クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

旧吹上町の“袋古墳群”でわずかに残る古墳は? ―宝養寺古墳―

2019年01月23日 | 考古の部屋
旧吹上町(現鴻巣市)の愛宕神社古墳から少し南東へ行ったところに、
宝養寺古墳があります。
「ある」と言っても、宝養寺の墓地の一角となっており、
土の高まりが確認できるにすぎません。

愛宕神社古墳や宝養寺古墳を含め“袋古墳群”と言います。
袋天神山古墳や古畑家北古墳など、かつては多くの古墳が存在していましたが、
開発によって消失したようです。

愛宕神社古墳とは違い、宝養寺古墳は特に文化財になってはおらず、
説明板が建っているわけではありません。
だから、予備知識がなければそれを「古墳」とは認識しないでしょう。
ただ、包蔵地であり遺跡名は「宝養寺古墳」ですから、
そこが古墳ということは遺跡分布図からは窺えます。

宝養寺古墳はいつ頃築造され、どんな人物が埋葬されたのでしょう。
川の舟運や治水、灌漑などに司る人物だったでしょうか。

古墳には現代型の墓碑がいくつも建っています。
ここは古くから死者が眠る聖域のような場所。
手を合わせれば、古代から現代に至るまでの多くの霊に、
礼を尽くしたことになるかもしれません。


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2月10日、羽生の“郷土芸能発表会”に行きませんか?

2019年01月20日 | 民俗の部屋
2月10日(日)、羽生市の産業文化ホールにおいて、
「第11回羽生市郷土芸能発表会」が開催されます。

これは、郷土芸能を保持する市内の8団体が出演し、
それぞれの“技”を披露するものです。
各団体とも各所で活躍していますが、
1つの場所で一挙に見られるのは本公演会のみです。

今回、出演する団体は以下の予定となっています(出演順)。

・東大和おはやし保存会
・羽生太鼓みやび
・下手子林獅子舞保存会
・中宿万作保存会
・桑崎獅子舞保存会
・下岩瀬白山太古保存会
・羽生市こども歌舞伎保存会

獅子舞、お囃子、太鼓、芝居などバラエティ豊かな内容です。
もちろん全ての芸を見るのが一番ですが、
気になる団体だけをお目当てに来場することも可能です。

開場は12時30分。
開演は午後1時からとなっています。
入場料は無料で、出入りは自由です。

ちなみに、公演会の司会は羽生市内の高校生が務めるのですが、
今回は僕がアシスタントをすることになりました。
各団体の拠点とする地域の歴史を少しだけ紹介する予定です。
昨年は開会セレモニーの司会だけでしたが、
今年はもっと多く現れることになります。

放送部の高校生の足を引っ張らないようがんばりますね。
2月10日(日)、羽生市産業文化ホールにて心よりお待ちしています。

※概要は羽生市ホームページ
http://www.city.hanyu.lg.jp/docs/2018012400013/
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旧吹上町に“館”があった? ―津戸氏―

2019年01月17日 | 城・館の部屋
旧吹上町(現埼玉県鴻巣市)にかつて存在した小谷城。
戦国時代に忍城の支城として機能していたと目される城だが、
これよりも前の時代に、この辺りを治めていた人物の住まいがあった。

それは“津戸氏”の館跡。
(時代から言って、城ではなく館だろう)
旧吹上町の下忍に「津戸」の小字があり、
そこに「津戸三郎が住みせし所」と『新編武蔵風土記稿』は伝えている。

しかし、遺構はない。
そもそもどこがその跡地なのか、足を運んでもよくわからない。

津戸氏は鎌倉幕府に仕えた奉公人で、
「正能氏系図」によると、菅原氏から出たという。
近隣の忍氏や広田氏も同じ菅原氏を出自としており、
彼らは「武州忍保」に属していたらしい。
忍氏は現在の行田市、広田氏は旧川里町に館を構えていたと思われる。

津戸氏館跡は小谷城よりも謎が多いと言える。
江戸後期成立の地誌『新編武蔵風土記稿』は、
津戸氏は下忍に住んでいたという伝承を伝えているものの、
実際は東京都国立市なのでは? という書き方をしている。

とはいえ、菅原氏を出自とする「正能氏系図」に見える津戸氏・忍氏・広田氏のお三方。
いずれも近くに館を構えていたとおぼしきところから、
下忍説を否定してしまうには、
史実の一端を見落とす恐れがあるかもしれない。
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19日、“全国プレゼンテーションコンクールin羽生”へ行きませんか?

