クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

幼子を“田島ヶ原サクラソウ自生地”へ連れて行くと?

2018年07月29日 | 歴史さんぽ部屋
ちょっとした出会いがあって、
休日にさいたま市のサクラソウ自生地へ足を伸ばした。

正式には「田島ヶ原サクラソウ自生地」。
国の天然記念物に指定されている。
サクラソウ自生地としては、国内唯一の指定地という。

指定地は約4.1ヘクタールにも及ぶらしい。
春になれば、色鮮やかなサクラソウが人の目を楽しませるのだろう。

夏の暑い盛りに行ったから、
むろんサクラソウは咲いていない。
背の高い植物が生えている。
一緒に出掛けた息子の背を遥かに超えていた。

息子を肩に乗せて自生地内を歩く。
ときおり、電車が通り過ぎる音がした。
息子は電車を見たがったが、
父の肩の上でも植物が視界を遮っているらしい。
植物だけでなく、川沿いに立つ木々で見えないようだ。

自然の管理は難しい。
常々そう思う。
関係者たちは日ごろ汗を流して自生地を保護しているのだろう。

電車の音が通り過ぎると、
虫の羽音が近くをよぎった。
秋になれば虫の音が響くのだろう。

真夏のサクラソウ自生地。
太陽の光と一緒に、
息子の笑い声が降り注いでいた。

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羽生城主・広田直繁伝(18) ―評定―

2018年07月26日 | ふるさと人物部屋
臼井城攻略の失敗を機に、
関東の国衆たちは次々に上杉謙信から離反しました。
そして、後北条氏に従属。

永禄9年(1566)比定の閏8月25日付の北条氏照の書状には、
宇都宮氏を始めとして、皆川氏、由良氏は我らに与し、
成田氏も調停によって従属した、と綴られています(正木時忠宛。「荻野研究室収集文書」)。

後北条氏の働きかけもあり、
国衆たちはその立場を決めたことが窺えます。
忍城主成田氏が後北条氏に与すれば、
自ずと騎西城主小田氏も同様です。
忍城と同時期に上杉氏から離れたのでしょう。

悪夢のように上杉離れが相次ぐ中、羽生城はどうしたか?
成田氏のように後北条氏に与したのでしょうか?

いえ、変わりません。
後北条氏になびくどころか、
上杉方の姿勢を崩そうとしませんでした。
周囲が北条一色となり孤立無援状態になっても、
どういうわけか忠節を貫くのです。

これが羽生城の特色であり、魅力と言える点です。
一方で、謎と言ってもいいでしょう。
隣接する成田氏に対抗しうる軍事力さえ持っていなかったにも関わらず、
反北条の姿勢を崩さなかったのですから。

上杉方として行く。
そう方針を示したのは羽生城主広田直繁だったでしょうか。
少なくとも、最終判断は直繁だったはずです。
例えば、「上杉氏従属に係る契約更新について」という文書が関係部署を回り、
最終的には長である直繁の手元に来て、その手で決裁印を捺したのでしょう。

ただ、これは羽生城の将来を左右する重大な案件です。
通常の決裁とは異なります。
こうした重要な案件について、誰がどのように決定したのでしょうか。

現代の感覚で言えば、議会に諮る案件です。
議決を経た上で羽生城の指針が示されます。

戦国時代において、「議会」に当たるのが評定(会議)でしょう。
城主をはじめ、重臣たちが参加。
そこで審議をした上で今後の方針を決めていく。
羽生城においても、そんな評定が行われていたはずです。

そこには誰が出席していたか?
広田直繁はもとより、弟の木戸忠朝も参加したと思われます。
城主一族であれば、永禄9年当時に存命と仮定して直繁の父範実。
また、忠朝の息子重朝や、次男の元斎の姿もあったかもしれません。
直繁の子為繁は、この頃越後にいたので不在。

なお、永禄9年当時の重臣クラスについては臆測の域です。
挙げるとすれば、渋江氏、岩崎氏、鷺坂氏らの姿が想定されます(「関東幕注文」『新編武蔵風土記稿』)。

何人が参加し、どのような人物が参加していたのか、
それを示す資料は現在のところありません。
現在の地方自治法では、議員の定数は条例で決められています(第91条)。
何人でもいいというわけではありません。

