クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

芹沢氏が北条氏照へ送った薬の呑み方は? ―おうち戦国―

2021年02月23日 | 戦国時代の部屋
おうち時間、資料を介して訪ねる戦国時代。

戦国時代、古河公方の家臣で医療に精通していた芹沢氏という一族がいました。
薬を調合し、公方へ進上。
公方の奉公衆である芳春院周興(季龍周興)は「芹沢土佐守」に宛て、
「仍御薬如毎春送給候、目出度存候」と述べており、公方の信頼を得ていたようです(「芹沢文書」)。

公方だけではありません。
真壁氏や結城氏といった国衆からも薬を所望され、送っています。

また、戦国大名北条家も芹沢氏と接点を持っていました。
あるとき、芹沢氏は2種類の丸薬を北条氏照に送付。
これに対し、氏照は芹沢氏に次の書状を送っています(「同」)。

 来翰披閲、特丸薬両様三包到来、祝着之至候、白血薬幷万病円、何々之煩ニハ呑汁以何用候委細、被書立可給候、関宿普請取乱之間、委曲自是可申候、恐々謹言
   五月十七日            氏照(花押)
    掉雪斎
      回章

宛所の掉雪斎は芹沢定幹の号で、
前半が薬のこと、後半は関宿城の普請について述べられています。
氏照は、白血薬と万病円の薬に対し、
どんな患いに対し、どのような呑汁をもって服用すればわからなかったようです。
そこで、詳細を書いてほしいと芹沢氏に伝えているのです。

これと似ているわけではありませんが、僕も覚えがあります。
素人は、薬剤名や病名を耳にしてもよほど知られていない限りわからないものです。
その薬が何なのか、その病気はどのようなものなのか……

医師によっては、言葉少ない先生もいます。
病名を言い、次に来診する日にちを言って終了。
医師が不親切なわけではなく、毎日たくさんの患者を診ているため、
自然と簡略化しているというのもあるのでしょう。

なので、こちらも聞いておきたい項目をあらかじめ用意しておく必要があります。
うかうかしていると、心配や不安を抱えたまま診察室を出ることになります。
医師を信頼すればこそ、短い時間でコミュニケーションを図りたいものです。

戦国期の芹沢定幹が、言葉少ない医師だったのかどうかはわかりません。
専門家にありがちですが、相手が自分と同等の情報を持っていることを前提に話をしたり、
薬を送ることもあったかもしれません。
あるいは送り届けた者が口上下手で、うまく伝えられなかったこともあるでしょうか。

北条氏照も芹沢氏に信頼を寄せていたはずです。
丸薬3包が到来したことに対し「祝着の至りに候」と記す北条氏照は、
戦国武将というよりも、体を気遣う現代人と変わらない1人の男として透けて見える気がします。
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関東の名医“田代三喜斎”は公方の要請を受ける? ―おうち戦国―

2021年02月21日 | 戦国時代の部屋
気落ちしています。
つらくないと言えないのがつらく感じます。

医療は日々進歩しています。
戦国時代、「関東の名医」と賞された“田代三喜斎”という医師がいました。

庵号“江春庵”を名乗り、天文6年2月19日に亡くなった医師です。
この人物は古河公方の家臣でもありました。

あるとき、足利晴氏へ「清円神仙」という薬草を届けています。
ちょうどこの頃、晴氏の祖父足利政氏の病が再発。
そこで、晴氏は田代三喜斎を呼び戻し、
治療に尽力するよう要請しています(『秋田藩家蔵文書』)。

 梱切被申候、殊清円神仙到来、喜入候、然而其方無際限煩口惜候、仍茎(久喜)之 上様御再発之節候、急度有帰参御療養之事被走廻候者、可然候、猶尚可被存其旨候、恐々謹言
    六月六日              晴氏(花押影)
      三輝(喜)斎

田代三喜斎に対する公方の信頼は厚かったようです。
久喜(埼玉県久喜市)にいる祖父の様子を心配する心情もうかがえます。

この文書は年が未詳です。
政氏は享禄4年(1531)7月18日の死去のため、それ以前であることは間違いありません。
とすれば、父高基が健在だった時代であり、
まだ公方の地位を確固としていない時期の要請ということになります。

「関東の名医」こと田代三喜斎は、どのような治療を施していたのでしょう。
レントゲンや心電図などのなかった時代です。
それでも彼の調合した薬は効果絶大だったかもしれません。