2019年01月15日 | お知らせ・イベント部屋
1月19日(土)、
羽生市産業文化ホールにおいて
「第2回全国プレゼンテーションコンクールin羽生」が開催されます。

羽生市内の小・中学生の代表と、
全国から募った小・中学校が出演します。
今回の発表テーマは「心」(Heart)。

熱いプレゼンが繰り広げられるはずです。
9時45分からの開会です(9時15分から受付)。
1月19日は、羽生の文化ホールへ行きましょう。
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結婚するまでは終わらない青春? ―コトノハ―

2019年01月13日 | コトノハ
1月13日は成人式です。
成人を迎えたからと言って、「青春」が終わるわけではないでしょう。
感覚的には、まだまだそのど真ん中の気がします。

前回、「青春の終わり」について書きました(2019年1月8日付)。
自分の顔に責任を持たなければならないのが40歳だとすれば、
何度か迎えた青春の終わりの本当の終焉は39歳なのではないか、と。
だから、39歳が青春の終わり説を書きました。

ただ、こんなコトノハを聞いたことがあります。

 あなたが結婚するまでは、私の青春は終わらないのよ。

女性が口にしたコトノハです。
いえ、僕に向けられたコトノハではなく。

女性はすでに結婚している。
子どももいる。
学生時代からも遠く隔たれている。

でも、青春の真っただ中のとき、
ともに過ごした「あなた」はまだ独身。
会えば、「あの頃」へ引き戻される。
懐かしくもほろ苦い気持ちが呼び覚まされる。
そんな「あなた」が結婚したときが、本当の青春の終わり……。

女性の複雑で繊細な気持ちや感覚は、
男性にはたぶんずっとわからないのでしょう。
このコトノハを男性視点にして、「あなた」を「君」にしたらどうでしょうか。

 君が結婚するまでは、僕の青春は終わらないんだよ。

うーん、男の僕の感覚とすれば、
女性視点でのコトノハの方が、色々な想いがこめられている気がして、
より文学的な気がします。

あるいは、異性に限らなくてもいいでしょうか。
同性に対するコトノハ。

 あなた(お前)が結婚するまでは、私の(僕の)青春は終わらない。

異性に比べてだいぶニュアンスが変わってきます。
例えば、僕が親しい友人にこのコトノハを言ったとします。
相手はどんな反応を示すでしょう。
あくまでも想像ですが、微妙な空気が流れるような……。

異性なり同性なり、このコトノハを言うことのできる人はいるでしょうか?
面と向かって言わなくても、そんな想いを寄せる人は思い浮かぶでしょうか?

そもそも「青春」とは何なのでしょう?
相手が結婚したら、本当に青春は終わってしまうのでしょうか?

前回、39歳が青春の終焉と書いたものの、
別にそう決まっているわけではありません。
40歳になっても青春真っただ中だ、と言っても、
賛同を得られるかどうかは別として、不正解ではないはずです。

幼さや青臭さだけが青春の特権ではありません。
大人の青春もあるでしょう。
「第二」「第三」「第四」……と続いていく気がします。
ならば、10代は10代の
40代には40代の青春というふうに。

 あなたが結婚するまでは、私の青春は終わらないのよ。

そう言った遠い日の人。
「あなた」とは、その後どんな関係を築いていったのでしょう。
もしも「あなた」が結婚したのだとしたら、
その人は第二の青春を迎えたのかもしれませんね。
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旧吹上町の“愛宕神社古墳”の被葬者は新幹線の音を聞く?

