クニの部屋 −北武蔵の風土記−

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

深く地下水脈につながる池は? ―お花が池―

2016年05月29日 | 奇談・昔語りの部屋
お花が池は旧大利根町の北下新井にある。
案内板はない。
細い道を入ったところにポツンとある。

「お花が池」と聞くと、花が咲き乱れる池を連想する。
が、由来は違う。
「お花」という人が、大正時代初期に入水したことに由来するという。
そのとき、蛇の目傘と下駄が池の畔に揃えて置かれていた。
それが人々の心を打ち、
以来「お花が池」と呼ぶようになったということだ。

善定寺池と同様、小さな池だが水深は深い。
地下水脈に通じており、きっと水底の水温は冷たい。
投げ網を打っても、網が底に着くまで時間を要したらしい。

水深がある池沼。
それを聞くだけで魅力が増す。
水底という異界に似た領域に想像力を刺激されるからかもしれない。
ちなみに、ここは天明6年(1786)の決壊口跡という。

かつてこのお花が池の近くに、“阿弥陀池”があった。
洪水によって墓地や阿弥陀如来も池に埋まったため、
その呼び名がついたという。
真偽は定かではないが、
古利根川沿いに位置し、多くの大水を受けていた地域である。
そんな話が伝わったとしても、何ら不思議ではない。
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展示に行けば“花粉”の見方が変わる? ―埼玉県立自然の博物館―

2016年05月27日 | お知らせ・イベント部屋
ぼくの花粉症は5月の方がひどい。
くしゃみの質が4月とは違っている。
全身で花粉を追い出そうとしている感じ。

ところで、埼玉県立自然の博物館(埼玉県秩父郡長瀞町)では、
“花粉”に焦点を当てた企画展「花粉が教えてくれること」を開催中だ。

さすがは自然博。
人々を憂鬱させるものとしてではなく、
科学的な視点で花粉を捉えている。
本展示のコンセプトは以下のとおり。

 花ってなんだろう?
 花粉のふしぎ
 花と虫はもちつもたれつ
 こまった花粉と役だつ花粉
 研究コーナー
 たいけんコーナー

花の大型模型などを使って、わかりやすく解説している。
本展示のリード文によると、
白亜紀の花化石や色鮮やかな花の模型など150点が展示。
体験コーナーでは、顕微鏡で花粉を見ることができる。
「花粉」と聞いただけでムズムズしてくる人もいるかもしれないが、
本展示を見れば、花粉の捉え方や付き合い方がこれまでと違ってくるかもしれない?!

企画展「花粉が教えてくれること」は、
平成28年6月19日(日)までの開催。
開館時間は、午前9時〜午後4時30分まで(入館は午後4時まで)
毎週月曜日が休館日。

埼玉県立自然の博物館ホームページ
http://www.shizen.spec.ed.jp/
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羽生の利根川に建つ“詩碑”を見るのはラストチャンス?

2016年05月24日 | ブンガク部屋
利根川の土手の拡幅工事が始まっている。
何とはなしに足を運んだ羽生発戸。
拡幅された土手がすぐそこまで迫っていた。

発戸(ほっと)は、田山花袋の小説『田舎教師』にも登場する地域だ。
土手には松原が広がっていたとの描写がある。

江戸時代には“発戸河岸”があった。
舟が川を行き来し、人や物が交流する流通の場だったのだろう。
「田舎」として描かれながらも、
文化的な匂いを漂わせている。

発戸の歴史は縄文時代まで遡れる。
この地域の畑から“土面”が発見されたのだ。
土面は、粘土で作られた人の顔の形をした面のこと。
祭祀に使われたのではないかと考えられている。

ちなみに、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館の展示コーナーに、
この“土面”(レプリカ)が展示されている。
足を運んだ際は意識して目にされたい。
土面を使っていた頃、利根川がいまの流れか定かではない。
が、発戸は古くから拓けた地域であることは間違いないだろう。

