ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

感覚の話

2017年04月28日 00時43分27秒 | Weblog
この前、一日の終わりになるに従って感覚的な時間が短くなっていく
という話をしたが、この論法は一年の12か月にも当てはまり、毎年の
ようにしつこく言及している一月から四月にかけて時間が加速する
現象についての答えとなるのではないかと思い至る。

つまり、一年間のうちの一か月ないしは一週間、一日の感覚は四月か
五月の初めごろにリセットされ、そこから母数が累積していく中で
一日や一週間を感じていくというカラクリではなかろうか、という話。
これならば三月や四月に時が加速するような感覚に、ある程度納得のいく
説明がつく。個人的な感覚で言えば、5月に調子が良くなるという
現象の説明もつく。

問題は、一年のスタートがいつであるかが果たして共通なものなのか、
という点。共通であるとしたらそのスイッチとなるものは何なのか。
共通でないのならば、例えば地域や生活の習慣によって変化するもの
なのか。或いは生まれた月や年によるものなのか。
一年の感覚がどこかでリセットされるという話が本当だったとしても、
これだけの疑問や謎が湧いてくる。

どこかの偉い学者さんが今まさに世界のどこかで調べていたりするの
だろうか。そして、いずれは解明されるのだろうか。
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モノが多いということ

2017年04月26日 00時22分01秒 | Weblog
色々と生活用品が尽きてきたので、近くのスーパーに買い出しでも
と思ったら店が潰れていた。他にも店はいくつかあるので生活に
不自由するというようなことはないが、選択肢が減ってしまうのが
いささか不安、かつ残念である。

たとえば米を買おうとした時に、どこが一番安いかとか、どこが
無洗米の種類が豊富だとかそういった選択肢は、そのまま生活の知恵
になる。選択肢が少なくなれば、最悪の場合結構な値が付いていたと
しても、こんなものかと買ってしまったりしかねない。

ネットで買ったり調べものをすることは、大変に便利ではあるが、
基本的には能動的に調べないとちゃんとした情報は得られず、往々にして
概観することに弱い傾向があるので、思わぬ見落としがあることも
少なくない。先日漫画の新刊に三か月気が付かないままでいたことが
まさにそれの裏付けとも言える。
(本屋に行っても簡単には見つからなかったが)

ウェブ上の書店がもう少し進歩して、一画面から得られる商品の情報が
実際の本屋レベルになったならばその限りではないが、今のところは
やはりどうしても大型書店の、あの大量に同ジャンルの本が並んでいる
状態が一番と感じてやまない。

ともあれ、潰れた店の跡地には、また別の店が建つのか、それとも
駐車場になってしまうのか。果たして。
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だが心中は御免こうむる

2017年04月23日 23時26分52秒 | Weblog
数年前から労基の監査局がどうのとかで、月に一定以上の超過勤務時間が
溜まった社員について、産業医面談とかそういったものが実施されている
のであるが、個人的には何の役に立っているのか分からない。
これで超過勤務が減ったのかというとそんなことはなく、面談が当の本人
だけというのも合点がいかない(本人は必要と感じているから働いている
のであって、作業を振った上司は同席しないで良いのか)。

ある人ははじっくり面談して仕事の時間が削られる(勤務時間が延びる)
のを嫌って、適当に受け答えして流したりという、残業代支給に当たっての
おまけのように感じている節もある。
穿った見方をすれば、労働過多でリタイアとなった時に会社側をして『いや、
あいつ大丈夫って言ってたし。面談したし。』と言って責任を回避するための
方策と思えなくもない。(ちゃんと面談等のケアが機能していれば会社側の
責任は十分に果たしていると言えるが…)

他の会社はどうなのか、おそらくもっとひどい所の方が多いのだろうとは
思うが、もう少し人的資源を大事にして欲しいと思ってやまない。
2~3人潰れたところで、新しい人員を補充した方が早い&安いという現状が
あったにせよ、そこはもう少し長い目で見てくれという話。

話は変わり、体感的時間の話。
例えば五歳の頃の一日の長さの感覚と、30歳の頃の一日の感覚とが違うように、
一日の中の朝10時からの一時間の感覚と夜10時からの一時間の感覚もまた
違うように思う。

良く言われるのは、今まで体験してきた時間の総和に対して、今の時間が
比較対象になるので、後に行くほど感覚的な時間は短くなるという話であるが、
それが一日という短いスパンの中でも起こっているはずだということである。

そしてそれはずっと続くものではなく、どこかでリセットが行われている。
体内時計のリセットという言葉は昔聞いたことがあり、それは朝日を受ける
ことで行われるという内容だったが、その時は一日の感覚(24時間サイクル)
を正しいものにすると解釈していた。それがこの度多分本来の意味にようやく
気が付いたという次第である。

睡眠も大事だが、体内時計のリセットも大事。この二つが揃わないと、どうにも
能率が上がらない。人によっては別の何かで体内時計がリセットされる体質に
なっていることもあるかも知れないが、あまり多くはあるまい。

ともかく思うことは一つ、こんなにもみんなが身を粉にして働かなければ
世の中が回らないというのだろうか?(もっと休みたいなあ…)
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ゾンビモード