2019年01月11日 | 考古の部屋
旧吹上町(現埼玉県鴻巣市)に残る古墳はいずれも宗教施設となっています。
だからこそ残ったのでしょう。
ただの土山であれば、干拓などに使われて消え去ったかもしれません。

愛宕山古墳は、その名の通り墳頂に愛宕神社が鎮座しています。
現存しているとはいえ、時代の流れとともに人の手がだいぶ加わっています。

高さは約3m、直径は20~30mありますが、
後世に盛り土をされたようです。
築造年代は推測6~7世紀。

この近くには宝養寺古墳があります。
また、元荒川や鉄道を越えた南側には三島神社古墳が横たわっています。
元荒川周辺に古墳群が築造され、往古はもっとたくさんあったのでしょう。

愛宕山古墳のすぐ目の前に通っているのは上越新幹線です。
古墳に足を運べば、聞こえてくるのは新幹線が走り去る音。
隣には千手院、裏には公園があり、
子どもと訪れてもブランコやすべり台で遊ぶことも可能です。

愛宕神社は立派なたたずまい。
前の道を通り過ぎたとき、
「古墳」とはなかなか認識できないでしょう。

出土遺物や内部施設は不明。
被葬者がいるようには見えませんが、まだここに眠っているとしたら、
毎日車や新幹線の通り過ぎる音を耳にしているはずです。

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30代最後の風邪をひいて思ったこと

2019年01月08日 | ウラ部屋
新年早々、風邪を引きました。
子どもからもらった風邪です。

風邪をひくと頭がぼんやりして(ぼんやりしているのはいつものことですが)、
普段とは違う考えや捉え方をする傾向にあると思います。
それを新しく生まれ変わる前兆と捉える方もいます。
気持ちの整理をする期間とも……

そう思うと、そろそろ39歳も終わりです。
1月18日生まれの僕は、
12月31日から日をあまり置かずに再び年越しを迎えることになります。

もう30代ではない。
いまは寂しさの方が強いでしょうか。
なったらなったで何も思わないのかもしれませんが、
暮れてゆくものには色々と感じるものがあります。

40歳になったら自分の顔に責任を持て、と異口同音にいいます。
自分の生き方がそのまま顔に出るからなのだとか。
人生が顔に表象されるのでしょう。

だとすれば、本当の青春の終わりは39歳なのかもしれません。
感覚的にはだいぶ遅いかもしれませんが、
ひたすら追いかけてきたものが一つに区切りを迎え、
そこから先は「責任」を伴っていくのだとしたら、
何度か終わりを迎えた青春の最後の終焉なのでしょう。

青春の方向を決定付けた人、
大きな影響を及ぼした人、
忘れられない別れ、
悔しさを与えた人、
自分を初めて認めてくれた人、
忘れてしまった想い、などなど、
「青春」の期間にはさまざまな出会いと別れがあったはずです。

「青春」の終焉を迎えるにあたって、一番会いたい人は誰でしょうか?
思い浮かぶ人はいるでしょうか?
実際に会った人はいるでしょうか?
かくいう僕は……

子どもが僕のお腹にダイブしてきます。
風邪をひいてもなかなかゆっくりできません。
思考は途切れ途切れとなり、
「あれ、さっきまで何を考えていたのだっけ?」となります。

子どもは回復も早いもの。
まあ、ダイブをするくらい元気になれば良しということにしましょう。
39歳の僕は、「青春」真っただ中よりも、確実に治りが遅くなっています。
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熊谷の文殊寺と1997年と……

2019年01月06日 | 神社とお寺の部屋
埼玉県熊谷市の文殊寺は、学問成就の祈願所としてよく知られています。
三箇日は受験に近いせいか、
初詣に訪れる参詣者がたくさんいます。

