羽生駅近くに“古江・宮田神社”と“毘沙門堂”がある。
「浅間さま」「毘沙門さま」の呼称で通っていると思う。
古江・宮田神社は、表記以外に“浅間神社”と“秋葉神社”を祀っている。
赤ん坊の額に御神印を捺す初山祭りは、
浅間神社の例祭である。
毘沙門堂は北条時頼の創建と伝えられている。
戦国時代には木戸忠朝、
近世には大久保忠隣という各時代の羽生城主が、
再興したと言われている。
ちなみに、古江・宮田神社の社殿の建つ塚は前方後円墳だ。
毘沙門山古墳と呼ばれ、六世紀後半の築造と考えられている。
その中腹に立つ青石塔婆(板碑)は鎌倉時代に流行したものだが、
横長の石は古墳の石室の一部だったのだろう。
現在、羽生市の文化財に指定されている。
そんな歴史ある空間なのだが、
江戸時代後期にある文化人が訪れ、ここで人々に教育を広めた。
その文化人の名は“森玉岡”(もりぎょっこう)。
毘沙門堂の境内を拠点にしたため、
そこは一時期、いまで言う“学校”の場となったのである。
玉岡は、元々江戸の出身で、
寛政10年(1798)に森金六の次男として誕生した。
やがて、詩人として身を立てるため旅に出る。
上総へ行ったのち武州羽生を訪れ、
川俣村から羽生に移った。
酒を愛し、旅好きの男だったらしい。
詩、書、画を得意とし、
北武蔵の田舎村に住む人々にとって、
森玉岡の教える文化は目新しく、大いに刺激されたのかもしれない。
玉岡のもとに集まる人々はどんどん増え、
近郷からも教えを乞う者もいた。
その中に、のちにパリ万博へ行き、
外国文化の多くを日本にもたらした“清水卯三郎”も玉岡のもとで学んでいる。
もっとも、やんちゃだった卯三郎は、
静かに玉岡の教えを聞いていたわけではなかったようだ。
羽生に元々文化や学問がなかったわけではないが、
森玉岡は新しい風を吹かせたのだろう。
文化は生活の余剰によって生まれるが、
人間らしい営みでもある。
自分自身を見つめる機会にもなったのではないだろうか。
森玉岡はやがて羽生を去る。
人々に惜しまれながらの旅立ちだったに違いない。
上総や羽生での行脚が玉岡に自信をつけさせた。
嘉永3年(1850)、江戸で塾を開く。
多くの者に教えを授け、同6年病没。
56年の生涯だった。
森玉岡はよほど羽生の人々に愛されたに違いない。
玉岡の子弟の中には塾を開く者もおり、
例えば小磯旭岳は下羽生村で寺子屋を建て、
門下90余名の弟子を育てている。
文久2年(1862)、人々は森玉岡の遺徳を偲ぶ石碑を建立。
現在、市の指定文化財になっている。
「浅間さま」「毘沙門さま」の呼称で通っていると思う。
古江・宮田神社は、表記以外に“浅間神社”と“秋葉神社”を祀っている。
赤ん坊の額に御神印を捺す初山祭りは、
浅間神社の例祭である。
毘沙門堂は北条時頼の創建と伝えられている。
戦国時代には木戸忠朝、
近世には大久保忠隣という各時代の羽生城主が、
再興したと言われている。
ちなみに、古江・宮田神社の社殿の建つ塚は前方後円墳だ。
毘沙門山古墳と呼ばれ、六世紀後半の築造と考えられている。
その中腹に立つ青石塔婆(板碑)は鎌倉時代に流行したものだが、
横長の石は古墳の石室の一部だったのだろう。
現在、羽生市の文化財に指定されている。
そんな歴史ある空間なのだが、
江戸時代後期にある文化人が訪れ、ここで人々に教育を広めた。
その文化人の名は“森玉岡”(もりぎょっこう)。
毘沙門堂の境内を拠点にしたため、
そこは一時期、いまで言う“学校”の場となったのである。
玉岡は、元々江戸の出身で、
寛政10年(1798)に森金六の次男として誕生した。
やがて、詩人として身を立てるため旅に出る。
上総へ行ったのち武州羽生を訪れ、
川俣村から羽生に移った。
酒を愛し、旅好きの男だったらしい。
詩、書、画を得意とし、
北武蔵の田舎村に住む人々にとって、
森玉岡の教える文化は目新しく、大いに刺激されたのかもしれない。
玉岡のもとに集まる人々はどんどん増え、
近郷からも教えを乞う者もいた。
その中に、のちにパリ万博へ行き、
外国文化の多くを日本にもたらした“清水卯三郎”も玉岡のもとで学んでいる。
もっとも、やんちゃだった卯三郎は、
静かに玉岡の教えを聞いていたわけではなかったようだ。
羽生に元々文化や学問がなかったわけではないが、
森玉岡は新しい風を吹かせたのだろう。
文化は生活の余剰によって生まれるが、
人間らしい営みでもある。
自分自身を見つめる機会にもなったのではないだろうか。
森玉岡はやがて羽生を去る。
人々に惜しまれながらの旅立ちだったに違いない。
上総や羽生での行脚が玉岡に自信をつけさせた。
嘉永3年(1850)、江戸で塾を開く。
多くの者に教えを授け、同6年病没。
56年の生涯だった。
森玉岡はよほど羽生の人々に愛されたに違いない。
玉岡の子弟の中には塾を開く者もおり、
例えば小磯旭岳は下羽生村で寺子屋を建て、
門下90余名の弟子を育てている。
文久2年(1862)、人々は森玉岡の遺徳を偲ぶ石碑を建立。
現在、市の指定文化財になっている。
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