クニの部屋 −北武蔵の風土記−

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

大越に建つ“小山朝政の墓”は何を伝える?

2012年05月20日 | ふるさと人物部屋
“小山朝政”の墓碑(宝篋印塔)は、
大越公民館(埼玉県加須市)の裏にある。
これまで“徳性寺”の境内を探し回ったが、
道理で見つからないはずである。

いや、かつては墓碑の場所も、境内の一部だったのだろう。
小山朝政の墓碑から徳性寺の本堂まで、
歩いて5分もかからない。

徳性寺について、『新編武蔵風土記稿』は
「小山判官朝政の祈願所にして、其後小山義政再興する所なり」
と記している。
小山朝政は源頼朝に仕え、平家と戦った人物である。
没したのは、暦仁元年(1238)だった。

ところが、小山朝政の墓碑の基礎部分には、

 右志者覚遠菩提也 貞和元乙酉十二九敬白

と刻されている。
(と、言っても、基礎部分は苔生していて、肉眼で判読するのは難しい)

貞和元年は1345年であり、南北朝時代である。
伝承に“小山義政”が建てたとあるように、
墓碑ではなく供養塔として造立したのだろう。
『新編武蔵風土記稿』を信じるならば、徳性寺を再興したそのときに……

小山義政は南北時代の動乱で戦功を挙げ、
太田荘を与えられた人物だった。
徳性寺の建つ大越は太田荘に含まれる。
ちなみに、徳性寺から近いところでは、
太田荘の総鎮守“鷲宮神社”には、小山義政が太刀一振を奉納している。

小山義政は宇都宮氏との争いをきっかけに、
鎌倉公方足利氏満に目をつけられ、
その追討を受ける羽目になった。

義政は剛の者であったらしい。
降伏しても再び決起し、足利氏満に刃向かった。
その数3回。
しかし追い詰められ、
1382年4月13日に下野国の糟尾山中で自害して果てた。
世に言う“小山義政の乱”である。

この乱によって、関東で大きな力を持った豪族小山氏は滅亡。
太田荘は鎌倉府の御料所となり、
新しい時代を迎えるのだった。

しかし、小山義政が建てたであろう伝小山朝政の墓碑が破壊されることはなかった。
この宝篋印塔はなかなか伝承の域を出ないが、
地域の迎えた南北朝時代をそこはかとなく伝えている。


小山朝政の墓(埼玉県加須市)




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大坂冬の陣、“石川忠総”はどんな想いを秘めて戦った?

2012年05月15日 | ふるさと人物部屋
太田道灌の暗殺を指示した“扇谷上杉定正”は、
川を渡ろうとするときに落馬し、命を落とした。
この定正の頓死を記した史料は、
「石川忠総留書」である。

“石川忠総”は天正10年(1582)に生まれた。
父は“大久保忠朝”、母は“石川家成の娘”。
忠総(ただふさ)は石川家成の養子となり、そのまま養父の遺領を継いでいた。

ところが、慶長19年(1614)1月の実家大久保家の改易により、
忠総もその影響を免れず、駿府に蟄居していた。

大久保家の改易の理由はよくわかっていない。
“本多正信”の企みによる説が有力視されているが、
徳川家に忠節を尽くしてきた大久保家を、
なぜ家康が改易に踏み切ったのか、明確な理由は定かではない。

大久保忠隣は忠世の嫡子であり、徳川家重臣である。
相模小田原・武州羽生両城の6万5千石を治め、
徳川家後継問題では、

 台徳院殿智勇かね備りたまふ、天下を譲りたまはむこと
 この君ををきて誰かあるべき
 (『寛政重修諸家譜』)

と、忠隣が強く進言し、将軍に秀忠が決まったという過去もあった。
秀忠自身は、大久保家改易に思うものがあったのだろう。
名誉挽回、あるいは起死回生の好機とばかりに、
その年の冬に勃発した“大坂の冬の陣”で、
石川忠総を従軍させるのである。

石川忠総は、そこで見事な働きを見せる。
“薄田兼相”の守る博労ヶ淵の砦を奪還するのだ。
薄田は剛勇で知られる武将だが、
大坂城の堅固な守りに油断したのか、遊郭で遊んでいたらしい。
その油断を突いたのが、石川忠総・蜂須賀至鎮・池田忠雄の東軍だった。

忠総は五艘の舟で進軍する。
至鎮は水陸に分かれて進み、一気に敵陣を急襲した。
砦に詰めていた大坂方はたちまち瓦解。
木戸が破られるや否や、兵たちは砦を捨てて敗走したのである。
ときに慶長19年11月29日のことだった。

石川忠総は何を思っただろう。
大久保家の誇りを胸に戦ったのかもしれない。

冬の陣は、徳川と豊臣の和睦が成立し、
大坂城が落城するのは翌年の5月であることは周知の通りだ。
冬の陣で活躍を見せた石川忠総だったが、
大久保家の再興には到らなかった。
ただ、忠総自身は大垣藩5万石を拝領している。

徳川家康は元和2年(1616)に死去。
家康亡きあと、徳川秀忠は近江の彦根藩に蟄居している忠隣に、
申し開きを勧めた。
すなわち、秀忠自身は再度の取り立てする気持ちでいたのだろう。

