“小山朝政”の墓碑(宝篋印塔)は、
大越公民館(埼玉県加須市)の裏にある。
これまで“徳性寺”の境内を探し回ったが、
道理で見つからないはずである。
いや、かつては墓碑の場所も、境内の一部だったのだろう。
小山朝政の墓碑から徳性寺の本堂まで、
歩いて5分もかからない。
徳性寺について、『新編武蔵風土記稿』は
「小山判官朝政の祈願所にして、其後小山義政再興する所なり」
と記している。
小山朝政は源頼朝に仕え、平家と戦った人物である。
没したのは、暦仁元年(1238)だった。
ところが、小山朝政の墓碑の基礎部分には、
右志者覚遠菩提也 貞和元乙酉十二九敬白
と刻されている。
(と、言っても、基礎部分は苔生していて、肉眼で判読するのは難しい)
貞和元年は1345年であり、南北朝時代である。
伝承に“小山義政”が建てたとあるように、
墓碑ではなく供養塔として造立したのだろう。
『新編武蔵風土記稿』を信じるならば、徳性寺を再興したそのときに……
小山義政は南北時代の動乱で戦功を挙げ、
太田荘を与えられた人物だった。
徳性寺の建つ大越は太田荘に含まれる。
ちなみに、徳性寺から近いところでは、
太田荘の総鎮守“鷲宮神社”には、小山義政が太刀一振を奉納している。
小山義政は宇都宮氏との争いをきっかけに、
鎌倉公方足利氏満に目をつけられ、
その追討を受ける羽目になった。
義政は剛の者であったらしい。
降伏しても再び決起し、足利氏満に刃向かった。
その数3回。
しかし追い詰められ、
1382年4月13日に下野国の糟尾山中で自害して果てた。
世に言う“小山義政の乱”である。
この乱によって、関東で大きな力を持った豪族小山氏は滅亡。
太田荘は鎌倉府の御料所となり、
新しい時代を迎えるのだった。
しかし、小山義政が建てたであろう伝小山朝政の墓碑が破壊されることはなかった。
この宝篋印塔はなかなか伝承の域を出ないが、
地域の迎えた南北朝時代をそこはかとなく伝えている。

小山朝政の墓(埼玉県加須市)


大越公民館(埼玉県加須市)の裏にある。
これまで“徳性寺”の境内を探し回ったが、
道理で見つからないはずである。
いや、かつては墓碑の場所も、境内の一部だったのだろう。
小山朝政の墓碑から徳性寺の本堂まで、
歩いて5分もかからない。
徳性寺について、『新編武蔵風土記稿』は
「小山判官朝政の祈願所にして、其後小山義政再興する所なり」
と記している。
小山朝政は源頼朝に仕え、平家と戦った人物である。
没したのは、暦仁元年(1238)だった。
ところが、小山朝政の墓碑の基礎部分には、
右志者覚遠菩提也 貞和元乙酉十二九敬白
と刻されている。
(と、言っても、基礎部分は苔生していて、肉眼で判読するのは難しい)
貞和元年は1345年であり、南北朝時代である。
伝承に“小山義政”が建てたとあるように、
墓碑ではなく供養塔として造立したのだろう。
『新編武蔵風土記稿』を信じるならば、徳性寺を再興したそのときに……
小山義政は南北時代の動乱で戦功を挙げ、
太田荘を与えられた人物だった。
徳性寺の建つ大越は太田荘に含まれる。
ちなみに、徳性寺から近いところでは、
太田荘の総鎮守“鷲宮神社”には、小山義政が太刀一振を奉納している。
小山義政は宇都宮氏との争いをきっかけに、
鎌倉公方足利氏満に目をつけられ、
その追討を受ける羽目になった。
義政は剛の者であったらしい。
降伏しても再び決起し、足利氏満に刃向かった。
その数3回。
しかし追い詰められ、
1382年4月13日に下野国の糟尾山中で自害して果てた。
世に言う“小山義政の乱”である。
この乱によって、関東で大きな力を持った豪族小山氏は滅亡。
太田荘は鎌倉府の御料所となり、
新しい時代を迎えるのだった。
しかし、小山義政が建てたであろう伝小山朝政の墓碑が破壊されることはなかった。
この宝篋印塔はなかなか伝承の域を出ないが、
地域の迎えた南北朝時代をそこはかとなく伝えている。

小山朝政の墓(埼玉県加須市)


コメント (6) |
トラックバック (0) |









































