クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

北条氏政が欲したのは“験”ではなく…… ―榎本城攻城戦―

2020年04月25日 | 戦国時代の部屋
外出自粛でなかなか城や館跡にも行けませんね。
なので、文献や古文書を繙いて戦国時代の旅に出てみましょう。

3年前の初夏だったでしょうか。
幼子2人を連れて“榎本城”(栃木県栃木市)へ足を運んだことがあります。
少し多めのオムツとおしりふき、ベビーカーを車に積んで、
父子3人の榎本城址訪問でした。

さて、羽生城(埼玉県羽生市)が自落したのは天正2年(1574)閏11月のことです。
同時期に関宿城(千葉県野田市)が開城。
後北条氏としては、羽生城が自落したことによって武蔵国が平定され、
一国を得るに等しいと言われた関宿城を掌握したのですから、
上杉謙信との戦いに一つの決着がついたと言っても過言ではありませんでした。

その後、後北条氏は北関東への勢力伸長を画策します。
まず狙いを付けたのが、祇園城(栃木県小山市)とその支城の榎本城でした。
羽生・関宿両城を攻略したばかりの後北条氏は、
その勢いに乗って下野へと攻撃の手を加えたのでしょう。

手始めとして攻撃の的になったのが榎本城です。
早速攻城戦が展開されたらしく、
茂呂氏が討ち取った敵兵の験(首)が小田原城に届いています。
小田原城主北条氏政は、茂呂氏の戦功を次のように賞しています(平間文書)。

 榎本之敵両人討候趣、験到来、厳[  仕合候、諸口之手初候、令歓悦候、
 向後討捕者験、小田原迄指越ニ及間敷候、関宿当番衆へ指越肝要候、
 又要害之是非をも存知之者をハ、六ヶ敷候共、小田原迄到来可為肝要候
 又切迄も無之類之者可有之候、恐々謹言
   五月十八日    氏政(花押)
     茂呂右衛門佐殿

敵2人を討ち、その首を切り落とすという戦国乱世の生々しさが伝わってきます。
敵兵の首を小田原まで送った茂呂氏でしたが、
今後は関宿の当番衆へ遣わせばよい、と氏政は述べています。

面白いのは、首は送らなくていい代わりに、
「要害の是非」を知る者を、難しくとも小田原まで遣わすよう指示していることです。
「要害の是非」、つまり城について詳しい者、築城などの知識や技術を持つ者でしょうか。
敵兵の首よりも、そのような者を必要としていたということです。

やがて榎本城は落城。
そのため、北条氏政は毛呂土佐守に対し、
「榎本、本意先以大慶候、小山落居歴然候」と書き送っています(林一氏所蔵文書)。
つまり、祇園城の落城は明らかである、と。

実際のところ、榎本城陥落からしばらくして祇園城も落城しています。
小山氏は退去を余儀なくされます。
かくして、後北条氏は北関東へと勢力を伸張したのでした。

榎本城は多くの城跡がそうであるように、静けさに包まれていました。
人の姿はなく、幼子2人を連れた僕の姿は、
いささか場違いだったかもしれません。
子ども連れでは、じっくり城の声を聞くのも難しいですし……。

外出自粛が続く限り、再び榎本城を訪ねる日は後日になりそうです。
でも、戦国当時に作成された資料を読むと、
城址もさることながら、往時の一端を目の当たりにする想いがします。
当時の戦国大名・地域領主たちの生の声(言葉)だからでしょう。
とはいえ、読み方によって掴む情報も変わってくるので、
資料との向き合い方はとても難しいものです。

こんなご時世だからこそ、
資料から自宅で会いたい歴史上の人物を訪ねてみるのもいいかもしれません。
そのゆかりの場所も、生々しく浮かび上がってくることでしょう。
胸をときめかせることで体温が上昇すれば、
免疫力も上がるというものですね。
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