クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

岩瀬の歩道橋にて

2020年09月09日 | 近現代の歴史部屋
岩瀬地区の中で愛着があるものの一つに“歩道橋”があります。
いえ、一度も渡ったことはありません。
が、何となく親しみを込めて見てしまうのです。

その歩道橋は国道122号線に架かっています。
かつてその近くには書店兼レンタルビデオ店があり、
羽生市内でもかなりの賑わっていたお店の一つだった印象があります。

岩瀬に住む同級生と親しかったのは1994年の冬から95年の初夏にかけてで、
そのわずかな期間の中で目にした光景は昨日のことのように覚えています。
当時は、歩道橋のそばに焼き肉店は存在していませんでした。
書店兼レンタルビデオ店が全盛期と言ってもいい時代で、
いつも駐輪場をはみ出すほどの自転車がとまっていたものです。

1992年だったか、歩道橋の下に一瞬だけラーメン屋さんが開店したことがありました。
部活の同級生と店に入りましたが、それが最初で最後。
もう一度行こうとしたらすでに閉店していて、いまでは幻の味となっています。
その向かい、現在はコンビニになっているところは民家でした。
背負っていた屋敷林に高い木はなかったのに、なぜか印象深く残っています。

ところで、同級生の家へ行くには国道122号線を越えなければなりませんでした。
渡る場所はいつも歩道橋の架かる交差点。
それ以外にほとんどなく、図書館からの帰り道もその交差点だったのを覚えています。

信号はいつも赤く光り、なかなかスムーズに渡れません。
まるで関所の番士のように、必ずそこで立ち止まらされたのです。
冬は西から吹く風と、通り過ぎていく何台もの車で冷たく空気が流れ、
青信号に変わるまでの時間が少し長く感じました。

とはいえ、同級生と一緒に過ごす時間は特別で、
ずっと赤信号のままでいいのに、と思ったことは一度や二度ではありません。
青に変われば、並んで国道を渡ります。
僕たちはいつも自転車で、歩道橋の下を通り過ぎても、見上げることはありませんでした。

さて、この歩道橋はいつからあるのでしょう。
現在の国道122号(羽生バイパス)が開通したのは昭和49年です。
そのため、歩道橋もその頃に架かったものと思われます。
ちなみに、羽生市内に初めて架かった歩道橋は羽生北小学校前で、昭和42年のことです。

主に、岩瀬小学校・中学校へ通う児童を対象にした歩道橋だったのでしょう。
昭和49年当時、同校はまだ現在の岩瀬公民館のところに建っていました。
歩道橋はきっと児童や地域の人たちの安全を守り続けてきたはずです。

当時は、歩道橋からの眺めもよかったかもしれません。
昭和49年頃の架橋とすれば、
南中学校や羽生第一高校、埼玉純真短期大学はまだ存在しておらず、
田畑が広がっていたことでしょう。
むろん、新築移設された羽生病院もしかりです。

ときどき、国道122号線が川のように感じることがあります。
親しい同級生と次第に会わなくなってから、国道を渡る機会はなくなりました。
書店兼レンタルビデオ店へ行っても、いつも一人。
赤信号から青に変わっても、背を向けたまま。
距離が離れて以来、道路の向こう側が遠くに感じられました。
渡るには痛みを伴ったのです。

岩瀬に架かる歩道橋は、その頃の記憶を刺激するのかもしれません。
楽しいこともあれば、痛みを伴うこともある。
人との出会いは、いつもそれが背中合わせではないでしょうか。
記憶しているからと言って、決して感傷に浸れるほど甘いものばかりではないはずです。
1994年の遠い自分など他者のように不可解ですが、
何気なく歩道橋を目にするとき、渡った先にあの頃の季節へつながっている気がするのです。

もし、一度も歩いたことのない岩瀬の歩道橋を渡ったとき、
その向こう側には懐かしい景色が広がっているでしょうか。
あの季節に戻り、当時の自分に返ってあの頃の同級生へ会いに行く。
自分がもう一度過ごしたいと思う季節へつながっているとしたら……

そんな空想を描いたとき、選択肢は3つあります。
1.歩道橋を渡る
2.決して歩道橋を渡らない
3.しばらく考える

あなたなら何を選ぶでしょうか。
僕は……
1を選んでその特殊性が実証されたならば、
文化財に指定したいですね。
コメント (2)
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羽生に“カッパ”がいる?

