クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

建福寺には太田玉茗の詩碑がある? ―羽生文学散歩(2)―

2016年06月27日 | ブンガク部屋
羽生の文学散歩で避けて通れないと言っても過言ではない建福寺。
羽生駅から歩いて5分くらいのところにある。
ショートカットすれば2、3分だろうか。

小説『田舎教師』では、「成願寺」として登場する。
田山花袋はしばしば建福寺に足を運んでいた。
なぜか?
義兄であり学友である“太田玉茗”が住職としていたからである。

太田玉茗は、新体詩人として名が知られた人物だった。
柳田國男や国木田独歩たちと詩集『抒情詩』を刊行。
小説も書いていたし、翻訳もしていた。
いわゆる文学者だったのだが、
寺を継がねばならず、住職としての道を歩むことになる。

当時の周囲の人間は、田舎に引っ込むのはもったいないと言ったらしい。
『田舎教師』の中にも、
「(住職になるのは)こうした田舎寺には惜しいということも噂にも聞いていた」
とある(十一章)

果たして、玉茗自身はお寺を継ぐことに抵抗や葛藤はあっただろうか。
それとも田舎教師の林清三のごとく、
「運命に従うものを勇者という」といったように、
己の宿命を受け入れたのだろうか。

もし激しい葛藤があったとすれば、文学者として活躍する花袋に対し、
どんな想いを抱いていただろう。
成功を喜ぶ一方で複雑な思いもあったかもしれない。
それとも仏道に帰依する身として、そんな境地からはとっくに解脱していただろうか。

太田玉茗の代表作「宇之が舟」の3連を刻した詩碑が、
建福寺の境内に建っている。
旧本堂の前にそれはある。
平成12年の建立。
建福寺の山門をくぐって、正面にある本道に向かって歩けば、
やがて右手に詩碑が建っていることに気付く。

太田玉茗は明治4年5月6日生まれ。
昭和2年4月6日に死去。
羽生市では玉茗の詩業を讃え、
「ふるさとの詩」の中に「太田玉茗賞」を設けている。


詩碑(埼玉県羽生市)
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学校のそばに古利根川の起点がある?

2016年06月25日 | 利根川・荒川の部屋
昌平中学・高校の近くに、
大落古利根川の起点がある。
ちょうど、久喜市と杉戸町の境目の辺りだ。

ここでは葛西用水路と青毛堀川が合流している。
これが春日部市や越谷市などを流れ、やがて中川に合流する。

その名のとおりかつての利根川の本流だ。
が、利根川の瀬替えによって起点が変わり、
現在は排水路として利用されている。

中世には“高野川”と呼ばれたらしい。
鎌倉街道中道として知られる“高野の渡”は、
この起点から少し下流が比定されている。

ぼくは川沿いの道が好きだ。
海がなく、利根川の流れる埼玉県で育ったせいか、
川が目に入るとつい眺めてしまう。

高校生の頃は、放課後に自転車を走らせて利根川に行ったものだ。
片道15~20分くらいはかかったろうか。
利根川で特に何をするというわけではないが、
そんな放課後の記憶は特別な位置にあったりする。

昌平中学・高校の生徒にとって、学校のすぐ近くを古利根川が流れている。
放課後、川沿いの道を歩いたり走ったりすることはあるだろうか。
誰かと一緒に川を眺めることはあるだろうか。

ここは古利根川の起点。
2つの川が合流する特別な場所。
高校生の目には留まりにくい地味なものかもしれないが、
見方を変えれば、別の世界は開かれている。


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羽生駅近くの堀は建福寺のなごり? ―羽生文学散歩(1)―

2016年06月23日 | ブンガク部屋
東京から知人がやってきた。
文学散歩に羽生まで足を運んできたのだ。

Sさんは正津勉先生のゼミで知り合った方。
知り合ってかれこれ10年以上は経つ。
ゼミが終わったあと、みんなで当時Sさんが住んでいたマンションへ押しかけ、
おいしいご馳走を前に酒盛りしたことなど懐かしい記憶となっている。
娘さん愛読の六法全書などもまた、いささか遠い記憶。