ぼくはときどき発戸に足を運ぶ。
羽生市内で利根川を見に行く場所は数か所あるが、
発戸はその一つだ。
初めて足を運んだ20年前と比べると、だいぶ景色は変わっている。
土手の川側の面はすでに補強工事は終了し、
かつて同級生3人と腰を下ろした階段はすでにない。

踏査をした田山花袋から見れば、いまの景色は別世界だろう。
土手の拡幅工事は何度かされている。
そのたびに景色は一変し、まるで別地域のような印象を受けてもおかしくはない。

ところで、発戸の土手の中腹には、“松原の碑”が建っている。
小説『田舎教師』に描かれた場所として建立された碑だ。
碑に刻されているのは小説に登場する詩。
ゆえに「詩碑」と呼んでいる。

土手の拡幅工事は、詩碑のすぐ目の前まで迫っている。
土手の中腹に建つ詩碑の姿はこれが最後だろう。
いや、工事後に同じ場所に建てられても、
旧土手の姿は最後である。

そう思うとなんだか切ない。
ここは、高校時代のロードレース大会で走った場所。
迫って来る土手は、暮れゆく青春を象徴しているように見える。
と、言っても37歳。
すでに青春は終わっているのかもしれないが、
変わりゆく景色を目にするのは、
やはり切ない。


詩碑(埼玉県羽生市)



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騎西の“念仏橋”にはどんな由来がある?

2016年05月22日 | 奇談・昔語りの部屋
騎西城下町に、道路の一部と化した橋がある。
その名は念仏橋。
城下町だった頃はちゃんと橋と認識できる景観だったのだろうが、
現在は完全に道路と化し、いつ渡ったのかわからないほどだ。

念仏橋と呼ばれる由来はいくつかある。
戦国時代の頃だろうか。
騎西城が落城したとき、戦死した武士たちの菩提を弔うため、
人々が「南無阿弥陀仏」と唱えたという。
そこから「念仏橋」と呼ばれるようになった。

この由来が史実ならば、永禄年間の上杉謙信の騎西城攻めのときだろう。
騎西城は上杉勢の猛攻を受け、多くの死傷者が出たと伝えられる。
近世作成の「武州騎西之城図」には、念仏橋らしきものが認められる。
これが戦国時代まで遡れるかは不明にしろ、
戦死者を弔うため、念仏を唱えてもおかしくはない。
が、あくまでも伝説。
真偽は定かではない。

また、出産で亡くなった母子のため、近在の人々が念仏を唱えた。
このことから、念仏橋の名前が付いたとの話もある。
あるいは罪人がこの橋を渡るとき、
念仏を唱えたからという話も……。

なお、念仏橋の近くには“浄楽寺”がある。
この寺の参道は念仏橋の近くまで伸びていた。
そのため、参詣者は橋の上に立ち、お寺に向かって拝みながら念仏を唱えたという。

最も腑に落ちる話だ。
でも、ほかの話も絶対に虚構とは言えない。
その時代ごとのエピソードもあるかもしれない。

いまやひっそりと四ヶ村用水に架かる念仏橋。
多くの人々に愛用された橋だったことは間違いない。
いまも町の一角で交通を支えている。
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歌合戦をした“難波田正直”の居城は? ―難波田城―

2016年05月20日 | 城・館の部屋
難波田城址は公園として整備されている。
資料館も有り。

ここは扇谷上杉朝定の家臣“難波田正直”の居城と考えられている。
難波田氏と言えば、松山城合戦にて、
山中主膳と歌合戦を繰り広げたことで知られている。

 あしからじ よかれとてこそ 戦わめ など難波田の 崩れゆくらん

と詠んだ山中主膳に対し、

 君おきて あだし心を 我もたば 末の松山 波も超えなん

と返した難波田正直。
これは「松山城風流歌合戦」と呼ばれ、名高い。
真偽がいずれにせよ、
東国武士が深い教養を持っていたことを伝えるエピソードだ。

この難波田氏は天文15年(1546)の河越夜戦で、
主君朝定と共に戦死している。
その後の難波田城は後北条氏家臣の上田氏が治めるところとなり、
松山城の支城として機能した。

それは長くは続かない。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による北条征伐により、
松山城は陥落。
難波田城も落ちたという。
以後、廃城。