しかし、忠隣は首を横に振る。
ここで取り立てられれば、大御所(家康)の過ちを表すようなものゆえ、

 古人謂はすや君辱かしめらるるときは臣死すと、
 然らば何ぞ己を立んと欲して君を辱かしめんや

と述べ、申し開きをしなかったという(『井伊家家譜』)。
忠隣は、最後まで忠義を貫き通したかったのだろう。
石川忠総もそんな父の気持ちがわかっていただろうか。

忠隣は寛永5年(1628)に死去。
忠総は慶安3年(1650)にこの世を去る。

大久保家一族はその後取り立てられ、
忠朝の時代には小田原城に返り咲く。
忠隣や忠総は家の改易という憂き目を通らねばならなかったが、
その忠義の魂はいまも語り継がれている。

※最初の写真は小田原城(神奈川県小田原市)
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加須には“館跡”と“陣屋跡”がある? ―礼羽氏と設楽氏―

2012年04月20日 | ふるさと人物部屋
近々、加須の歴史家さんにお呼ばれし、
話をすることになっている。
加須のみなさん、よろしくお願いします。

小学生の頃、従兄が加須の礼羽に住んでいた。
年の離れていない従兄だったから仲が良くて、
礼羽によく遊びに行っていたのを覚えている。

北に礼羽小学校、南にはゴミ焼却場が見えた。
礼羽から加須の駅前まで、よく歩いて出掛けた。
ゲームや「ビックリマンチョコ」を買うためで、
小学生の足には駅前までの道のりは遠かった。

いまにして思うと、史跡の前をよく通っていたんだなと思う。
当時は知らなかったから、目に留まることさえなかった。

礼羽には、武蔵武士“礼羽氏”が住んでいた地とされる。
『吾妻鏡』にも載っている武士で、
番場などの地名が残っているのも礼羽氏を伝えるものだろうか。

「伝承礼羽館」は、従兄の住んでいたアパートの近くにある。
現在は畑と民家になっていて、館を思わせるものは何もない。

天正18年(1590)に徳川家康が関東に入府して以降、
旗本“設楽氏(したら)”が加須、礼羽、馬内、戸崎の村々を知行した。

設楽氏は、元は今川家に仕える武士である。
今川義元が死去すると、徳川家康に従属。
徳川家のもとで、姉川の合戦や長篠合戦などに参陣した。

しかし、突然徳川家を離れ、相模の後北条氏に仕えるようになる。
その理由はよくわかっていない。
元々武功に優れていたため、
北条家の合戦で感状を貰うほど活躍した。

ところが、設楽氏は再び家康のもとに戻ったらしい。
家康も特に咎めることはなかった。
天正18年、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏は没落。
関東を与えられた家康は知行替えとなる。

このとき、設楽貞清に加須、礼羽、馬内の1500石の知行地が与えられた。
その後、戸崎村が加わり、2150石となる。

設楽氏の陣屋は、最初礼羽にあったという。
礼羽氏館の近くに、伝承陣屋跡がある。
やはりここも民家と広場だ。
標柱は建っているものの、車なら気付かず通り過ぎてしまうかもしれない。

なお、礼羽の金蓮院、馬内の香積寺を貞清は開基している。
後者には設楽氏累代の墓碑が建ち並び、
かつてこの村にいた設楽氏を偲ぶことができるだろう。

その後、設楽氏は陣屋を加須に移している。
場所は現在の駅前通りの一角だが、遺構もなければ標柱もない。
ただ、「陣屋会館」という名の建物がある。
それは設楽氏陣屋の名残だろう。

設楽氏の知行は幕末まで続いた。
ほかの村が次々に領主が変わるのに、
設楽氏の知行地はずっと変わらず、
陣屋を拠点としていたのである。
設楽氏と縁戚関係にある羽生城主大久保忠隣や、
騎西城主大久保忠職が次々に北武蔵から去っていくのに反して……

設楽氏の陣屋跡は建物が並び、辺りはアスファルトに覆われ、
面影は一切見当たらない。
小学生がそこを通って、陣屋址などと気付くはずもない。
旗本設楽氏の存在すら知らなかった。

ちなみに、従兄はすでに引っ越して、礼羽にはもういない。
従兄が住んでいたアパートも取り壊され、
その跡地には新興住宅が建っている。
鎌倉時代や江戸時代初期に思いを馳せるより、
小学生時代を振り返ることの方が昔に感じるのはなぜだろう。

いまでも時折礼羽を通り過ぎる。
景色はほとんど変わっていない。
小学校もあるし、ゴミ焼却場も健在だ。
いまこの地を通り過ぎるたび、
小学生時代の記憶と、武蔵武士や旗本の時代が重なって見える。


伝承陣屋跡(埼玉県加須市礼羽)
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騎西・加須・羽生は“大久保家”の足跡が残る?

