クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

地獄の釜のフタはいつ開く? ―はにゅう詩情―

2014年07月31日 | 民俗の部屋
そろそろお盆を迎える。
夏の年中行事だ。
お盆前後で夏休みの彩りが全く違っていたのを覚えている。

幼い頃、お盆と言えば「親戚がやってくる期間」というイメージがあった。
実家は本家のため、親戚たちが線香をあげにやってきた。
だから、家では盆棚を兼ねた仏壇を整え、酒や料理を用意して、
足を運んでくる親戚たちを迎えたものだ。

むろん、やってくるのは親戚ばかりではない。
先祖たちも帰ってくる。
先祖の霊を迎え、盆棚ではランプの火が絶えることはなかった。

本来、お盆には先祖のほかに、無縁仏や新仏もやってくる。
無縁仏用の祀り方がそれぞれの地域であるが、
ぼくの家では特にそのような区別はなかった。
あくまでも先祖の霊を迎えるという意識だったと思う。

そんな夏の年中行事のお盆だが、
盆月の1日は特別な日となっている。
先祖や無縁仏、新仏が遠いところからやってくるのである。
だからこの日を“カマノクチアキ”“カマブタツイタチ”“カマブタアキ”
“地獄の釜のふた開け”などと言った。

地獄の釜のフタが開いて、霊たちが帰ってくるというイメージだ。
「釜」なのと、ちゃんと「フタ」が閉まっているイメージがいい。
早朝にナス畑やイモ畑に耳をつけると、
いろいろなものが聞こえてくるらしい。
すなわち、釜のフタが開く音や精霊たちの叫び声などである。

これは、関東地方一円のイメージだという。
「フタの開く音が聞こえたよ」と自慢めいて言う人もいただろうか。
旧暦7月1日がこの日に該当するが、
現在は8月1日が多いだろう。

ぼくはいまだこの日にナス畑やイモ畑で地面に耳を付けたことがない。
もし耳を澄ませたならば、何か聞こえてくるだろうか。
地獄の釜のフタが開いてお盆が始まる……
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菖蒲城は上杉謙信の攻撃を受けた? ―武州騎西城(51)―

2014年07月30日 | 城・館の部屋
菖蒲城は騎西城からやや南に位置している。
古河公方が騎西城を攻略し、ここに奉公衆佐々木氏を配置したとき、
同氏の一族の金田氏が菖蒲城を築いたという(「佐々木系図」)

騎西城、菖蒲城、種垂城の三城が、
古河公方勢力圏の前線に位置する重要な役割を担っていたと思われる。
現在菖蒲城に足を運んでも、石碑は建っているが遺構はない。
公園となっていて、憩いの場として親しまれている。

この城は上杉謙信の進攻を受けたことがある。
天正2年(1574)の秋、謙信は後北条氏に付く関東諸城に押し寄せる。
怒濤のごとく攻め、城下を焼き払った。
騎西城も攻撃を受けたし、忍城や松山城も例外ではなかった。

そんな嵐のような謙信の関東進攻のとき、
菖蒲城にも上杉勢が押し寄せたのである。
城下は焼き払われ、黒煙が天高く上ったことだろう。
しかし、城に籠もって堪え忍んでいたため、落城はしなかったようだ。
これはどの城にも当てはまることで、
上杉勢は火を放てど、敵と干戈を交えることはなかった。

そんな戦国の血生臭い空気は現在の菖蒲城にはない。
石碑がなければ、ここに城があったことは気付かない。
天守閣が建っているわけでもないから、
城や歴史に興味がない人は、普通に通り過ぎて目に留まらないのではないだろうか。

城から北へ行ったところに、大型ショッピングモールが建っている。
現代版のお城といったところか。
周囲には工業団地が建ち並び、道路も新しく敷設された。
そんな時代の変化が激しい中、
城跡に建つ石碑は静かに時を重ねている。


菖蒲城址に建つ旗本内藤屋敷門(埼玉県久喜市)
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昭和47年には羽生で何があった? ―子ども学芸員―

