クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生の旧庁舎はどこにあった?

2019年04月18日 | 近現代の歴史部屋
羽生市広報4月号(2019)には、
昭和30年に撮影された羽生市役所庁舎が掲載されています。
この庁舎は、現在の中央公民館の場所に建っていたものです。
町中に突き出るように建っていたことになります。

庁舎が完成したのは昭和30年のこと。
市制施行が昭和29年ですから、
その直後に「市役所」は登場したわけです。

そして、同35年に増築。
やや形を変えて、町中に建っていました。

現在の庁舎が建設されたのは昭和49年のことです。
町中ではなく、かつて羽生城の守りを固めていた沼跡に建設されました。
換言すれば、往古の行政機関の中心に移ったということでしょう。

駐車場スペースは少なく、何かと手狭になったため、
沼跡であり田んぼが広がっていた場所が選ばれたのでしょう。
そこには上杉謙信の旗かけの松と呼ばれる一本松が立ち、とても寂しい場所でした。
新庁舎の場所については色々な議論があったようです。

昭和54年生まれの僕は、旧庁舎に入ったこともなければ見たこともありません。
議場と執務室の映像をチラリと目にしたことがあるくらいです。
ワープロではなく手書きで公用文を作成し、
自席で煙草も吸っていたであろうこの時代、
庁内はどんな雰囲気だったのでしょう。
どんな人が働いていたのでしょうか。

羽生に新しく越してくる人、転出する人、
結婚する人、出生届を出す人など、多くの人が出入りしていたはずです。
僕の両親や祖父母も一度は行ったことがあるはず。

町中にあったため、庁舎は市民には身近な存在だったのかもしれません。
出入りせずとも、毎日目にしていた人は多かったでしょう。
一部火事に見舞われたこともあった旧庁舎でしたが、
市として船出したばかりの羽生の行政を支えていました。
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1990年代のはじめ、昭和橋を渡るのは大変だった?

2019年04月16日 | 近現代の歴史部屋
羽生市広報4月号(2019)に掲載された昭和橋の古写真は、
昭和30年頃に撮影されたものです。
昭和54年生まれの僕は、物心のついた頃に目にした昭和橋は、
同37年に新たに架け替えられたものでした。

2車線道路で、ダンプやトラックが絶え間なく走っていたのを覚えています。
当時の橋は歩道がありません。
したがって、徒歩や自転車で橋を渡るのは勇気のいるものでした。

僕が初めて自転車で昭和橋を渡ったのは、中学生の頃だったと思います。
羽生市の中学校に通う僕らは、昭和橋を使わないで対岸へ行こうとすると、
行田市に架かる武蔵大橋か、
旧大利根町(現加須市)の埼玉大橋を使わなければなりませんでした。

いずれも遠く、精神的にも大変骨の折れる距離です。
電車で渡るという手段もありましたが、中学生の主な交通手段は自転車。

羽生市本川俣地区の利根川で遊んでいた僕らは、
そんな事情もあって対岸がひどく遠くに感じられました。
対岸の土手の向こうに少し見える建物の看板が、
まるで異国のように見えることも……。

しかし、昭和橋を渡らなかったわけではありません。
橋の手前でスタンバイし、車が途切れたのを機に猛ダッシュ。
いま思うと、「スタンンド・バイ・ミー」の鉄橋を渡るようなノリだったかもしれません。

どんなにペダルを漕いでも、ごく一般の中学生ではたかが知れたもの。
橋の半分も行かない内に車に追いつかれてしまいます。
体のすぐ脇を通り過ぎていく何台ものトラック。
運転手から見たら、僕らはひどく邪魔だったでしょう。

反対側の車線にも車は途切れることなく走り過ぎ、よけようもありません。
ふと横を向けば利根川。
河原で見るのとはどこか違っていました。
橋の真ん中から眺める利根川はやはり雄大の流れていたのを覚えています。

そんな昭和橋越えを十代の頃に何度となく経験しました。
20歳を越えた頃、お酒に酔って電車を寝過ごし、歩いて昭和橋を渡ったこともあります。
そんな歩道のなかった前昭和橋は身近なようであり、
近寄りがたい存在だった気もします。
それでいて、とても愛着を感じさせる橋でもありました。

現在の橋は、2000年代に入って新しく架けられたものです。
上りと下りの橋がそれぞれ架けられ4車線化し、
広々とした歩道も設けられました。
対岸との距離は近くなり、僕らのときのように、
「スタンド・バイ・ミー」のノリで橋を渡る中学生はいないでしょう。

僕らが親しんだ昭和橋はすでに解体されています。
現行の橋は、厳密に言えば「平成橋」と言ってもいいかもしれません。
いずれこの橋も「歴史」に変わるのでしょう。
元号は2019年5月から「令和」に変わり、
「昭和」はどんどん遠ざかっています。
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羽生の“衣料のまち”の時代は恋の季節だった?