しかし、上記のように現在の難波田城址は整備され、
現在は公園として憩いの場となっている。
全く消え去ったわけではない。
江戸時代にも遺構はだいぶ残っていたらしく、
絵図も作成されている。

発掘調査により、本郭や馬出廓などが確認された。
園内の各所には、それを示す解説版が建っている。
憩いの場でありながら学習の場でもある難波田城公園。
堀や土塁が復元されており、
一般の公園とは雰囲気が異なることは言うまでもないだろう。


難波田城址(埼玉県富士見市)

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“お谷が池”にはどんな伝説が眠る? ―才谷ヶ池―

2016年05月17日 | 奇談・昔語りの部屋
善定寺池から少し北東に行ったところに、
“お谷が池”がぽつんとある(埼玉県加須市)。
才谷ヶ池(さいたにがいけ)とも言い、
こちらの呼び名の方が一般的かもしれない。

ここには、皿屋敷伝説によく似た話が伝わっている。
村の代官所に、樋遣川村から奉公に来ていた女性がいた。
その女性の名を“お谷さん”という。
代官はお谷さんを気に入り、我が手中にしようする。

しかし、お谷さんは代官を拒む。
何を言われようと、代官の意には従わなかった。
そこで代官は、家宝にしている皿の内の1枚を割る。
そしてこれをお谷さんのせいにするのだが、
それでも代官の思い通りにはならなかった。

根負けした代官はついに諦めることに……
という話にはならなかった。
その逆である。
今後はお谷さんを井戸に釣り下げて痛めつけた。

播州皿屋敷ではここで女性が命を落とすところだが、
お谷が池はまだ続く。
代官はさらにお谷さんを磔にしようとするのだ。

ここまで来ると執念と言っていい。
諦めるどころか、しつこく追い回す。
しかも、猟奇的な方法で。

お谷さんはそんな代官に諦めの念を抱いたのだろうか。
隙を突いて屋敷を飛び出すと、
池に飛び込んで自ら命を絶ったという。
その池というのが、お谷が池である。

この手の話にはお決まりの後日談がある。
つまり、祟りの話だ。

お谷さんの霊魂が祟った。
いや、そう信じられた。
というのも、代官の家にはよくないことが起こったからだ。
代官だけではない。
代官屋敷の一部に住んでいた家でもよくないことがあり、
石塔を立ててお谷さんの霊魂を鎮めようとしたという。

どこまで事実なのか定かではない。
よく似た伝説が全国各地に分布しているのは、
歩き巫女や修験者と言った布教者が村人に語り聞かせ、
それがその土地に土着したからとも言われる。

「代官」や「お谷」は実在の人物かもしれない。
「よくないこと」が起こったのも事実かもしれない。
ただ、代官がお谷さんを苦しめ、入水に追い込んだ話は、
果たして本当だろうか。
その背景には、村人たちの「代官」に対する思いが見え隠れしているのかもしれない。

お谷が池は、宝暦7年(1757)の決壊口跡という。
水深が浅く水温が高いため、レンコンなどの栽培が盛んだった。
この池の周辺も開発の気配がする。
今後開発が進めば、池はいずれ消滅してしまうのだろうか。
何気なく横たわっている池だが、
地域の伝説をいまに伝えている。
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夜の8時に“成田”からの5つの文字が入る?

2016年05月15日 | コトノハ
他校の同級生との接点は、
母校とは違った面白さがあったが
鹿島から転校してきたその人は独特だったのを覚えている。

同級生なのに丁寧語で話し、
ポケベルの番号もほかとは違う「029」始まり。
アナウンスも異なり、
急いで打たないと10円ではとても足りない妙なポケベルだった。

海の町から転校してきたからだろうか。
彼女はいつも少しだけ遠くに見えた。

ぼくは彼女の影響を受けていたらしく、
その1年は丁寧語で話すようになったし、
外国人作家の小説を読むようになった。
利根川を眺めるとき、彼女が前に住んでいた鹿島の町を思い浮かべた。

