る、
とそんなハイレベルなことはできず、
往古に想いを馳せることくらいだ。

息子は神社を参拝。
さして恐がりもせず、
拝殿の前で手を合わせていた。

夜の参拝を気味悪がる人もいるが、神社は聖域。
幽霊が出るとしても場違いな気がする。
出るなら羽生城主に会ってみたい。
あるいは重臣に。

羽生城はいつ、誰が築城したのか謎に包まれている。
戦国時代後期には上杉謙信に属し、
天正2年(1574)に自落。
天正18年(1590)までは忍城主成田氏の支配を受けた。
その後、大久保忠隣が羽生城主となったが、
慶長19年(1614)に忠隣が改易になったことで、
廃城となってしまう。

もし羽生城が山城だったならば、城の遺構は多少残っていただろうか。
しかし、平地に築かれた平城。
時代の流れとともに消滅していったのだろう。
そして、幕末に陣屋が構築されるにあたって、
遺構は全て消滅したと言われる。

羽生城址碑は天神社の境内に建っている。
城址というより、神社参拝として行ってもいいだろう。
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鉢形城主“北条氏邦”はどこに眠る?

2017年01月05日 | ふるさと人物部屋
大河ドラマ「真田丸」も終わった。
「真田丸」では豊臣秀吉と後北条氏の小田原城攻防戦があり、
北条氏政の狂気めいた一面が描かれていた。

周知のように、小田原合戦では本城のみならず、
関東各地の後北条氏の支城が戦場と化した。
中でも石田三成らの忍城攻めはよく知られている。

そんな攻城戦の一つに鉢形城があった。
自然要害を使った堅固な城で、
かつては長尾景春が同城に入って山内上杉氏と対立した。

小田原合戦のさなか、鉢形城を守っていたのは“北条氏邦”だ。
氏邦はこの辺りを治めていた藤田氏に婿に入り、
以後武蔵国西部から上野国の一部を支配する城主へと発展していく。
鎌倉街道上道に位置する鉢形城は、後北条氏の上野国進出の拠点でもあった。
武田信玄による進攻もあったが、氏邦は着々と力をつけていった。

天正18年(1590)、鉢形城を攻めた豊臣方は上杉景勝と前田利家だ。
2万の軍勢に対し、城に籠もるのは数千のみだった。
しかし、堅固な城。
約1ヶ月にわたって上杉・前田勢を手こずらせた。

とはいえ、後北条氏方の不利を悟ったのだろうか。
籠城したところで本城からの援軍はない。
北条氏邦は城兵たちの助命を条件に開城に踏み切った。
氏邦にとっては苦渋の決断だったかもしれない。

その後、氏邦は前田利家の預かりの身となった。
忍城主成田氏がそうであったように、
決して無碍に扱われたわけではなかったらしい。
敗将とはいえ、武将としての氏邦を利家は認めていたのではないか。

氏邦は能登の七尾で死去。
その遺骨は七尾に眠っている……わけではない。
実は、武蔵国に帰ってきている。
しかも本拠地だった寄居に。

氏邦の遺骨を抱いた家臣が武蔵国に戻ったことによる。
そして正龍寺に墓碑を建てて埋葬したという。
旧臣としては、どうしても氏邦を寄居に帰らせてあげたかったのかもしれない。
あるいは氏邦自身の遺言でもあったのか……。

北条氏邦の墓碑は現存している。
正龍寺境内の小高い墓地の一角に、妻の墓碑と並んで建っている。
そこは景色を見渡せる場所でもある。
死してもなお、寄居の地を見守っているのかもしれない。
戦国時代は遠い昔となったが、
氏邦の名はいまも生き続けている。


埼玉県大里郡寄居町
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幼な子を妻沼の“聖天さま”に連れていくと?

2017年01月03日 | 神社とお寺の部屋
妻沼(現熊谷市)の聖天さまに親近感を抱くようになったのは郷土史に興味を持ち始めてからで、
実家から比較的近いのにあまり接点がなかった。
誰かに連れられて聖天さまへ行った記憶もない。
(ただ、いなり寿司は食べたことがある気がする)

2016年の暮れ、息子を聖天さまに連れて行く。
群馬の城へ向かう途中、腰痛がひどくて断念。
聖天さまに急遽予定を変更した。
(そもそも腰痛のまま幼な子を山城へ連れて行こうとしたのが無謀だった)

境内はすっかり正月モード。
「臨時駐車場」と書かれた看板があちこちに立ち、
境内には露店がたくさん出ていた。
大晦日から三箇日にかけて、おおくの参詣者で賑わうのだろう。

