クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

戦時中、羽生に疎開した学童がいた? ―子ども学芸員(65)―

2012年10月31日 | 子どもの部屋
昭和16年から始まった太平洋戦争は、
次第に日本の敗色が漂い始めていった。
昭和19年、日本本土への空襲が激しさを増すと判断した政府は、
児童の疎開を促進させた。
国民学校初等科3年~6年の縁故先のない児童が対象だった。

羽生には、“東京都西神田国民学校”の児童約300人が疎開。
各地域のお寺が宿舎として利用された。
そのお寺とは、冨徳寺、福生院、建福寺、正覚院、
源長寺、長善寺、祥雲寺の7カ所である。
約40名前後の児童が各お寺に預けられ、
昭和20年から同21年まで過ごした。

まだ幼い子どもたちである。
両親から離れ、北埼玉くんだりまで疎開してきた児童は、
寂しさと心細さで胸がいっぱいだっただろう。
しかし、日本の勝利を信じて皆歯を食いしばって生きていた。

羽生の人たちは、疎開してきた児童たちに優しく接していたらしい。
かつて正覚院に疎開していた児童は、次のように当時を振り返っている。

 お風呂はゴム会社の厚意で新湯をつかわせていただきました。
 医師の横田先生がよく学童の健康にご注意なされた事や、
 町の有力な方の御宅へよばれて学童が御馳走になって非情に喜んだ事、
 羽生の映画館等の御招きをいただいた事などが思いだされます。

羽生の人たちは、父母から離れ、
遠い町へ連れてこられた学童たちの気持ちを察したのだろう。
遠足に、利根川の土手や館林へ連れていったこともあった。
また、米のご飯も食べられたらしい。

なお、食料増産を目的として土地改良事業が全国一斉に始められ、
学生の勤労奉仕団が耕地整理に羽生へやってきている。
岩瀬村にやってきたのは、早稲田大学と慶応大学の学生だった。
前者は、降り積もった雪をかき分け、用水路を掘削した。
岩瀬で、「早生田堀」と呼ばれる水路があるのはこのためである。

戦時中は、子どもから年輩者まで、一丸となって戦っていた時代だった。
終戦から時は過ぎ、次第にその記憶は薄れていっているかもしれない。
「何もない」と思われがちな郷土にも、
決して戦争と無関係だったわけではない。
学童疎開を受け入れ、親切に接した人々がいた。

時代と共に、戦争の記憶は風化しているが、
世代から世代へ語り継いでいかなければならない。
戦争を実際に知らない世代だからこそ、
それを知ることが大切だろう。
歴史を繰り返さないためにも……
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埼玉でハローウィン? ―奇彩ハローウィン―

2012年10月30日 | 歴史さんぽ部屋
ハローウィンと聞くと、かつてはディズニーランドを連想したが、
この頃は旧騎西町(現埼玉県加須市)が思い浮かぶ。

「奇彩ハローウィン」と称したお祭りが開催され、
商店街を仮装した市民が歩くという。
2012年は残念ながらすでに終了してしまったが、
街角にはハローウィンの飾りものがある。

「奇彩ハローウィン」は2008年より始まったイベントだ。
毎年10月初旬に開催される。
2008年より前だったと思うのだが、
自転車で夜の旧騎西町を走ったとき、
ハローウィンの飾り付けにばったり会った記憶がある。

夜になると車通りは少なく、人影もまばらになる。
そんな町の一角に大きく飾られたハローウィンは、
妙なインパクトで印象に残った。
以来、ハローウィンと聞くと、旧騎西町が連想されるのだ。

騎西町も合併して加須市になった。
しかし、昔から「騎西町」で通った者にとっては、
旧町名の方がしっくりくる。

騎西も歴史ある町である。
ただ、その重厚な歴史とハローウィンは、
管見ながら直接的なつながりはないだろう
それだけに、“奇”妙な“彩”りをもってぼくらを楽しませてくれるのだ。
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ムジナもんダンスはどんな曲と踊り?