2014年07月29日 | 子どもの部屋
昭和47年に羽生で起こった主な出来事は以下の通り。

 3月、第二浄水場が完成。市営住宅旭町団地完成
 6月、羽生中央公園がオープン
 11月、東北縦貫自動車道 岩槻~宇都宮間が開通

ぼくの感覚では、
羽生中央公園が昭和40年代後半のオープンというのは意外な気がする。
50年代に入ってからのオープンの感覚でいたからだ。

小学生の頃は、陸上競技会や少年野球で中央公園へ行ったのを覚えている。
中学生になると卓球場が主な活動場所で、
高校生では試合のときだけ足を運んだ。
かつて、公園の目の前にバッティングセンターとゲームセンターがあって、
同級生がホームランをぶっ放していた。

ちなみに、昭和47年は上野動物公園でパンダが初公開となった年。
奈良県明日香村の高松塚古墳で壁画が発見され、
埼玉県では県立浦和図書館の1日図書館車が走り始めていた。
なお、埼玉医科大学が開校し、
旧北川辺町と旧大利根町を結ぶ埼玉大橋が開通している。
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羽生の“まわり地蔵”が再放送される?

2014年07月28日 | 民俗の部屋
NHKの「小さな旅」という番組で、
羽生市本川俣に伝わる“まわり地蔵”が取り上げられた。
このまわり地蔵は何かとメディアに出やすい。
羽生の興味深い風習の一つだろう。

お地蔵さまが各戸へまわる。
地域の人たちが背負ってまわるのだ。
そして家に滞在し、また別の家にまわる。
滞在期間は特に決められていない。
お地蔵さまがいたい分だけ滞在する、ということらしい。

そして、夏に1度だけ本川俣の“千手院”に戻るのだ。
この日はお寺にお地蔵さまが戻っているので、対面しやすい。
普段はどこの家にいるのかわからないお地蔵さまである。
お寺へ行ってお地蔵さまへお会いし、手を合わせることができる。

やさしいお顔をされている。
古くから地域を守ってきたのだろう。

そんなまわり地蔵を取り上げた「小さな旅」は、
8月2日(土)に再放送されるという。
時間が早い。
午前5時15分からの放送だ。
早起きは三文の徳。
お地蔵さまのご利益にあやかりたい。
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利根川沿いに広がる“松”はいくつあった? ―江戸時代の羽生―

2014年07月27日 | ふるさと歴史探訪の部屋
かつて、利根川沿いには松林が広がっていた。
田山花袋の小説『田舎教師』にも、「松原」の様子が描写されている。

上村君村(かみむらきみむら)の松は100本あった。
ところが、強風によって折れたり枯れた松が出てしまい、
天保15年(1844)当時は98本に減っていた。
弘化5年(1848)になると、代官へ奉納したり枯れてしまった松が出たため、
残り96本となった。
ほかに杉が5本、雑木が3本という内容だった。

一方、名(みょう)村では、安永8年(1779)当時、
利根川の堤に建っていた樹木は松と杉を合わせて376本立っていた。
かなりの数である。
なお、「二位殿権現社地」には、松が142本、杉が109本あったという。

具体的な数字が出ると、思い浮かべる風景も具体化するかもしれない。
美しい松並木が広がっていたのだろう。
しかし、何度となく行われてきた利根川引堤工事により、
松原の景観は跡形もなくなっている。
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多賀谷氏の館跡はどこにある? ―武州騎西城(50)―

2014年07月26日 | 城・館の部屋
羽生から国道122号を旧騎西町へ向かって行くと、
「寄居大橋」という交差点にぶつかる。
この辺りに“多賀谷館”があった。
大福寺を中心とした一帯がその範囲と言われている。

「寄居」という地名は、武者などが寄り集まった場所という意味があり、
城郭に関係している可能性がある。
「寄居大橋」は用水路に架かっていることから「大橋」の名が付いているが、
さりげなく多賀谷館の存在を匂わせていると言えよう。

この館には、多賀谷氏という一族が居館していた。
その後、下総の結城氏と関係を結び、騎西をあとにした。
これまで館跡の調査が何度か実施され、
武具の一部が出土している。

現在は「田ヶ谷」と表記される。
同地に建つ学校は「田ヶ谷小学校」である。
“タガ”とは高いところ、“ヤ”は低湿地を意味するという。
多賀谷氏は高いところに館を構え、
低湿地を自然要害としたのだろう。
ただ、館なので、城と比べると小規模なものだった。

騎西城から多賀谷館は北西に位置する。
戸崎城、道智館とそれぞれ近い。
ここも遺構を思わせるものは見当たらない。
ただ、大福寺の境内、旧騎西町で最古の板碑が意味深に建っている。
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夏休みに江戸時代の“新郷宿”へ足を運ぶ?