2012年04月18日 | ふるさと人物部屋
天正18年(1590)に徳川家康が関東に入府後、
主立った城には徳川の重臣たちが配置された。

騎西城は“松平康重”が入城。
(ほんの一時期忍城にいた)
2万石の配領だったが、実質的には1万4千石だったという。

その後、康重の転封に代わって同城に入ったのは“大久保忠常”だった。
忠常は“大久保忠隣”の嫡男である。
忠隣は小田原城主としてのイメージが強いが、
武州羽生城主も兼ねていた。

また、加須村・礼羽村・戸崎村などを知行する“設楽貞清”は、
大久保忠世の娘を奥方に迎えている。
つまり、近世初期において、現在の市域(羽生市・加須市)は、
大久保一族の知行する地だったのだ。

現在に残る羽生城絵図(「浅野文庫蔵諸国古城之図」)と、
騎西城絵図(「武州騎西城絵図」)は、構成がよく似ている。
羽生城絵図を半転させると、騎西城絵図と重なるのだ。
同じ大久保一族の城である両城は、
近世を迎えて同時期に整備したと考えられる。

「もし」の言葉は歴史に禁句かもしれない。
でも、「もし」忠常が慶長16年(1611)10月10日に32歳で死去しなければ、
大久保家のその後は違っていたと考えるのは自然だろう。

忠常は「天性温順」で「慈悲深」く、「賢人」であったらしい。
その死に幕府の要人たちは、大久保家へ駆けつけた。
また、父忠隣の落胆ぶりは大きく、公務に支障をきたすほどだった。

大久保忠隣が改易になったのは、
忠常の死からわずか3年後の慶長19年のことだった。
なぜ改易になったのか、その理由はよくわかっていない。
本多正信の企てによる説が往古から囁かれている。

慶長5年(1600)の上田城攻めの際、
忠常の家臣“杉浦惣左衛門”が軍法に違反したとして、
正信に咎められたことがあった。

その一件によって両者の間には溝が生まれ、
正信は忠常の死をきっかけにして仕掛けを打ち、
大久保家を政治の舞台から引きずり降ろしたのかもしれない。
真実は藪の中である。

忠常の死後、騎西城の遺領は嫡子の“忠職”(ただもと)が継いだ。
忠隣の改易で、羽生城は廃城となったが、
騎西城は没収されなかった。
ただ、忠職は蟄居の身となる。
その間、騎西城は冨塚三右衛門ら重臣たちが守っていた。

忠職の蟄居が解けたのは、寛永2年(1625)のことである。
それから7年後の同9年に、忠職は美濃国加納へ領地替えとなった。
これにより騎西城は廃城。
羽生城に続き、北武蔵から大久保一族は去っていった。

ちなみに、大久保忠常の墓碑は小田原の“大久寺”にある。
法名は「如法院日性大居士」で、同寺に葬られた。
その隣には父忠隣の墓碑が建っている。
ただし、この墓碑は供養塔。
現在、「大久保家一族の墓所」として、小田原市指定史跡となっている。

なお、大久保家と縁戚関係にある設楽氏は加須に陣屋を構え、
幕末まで続いている。


手前は大久保忠隣の墓碑。
向こうは大久保忠常の墓碑(神奈川県小田原市)
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語学が苦手なのに無謀な“翻訳”に挑戦したお死者さんは?

2012年02月06日 | ふるさと人物部屋
ぼくが英語の勉強に夢中になったのは、
英語教師が好きだったからというややもすると不純な動機だったが、
必要に迫られた人の語学に対するエネルギーはすさまじい。

その人物とは“杉田玄白”。
歴史の教科書でおなじみの蘭方医である。

玄白は藩医の子として生まれ、
幼い頃より医術は身近なものだった。
元より志のある人だったらしい。
青年時代に、外科に新しい領域を見出そうと決意。

しばらくしてオランダ医学に出会い、
江戸に宿泊するオランダ人たちを訪ね、熱心に話を聞いた。
やがて玄白が手にしたのは『ターヘル・アナトミア』という外科の原書だった。
ページを広げてみると、緻密な図版が掲載されている。
そしてズラズラ並ぶオランダ語の文字。

ある日、刑死体の解剖が千手骨ヶ原で実施され、
玄白はそれを見に行く。
そして、肌身離さず読んでいた外科原書の正確さを、
目の当たりにするのである。

とはいえ、玄白はオランダ語ができたわけではない。
図版の正確さを目の当たりにし、原書を翻訳を決意する。
翻訳して日本人にも読めるようになれば、
医術界に大きな影響を及ぼすだろう。

この原書の翻刻作業には、
玄白のほかに“前野良沢”と“中川淳庵”が加わる。
オランダ人女性に惚れていたわけではない。
純粋な向学心と日本のためを思って翻訳に打ち込むのである。

講師がわかりやすく書いた参考書もなければ、
インターネットもない時代である。
「無謀」とも呼べる挑戦だったかもしれない。
玄白自身、櫓も舵もない船で大海原へ乗り出していったようなものだと、
後年『蘭学事始』で述懐している。

しかし、人間やると決めたら、実際に行動する人の方が強い。
後込みして一歩進まなければ、何も始まらないのだ。
「所詮は無理」と言われようと、
人からの批判を恐れず行動した人が“勝ち”なのだ。
玄白も同書で、のちのそしりを恐れているようでは、
何もできぬと述べている。

かくして、翻訳を決意してから3年後に
『ターヘル・アナトミア』の訳書『解体新書』が完成するのである。
三人が額を寄せ、頭を悩まし、苦心して完成させた日本人による翻訳だ。
玄白たちの喜びは一入だっただろう。
また、日本における「翻訳」に大きな影響を及ぼすことになった。

玄白先生が教えるところは、「後込みせずにやれ」ということだろう。
動機はなんでもいい。
世界の入口は、人の数だけある。
ただ、そのあと継続し、高い壁が立ちふさがっても、
「無理」と自ら退かずに挑戦する人はどれほどいるだろう。