鹿島に行ったことはない。
その海を目にしたこともない。
聞こえるはずもないのに、海の音に耳を澄ませた。

彼女はぼくにはない世界を持っていた。
そこに刺激を受けていたのだと思う。
ある日の夜、彼女からメールが入った。
「イマ ナリタ」

8時くらいだったと思う。
そんな時間に千葉県の成田にいるという。
成田空港が一瞬思い浮かんだが、
どこにいるのかさっぱりわからない。
そもそも、なぜそんなメッセージをぼくに送ってきたのか。

ぼくはすぐにメッセージを返した。
が、彼女からの返信はなかった。
ぼくが行ったこともない場所に彼女はいて、
そこで時を過ごしている。
そんなことがくすぐったく感じたのを覚えている。

あれから20年の歳月が流れ、
成田空港近くに車をとめ、
飛び立つ飛行機を眺めていたらふと思い浮かんだ。
「イマ ナリタ」。
くすぐったくも、遠くに感じられたたった5つの文字。

37歳のいま、地元から成田まではさほどの距離ではない。
電車もさることながら、
高速を飛ばせばあっという間に着く。
例えその日の内に帰れずとも、適当に過ごすだけのお金もある。

車はなく、免許すらとっておらず、
お金もなかった17歳、高校生。
成田や鹿島の海は、異国のように遠く感じられた。

彼女がいつも少しだけ遠くに感じられたのは、
そうした世界との距離だったのかもしれない。
あるいは、大人びた彼女との距離だったのか。
彼女の前にいると背伸びしたくなったのも、
ぼくの幼さゆえだったのだろう。

成田空港からは何機もの飛行機が飛び立っていった。
ぼくの隣で、幼い息子は興奮の声をあげる。

37歳の彼女は、3児か4児の母親になっているという。
最後に会ったとき、彼女の姉と子どもたちと一緒にお好み焼きを食べたが、
もう丁寧語を話さなくなっていた。

「イマ ナリタ」
彼女はいまもぼくの知らない世界に住んでいるのだろうか。
遠い異国の作家の本を読んでいるだろうか。

成田や鹿島の海はあの頃よりもずっと近い。
でも、記憶の中の彼女は、
やはり遠い。
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そばが好きな“コイ”が棲んでいた? ―善定寺池―

2016年05月13日 | 奇談・昔語りの部屋
善定寺池は旧大利根町(現加須市)にある。
すぐ近くにはホームセンターがあって、比較的拓けている。
今後、ますます開発が進んでいくのだろう。

そんな中、善定寺池は自然の状態のまま現存している。
池の由来となったであろう善定寺も、すぐそばに建っている。
真言宗豊山派のお寺。

小さな池だが、水深は4mほどあって案外深い。
寛保2年(1742)の洪水時の切れ所跡という。

かつてこの池は子どもたちの遊び場だった。
釣りをしたり泳いだり、
夏には子どもたちの賑やかな声が絶えなかったのだろう。

しかし、水深4mもある池。
水面は温かくとも、深くなるほど水は冷たくなる。
意地でも潜ろうとすると、頭が痛くなり、
下手をすると心臓麻痺を起こすという。
だから、遊び慣れた子どもたちでも用心が必要だった。

ここには興味深い伝説がある。
善定寺池には大きな“コイ”が棲んでいた。
コイは雑食というが、このコイはいささか妙なものが好きだった。

それは“そば”。
このコイは夜になると人に化けて、
近所にそばを食べに行ったという。

あるとき、善定寺池から大きなコイが捕れた。
それを食そうと腹を裂いたら、
中からそばが出てきたということだ。
以来、人に化けてそばを食べに行くコイは現れなくなったということだろうか。

善定寺池は地下水脈につながっていると考えられている。
深い池や沼はそれだけで魅力的だ。
周辺は押し寄せてくる開発の波を感じるが、
だからこそ善定寺池のような自然の状態で残る池は貴重に見える。
現在は子どもたちの遊び場というより、
釣り人に親しまれる場所となっている。
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羽生陣屋の兵も“梁田戦争”を目の当たりにした?