2014年07月25日 | お知らせ・イベント部屋
羽生市立郷土資料館において、
「日光脇往還・新郷宿展」が開催されている。
羽生市の「お知らせ版」7月号(№425)にその詳細が載っている。

上新郷地区には日光東照宮へ続く“日光脇往還”が通っており、
沿道には“本陣”や“勘兵衛松並木”などがあった。
その通りを北へ向かうと利根川にぶつかるのだが、
そこにあったのが“川俣関所”である。

そうした江戸時代における新郷宿に関する資料が展示されている。
完成したばかりの“日光脇往還ジオラマ”も展示しているから、
江戸時代の新郷宿の雰囲気もわかるだろう。

圧巻なのが、新郷第一小学校の児童が作った“廃段ボール製川俣関所模型”だ。
その名の通り、段ボールで作った川俣関所の模型である。
完成度が高い。
想像以上に大きい。
これを作ったことは、児童にとって大きな宝になるのではないだろうか。

展示開催期間は8月31日(日)までとなっている。
夏休みの自由研究の題材にもぴったりだろう。
この夏、江戸時代の新郷宿へタイプスリップして、
その空気を感じてみてはいかがだろうか。

<日光脇往還・新郷宿展>
日 時:7月20日(日)~8月31日(日)
休 館:毎週火曜
場 所:羽生市立郷土資料館(図書館と併設された建物)
入館料:無料

※最初の写真は、雪化粧した日光脇往還と新郷宿(埼玉県羽生市)
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道智氏の館跡はどこにある? ―武州騎西城(49)―

2014年07月24日 | 城・館の部屋
かつて道智氏という一族が館を構えて住んでいた。
鎌倉幕府の御家人で、『吾妻鏡』に「道智次郎」「道智三郎太郎」の名が見える。

その館跡は、旧騎西町(現加須市)道地に比定される。
成就院を中心に館は広がっていたらしい。
しかし、いま同地に足を運んでも、館跡を偲ばせるものは見当たらない。

「遠藤系図」によると、
道智二郎の妻が渡辺湛という者にかすめ取られるという事件が起こったらしい。
怒りに駆られた二郎は、家来7、8人を湛の館へ送り込む。
太刀・長刀を持っての打ち入りだから物々しい。
しかし、湛の親族の遠藤為俊がこれを防いだという。
なんとも現代にも通じそうな事件である。

道智館は騎西城から北西に位置している。
戸崎城と近い。
しかし、館跡を実感するのは難しい。
館跡を訪ねるときは、とりあえず成就院を目印にしても、
そこがゴールというには何となく心許ない。
つまらないダジャレが思い浮かぶが、
口に出さない方が身のためというものだろう。
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羽生の“ビアガーデン”がオープンした?

2014年07月23日 | お知らせ・イベント部屋
今年も羽生の“市民プラザ”でビアガーデンが開催される。
毎日開催されているわけではない。
7月18日・25日(金)
8月8日・22日・29日(金)
という日程である。

時間は午後5時30分~9時までとなっている。
屋上のせいか、わりと風が吹いていて心地良い。
羽生の夜景を眺めながら、涼をとってみてはいかがだろう。
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羽生道の駅に“上野駅”が誕生した? ―関口義明―

2014年07月22日 | ふるさと人物部屋
羽生の道の駅の敷地内に、
「あゝ上野駅」(井沢八郎唄)の歌詞が刻された碑が建っている。

なぜ上野駅を舞台にした歌の碑が羽生にあるのだろう。
実は、この曲を作詞した人物が羽生出身だからだ。
作詞者を“関口義明”という。
この石碑は、故関口義明氏を顕彰するものである。