2019年04月12日 | 近現代の歴史部屋
羽生市広報4月号(2019年)に、
被服縫製工場内を写した古写真が掲載されています。
「映画撮影」というタイトルの通り、カメラや照明が働く女性たちに向いており、
何かの撮影風景を写したもののようです。
例えば、昭和30年代に製作された「伸び行く羽生」のメイキング写真でしょうか。

さて、かつての羽生は「衣料のまち」として、
被服縫製工場がたくさん存在していました。
最盛期には約450もの工場があったそうです。

それだけの数があると、当然ながら働き手が必要となります。
そこで、遠方から羽生へ出稼ぎに来る人が少なくありませんでした。
井沢八郎が唄う「ああ、上野駅」のように、
金の卵と呼ばれた人たちが列車に揺られて羽生に降り立ったのです。

多くの女性が羽生にやってきました。
そして被服縫製工場でミシンを踏み、汗を流したといいます。
むろん実家から通うのではなく、住み込みでの勤務です。
小さな工場でも3、4人の女性が住み込みで働いていたのだとか。

年輩者から聞いた話では、
外に出れば、道には若い女性がたくさん歩いていたそうです。
近隣から通ってくる人もいたでしょうから、
羽生駅は若者たちで混雑していたかもしれません。
当時は、道で一目惚れする羽生男子が少なくなかったでしょうか。

やがて訪れるのは恋の季節。
これも聞いた話ですが、仕事が終わった若い男性は、
働く女性たちの住む寮(住み込み部屋)へ出掛けていったそうです。
しかも1軒だけでなく、何軒もの寮を回ったと言います。

女性と話をして、気が合えばそのままデート。
あるいはデートの約束を交わします。
気が合わなければ何もありません。
打たれ強い男子ならば、気を取り直して次の寮へと足を運んだでしょう。

そんな出会いをきっかけにして、
そのまま結婚された方も多いと思います。
プロポーズは羽生のあの場所で……
という思い出もたくさんありそうです。
デートに「電気館」や「セントラル」へ映画を観に行った人もいるでしょうか。

羽生の道でナンパする男子もいたかもしれません。
ゴールインする人もいれば、
かぐや姫が歌う「赤ちょうちん」のように、
公衆電話の箱の中で膝を抱えて泣いた人もいた……?
羽生を舞台に、たくさんの恋物語があったはずです。

古写真に写る女性たちに、そんな恋の季節が訪れていたのかはわかりません。
ただ、当時の羽生の主産業を支えていたことは間違いありません。
何を想い、どんなドラマの中でミシンを踏んでいたのでしょう。
耳を澄ませば、古写真の中からミシンの音が詩のように聞こえてきそうです。
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旧昭和橋の“旧”はどの形の時代を思い出す?

2019年04月07日 | 近現代の歴史部屋
埼玉県羽生市と群馬県明和町をつなぐ「昭和橋」は、
昭和4年に完成しました。
ところが、昭和9年に悲劇が降りかかります。
台風の襲来です。

大雨によって川は増水。
木造で橋脚が多かった当時の昭和橋には、
上流から流れ着いた木材やゴミが引っかかってしまいます。

衝突するくらいならよかったのかもしれませんが、
漂着物はさらに新しい仲間を増やし、橋に負担をかけます。
そして、ついに橋の一部が破損。
ゴミとともに押し流されてしまいました。

台風が過ぎ去り水位が落ち着いた頃、修復工事が始まります。
埼玉と群馬を繋ぐ重要な橋です。
いつまでもそのままというわけにはいきません。

しかし、工事が行われている間はどのようにして利根川を渡ったのでしょう。
90歳の年輩者から話を聞きました。
昭和4年に橋が架かる以前のように、
舟を並べて板を敷く“舟橋”が急遽できたそうです。

いわゆる簡易橋で、狭くて低くて川はすぐ下を流れ、
渡るのがとても恐かったといいます。
90歳の年輩者は、実際にその簡易橋を渡った体験者です。
幼い頃の体験とはいえ、実にリアリティがあります。

なぜ渡ったのかというと、
館林の「花山」(つつじヶ丘公園)へ遠足に行くためでした。
同級生たちと一緒に渡ったのでしょう。
さすがに落ちてしまう子はいなかったそうです。
いまの時代ならば、渡河は許可されないのではないでしょうか。

台風によって破損した橋の一部は、新たに架け替えられました。
橋の全部が新しくなったわけではなく、一部が「トラス橋」になり、
いわば新旧が入り交ざった橋になったわけです。