文化の歴史で名を刻んでいる人の多くは、
「初めて」を成し遂げた人である。
人は常識を越えたものに遭遇すると、
後込みをするし、ときには批判をする。

「常識」を絶対の基準にすると、
事なかれであっても、新しい創造を成し遂げることはない。
「常識」の先に新しさがある。

杉田玄白が外科原書の翻訳を決意したのは39歳のとき。
決して若くはない。
しかし、後込みせずに、羅針盤も持たないままに挑戦した。
そのエネルギーは、新しい時代の到来を予感した日本人の
エネルギーそのものだっただろうか。

無謀な挑戦をしたゆえに現在の「杉田玄白」がある。
もし後込みして行動に移さなかったら、
教科書に載ることはなかっただろう。
その名はとっくに死んでいたに違いない。
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郷土の画家が歩んだ60年の軌跡を見ませんか? ―斎藤敬一―

2011年12月09日 | ふるさと人物部屋
絵を描くのが苦手だ。
絵画史や画家は好きで、
文房具屋へ行くとつい画材を覗いてしまうのだが、
自分で実際に描くとなると話はまるで別だ。

身の回りで絵に携わる人が何人か存在する。
幼なじみの一人は精密な静物画を描き、
同級生の一人は漫画で生活している。

定年退職後、絵画の勉強をすべく大学へ入学した人を二人知っているし、
ある公的なものにイラストを描いている人もいる。
叔父は油絵を描き、
学生時代の知人は漫画家のアシスタントをしていた。

ぼくも仕事で絵のようなものを描くことがある。
作品ではない。
調査のためのスケッチに近いもの。
それを描くのですら苦痛に感じる。

学生時代、図工・美術の成績は決してよくなかったと思う。
記憶していないのだから、大した成績でなかったことは間違いない。
写生会も、画用紙に何か埋まればいいという感じ。
空になぜか水を塗ったこともある。

昨年、一緒に働いた仲間は絵心のある人だった。
スケッチを描かせるとやはり違う。
線1本からして違うのだ。

それもそのはず。
かつてスケブ友だち(?)がいたという。
それは交換日記のようなもので、
日記の代わりにスケッチブックに絵を描いて交換するというのだ。

スケブ友だち、おそるべし。
ぼくには到底真似できないことである。

ところで、現在羽生郷土資料館では、
“斎藤敬一氏画作60年回顧自選展”を開催している。

斎藤氏は、昭和6年生まれの羽生市内在住の画家。
教師として奉職する傍ら、コツコツと画作を営み、
昭和47年には一期展や総理大臣賞、毎日新聞社賞を受賞した経歴を持つ。
80歳を迎えたいまも、精力的に筆を執っている。

その画作60年を振り返り、
自選した絵画を一堂に会した展覧会を同館で行っている。
いわば、これまでの画作の集大成である。

斎藤氏の作品について、佃堅輔氏が「個性的色彩の合奏」と評しているように、
見る者の目を奪う色彩に彩られている。
明るくカラフルで、何よりもエネルギーが伝わってくる。

キャンバスから熱気がむんむんと放たれているのだ。
100号サイズを越すものが多く、
圧倒的な迫力もある。

作品から伝わるエネルギーとは何か?
それは、斎藤氏の魂そのものだろう。
何かしらの表現者であるならば、
見るだけで創作欲を刺激されるかもしれない。

ぼく自身、絵は全く描かないし、描けないのだが、
斎藤氏の絵を見ていると、
心がウズウズしてくるのだ。
一気呵成に何かを心強く表現したくなる。

斎藤氏は教員だったため、営利を目的に描いていたわけではない。
本人が述懐しているが、
絵を本業にしようとは考えなかったらしい。

そんな氏の作品に心の魂を感じるのは、
もしかすると本当に描きたいものを描いているからなのかもしれない。
見る者の目を全く意識しないわけではないだろうが、
ウケを狙おうという下心が感じられないのである。
見ていて気持ちがいい。
斎藤氏にしかできない仕事である。

この回顧展は資料館事業ではない。
ゆえに、開催期間は12月4日から同月11日(日)までと短い。
入館は無料。
開館時間は9時〜17時までである。

斎藤氏をよく知る教え子も多いと思う。
中には表現者になった人もいるのかもしれない。
この機会に、色彩豊かな斎藤氏の世界に触れてみてはいかがだろうか。
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密通した妻に“熊谷の書家”がとった行動とは?

2011年08月13日 | ふるさと人物部屋
東日本大震災以来、古地図を見る人が増えている。
かつて、そこがどんな地形をしていたのか調べるためだ。

羽生にも何枚かの古地図がある。
その中で“絵図”として見られるのは「東谷の絵図」だ。
幕末の東谷(ひがしや)を描いたもので、
場所は現在の東2、5丁目に当たる。

いまと違って民家が少なく、田畑が広がっている。
古城天満宮の杜は深く、
葛西用水路に架かる“城橋”は木橋だ。
ところどころに樹木が立ち、
羽生城の遺構の土塁とおぼしきものもある。

この絵図に片隅に、「蘆洲一木習画」と記されている。
すなわち、“一木蘆洲”なる人物が描いた絵図ということである。

『幽嶂閑話』(林有章)によると、
この蘆洲という人は変わった人物だったらしい。
元は江戸の生まれで、慶應年間に熊谷へ越してきた。
椿椿山の門下に習い、書家として文化的活動をしていた。