2016年05月10日 | 近現代の歴史部屋
“梁田戦争”は知る人ぞ知る戦いだ。
足利市の梁田を舞台に、幕府軍と官軍が衝突した。
時に、慶應4年(1868)3月9日のことだった。

梁田宿で休んでいた幕府軍を官軍が急襲。
官軍は3隊に分かれ、宿を囲むように攻め込んだという。
不意を突かれた幕府軍が慌てふためいたのは言うまでもない。
急いで反撃に出ようとしたが、
官軍の勢いを止めることはできなかった。

梁田宿では大砲や鉄砲の弾が行き交い、黒煙が上がった。
宿内の民家からは火の手が上がる。
それは勢いを増し、合わせて18軒の家々が紅蓮の炎に包まれたという。

また、宿内では白兵戦も繰り広げられた。
斬り結ばれる刃と刃。
逃げ惑う女や子どもたち。
そのときの梁田宿は地獄絵図と化したのだろう。

実は、この中に羽生の兵もいた。
梁田宿に来る前、幕府軍は羽生陣屋(埼玉県羽生市)に立ち寄っており、
農兵隊も参陣したからだ。

その兵たちは、血生臭い戦場を目の当たりにしたことになる。
陣屋構築にあたって急遽集められた兵たちばかりだ。
激しい戦闘を目の当たりにして、
士気を保つことができたかは定かではない。

この戦いによる幕府軍の死傷者は、
ものの本によれば100人を越えたという。
宿内の長福寺には、この戦争による死者の墓“戦死塚”があるが、
64人が亡くなったという。

現在の梁田宿は、「閑静な住宅街」と言っていいかもしれない。
日光例幣使街道を示す石碑が道路脇にポツンと建っている。
歴史を知らなければ、
かつてそこで激戦が繰り広げられたことなど知る由もないだろう。

この戦争を目の当たりにした者がいまもいる。
それは梁田公民館の敷地内にてご存命だ。
梁田戦争で大砲の弾を受けた“松”だ。

現在は梁田公民館に移植されているが、
かつては宿内の民家に立っていたという。
両軍の激しい戦闘を目の当たりにした松だ。
しかも負傷している。
まさに「歴史の目撃者」。

なお、同公民館には梁田戦争ゆかりのものが展示されている。
幕末はどんどん遠ざかっているが、
それらはかつてそこで戦争があったことをいまに伝えている。


梁田宿(栃木県足利市)


戦死塚


東軍戦死者追悼碑


弾痕の松
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見沼代用水路沿いの土手を“徳川家康”が通った? ―中ノ目堤―

2016年05月08日 | 利根川・荒川の部屋
徳川家康も通ったと言われる“中ノ目堤”。
旧騎西町(現加須市)の見沼代用水路沿いにある。

ここは用水路(別称星川)の控えの土手で、少し小高くなっている。
往古は松原が広がっていたらしいが、
現在はそのような風景を見ることはできない。

およそ10年ぶりに足を運んだ。
“おおぎょう様”や“おとか山跡”の付近はさほど景色が変わっていないように見るが、
そこから用水路を上るほど「開発の波」を感じてしまう。

5年で「昔」と呼ばれる世の中である(いまはもっと早いかもしれない)。
10年前など「大昔」だろう。

実際、10年前に見た景色とまるで変わってしまったところも少なくない。
人も年を重ねれば、
景色もまた変化するということだ。

徳川家康が通った景色とは全く異なるに違いない。
そもそも見沼代用水路からして護岸はされておらず、
蛇行して流れていたはずだ。
変わりゆくものを歓迎するか、
それとも寂しさを覚えるかはその人の感性によるだろう。


中ノ目堤(埼玉県加須市)
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再現された“貝塚”と“竪穴住居”がある公園は? ―水子貝塚公園―

2016年05月06日 | 考古の部屋
子どもと遊べて学習できる公園。
埼玉県富士見市の“水子貝塚公園”はその一つに挙げられる。

ただの公園ではない。
ここは集落遺跡。
かつてこの場所から大量の貝塚が出土した。
数度の発掘調査により、縄文時代前期中頃の集落遺跡であることが判明。
昭和44年には国史跡に指定された。