新型コロナウィルスに関するニュースが絶えることのない日々です。
ウィルスに限らず、病になった人、ケガをした人は身近に少なくありません。
想定していなかった体の異変に見舞われることもあります。
不安もまた絶えることがなく、押し潰れそうになるとはよく言ったものです。

強いストレスを緩和させようとしても、立ちはだかる新型コロナウィルス。
もし田代三喜斎がいたら、こんな時代にどんな療養をはかるでしょうか。
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天正11年、洪水で古河公方の姫も避難した? ―おうち戦国―

2021年02月18日 | 戦国時代の部屋
おうち時間、資料を介して訪れる戦国時代。

天明3年(1783)の浅間山の噴火により利根川の河床はあがり、
洪水の発生率が上がるようになりました。
もちろん、それ以前に洪水が皆無だったわけではありません。
戦国時代にも洪水は起こっています。

中でも、天正11年(1583)の洪水は大きな被害をもたらしました。
関東の将軍こと古河公方の御座所古河城(茨城県古河市)も大水に見舞われます。
足利義氏の娘である氏姫は、川が満水になる前に栗橋城(同県五霞町)に避難。
が、城は大水に持ちこたえられそうもなかったのか、
「新堤」を切るという手段を採っています。

また、古河城近辺の堤をはじめ、関宿、高柳、柏戸などで破堤しました。
「新堤」も押し切られ、交通も遮断。
猿島もまた冠水に見舞われ、此度の大水は20年以来の規模だったと、
古河公方家の奉公人たちは8月8日付で北条氏照に報告するのでした(「喜連川文書」)。

 (前略)一、此度洪水、当口之儀廿ヶ年巳来無之由候、栗橋嶋之御事、御堅固候、満水已然向栗橋へ、御姫君様被移御座候、奇特之御仕合、布美被走廻候、(中略)御当城之儀、堤涯分雖相拘候、大水之間、不及了簡、新堤押切申候、(中略)近辺之堤共始、関宿・高柳・柏戸、其外悉切候、不大形洪水、郷損不及是非為体候、幸嶋之事、野水近年無之大水之間、同前之由申来候(後略)

この文書では、具体的な河川名は記されていません。
ただ、登場する地名から、利根川や渡瀬川、思川などが氾濫したことが推測されます。
もし上空から古河城を中心に見下ろせば、
広大な湖が出現したような光景だったのかもしれません。

このときの民衆の動きは不明です。
「郷村」も被害を受けており、
民衆は避難生活を余儀なくされたはずですが、その具体的な情報は見えないのです。
高台に避難するか、あるいは氏姫のように別の場所へ移ったのでしょうか。

現代ならば、自衛隊による救助活動があります。
仮に、天正11年当時に救援部隊があったとしても、
交通は遮断されており、現地へ赴くのも困難だったでしょう。
記録には書かれていない大きな被害があったことは言うまでもありません。

災害は忘れた頃にやってくると言います。
もちろん、忘れているわけではなく、
災害の教訓を生かして備えに力を注ぎます。
中世においても同様で、先の資料に見える「新堤」からは、
事前に大水に備えて堤を築いていたことがうかがえます。

しかし、それを上回る災害が起こることはしばしばです。
天正11年の大水では、新堤を自ら切るという手段を選ばなければなりませんでした。
苦渋の決断だったかもしれません。
氾濫した川は、人々の事前の備えを無常に流したことでしょう。

※最初の画像は栗橋城(茨城県五霞町)
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銚子へ行ったつもりの海鮮丼 

2021年02月16日 | グルメ部屋
千葉県銚子市は海の町で、利根川の果てにある地域です。
銚子漁港や銚子大橋をはじめ、
川口神社、犬吠埼、千人塚、高崎藩陣屋址、君ヶ浜など、
その地域を特徴づけるものがたくさんあります。

海のない北埼玉に住む者にとってそこは別世界。
漁港にとまるたくさんの漁船、その上で働く漁師たち、
対岸には鹿島コンビナートや風量発電所が見え、
飛び交うカモメと夜になると光る灯台は、海のない町では見られないものです。

春になると行きたくなります。
銚子を知るのに、早朝の姿を目にしなければならないのでしょう。
しかし、予断を許さない新型コロナウィルス。
PCに残っていた前に撮った写真で、訪れたつもりになる銚子です。

