クニの部屋 −北武蔵の風土記−

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生駅近くの“学校”の前身は? ―はにゅう萌え(39)―

2012年03月31日 | はにゅう萌え
羽生駅近くに“古江・宮田神社”と“毘沙門堂”がある。
「浅間さま」「毘沙門さま」の呼称で通っていると思う。

古江・宮田神社は、表記以外に“浅間神社”と“秋葉神社”を祀っている。
赤ん坊の額に御神印を捺す初山祭りは、
浅間神社の例祭である。

毘沙門堂は北条時頼の創建と伝えられている。
戦国時代には木戸忠朝、
近世には大久保忠隣という各時代の羽生城主が、
再興したと言われている。

ちなみに、古江・宮田神社の社殿の建つ塚は前方後円墳だ。
毘沙門山古墳と呼ばれ、六世紀後半の築造と考えられている。
その中腹に立つ青石塔婆(板碑)は鎌倉時代に流行したものだが、
横長の石は古墳の石室の一部だったのだろう。
現在、羽生市の文化財に指定されている。

そんな歴史ある空間なのだが、
江戸時代後期にある文化人が訪れ、ここで人々に教育を広めた。
その文化人の名は“森玉岡”(もりぎょっこう)。
毘沙門堂の境内を拠点にしたため、
そこは一時期、いまで言う“学校”の場となったのである。

玉岡は、元々江戸の出身で、
寛政10年(1798)に森金六の次男として誕生した。
やがて、詩人として身を立てるため旅に出る。
上総へ行ったのち武州羽生を訪れ、
川俣村から羽生に移った。

酒を愛し、旅好きの男だったらしい。
詩、書、画を得意とし、
北武蔵の田舎村に住む人々にとって、
森玉岡の教える文化は目新しく、大いに刺激されたのかもしれない。

玉岡のもとに集まる人々はどんどん増え、
近郷からも教えを乞う者もいた。

その中に、のちにパリ万博へ行き、
外国文化の多くを日本にもたらした“清水卯三郎”も玉岡のもとで学んでいる。
もっとも、やんちゃだった卯三郎は、
静かに玉岡の教えを聞いていたわけではなかったようだ。

羽生に元々文化や学問がなかったわけではないが、
森玉岡は新しい風を吹かせたのだろう。
文化は生活の余剰によって生まれるが、
人間らしい営みでもある。
自分自身を見つめる機会にもなったのではないだろうか。

森玉岡はやがて羽生を去る。
人々に惜しまれながらの旅立ちだったに違いない。
上総や羽生での行脚が玉岡に自信をつけさせた。
嘉永3年(1850)、江戸で塾を開く。
多くの者に教えを授け、同6年病没。
56年の生涯だった。

森玉岡はよほど羽生の人々に愛されたに違いない。
玉岡の子弟の中には塾を開く者もおり、
例えば小磯旭岳は下羽生村で寺子屋を建て、
門下90余名の弟子を育てている。

文久2年(1862)、人々は森玉岡の遺徳を偲ぶ石碑を建立。
現在、市の指定文化財になっている。
コメント (6) |  トラックバック (0) | 

春の文房具に何を“足し算”する? ―ウラ部屋(180)―

2012年03月30日 | ウラ部屋
春、文房具の季節でもある。

ぼくは職場でも家でもパソコンを使っているが、
原稿は手書きだ。
横書きの原稿用紙に万年筆を愛用している。

手書きなのは単に好きだからということもあるし、
文章の仕上がりに微妙な変化が起こるから、と思っている。

ただ、全てを手書きで仕上げるかと言うと決してそうではない。
最終的には手書き原稿をパソコンに入力する。
推敲や校正は全てパソコン上だ。

推敲はともかく、入力作業は面倒で仕方がない。
ルーチンワークだからだろうか。
音楽でもかけないと退屈でならないのだ。
原稿用紙が500枚以上もあると苦行のようだ。

ぼくはこの入力作業が好きではない。
でも、入力しなければ前には進まない。

パソコンが普及してなかった頃、
作家たちは“清書”という作業があった。
村上春樹氏の『ノルウェイの森』は全て手書きで書かれた作品だった。
約900枚ほどのこの作品を、氏はボールペンで最初から清書したらしい。
「体力がないととてもできない作業だ」と、村上氏は述べている(『遠い太鼓』)。

最初に手書きが好きだと言ったが、
パソコンが普及してよかったと心の底から思っている。
性格からして、清書は茨の道である。
根気が続く自信がない。
ずっと昔、一晩で100枚近く清書したことがあったが、
あんな思いはもう二度としたくない。