2020年09月07日 | 民俗の部屋
羽生にいるカッパ。
確か、市内にカッパがいたはず……。

そう思ったのは、埼玉純真短期大学で講義をする機会があったときです。
取り上げたのは郷土の“伝説”。
不思議な話、ちょっと恐い話、石や樹木に関すること、川や沼にまつわる話など、
伝説から繙く地域の歴史がテーマでした。

伝説を追いかけるのは『古利根川奇譚』(まつやま書房)を書いた以来で、
改めて面白さを感じました。
この頃ずっと戦国時代のことばかり書いているので、
久しぶりに繙く民俗学関係文献はとても素直に心に入ってきたのです。
また機会があれば、じっくりと腰を据えて取り組みたいですね。

さて、『羽生昔がたり』(羽生市)では、
大尽の家にまつわるカッパ(?)の話を取り上げています。
利根川を渡ろうとしたら、突然舟が転覆し、カッパ(?)にのしかかられたという内容です。
ちなみに、旧妻沼町(現熊谷市)を流れる福川では、
目つきの悪い生きものが捕まって縄で縛られていたのを、お福さんが助けたという話が残っています。
この生きものこそカッパだったのではないかと言われています。

江戸時代に赤松宗旦が著わした『利根川図志』にはカッパの絵が収録されていますし、
『利根川おばけ話』(加藤政晴著)にはカッパにまつわる話がたくさん採録されています。
利根川水系には本当にカッパがいたのかもしれません。
芥川龍之介が書く『河童』のように、あちらの世界へ行った人もいたかも……。

カッパとは一体何なのか?
いまでこそキャラ化して親しまれているカッパですが、
その奥には知られざる歴史が隠れているようです。
小説家の高田崇史氏は、『QED 河童伝説』(講談社)で興味深い説を展開しています。
カッパは一筋縄ではいかない存在と捉えていいでしょう。

『羽生昔がたり』に収録されたカッパは、
大尽の家で語り継がれているものと、『増補忍名所図会』に載る「大亀の甲」を参照にしたと思われます。
後者はカメとして取り上げています。
したがって、厳密に言うとカッパではありません。
(いや、本当はカッパかもしれませんが)

でも、市内のどこかにカッパがいた気がしました。
それがどこだったか……。
記憶にフワリと触れるものを手繰りよせれば……

見付けました。
羽生市上川俣に鎮座する天神社の境内です。
いえ、カッパといえども、『利根川図志』にある容姿をしているわけではありません。

石祠です。
水神さまとして祀られたものです。

その石祠は総高が1mに満たない小さなものです。
本体正面には「大杉明神 河伯水神」という銘が刻まれています。
この「河伯」こそがカッパです。
『利根川図志』に「刀弥川に子ゝコといえる河伯あり」と記されているように、
川の神やカッパを意味しています。

大杉明神は茨城県稲敷市に鎮座する大杉神社を祀ったもので、
「あんば様」と呼ばれ、水運関係者に広く信仰された神さまでした。
石碑の側面にあるのは、川俣村の氏子と西照寺(廃寺)の文字。
そして、寛政3年(1791)4月15日に建てられたことがわかります。

かつて、この近くには龍蔵河岸や長宮河岸という船着場が存在していました。
河岸を通して多くの物資や人が出入りしており、大変な賑わいを見せていたのです。
おそらく、この「大杉明神 河伯水神」は、河岸に関わる水運関係者によって建てられたのでしょう。
また、河伯水神も祀られていることから、
水害除けの祈りも含まれていたものと思われます。

そもそも、この石祠は河岸のそばに建っていたはずです。
舟の往来を見つめ、また見守っていました。
明治期に入り、次第に水運交通が廃れていくと、
「大杉明神 河伯水神」は天神社境内に合祀されたのでしょう。

市内には「水神」を祀ったものはほかにありますが、
「河伯」の文字がある石祠は興味深いものです。
カッパそのものではなく、川の神さまとして祀ったのでしょう。
水運及び水害除けの神さまとして、長く地域を守ってきたわけです。

意外というべきか、カッパに興味を持つ学生が少なからずいました。
確かに、キャラクターとしてはなじみのある存在です。
用水路や排水路の近くには、危険な場所を示す看板がカッパの絵とともにあります。
僕が幼い頃は、わりと恐いタッチのカッパが描かれていたものです。

今回、講義をきっかけにカッパこと「河伯水神」と再会しました。
最初に言ったとおり、とても小さな石祠です。
境内に並ぶ石造物の一つであり、
関心がなければそこに目が留まることはないかもしれません。

でも、そこから歴史を読み解けば、河岸や水運交通、大水などが見えてきます。
河岸は消え、河川交通を目にすることができないからこそ、
現代を生きる我々はカッパが語りかけてくる言葉が聞こえてくるはずです。
上川俣天神社の境内、「大杉明神 河伯水神」の前に立ち、
耳をすませばきっと……
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