息子はなぜかご機嫌斜めだった。
自分の足で歩こうとしない。
境内をゆっくりまわり、貴惣門を見に行く。
いつ見ても独特の存在感を放っている。

が、息子はぐずついて落ち着かない。
ゆっくり貴惣門を見る余裕がない。

境内の店が販売しているいなり寿司はすでに売り切れ。
境内は微妙に人が多かった。
視界には必ず人の姿が映る。

それにしてもなぜ息子はぐずついていたのだろう。
単純にお腹が空いていたからかもしれない。
露店が出ているとはいえ、営業している店は一軒もなかった。
それでも食欲を刺激されたとすれば、
食べるのが好きな息子としては不満だったのかもしれない。

境内が正月雰囲気だったせいか、
気持ちも気ぜわしかった。
露天商と思われる人たちの出入りも慌ただしい。
そんな中、老人が公園のベンチで煙草をふかしていた。

その目は遠くを見つめている。
年の瀬。
老人は何を想いながら煙草を焦がしていたのだろう。
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新年のごあいさつ

2017年01月01日 | ウラ部屋
埼玉県羽生市の変貌は目まぐるしい。
「世界キャラクターさみっとin羽生」の開催や、
大型ショッピングセンターの誕生。
住みよさランキングでは埼玉県内で第2位にランクインするし、
1つの場所に集まったキャラクターの数でギネス記録に登録された。

そんな流れの中、岩瀬地区が大きく変貌しようとしている。
大型商業施設が誕生するという。
また、羽生病院の移転も決定している。

羽生第一高校周辺の田んぼは、急ピッチで埋め立て工事が進行。
まだ建物や新道路はできていないが、それも時間の問題だろう。
羽生に里帰りした人は一度岩瀬を目にしておくといいと思う。
景色はすでに変わりつつあるが、
昔ながらの光景はこれが最後かもしれない。

小松工業団地が誕生したときと同様の目まぐるしさの気がする。
消えた田畑の代わりに誕生したのは林立する工場だった。
あぜ道は消え、トラックが通るアスファルトの道ができた。
中学1年生の中間テストの頃、
鉄骨を打ち込む甲高い音をいまでも覚えている。

今回誕生するのは大型商業施設。
校舎の窓から見えた牧歌的な光景は姿を消すのだろう。
ロードレース大会の練習で走った細い道も、
すでに通行止となっている。

人や物の流れが変わっていく。
時代の流れも早さを増していく一方だ。
人もまた変わっていくのかもしれない。
僕自身はさほど変化がないように思うが(見た目は変わったかもしれない)、
昔のままいうわけにはいかない。

岩瀬はどんな姿に変貌するのだろう。
来年の今頃は様変わりしているかもしれない……。

年が明けて2017年となりました。
本年もよろしくお願いいたします。
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年末のごあいさつ

2016年12月31日 | ウラ部屋
早いもので大晦日を迎え、
今年の1月1日に「文殊寺と高見城」について取り上げたのがつい昨日のことのようです。

今年も色々な出会いがありました。
人に限らず、多くの史跡とも顔見知り合いになりました。
続けていると不思議と結びつく縁があるようです。

大晦日はどのように過ごされているでしょうか。
僕は夕方になると妙に落ち着かなくなります。
不安と焦燥にかき立てられるからでしょうか。

その一方で、期待と翌年に託す想いがあります。
終わりは始まりを含んでいるもの。
気持ちを落ち着かなくさせるのは、
年明けと共に人もまた変わっていくからかもしれません。

ちなみに、僕は「出がらし茶」のことを「出がしら茶」と言っていました。
年の瀬に妻の指摘によって気付きました。
いつから「出がしら茶」と言っていたのか。
しばらく前からだったのか、
それともその日たまたまそう口にしたのか……。

出がらしと出がしら。
似ているようで全然違う。
この手の勘違いは多くありそうです。
年を迎えると共に、自分を新しく改めていきたいものです。
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何気ないところに旧流路が眠っている? ―見沼代用水路―

2016年12月28日 | 利根川・荒川の部屋
「藤間橋(行田市)を下っても何もないよ」
高校生の頃、そんな言葉を聞いたことがある。

ふむ。
確かに何もない。
いや、高校生にしてみれば興味を引くものは何もない。
服やCDを売っているお店があるわけではないし、
飲食店もない。

が、見方を変えれば風景は変わってくるもの。
興味が変われば景色は激変する。

何もない……
わけではない。
ある。
色々ある。

神社仏閣があれば、用水路の起点もある。
橋の傍らに佇む供養塔や石仏。
行人塚や控えの土手など、
案外豊富に点在している。

むろん、大人になってもその手のものに興味を覚えない人は多くいる。
それが悪いわけではない。
僕は郷土史に興味を持ってから目に留まるようになったが、
見慣れた景色でも新しい視点で更新されていくのが結構楽しい。