来羽したのはSさんを含む6人。
その中に、詩人の長谷川龍生先生もいらした。

今回は仕事ではない。
Sさんとの旧交を温めつつの楽しい文学の旅。
皆さんを田舎教師ゆかりの場所へご案内。

いまから10年くらい前だったか、
Sさんは1度田舎教師散歩に来羽したことがある。
Sさんはお変わりなかったが、
ぼくはあの頃よりも顔が丸くなったかもしれない。

11時過ぎに羽生駅東口に待ち合わせ。
羽生駅は『田舎教師』に登場する駅である。
いまとなっては当たり前の景色だが、
駅の誕生は大きな影響を及ぼしたに違いない。

ぼくが高校生の頃はまだ古い駅舎だった。
歴史ある佇まいで情緒感漂っていた。
が、いまはベルギー風の駅舎の様変わりしている。
古い駅舎に慣れ親しんだせいか、
いまだに「羽生駅」とは違う感覚を覚えてしまう。

『田舎教師』に駅ができ、汽車が登場することは、
この小説では重要な要素だとぼくは思っている。
なぜ重要なのかは別の機会にしたい。

羽生駅が営業を開始したのは明治36年のこと。
いまは駅から羽生市役所方面に向かう1本道が通っているが、
当時は影形もなかった。
東口を下りて北に向かう道が本道であり、
駅前通りが完成するのはもっとあとのこと。

ちなみに、駅から路地に入ると、地面が水路の道がある。
コンクリートの蓋がしめられており、歩くとガタゴト音がする。
第一保育所の前を通る道と言えばわかりやすいだろうか。

これは、かつての建福寺を巡っていた堀の跡だろう。
建福寺はかつて広大な面積を要していた。
羽生郵便局や駅前通りの一部は、建福寺の境内と言っていい。
駅ができ、その周辺が開発され、景色は様変わりした。
当時の景色を知る人間が見たら、
きっとそこがどこなのかわからなくなるに違いない。

羽生駅から建福寺へ。
歩いて5分くらいだろうか。
新体詩人太田玉茗ゆかりの寺であり、
また『田舎教師』の主人公のモデル・小林秀三が眠る場所だ。
羽生の文学散歩と言えば、建福寺を避けて通るのはなかなか難しい。


堀(埼玉県羽生市)
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夜の森から“ガッカラ”と音が響く? ―我空薬師―

2016年06月21日 | 奇談・昔語りの部屋
行田市長野に“ガッカラ薬師”と呼ばれるお堂がある。
「ガッカラ」に漢字を当てると「我空」。

お堂の中には元禄14年の薬師さまが祀られているが、
元は何もなかったという。
というのも、弘法大師がこの地にやってきたとき、
大師は1本の木を植えられた。
そして、その木の中に薬師さまがお祀りされている、と話した。

大師が去ったあと、大師が植えた木は煌々と光り輝いていたという。
木の中に祀られた薬師さまである。
誰もそのお姿を目にしたことはない。
仏画に描かれることも、仏像に現わされることもなかった。

現在は住宅街となっているが、かつては雑木林が広がっていたらしい。
夜になると、どこからともなく「ガッカラ、ガッカラ」と石臼を引く音が聞こえた。
そのため、いつしか“ガッカラの森”と呼ぶようになった。
そして、その森に祀られている薬師さまは、
“ガッカラ薬師”と言われるようになったという。
これが「我空薬師」と呼ばれる所以である。

ちなみに、このお堂のそばには“薬水の井戸”がある。
木の根元から湧き出た水で、これを使って入浴すると病気が治ると言われた。
そのため、江戸時代には遠方から長野村まで足を運ぶ者が後を絶たないほどだった。

いまもその井戸は現存している。
しかし、衛生面からか、飲料には利用しないでほしいとの立て札がされている。

現在、かつて石臼の音が聞こえたという森はない。
お堂の周囲は住宅が林立し、少し行けば工業団地もある。
経済成長による時代の移り変わりは凄まじい。

しかし、ガッカラ薬師に足を運べば、
参拝者はいまも後を絶たないことを感じさせる。
地域でも厚く信仰され、守られているのだろう。

ぼくは生まれつきのものがある。
「薬水の井戸」の傍らにあるポンプで水を汲む。
それを手にすくうと、生まれつきのところにそっと当てた。


埼玉県行田市
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羽生で“蛍”を見るには? ―ほっと蛍まつり―