銚子は水揚げ量が全国1位で、
漁港には魚料理が食べられる店が軒を連ねています。
何の情報もなく入ったお店は外装が蔵造りで、中は居酒屋風になっています。

注文した海鮮丼は、埼玉県羽生市では鰻重が食べられる値段でしょうか。
銚子なので、鰻ではなく海の幸が酢飯の上に乗っています。
マグロ、カツオ、ブリ、エビ、なめろう、イワシ、生シラスなどなど。

びっくりするのはその大きさです。
大人男性が1口入れるのがやっとの大きさで、かなりのボリュームです。
しかも新鮮。
その日に水揚げされたばかりなのだとか。

ご飯を大盛にせずともお腹がいっぱいになりました。
新鮮でおいしい魚が食べられるのも、銚子の大きな特徴でしょう。

2002年、せっかく銚子に来たのに、
ひどく傷心でどこかの総菜でお昼を済ませたことがあります。
あれは若さゆえだったと思います。
傷心だからこそおいしいものを食べればよかったのに……。

何度となく銚子を訪れていますが、過ごす時間帯は限られており、
まだまだこの町のことを知らないのだと思います。
知らないおいしいグルメもたくさんあるはずです。

新型コロナウィルスの影響により、休業しているお店も少なくないでしょうか。
日帰り温泉にも入れないのかもしれません。
君ヶ浜でぼんやり海を眺めていた数年前、
まさかこんな事態になろうとは想像もしていませんでした。
海は何も変わらなく見えるのに、時代は刻一刻と変化しているようです。
コロナが落ち着いたら、おいしい魚料理に舌鼓を打ちながら、
利根川が注ぐ銚子の海を眺めていたいものです。
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明和町の“江黒古墳”は近くて遠い?

2021年02月13日 | 考古の部屋
中学生のとき、利根川で一緒に過ごす同級生たちがいました。
自転車を河原にとめ、集めた流木で火を焚き、打ち上げるロケット花火。
川は音もなく流れ、頭上から降り注ぐ雲雀の声。
川ではときどき魚が飛びはね、1度だけ大群のハクレンが壮大なジャンプを繰り広げていました。

河原で多くの時間を過ごしたのに、ついに一度もしなかったのは水泳です。
川の中に入るとしても、膝まででストップ。
それ以上奥へは入りませんでしたし、
僕らの関心はどちらかと言えば水源や川の果てだったかもしれません。

僕らが遊んだ利根川の河原は埼玉県羽生市で、
その対岸は群馬県明和町になります。
対岸は高い土手が連なっているため、河原からでは町の様子は望めません。
強いて見えたのはおそらく会社の看板の一部で、
全くの無関心ではありませんでしたが、
僕らは自転車で館林市へ行くことはあっても、なぜか明和町へ向かうことはなかったのです。

したがって、中学生の僕らにとって明和は遠い町だった気がします。
目の前にあるのに、その前に横たわるのは坂東太郎。
浅瀬はなく、泳いで渡るほどの熱もありません。
むろん、往古のように渡し船があるはずもなく、
自転車で行くには昭和橋か埼玉大橋まで行かなければなりませんでした。
前者は当時歩道がなく、後者は隣町。
中学生の僕らには、明和町は近くにあって遠い町だったのです。

だから、明和町の“江黒古墳”も遠い古墳になります。
ちょうど、東北自動車道の近くに所在しているので、
中学生の僕らが利根川の河原から自転車で行くには大きく迂回しなければなりません。

当時、江黒古墳を知っていたわけではないし、
対岸の永明寺古墳(埼玉県羽生市)も蚊帳の外でした。
「古墳」や「城」といったものは、社会の授業に限定されており、
身近なものとは捉えていなかったのです。

江黒古墳は円墳で、住宅や会社の中に隠れるようにあります。
直径10mで、高さは3m。
墳頂には稲荷神社が祀られており、だからこそ現存しているのでしょう。
この古墳は町の史跡に指定され、その説明板も建っています。
7世紀後半の築造と考えられているようです。

ところで、現在は利根川の北側に存在する江黒古墳ですが、
往古はどうだったのでしょう。
利根川の流れは複雑で、時代によって流れを変えています。
そもそも、羽生―明和間を流れていなかった時代もあるくらいで、
谷田川を本流とする時期もあったことが考えられています。