『文房具の足し算』という本がある(和田哲哉著、ロコモーションパブリッシング刊)。
文房具を組み合わせることによって、
使い方の広がりがでてくるという。

ぼくにとって、原稿用紙+万年筆+パソコンだ。
アナログと現代マシンが組み合わさることで、
作品の質はともかく、仕上がりに広がりが出ることは確かだ。

入力の苦行を少しでも緩和させるために、
パソコンにリンクするもう一つのマシンを追加した。
パソコンではなく、電子メモ帳である。
ノートパソコンのミニ版のようなのだが、パソコンではない。
文字を入力する機能しかなく、
ゆえに立ち上げに5秒とかからない。

この電子メモ帳なら、喫茶店や車の中、
利根川の畔や城跡などと、あらゆるところで作業ができる。
文房具雑誌で初めて知り、
見た瞬間痒いところに手の届いた気がした。
いまではとても重宝している。

文字入力の機能しか付いてないところもいい。
下手にエンターテイメント性があると寄り道してしまうからだ。
明確な道は1本でいい。

そんなに苦行なら最初からパソコンで書けばいいのにと言われたことがある。
それもそうなのだ。
ちなみに、ブログの記事は手書きでは書けない。
これは相性と言うほかないし、
ときと場合、それと文章の内容にもよるのだ。

新しい季節になって、文房具を買う人もいるだろう。
春の文房具に何を足し算するだろうか。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

ラーメンの“海苔”は侮れない? ―ラーメン部―

2012年03月29日 | グルメ部屋
写真に撮りそこねてしまったのだけど、
海苔をトッピングしたら、
丼を囲むようについてきたことがあった。
まるで海苔の壁である。

ラーメンの海苔は風味を出す。
図書館を出て海苔の風味を思い出したら、
無性にラーメンを食べたくなったことがあった。

特に、豚骨ラーメンに添える海苔が好きだ。
食べたくなったのは、館林の行きつけのラーメンだった。
衝動に駆られても、抑制するのは良いのか悪いのかわからない。
まあ、自制心があるということにしておこう。

海苔だけではなかなかお腹は膨れないが、
決して侮れない。
風味は五感の記憶となって残る。
それは、たちまち食欲の引き金を引くかもしれない。
食べたくなったが夕方ではなく昼間だったら、
きっと館林へ足を運んでいたと思う。

※最初の写真は、『美味んぼ』の主人公と同じ名前のラーメン屋さん
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

源頼朝はなぜ“旗”をかけたのか? ―子ども学芸員(12)―

2012年03月28日 | 子どもの部屋
身近なところにも“伝説”や“昔話”はある。
伝説と聞いただけで、わくわくする人もいるだろう。
ぼくもその一人だ。
ミステリアスな雰囲気と、
何かが始まる予感がする。

伝説は舞台や人物が特定されるものを指し、
無特定なものは「昔話」と区別される。

例えば、須影の八幡神社。
ここにも“伝説”がある。
いまも境内に1本の松があるのだけど、
かつては天に届きそうなほど大きな松が立っていた。
年輪を見ると、少なくとも江戸時代まで遡れる。

この松は、“源頼朝の旗かけの松”と呼ばれている。
奥州へ戦いに行くその途中、
頼朝はこの神社に立ち寄り、旗をかけて戦勝を祈願したという。

別の話では、源義経を追った弁慶がこの八幡神社に立ち寄り、
ついていた杖を境内に刺したところ、
やがて大きな松に成長したとも伝えられている。

この話が本当かどうかはわからない。
「伝説」や「昔話」は必ずしも、
歴史の真実を語っているとは言えない。
しかし、語り継がれていること自体が重要で、
なぜそのような話が発生したのかを考えると面白い。

神社の木は、神さまが依るところと信じられていた。
(いまもそのような考え方は健在だ)。
だから「ご神木」として大切に守られ、
無闇に伐るものではないとされている。

神さまは木に降りてくる。
つまり、降霊。
そして、作物を豊かに実らせ、
疫病から人々を守ってくれる。

ゆえに、昔の人たちは、神さまを招くために、
木の上に旗をかけた。
どうか、この木に降りてきてください。
そして、村に幸をもたらしてください。
そんな人々の願いと祈りがこめられた風習だった。

つまり、旗かけの松は降臨の松と言えよう。
源頼朝や弁慶など、名高い人物が登場するのは、
おそらく後世になってからだ。
八幡神社は源氏に厚く信仰され、
武神としての要素を強くしていく。

それゆえに、源頼朝や弁慶の名が、
その風習に結びつき、登場するようになったのだろう。

百歩譲って、頼朝が本当に旗をかけたとする。
なぜ旗をかけるのか?
神を招き、その霊験を持って敵に打ち勝とうと願ったからだ。
神の加護を願う気持ちがそこに表れている。
普段、何気なく目にする旗だが、
それにはそんな特殊な性格を持っている。

「旗かけの松」はいまも語り継がれ、
聞く者の心をわくわくさせる。
それと同時に、八幡神社が由緒ある神社だと認識する。
特に有名人と結びつくと、後者の効果は絶大だ。