僕が文殊寺へ初めて参詣したのは、
1997年(平成9年)の三箇日でした。
20年以上も前のことです。

“年度”で言えば96年度になります。
当時高校生だった僕は、あと数ヶ月で卒業を迎えようとしていました。

2018年の暮れ、実家で見付けたのは当時の学校年間計画表。
これを見てみると、圧縮された時間が引き伸ばされる感覚を覚えます。

冬休みを迎えたのは12月24日(火)のこと。
クリスマスイヴが終業式だったのですね。
三学期は1月8日(水)からスタート。
センター試験は1月18日(土)と19日(日)で、
高校3年生の期末テストは同月23日(木)と24日(金)に実施されました。

それから間もない1月29日(水)から「家庭研修」が始まります。
これは高校三年生だけが受験のために学校に来なくてもいい期間で、
実質授業もなければ学校行事もありません。
2月14日(金)の登校日があるくらいです。

この「家庭研修」がいつまでだったのか記憶にありません。
年間計画表にも書いておらず、
家庭研修のまま3月7日(金)の卒業式の予行を迎えたのでしょうか。
卒業式は3月10日(月)。
翌日から長い春休みを迎えたわけです。

大人になると、瞬きをするくらいのあっという間の期間です。
でも、当時の感覚としては3ヶ月~半年くらいの出来事のように思えます。

当時、羽生にあった書店「ファミリーブック」へ行けば、
聴こえてきたのはMr.childrenの「Everything (It's you)」や、
奥田民生・井上陽水の「ありがとう」、globe の「FACE」といった曲たち。
書棚には村上春樹の『ねじまき鳥のクロニクル』のハードカバーが並んでおり(1995年刊)、
春山茂雄の『脳内革命2』が平積みされていたものです。

『ファイナルファンタジーVII』が発売され、
プレイステーションが波に乗っていた頃です。
毎週楽しみにしていたNHKの大河ドラマ「秀吉」は終了し、
「毛利元就」が新たにスタートしていました。
羽生市内では、1月に中学生議会が初めて開催されました。

出来事を列挙すれば「懐かしい」だけかもしれません。
ただ、誰かの不在やそれに伴う痛みを抱えてもいれば、
新たに一緒に過ごす人もいたわけです。
初めて文殊寺を参詣したときの心境や環境に想いを馳せたとき、
いまとは世界が全く違っていたことに改めて驚きます。

39歳のいま、文殊寺に足を運べば歴史的背景に関心が向かいます。
拙ブログで何度も取り上げていますが、
文殊寺は増田氏の館跡であり、本堂の裏手には浅い空堀が現存。
いまは空堀に視線が釘付けになります。
20年以上前はそんな関心はなく、館跡ということも知りませんでした。
知ったところで聞き流していたことでしょう。

歳月が流れれば身近にいる人も変わるし、
自分自身も変化するということです。
不在なのは他者だけではありません。
自分もまた含まれるのでしょう。

17歳の冬に出会って以来、文殊寺は足を運びたくなるお寺です。
隣には立正大学があり、キャンパス内には博物館、
文殊寺が学問寺なので、いわば文教区のようかもしれません。
三箇日以外は落ち着いた静けさに包まれています。

初めて文殊寺を参詣した帰り、
立ち寄った本屋でスティーブン・キングの『IT』と、
東野圭吾の『放課後』を買ったのを覚えています。
その書店がどこだったのか全く記憶にありません。
さほど大きくはなく、1階建てのお店でした。
いまも営業しているのでしょうか。
願わくば、もう一度入店したいものです。

自分の過去もまた「歴史」です。
自身で見聞きしたものですが、忘れているものは多くあります。
「歴史」は未来に向かって生きる指針でもあるので、
ないがしろにしたくはありません。
文殊寺の学問や知恵の霊験にあやかりたいものですね。


空堀跡
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羽生には“落ちない”神社がある?