とすれば、僕らが遊んだところから、
江黒古墳の建つ地域までは簡単に行くことができます。
川が皆無ではないにせよ、僕らを阻むほどの大河ではなかったかもしれません。
(江黒古墳築造の頃は、現在の明和―羽生間に利根川の流れはあったようですが)
現在は消滅している旧河道もわずかながら確認できることを考えれば、
現在我々が目にしているものとは全く別の光景が広がっていたはずです。
中流域においては、川の流れを読むことも歴史を解く一つのカギになるということでしょう。

出会いというのはタイミングがあります。
存在を知ったとしても、関心を持つかはまた別です。
もし、中学時代に江黒古墳に出会ったとしても、興味は覚えなかったかもしれません。
僕らの話題の中に「古墳」が出てくることも皆無でした。

ただ、利根川の河原で対岸を望んだときを過ごしたから、
大人になって川や流域の歴史に目を向けるようになった気がします。
いまでも利根川の果てに足を運びますし、
夏になれば大水上山も射程に入ってきます。
思春期に影響を受けたものは、その後の人生にも大きく関わっていくのでしょう。

江黒古墳は高速道路に架かる陸橋の近くにあります。
コンビニの南側で、注意深く見なければ気付かないかもしれません。
中学時代から遠く離れたいま、江黒古墳は簡単に行くことのできる場所です。
車で橋を渡れば利根川も何のその。
ただ、少年時代の「冒険」からはかけ離れているのでしょう。
大人になれば知的冒険で盛り上がることはできます。
が、利根川の河原ではしゃいだあの頃の感性はもはやありません。
悠久の歴史の流れの前では、14歳の僕らの時代はほんのひと時であり、
ロケット花火のように儚いものです。


江黒古墳(群馬県明和町上江黒)
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太宰治が訪れた群馬県の温泉街は?

2021年02月12日 | ブンガク部屋
何をやってもうまくいかないことがあります。
頑張っても空回り。
届く知らせは気持ちを重くさせるものばかり。
そういう“谷”のような期間が、人生には多かれ少なかれあると思います。

太宰治が群馬県水上を訪れたのは昭和11年のこと。
パビナール中毒と肺病の療養を兼ねて谷川温泉を訪れるのですが、
太宰にとってちょうどこの頃が一つの谷だったようです。

本来ならば、同地に吉報が届くはずでした。
芥川賞の受賞。
太宰は受賞を確信していたのです。
それによって過去を清算するばかりでなく、
借金を抱えていた彼は賞金をあてにもしていました。

ところが、まさかの落選。
宿泊先の川久保屋(現「旅館たにがわ」)でその知らせを受け、
失意の底に叩き込まれます。
あまつさえ、怒りも湧き起こったらしく、
選考委員だった川端康成を攻撃する文章も執筆。
昭和11年8月のことです。

同年10月、妻の小山初代が友人の小館善四郎と過ちを犯します。
ちょうどそのとき、太宰は精神科の病院に入院したばかりでした。

タイミングは重なるものです。
小館は自殺未遂によって別の病院に入院しており、
たまたま初代がその看病をすることになったときに過ちが起こるのです。
太宰が健在で、かつ小館を看病しなければ平穏だったかもしれません。
太宰にとってこれも一つの谷です。
彼がその過ちを知るのは翌年3月ですが、
知らないところで谷は深くえぐられていたことになります。

翌月になると、青森から長兄が上京。
生活費の送金は昭和14年10月30日までとし、3年間は会わないと約束をさせられてしまいます。
当時、太宰は28歳で、現代人の感覚ならばさほど同情心は起きません。
が、彼にとっては絶縁状を突きつけられたようなものだったのでしょう。
そのとききっと思ったはずです。
もし芥川賞を受賞していれば……と。

太宰治小山初代と再び水上の川久保屋を訪ねたのは、
昭和12年3月のことです。
妻と友人の過ちを知った太宰は、谷川岳山麓で自殺を図るのです。
首に帯をくくり付け、カルモチンを多量に服薬。
昏睡し、谷へ転げ落ちる衝動で縊死も図ったようですが、結局は失敗に終わります。
太宰は初代を残して一人帰り、離別を決意したのでした。

自分の経験や起こった事件が「ネタ」になるのは、
物書きの良いところであり、悲しいことかもしれません。
太宰は、水上での自殺未遂事件を「姥捨」というタイトルで小説にしています。
昭和13年8月に版元へ送付。
同年10月には「新潮」に掲載されました。

 水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの陰に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起こした。(「姥捨」より)