伝説はそのまま「物語」として楽しんでもいい。
しかし、そこに「解釈」を与えると、
表面には見えてこないものが浮かび上がってくる。
それは、日本人の「精神」であったりする。
その精神に触れると、
ずっと昔に生きた人々と触れ合う感覚を覚える。

伝説や昔話は、代々語り継いでいくものだ。
人はみな歴史の中継ランナーである。
キミも中継ランナーとして、
そのバトンを後進の者に渡してほしい。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

ギターとあたしとどっちが大事なの?(『NANA』) ―コトノハ(1)―

2012年03月27日 | コトノハ
「どんなに引かれ合っても
お互いの大切なものを認め合えない相手とは
上手くやれないないんだという事に気づいた」

『NANA』16巻(矢沢あい著)に出てくる言葉だ。
天秤にかけられないものがある。
同作で言う「ギターとあたしとどっちが大事なの?」くらい、
「ノブ」にとって、ギターは何物とも比べることができない。

価値観が合わなくてもいい。
異なる価値観を持っていても、親しくなれる人はいる。
でも、「大切なものを認め合えない相手」とは、
例え同じ価値観でも距離は埋まらない。
むしろ、離れていく。

人は大切なものがある。
想いの強いものを抱えている。

それは決して誉められるものではないかもしれない。
相手の価値観と、大きくずれていることかもしれない。
理解しなくてもいい。
ただ、その想いがあるということを、
わかってほしいと思うのが人情だろう。

「わかる」と思うのは、そこに価値を置くこと。
相手を尊重すること。
認め合わなければ、心は自然と閉じてしまう。
いつしか、本当のことを話せなくなってしまう。

例えば、「アニメオタク」と聞いただけで毛嫌いする人がいる。
オタクはその人に対し、一生心を開くことはないだろう。
「大切なもの」を分かり合えなければ、
溝は深まっていくばかりだ。

アニメ好きでなくてもいい。
一緒にはまらなくてもいい。
ただ、その人が大切に思っていることを尊重すればいいのだ。
認め合わないから衝突する。
争いが起こる。

敵対していても、認めることのできる相手がいる。
認め合う者同士の対立は、物事を発展に導いてくれる。
いわゆる止揚、アウフヘーベンだが、
互いを高め合うと同時に、周りにもいい影響を及ぼす。
対立し合うも惹かれ合っている。

単一的な価値観は、認め合う視野を狭める。
自分の物差しにそぐわないものをはじくからだ。
その物差しは絶対ではない。
はじいたものを、自分の下に見ることが最もよくない。

価値観は多様にある。
好きなものもあれば、嫌いなものもある。
価値観を押しつけるのではなく、自然と認め合うこと。
尊重し合い、対等に見ること。

人は愚かな生き物だとしても、
互いの大切なものを認め合うことができるのも人なのだ。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

なぜ“串作”という地名があるのか? ―子ども学芸員(11)―

2012年03月26日 | 子どもの部屋
埼玉県加須市内に“串作”という地名がある。
そのまま「くしつくり」と読む。

串作は小さな集落で、
何の変哲もない地域である。
『武蔵田園簿』という書物によると、
田地より畑地の方が多く割合を占めていた。

会の川沿いに位置しており、
川の影響によって自然堤防が広がり、
砂地の多い集落なのだろう。
この地域を通る国道125号線を走るとわかるのだが、
地形が少し高くなっている。

これは古利根川が形成した砂丘である。
その上を国道が通っていることになる。
アスファルトで地面が固められていなかった時代、
古利根川(会の川)に沿うように、砂丘が連なっていた。

実は、“串作”という地名はこの地形に由来している。
“クシ”は、砂丘や小丘の長く連なった地形を意味している。
ずばり、古利根川沿いに連なる砂丘=クシであろう。
“その砂丘上にできた集落”という意味で、
串作の地名が生まれた。

串作は閑静な集落である。
自然堤防上にできた集落とあって、
縞や青縞、木綿を主に産していた。

特別、目立つものがドーンとあるわけではない。
でも、“くしつくり”という地名が耳にくすぐったい。

※最初の画像は串作の一部(埼玉県加須市)
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

根を詰めたら“はにゅう”でホッとひと息する? ―ウラ部屋(179)―

2012年03月25日 | ウラ部屋
いま、根を詰めている。
寝ても醒めてもそのことが頭から離れないものがある。
眠りも浅く、夢の中でも作業している。

ぼくは1度入り込んでしまうと、周りのものが見えなく性分だ。
いま目の前に2つの壁がある。
その壁を乗り越えない限り、春は来ない。

根を詰めるのは苦しいが、決して嫌いではない。
この感覚は好感が持てる。
こういう時期は「忙しい」と言うのは禁句。

20代と30代の狭間に、
4つのワラジを履いたことがある。
そのワラジを最後まで履ききった。

そのせいか、往時よりも焦りはない。
相応のマックスを知ると、段取りや力の抜き方がわかってくる。
何が必要か不必要かも見えてくる。

だから、完璧主義で仕事を緻密にする人が、決して「できる人」とは思わない。
仕事内容によるが、緻密すぎて期日に間に合わなければ、
逆にそれは俯瞰できぬ「ずぼら」である。

