クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

自分の生活習慣を変えるとき ―コトノハ―

2017年06月23日 | コトノハ
金子拓著『織田信長権力論』(吉川弘文館)の「あとがき」にあるコトノハ。

 東北の町から東京に出てきて十五年以上が過ぎた。
 東京で生まれた長男は高校生になり、次男も小学校高学年となった。(中略)
 次男が中学に入ってサッカーチームを離れ、千葉に行くことがなくなったら、
 週末をどのように過ごしてゆけばいいのだろうか。
 悲しいけれど、家族の成長に合わせて自分の生活習慣も変えてゆかねばならないのだろう。

学術書は「はじめに」よりも「あとがき」の方が好きだ。
そこには著者自身の雰囲気や人間味が色濃く出ているから。
金子拓氏が著した『織田信長権力論』はお堅いタイトルだが、
「あとがき」はエッセイ風でやわらかい。

次男が千葉でサッカーの練習をしている間、
大型スーパーのフードコートで執筆や読書、思索に耽っていたという著者。
その次男が中学校に入って生活習慣が変わったとき、
「週末をどのように過ごしてゆけばいいのだろうか」とちょっと悩んでいる。
フードコードの時間があったからこそ充実した「仕事」ができた。
そして、「家族の成長に合わせて自分の生活習慣も変えて」いくと述べている。

とてもいいコトノハだ。
家族の成長に合わせて、著者自身も進展しているのだろう。
著者は決して嘆いていない。
家族とともに成長していることがうかがえる。

かくありたい。
結婚は弊害という学者もいる。
子どもが小さい内は何かと手がかかる。
結婚や子どもが「弊害」がどうかは、
それはその人の捉え方や価値観によるというものだ。

失うものがあれば、新しく得るものもある。
例え何かが減ったとしても、増えているものもある。
環境は変わる。
嫌でも変化する。
その変化の中でどう前向きに生きていくかを考えたい。

山羊座のせいか、僕は変化をあまり好まない。
年を重ねるごとに苦手が増しているかもしれない。
だからと言って、無変化を望んでいるわけでもない。

人間、置かれた環境に適応していくもの。
適応し、自分のリズムを作っていく。
新しく得るものは得て、失ったものは肥やしにしたい。
環境は与えられるものではなく、
自分で作っていくものだから。
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葛西用水路と羽生城は重ならなくても……

2017年06月21日 | 利根川・荒川の部屋
満水になった葛西用水路。
羽生の旭橋から撮影したもの。

現在のような景観になったのは、1995年以降だったと思う。
僕らが高校生だったときに工事が始まり、
終わったときには川幅がやや狭くなっていた。

それよりさらに遡った景観は、古写真でしか見たことがない。
コンクリートで護岸もされておらず、馬の洗い場があった。
この用水路が掘削されたのは万治3年(1660)のこと。
伊奈忠克の手によるもので、往時は本川俣から直接取水していた。

葛西用水路は羽生を分断するように流れている。
なぜこんな流路を辿っているのだろう。
用水路を掘削するとき、なるべく負担のかからない方法を採る。
例えば旧流路跡、現役の川、土地が低くなっている場所、湿地など、
元々の地形を巧みに利用する。

重機のない昔のこと。
わざわざ掘削するのに困難な場所は選ばないだろう。
見沼代用水路を掘削するときに星川を利用したように、
葛西用水路も掘りやすい条件を積極的に採り入れたと思われる。

羽生は見た目にはわからないが高低差がある。
同じ地区でも高いところと低いところがある。
これは古利根川の乱流時代の影響と思われるが、
その地形を利用したことは想像に難くない。
すなわち、土地の低いところを縫うように掘削したのではないか。
その中には羽生城の堀も含まれていたかもしれない。

万治3年当時、羽生城はすでに廃城となっていたが、
堀や土塁といった遺構は残っていただろう。
城を覆っていた沼は干拓され、新田開発が進んでいた。
それでも小さな沼は点々と残っていただろう。
用水路を通すのに、その地形を利用しない手はない。
湿地、沼地、城の堀、旧流路跡……。
伊奈忠克はそれらを巧みに利用して掘削を進めていったのではないだろうか。

葛西用水路には「城橋」という橋が架かっている。
むろん、万治3年以降に架けられたもの。
城橋近くの一角に「横町」と呼ばれる場所があるが、
かつては「城上横町」と表記され、その南側は「士辺」と言い、
『新編武蔵風土記稿』には侍屋敷があった場所と記されている。

現在の葛西用水路は、かつて僕が親しんだ頃とは少し違う。
なんだか新しくて現代的だ。
その周囲の住宅も新しく見える。
歳月と共に変わっているのは人間だけではなく、
町もその例外ではないということだろう。
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神社の一角に“芥川龍之介”が立っている?