ある日、蘆洲は家に妻と書生を残して遊歴に出かけた。
しばらくして家に戻ると、
妻と書生は密通を交わしていたという。
この事実を前にしたとき、
どんな行動を取るかは男の器量次第だろう。

蘆洲は激しい。
単に怒るわけでもなければ、泣き寝入りしたわけでもない。
何をしたかというと、
実の妻を八王子の遊郭に売り飛ばしたのである。

妻も負けてはいない。
妻を売ったお金を手にして去ろうとする夫に、
「待ちなさい」と声をかける。
そしてこう言った。

「女房を売った金でイケシャアシャと帰るおつもりか。何て見下げた男だろう。
いっそのこと、ここで綺麗さっぱり使い果たしてから帰りなさい」

妻にこんなことを言われたら、
男であるあなたはどんな行動を取るだろうか?
また、女であるあなたはこの妻をどう思うだろうか?

蘆洲は「変わった人」である。
「それもそうだ」と頷くと、
遊郭の女郎をわんさか呼び出した。

飲めや唄えやのドンチャン騒ぎをし、
瞬く間にお金を使い果たした。
その酒を蘆洲はどう味わい、
その騒ぎは妻に耳にどう聞こえただろう。

妻を売ったお金が全てなくなると、
蘆洲は「イケシャアシャア」と熊谷に帰ったという。
遊郭を振り返ることはなかった。

家にはむろん書生はいない。
妻との密通が明らかになったあと、放逐したからだ。

蘆洲は熊谷で没。
その亡骸は熊谷寺に埋められた。
武蔵武士“熊谷直実”の眠る墓所だ。

変わり者とはいえ、だからこそ、人々に慕われたことだろう。
文化人との交流も少なくなかった。

このような逸話のある一木蘆洲の描いた「東谷の絵図」が、
羽生に現存している。
そしてそれは、遺構が完全に消滅した羽生城の面影を、
わずかばかりに偲ばせてくれる。

ちなみに、遊郭に売り飛ばされた蘆洲の妻が、
その後どうなったのかは知らない。


熊谷寺(埼玉県熊谷市)
熊谷直実の墓所としても有名


「東谷の絵図」にも描かれている古城天満宮(埼玉県羽生市)
上の画像は12月25日の酉の市の様子
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久喜には“神道無念流”の道場があった? ―戸賀崎暉芳―

2011年06月30日 | ふるさと人物部屋
“神道無念流”は剣術の流派である。
江戸三代流派の一つで、
“福井兵右衛門嘉平”によって創始された。

信州の戸隠山で扇を極め、元文5年(1740)に江戸の四谷に道場を開いた。
嘉平38歳のときである。

この道場に “戸賀崎暉芳”(とがさきてるよし)が入門したのは、
宝暦9年(1759)のことだった。
彼は埼玉郡上清久村(現久喜市)に生まれ、
地方の有力農民が剣術を習う時勢の中、
嘉平の道場の戸を叩いたのである。

その才は目覚ましく、グングン腕を上げる。
師の嘉平も目を見張るほどだった。
暉芳が神道無念流の免許皆伝を受けたのは宝暦13年のことである。
当時21歳という若さ。
しかし、神道無念流を背負って立つに恥じない剣術家と成長する。

暉芳は郷里に帰ると、道場を建てた。
しばらく門弟の指導にあたっていたが、やがて修行の旅に出る。
「撃剣器械」を筐櫃の中に収めて巡り歩いたという。

腕を磨き、見聞を広めた暉芳が江戸裏二番(千代田区麹町)に道場を建てたのは、
35歳のときのことだった。
そして神道無念流の名を天下に轟かせたのは、
天明3年(1783)に門人の大橋富吉を助けて仇討ちを遂げさせたからである。
暉芳の道場の門を叩く者は後を絶たず、
剣術のみならず、その精神をも指導した。

そんな弟子の一人に“岡田十松”(おかだじゅうまつ)がいる。
羽生領砂山村(現羽生市)の出身で、暉芳の郷里とさほど離れていない。
十松の剣術は見る者を圧倒させ、
神道無念流の後継者にふさわしかった。

戸賀崎暉芳が岡田十松に道場を託したのは寛政7年(1795)のことである。
ホッとした反面、寂しさに似たものがあっただろうか。
このときは、剣に生きた己の道を振り返ったのかもしれない。

暉芳は郷里に戻り、帰農した。
帰農したとはいえ、郷里の道場で門弟を指導する日々を送る。
壁に“演武場壁書”を掲げ、
近郷の多くの門弟に厳しくも愛ある指導を行った。

知道軒と号した暉芳は、文化6年(1809)5月11日にこの世を去る。
体は滅しても、その心は時代を越えて生き続けた。

暉芳が建てた郷里上清久の道場は、
150年以上にもわたり多くの人々を指導するのである。
子孫が道場を継ぎ、
近郷の才ある弟子たちがこれを支えた。
明治10年に“菖蒲神社”に奉納された額を見ても、
その影響力の大きさを伺い知ることができるだろう。

上清久の戸賀崎道場が閉じられたのは、大正の中頃だった。
その終焉は、何の終わりを告げるものだっただろうか。
戸賀崎道場はすでになく、
現在その跡地には、かつての隆昌を伝える碑が建っている。