2016年06月18日 | お知らせ・イベント部屋
今年も“ほっと蛍まつり”が開催される。
6月11日(土)から7月3日(日)までの期間だ。
時間は、夜の7時30分~9時まで。
8時前後が見頃だという。

会場は羽生市発戸168番地にある。
有志が育てた蛍で、紙芝居や案内などもやってくれる。

拙ブログで毎回言っていることだが、
ぼくは生まれてこの方、野生の蛍を見たことがない。
初めて蛍を目にしたのは、この「ほっと蛍まつり」だった。
年輩者から話を聞くと、かつてはどこでも蛍は見られたという。

羽生市内でも、蛍狩りとしてよく知られた場所もあったそうだ。
しかし、いまそこに行っても蛍を目にすることはできない。

人も時代も、前に進めば二度と以前には戻れない。
「昔」の話をするとき、それは過去に戻りたいのと同義ではない。
「昔の方がよかった」というのは、「昔」に対する幻想かもしれない。

「いま」と「昔」を比較して、どう変わったのか。
その変化は我々の生活にどのような影響を与え、
これから先どうなっていくのか。
子どもたちの未来のために、いまできることは何なのか……。

自然や生き物観察会は、ふとそんなテーマを投げかけてもくる。
発戸に飛び交う蛍。
淡い光りの向こうに、あなたは何を見るだろうか。
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忍城が落ちなかったのは館林城で不可思議なことがあったから?

2016年06月15日 | 戦国時代の部屋
NHK大河ドラマ「真田丸」では、忍城攻めが登場した。
とは言っても、そこがクローズアップされたわけではなく、
忍城攻めに加わった石田三成に焦点が当たっていた。

石田三成は豊臣勢の別働隊として忍城攻めに加勢。
軍記物では館林城を攻めたあとに忍城に向かったとするが、
ドラマでは描かれていない。

『関八州古戦録』や忍城主成田氏の事跡を記した『成田記』などは、
石田三成らが館林城を陥落させたとしている。
とはいえ、後世に書かれた軍記物。
脚色は前提条件だ。
三成は館林城を攻めなかったことが有力視されているが、
ドラマである「真田丸」に少しでも登場してもおかしくはなかった。

館林城は、キツネが尾を引いて城の縄張りを示したとの伝説がある。
ゆえに、別名尾曳城と言い、
城内には尾曳稲荷神社が祀られている。

石田三成が館林城を攻めるとき、
近くの雑木林から木を伐り倒し、それを城沼に2か所渡した。
館林城は城沼に護られた天然の自然要害。
木道を渡さなければ攻めるのは困難だった。

ところが、夜が明けるとその木道が綺麗さっぱりなくなっている。
どういうことか?
城兵が夜陰に紛れて沼に沈めたのか……?

館林城はキツネ伝説のある城。
これは人の仕業ではない。
キツネが木道を消し去ったのだ。
三成はそう判断した。
ゆえに力攻めは中止。

城方も、これを機に士気を上げたわけではなかった。
無理に戦わない方がよいと判断したらしい。
三成に降伏を申し出たという。

この逸話は、「伝説」の領域に入るものだ。
とても興味深いが、鵜呑みにはできない。
「真田丸」で描かれている三成像ならば、
消えた木道に「キツネの仕業だ」とは思わないだろう。
論理的思考を働かせ、ミステリー小説ばりに謎解きを開始するかもしれない。

100歩ゆずって、このような逸話が本当だったとする。
三成は館林城から忍城へ向かう。
そして、忍城攻めを開始。
採った戦法は水攻めだった。

ところが城は落ちない。
圧倒的な軍勢にも関わらず忍城は落ちず、
降伏もしなかった。

結局、忍城が開城したのは小田原城が陥落したあとだった。
三成にしてみれば理に叶わないことばかりだっただろう。
もしかすると、それこそが館林城で関わったキツネの仕業だったのかもしれない。


尾曳稲荷神社(群馬県館林市)
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砂原の“弁財天”には人柱伝説が眠っている?

