昭和16年から始まった太平洋戦争は、
次第に日本の敗色が漂い始めていった。
昭和19年、日本本土への空襲が激しさを増すと判断した政府は、
児童の疎開を促進させた。
国民学校初等科3年~6年の縁故先のない児童が対象だった。
羽生には、“東京都西神田国民学校”の児童約300人が疎開。
各地域のお寺が宿舎として利用された。
そのお寺とは、冨徳寺、福生院、建福寺、正覚院、
源長寺、長善寺、祥雲寺の7カ所である。
約40名前後の児童が各お寺に預けられ、
昭和20年から同21年まで過ごした。
まだ幼い子どもたちである。
両親から離れ、北埼玉くんだりまで疎開してきた児童は、
寂しさと心細さで胸がいっぱいだっただろう。
しかし、日本の勝利を信じて皆歯を食いしばって生きていた。
羽生の人たちは、疎開してきた児童たちに優しく接していたらしい。
かつて正覚院に疎開していた児童は、次のように当時を振り返っている。
お風呂はゴム会社の厚意で新湯をつかわせていただきました。
医師の横田先生がよく学童の健康にご注意なされた事や、
町の有力な方の御宅へよばれて学童が御馳走になって非情に喜んだ事、
羽生の映画館等の御招きをいただいた事などが思いだされます。
羽生の人たちは、父母から離れ、
遠い町へ連れてこられた学童たちの気持ちを察したのだろう。
遠足に、利根川の土手や館林へ連れていったこともあった。
また、米のご飯も食べられたらしい。
なお、食料増産を目的として土地改良事業が全国一斉に始められ、
学生の勤労奉仕団が耕地整理に羽生へやってきている。
岩瀬村にやってきたのは、早稲田大学と慶応大学の学生だった。
前者は、降り積もった雪をかき分け、用水路を掘削した。
岩瀬で、「早生田堀」と呼ばれる水路があるのはこのためである。
戦時中は、子どもから年輩者まで、一丸となって戦っていた時代だった。
終戦から時は過ぎ、次第にその記憶は薄れていっているかもしれない。
「何もない」と思われがちな郷土にも、
決して戦争と無関係だったわけではない。
学童疎開を受け入れ、親切に接した人々がいた。
時代と共に、戦争の記憶は風化しているが、
世代から世代へ語り継いでいかなければならない。
戦争を実際に知らない世代だからこそ、
それを知ることが大切だろう。
歴史を繰り返さないためにも……
次第に日本の敗色が漂い始めていった。
昭和19年、日本本土への空襲が激しさを増すと判断した政府は、
児童の疎開を促進させた。
国民学校初等科3年~6年の縁故先のない児童が対象だった。
羽生には、“東京都西神田国民学校”の児童約300人が疎開。
各地域のお寺が宿舎として利用された。
そのお寺とは、冨徳寺、福生院、建福寺、正覚院、
源長寺、長善寺、祥雲寺の7カ所である。
約40名前後の児童が各お寺に預けられ、
昭和20年から同21年まで過ごした。
まだ幼い子どもたちである。
両親から離れ、北埼玉くんだりまで疎開してきた児童は、
寂しさと心細さで胸がいっぱいだっただろう。
しかし、日本の勝利を信じて皆歯を食いしばって生きていた。
羽生の人たちは、疎開してきた児童たちに優しく接していたらしい。
かつて正覚院に疎開していた児童は、次のように当時を振り返っている。
お風呂はゴム会社の厚意で新湯をつかわせていただきました。
医師の横田先生がよく学童の健康にご注意なされた事や、
町の有力な方の御宅へよばれて学童が御馳走になって非情に喜んだ事、
羽生の映画館等の御招きをいただいた事などが思いだされます。
羽生の人たちは、父母から離れ、
遠い町へ連れてこられた学童たちの気持ちを察したのだろう。
遠足に、利根川の土手や館林へ連れていったこともあった。
また、米のご飯も食べられたらしい。
なお、食料増産を目的として土地改良事業が全国一斉に始められ、
学生の勤労奉仕団が耕地整理に羽生へやってきている。
岩瀬村にやってきたのは、早稲田大学と慶応大学の学生だった。
前者は、降り積もった雪をかき分け、用水路を掘削した。
岩瀬で、「早生田堀」と呼ばれる水路があるのはこのためである。
戦時中は、子どもから年輩者まで、一丸となって戦っていた時代だった。
終戦から時は過ぎ、次第にその記憶は薄れていっているかもしれない。
「何もない」と思われがちな郷土にも、
決して戦争と無関係だったわけではない。
学童疎開を受け入れ、親切に接した人々がいた。
時代と共に、戦争の記憶は風化しているが、
世代から世代へ語り継いでいかなければならない。
戦争を実際に知らない世代だからこそ、
それを知ることが大切だろう。
歴史を繰り返さないためにも……