2012年10月29日 | ムジナもんの部屋
近年の“ムジナもん”はダンスを踊る。
「ムジナもんと遊ぼう」の曲に合わせたダンスが完成したという。
(作詞作曲・さくまひでき)

このムジナもんダンスが初披露されるのは、
11月24日(土)・25日(日)に開催される“ゆるキャラさみっとinはにゅう”である。
両日の午前9時と午後1日にそれぞれダンスが催されるという。

「ゆるキャラさみっとまで待てない!」という人は、
実は羽生のホームページで見ることができる。
30歳を過ぎたぼくがムジナもんたちを見ても心がほのぼのとなる。

ダンスもどちらかと言えばほのぼの系。
曲も優しい雰囲気に包まれている。
体を使って可愛さを表現をする。

ゆる~いムジナもんたちが、
日本をゆる~く明るくする。
なお、ダンスキッズを募集しているという。
詳細は広報「はにゅう」10月号(№708)に掲載されている。
(広報「はにゅう」も、羽生のホームページで見ることができる)

噂のムジナもんダンス(羽生市ホームページ内)
http://www.city.hanyu.lg.jp/mujinamon/index.html
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羽生に政治の季節をもたらした“通見社”とは? ―子ども学芸員(64)―

2012年10月28日 | 子どもの部屋
明治期の羽生で代表されるのは『田舎教師』(田山花袋作)があるが、
もう一つ忘れてはならないものがある。
それは“通見社”(つうけんしゃ)である。
自由民権運動が盛り上がった時代に羽生に作られた民権結社であり、
埼玉県下では最大規模を誇っていた。

通見社を結成したのは、掘越寛介や綿貫来観、中嶋義三郎らの在野の人々である。
掘越寛介の履歴書によると、通見社の結成は「明治9年」と記されている。
比較的早い時期での誕生だった(明治11年の説も有り)。

自由民権運動は、国会の開設や憲法の制定などを求めた運動であり、
通見社もその潮流に乗っていた。
明治13年には、通見社員の“保泉良輔”が右大臣“岩倉具視”と会見をし、
国会開設を求めている。

直接運動に携わらずとも、人々の関心は高かったらしい。
羽生の小学校講堂で演説会を開けば、
「聴衆二百五十余人皆近村ノ農民ナリ其質撲ナルハ聴衆中老幼男女混淆」する有様だった。

通見社に心を寄せる人々は増え、明治14年10月13日付の「朝野新聞」によると、
尽力社員は561名、同意社員は2,579名にのぼり、
合計3,000名を越す人々が政治の季節をもたらしていた。

このほか、通見社の青年の部とも言うべき“本立社”が、
同じ羽生町で結成された。
社員は17、8歳の青年であり、約80名ほどが参加した。
明治14年9月24日に第1回懇親会が開かれ、大いに討論を交わした。
まさに、「老幼男女」の幅広い年齢層の人々が国のことを想い、
活動していたかが窺えよう。

同月26日には、“板垣退助”や“中島信行”が来羽。
羽生町で一泊している。
しかし、自由民権運動は政治運動である。
通見社の盛り上がりを快く思わない者もいた。

明治15年1月13日、掘越寛介は白刀を持った何者かに襲われる。
寛介は持っていた杖で応戦。
右足に怪我をするが命に別状はなく、くせ者も退散した。
寛介は、護衛用の仕込み杖を持っていたらしい。
中に刀を仕込んだ杖である。
それゆえに応戦できたに違いない。

明治15年、埼玉県に“自由党”が結成された。
その事務局は最初熊谷に設置されたが、その後羽生に移ったらしい。
明治15年5月30日付の「東京輿論新誌」には、
「北埼玉郡羽生町自由党埼玉部本局」において、
演説討論会が開催される広告が掲載されているのである。

明治16年7月6日、「自由運動」と称する運動会が、
上村君地内の利根川堤防で開催された。
参加したのは自由党員260余名であり、
剣道や旗取りなどの競技で大いに盛り上がったという。
ただ、運動会に参加した教員が大鯰を官吏に見立て、その首を切り取ったため、
後日罷免されるという騒ぎも起こっている。

このように、活気よく政治の季節をもたらした通見社だったが、
明治17年頃に自然解党したものと見られている。
全国で激化事件が起こり、その鎮圧の波が押し寄せてきており、
通見社の社員も何人かが警察署に拘留されたのだ。
また、自由党も解党となり、
一度区切りをつけるために通見社も解散となったのかもしれない。

その後、通見社を牽引してきた掘越寛介は政治の世界に飛び込み、
国政で活躍している。
また、実業家・教育者としての顔も持ち、
のちの不動岡高校である私立埼玉英和学校の創設に尽力し、
校長も務めるのだった。