2016年06月13日 | 奇談・昔語りの部屋
旧大利根町(現加須市)の砂原にも人柱伝説がある。
利根川が決壊し、その土手の修復に困っていたとき、
人柱を立てようという話が持ち上がる。
そのとき、偶然通りかかったのが巡礼の母娘だった。

村人たちは無理に巡礼の母娘を荒れ狂う川に投じてしまう。
すると、川はみるみる静かになった。
村人たちはホッと胸を撫で下ろす。

と、そのときだった。
水面から顔を出したものがある。
巡礼の母娘ではない。
それは白いヘビだった。
ヘビは白い頭をもたげ、村人たちを見つめたという。

土手の修復工事は無事に終了。
が、村人は母娘の祟りを恐れた。
そこで弁財天を祀り、人柱になった母娘の霊を慰めたと伝わる。

この伝説は代々語り継がれると共に、信じられてきた。
氏子たちは毎月21日に供養を続けているという。
砂原の鷲神社の裏にその弁財天は現存している。

多くの弁財天がそうであるように、周囲は池となっている。
この池にはやや複雑ないきさつがあり、
一度埋め立てた池を再び掘ったものらしい。
が、元は利根川の決壊によってできた沼地だった。

弁財天のお堂には、白いヘビが描かれた絵馬がたくさん奉納されている。
旗や千羽鶴、額が奉納され、信仰の厚さがうかがえる。
諸願が叶う神社として信仰されているが、
特に安産祈願で参拝する人が多いという。


弁財天遠景(埼玉県加須市)
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初夏、逆さの“永明寺古墳”が見られる?

2016年06月11日 | 考古の部屋
田んぼに水が入る初夏、
“逆さ古墳”を目にすることができる。
拙著『羽生 行田 加須歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)の表紙と
口絵に掲載された“新郷古墳群”(羽生市上新郷)は、
まさに逆さ古墳を意図して撮影したものだった。

水を張った田んぼの水面に、逆さになった古墳が映っている。
初夏に限定された光景と言える。

羽生市下村君に横たわる “永明寺古墳”も、
逆さ古墳を目にすることができる場所だ。
北側に田んぼが広がっている。
その水面に映る逆さの永明寺古墳。

この古墳は、市内最大の前方後円墳だ。
円墳の新郷古墳群とは雰囲気が異なる。
どっしりとした重厚感。
そこはかとなく歴史の重みを漂わせている。

永明寺古墳は、さいたま古墳群との関連性について注目されている古墳でもある。
大和政権の勢力下だったさきたま古墳群とは味方同士だったのか?
それとも敵対関係だったのか?
前者が有力視されつつあるが、後者も捨てきれない。

ちなみに、拙著で永明寺古墳を取り上げている。
が、掲載した写真は雪化粧したもの。
いま思うと寒々しい写真だったかもしれない。

とはいえ、真冬だろうが初夏だろうが、
永明寺古墳の魅力は一年を通して変わらない。
あなたはどの季節の永明寺古墳が好きだろうか?

※最初の画像は永明寺古墳(埼玉県羽生市)。
 道から撮影したもの。
周囲には田んぼや畑があるので、許可なく入らないようにしましょう。
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真田昌幸・幸村が“忍城”を攻めているとき、羽生城は?

2016年06月08日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
大河ドラマ「真田丸」では、忍城の攻防戦が描かれる気配だ。
埼玉県行田市にある忍城は、
石田三成らの水攻めを受けても、関東で最後まで落ちなかった城として知られている。

天正18年(1590)の豊臣勢との攻防戦は激しいものだった。
館林城を陥落させた三成らは、
忍城もスムーズに落とせると踏んでいた。
まさか、そこで足止めをくらうとは思いもしなかっただろう。