「姥捨」には具体的な地名が登場します。
自殺を図り、目を覚ましたあとのことが具体的に描かれ、眉を顰める読者もいるでしょう。
そして、太宰は書きます。

 そのとき、はっきり決心がついた。
 この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。ひとから、なんと言はれたっていい。おれは、この女とわかれる。(「姥捨」より)

水上での自殺未遂事件が本当かどうかはわかりません。
実際にあったとして、その後安定期を迎えることを考えれば、
自殺未遂事件は谷から次のステージへ進む通過儀礼と言うことができそうです。

さて、太宰治が実際に宿泊した「川久保屋」は現在も経営を続けています。
さすがに昭和11、12年当時の建物ではなく、
その名も「旅館たにがわ」に改名されています。
ただ、旅館内に太宰治の展示室が設けられており、
資料を通して当時を偲ぶことができるでしょう。

ところで、人生の谷を抜けたあと、太宰はいわゆる安定期である中期に入ります。
石原美知子と結婚し、家庭を持つのです。
中期に書かれた作品は明るく、それまでの尖がったものが丸くなった印象を受けます。
やまない雨がないように、やがては谷から抜ける日が来るということでしょう。

しかし、太宰は安定した暮らしをも自ら壊していくことになります。
それがこの作家の性だったのかもしれません。
失意を抱えて谷川温泉で過ごす日々の向こうには救いがありましたが、
その約10年後の昭和23年に玉川上水へ飛び込んだ太宰は、
息を吹き返すことはなかったのでした。
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逆井城に入った‟北条氏繁”が呼んだのは?

2021年02月11日 | 城・館の部屋
歴史好きの息子を持つ先輩から、
北埼玉の近くでおすすめの城はどこかと訊かれたとき、「逆井城」と答えたことがあります。
すると、先輩は息子を連れて逆井城を探訪。
後日、「とってもよかったよ」と感想を述べてくれましたが、
当時小学生高学年の息子さんの心の琴線に触れたかどうか、少し不安になりました。

とはいえ、逆井城址は平城の史跡公園としては理想の形に近いと思います。
茨城県坂東市にある逆井城。
別名飯沼城とも呼びます。
文献に登場するのは後者で、飯沼城=逆井城とするのは疑問を持たれていましたが、
数度にわたる発掘調査によって同一視されるようになりました。

土塁や堀が現存するほか、二階櫓や井楼矢倉、土塀や木橋などが復元されており、
遺構の迫力はもとより、ビジュアル的にも楽しめる史跡公園です。
かつて関宿城にあった城門が移設されており、その奥には大台城の主殿が復元。
一部の建設物は逆井城に存在したものではありませんが、
綿密に時代考証がなされており、日本の中世を感じるのに不足はないでしょう。

戦国時代後期、かつて羽生城(埼玉県羽生市)を攻めたことのある北条氏繁は、
後北条氏の北関東進出のため逆井城(飯沼城)へ入城しました。
氏繁が築城したのではなりません。
元々城があり、そこへ入ったのです。

しかし、逆井城はいわば前線基地のようなものです。
後北条氏に敵対する佐竹氏や太田氏も健在であり、
眼前には反北条の下妻城主多賀谷氏もいます。
そのため城の改修工事が必要だったのでしょう。
その一端として、氏繁は藤沢の大鋸引(おがびき)頭の森木工助(もりもくのすけ)に対し、
大鋸引2組を要請しています(「森文書」)。

 当城取立候処ニ、是非不申越候、一段無曲候、仍新地与云、無際限用所候、此時ニ候之間、大鋸二絃、一刻も早々可借候、爰元於本意者、当口之大鋸、其方ニ可申付候条、惣別一廉可走廻事、尤ニ候、仍如件
   十月廿二日        氏繁(花押)
     森木工助とのへ
 
この判物は天正5年(1577)に比定されています。
森氏は工匠の棟梁で、かつては北条氏康からの要請を受けて仕事をしたこともありました。
逆井城に入ったばかりの氏繁は多くの任務を抱えており、
一刻も早く大鋸引2組を借りたい旨が伝えられています。

当時、城の北側では広大な飯沼が横たわっていました。
現在とは全く別の光景が広がっていたはずです。
氏繁は城に立ち、何を想ったでしょう。

氏繁は城の縄張りを拡大させ、堀や土塁を新たに設け、整備したと考えられています。
かつて公園の外側にも空堀があったそうです。
それが事実なら、城の縄張りはもっと広かったことになります。
北関東進出の拠点として、着々と整備したことが想像されます。