そのため、公園内には貝塚の“展示室”や“資料館”が建っている。
前者は貝塚の出土状況が復元されており、
ビデオでその歴史を学ぶことができる。
資料館では遺物を展示。
いまの景観からでは想像しにくいが、かつて古入間湾が遺跡の近くまで入り込んでおり、
出土した貝塚がそれを物語っている。

なお、公園内にはいくつかの竪穴式住居が復元されている。
15号住居跡では、その内部と暮らしの様子を再現。
ここでは30代の女性と犬の骨が出土した場所でもあり、
それらも再現されていて面白い。
また、園内で貝塚が出土した箇所には、白く表示されている。

公園に遊びに行ってもよし。
貝塚見学を目的としてもよし。
あるいはその両方でもよし。
資料館や展示室、15号住居跡では子どもも多く足を踏み入れていた。

興味有無ではなく、実際にそれらに触れることが大切だろう。
そういう歴史があるということに触れる重要性。
その情報は脳に刻まれ、未来の種となる。
将来、どんな形にしろ、芽吹く可能性を持っている。
水子貝塚公園は、未来の考古学者や郷土の誇りを今日も育んでいる。


資料館(埼玉県富士見市)


貝塚展示室(同上)


再現された15号住居内の様子(同上)
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羽生城址に眠る“謎”と“魅力”とは?

2016年05月04日 | 城・館の部屋
古城天満宮に参拝。
気が付けば、10年以上はこの神社に参拝し続けている。

境内には「羽生城址」碑が建っている。
ここは羽生城址に比定されている場所。
とは言っても、発掘調査が実施されておらず、遺構も消滅しているため、
城跡と断定することはできない。
そんな歴史ロマンが香る場所だ。

20代になってから急に羽生城に興味を持ち、
何度ここに足を運んだかわからない。
行ったところで城を感じさせるものは何もないのだが、
フィーリングが合ったのだろう。
この場所から何かが始まる予感を覚えたものだ。

知られざる歴史。
埋もれた歴史的人物。
心の琴線にビンビン引っかかるものがあって、
以来参拝し続けている。

戦国期における羽生城は、上杉謙信に終始一貫して属した城として知られる。
周囲を敵対勢力に囲まれても、
決して謙信から離れることはなかった。
それが羽生城の魅力であり、謎とも言える。

羽生城主は広田直繁と木戸忠朝。
一般的に知られた名前ではない。
地元民でも知っている人は「マニア」の部類に入ると思う。

両者とも肖像画は残っていない。
2人は兄弟だ。
兄が直繁で、弟が忠朝。
ただ、兄弟といえども、
性格は全く異なるものだったのではないかとぼくは睨んでいる。

羽生城は、忍城主成田氏長や、岩付城代北条氏繁の標的となって攻め込まれている。
大河ドラマ「真田丸」にも登場している小田原城主北条氏政も、
羽生城に向かって進攻したことがあった。
氏政による城攻めはなかったようだが、
かつて羽生城主が奉納した懸仏を持ち去ったと考えられている。

天正2年(1574)の春、上杉謙信が羽生城救援に駆け付けるが、
雪解け水で増水した利根川に阻まれて失敗。
その年の冬、羽生城は自落してしまうのである。

伝説によると、家臣が天満宮のご神体を抱えて落ち延びたという。
が、羽生城は落城ではなく、自落。
城を破却するときに持ち去った可能性はあるから、
それが落城伝説の逸話として後世に伝わったのかもしれない。

そんなことに想いを馳せながら古城天満宮を訪ねると、
少し違って見えるかもしれない。
羽生城が浮かび上がってくるだろうか。
少なくとも、羽生城址碑の前で足を止めてしまうと思う。

5月のゴールデンウィーク。
人混みと賑やかなところが苦手な人には、
古城天満宮の静けさは馴染めるかもしれない。
ゆっくりと過ごすことができる。

地味ではあるが、何かの始まりを予感させてくれる場所。
古城天満宮は学問の神さまが祀られているから、
生涯学習の充実や志望校の合格祈願に参拝しても可。
神さまは優しく迎え入れてくれるだろう。