忍城攻防戦を詳しく記した『成田記』には、
真田昌幸と幸村も登場する。
すなわち、真田父子も忍城攻めに加わっているのだ。

彼らが攻めたのは忍城の「持田口」。
ここで激しい戦闘が繰り広げられた。
『成田記』は忍城側の立場から書かれた書物だが、
真田勢の精鋭ぶりが描かれている。

この持田口の戦いでは多くの城兵が死傷。
「勇士悉討死し、手負の者ハ其数計難し」と同書は記す。

それでも忍城は落ちなかった。
あの真田氏に攻められても持ちこたえた城、
ということを、『成田記』の叙述者は言いたかったのかもしれない。
それが全てではないにせよ。

ところで、忍城に隣接する羽生城はそのときどうしていたか?
天正18年当時、羽生城は忍城の勢力下にあった。
ゆえに、豊臣勢は本城である忍城を攻めるに至った。
別の言い方をすれば、豊臣勢が羽生城を攻めることはなかった。
忍城の兄弟城である騎西城も同様である。

『成田系図』によると、羽生城兵は城を捨て、忍城に入ったらしい。
本城の緊急のため、援軍に駆け付けたといったところだろう。
天徳寺宝衍は羽生城代衆を豊臣勢に付けようとしたが、
失敗に終わっている(「松平文庫」)。

ということは、石田三成らが水攻めをしたときも、
真田父子が持田口に攻め入ったときも、
羽生城勢は忍城内にいたことになる。
可能性は薄いにせよ、三成を目にした者もいたかもしれない。
真田勢と干戈を交えた者もいたかもしれない。
憶測ではあるが、可能性は皆無ではない。

そんな視点で「真田丸」を見ても面白いだろう。
どのように忍城攻防戦が登場するかは定かではない。
が、あそこで戦っている人間はもしかすると羽生の人間かもしれない、
いや、騎西の人間ではなかろうか。

そんな風に想像してみる。
それによって郷土の歴史に興味を覚えたら、
心の城門が開いたのも同然。
歴史は決して中央のものだけではない。
光りがなかなか当たらないところに、歴史の魅力は潜んでいる。


石田堤(埼玉県行田市)


羽生城址碑(同県羽生市)


騎西城の土塁(同県加須市)
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須影のなき回転寿司屋は“アジ”がおススメ?

2016年06月06日 | はにゅう萌え
“アジ”を食べると、
かつて近所にあった寿司屋を思い出す。
ずっと昔に閉店してしまったが、
ぼくが子どもの頃、その寿司屋は国道沿いに突如現れた。

「突如」というのはぼくが子どもだったからで、
大人たちにはさほど衝撃ではなかったのかもしれない。
ぼくにとっては生まれて初めて見る回転寿司屋だった。

水の上をいくつもの桶が流れていて、その中に寿司が入っている。
あの頃、一皿いくらだったのだろう。
均一だったのか、それともネタによって値段が違っていたのか、
いまとなっては覚えていない。

その店がすぐ近所にあったせいか、
家族でよく足を運んだ。
ソロバンの級があがったり、テストの点数がよかったりすると、
お祝いでその寿司屋に行くことも少なくなった。

あるとき、父とその寿司屋へ足を運んだ。
母はいなかった。
妹がいたかどうかは記憶が曖昧だ。

回る寿司レーンの向こうで、店主が父に声を掛けた。
「今日はいいアジが入ってますよ」

父はアジを注文。
それは寿司ではなく、お造りだった。
店主が捌いたものだったのだろう。
板に乗ったアジのお造りが出てきた。

ぼくは父に勧められてそのアジを食べた。
たぶん生まれて初めて食べるアジの刺し身だったと思う。
新鮮でクセがなく、それでいてちゃんと味がある。
余程おいしかったのだろう。
アジのお造りはすぐになくなり、
父はもう一枚注文するかぼくに聞いた。
ぼくは頷いた。