また、普通地方公共団体の議会は、定例会と臨時会があります(第102条)。
周囲の城が後北条氏になびく中、羽生城のその後を決めるのですから、
おそらく臨時会のような評定が開かれたのでしょう。

そんな評定の中に、一般の領民はいたでしょうか。
つまり羽生城主一族でもなく、幹部でもない、
領内で普通に生活を営んでいる領民です。

現在の議会では、選挙によって選ばれた議員が代表して参加しています。
日本国憲法でも、議会の議員などは
「その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」と定めています(第94条)

戦国時代に選挙はありません。
が、領民を代表して評定に出席する者がいたとすれば、
だいぶ民主的な政治が行われていたと言えます。
すると、上杉謙信に従属し続けるという指針も、
羽生領民の民意によって決定されたということになるわけです。

広田直繁の独自の判断ではない。
羽生城の重臣たちの意志でもない。
民そのものの意志である、と。

しかし、資料が何もないため、一般領民が評定に参加していたかは不明です。
可能性としては低いでしょう。
参加したとしても、公募というよりも村の代表者だったと思います。

その場合、議場は城の中心部よりも
やや外側の建物で開かれていたのではないでしょうか。
村の代表と雖も、敵に内通していないとも限りません。
領民が城に避難するときも、立ち入り場所をある程度制限されていたくらいですから、
本丸ではなかったように思われます。

いずれにしても、羽生城は上杉方の姿勢を採ります。
そこには広田直繁の意志が大いに反映されていたのでしょうか。
それとも、評定で決まったことにやむなく同意のしたのか。
直繁の内面をどんなに想像しても、
現代人である我々の感覚では、その領域に達することはできないのかもしれません。
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夏の羽生にて ―源昌院の蓮―

2018年07月24日 | はにゅう萌え
羽生市稲子にある源昌院。
夏の時期になると、境内一面に咲く蓮の花を見ることができる。

春は桜、
夏は蓮、
秋は彼岸花、
冬は水仙、
といったように、季節ごとに花で彩られる。

そう、ここは花のお寺。
本尊は地蔵菩薩で、羽生城代“不得道可”が開基となっている。
羽生城主が稲子で自刃したという伝説もあるから、
歴史の裏側に隠れた何かがあるかもしれない。

蓮の花言葉は、
清らかな心、神聖などがあるという。

蓮の花は朝に咲くものだが、
子を連れて夕方に足を運んでみた。
したがって、この記事にアップした写真は夕方に撮影したもの。

住職と一緒に蓮池のザリガニを見に行く。
息子は恐がっていたが、
娘は興味津々な様子。
ドジョウも数匹見かけた。

本尊の地蔵菩薩は安産や子育てにもご利益があるという。
無事の出産や、
子どもがスクスク育つようお祈りをしてから、
蓮の花を観賞してもいいかもしれない。

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今夏、埼玉の“県博”へ古文書を見に行く?

2018年07月22日 | お知らせ・イベント部屋
埼玉県立歴史と民俗の博物館は、大宮公園内にある。
平成30年9月2日(日)まで開催されているのは、
企画展「古文書 大公開!―みる・よむ・しらべる埼玉―」。

そのタイトルの通り、古文書が一堂に会している。
展示資料点数はおよそ200点。
県史や市町村史等で目にしたことはあっても、
実物は見たことのなかったものが展示されていた。

歴史を叙述する根拠となっている史料群だ。
歴史を伝える語り部と言っていい。

パソコンやスマホなどの普及によって、
電子で情報を発信・受け取ることが多い。
Windows95が発売された1995年を一つの転機とすると、
20年以上はデジタル化の波の中を生きてきたわけだが、
僕はやはり紙に文字を書く行為が好きだ。

紙にはぬくもりを感じる。
文字を書いた人の熱気や生命の息吹も。
紙媒体が好きな人は少なくないから、
消えると言われた書籍もなくならないのだろう。

古文書は現代でいう公文書のようなもの。
通知文、依頼文、案内、辞令、進達文、副申、報告書など、
言い方は違えども本質的なものは変わっていないと思う。

公文書を読み解くことで、当時の時代が見えてくる。
公文書は必要とされて作成されるものだから、
時代の証言者と言っても言い過ぎではない。
いま国や地方公共団体が作成している公文書も、
100年も経てば歴史的資料になるだろう。