4つのワラジを履いていたとき、
核の部分をこなしさえすれば、残りのものは力を抜いてもどうにかなった。
例えば数学のテスト勉強で、
図形を描くレイアウトに凝りすぎて練習問題を解かなかったら、
100年勉強しても点数は上がらないと思う。
プロ野球選手になりたい人が、
どんなにバットを上手に作ることができても、
プロにはなれないだろう。

前者は練習問題を多くこなすこと、
後者は実際に野球をすることが核である。
数学の問題さえ解ければ、図形などどうにでもなるし、
バットを自分で作れなくても、プロ野球選手にはなれる。

物事は、はき違えなければ前に進むことができる。
例えはき違えたとしても、
前向きな気持ちさえあれば、
きっと別の形で夢や望みは叶う。

ところで、3月25日(日)は、羽生で2つのイベントが開催される。
「ムジナもんワイワイ祭りin松原」と、
「春休みこどもまつり」だ。
以前、このブログでも紹介した。
もし根を詰めている人がいたら、
羽生でホッとひと息ついてみてはいかがだろうか。

前者は羽生駅にほど近く、
後者は市内の三田ヶ谷で開催される。
ゆる〜いキャラと、のどか〜な自然が、
あなたを待っている。

羽生市ホームページ
http://www.city.hanyu.lg.jp/index.html
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

アイドル好きへの道は遠い? ―ウラ部屋(177)―

2012年03月24日 | ウラ部屋
わりと当てはまる人は多いと思うのだが、
アイドルに夢中になったことは1度もない(いまのところ)。

好感を持てる人はいるが、
ポスターを買ったり、コンサートに行ったりしたことはない。
小学生の頃は長渕剛が好きで、
当時はドラマのチンピラ役がはまり役だったせいか、
テレビにちっとも出てこなかった。

インターネットも普及してなかったから、
どんな人なのか、小学生の力では情報を得るのは極端に乏しい。
だから、「好きな芸能人・歌手はテレビに出ないもの」という概念が、
そのとき作り上げられたのだと思う。

高校生の頃に夢中になった森田童子も、
とっくに引退していたし、
例え現役でもバシバシ表に出てきたとは思えない。
そもそも、アイドルではない。

身の回りにいた人でもアイドル好きがいなかったから、
(単に隠れていただけかもしれないが)
その影響も受けない。
アイドル好きとちらほら出会うようになったのは、
20歳を過ぎてからだ。

先日アイドル好きと会った。
と言っても、古い友人である。
彼は、人気上昇中の女子高生ユニットにはまっているらしい。

CDを買ったりコンサートへ行くのは当たり前。
握手会の1週間前には散髪をし、新しい服を買うという気合いの入れよう。
夜遅くまで、ファン同士で電子上の交流をしているそうだ。
「最近は寝不足で……」と、久しぶりに会った彼は言っていた。

どちらかと言うとお堅いタイプで、
聞く音楽もアイドルの「ア」の字もなさそうな奴なのだ。
女子高生ユニットが人気上昇中のように、
彼の温度も上昇中らしい。

とても楽しそうだ。
寝不足とはいえ、アイドルの話題になった彼の目は輝きを増す。
何かを好きになったり、夢中になったりすることはいいことだ。

「こっちに来れば楽になれるよ」と言われた。
昔、似たようなことを、やはりアイドル好きに言われたことがある。
その人は、テレビに映るアイドルや女子アナを、
写真に撮る腕に長けている奴だった。
自分の誕生日に、アイドルの写真集2冊を購入。

彼も楽しそうだった。
ブラウン管越しに撮ったアイドルのベストショットを見せてくれたことがあったが、
こっちの道で食べていける気がしたのを覚えている。

楽になれるかどうかは知らないが、
ぼくも突然アイドル好きになる可能性は否定できない。
そしたらきっと楽しいのだろう。
ハンガーにははっぴが掛けられるのだろうか。

アイドルは確かに夢を売るのが仕事らしい。
アイドル好きの友人を見ているとそう思う。
人が人を好きになるのに理由はない。
人は人に惹かれるものだ。
自然の摂理である。

最近、「尊敬する人は?」という話題になったことがある。
相手は「ウォルト・ディズニー」や「マザー・テレサ」の名前を挙げていた。
ぼくは「利根川」と答えた。
もはや、人でさえなくなっている。
いまのところ、アイドルへの道は遠い。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