神道無念流の剣術家“戸賀崎暉芳”の夢の跡(埼玉県久喜市)




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“愛”を伝えた剣術家は? ―小沢愛次郎―

2011年06月29日 | ふるさと人物部屋
松村勝芳が志多見村(加須市)で道場を開き、
多くの農民を剣術指導に当たっていたように、
近郷の村々でも剣術は流行していた。

各村で道場が開かれ、
農業の合間に盛んに剣を振る。
砂山村(羽生市)出身の“岡田十松”は、
郷里に道場は開いていないが、
江戸で剣術指導にあたり、
神道無念流の中興の祖と言われるまで発展させた。

剣というより刀は、日本人の精神と言われる。
実践がほとんどない江戸時代においては、
刀はいつしか日本人の精神を宿すものとなっていったのだろう。

“武道”を、学校の正課体育に取り入れた人物がいる。
その人物の名は“小沢愛次郎”。
小針村(行田市)に生まれ、
桑崎村(羽生市)の小沢家の養子になった経歴を持つ。

愛次郎の流派は、“小野派一刀流”。
ほかにも、鏡心明智流や直心影流などの流派も極め、
まさに「剣術家」であった。
桑崎村に“興武館”という道場を設け、
多くの門弟の指導にあたった。

そんな愛次郎は明治31年から衆議院議員になり、
その剣術のごとく、国政に敏腕をふるうことになる。
前述したように、武道を学校の体育に取り入れたのも、
愛次郎の大きな仕事の一つである。

国会議員という肩書きを持っても、
その精神は剣術家のままだったのだろう。
学校で剣術指導に尽力したり、
大日本武徳会埼玉支部の名誉教授となって、
後進の者を育てた。

天覧試合も行い、まさに剣に生きた人物だった。
そんな小沢愛次郎は昭和25年6月19日にこの世を去る。
87年の生涯だった。

しかし、その魂は脈々と受け継がれている。
興武館は現在も営まれ、
剣術を学ぶ者は多い。
また、学校教育の場では、
武道が再び義務化されることになったのである。
愛次郎の魂は時代を越えて生きていると言えよう。

愛次郎の精神の根幹にあるのは、
その名前にある文字のごとく「愛」だろうか。
剣術を学ぶことも、
前向きに生きることと同義である。
岡田十松が指導した剣術も、
人を傷つけるためのものではなかっただろう。

義務化される武道によって、
世代を越えた「愛」が育まれるに違いない。


小沢愛次郎の胸像(埼玉県羽生市)
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剣豪“岡田十松”も通った志多見の道場は? ―松村勝芳―

2011年06月28日 | ふるさと人物部屋
江戸時代、“武道”を習う農民が多かった。
彼らは村の道場へ通って剣術を学ぶ。
その一つが“志多見村”(加須市)にあった。

“松村勝芳”によって開設された松村道場である。
源六郎の流派は“神道無念流”。
江戸の三大流派の一つであり、
“福井兵右衛門”によって創始された流派だった。

兵右衛門の道場で学んだ“戸賀崎熊太郎暉芳”は、
免許皆伝を許されると、郷里の清久村(久喜市)で道場を開き、
勝芳はそこで神道無念流を学んだ。
そして、志多見で道場に道場を開くと、
子弟の教育に励んだのである。

松村勝芳だけでなく、近郷でも道場が開設され、
剣術の指導にあたっていた。
松村道場の門を叩いた者の中に、“岡田十松”がいる。
砂山村(羽生市)出身の十松は勝芳に習ったのち、
戸賀崎熊太郎暉芳の弟子となり、奥義を極めた。
そして、神道無念流を世に広めていくのである。

剣術を習う者はどんなタイプだったのだろう。
荒くれ者もいただろうし、
強さを内に秘めた者もいたかもしれない。
剣術によって、精神に与える影響は少なくなかったに違いない。

勝芳は俳諧にも優れた人物だった。
華道にも覚えがあり、
まさに文武両道の人物だったと言えよう。
北武蔵の地に生きた文化人だった。

志多見村の名主や代官を務めながらも、
多くの者を剣術指導した松村勝芳は文化14年(1817)に亡くなる。
大勢の弟子が涙したに違いない。
岡田十松の基礎を作り上げた松村勝芳は、
志多見に静かに眠っている。


岡田十松が父親のために建てた墓碑(埼玉県羽生市)

※最初の画像は志多見の風景(同県加須市)
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吉見百穴の発掘に私費を投じた人は? ―根岸武香―

2011年05月11日 | ふるさと人物部屋
吉見百穴を発掘調査したのは、
当時東京大学大学院生の“坪井正五郎”だったことはよく知られているが、
その影で力を尽くした“根岸武香”を忘れてはいけない。
(大沢藤吉も)

武香は根岸友山の次男として生まれ、
貴族員議員や県会議長を務めた政治家である。

しかし、考古学への関心は高く、
古くから横穴の存在が知られていた“吉見百穴”がどんなものなのか、
かねてから心をくすぐられていたのだろう。
坪井正五郎が発掘を提案したとき、
武香はその背中を後押しした。

武香も調査に加わったが、要はスポンサー的存在である。
多くの私費と投じ、
若き学徒の調査に協力した。
大学側も出資しなかったわけではない。
しかし、発掘にかかる費用のほとんどを出資したのは武香だった。