羽生の川俣に生まれ、銀行に勤務する傍ら作詞活動をし、
昭和39年に手がけた「あゝ上野駅」が大ヒットしたという略歴と由来も、
碑の中に刻されている。
この曲の作詞者が羽生出身ということは、
地元でも知られていないかもしれない。

関口義明氏の顕彰碑は、平成26年3月に建立されたばかりだ。
「関口先生を偲ぶ顕彰碑建立実行委員」が主催となって誕生する。
碑の前にはボタンが設置されていて、
押すと唄が流れるシステムとなっている。

ただし、営業時間は午前8時~午後5時まで。
真夜中でも聞けるというわけではない。
羽生にまた一つ、郷土の人物を伝える文化的な碑が誕生したと言えよう。

関口氏は平成24年8月に亡くなっている。
天国からこの顕彰碑を見てどう感じているだろう。
もしかしたらこれに刺激を受けて、
新作「あゝ羽生道の駅」を作詞しているかもしれない。


羽生道の駅と顕彰碑(埼玉県羽生市)


川俣締切跡碑と顕彰碑
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物言わぬ“戸崎城址”に雪が降り積もる? ―武州騎西城(48)―

2014年07月21日 | 城・館の部屋
戸崎城は騎西城から北西に位置している。
現在、その跡地は田畑になっている。
諏訪神社と竜宝寺の付近に城があったとされる。

昭和14年頃まで土塁が現存していたが、
土地改良事業によって消滅したという。
戸崎氏という一族が住んでいて、
戦乱の激化と共に城郭化していったと考えられている。

ぼくが自転車で騎西城に通っていた頃、
行きか帰り道によく目にしていた。
正直に言って、何の知識も情報もなければ、
そこを見て「城跡」だなんて思わない。
遺構は消滅し、のどかな田園風景の一角に過ぎない。

雪の日、遠方から戸崎城を眺めたことがある。
一面の雪景色の中、諏訪神社が孤島のようにポツンと建っていた。
城が存在していた頃も雪は降ったろうし、
土塁も白く雪化粧しただろう。
いまとは全く異なる景色が広がっていたのかもしれない。

ちなみに、戸崎に住む知人がいる。
城のことを訪ねたらその存在を知っていた。
地域の人たちが知っているということは大切だと思う。
その心の中に、どのような城の姿が描かれているのだろうか。
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“羽生ってイイまち”で誰かに会える? ―はにゅう萌え―

2014年07月20日 | はにゅう萌え
2014年は、羽生市が市制施行してから60年にあたる年だ。
60周年を記念して、市勢要覧のダイジェスト版が発行された。
表紙にあるのは「羽生ってイイまち」。

教育・安全・育児・自然・生活環境・キャラクターといった視点から、
羽生市の魅力が紹介されている。
数字で見る羽生市や、四季折々の景色なども……

ペラペラ捲っていたら、思わず目が留まったページがある。
同級生だ。
高校以来会っていない同級生が載っていたのだ。

中学生のとき、塾で知り合った仲だった。
高校も別の学校だったのだが、
共通の友人がいたから何度か顔を合わせる機会があった。
しかし、密接な繋がりはなかったから、
卒業と共に接点がなくなる。

最後に会ったのはおそらく17歳のとき。
写真に載っている同級生は35歳か36歳。
すっかり大人である。
変わっていないと言えば変わってないが、
十代の幼さはすっかり消えている。

卒業して以来、どんな時間を過ごしてきたのだろう。
なんだか感慨深い。
同時に自分を省みてしまうのは、
やはり相手が同級生だからかもしれない。
写真で見る限り、元気で暮らしているようだ。

このダイジェスト版は、市内の大型ショッピングモールの2階でも頒布している。
いろいろな人が載っている。
同級生以外に知っている顔もいくつかある。
ページを開けば、懐かしの再会があるかもしれない。
羽生の魅力がギュッと凝縮された1冊である。
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騎西城主は“種垂”に隠居する? ―武州騎西城(47)―

2014年07月19日 | 城・館の部屋
種垂城(たなだれじょう)は騎西城から南西の方角にある。
現在、城のある地域は「種足」と書くが、
城は「種垂城」と表記される。