2017年06月19日 | ブンガク部屋
神社の一角に建つ“芥川龍之介”の碑。
蓮田市の稲荷神社の境内にそれはある。
その名も「関口廣庵頌徳碑」。

“関口廣庵”とは旧平野村根金(現蓮田市)に生まれた人物で、
本名を関口平太郎という。
岩槻で按摩や針灸を修行後、東京で開業。
その近くに芥川龍之介が住んでいた。

龍之介は関口氏に治療してもらっていたらしい。
神経質な龍之介にとって、関口氏の治療は心地よいものだったかもしれない。
特に薬物自殺を図る晩年に治療を受けていることから、
龍之介の疲弊ぶりは関口氏には手に取るようにわかっただろう。

そんな関口廣庵を讃える碑が建立されたのは大正6年のこと。
裏の碑銘を見ると「発起人」として、
「村社稲荷社 氏子一同」とある。
碑の表面には関口氏の功績が刻されており、
最後に撰文をしたとして「文学士芥川龍之介」の名前が見える。

特徴的なのは、碑文が芥川龍之介の自筆の書ということ。
お堅い書体ではなく、柔らかくてどこかぬくもりさえ感じられる。
龍之介が25歳のときの撰文及び書ということで、
平成15年に建てられた説明板によると、
「全国の龍之介の碑文中で最も古いものとされ」るらしい。
しかも、自筆文章の碑は唯一のものだとか。

関口廣庵の碑の建立のいきさつは定かではない。
話が具体化するにつれ、関口氏は撰文を近所に住む龍之介に頼んだのかもしれない。
龍之介は35歳で自らこの世を去ってしまうが、
関口氏は63歳まで生き、家業に勤しんだという。

芥川龍之介に親しむ本好きの人は多いだろう。
各出版社の「夏の100冊」の影響のせいか、
僕は夏になると芥川作品を再読したくなることが多い。
朗読CDでも芥川作品に親しんでいるが、
読むほど聞くほどに味わいが出てくる。

蓮田市の龍之介の碑は自筆文章唯一のものという。
まるでそこに龍之介自身が佇んでいるようではないか。
今年も夏がやってくる。
「本」という形態ではなく、
「碑」の文で芥川龍之介に触れてみると、
一味違った楽しみ方ができるかもしれない。

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風邪で見上げた空に……

2017年06月17日 | ウラ部屋
風邪を引き、高熱にうなされる日々が続きました。
僕の風邪はいつも喉から。
喉の痛みに食事も水も飲めず、
ヨーグルト1つ食べるのがやっとでした。

気が緩んだのかもしれません。
学生時代はテストが終わった途端によく風邪を引いていました。
体調のリズムは何年経っても変わらないのでしょう。
最近は大丈夫かなと思っていたら、
40度近い熱が出るのですから油断大敵というものです。

風邪を引くと世界が少し違って見えます。
頭がフラフラになるからなのでしょうか。
あるいは風邪が変化の通過儀礼なのだとしたら、
新しい視点で世界を見ているからなのかもしれません。

高熱にうなされながら、懐かしい人のことを思い出しました。
彼とは20年以上会っていません。
大空を飛ぶ夢を持っていた彼。
彼は夢を叶えただろうか、とふらつく頭で考えました。

とりわけ親しかったわけでもなく、個別に遊んだことはありません。
放課後にクラスメイトたちとカラオケに行ったり、音楽の授業で席が隣であっても、
共通言語(話題)はほとんどなかったと思います。

ただ、僕は彼のことを思うと少しだけ胸が痛むのです。
あの頃僕がぼんやり憧れていたものを彼は具現化していたからでしょうか。
眩しい存在だったからでしょうか。
個別に親しいわけではなく思い出すこともほとんどなかったけれど、
案外僕の中で特別な位置にいたかもしれない。
そんなことを20年以上経て気付くのですから、
これも風邪の功名(?)というものでしょう。

風邪のピークは越えました。
少しずつ回復傾向にあります。
寝込んでいるあいだ、子どもが周囲をバタバタと駆けまわっていましたが、
家族には誰一人移ってはいないようです。
なにより、なにより。