2019年01月03日 | パワースポット部屋
三箇日、初詣は行かれたでしょうか。
家内安全、交通安全、学業成就、恋愛成就などなど、祈願はそれぞれです。

羽生市内に「落ちない神社」と言われる社があります。
場所は中岩瀬。
「天神社」がその社です。

なぜ落ちないのか?
それは羽生城に関する伝説に由来しています。

羽生城が敵勢に攻められて落城するとき、
城主の奥さんと息子は城から脱出。
そのとき、懐に入れて持ち出したのは鎮守である天神社のご神体でした。
母子は無事に落ち延び、戦乱が治まるまで身を隠します。

そして、ようやく戦乱の世が終わったとき、
母子は名前を変えて生きていくことになりました。
母子は社を建て、城から持ち出したご神体を安置。
それこそが中岩瀬の天神です。

したがって、落城しても焼失しなかったという意味で、
「落ちない神社」と言われるようになりました。
受験に落ちない。
志望校に合格する!
ということで、受験生からの信仰を集める神社になったそうです。

以上は地元の方から聞いた話です。
古文書や記録等で「落ちない神社」と記されているわけではありません。
伝説は「中岩瀬天満宮縁起」に拠っています。
大変興味深い内容ですが、あくまでも伝説と捉えるのが無難でしょう。

中岩瀬の天神社は少々わかりにくい場所に鎮座しています。
「中岩瀬上集会所」を目指した方がいいでしょう。

小さな社です。
祠のようなものが塚の上に立っており、
一般的な神社のイメージとは異なるかもしれません。

祈願すれば本当に落ちないのでしょうか?
中岩瀬の天神社のご神徳をまだ確かめたことはありません。
落ちたくないのは、何も学生だけでなく社会人も同じこと。
一度参拝して試してみるのもいいかもしれませんね。

※最初の写真は岩瀬公民館前のバス停。記事と特に関係はありません。
 中岩瀬天満宮はこのバス停から北へ向かったところです。
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旧吹上町に“城”があった? ―小谷城―

2019年01月01日 | 城・館の部屋
昨年不幸があったので、
「新年あけましておめでとうございます」とは言えないのですが、
代わりにマニアックな城跡を探訪して新年をスタートしたいと思います。

その名は小谷(こや)城。
旧吹上町(現埼玉県鴻巣市)にあった城です。

その城跡は、宝勝寺、金乗院、日枝神社を含む一帯と言われています。
すぐ目の前を荒川の土手が迫っているため、
遺構のほとんどは消滅したものと思われます。
城の中心部は、おそらく現在の土手の向こう側にあったのでしょう。

遺構の消滅は江戸時代後期にはすでに顕著だったらしく、
『新編武蔵風土記稿』にも「遺形」はなく、境界も定かではないと記されています。
とはいえ、「城山」や「鐘塚」の呼び名が残り、
いくつかの伝説も伝わっています(妖怪も!)。

小谷城の城主として、
『新編武蔵風土記稿』が挙げているのは「小宮山内膳」という人物です。
詳細は定かではありませんが、『成田分限帳』には「小宮山」氏の名があり、
実在した人物のようです。
小谷城は忍城の支城だったのでしょう。
水運を司る、もしくは川を監視する役目を担っていたのかもしれません。

先に触れたように、小谷城は「城跡」を偲ばせるものはありません。
荒川の土手に説明板が建っていますが、
それがなければ城跡とはなかなか思えないはずです。

金乗院も元は土手の向こう側にありました。
隣接するように鎮座しているのは日枝神社(山王社)です。
塚の上に社殿が建っており、
案内板によれば城の鬼門を守る社としても比定できるか、としています。

これは単なる臆測ですが、
塚がかつてはもっと高いものであったとすれば、
小谷城の物見台として使用されたこともあったでしょうか。
その視点で言えば、金乗院の裏を流れる堀も、
元は城の堀跡を利用したのかも、と思ってしまいますが、
穿った見方というものでしょう。

小谷城で戦闘が行われたとか、焼き滅ぼされたという言い伝えは残っていません。
消滅した城であり、全国的によく知られているわけでもありません。
ただ、いくつかの伝説と城跡を思わせる土地の呼び名などがあり、
謎が多いながらも地域史を彩っています。


河川敷となっている小谷城址
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