6ヶ月にわたる調査の結果、237基の横穴を発見。
この穴は一体何なのか?
古代人の住居跡と言う人もいれば、
松山城の武器庫と説く人もいた。
考古学界に大きな波紋を呼び、
しばらく学者や考古ファンから熱い視線を浴びた。

発掘終了後も武香は保存事業に努める。
今日、この百穴が見られるのも、
武香らの尽力によると言っても過言ではないだろう。
一度、国への献納を試みたのだが却下され、
自ら保存のために尽力した。
武香が50歳のときだった。

彼が亡くなるのは、その14年後の明治35年のときである。
肉体は消えても魂は生き続ける。
第二次世界大戦中に百穴内に地下工場が建設され、
その一部が破壊されたが、まもなく終戦を迎えた。
その後、地元の人たちが保存に尽力する。
武香の魂は後世の人たちに引き継がれたと言えよう。

いまでも多くの人たちがここを訪れ、見学している。
無数に穿たれた穴はインパクトがあるし、
想像力も刺激する。
武香もまたこの地で古代に想いを馳せたのだろう。

文化財はいまの世代から次世代へとつながっていく。
そこには時代の流れによる大きな試練もあるかもしれない。
消えていったものも少なくない。
文化財を守るも壊すのも、いまを生きる人たちである。
しかし、武香が残した魂と史跡は、
これからもずっと生き続けるのだろう。


吉見百穴(埼玉県比企郡吉見町)




地下工場址
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清水卯三郎の“特別展”へ行きませんか?

2011年01月19日 | ふるさと人物部屋
前日に虫歯の記事を書いたが(「虫歯地蔵」)、
歯科医院で当たり前に目にする歯科器械は、
最初からそこにあったわけではない。

元々は、外国で作られたものだった。
それを初めて日本に輸入したのは“清水卯三郎”という人物である。
卯三郎はいち商人だが、
幕末日本が揺れている中、パリ万博など外国で見聞を広め、
西洋文化を日本に多く取り入れた人物だった。

その中の一つが歯科器材であり、
明治24年には「歯科雑誌」を創刊している。
歯科器材専門の商人というわけではなく、ほかにも西洋花火や活版器械、
鉱物標本などを日本に取り寄せた。

なお、教育の大切さを肌で実感した卯三郎は、
誰もが理解できる文字で書物を読めるようにと、
“かな文字”で著すよう主張した。

卯三郎は一介の商人だったかもしれないが、
日本が近代化の道を歩んでいく時代の中で、
西洋の文化を取り寄せ、教育に力を注ぎ、
新しい時代を切り開いていったのである。

その清水卯三郎の“特別展”が、
羽生の郷土資料館で開催される。
2011年は卯三郎が没して100年目の年。
埋もれかかったこの人物の軌跡を、
肌で感じてはいかがだろうか?

<清水卯三郎没後100年記念展 〜焔のごとく生きて〜>
期間:1月22日(土)〜2月27日(日)
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:毎週火曜日、1月27日、2月24日
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


清水卯三郎の生家跡(埼玉県羽生市)
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静御前の舞を伴奏した“武蔵武士”は? ―畠山重忠―

2010年08月10日 | ふるさと人物部屋
武蔵武士“畠山重忠”は、
猪突猛進的な武士だったわけではない。

“源頼朝”に仕えてから、約500騎を従えて平家と戦った。
頼朝の鎌倉入りや奥州征伐、上洛では先陣を務め、
その活躍は『吾妻鏡』や『平家物語』に多く見ることができる。

そんな武士的性格の強い一面、
重忠は教養人でもあった。
“静御前”が鶴岡八幡宮にて、
頼朝の前で舞を舞ったことは有名である。

静は源義経の結ばれてはいけない恋人。
義経はこのとき、頼朝の不信を買って追われる身となっていた。
静御前はこの敵(かたき)と言える頼朝の前で、
舞を舞わなければならない。
彼女の心は大きく揺れただろう。

しかし、静は逃げることなく頼朝の前に現れる。
白い小袖一重ねの上に唐綾を重ね、白い袴姿で、
その手には真紅の扇を持っていた。

彼女は毅然とした態度で頼朝に向かう。
そして、静かに舞を舞い始めた。
遠くへ逃れる義経と、身体に宿した義経の子を想いながら……

 しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな
 吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき

静御前はそんな歌を口にする。
明らかに、彼女の頼朝に対する反発だった。
そんな彼女の後ろで銅拍子を打っていたのが畠山重忠である。

彼もまた、静御前の悲しい舞と歌を目にしていた。
歌舞の才を持つ重忠は、戦場をただひた走るだけの武士ではなかった。
人より抜きん出た知を持つ。

そんな彼が好奇の目で静を見ていたはずがない。
彼女の悲しみを重忠は深く感じていた。
その悲しみが銅拍子の音にも表れる。

しかし、御恩のある頼朝の前で、彼女に同情するわけにはいかない。
静の悲しみを感じながらもそれを隠し、
銅拍子を打っていた。

静御前の舞がいまなお人々の心を打つのは、
彼女の想いのみならず、
伴奏を務める重忠らの音が悲しく響いてくるからだろう。

奥州に逃げ延びていた義経は、
文治4年閏4月30日に自害して果てる。
義経のあとを追っていた静御前が、
死の知らせを受けたのは武蔵国栗橋だったという。
病に倒れ、そのまま息を引き取る。

義経は藤原秀衡の後ろ盾を失い、
坂道を転げ落ちるようにこの世を去った。
31年の生涯だった。

実は畠山重忠も源頼朝を亡くしてから、
歯車が狂ってしまう。
人々の思惑の中、二俣川で北条泰時らの軍と干戈を交え、
波乱に満ちたその生涯を終えたのだった。



畠山重忠像(埼玉県比企郡嵐山)



畠山重忠が居館していた“菅谷館”の本郭(同上)
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武蔵武士“畠山重忠”はなぜ3日先のことまでわかったのか?