一方、通見社の解党後、消息を絶った者もいる。
自由民権運動は、在野の人々の熱き戦いである反面、
散財してしまう者も少なくなかった。
自由民権運動に携わる人々は、豪農や商家が多かったという。
彼らは国の行く末を考え、自らの力で道を切り開こうとしていた。

のちに、国会が開設され、憲法が制定されるが、
彼が目指していたものとは違う内容だった。
だとすれば、彼らの努力は無駄だったのだろうか?
いや、名もなき彼らの運動があったからこそ、
国民による国民のための政治・社会の礎が築かれたと言える。

いま、「通見社」の名を知る者は、地元でも少ない。
かつてもたらされた政治の季節は、遠い過去の出来事となっている。
しかし、私財をなげうってまで、
国のために尽くそうとした人々がいたことを忘れてはならないだろう。
例え遠い昔のことだとしても、
彼らの魂はいまでも生き続けているのだから……

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


埼玉県羽生市
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羽生の青縞を見て触ることができる? ―子ども学芸員(63)―

2012年10月27日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」には、
“高機”や“青縞取引図”が展示されている。
北埼玉地方で盛んだった青縞を見る上での資料となる。

その昔、農家の女性は仕事の合間に紺屋で染めてもらった糸を使い、
足袋や野良着など、日常生活で使うものを織っていた。
あくまでも、自分たちが使用するもの用である。

ところが、自分たちの織った青縞を“市”で売る女性が現れる。
北埼玉地方で青縞の市が盛んになったのは、
天明年間と言われる。
最初は騎西の市が賑やかであり、その後加須に移った。
騎西は2と7のつく日、
加須は5と10のつく日に市が開かれた。

その後、青縞の市の賑わいは羽生へ移ってくる。
農家の女性にとって貴重な現金収入だった。
市からの帰りには、子どもにお菓子などを買ってあげたという。

「青縞取引図」には、そんな女性たちが活き活きと描かれている。
すなわち、糸を紺屋さんで染めてもらい、
それを“地機”で織る。
織ったものは問屋へ持っていき、現金に換えてもらう。
往古の女性たちの活気が伝わってくるだろう。

ちなみに、紺屋の職人になるためには長い修行が必要だった。
12、3歳で小僧として入り、一人前になるには20歳くらいまでかかった。
紺屋に年季奉公に出るのは農家の次男・三男が多く、
親の意向も強かったという。
小僧の間はつらい修行に耐えねばならず、
藍建てがうまくいくかが一人前のボーダーラインだった。

一方、青縞を織る“織り子”も決して楽な仕事ではなかった。
賃機が多く、主に女性の仕事だった。

どの家の女性たちも機織りをしており、
自ずと競争意識が芽生えていたらしい。
「どこそこの家は夜遅くまで明かりがついていた」
「誰々の家では何反織った」などと、何かと比較されることが多かったという。
朝5時から、夜の10時~12時頃まで織り続けた。

それでも、できが悪ければ大した収入にはならない。
また、傷物ばかりこしらえる家には注文することもなくなった。
農閑期だけに織る者もいれば、1年中織る者もいた。
こうした縫製技術は母から娘などに受け継がれることになる。
そして、洋装が次第に主流になっていくと、
青縞の縫製技術は時代に適応し、「衣料の町」へと発展していく。

青縞は鮮やかな色をしており、不思議と虫がつかないという。
使えば使うほど味が出てくる。
羽生の紺屋さんはほとんど姿を消したが、
昔ながらの伝統を守っているところもある。

藍染めや青縞もまた一つの文化だ。
企画展Ⅰ「郷土羽生」では、触れる展示として、
手に取ることのできる青縞が置かれている。
それを手に触れれば、青縞の心地よい風合いと共に、
歴史の奥深さを感じることができるかもしれない。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


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10月28日における羽生の“健康”コースは?