そんな氏繁は同地で死去。
城の整備を終えたばかりの死没と見られています。
北条氏康や氏政に比べると知名度はいささか薄いかもしれませんが、
後北条氏の勢力伸長に一役買った人物でした。

現在の逆井城址は、茨城県指定史跡となっています。
先述のとおり、城址は史跡公園として整備されており、
復元された建造物も少なくありません。
無料で入園できることに気が引けるくらいです。
春に訪れたことはありませんが、
園内には桜の木が多いので、季節が訪れれば満開の花で彩られるのでしょう。

城の遺構も現存し、復元された建造物のある逆井城址。
子どもでも、歴史が好きなら心に訴えるものがあるかもしれません。
先輩に勧めたのは、遺構のほかにわかりやすい建造物があるからで、
また地域学習として充実した場所というのもあります。

あれから何年も経ちました。
先輩の息子ももう成人に近い年齢になっていると思います。
さすがにもう父親と城址を訪ねることはないのかもしれません。
でも、子どもの時分に父親と一緒に城址へ行くなんて素敵なことですね。
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群馬県みなかみ町に太宰治のギャラリーがある?

2021年02月09日 | ブンガク部屋
かつて太宰治が宿泊した「旅館たにがわ」(旧「川久保屋」)を訪ねたのは、
幼なじみのS君とぶらり旅をしたときのことです。

当時の僕たちは、水上を訪れた太宰のように人生の谷だったわけでもなく、
むろん、そこで事を起こそうとしていたわけでもありません。
「旅」と言っても日帰りの無計画で、
利根川の上流へ行ったついでに「旅館たにがわ」へ足を伸ばしたのです。

同館の一室には太宰治のギャラリーが設けられています。
展示されているのは、太宰関連書籍や小山初代・山崎富栄の写真など。
太宰が宿泊した当時の部屋も再現され、彼が使ったという定期券もあります。
再現されたその部屋に太宰と小山初代を重ねれば、
きっとそこで書かれた作品を読みたくなるでしょう。

そんなギャラリーでS君が気になるものを発見しました。
それは、当時中学生の村田一真君が書いたレポートです。
原本をコピーしたもので、閲覧も可能となっています。
ぺらぺら捲ってみると、
『走れメロス』の主人公メロスの走るスピードを検証するというユニークな視点での論考でした。

作中では、メロスはボロボロになって走り続けている描写です。
が、意外にもそうではないという結果が……。
結びに、「「走れメロス」というタイトルは、「走れよメロス」の方が合っているなと思いました」という筆者の感想が述べられています。

さすが、展示されるだけのことはあるレポートです。
調べてみると、賞を受賞した作品のようです。
そのような作品をさりげなく展示している「旅館たにがわ」もぬかりなく、太宰愛を感じます。

ところで、S君の書く作文もユニークだったのを覚えています。
小学生の頃、文集に載った彼の作文に、他校から多くの感想文が寄せられたものです。
僕も含め、ありきたりの題材で書く同級生が多数だったのに対し、
彼が選んだモチーフは「ものもらい」。
しかも、3度目のものもらいになった体験を作文に綴っていました。
初めてではなく、3度目という点も大きなポイントでしょう。

人の目に留まるのは、その人のセンスです。
文章で言えば、何を題材に選ぶのかもセンスになります。
文章が優れていることも立派な特技ですが、人を立ち止まらせるのは、
やはりこれまでなかったものを取り上げることがその一つだと思います。
例えありきたりの題材としても、料理の仕方によって全く別物になれば、
人は目を向けるものです。

メロスの走る速度を検証する村田君の視点もセンスが光っています。
このセンスについては、努力してどうにかなるものではないのかもしれません。
基礎は必要です。
が、その先へ抜きんでるには、
その人の生まれ持った才能や性格、環境によるものが大きい気がします。

中学時代の夏休み、同級生たちと葛西用水路沿いの道をひたすら下ったことがありました。
そのことを夏休みの宿題で書いたT君がいました。
一方、僕は何の変哲のない作文を書いて提出。
むろん、面白いと国語教師に感心されたのは彼の作文です。

僕にとって、この記憶は戒めの一つとして残っています。
全く同じ体験をしたのに、そのことを書いたT君。
そして、それを選ばなかった自分。
何をどう書こうとその人の自由です。
でも、このことは大人になったいまも教訓として胸を突くことがしばしばあります。