館林駅前に不思議な“井戸”がある? ―滝の井―

2012年03月23日 | 城・館の部屋
高校生の頃、時折館林へ足を運んだ。
駅の近くには服屋さんがあって、
少なからずの買い物をしたものだ。

都内とは別の風情のある館林の町が好きだった。
駅前通りではなく、ぼくらは裏道をよく歩いた。
駅のすぐ目の前に服屋さんがあって、
その裏にゲームセンターがあったのを覚えている。

同じく、服屋さんの裏に妙なものがあった。
“井戸”である。
銀杏の木の下に、拓けた駅前とは場違いな佇まいで、
ポツンと存在していた。

高校生のぼくらは、それに目を留めたわけではない。
無論、足を止めることもない。
それは風景の一部であり、
特に関心を寄せることもなかった。
ただ、違和感はあって、そこに井戸があることを記憶していた。

そこが、“善導寺”の境内にあった井戸と知るのは後年のことだ。
館林駅の1部を含むその一帯は、
榊原康政の城の整備で移された善導寺の境内だった。
現存する井戸は、本堂の前にあったという。

現在、同寺は城沼の畔に建っている。
移転は昭和61年のことで、さほど昔ではない。
ゆえに、駅前にあった善導寺を記憶している人は多いだろう。

同寺は榊原家の菩提寺で、浄土宗。
本尊は阿弥陀如来であり、
関東十八壇林の一つに数えられる由緒あるお寺である。

伝説によると、城の整備によって善導寺が移された際、
女性に化けた城沼の龍神に現れ、
住持の話す説法に熱心に耳を傾けていたという。

心の迷いが晴れたという女性=龍神は、
そのお礼をするべく井戸に姿を消す。
そして、寺を守り続けたという伝説が残っている。

真偽のほどはわからないが、
龍神を絡ませることでその霊験を高めたのかもしれない。
以来、この井戸は“竜の井”と呼ばれるようになった。

ただ、駅前通りに面す“青龍の井戸”は城沼と繋がっていると語り継がれていた。
駅の目の前にある“竜の井”も城沼に繋がっていてもおかしくはない。
高校生の頃にその井戸と直接的な接点はなかったが、
中を覗けば、遠い十代の日々に繋がっている気がする。


竜の井
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

最新作の“ドラえもん”は道具いらず? ―ウラ部屋(176)―

2012年03月22日 | ウラ部屋
「ドラえもん」はぼくらが幼い頃から連載・放送されていて、
いまや世代を越えて愛される国民漫画だ。

劇場版の「ドラえもん」を観に行った。
黄金のヘラクレスがキーワードの映画だ。

思いのほか登場する道具が少なかったと思う。
幼い頃に好きだったのは、
「海底鬼岩城」「鉄人兵団」「パラレル西遊記」などなど。

未来の道具を使って夢のようなことをしたり、冒険をするのがいい。
ドラえもんと道具は欠かせない。
飛ばないブタがただのブタであるように、
道具のないドラえもんは、
ひょうきんで少し間の抜けたネコ型ロボットかもしれない。

ドラえもんが日本に初めて登場したとき、
漫画で描かれるような「未来」は決して絵空事ではなかった。
当時は高度経済成長期真っ只中で、
当時の子どもたちが大人になったら、
ドラえもんの出す未来の道具に近いものが登場しているとしただろう。

「道具」が、ドラえもんを生んだ時代を象徴している。
物を得ることが豊かであり、幸せであると信じられていた。
便利な道具が次々に開発され、一般家庭にも広がっていた。

高い物を得る。
少しでも多くの物を得る。
それが幸せの象徴であるという大きな物語が存在していた。

そんな中、ドラえもんは夢のような「未来の道具」を出す。
それは高度経済成長が滞ることなく続き、
輝かしい未来の象徴のように見えたはずだ。
きっと未来にドラえもんは誕生するに違いない。
夢のような道具が人間の生活を豊かにしてくれるに違いない。

そんな夢が、当時の子どもたちの胸には少なからずあっただろう。
その子どもたちが目にする2012年は、どんな世界に映っているだろうか。
東日本大震災、原発事故、景気後退、超就職氷河期、格差社会、少子高齢化、
努力しても報われない現実、先の見えない未来……。
輝かしかったはずの未来は、
10年先をも描けなくなっている。

絶対と信じられていた価値観は変わり、
何がどう転ぶかわからない。

物至上主義という大きな物語も分解されている。
確かに、技術革新や新しい発明によって、
人間の生活を便利にする道具は現れている。
それは人の営みであり、これから先も留まることはないのだろう。