2012年10月26日 | お知らせ・イベント部屋
10月28日(日)に、“市民福祉健康まつり”が
羽生の市民プラザで開催される。

内容は、ムジナもんたちのスタンプラリーなどのイベントや、
講演会の特別企画など盛りだくさんである。
後者は、「インプラントってどうなの?」や、
「認知症の方との接し方」といったテーマが講師の口から語られる。

時間は、午前9時30分から午後2時まで。
会場は、前述のとおり羽生市民プラザだ。

ちなみに、10月28日(日)は、
郷土資料館で開催されている企画展Ⅰ「郷土羽生」の最終日である。
屋敷裏遺跡の出土遺物や羽生城主の古文書、
本陣で徳川斉昭が書いた和歌などが見られるのもこの日が最後となる。
今後いつお目見えになるかわからない。

好奇心がかき立てられると、体や脳にもいいという。
「資料館」と「健康」は一見無関係のように見えるが、
絶え間ない好奇心が心を活き活きとさせてくれる。

10月28日(日)は市民福祉健康まつりと郷土資料館へ行って、
心身ともに健康になってみてはいかがだろうか?
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羽生の“隠居獅子頭”はちょっと不気味? ―子ども学芸員(62)―

2012年10月25日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」に展示されている“獅子頭”は、
ちょっと怖い。
どことなく化け物じみている。

獅子というと、神社の参道に建っている狛犬をイメージするかもしれないが、
展示中の獅子頭はそれとはほど遠い。
薄暗い中で見たら、きっと不気味だと思う。

実は、この獅子頭は“竜”をモチーフとしている。
羽生で一番古い獅子頭だ。
「隠居獅子頭」と呼ばれ、宝永2年(1705)の銘が刻されている。
かつては上新郷西新田で使われていた。

享保6年(1721)の獅子頭が同じく羽生市内にある。
こちらは隠居獅子頭よりもやや「獅子」ぽい。
とはいえ、我々が見慣れているものとは違うと思う。
文化9年(1812)銘の獅子頭も同様である。

上新郷西新田の隠居獅子頭が竜の形をしているということは、
村人が竜神を意識していたのが窺える。
獅子は神さまであり、五穀豊穣をもたらし、また疫病を退散してくれる存在だ。
竜神が村にやってきて、邪を祓い、実りをもたらしてくれるのだ。
利根川沿いの集落ゆえに、神さまは川からやってきて、
再び川に帰っていくと村人は考えていたのかもしれない。

ところで、「お獅子さま」と呼ばれる行事がある。
「獅子舞」は獅子が3匹だが、
「お獅子さま」は1匹である。
いまでは地域の人が獅子頭を持って集落を回るのがほとんどだが、
かつては実際にかぶって家々をあがっていた。

家に上がるときは土足であり、「アリャリャイ」などの掛け声を発した。
この声は神の到来を意味するものであり、
邪気を祓う効果もあったのだろう。
農業を専業としていた昔の人にとって、
五穀豊穣と疫病除けは切実な願いであり、
お獅子さまにしろ獅子舞にしろ、大切な行事だった。

往古は多くの村々で催されていた獅子舞だったが、
現在は数えるほどしか残っていない。
それらは羽生市指定文化財(無形民俗文化財)になっている。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


下手子林


上村君(かみむらきみ)
最初の写真は桑崎
このほかにも、下村君、尾崎、中手子林、上新郷中新田が羽生市指定文化財になっている
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上新郷の“本陣”にはどんな人が立ち寄った? ―子ども学芸員(61)―

2012年10月24日 | 子どもの部屋
上新郷の宿通りは“日光脇往還”である。
天正19年に立てられた「新市」は、5と10の日に開催されていた。
また、江戸初期には“川俣関所”が設けられ、
忍城から派遣された番士が行き来する者を監視していた。

新郷は長く忍藩であったため、
羽生市域の村々とは少し特異な歴史を持っているかもしれない。
じっくり散策すれば、意外な発見が数多くあるだろう。

上新郷には、日光社参の大名や幕府役人たちが泊まる“本陣”が設けられていた。
実は、この本陣にまつわる資料が、企画展Ⅰ「郷土羽生」に展示されている。
すなわち、「富士山の図」「徳川斉昭の和歌」「佐藤延昌の箱書」「関札」である。

天保14年(1843)4月10日、徳川斉昭は日光社参のため江戸の「礫川の邸」を出立。
桶川の宿に泊まったあと、新郷宿の本陣に到着したのは正午だった。
斉昭一行は本陣で休憩を取る。
そのとき斉昭の目に映ったのは、地袋に描かれた「富士山の図」だった。

天保14年4月8日に「晴真」という者が描いた絵で、
斉昭らが休憩に立ち寄るのを見越して筆を執ったのかもしれない。
斉昭自身、そう感じたらしく、
「我ための設にや有むと思ひ」和歌を詠んだという。