ところで、企画展の導入部に視聴覚映像が流れている。
企画展に関連する映像がDVDで再生されているのだ。

2つのタイトルの内の1つ、「県史を物語る宝庫 ―県立文書館―」を観ていたら、
思わず目を丸くした。
文書館主催の古文書講習会の参加者に、
羽生城研究者の冨田勝治先生が映っているではないか。

この映像は1985年に作成されたもの。
ということは、先生が70代半ばの姿ということになる。
当時僕は先生を知らないから懐かしさを覚えることはないが、
「時代」のようなものを感じる。
先生と出会うのは、それからおよそ20年後のことだから。

DVDの中には知っている顔もあった。
若い。
当時の文書館の職員は、制服着用みたいな決まりごとがあったらしい。
みんな白衣を着ていた。

そんなレトロとも言える映像も観られる企画展「古文書 大公開!―みる・よむ・しらべる埼玉―」は、
9月2日まで開催している。
自由研究の材料として使用するにはいささか難しいだろうか。
この夏、古文書を通して憧れの歴史的人物に会えるかもしれない。
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羽生城主・広田直繁伝(17) ―離反―

2018年07月20日 | ふるさと人物部屋
永禄9年に臼井城を攻めた上杉謙信は、
ここが一つの転機となります。
上杉勢による猛攻で、堀を一つ隔てた本丸を残すまでとなった臼井城は、
誰の目から見ても落城は時の問題でした(「鑁阿寺文書」)。

ところが、城攻めは失敗。
『北条記』によれば、「悪日」とされる日に城の一部が崩れ、
上杉方の兵や馬が悉く死去。
また、小田原から援軍に駆け付けた「松平孫太郎」の奮戦も目覚ましく、
その戦いぶりは謙信から「赤鬼」と言われるほどで、
城を落とすには自軍の犠牲も相応に覚悟しなければならなかったようです。

あと一歩のところまで攻め寄せたのに、
城が落ちることはありませんでした。
謙信にとって歯がゆかったかもしれません。
また戦いに参陣していた国衆にとっても……。

このとき、上杉勢の中に羽生城主・広田直繁の姿があったかは不明です。
永禄9年の作成と見られる陣立書には「金山口号調儀」とあるので、
直繁の身は忍城主成田氏らと共に上野国にあったかもしれません。

謙信は臼井城を落とせないまま撤退。
足利義氏は、この戦いによる上杉勢の死傷者について約5千人と、
豊前山城守に書き送っています(「豊前氏古文書抄」)。
これは誇張した数と思われますが、
上杉勢が損じた兵は少なくはなかったはずです。
この合戦が関東国衆に与えた影響は少なくありませんでした。

というのも、臼井城攻城戦から間もなくして、
上杉氏から離反する国衆が相次いだからです。
宇都宮氏、皆川氏、由良氏、成田氏などが後北条氏に従属。
関東における謙信の勢力は一気に後退。

さらに、それに追い打ちをかける出来事が起こります。
それは、北条高広の離反です。
北条(きたじょう)氏は厩橋城にあり、
謙信の関東静謐の主翼をなす人物と言っても過言ではありませんでした。
関東に新たな販売ルートに開発すべく、
新潟本社から群馬県の支社に出向した部長が、
ある日突然ライバル社に寝返ってしまったようなものです。

部長クラスですから、ある程度の機密情報も持っています。
内部事情や密かに進めていた謀・計画など、
重要な情報が敵に流れてもおかしくありません。

謙信にとっては大きな打撃です。
国衆はおろか、身内である家来までもが離れてしまったわけです。
関東静謐事業の頓挫と言っても過言ではありませんでした。

北条高広がなぜ謙信から離反したのか、その理由はよくわかっていません。
実は、謙信にとってそれは衝撃的事実ではなく、
大きな計画を実行するために彼自身が意図したものだった、
という見方もできなくはありません。

しかし、真相は闇の中。
色々な思惑が渦巻いていたことは想像に難くない一方で、
性格的なものもあったでしょうか。
何にせよ、関東の勢力図を鳥瞰すれば上杉勢の大きな後退であり、
従属を続ける国衆にとっても、将来に暗雲が立ち込める出来事でした。

国衆たちや北条高広の離反を耳にした広田直繁は、
どんな反応を示したでしょう。
その気持ちに迷いが生じたかもしれません。
直繁にとっても試練の時を迎えることになります。
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伝説“いちっこ地蔵”がミュージカルになった?