S君にしろ、T君にしろ、日常生活においてもセンスが光っていました。
一緒にいてたくさん笑ったのは、面白いことをいつも言っているのではなく、
彼らのセンスが光っていたからなのでしょう。
「旅館たにがわ」では気付きませんでしたが、
村田君のレポートはかつてのS君の作文と同じ匂いだった気がします。

S君の母親も、友だちに頼まれて書いた作文が賞をとることがしばしばあったそうです。
聞けば彼の長女も読書好きで、川向こうへ自転車で遠征して本を買うとのこと。
光るセンスはきっと遺伝しているはずです。

太宰治もまた、センスを持つ作家だったと思います。
作品や手紙のみならず、太宰を知る人の回想文を読むと、
発言の一言一句が光っているように感じてなりません。
きざと言えばきざですが、それを口にできるのもセンスあってのことのはずです。

あの日、僕たちは太宰治ギャラリーを堪能したあと、
お土産を買って「旅館たにがわ」を去りました。
思い出に、同館を背景にして写真をパチリ。
三脚がないので、S君にシャッターを押してもらいます。
カメラ越しでも、丸顔の僕は太宰治に似ても似つかず、
どちらかと言えば、細面のS君の方がそれっぽく見えた気がします。
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宣教師が目にした本能寺の変と明智光秀

2021年02月08日 | 戦国時代の部屋
歴史が好きでなくても多くの人が知っている「本能寺の変」。
天下統一を目前にしながら、家臣明智光秀の裏切りによって果てる織田信長は、
人生の幕引きも強烈なインパクトを与えます。

30代のはじめ、本能寺の跡地を訪ねたことがあります。
その名が広く知られているにも関わらず、信長が最期を遂げた場所は閑静な住宅街になっており、
石碑がポツンと建っているだけでした。
信長と共に寺も焼け落ちたのですから、当然と言えばそうかもしれません。
本能寺はのちに別の場所に移されますが、
明智光秀が襲撃した場所は住宅街になっています。

山科言経が記した日記『言経卿記』によれば、
光秀が本能寺を襲撃したのは「卯刻」、すなわち午前6時頃のことでした。
夜の襲撃のように描くドラマもありますが、だいぶ明るかったようです。
また、本能寺の変に参加した明智方の本城惣右衛門が語るところによれば、
信長は白い着物(寝巻)を着ていたということです。

襲撃する明智軍に対し、信長自身も戦っています。
太田牛一の『信長公記』によれば、弓のあとに鑓を手にして奮戦。
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、薙刀で戦ったことが記されています。
いずれも信長の負傷を伝えていますが、前者は鑓傷、後者は銃弾を受けたとあり、
微妙に情報が異なります。
いずれにせよ、信長は臆することなく最後まで戦ったということなのでしょう。

本能寺近くの教会にいた外国人宣教師は、
銃声を耳にし、本能寺からあがる火の手を目撃しています(『日本史』)。
きっと、物々しい空気に包まれていたはずです。

フロイスが捉える明智光秀の人物像は、
裏切りや密会を好み、独裁的で残忍な性格の持ち主としています。
そのため、京都にいた宣教師たちは、
本能寺を襲撃した明智軍は京都を荒らしまわり、放火するのではないかと憂いていたと記しています。

むろん、そのような暴挙はありませんでしたが、
フロイスは光秀の謀反を野望説と捉えていたようです。
自分が天下に号令するために信長を討つ。
それは、葛藤を抱えつつも暴走する信長を止めるというのではなく、
「利欲」と「野心」によって実行に移した。
そう捉えるフロイスは、光秀は単なる主君殺しでしかなかったかもしれません。
そこには、政治的・信仰的感情も含まれていたと思いますが……。

実際のところ、光秀の動機については諸説あります。
光秀自身は何も語っていないため、謎は謎を呼ばざるを得ません。
包囲した本能寺の前で、彼は何を見ていたのでしょう。
「是非に及ばず」と言った信長の真意は何だったのでしょうか。

色々と、往古に想いを馳せたいところですが、
本能寺跡は閑静な住宅街になっています。
碑が建っていなければ、そこが日本史上よく知られた場所とは気付かないかもしれません。

ところで、大河ドラマ「麒麟がくる」は令和3年2月7日に本能寺の変が描かれました。
年末のような感覚にさせられますが、まだ年は始まったばかり。
描かれた本能寺の変で、全国各地だいぶ盛り上がったと思います。
が、僕のところでは突然何の反応も示さくなったSDカード。
撮りためた写真を見ることができません。
灰燼に帰した本能寺を前にするように、呆然自失しています。
コメント (5)
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“北条氏直”の成人の通過儀礼は? ―おうち戦国―