しかし、ある程度豊かになった日本は、
多くの物を持つことが必ずしも幸せではないことに気付いている。
若者が消費をしたがらない「嫌消費」という言葉もあるくらいだ。

物を持てば幸せ。
そんな単純なことではなかった。
価値観は多様化し、
それを持つことで幸せとする人もいれば、
持たないこともまた幸せという人も現れた。

高級車に乗りたい人もいれば、
ボロボロの中古車でもいいという人もいる。
ブランド品で着飾りたい人もいれば、
古着か安物で充分という人もいる。
何が良くて駄目というラインはなくなり、
「ナンバーワン」ではなく、「オンリーワン」の価値観が敷衍している。

40年前にそのような価値観がなかったわけではないが、
時代の流れとして大きな特徴だろう。
だから、いまの子どもたちが観る「ドラえもん」は、
かつての見方とは違っていると思う。

ドラえもんは、相変わらず夢のような道具を出してくれる。
「こんなものがあったらいいな」というニーズに応えてくれる。
しかし、そのニーズは時代と共に変わっているし、
かつてほど道具に夢を抱かなくなったのではないか。

道具があってもいいし、なくてもいい。
道具=ドラえもんではない。
道具を出さずとも、ドラえもんがそこにいるということに意味がある。
価値がある。
「ドラえもんは家族だから」と言ったのび太パパの言葉が、
それを端的に表していた。

道具があまり登場しないように見えた最新作の「ドラえもん」は、
自分たちの力で壁を乗り越えようとしていた。
道具に頼らず、直面する課題にぶつかっていく。
道具に頼ろうとするのび太をしずかちゃんは叱る。

もはや道具は絶対ではない。
人間の生活を豊かにしてはくれるが、
必ずしも幸せを運んでくるとは限らない。
ならば、幸せとは何か?
そうしたメッセージも最新作の中に含まれていた。

今後、ドラえもんが見せる「夢」は何だろうか。
昭和に思い描いた22世紀は、どんな未来になっていくのだろう。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

食後のミルクティは、金魚鉢みたいなグラスでやってくる?

2012年03月21日 | グルメ部屋
後輩のMくんが勧める喫茶店がある。
かつて営業職をしていたMくんは、
ときたまその店に足を運んでいたらしい。

ラーメンを食べたぼくらは、
食後のコーヒーの乗りでその店へ行った。
ぼくはコーヒー、Mくんはミルクティを注文。

てっきり二人でコーヒーと思っていたから、
ミルクティの選択肢は意外だった。
「ぜひ見て貰いたいんです」と、Mくんは言う。

いら美味いミルクティでも来るのだろうか。
しかしその場合、「味わって欲しいんです」と言うはずだ。
見るとはどういうことだろう。
楽しみに待っていると、とんでもないものが来た。

グラスがまるで金魚鉢である。
パーティ用ではない。
それでれっきとした1人前だという。
「ね? すごいでしょ?」
と、言うMくんの顔以上の大きさがあっただろうか。

その店は、量が半端ないことで有名らしい。
大食いさん専門店のような乗りである。
ぼくが注文したコーヒーも、
普通の店の5杯分くらいはあったかもしれない。

量の少なさは心に隙間を作るが、
大盛りだとテンションが上がる。
ガムシロップも業務用のような入れ物でやってくる。

どうしてそんなに量が多いのだろう。
それをぺろりと飲んでしまう人もいるに違いない。
Mくんは「無理っす」と言った。
ぼくにひと目見せたくて注文してくれたらしい。
なかなか健気な男子なのだ。
楽しい店を紹介してくれてありがとう。

そんなMくんは4月に去ってしまう。
何かとリンクするものがあるから、再び顔を合わせることもあるだろう。
そのときは金魚鉢で乾杯だろうか。

ちなみに、ぼくはコーヒーを飲むとテンションが上がる体質である。
5杯分くらいのコーヒーを一気に飲んだから、
さすがに体がポカポカしてくる。

Mくんと別れたあと、そのテンションを下げなければ眠れそうもなく、
自転車でノンストップで走りに出掛けた。
その晩は、どことなく春の気配がしていて、
その足音が幸せを連れて近付いている気がした。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

親水公園の桜は土手の上から眺める? ―はにゅう萌え(38)―

2012年03月20日 | はにゅう萌え
羽生っ子は“利根川”へ行くというと、
葛西用水路沿いの道を上っていく人が多いかもしれない。
『田舎教師』の主人公のモデル“小林秀三”も、
詩人で住職の“太田玉茗”とこの道を歩いて利根川へ足を運んでいる。

この道沿いをずっと行くと、
やがて葛西用水路の元取水口にぶつかる。
ここは現在“親水公園”になっていて、
ウォーキングしている人やゲートボールをしている人は多い。

親水公園から、利根川の土手を登る階段が伸びている。
ここを登りきれば、坂東太郎こと利根川を望むことが可能だ。
冬の澄み切った日には、日光連山を眺めることもできる。