 利根川の水は鏡か真なる
 思ひするかの不二のうつし絵

徳川斉昭は力強い字で記し、本陣を出立した。
無事に日光社参を済ませた斉昭ら一行は、帰路に再び上新郷の本陣に立ち寄る。

すると、本陣の主が徳川斉昭の和歌を収める箱を用意していた。
その箱に記す書を求められたので、斉昭の家臣“佐藤延昌”(さとうのぶまさ)が筆を執り、
和歌を詠んだ経緯を書き記した。
これが「佐藤延昌の箱書」である。

のちの時代、忍藩の国学者だった“黒沢翁満”(くろさわおきなまろ)は、
本陣が所蔵する徳川斉昭の和歌に感激する。
このような田舎の家に斉昭の和歌という宝があり、
「ふたつなき家のたからとあふけこの山より高き君の恵を」と、
翁満自身が和歌を書き記すのだった。

関札は、「紀伊殿宿 四月廿日」と墨字で書かれている。
「紀伊殿」とは徳川御三家の一つであり、
徳川治貞と比定される人物が本陣に泊ったときに掲げられた札である。
本陣は、帯刀や名字を名乗ることを許されていた。

宿泊のときは、この関札とともに高張提灯を掲げ、番手桶を三角形に積み重ねると、
砂盛をして大名や役人たちを迎えた。
本陣の主は裃姿で村境まで出迎え、
駕籠のわきについて案内したという。

このように、上新郷は宿場町としての歴史が色濃く残っている。
宿場町として栄え、大名たちが通るために松も植えられた(勘兵衛松)。
時代と共に失われたものもあるが、
その名残や面影を見ることは可能だろう。

ちなみに、この地区は人形操(にんぎょうあやつり)が盛んで、
村の娯楽で親しまれていた。
どの家も人形を操ることができ、
「操」という小字が残っているほどだ。
その人形や技が現存していれば伝統芸能として貴重だったのだが、
残念ながら残っていない。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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羽生の“商工まつり”へ行きませんか?

2012年10月23日 | お知らせ・イベント部屋
11月3日(土)に開催されるのは“商工まつり”。
プラザ通りが歩行者天国になる。

江戸から明治時代にかけて賑わった“市”のような盛り上がりだろう。
歩行者天国になるのは午前10時半から午後4時30分まで。
羽生の秋の祭りである。

主なイベントとしては、市内小中学校の演奏やムジナもん体操、
商工業製品の展示販売や屋台村も出る。

「商工まつり」と聞くと、何とはなしに深まる秋を感じる。
秋空の下に映えるおんな天王御輿の光景が鮮やかだったせいだろうか。
不思議なすがすがしさをもって記憶に残っている。

夏の祭りが夜の盛り上がりなら、
商工祭りは昼の賑わいである。
ほのぼのとした田舎ののどかさの中に、
祭りの賑やかさが心地よい。
11月3日は羽生へ足を運んでみてはいかがだろうか?
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江戸時代の羽生の町場で何が立った? ―子ども学芸員(60)―

2012年10月22日 | 子どもの部屋
慶長19年(1614)に羽生城が廃城となり、
羽生領は幕府領になったり、旗本や各藩の城主の支配を受けたりと、
かなり複雑な歴史を刻んでいる。

羽生の町場は城が廃されてしまったため、「城下町」ではなくなった。
“町”として発展していくことになる。
『新編武蔵風土記稿』には、
館林や加須への人馬を送る「宿駅」であったと記されている。

城下町の名残か、町の出入り口には“木戸門”が設けられていた。
かつて番士がそこに詰めていたのか、「番屋跡」と呼んでいた。

現在のプラザ通りと松原通りが古道である。
プラザ通りは道が拡張しているが、往古はもっと狭かった(路幅78間)。
横町通りがあるが、これは羽生城が廃されてから作られた道だろう。
「城上横町」とも呼ばれ、城橋を渡り、羽生城へ向かって伸びている。

ちなみに、葛西用水路は万治3年(1660)の開削なので、
羽生城時代には姿形もなかったことになる。
前掲書では、城跡を「城中分」と呼び、城下町を「町分」と言ったという。