城跡の一部は公園になっている。
周囲は田園風景が広がり、
そこに城があることを知らなければ通り過ぎるだけだろう。

佐々木氏のあと、種垂城主小田顕家が騎西城へ移る。
そして忍城主成田氏から婿養子をもらい、家督を譲ると、
種垂に隠居した。
城ではなく、百石耕地という場所に隠居したという。
顕家の墓碑は雲祥寺に現存している。

種垂はかつて伊賀光清の所領の一部であり、
日蓮宗の道場のある村だった。
そのような場所に城が建つのは、歴史の自然の流れだったのかもしれない。

種垂城も、騎西城から徒歩で行くにはやや遠いが、
自転車ならばさほど苦ではないだろう。
車ならあっという間だ。

騎西城から種垂城へ向かったならば、
併せて菖蒲城もおさえておきたいところ。
ただ、種垂城も菖蒲城も公園となっていて、
城をイメージさせるものはない。
天守閣はなく、いずれも砦のような城だったのだろう。
城跡を示す石碑は大げさに自己主張することなく、
物静かに佇んでいる。
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羽生の夏祭り前にカブトムシは取れない? ―子ども学芸員―

2014年07月18日 | 子どもの部屋
長い間、羽生の夏祭り前にカブトムシやクワガタは取れないと思っていた。
小学生の頃、里山に入って虫取りをするのが夏の恒例の遊びだったが、
その開始時期は決まって夏祭りが終わったあとだった。

というのも、里山に行っても一匹も見付けられなかったからだ。
夏祭りへ行くと、カブトムシを売っている露天商があって、
「あ、ほかのところにはもういるんだ」と思っていたものだ。

ところが、35歳の今夏、羽生市内にあるクヌギを見に行くと、
なんとカブトムシがいるではないか!
クワガタもいる!
カナブンもいるし、名前も知らない蝶も飛んでる!

思わず興奮したことは言うまでもない。
長年の持論が崩壊した瞬間でもあった。
ぼくが少年だった頃と環境が変わったのか、
それとも元から夏祭り前から活動していたのかは定かではないが、
今年もカブトムシやクワガタと出会えたことは嬉しい。

捕まえることなく、そのままそっとクヌギから離れる。
樹木がどんどん伐採され、
虫たちにとっては住みにくい環境なのかもしれない。
だから、カブトムシを見付けても、取ることに抵抗感を覚えるようになった。
容赦なく捕まえていた少年時代の自分が羨ましい。

ところで、ぼくらが少年だった頃、
劇場版の「ドラえもん」は環境問題をテーマとするものが多かった。
そのせいか、里山や屋敷林の消滅に心を痛めていたものだ。
だから、いまの子どもたちも虫取りを楽しみながら、
自然環境について考えるきっかけになってほしいと思う。

発展することが悪いということではない。
かと言って、自然を無視した開発は必ずしっぺ返しがやってくる。
自然とどう付き合っていけばいいのか、
考えながら行動に移していくのが大切なのだろう。

すぐに結論を出せる問題ではない。
考え続けなければならない。
果たして、未来の環境はカブトムシたちにとって住みやすくなっているだろうか?
つぶらな瞳をしているカブトムシやクワガタたちは、
いまを生きるぼくらに何を訴えかけてくるだろうか?
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油井城は上杉謙信の猛攻を受けた? ―武州騎西城(46)―

2014年07月17日 | 城・館の部屋
油井城は、騎西城から東の方角に位置している。
騎西城が上杉謙信に攻められたとき、
油井城も猛攻を受け、落城したという。
騎西城に鐘を打ち鳴らして緊急を知らせたことから、
「鐘撞山」とも呼ばれている。

騎西城と油井城の間には田んぼが広がっている。
鐘を打ち鳴らせばよく響くかもしれない。
上杉勢の猛攻を受けたとき、ここも阿鼻叫喚と化したのだろうか。
現在はのどかな田園風景となっていて、
攻撃の激しさを偲ぶのは難しい。

騎西城から油井城まで、徒歩で行けなくはないが距離は感じるだろう。
車ならばあっという間だ。
自転車だとちょうどいい運動になるかもしれない。
油井城の近くには油井ヶ島沼が横たわっていて、
ちょっとした憩いの場所になっている。
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