ぼくらが中学生の頃、利根川へ行くときのコースは、
この親水公園からか、介護ホームの裏から登るかのどちらかだった。
春になると、親水公園は桜で彩られる。
とても優しい色と雰囲気に包まれ、
何とはなしに自転車で海へ行きたくなる。

土手の上から羽生の町を望むのが好きだ。
夜になると、駅前の居酒屋の赤い文字も見えるし、
大型ショッピングモールの明かりも望むことができる。
とりわけ大きな建物はなく、
近くの鉄橋を通り過ぎる電車を何度も耳にすることになるだろう。

宵時、階段のてっぺんに二人並んで座っている高校生を見かけたことがある。
彼らにとって、そこから見える景色は二の次かもしれない。
でも、そこに足を運んだのはポイントが高い。
人にもよるだろうが、
その記憶は不思議な引力で残り続ける。

土手上の景色は、春でなくても楽しめるところだ。
放課後や仕事帰りに来てもいい。
一人でもよし、誰かと一緒でもよし。
不思議な引力で引き寄せられるかもしれない。


※最初の写真は、土手上から親水公園を眺めた春の光景
 (埼玉県羽生市)
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

古い“携帯電話”から何が聞こえる? ―子ども学芸員(10)―

2012年03月19日 | 子どもの部屋
普段何気なく使っている「物」でも、
見方を変えると、
ただの“日用品”から“資料”に変わる。

例えば、携帯電話。
多くの人が、当たり前のように持っていて、
その機能ももはや「電話」の域を超えている。

持ち歩くパソコンと同様で、
インターネットもできるしテレビも観られる。
カメラも付いているし、
動画も録画でき、買い物までできてしまう。

ぼくが高校生の頃に持っていたポケベルの時代に比べると、
その技術の進歩は著しい。
5年前はもはや「大昔」である。

携帯電話は日常的に使うものであって、
あるのが当たり前と思っている人も多いだろう。
古くなれば取り替えるし、
5年後はさらにすごい携帯電話になっているかもしれない。

ぼくは9年間使っていた携帯電話があった。
いま、ちまたで普及しているものと比べると、
機能の差は歴然としている。

ぼくは物持ちのいい方で、もし3月で使用が強制終了されなければ、
そのまま使い続けていたかもしれない。
あるいは、さすがは日本製といったところか。

9年も使い続けてきたから愛着はある。
体の1部分と言ってもいい。
3月で使用できなくなるというから新しい機種と取り替えたわけだが、
その時点で古い携帯電話は、
日用品から“資料”となった。

ぼくの9年間を物語る資料である。
自転車で巡って撮った史跡の写真もあれば、
いまは亡き師の留守番電話の声も残っている。
20代の多くの時間がそこには詰まっているのだ。

人から見れば使い物にならない古い携帯電話でも、
ぼくにとっては20代の自分を知る資料となる。
つまり、“価値”が生まれる。
個人的な「特別収蔵庫」は持っていないが、
捨てることなく残しておくつもりだ。

言ってみれば、これは学芸員の仕事とリンクする。
「博物館法」という法律の第4条4項に、
「学芸員は、博物館資料の収集、保管、展示及び調査研究その他これと関連する事業
についての専門的事項をつかさどる」と記されている。

つまり、資料を“収集”し、“保管”することが学芸員の仕事となる。
そして、その資料を展示などの教育普及・活用に務め、
次代へと保存していく。

むろん、どんなものを単に集めればいいというものではない。
明確な方針が必要だ。
ぼくは上記で、“自分史”という視点で古い携帯電話に価値を与えたが、
“携帯電話史”の一つの資料として見てもいいし、
この携帯電話が及ぼした“社会的影響”を知る資料でもいい。
“雇用”という視点で見ても面白いだろう。

どのような見方、視点を選ぶかで価値は変わる。
それを“ゴミ”と見るのも一つの価値観である。

携帯電話の歴史的意義は深い。
それによって、人々の生活が大きく変わったからだ。
人とのコミュニケーションの方法も変わったし、
逆に新たな問題も発生している。

物に価値を与えるためにも、
学芸員の日頃からの調査と研究は必要だ。
単に保存するだけでなく、活用の視点も必要不可欠になる。

何を集め、保存し、活用していくか?
ただの日用品は、その時代を物語る貴重な証言者になる。
それが「資料」の凄みであり、
その証言を引き出すのが学芸員の腕の見せ所でもある。

キミはどんな「物」に、どのような「価値」を見出すだろうか。
それはもしかすると、キミにしか見えず、聞こえないものかもしれない。
取り扱う資料は古くて地味なものかもしれないが、
キミならではの価値で資料と向き合うことは、
学芸員の醍醐味であり、面白さでもあるのだ。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

館林城の縄張りを教えたキツネが消えた場所は?