窓を開ければ色とりどりのアジサイ。
空を見上げると、夢を叶えたかもしれない20年以上前の同級生のことが思い浮かびます。
こんな感情もいっときのことなのでしょう。
風邪が抜け、普段の日常が戻ったとき、
彼はまた遠ざかってしまうのかもしれません。
20年以上前の眩しい存在のまま、
遠い空へ吸い込まれていくように。
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6月の雨を眺める気持ちで

2017年06月05日 | ウラ部屋
6月ですね。
紫外線が苦手で雨好きな僕にはいい季節です。

この頃時間に追われていました。
なかなかブログが更新できませんでしたが、
もう少しすれば落ち着くのかなと思います。

多少時間に追われるのはいいのですが、
切羽詰まりたくはないですね。
そぼ降る雨を眺めるくらいの気持ちは持っていたいものです。
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羽生の“わくわく公園まつり”へ行きませんか?

2017年05月30日 | お知らせ・イベント部屋
6月3日(土)と4日(日)、キヤッセ羽生において
「わくわく公園まつり」が開催される。

ジャガイモ掘り体験、輪投げ体験、ふわふわトランポリンをはじめ、
キッズダンスやよさこいダンスなど、ステージイベントも予定されている。
3日(土)には“おもちゃの病院”が設置されるという
(9時30分~15時まで。受付は14時まで)

キヤッセ羽生は「さいたま水族館」が道路を挟んで隣接しているから、
両方楽しむことができる。
気が付けば半分が過ぎた2017年。
「わくわく公園まつり」でのんびりと過ごしたい。
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セルとの決戦前の孫悟空のメリハリ

2017年05月26日 | ウラ部屋
中間テストシーズンなのか、
図書館で勉強している学生を多く見かける。

ふと思い出すのは自分の学生時代。
高校生になってから、テストが近付くとずっとそのことを考えるようになった。
出題されるであろう問題や回答を、
食事や風呂や誰かと話をしているときも頭から離れなかった。

そうしておかないと覚えたことが忘れてしまう気がして不安だったのだ。
高校生になってから急にそんな不安感に襲われた。
もちろん気は休まらなかったし、テストの点数もよかったわけではない。

何事もメリハリが大切だと思う。
勉強するときはしっかり勉強する。
遊ぶときはとことん遊ぶ。
遊びながら勉強のことを考えてはとても中途半端。
無理しないできっちり区切った方がいい。

社会人も同じことが言える。
仕事のことが常に頭から離れない。
真面目な人ほど休日も仕事のことを考えてしまうのだろう。

でも、一旦そのことを脇に置いてみる。
考えない。
頭をよぎってもそれを掴まえない。
放っておく。
メリハリが大切だ。
そうした方が気も休まるし、仕事の質も上がるかもしれない。
「セル」との決戦前の「孫悟空」がゆっくり休んでいたように。
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幼な子を砂丘の上へ連れていくと……

2017年05月22日 | 利根川・荒川の部屋
遊園地「むさしの村」は志多見砂丘の上に広がっている。
だから園内にも砂丘が残っている。

出入り口のところがひときわ高い。
あずまやも建っていて、ちょっとした休憩所のようになっている。

園内の喧噪から離れて登ってみる。
幼な子にはいささか急な角度かもしれない。
でも息子は一生懸命登っていた。

むさしの村もなかった頃、
砂丘は子どもたちの遊び場でもあったのかもしれない。
だとすれば駆けまわっていたことだろう。
大人たちの話し合いの場でもあったと聞いたことがある。
砂丘は残れど景観は全く異なっているのに違いない。

埼玉県指定文化財になっている志多見砂丘。
現代に残る貴重な天然記念物だ。
しかし、電車好きの息子は砂丘よりも園内を走る汽車に興味津々だった。
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置き去りにされた想いが“早生田堀”に浮かぶ?

2017年05月19日 | はにゅう萌え
岩瀬の桜と早生田堀のショット。
岩瀬公民館(羽生市)の南側には堀が流れている。
太平洋戦争中に早稲田大学の学生が羽生にやってきて、
堀を掘ってくれた感謝の気持ちを込めてこの名前がついたという。

岩瀬公民館の南側は広場になっている。
かなり広い。
なぜなら、かつてここに岩瀬小学校があったから。
十代の頃は、横を通り過ぎると広場でサッカーをしている誰かがいた。
あれはもしかすると同級生だったのかもしれない。