記憶はそこでおしまいだ。
その日食べた寿司のことは全く覚えていない。
アジのお造りの記憶だけが残っている。

小学校中学年くらいだったろうか。
ぼくは子どもで、父はずっと若かった。
もしかすると、父はいまのぼくくらいの年齢だったかもしれない。

アジを食べると、その時の記憶がふと蘇る。
あの寿司屋にもう一度行きたいな、と思うのはそんなときだ。

しかし、店はもうない。
あの頃、「すし」の看板が夜になると煌々と光っていたが、
いまとなっては懐かしい光景となってしまった。

アジの刺し身はいまでも好きだ。
あの寿司屋で食べた味が忘れられないからだと思う。
店主が父に言った言葉と声もよく覚えている。
人生、どこでどんなきっかけがあるかわからない。
例えば、あのとき店主がサンマやイワシを勧めていたら、
全く違っていたと思う。

およそあの頃の父と同じ年齢になり、
日々を過ごしている。
あの頃、想像するには限界のあった年齢であり、「未来」だ。
不思議なもので、さほど時間が経っていないようでも、
随分と遠くに来てしまったのだろう。

ぼくにとって、アジはあの寿司屋が原風景になっている。
父もまさか何気なく足を運んだ店で、
子どもの原風景となる体験があるとは思っていなかっただろう。
父にとっては「事件」ではないから、全く覚えてなくともおかしくはない。

子どものときに行った場所や食べたものの記憶は強い。
うまかろうとまずかろうと、原風景となる磁場を持っている。
かつて家のすぐ近くにあった回転寿司屋。
店舗はなくとも、あの店で食べたアジと寿司は、
いまでもぼくの中で回り続けている。
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栗橋関所跡の近くにたたずむ池は? ―宝治戸池―

2016年06月04日 | 利根川・荒川の部屋
宝治戸池(ほうじどいけ)は、栗橋関所跡近くにある(埼玉県久喜市)。
寛保2年(1742)の利根川の大水によってできた池だという。

周囲に林立するのは住宅たち。
池は住宅に囲まれるように広がっている。

旧大利根町の善定寺池や才谷ヶ池とは別の雰囲気である。
住宅街ではあるが、落ち着いたいい場所だ。
雨がそぼ降る日などに目にしてみたい。

ちなみに、宝治戸池の近くには地蔵菩薩が祀られている。
旧栗橋町と言えば、静御前のゆかりの地と知られた地域。
この地蔵菩薩は静御前の持念仏という伝説もある。

が、その後の調査によって、江戸時代中期の製作との指摘も出ている。


埼玉県久喜市
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古墳の石室から男女の骨が確認された? ―筑波山古墳―

2016年06月02日 | 考古の部屋
筑波山古墳は、群馬県板倉町の岩田風張にある。
ここは町の文化財となっているのだが、
“副葬品”のみならず石室の“石材”も指定されている。

筑波山古墳は前方後円墳で、全長は55メートル。
6世紀後半の築造と考えられている。

墳頂に祀られているのは筑波山神社。
昭和8年に神社を建築するため、古墳は大幅に削られたらしい。
そのとき、主体部である“横穴式石室”が発見された。

この石室の側壁は、
榛名山二ツ岳噴火でできた角閃石安山岩を加工し積み重ねたもの。
天井石は石灰岩の自然を使用していることが判明した。

石室の中からは、円頭大刀や金環などが発見された。
円頭大刀については、銀象嵌が施されていることが判明。
なお、石室からは人骨も確認されている。
調査の結果、その人骨は女性と男性の計2体のものだった。

古墳時代にこの地域周辺を治めていた豪族だろう。
女性は壮年期後半くらいで、
男性は熟年期か、と推測されている。

昭和8年の掘削のときに発見された人骨だ。
別の入れ物に収められると、境内に埋め直されたという。
そのときに紛失してしまった人骨もあったかもしれない。
いまとなってはわかりようもない。

筑波山古墳は、「古墳」というより、
「神社」の印象の方が強い。
神社も大きくはなく、注意を払わなければ目に留まることはないだろう。
ただ、境内には横穴式石室のものとおぼしき石材を目にすることができる。
社殿の横には文化財解説板も建っていて、
確かにここが古墳であることを教えてくれる。


群馬県板倉町



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夏、行田の空から雪が降ってくる? ―前玉神社―

2016年05月31日 | 奇談・昔語りの部屋
6月1日に雪が降る。
行田の前玉神社にはそんな伝説がある。
前玉神社というより、浅間神社と言った方がいいかもしれない。

