岩瀬地区の中で愛着があるものの一つに“歩道橋”があります。
いえ、一度も渡ったことはありません。
が、何となく親しみを込めて見てしまうのです。
その歩道橋は国道122号線に架かっています。
かつてその近くには書店兼レンタルビデオ店があり、
羽生市内でもかなりの賑わっていたお店の一つだった印象があります。
岩瀬に住む同級生と親しかったのは1994年の冬から95年の初夏にかけてで、
そのわずかな期間の中で目にした光景は昨日のことのように覚えています。
当時は、歩道橋のそばに焼き肉店は存在していませんでした。
書店兼レンタルビデオ店が全盛期と言ってもいい時代で、
いつも駐輪場をはみ出すほどの自転車がとまっていたものです。
1992年だったか、歩道橋の下に一瞬だけラーメン屋さんが開店したことがありました。
部活の同級生と店に入りましたが、それが最初で最後。
もう一度行こうとしたらすでに閉店していて、いまでは幻の味となっています。
その向かい、現在はコンビニになっているところは民家でした。
背負っていた屋敷林に高い木はなかったのに、なぜか印象深く残っています。
ところで、同級生の家へ行くには国道122号線を越えなければなりませんでした。
渡る場所はいつも歩道橋の架かる交差点。
それ以外にほとんどなく、図書館からの帰り道もその交差点だったのを覚えています。
信号はいつも赤く光り、なかなかスムーズに渡れません。
まるで関所の番士のように、必ずそこで立ち止まらされたのです。
冬は西から吹く風と、通り過ぎていく何台もの車で冷たく空気が流れ、
青信号に変わるまでの時間が少し長く感じました。
とはいえ、同級生と一緒に過ごす時間は特別で、
ずっと赤信号のままでいいのに、と思ったことは一度や二度ではありません。
青に変われば、並んで国道を渡ります。
僕たちはいつも自転車で、歩道橋の下を通り過ぎても、見上げることはありませんでした。
さて、この歩道橋はいつからあるのでしょう。
現在の国道122号(羽生バイパス)が開通したのは昭和49年です。
そのため、歩道橋もその頃に架かったものと思われます。
ちなみに、羽生市内に初めて架かった歩道橋は羽生北小学校前で、昭和42年のことです。
主に、岩瀬小学校・中学校へ通う児童を対象にした歩道橋だったのでしょう。
昭和49年当時、同校はまだ現在の岩瀬公民館のところに建っていました。
歩道橋はきっと児童や地域の人たちの安全を守り続けてきたはずです。
当時は、歩道橋からの眺めもよかったかもしれません。
昭和49年頃の架橋とすれば、
南中学校や羽生第一高校、埼玉純真短期大学はまだ存在しておらず、
田畑が広がっていたことでしょう。
むろん、新築移設された羽生病院もしかりです。
ときどき、国道122号線が川のように感じることがあります。
親しい同級生と次第に会わなくなってから、国道を渡る機会はなくなりました。
書店兼レンタルビデオ店へ行っても、いつも一人。
赤信号から青に変わっても、背を向けたまま。
距離が離れて以来、道路の向こう側が遠くに感じられました。
渡るには痛みを伴ったのです。
岩瀬に架かる歩道橋は、その頃の記憶を刺激するのかもしれません。
楽しいこともあれば、痛みを伴うこともある。
人との出会いは、いつもそれが背中合わせではないでしょうか。
記憶しているからと言って、決して感傷に浸れるほど甘いものばかりではないはずです。
1994年の遠い自分など他者のように不可解ですが、
何気なく歩道橋を目にするとき、渡った先にあの頃の季節へつながっている気がするのです。
もし、一度も歩いたことのない岩瀬の歩道橋を渡ったとき、
その向こう側には懐かしい景色が広がっているでしょうか。
あの季節に戻り、当時の自分に返ってあの頃の同級生へ会いに行く。
自分がもう一度過ごしたいと思う季節へつながっているとしたら……
そんな空想を描いたとき、選択肢は3つあります。
1.歩道橋を渡る
2.決して歩道橋を渡らない
3.しばらく考える
あなたなら何を選ぶでしょうか。
僕は……
1を選んでその特殊性が実証されたならば、