2018年07月18日 | 奇談・昔語りの部屋
終わってからのアップで恐縮だが、
7月15日、16日にわたって、ミュージカル「いち」が公演された。
演じたのは「ミュージカルかぞ」。
キャッスルきさいにて、第6回目にあたる公演会だった。

「いち」は加須市の伝説をモチーフにしたもの。
拙ブログでも、いちっこ地蔵について取り上げたことがある。
(「“いちっこ地蔵”に伝わる話は? ―子ども昔語り(50)―」2007年9月14日)。
個人的に好きな伝説だし、
どんな風にミュージカル化されているのか興味があった。

全ての表現は音楽に嫉妬するという。
ミュージカルも音楽表現の一種だろう。

確かにその通りだと思う。
役者たちの演技、歌声、照明、伴奏、音響、振付……。
それぞれの仕事が一つの世界を作り出している。

「いち」伝説については別の機会でも取り上げたことがあるのだが、
ミュージカルと文章表現とではまるで別物だ。
笑いあり、涙ありで、観客たちを終始惹きつけていた。

会場で知人にバッタリ会った。
夫の母親が出演していたという。
その人は大きな花束を持っていた。
5分後、その花束を持った役者は、
通路にいる来場者に向かって優しい笑みを浮かべていた。

2日間にわたって、全3回の公演だった。
小さな子たちも一生懸命演じていたのが目に付いた。
あの子たちは大人になっても舞台の上に立つのかもしれない。

2022年には、ニューヨークでの公演を予定しているという。
タイトルは「不思議田」。
これも加須の伝説をモチーフとしたものだ。

これからの活動が期待される。
「ミュージカルかぞ」ならではのカラーと世界観を出してほしい。
加須の伝説をミュージカル化し、見事成し遂げたミュージカルかぞに、
拍手と「ブラボー」の声を送りたい。
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夏の羽生にて ―小須賀の紫陽花―

2018年07月16日 | はにゅう萌え
羽生市小須賀の神社で見付けた紫陽花。
およそ1ヶ月前に目にしたから、
もう花は見られないかもしれない。

紫陽花の花言葉は「移り気」。
過去のことはあらかた忘れる人と会った。

びっくりするくらい覚えていない。
彼女にとって、その記憶は重要ではないのだろう。
おそらく「歴史」もまた……。

覚えているから良い、悪いではない。
記憶の定着は、その人の価値観で測られる重要度によるという。

移り気。
新しくやってくる時が記憶を浸食する。
僕もまた、びっくりするくらい記憶が消えているのだろう。
その穴を補正するように、
作られた記憶もあるのかもしれない。

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今日は羽生の夏祭り ―“八雲神社”と“避来矢神社”の例大祭―

2018年07月14日 | 民俗の部屋
今日7月14日は八雲神社の例大祭。
羽生の夏祭りです。

なお、夕方4時頃からは、
羽生市上村君(かみむらきみ)の避来矢神社の例大祭で獅子舞が奉納されます。

両者とも羽生市指定の無形民俗文化財。
五穀豊穣、疫病退散、家内安全……
願いを込めてお祭りに行きましょう。

僕も祭りに行きます。
羽生でお会いしましょう。


上村君(かみむらきみ)の獅子舞


八雲神社の例大祭
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羽生城主・広田直繁伝(16) ―軍役―