羽生の町場では、毎月4と9の日に市が立っていた。
木綿類が売り買いされており、明治期になると本格的に「青縞の市」となった。
文久4年(1864)に作成された「宗門人別改帳」には、
農業以外に携わる職業が記されていて興味深い。

例えば、町場村58戸の内、酒造を営んでいるのは2戸、
すし屋が1戸で醤油造商が2戸。
とうふ屋1戸、足袋商1戸、餅菓子商1戸などと、いろいろな商売があった。
農民が、農業以外に商いや職人業に携わっていることを“農間余業”と言う。

もちろん、羽生だけではない。
埼玉県においては、街道筋に位置する集落に農間余業率が高い傾向にある。
例えば、粕壁宿(春日部)では76.7%、
栗橋宿では69.7%もの農民が何らかの余業に携わっていた。
騎西町場は80.3%、加須では88.9%もの率に跳ね上がる。

妻沼村(現熊谷市)は約50%の余業率だが、
中でも居酒屋が多い傾向にあった。
「武蔵国幡羅郡妻沼村外廿五ヶ邑組合諸商ひ渡世向取調書上帳」によると、
湯屋や髪結はどの村にも必ず存在し、
職人では大工などの建築関係者が多いことがわかる。

江戸時代の地方というと、農業に従事する「百姓」のイメージがあるかもしれないが、
必ずしもそうではなかったことが窺えるだろう。
いろいろな商売人や職人が存在し、貨幣経済が発達していた。
最も、農間余業は町で盛んであったが……

幕府はこうした農間余業を調査し、
誰がどんな余業に携わっているのかを把握した。
また、文政の改革以降は風俗取り締まりの一環として、
髪結いや湯屋、酒食の余業を禁止する動きに出るのだ。

近世における羽生の町場では、「宗門人別改帳」に見える余業者くらいで、
さらに詳しい実態を知る資料はいまのところほとんどない。
ただ、六斎市が立っていたので、人や物の行き来は盛んにあったのだろう。
市を守る神さまは八雲神社である。
江戸時代は“牛頭天王社”と呼ばれていた。
八雲神社に変わったのは明治期に入ってからのことである。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


八雲神社によぎる怪しい人影(埼玉県羽生市)

※最初の写真は、現在のプラザ通り
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金木犀は何の香り? ―コトノハ(18)―

2012年10月21日 | コトノハ
 金木犀の香りに
 あなたの香りを重ねて
 二度と戻らぬと承知で
 涙し恋い焦がれる
 (笹川美和作詞「金木犀」より)

金木犀はトイレの匂いと言う人がいる。
でも、ぼくは恋の香りだと思う。

秋に恋をした人は、
金木犀の香りがかすめるたびに、
相手の顔がよぎるかもしれない。
それは消えない五感の記憶。

甘酸っぱい思い出か、
それともいまでも続く恋か、
あるいは好きになってはいけない苦しい恋か……

金木犀の花の香りは短い。
町を香りに染めたと思ったら、
すぐに消えてしまう。

もっと咲き続けてほしいのに。
もっとその香りに触れていたいのに。

儚くて、切ない。
やはり、金木犀の香りは恋の香りに似ている。
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おいしい羽生のお米に隠されているものとは? ―子ども学芸員(59)―

2012年10月20日 | 子どもの部屋
企画展Ⅰ「郷土羽生~資料から見る歴史と文化~」は、
近世を「羽生の町場」「新郷宿」「新田開発」「藍染め」「獅子舞」の5つのテーマで分けている。

現在、実りの秋を迎えているが、
昔から田んぼの風景が広がっていたわけではない。
人の手が加わっていない原野もあれば、畑が広がっている場所もあった。

現在の羽生市域には、「新田」の名のつく地名がある。
喜右衛門新田、与兵衛新田、西新田、中新田、下新田などである。
文禄3年(1594)、新郷で二俣に分かれて流れていた利根川を締め切ったことにより、
羽生市砂山は開墾が進むようになったと言われている。

確かに、『新編武蔵風土記稿』に記載された小名は、
「白石新田」「新田前」と田んぼに関する地名が目立つ。
現在の会の川が利根川の本流だった頃、たびたび水害に見舞われていたのだろう。
小松の古墳群が埋没したのも、洪水のすさまじさを物語っている。

ただし、文禄3年当時はすでに本流ではなく、
会の川の締切はさほど難工事ではなかったことが想像される。
伝説では、修験者が自ら人柱になったため、工事が成功したとあるが、
これは後世に作られた話である。