2012年03月18日 | 城・館の部屋
館林城は、子キツネを助けてくれた恩返しに、
老キツネが尾を引いて城の縄張りを示したという伝説がある。
城内には「尾曳稲荷神社」が祀られ、守護神となっている。

キツネが尾を引き始めたのは、
城内の谷越町である。
宵時から始まり、終わったときにはすでに夜が明けていた。
その最後に引き終わったところが加法師(かぼうし)である。

役目を終えたキツネは、
この加法師で姿を消したという。
同地には稲荷神社がまつられている。
ここを「夜明稲荷神社」と呼ぶのはこのためだ。

赤井氏は、このキツネの示した縄張りを参考に館林城を築城。
そして、大袋城から移り、「館林城主赤井氏」が誕生したのである。

個人的には、実際にキツネが尾を引いて、
赤井氏の城の縄張りを示したと信じたい。
しかし、伝説ゆえにその真偽は定かではない。
キツネが尾を引いて人間に教えるなどアニメチックだ。

ただ、それが根も葉もない虚構とは思わない。
おそらく「キツネ」に代わる何者かがいたのだろう。

いまでこそ、稲荷は商売繁盛的な要素が強いが、
戦国時代は相手の心臓を食い破る荒々しい神として崇められていた。
武将たちからの信仰も厚く、
城内に稲荷神社を祀る城は多くあった。

館林城においては、その信仰の強さがいつしか館林城の築城を指し示し、
守ってくれる存在としてキツネと結びついたのかもしれない。
単にキツネ目の男だったわけではあるまい。
別の伝説では、稲荷が北条勢の大軍を追い払ったとまで言い伝えられている。

戦国時代が終わりを迎えても、
尾曳稲荷神社は時の城主から厚い信仰が寄せられた。
城下町の人たちも、キツネに対する信仰は厚い。
町を8組に分け、組から人夫5人を出すと、
キツネの天敵である野犬を狩っていたのである。

奈良公園のシカのようなものだろうか。
信仰の対象となったものは強い。
犬公方と呼ばれ、愛犬保護を行った将軍徳川綱吉でさえ、
館林のキツネを守るために野犬狩りを実施したのは、
興味深い現象である。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

須影元中学校に建つ“青い碑”は何? ―子ども学芸員(9)―

2012年03月17日 | 子どもの部屋
須影の元中学校跡の校庭内に、
青い石の碑を目にしたことはないだろうか。

ぼくは幼い頃からこの碑を目にしていた。
現在も建っていて、幼い頃に比べて石に刻されているものは薄くなったと思う。
雨ざらしだから、自然と摩耗してもおかしくはない。

この碑が「板碑」(いたび)と呼ばれるものと知るのは、ずっと後年のことだ。
板碑は全国に分布している。
しかし、武蔵国(現在の埼玉県と東京都を含む地域)は、かなり密集して分布している。
最古の板碑や、最大の板碑があるのも埼玉県である。

「いたび」という名称のほかに、
「いたひ」「はんぴ」「いたぼとけ」「青石塔婆」とも呼ばれる。
鎌倉時代にはじまり、南北朝時代に爆発的に増え、
室町時代から戦国時代にかけて衰退している。

板碑は、言ってみれば供養塔である。
縁者が亡くなった日に造り、追善供養をする。
現在のお墓には「卒塔婆」(そとば)が建っているが、その前身と言っていい。

板碑には、記号のようなマークが施されていたり、
「南無阿弥陀仏」の文字、あるいはお釈迦さまや阿弥陀さまの絵が刻されている。
記号のようなマークは“梵字”(ぼんじ)といって、
阿弥陀如来や大日如来を意味している。
いつ、誰が建てたのか、その名前と年号が刻されていることもあり、
中世の歴史を紐解くのに重要な資料だ。

羽生市内では、2基の板碑が市指定文化財となっている。
とはいえ、市内には多く残っており、
須影地区だけでも25基の板碑が昭和40年代の調査で確認されている。

知らなければただの石だ。
意味悪がる人もいる。
漬物石や庭石に使う、
そんな笑い話のようなものも時折耳に聞く。
だから、昭和40年代の調査時よりもきっと板碑の数は減っているだろう。

「価値」は、知っていなければ見出せない。
新しい価値も、知識があってからこその発展だ。
歴史は単に暗記すればいいものではない。
知識を覚えてから、そこからスタートするのだ。

学芸員は、物に価値を与えるのが仕事だ。
大人が目もくれないようなものでも、ふと立ち止まってみよう。
好奇心の芽を摘んではいけない。

それを“板碑”と知ったならば、
友だちや親に伝えてみよう。
キミの見付けた価値は広がって、
地域の歴史や資料は後世へ残っていくかもしれない。


板碑。小ぶりなもの


板碑。比較的大きなもの。
梵字がくっきり刻されている。
コメント (0) |  トラックバック (0) |