5月も半ばを過ぎると、
桜の季節がすでに遠くに感じられる。
たかだか1ヶ月近い時間が流れただけなのに、
どうして離れて見えるのだろう。

「桜」が春を象徴しているからなのかもしれない。
過ぎ去ったものが過去を意味付けし、
時を切り取ってしまう。

季節を象徴する“人”がいる。
その人が不在になったとき、
共に過ごした季節が遠くに感じられるのは、
やはり過去と現実の間に一線が引かれるからなのだろう。
季節が変わっても、置き去りにされる想いがあるというのに。

春の岩瀬。
小学校跡の桜は今年も満開の花に彩られた。
早生田堀を覗くと、水面に浮かぶのは散った花びら。
まるで置き去りにされた想いのように、
あてどなく揺らめいて。
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なぜこんなにも違うのか

2017年05月16日 | ウラ部屋
書いた文章をパソコンのまま読むのと、
印刷したものとでは印象が違う。
そんな経験はないだろうか。

パソコン上で読み直して文章を整えても、
紙に印刷してみると気になる箇所がたくさん出てくる。
リズムが変。
言い回しがしっくりこない。
どこか書き急いでいる、などなど。

なぜそんな違いが出てくるのだろう。
不思議なものだ。
同じ言語のはずなのに。

データで渡したものが印刷された形で戻ってきた。
読み直していくと段々気持ちが落ち込んでくる。
心臓がきりきりする。
ストレスだ。
自分の文章を読むのが苦痛だ。
こんなことなら自分で印刷したものを読んでから渡せばよかったと思う。
赤ボールペンのインクもどんどん減っている。

人も似たものかもしれない。
環境が変わると印象も変化する。
同棲を始めて、別々に暮らしていたときとは違う印象を持つ人は多い。
大人数でいるときと、少人数でいるときの印象。
遊んでいるときの態度と、仕事場に立ったときの表情など、
大なり小なりの変化をする。

果たして自分はどうなのだろう。
「パソコン」のときと「紙」のときとでは、どんな違いがあるのだろうか。
自分自身ではよくわからない。
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羽生の古城天満宮にて……

2017年05月12日 | 神社とお寺の部屋
古城天満宮に参拝していたら、
知っている人にバッタリ会った。

一昨年からお世話になっている人で、
日常生活の中でとても近い場所にいた。
それ以前にも会ったことはあったものの、
具体的な接点が生まれたのは一昨年からだ。

そんな人と古城天満宮で会う。
人の縁は不思議なものだ。
接点が生まれると、ひょんなところで顔を合わせる。

周期みたいなものがあるのかもしれない。
よく会う時期と、会わない時期。
会わない期間に入ると、本当に接点がなくなってしまう。
その逆の期間にはバッタリ顔を合わせる。

10年ぶりに再会した同級生と、
隣町の図書館で予期せず会ったことがある。
何度も行ったことのある図書館なのに、そこで顔を合わせるのは初めてだった。
あれも一つの周期だったのかもしれない。

SNSが発達しても、やはり人との縁は不思議さを感じる。
古城天満宮が引き合わせた縁もあるのかもしれない。

自分の参拝姿。
誰もいないと思っていたからちょっと気恥ずかしい。
神社の前で言葉を交わしたあと、
その人は白馬に乗るようにして颯爽と去っていった。
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“見る”と“観察”は大きな違い? ―コトノハ―

2017年05月09日 | コトノハ
興味のないものは目に留まらない。
だから記憶にも残らない。
そこに意識がないのだから。

「見る」と「観察」では違う。
かのシャーロック・ホームズもそう言っている(「ボヘミアの醜聞」)。
意識しなければただ目に映るだけ。
何も語りかけてこないし、思い出すこともできない。

多々あるそれらの中で、ぼくの場合「文具」が挙げられる。
普通以上の興味を持ったのはいつからだっただろう。
万年筆に目が留まった頃だったか。

ぼくは文具そのものより、
誰が、どんな文具を、どのように使用しているかに興味がある。
文具を通して“人”を見たいのだ。

そんな視点を持ったのは後年のこと。
十代の頃は文具にほとんど関心を持っていなかった。
だから、思い出そうにも何も浮かばない。

彼はどんなペンで物を書いていたのか?
彼女はどんなノートをどのように使っていたのか?
「教室」と呼ばれる空間で、文具を使う同級生の姿を嫌というほど目にしているのに、
全く思い出すことができない。
やっと思い出せても、パラパラと数えるほど。

学生だからごく一般的な文具を使っていたかもしれない。
しかし、学生時代に万年筆でノートをとっていたという人もいる。
面白い文具を使っていた同級生もいたかもしれない。