新郷村にかつてあった西福寺のお坊さんが川の堤をよく見回り、
無事に工事が終わったため、屋敷を与えられたという文書がある。
ここから尾ひれがついて人柱伝説になったのだろう。

羽生市域は、川沿いは土砂のため土地が高く、
中央に行くほど湿地帯が広がっていた傾向があった。
とはいえ、それほど単純な地形ではないのだが、
利根川の影響を受けていることは間違いない。
例えば、中世に羽生城が築かれたのは、広大な沼を天然の堀としたためである。

自然堤防などで土地が高いところは、用水を引くのが難しい。
ゆえに、畑が多い傾向にあった。
逆に、湿地帯に広がるところでは稲作に適しており、田んぼの割合の方が多かった。
こうした傾向は、騎西の正能村にも同様のことが言える。

自然堤防上の村々は水不足に悩まされ、
低地の村々は排水に頭を痛めていた。
同じ羽生領でも悩みの種は違っていたことになる。

寛文6年(1666)に稲子村で用水が引かれたのは、
水不足を補うためである。
この稲子用水は利根川に取り入れ口を設け、直接取水していた。
大河から直接水を引き入れることは実は画期的なことで、
万治3年(1660)に開削された葛西用水路も、直接の取水だった。

逆に、低地の村々は悪水路を掘り、排水をすることで開発を行った。
宮田落堀や岩瀬落堀などが挙げられる。

なお、興味深いのは、羽生領の村々は
近世初期ですでに新田開発がある程度終わっていたことだ。
他地域が時代を経るごとに石高を上げているのに、
羽生領はさほど変わらない。
逆に石高が減っている村もあるほどだ。
この傾向は、羽生領の特徴の一つと言える。

また、羽生領の多くの村では「掘り上げ田」と呼ばれる技法が見られた。
沼の泥を掘り上げ、その上で稲作をするというものである。
航空写真で見ると、田んぼが複雑な模様のように見える。
羽生の大型ショッピングモールの三階に、古い時代の航空写真が展示されているが、
掘り上げ田がくっきりと移っている。

この掘り上げ田は時代と共に消滅した。
現在、羽生市域で見られるのは三田ヶ谷だけである。
すでに稲作は行われておらず、「宝蔵寺沼ムジナモ自生地」の名に変わり、
食虫植物ムジナモの揺りかごになっている。

羽生のお米はおいしい。
ムジナもんの仲間である“イナゴージャス”は羽生のお米が大好きだ。
このお米を作る田んぼにも、いろいろ歴史がある。
企画展「郷土羽生」では、喜右衛門新田耕地絵図が展示されている。
かつてはいかに沼が多かったかがわかるだろう。
田んぼの歴史に想いを馳せたとき、
お米の味がいつもと違っては感じられないだろうか?

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


イナゴージャス

※最初の写真は埼玉県羽生市秀安の田園風景
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混ぜないのがお好き? ―ラーメン部(41)―

2012年10月19日 | グルメ部屋
ぼくは混ぜない派だ。
混ぜそばも、混ぜごはんも、石焼きビビンバも
混ぜるのが好きではない。
そのままの状態で食べてしまう。

素材そのものの味が好きなので、
味のハーモニーがあまり得意ではないのかもしれない。
例えば刺身を食べるにしても、
わさびと醤油は別々にする。
わさび醤油にすることは滅多なことがない限りしない。

大宮で“油そば”を注文した。
スープのないラーメンである。
丼の底にタレがあるから、
よくかき混ぜて「お召し上がり下さい」と店員に言われた。

でも混ぜない。
そのまま箸をつける。
店長がガンコ親父だったら、
「混ぜろ」「混ぜない」で言い争いになるかもしれない。

油そばはスープがないだけに、やや不思議な感覚だ。
カロリーも塩分も普通のラーメンより抑えられるという。
ラー油をかけたら風味が増した。
でも、最後まで混ぜず、
本来のおいしさが楽しめたかと言うと、やや自信がない。
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芸術の秋に羽生の小さなギャラリーを訪ねませんか?