2018年07月12日 | ふるさと人物部屋
永禄9年(1566)、上杉謙信は小田城を攻めます。
そのとき作成されたとみられる陣立書があります。

その中に名前が書き記されている広田直繁。
弟の木戸忠朝の名もあります(「上杉輝虎公記」)。

彼らが率いた軍勢はそれぞれ50騎。
合わせて100騎であり、
これが、永禄9年当時の羽生領の軍事力とみなしてよいでしょう。

1騎は3~5人の兵力と考えられます。
騎乗の武士に4人の従者が付いたとすれば、
羽生領はおよそ500人の兵が出陣したことになります。

この時代、兵事を本業とする者はほとんどおらず、
普段は農作業に従事していました。
そして、いざ城の緊急時になると、兵として駆け付けるわけです。

憂鬱になる者もいれば、嬉々として出陣する者もいたでしょう。
当時の戦いは敵兵と干戈を交えるだけでなく、
村を襲って乱妨狼藉を働くのが一般的でした。

したがって、金品や食糧などの強奪を目当てにする者がいてもおかしくありません。
羽生城兵の中にそのような者がいたかはわかりません。
記録や文書に民衆の声は残っておらず、
五十騎の内訳や兵の具体的な像は謎です。

この陣立書の中には、館林城や忍城などの国衆も含まれています。
羽生近隣の者を挙げてみましょう。

 金山城主横瀬氏(由良氏) 300騎
 館林城主長尾氏 100騎
 忍城主成田氏 200騎
 関宿城主簗田氏 100騎
 小泉城主富岡氏 30騎

のちに羽生城と敵対する忍城は、
当時200騎の軍事力を保持していたことがわかります。
つまり、羽生城の倍の軍事力です。
羽生勢が500人集まれば、忍勢は1000人だったわけです(単純計算によります)。

その数は館林城や関宿城を上回っています。
北武蔵において独自の勢力を保つ成田氏の強さが垣間見られます。

ところで、この陣立書を見ていると、
地方自治法でいう「広域連合」を連想させます。

広域連合。
普通地方公共団体及び特別区は、
広域にわたって処理することが適当であると認められるものに関して、
広域にわたる総合的な計画を作成し、必要な連絡調整を図り、
事務の一部を広域にわたって処理するために広域連合を設けることができる、
とされています(「地方自治法」第284条第3項)

戦国時代の現代の「広域連合」の概念と異なることを承知で言えば、
上杉謙信の「関東静謐」「関東平定」の目標・計画を遂げるため、
国衆たちはそれぞれ軍勢を出すことで、
軍事事業を広域にわたって処理していた、というイメージが浮かびます。

国衆同士の連絡調整もあったかもしれません。
「規約」も存在していたでしょうか。
もしかしたら「上杉氏関東静謐広域連合」なんて名称もあったかもしれません。

いつ敵味方になるかわからない戦乱の時代。
全ての国衆同士とは言いません。
ただ、謙信の志に強く賛同する国衆たちの間では、
広域連合のように共に連携して、軍事事業に取り組んでいたのではないでしょうか。

しかし、永禄9年の作成と推定されるこの陣立書は、
間もなく大きな変更を余儀なくされます。
いや、瓦解と言っても過言ではありません。

永禄9年3月、謙信は臼井城攻略に失敗。
4月には同城から退去してしまいます。
それを機に、関東の国衆たちはこぞって後北条氏に従属し、
上杉氏の勢力は大きく後退するからです。

これによって「広域連合」も崩れたことでしょう。
永禄3年の上杉謙信の関東出陣を機とする謙信、氏康、信玄の三つ巴合戦は、
1つの区切りを迎えようとするのです。
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“羽生の夏祭り”は市の文化財?

2018年07月10日 | 民俗の部屋
羽生の夏祭りが7月14日に開催される。
夜の賑やかさに目がいきがちだが、
日中の“神輿渡御”も注目されたい。
この渡御は市の無形民俗文化財になっている(八雲神社神輿渡御等行事)。

羽生の夏祭りは八雲神社の例大祭だ。
かつては1ヶ月もの間、祭りが行われていたらしい。

11基の神輿と2基の山車が出る。
本町通りを始めとする道路は歩行者天国となり、
露店がたくさん建ち並ぶ。

ここはかつての羽生城下町。
「城上横町」や「城橋」、
町の出入り口を表す「戸張」などの呼称が残っている。

伝統ある行事で、羽生の人々の信仰と心を熱(厚)くさせてきた。
僕も、小学生の頃から羽生の夏祭りに足を運んでいる。
祭りで同級生に会うことはめっきり少なくなったが、
それでも顔を合わせる人はいる。