2010年08月08日 | ふるさと人物部屋
“畠山重忠”は武蔵武士の典型と言われる。
『平家物語』や『吾妻鏡』などの書物に登場し、
その活躍が伝えられている。

得てして、人物が放つ光りが強ければ強いほど、
カリスマ性を帯びてくるものである。
つまり、伝説が発生しやすい。

畠山重忠は3日先のことまでわかる能力を有していたという。
重忠が生まれる前のこと、
大陽寺を開いた僧のもとへ美しい女が現れた。
やがて二人は一緒に暮らすようになる。

女は子を身ごもると、ある禁を僧に律した。
7日の間、女の姿を見てはいけないというものだった。
周知のように、伝説や昔話にはタブーがよく登場する。

僧は頷くが、人は禁じられた方へ引き寄せられるもの。
「押すな」と書かれたボタンを押してしまうようなものである。
僧は我慢できず、3日目に女がこもった部屋を開けてしまう。
そこには、とぐろを巻いた大蛇の姿があった。

「生まれた子はまぎれもなくあなたの子である。あなたが育ててください」
大蛇はそう言うと、姿を消したという。
いわゆる「蛇女房」であり、異類婚姻である。
蛇は邪悪なものとする考え方もある一方で、神聖視もされている。
また、僧も聖なる人間である。

聖と聖、または水神と化身も言われる蛇(異類)との間に生まれたとして、
重忠は人智を越えた人物に描かれるようになったのだろう。
3日先のことまでわかるという特殊な能力が備わったのも、
僧が3日目に禁を破ったからだという。
もし禁を守ったならば、7日先のことまでわかっただろうか。

だとすれば、北条泰時率いる鎌倉軍に、
二俣川で討たれることもなかったかもしれない。
あくまでも伝説である。
重忠の母は三浦義明の娘とされている。



菅谷館(埼玉県比企郡嵐山)
畠山重忠の居館跡


※最初の画像は菅谷館跡に建つ畠山重忠像
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鴻巣に眠る旅する“地誌家”は? ―福島東雄―

2010年07月18日 | ふるさと人物部屋
昔から、本や文の香りのする人が好きだ。
「知的」とはおおよそ無関係な環境で育ってきたせいか、
本や文の香りのする人は憧れだったのだと思う。
いまなおその憧れは強い。

“福島東雄”も、本と文の香りがする。
東雄(あずまお)は江戸時代の郷土史家である。
現在の鴻巣に生まれた。

郷土史家と言うより、地誌家と呼びたい。
武蔵国の歴史を調べる上で、
『新編武蔵風土記稿』は避けて通れない史料だが、
東雄はその先駆けとなる『武蔵志』を著した人物である。

実地へ赴き、自分の目と足で調べたのだろう。
寛政後半から享和2年以前に『武蔵志(鑑)』をしたためている。

ところで、ぼくは「旅行」は嫌いだが、「踏査」は好きだ。
「旅行」でストレスを解消したり、心の洗濯をしたことはない。
本を読んだり、物を書いたりする方が、正直言って充実感がある。

ただ、「踏査」には心ときめく。
憧れの歴史舞台や、好きな人物、文学者が生きた地、ゆかりの場所。
取材に近いかもしれないが、
激写しつつ想いを馳せたい。
そしてそれを物書きの題材にしたい。

要は、テーマが有るか否かである。
「テーマ」というと小難しそうだが、
どこかへ行くときは、そこを見る視点を定めたい。
福島東雄は地誌編纂というテーマと視点を持っていた。
だから、自らの道しるべをもって村々を訪ね歩いたのだ。

やがてそれを筆にしたためる。
どんなことに想いを馳せ、筆を走らせたのだろう。
幕府が地誌編纂事業として手をつける前に、
東雄は個人で地誌『武蔵志』を成立させている。
個人ゆえに踏査できなかった地はあるものの、
知的なその旅はかっこいい。

東雄は限られた地域の踏査だったが、
日本全国を舞台にしたのは民俗学者“宮本常一”だろう。
ただの観光旅行とはわけが違う。
彼らにはテーマがあり、それを記録(本)にしている。
誰にもできない旅をして、やがてそれが道になる。
歴史になる。

福島東雄は、鴻巣の“勝願寺”に眠っている。
墓地の一角にあって、
文化財標柱がなかったら通り過ぎてしまうに違いない。
誰もが知っている人物というわけではない。

でも、そこには仄かに本と文の香りがする。
おそらく東雄はそこにはいないのかもしれない。
きっといまもどこかを旅してる……



勝願寺(埼玉県鴻巣市)
最初の画像は福島東雄の墓碑
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