2021年02月06日 | 戦国時代の部屋
羽生市の広報「Hanyu」2月号は、晴れ着姿の新成人が表紙を飾っています。
令和2年度、羽生市では規模を縮小して成人式が執り行われました。

一つの行事やイベントにはたくさんの人が関わっているものです。
実行委員会をはじめ、名前すら登場しない多くの裏方が力を尽くし、
大変な状況下で一つの行事を執り行っているわけです。
何かを成すのは簡単ではないことは言うまでもありません。

さて、資料を介して訪れる戦国時代。
戦国期に限りませんが、往古において成人する年齢は皇族で約11歳~16歳だったようです。
一般では5、6~20歳の間。
元服すると幼名から実名が付けられます。
むろん、大人数が集まって執り行う「成人式」はありませんでした。

豊臣秀吉による討伐によって滅亡を余儀なくされた小田原城主北条氏直は、
天正4年(1567)末か翌年はじめ頃の元服と考えられています。
氏直が15、16歳のときであり、いまで言えば中学3年生か高校1年生に当たります。

この氏直が、関東の将軍である足利義氏に初めて文を送ったのは(言上)、翌年3月のことです。
公方は氏直を祝し、次のような書状を送っています。

 為代官、以同名陸奥守、始而言上、忻入候、然者、為祝儀、太刀正真、并刀國行、馬栗毛、到来、目出度候、委細氏照可申遣候、恐々謹言
  三月十七日
     新九郎殿

氏直は言上にあたって太刀や刀を進呈しています。
氏直の叔父である北条氏照が代官として仲介したようです。
ちなみに、足利義氏は氏直の父氏政へ祝儀を述べています。

関東経略を図る後北条氏です。
古河公方足利義氏への言上は、元服したばかりの北条氏直にとって通過儀礼のようなものでしょう。
義氏を奉じて関東の秩序を守る。
古河公方権力は後北条氏に包摂されつつありましたが、
後北条氏はそのような論理のもと、軍事事業を展開していたわけです。

戦国時代ですから合戦は避けて通れません。
戦国大名における軍事事業は家の施策の一つです。
現代風に言えば、自治体の総合振興計画の重要施策に挙げられる性質で、
これまでの実績と課題、そして今後の目標も具体的に定められていたはずです。

そんな時代のため、初陣も元服における通過儀礼と言えます。
北条氏直は足利義氏に言上した同じ年に初陣を果たします。
武具に身を固め、上総へ進攻。
重要な戦果を挙げ、初陣を飾るのです。
義氏は初陣を祝す書状を氏直へ送っています。

 急度以使節申遣候、然者、此度向上総、其方初而出陣之處、数ヶ城被属本意候、剰里見義弘、頻懇望付而、被遂和睦帰陣候、誠以肝要目出度候、仍太刀一文字、馬鹿毛、遣之候、巨細高太(大)和守口上被仰含候
   霜月十五日           
     新九郎殿

現代日本人にはわかりませんが、
初陣を果たすというのは喜ばしいことだったと思われます。
義氏は北条氏政へも書状を送り、息子の初陣を祝しています。
この時点で家督はまだ譲られていませんでしたが、
父氏政は戦場にあっても、嫡男として成長した氏直にあたたかいまなざしを向けたかもしれません。

ところで、この後北条氏の上総進攻で、安房国の里見氏との同盟が成立します。
里見氏は反北条の態度をとっていましたが、
氏直が初陣を果たした年にその姿勢を崩したのです。

この里見氏と後北条氏の同盟は、反北条の国衆にとっては受け入れがたいものでした。
特に、常陸国片野城にいた太田資正は深い失望を覚えたのでしょう。
天正5年12月28日付で織田信長の家臣小笠原貞慶に宛てた書状には、
「従高山深海茂、猶里見義弘遺恨深重候」と書き記しています。

かくして、北条氏直は元服し、初陣も果たしました。
後北条氏の当主としての1歩を改めて踏み出したのです。
そして、父氏政から家督を譲渡されるのは天正8年のこと。
もし、その数年後に父氏政や叔父氏照がこの世を去っていれば、
後北条氏の結末は変わっていたかもしれません。
しかし、豊臣秀吉に恭順の意を示さなかった後北条氏は、
天正18年に没落のときを迎えるのでした。
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