したがって、羽生市広報4月号で
「旧昭和橋」というタイトルの古写真が掲載されていますが、
“旧”といえばトラス橋ではないものを思い出す人もいると思います。
初期の昭和橋は路面に砂利が敷かれていたそうです。
雨が降れば、あちこちに水たまりができていたのかもしれません。
現在の昭和橋よりも少し上流に架かっていました。

旧昭和橋もさることながら、
恐い(?)舟橋を渡っての遠足は、さぞや印象深く残っていることでしょう。
昔に戻りたい、とはあまり思いたくないのですが、
そんな舟橋を一度渡ってみたくなります。
その光景を見てみたい。
例えば、舟橋の上から見る日の出や夕暮れは、
きっといまとは違って見えたのでしょうね。

※90歳のAさん、貴重なお話をありがとうございました。
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旧昭和橋ができる以前は何があったのか?

2019年04月03日 | 近現代の歴史部屋
羽生市広報4月号(2019年)の特集の中で、
「旧昭和橋」というタイトルの古写真が掲載されています。
昭和30年頃に撮影されたもので、
現在とは違って路面が木造です。

昭和橋が架けられたのは昭和4年のこと。
川幅が比較的狭いところに橋は架けられました。
ここは八王子同心が日光へ向かう道中の一つで、
江戸時代は埼玉県側の関所(川俣関所)を通って、舟で対岸に渡っていました。

余談ですが、天正2年(1574)の春に、
羽生城救援のために上杉謙信が駆け付けたことがあります。
大輪(現群馬県明和町)まで軍を進めた謙信でしたが、
雪解け水で増水した利根川に阻まれてしまいます。

結局、利根川を渡ることができず、羽生城救援は失敗。
もしもそのとき増水していなかったならば、
現在の昭和橋辺りか、その下流の東武鉄橋付近を渡っていたかもしれません。

さて、川俣関所が廃止されたのは明治2年のことです。
関所の御調べを受けずとも、渡ることが可能となりました。
では、それから昭和4年に昭和橋が完成するまで、
人々はどのようにして利根川を渡っていたのでしょう?

舟で渡っていたのか? 
それとも昭和橋の前身となるものがあったのか?

実は、その両方と言えるものが存在していました。
舟橋です。
川に舟を何艘も並べ、その上に板を架けるという舟橋が埼玉と群馬を繋いでいました。
明治23年に企業の手によって完成したものです。

元々、舟橋は公共事業で出来上がったものではなかったわけです。
利益を得ることを目的としていました。
渡し賃ではなく、橋銭をとれば利益が見込めると判断したのでしょう。

ところが、収益はなかなかあがらなかったようです。
間もなくして、最初に舟橋を完成させた企業は解散。
別の会社が引き継ぎますが、特に変化はありません。
そして、昭和4年10月1日に昭和橋が完成すると、
舟橋はその役目を終えたというわけです。

この昭和4年完成の昭和橋も、いまはもうありません。
現在の橋は平成に入って新たに架け替えられたもの。
一線を画します。

現在の昭和橋は4車線で、過去に比べてとても渡りやすい印象があります。
僕が十代のときは橋のアーチが7色に彩色されており、
中学時代に遊び場だった河原からもそれが確認できたものです。
「レインボーブリッジ」と呼ぶ人もいました。

この「レインボーブリッジ」の完成は昭和37年のこと。
(彩色されたのはのちのことだったと思います)
個人的には、この橋の方に親近感があります。
多感な時期に親しんだ橋だったからでしょう。

市広報に掲載された「旧昭和橋」は、これ以前に架かっていたものであり、
僕は見たこともなければ渡ったこともありません。
路面が木なので、下を向けば隙間から利根川の流れが見えたそうです。
利根大堰ができる以前ですから、川幅も広かったことでしょう。
自転車で昭和橋を渡り、好きな女性に会いに行ったという話も聞いたことがあります。

そんな旧昭和橋は解体され、平成にできた新しい橋がその役目を引き継いでいます。
車ならば渡るのに1分もかかりません。
特に気に留めることもないでしょうか。

しかし、最初からそこに存在していたわけではありません。
舟で渡っていたこともあれば、舟橋が架かっていた時代もあるということです。
戦国時代には上杉謙信がやってきて、臨時的に舟橋をかけて川を渡ろうとしましたが、
対岸で待ち伏せていた敵勢の妨害もあり、失敗してしまった歴史もあります。

歴史への関心の有無は別として、そんなことに想いを馳せながら昭和橋を渡れば、
いつもと違って感じられるかもしれません。
下を流れる利根川の表情も変わるでしょうか。
いまも昔もそこにはさまざまなドラマが眠っています。
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