あの頃興味があったのは本だったから、
誰がどんな本を読んでいたのか記憶がある。
しかし、無関心だった文具にはそれがない。

年を重ねれば興味の対象が変わってくる。
自然の摂理だろう。
仕方がない。
十代の頃に興味のあったものが、逆に無関心になることも少なくない。
文具を目にしても、「観察」はしてなかったし、
それを通してその人自身を見ることもなかったということだ。

あ、思い出したことがある。
それは、同級生と交換した鉛筆。
どこにでも売っている鉛筆だ。

学生ならではのジンクス。
例えば数学が苦手ならば、それが得意な人のペンを使えば、
テストでいい点数がとれるという内容だった。

ものは試し。
鉛筆を借りてテストを受けてみた。

結果は……。


記憶にない。
何も思い出せない。
忘れておいた方が、
ジンクスも借りた鉛筆も綺麗なままかもしれない。
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栗橋の神輿は利根川から漂着した伝説をもつ?

2017年05月06日 | 民俗の部屋
旧栗橋町(現久喜市)の祭りに登場する神輿は大きい。
かつて利根川から流れて来たとの伝説を持つ神輿だ。

伝説を史実として裏付ける資料はない。
が、現在の神輿は文久3年(1863)に作り替えられたものとみられている。

大きいから迫力満点の神輿だ。
担ぎ棒でさえ相当な重さだろう。
屈強な男たちが神輿を担いで町を渡御する。

旧栗橋町の祭りには露店が出ていない。
焼きそばやお好み焼き、かき氷やリンゴ飴など、
祭りの代名詞とも言える露店が見当たらないのだ。

かえって、祭り行事そのものに集中できるかもしれない。
露店が並んでいると、
花より団子の法則でつい食べ物に引き込まれてしまいがちだ。
それが1店もないから匂いで誘惑されることもない。

この神輿は久喜市指定の有形文化財。
古い昔は、利根川に乗り入れることもあったのだとか。
かつてこの地に行幸した明治天皇が、
利根川に入る神輿をご覧になったとも言われている。
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幼な子を野田の博物館に連れて行くと?

2017年05月04日 | 子どもの部屋
野田市郷土博物館は千葉県野田市にある。
野田と言えば醤油。
博物館内には、醤油の歴史に関する展示も充実している。

訪れたとき、平成28年度市民公募展「集まれ! 食の仕事人」が開催されていた。
妻の希望で公募展を見に行ったのだが、
幼な子の目には刺激的ではなかったらしい。

騒ぐわ、走り回ろうとするわ、床に寝そべろうとするわでちっとも落ち着かない。
親もじっくり展示を見ていられない。
「食の仕事人」たちが使っている道具が展示されており、
面白い構成と視点だったのだが暴れる息子に妨害される。

娘は娘で、館に入った途端に泣き始める。
どの辺に泣くポイントがあるのだろう。
仕方ないから、外で息子と娘の子守りをして、
妻と交互に展示を見て回った。
できればもっと落ち着いて見たかったが、
幼な子を博物館に連れて行った時点でそれは高望みというもの。

ちなみに、同じ敷地内に市民会館(旧茂木佐平治邸)が建っている。
そこにいたのは多数のコスプレイヤーたち。
バラエティ豊かなポーズで写真撮影をしていた。
なんだかとても楽しそう。
地元の人か遠くから来た人だろうか。
博物館や文化財との接し方は千差万別だ。

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馬車に乗ってやって来る春は何を運ぶ? ―コトノハ―

2017年05月02日 | コトノハ
春はどこか悲しい。
知人の母親が亡くなったのは春だった。
病を患っていたのだけど、
まるで春の到来を見届けたかのように静かに息を引き取った。

別の頃、春に自らの意志で彼岸へ行こうとした人もいた。
用意周到に計画したのに失敗した。
聞いた話では、いま幸せに暮らしているという。

横光利一の代表作の一つ「春は馬車に乗って」は、
病気に苦しむ妻をモチーフにした作品だ。
死が色濃い妻と「私」とのやり取りを描いている。
静けさと修羅場。
春が2人を包み込む。

  「とうとう、春がやって来た」
  「まア、綺麗だわね」と妻はいうと、頬笑みながら痩せ衰えた手を花の方へ差し出した。
  「これは実に綺麗じゃないか」
  「どこから来たの」
  「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ」
  (横光利一作「春は馬車に乗って」より)

芽吹く命があれば、
去っていく命もある。
馬車に乗ってやってくる春は喜びか、それとも悲しみか……

春の明るい光に包まれる一方で、色濃くなる影。
だから人は春の到来に喜び、不安を覚えるのかもしれない。
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