あるとき、一人の行者が現れる。
彼は言う。
「己が死ぬとき、当所にのみ雪を降らせよう」

行者は間もなく息を引き取る。
それは6月1日のことだった。
夏である。
雪が降ろうはずがない。

ところが、空から舞い降りるものがある。
雪だった。
行者の予言通り、本当に雪が降ったのだ。

詳細は拙著『羽生 行田 加須 歴史周訪ヒストリア』(まつやま書房)を参考にしてほしい。
ぼくはこの伝説が好きだ。
特に理由はないが、妙に心惹かれる。

伝説によれば、この奇瑞を知った忍城主成田氏長は、
忍城内の浅間社を移し、行者を祀ったという。
この浅間社は、前玉神社のすぐそばに現存している。

前玉神社は古墳の墳頂に鎮座。
浅間社はその中腹に祀られているのだ。
江戸時代は、前玉神社も浅間神社とみなされ、
いまでも「浅間さま」と言う人は少なくない。

今年も6月1日がやってくる。
雪がもう一度降ることはあるだろうか。
当日、行田の埼玉(さきたま)に行ったならば、
空を見上げてみよう。
旧暦だろうが新暦だろうが関係ない。
何か素敵な物語が降ってくるかもしれない。
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深く地下水脈につながる池は? ―お花が池―

2016年05月29日 | 奇談・昔語りの部屋
お花が池は旧大利根町の北下新井にある。
案内板はない。
細い道を入ったところにポツンとある。

「お花が池」と聞くと、花が咲き乱れる池を連想する。
が、由来は違う。
「お花」という人が、大正時代初期に入水したことに由来するという。
そのとき、蛇の目傘と下駄が池の畔に揃えて置かれていた。
それが人々の心を打ち、
以来「お花が池」と呼ぶようになったということだ。

善定寺池と同様、小さな池だが水深は深い。
地下水脈に通じており、きっと水底の水温は冷たい。
投げ網を打っても、網が底に着くまで時間を要したらしい。

水深がある池沼。
それを聞くだけで魅力が増す。
水底という異界に似た領域に想像力を刺激されるからかもしれない。
ちなみに、ここは天明6年(1786)の決壊口跡という。

かつてこのお花が池の近くに、“阿弥陀池”があった。
洪水によって墓地や阿弥陀如来も池に埋まったため、
その呼び名がついたという。
真偽は定かではないが、
古利根川沿いに位置し、多くの大水を受けていた地域である。
そんな話が伝わったとしても、何ら不思議ではない。
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展示に行けば“花粉”の見方が変わる? ―埼玉県立自然の博物館―

2016年05月27日 | お知らせ・イベント部屋
ぼくの花粉症は5月の方がひどい。
くしゃみの質が4月とは違っている。
全身で花粉を追い出そうとしている感じ。

ところで、埼玉県立自然の博物館(埼玉県秩父郡長瀞町)では、
“花粉”に焦点を当てた企画展「花粉が教えてくれること」を開催中だ。

さすがは自然博。
人々を憂鬱させるものとしてではなく、
科学的な視点で花粉を捉えている。
本展示のコンセプトは以下のとおり。

 花ってなんだろう?
 花粉のふしぎ
 花と虫はもちつもたれつ
 こまった花粉と役だつ花粉
 研究コーナー
 たいけんコーナー

花の大型模型などを使って、わかりやすく解説している。
本展示のリード文によると、
白亜紀の花化石や色鮮やかな花の模型など150点が展示。
体験コーナーでは、顕微鏡で花粉を見ることができる。
「花粉」と聞いただけでムズムズしてくる人もいるかもしれないが、
本展示を見れば、花粉の捉え方や付き合い方がこれまでと違ってくるかもしれない?!

企画展「花粉が教えてくれること」は、
平成28年6月19日(日)までの開催。
開館時間は、午前9時~午後4時30分まで(入館は午後4時まで)
毎週月曜日が休館日。

埼玉県立自然の博物館ホームページ
http://www.shizen.spec.ed.jp/
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