文化財に指定したいですね。
いえ、一度も渡ったことはありません。
が、何となく親しみを込めて見てしまうのです。
その歩道橋は国道122号線に架かっています。
かつてその近くには書店兼レンタルビデオ店があり、
羽生市内でもかなりの賑わっていたお店の一つだった印象があります。
岩瀬に住む同級生と親しかったのは1994年の冬から95年の初夏にかけてで、
そのわずかな期間の中で目にした光景は昨日のことのように覚えています。
当時は、歩道橋のそばに焼き肉店は存在していませんでした。
書店兼レンタルビデオ店が全盛期と言ってもいい時代で、
いつも駐輪場をはみ出すほどの自転車がとまっていたものです。
1992年だったか、歩道橋の下に一瞬だけラーメン屋さんが開店したことがありました。
部活の同級生と店に入りましたが、それが最初で最後。
もう一度行こうとしたらすでに閉店していて、いまでは幻の味となっています。
その向かい、現在はコンビニになっているところは民家でした。
背負っていた屋敷林に高い木はなかったのに、なぜか印象深く残っています。
ところで、同級生の家へ行くには国道122号線を越えなければなりませんでした。
渡る場所はいつも歩道橋の架かる交差点。
それ以外にほとんどなく、図書館からの帰り道もその交差点だったのを覚えています。
信号はいつも赤く光り、なかなかスムーズに渡れません。
まるで関所の番士のように、必ずそこで立ち止まらされたのです。
冬は西から吹く風と、通り過ぎていく何台もの車で冷たく空気が流れ、
青信号に変わるまでの時間が少し長く感じました。
とはいえ、同級生と一緒に過ごす時間は特別で、
ずっと赤信号のままでいいのに、と思ったことは一度や二度ではありません。
青に変われば、並んで国道を渡ります。
僕たちはいつも自転車で、歩道橋の下を通り過ぎても、見上げることはありませんでした。
さて、この歩道橋はいつからあるのでしょう。
現在の国道122号(羽生バイパス)が開通したのは昭和49年です。
そのため、歩道橋もその頃に架かったものと思われます。
ちなみに、羽生市内に初めて架かった歩道橋は羽生北小学校前で、昭和42年のことです。
主に、岩瀬小学校・中学校へ通う児童を対象にした歩道橋だったのでしょう。
昭和49年当時、同校はまだ現在の岩瀬公民館のところに建っていました。
歩道橋はきっと児童や地域の人たちの安全を守り続けてきたはずです。
当時は、歩道橋からの眺めもよかったかもしれません。
昭和49年頃の架橋とすれば、
南中学校や羽生第一高校、埼玉純真短期大学はまだ存在しておらず、
田畑が広がっていたことでしょう。
むろん、新築移設された羽生病院もしかりです。
ときどき、国道122号線が川のように感じることがあります。
親しい同級生と次第に会わなくなってから、国道を渡る機会はなくなりました。
書店兼レンタルビデオ店へ行っても、いつも一人。
赤信号から青に変わっても、背を向けたまま。
距離が離れて以来、道路の向こう側が遠くに感じられました。
渡るには痛みを伴ったのです。
岩瀬に架かる歩道橋は、その頃の記憶を刺激するのかもしれません。
楽しいこともあれば、痛みを伴うこともある。
人との出会いは、いつもそれが背中合わせではないでしょうか。
記憶しているからと言って、決して感傷に浸れるほど甘いものばかりではないはずです。
1994年の遠い自分など他者のように不可解ですが、
何気なく歩道橋を目にするとき、渡った先にあの頃の季節へつながっている気がするのです。
もし、一度も歩いたことのない岩瀬の歩道橋を渡ったとき、
その向こう側には懐かしい景色が広がっているでしょうか。
あの季節に戻り、当時の自分に返ってあの頃の同級生へ会いに行く。
自分がもう一度過ごしたいと思う季節へつながっているとしたら……
そんな空想を描いたとき、選択肢は3つあります。
1.歩道橋を渡る
2.決して歩道橋を渡らない
3.しばらく考える
あなたなら何を選ぶでしょうか。
僕は……
1を選んでその特殊性が実証されたならば、
文化財に指定したいですね。