家内安全、五穀豊穣、疫病退散……。
祭りの賑やかさを楽しむ一方で、
八雲神社の本殿にも手を合わせたい。

※羽生の夏祭りの詳細は市ホームページを参照
http://www.city.hanyu.lg.jp/docs/2014072400024/

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羽生城主・広田直繁伝(15) ―判物―

2018年07月07日 | ふるさと人物部屋
永禄9年(1566)1月に広田直繁が正覚院へ出した文書は、
僧の勝手還俗を戒めるという内容です。

現在の感覚で言えば公文書です。
公印は捺されていません。
印判状ではなく、代わりに直繁のサインが記されています。
これは花押(かおう)と呼ばれるもので、
当時の領主等は文書の末尾にサインをしていました。

文章は右筆(ゆうひつ)に書かせ、
花押は領主自らが筆を執ることが多かったようです。
右筆とは、主人の代わりに代筆した者を言います。

戦国大名になると、書状は右筆の手がほとんどでしたが、
国衆レベルでは常に代筆させていたかは疑問です。
したがって、広田直繁の文書は本人の手によるものと考えたいと思います。

直繁の肖像画が残っていないだけに、
その書かれた文字はとても貴重なものです。
文字は太く、大きく、書き出しには勢いがあります。

字は下手ではありません。
格別上手くもありません。
書き出しに勢いがあるものの、後の方になってくると文字は小さくなり、
字間も狭まってきます。
まるで、紙の最後を気にしているかのような印象を受けます。

直繁は、これをどのように書いていたのでしょう。
当時、文字を書くときいくつかパターンがあったようです。
机の上で書くものと、紙を左手に持って筆を走らせるパターンです。

机と言っても大きくはありません。
宣教師ルイス・フロイスの報告書によると、
当時の日本人は地面か畳に座って、小さな低い台を使って書いていた、とあります。
(岡田章雄訳『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫)

直繁は、羽生城内でこの文書を書いたのでしょうか。
だとしたら、どのような部屋で書いたのでしょう。
使った筆は? 墨は? 硯は? 机は?

城内には、公文書を保管する部屋はあったでしょうか。
その保管方法、整理法、検索の仕方といったマニュアルもあったかもしれません。
戦国時代にアーキビストのような考えを持つ者は皆無だったとは言い切れません。
上杉家文書のように、文書を大切に保管し、
後世に残そうとした者がいたとしてもいいように思います。

しかし、羽生城は天正2年(1574)で自落を余儀なくされるため、
城内に保管されていた多くの文書類は、焼却か散逸したのでしょう。
直繁が使っていた筆や机は、
もしかすると館林領を拝領したときにそちらへ移ったでしょうか。

筆を持つその手、文字から伝わる息づかい、
花押をしたためる直繁の横顔……。
1通の文書ですが、そこからは時代の空気が籠っているものです。
当時を生きた文書ですから、もしも口がきけたならば、
城の様子や直繁のことなどを色々語ってくれるのではないでしょうか。

400年以上も昔の羽生城時代。
直繁の遺骨がどこに埋まっているのか、実は謎です。
肖像画もなく、城の遺構も消滅しています。
だから、直繁に会いに行こうとしても難しいのが現実です。

そんな状況の中、直繁が発給した文書だけが、
唯一その存在を身近に感じさせてくれます
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羽生の食虫植物“ムジナモ”を見に行きませんか? ―宝蔵寺沼ムジナモ自生地―

2018年07月05日 | お知らせ・イベント部屋
埼玉県羽生市の魅力の1つ。
それは食虫植物“ムジナモ”が自生していること。
つまり野生で生息している。
日本では唯一の自生地だ。

ムジナモは根のない水草。
葉の先端でミジンコなどの微生物を捕えて食べる。

また、夏の暑い時期に「幻の花」を咲かせる。
滅多に咲くことがないため「幻の花」と言われ、
植物学者・牧野富太郎が世界にその名を知らしめたのは、
この花の詳細な解剖図を描いて論文に発表したためだった。
(だからムジナモを見ると出世する?!)