羽生城について、もう少し詳しく知りたい方は、
拙著『羽生行田加須 歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)を参考にされたい。
忍城や騎西城、皿尾城など、羽生城周辺の城も合わせて訪ねたい。

なぜ羽生城は上杉謙信に仕え続けていたのか?
孤立無援となりながらも後北条氏になびかなかったのか?
そんな視点で実際に城址を訪ねてみる。
古城天満宮に参拝してみる。
耳をすませば、歴史の声が聞こえてくるかもしれない。
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村君の“古藤”は歴史ロマンの香りがする?

2016年05月01日 | ふるさと歴史探訪の部屋
羽生の村君には“古藤”がある。
鷲宮神社の境内の一角にそれはある。
境内には弁才天も祀られているのだが、
古藤はその創建のときに植えられたという。

目印は村君公民館。
古藤は公民館の隣に立っていると言っても過言ではない。
ベンチも設けられていて、
憩いの場となっている。

ちなみに、鷲宮神社が祀られているところは“古墳”と言われる。
近くには“御廟塚古墳”と“永明寺古墳”がある。

後者は羽生市で最大の前方後円墳で、
県指定の文化財になったばかりだ。
興味のある方は、
拙著『羽生行田加須 歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)を参照にされたい。

なお、鷲宮神社ではかつて「おかえり」という神事が執り行われていた。
加須の樋遣川古墳群の一つ“御室神社”まで里帰りをするという行事だ。
伝説の真偽は定かではないが、
古墳に眠る者たちのネットワークをうかがわせる。

古墳も合わせて目にしておきたい。
そうすれば、花咲く古藤から歴史ロマンの香りがするだろう。


宵に浮かぶ藤の花(埼玉県羽生市)
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人を化かしたキツネの住処跡がある? ―おとか山跡―

2016年04月30日 | 奇談・昔語りの部屋
行者が自ら生入定になったと伝わる“おおぎょうさま”。
その伝説を伝える石碑が旧騎西町戸室(現加須市)にある。

おおぎょうさまの近くにあるのは“おとか山跡”。
かつてここには一面の松原だったという。
そこに棲んでいたのはキツネ。
このキツネがよく人を化かしていたという。

どんな化かし方だったのだろう。
同じ道をぐるぐる回ってしまうとか、
狐火が見えるなどだろうか。

キツネを“おとか”と呼ぶ。
人を化かすキツネが棲んでいたから“おとか山”と呼んでいたようだ。

その場所には標柱が1本建っている。
おとか山跡と伝える標柱だが、もしそれがなければ、
かつてそこに人を化かすキツネがいたことなど想像もできないだろう。

松原はすでにない。
周囲は民家が建ち、だいぶ拓けている。

平地のこの辺りでは、鬱蒼とした雑木林を「山」と呼ぶ。
おとか山“跡”と言うのは、松原が消えたからなのか、
それとも小高い土山が削り取らたからなのか、
あるいはその両方かもしれない。

ちなみに、ここは星川(見沼代用水路)の控えの土手上で、
やや高くなっている。
“おおぎょうさま”と“おとか山跡”、
小高い“堤”を合わせて目にしておきたい。
かつて人を化かしていたキツネを偲びながら……。
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江戸時代の洪水で現れた池がいまもある? ―宝泉寺池―

2016年04月28日 | 利根川・荒川の部屋
幾たびの洪水によってできた沼がある。
いや、池か。

その名を“宝泉寺池”と呼ぶ。
旧鷲宮町(現久喜市)にある。

国道3号線沿いにある。
すぐ近くにパチンコ店があるから、
そこが目印になるだろう。

目立たない。
地味だ。
興味がない人が見れば、ただの水の溜まりだろう。

そこがいい。
池の周囲はすでに開発の波を感じるが、
これはもう仕方がないというもの。

江戸時代に洪水が起きなければ宝泉寺池は出現しなかった。
換言すれば、洪水の脅威を伝える池と言えるだろう。


宝泉寺池(埼玉県久喜市)
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