「ある」の一つに数えられるのは旧流路跡。
見沼代用水路は江戸期に掘削され、その流れは健在だ。
でも、最初からコンクリートで護岸されていたわけではない。
かつてはいまほどスマートではなかった。
クネクネと蛇行していた。

見沼代用水路の一部は星川であり、古代の荒川に比定される。
用水路を掘削したことに違いないが、元々流れていた星川を利用している。
だから蛇行していても何らおかしくはない。

現在の形に整備される中で、蛇行している箇所はショートカットされた。
旧流路である蛇行の流れは田んぼに利用されるか、
あるいは沼として1部現存しているところもある。

藤間橋から少し下ったところにも、旧流路跡を見ることができる。
そこは田んぼとして利用されているが、
土手の跡が残っている。
大きく蛇行して流れていたらしい。

ちなみに、藤間橋から少し上ったところには旧流路の一部が沼として現存している。
田島橋も藤間橋も整備後にできた橋だ。
江戸時代から架かっていたわけではない。

景色としてはすこぶる地味。
意識しなければ目に留まることはない。
目に留まったとしても何の変哲もない田んぼ。
思わず足を止めてしまう……ということはまずないだろう。

でも、「旧流路」の視点で見れば立ち止まってしまう。
何もないわけではない。
山羊座のせいか、物理的な大幅の変化は好みではないが、
静かに更新される景色に熱さを感じる。


埼玉県行田市
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羽生の小さな落し堀に心ときめく?

2016年12月26日 | 利根川・荒川の部屋
羽生市砂山に存在する小さな堀。
古川落。
この小さな流れに心ときめくものがある。

自転車で古利根川巡りをしていたのは20歳を過ぎた頃。
この手のものに心ときめかせ、
図書館で調べては再び足を運んだ時間は充実していた。

同世代に話しても賛同を得られるのは難しい。
だから行動するときは1人。
ときたま誰かと一緒のことがあっても、
相手は「強制的につれてこられた」感が満載だったのを覚えている。

1人でも古利根川やそこに点在する史跡と出会ってはワクワクしていた。
あれは新しい世界が始まる予感の何ものでもない。

地味で年寄くさいとの声もあったが、ときめくのだから仕方がない。
誰に何を言われようと、心の琴線に触れるものは変えられない。
それによって失ったものもあった気がするが、
性分だから避けようもない。
無理に何かに合わせても、長続きはしなかったに違いない。

1人たたずむ砂山の落し堀。
時代の流れは速さを増している。
歴史は古くなり、同時に更新され、新たな年輪を刻んでいる。
20代は遠ざかっても、ときめきはいまも変わらない。
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羽生のイルミネーションが見られる場所は?

2016年12月24日 | はにゅう萌え
現在、羽生市民プラザの前庭はイルミネーションに彩られている。
毎年恒例の幻想的な風景だ。
クリスマスに、
あるいは年末年始に立ち寄ってみてはいかがだろうか。

イルミネーションは午後5時から午後10時まで。
1月31日(火)まで点灯している。
記録の1ページにイルミネーションで飾ろう。
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満々と水を湛えない沼は? ―星子沼―

2016年12月22日 | 利根川・荒川の部屋
星子沼は、豊野台テクノタウンの中にある(旧大利根町・現加須市)。
沼は公園の一部になっていて、周囲は工場が建ち並んでいる。

沼と言っても水はない。
いや、湿地なのだろう。
一面に葦が生い茂っており、
満々と水を湛えている姿ではないということだ。

それでいて、コンクリートで護岸されており、
自然なのか人工的なのかよくわからない「沼」だ。
星子沼に釣りに行こうという人は、まずいないだろう。

すぐ隣には中川が流れている。
また、「加須商工会大利根支所」が隣接している。
テニスコートもあり、「沼」とのギャップを感じる。

星子沼の大きさは小規模だ。
その周囲は整備されているから、ウォーキングは可能。
緑がたくさんあり、ちょっと息抜き程度に歩くには最適かもしれない。

水が見えない星子沼。
大雨が降ったあとならば、水を湛える姿が現れるのだろうか。
自然系の学芸員はこの沼をどう見るのだろう。
歴史や由来など、何かと気になるところである。


星子沼公園(埼玉県加須市)
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