羽生市でムジナモが発見されたのは大正10年のこと。
昭和41年には国の天然記念物に指定された。
羽生市唯一の国指定文化財でもある。

ムジナモは市内のどこに自生しているか?
三田ヶ谷の“宝蔵寺沼ムジナモ自生地”という場所だ。
さいたま水族館やキヤッセ羽生のすぐ近くにそこはある。

そんな貴重な場所を舞台に、自然観察会が開催される。
普段、ムジナモ自生地は立ち入り禁止のため、
見学する数少ないチャンスでもある。

そのチャンスは7月の毎週水曜日と、7月29日。
この機会にぜひ宝蔵寺沼ムジナモ自生地に足を運ばれたい。

<宝蔵寺沼ムジナモ自生地の自然観察会>
▽日 時  7月29日(日)午前11時~午後1時(花が見られる時間帯)、小雨決行、午前10時30分~受付開始
▽集合場所 三田ヶ谷農村センター(羽生市三田ヶ谷2277) 
▽費  用  無料 
▽持ち物  長靴 ※湿地のため足元が若干ぬかるんでいる。
▽対象・定員 小学生以上30名
▽申込み 7月20日(金)までに羽生市役所生涯学習課(058-561-1121 内線314)へ申込。

<宝蔵寺沼ムジナモ自生地の一般公開>
▽日   時  7月11・18・25日(水) 午前11時30分~午後1時00分
▽集合場所   三田ヶ谷農村センター(羽生市三田ヶ谷2277・事前申込み不要)
▽費   用  無料
▽持 ち 物   長靴
▽問合わせ   生涯学習課 048-561-1121(内線314)

※羽生市ホームページより
http://www.city.hanyu.lg.jp/docs/2018062900013/
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あの坂をのぼれば ―コトノハ―

2018年07月03日 | コトノハ
辛いとき。
苦しいとき。
暗いトンネルの中を歩いているようなとき。

もうダメだ、と思ったそのときこそ、
出口が目の前にあることを知らせている。
「夜明け前が一番暗い」という。
一番暗いそのときが、夜明けは近いのだ。

「あの坂をのぼれば」からのコトノハ。

  あの坂をのぼれば、海が見える。
  少年は、朝から歩いていた。
  (中略)
  もう、やめよう。
  急に、道ばたに座りこんで、少年はうめくようにそう思った。こんなにつらい思いをして、いったいなんの得があるのか。この先、山をいくつこえたところで、本当に海へ出られるのかどうか、わかったものじゃない。
  (中略)
  声は上から来る。ふりあおぐと、すぐ頭上を、光が走った。翼の長い、真っ白い大きな鳥が一羽、ゆっくりと羽ばたいて、先導するように次の峠をこえてゆく。
  あれは、海鳥だ!
  (杉みき子「あの坂をのぼれば」より)

杉みき子の「あの坂をのぼれば」は、
中学の国語の教科書に掲載された作品。
中学校の国語の授業で初めて読んだ作品として記憶している。

大人になって読み返しても全く色褪せていない。
中学生たちのこれからの未来を示唆している。

「坂」は青春そのものを表しているのかもしれない。
喜びもあれば苦しみもある。
越えなければならない坂はきっと現れる。
その先に広がる「海」は、自分の望む未来の象徴だろう。

ちなみに、青春を長い坂に例えたコトノハがある。
それは岡田奈々が唄う「青春の坂道」。

  青春は長い坂を登るようです
  誰でも息を切らし一人立ち止る
  そんな時君の手のやさしさに包まれて
  気持よく泣けたなら倖せでしょうね
  (松本隆作詞「青春の坂道」より)

辛いこともある。
苦しいこともある。
先が見えないことも多々ある。

でも、大切なのは坂道を歩き続けること。
そこから逃げ出さないこと。
先に進むから「海」がある。
逃げ出さずに歩を進めるから、やがて「海」に辿り着く。

前に進んでいるのか、後退しているのかわからないときもある。
そんなときは自分を信じるしかない。
例え周囲の言葉に心が揺れ動いても、決めるのは自分自身。
ただ、坂の途中に立ちはだかるのは、
自分自身かもしれないけれど。

心が挫けそうなとき、耳を澄ませてはどうだろう。
きっと聞こえてくる。
海が近いことを告げる海鳥の声を。
かすかな潮騒を。
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