2012年10月18日 | お知らせ・イベント部屋
芸術の秋である。
クリエイティブな心が騒ぐ季節かもしれない。
絵画、彫刻、書、俳句、陶芸、写真、篆刻……
羽生にある「ギャラリー保」では、
現在“梅澤景香かな・利根川千枝子篆刻作品展”が開催されている。

ギャラリー保で利根川氏の作品展が開催されるのはこれで2回目。
中学時代の恩師という梅澤景香氏との二人展である。
梅澤氏のかな作品、利根川氏の篆刻作品が展示されている。

クリエイティブだ。
芸術心のないぼくは詳しいことはわからないが、
小さなギャラリーいっぱいに広がる二人の熱を感じる。

篆刻は彫刻というイメージがある。
しかし、そこに刻される文字は「書」の要素も強い。
独特の書体が用いられ、奥深さを感じる。
かなと篆刻では表現方法は異なっているが、
教師と教え子は「書」でつながっているのかもしれない。

“梅澤景香かな・利根川千枝子篆刻作品展”は10月27日(土)までの開催。
時間は午前10時~午後5時まで。
日、月、火、祝日は休館だという。
入場は無料。

会場のギャラリー保は、文房具店が改装してできたものである。
新郷第一小学校の前にある。
一見わかりづらいかもしれないが、
そんな隠れ家的な雰囲気に心をくすぐられる……


ギャラリー保(埼玉県羽生市上新郷)
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江戸時代初期の羽生領は誰が治めていた? ―子ども学芸員(58)―

2012年10月17日 | 子どもの部屋
天正18年(1590)の徳川家康の関東入府以降、
羽生城は大久保忠隣に宛われた。
『寛政重修諸家譜』には羽生領2万石とあるが、
『武徳編年集成』には1万石とあり、実際には後者の数字と捉えていい。

大久保忠隣は羽生城主になったとはいえ、
普段は江戸に詰め、一度も羽生領には足を運ばなかった。
忠隣の父忠世が亡くなったのちはその遺領を継ぎ、小田原城主も兼ねていた。

羽生領経営を担ったのは、木戸忠朝の遺臣“鷺坂軍蔵”である。
軍蔵は出家して“不得道可”(ふとくどうか)と名乗った。
道可は羽生城代として羽生領を治めることとなった。

亡き主君を追福するため、源長寺を再興。
そのため、同寺には不得道可とその妻の肖像画が現存している。

『石川正西聞見集』によると、道可は年貢の取り立てが厳しかったようである。
領地を見回り、田畑の善し悪しをよく見、
また坪計りにして年貢率を決めていた。

不得道可が亡くなったのは、文禄4年(1595)2月18日だった。
道可亡きあと、別の者が城代として羽生領経営に従事することになる。
羽生領経営を示す古文書の中には、
桑原九兵衛、佐伯図書助、乗松内記、天野与大夫、徳森伝次の名が見える。

そんな中、やや異端児的な存在の男がいた。
その男の名は“大久保彦左衛門忠教”(おおくぼひこざえもんただたか)。
のちに『三河物語』を著し、天下の御意見番として名高い人物である。

江戸時代初期、大久保彦左衛門は羽生領にいた。
城主でも城代でもない。
ただ、羽生領の内、川俣・発戸・常木の2千石を領していた。
常木の雷電神社にかつて「大久保彦左衛門の二俣の杖」があったのはこのためである。

なお、羽生城家臣で羽生領に残った酒井家と、烏帽子親子の関係を結んだ。
由緒書によれば、酒井忠治は徳森伝治の烏帽子子となったのち、
大久保彦左衛門から「彦」の字をもらい「彦兵衛」と名乗ったとある。
彦左衛門の羽生領在住を伝える数少ない資料の一つだ。

大久保忠隣や彦左衛門は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のときに、
上田城攻めに参陣している。
このとき、本多正信との関係をこじらせていることが、
のちの改易の伏線となったと言われている。
羽生領の領民もこの上田城攻めにかり出されたと思われるが、
それを伝える資料はいまのところ発見されていない。

慶長19年(1614)、大久保忠隣は突然改易になってしまう。
徳川家に忠義を尽くしてきた大久保家がなぜ改易の憂き目を見たのか、
現在でもはっきりした理由はわかっていない。
本多正信の陰謀との噂もまことしやかに囁かれている。

忠隣の改易により、羽生城は廃城となる。
戦国時代から羽生領の拠点として存在した城は、
城主の改易をもって幕を閉じたのだった。
羽生領は幕府領になったのち、複雑な支配体制へと移っていくのである。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/
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