2017年04月21日 00時42分54秒 | Weblog
四月に入り、色々と具合が良くなってきたかと感じたが、一種の
錯覚だったようで、週も半ばを過ぎ始めるとやはりいつもの疲労が
訪れる。
とは言え、ここを乗り切らないとどうにもならないので、ブースター
(栄養ドリンク)を解禁することにする。
上は一本数千円するようなものから下はそこらのジュースと変わらない
ようなものまで、実に多種多様な品揃えで、コンビニなどでも一角を
占めるほどの勢力を持っているそれらは、現代日本を下支えする、
いわば『無茶力』の象徴的存在とも言えよう。

もちろんこんなものに頼りたくはないが、綺麗事を言っても身が滅んでは
元も子もないので、過剰摂取しない程度に飲んでいくことにする。
あまり高いのは流石に買う気が起きないので、そこそこ程度のもので
まずは当座をしのいでいく予定。

ある種の自己防衛であるとは言え、我ながらまるでゾンビである。
ここまでしてせねばならないことなのか、他の方法や回避策があるのでは
ないのか、正直なところよく分かってはいない。
ぼんやり感じるのは、割に合わない取引をしているということだ。
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上り始めとなるか

2017年04月19日 00時25分21秒 | Weblog
四月も半ばに差し掛かり、ここ大阪は急に気温が上がり、時に暑いと
感じる程になる。

そんな環境下で、色々な生物たちが堰を切ったように蠢き始めるのを感じる。
即ち、草(カビ含む)、虫(あの虫含む)、動物(ヒト含む)である。
実際にはカビもあの虫もまだ出くわしてはいないが、時間の問題で、かかる
確信を深めたのは残るヒトの活発化、つまり自身の代謝がいきなり良くなり
始めたと感じたためである。

代謝が良くなれば色々良い事があるかというとそうでもなく、汗やら垢やら
それに伴う臭いの心配やらで、あまりそれどころではないのが実情である。
恩恵といえば、飯が美味く感じるくらいか。
とは言え、これからまだ徐々にでも良いことが増えていくのかも知れず、
個人的には、やはり気力の復帰を強く望む次第である。

後は虫やカビが出現しないことも同様に強く望む。まだ越して半年程度だし。
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遺跡の芽吹き

2017年04月16日 23時00分49秒 | Weblog
今週の土日は休日出勤をすまいと、あれやこれや自分自身を納得させる
ような考えを巡らせていたが、それ自体がどうにもどうしようもない行為
であることに気付き、仕事のことは忘れ無心で休日を満喫することに努める。

土曜と日曜がフルに休めるということは、実に素晴らしいことで、今まで
行こうと思って行けなかった近所のカレー屋に行ったり、迷子になる覚悟で
近所を思うさま散歩したり、部屋の掃除をしたり、気ままに絵を描いたり、
そういったことが大体消化できた。溜まったアニメは観れていないが。
時節も都合の良いことに暖かく過ごしやすい頃合いで、願わくはこの休みが
もうあと一週間くらい続いてくれれば、とも思ったりしたが、現実には
戻らねばならず、過去や幻想ばかり見てもいられない。

なお、上で書いたカレー屋は何だか想像していたのと店内の雰囲気が違って
いて、老夫婦が切り盛りする、ごく小規模の居酒屋のような店だった。
大阪に移り住んで以来、ずっと同じ市に住み続けている(引越し後も同じ市内)
が、今住んでいる家から駅と反対方向へ向かうにつれ、昭和臭というか、時に
忘れられたような、あるいは時の目を盗んだような雰囲気が濃くなり始め、
それが大阪の標準仕様であることに今更気が付く。
件のカレー屋もその延長線上にあり、店内のカレンダーには平成表記の他に
なぜか昭和に換算した表記もされており、その感覚を裏付ける。

反して、駅近くでは個人的な憩いの場であった画材屋が来月に閉店という旨で
処分セールを行っており、とても悲しい気分になる。
思えば、住んでいる家の近くでもよく見てみれば"元は店だったもの"が
そこかしこにあった。昭和臭は勝手に残っていたのではなく、誰かが必死で
時の流れを押し止めていた結果なのかもしれない。

在りし日の姿はどれほど栄えていたのか、駅から結構離れた場所にも商店街が
あった理由は何なのか等、色々想像が捗るが、この楽しみは遺跡を巡る時の
それであって、そしてその在りし日というのがおそらく20~30年前という
記憶の及ぶ範囲であることが、やはり物悲しさを助長する。

さりとて、今更戻れもせず、戻る気もないのだが。
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頂き物

2017年04月14日 00時02分50秒 | Weblog
この前の結婚式で頂いた引き出物のお菓子が早くも賞味期限を
迎えそうだったので、深夜家に帰ってから食したところ、案の定
胃痛を伴う胃もたれを起こした。
結構前から胃の力のようなものが低下して、脂っこいものや、
大量の肉や、深夜の食事に対して、腹痛や胃もたれを起こすように
なっていたため、胃薬を常に持ち歩くようにしていたが、今回
その備えが功を奏することになる。

とりあえず睡眠に差し支えない程度に痛み等は治まったが、朝起きても
まだもたれている感があり、なるべく深夜の重い食事は避けていこうと
心に決めた次第である。あと、貰った食べ物はすぐに内容を確認して
出来るだけ速やかに食べてしまうべし、ということも学習した。

同様に頂いたカタログギフトも早く決めて送らねばなるまい。
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仕事と火酒

2017年04月12日 00時13分45秒 | Weblog
例えば仕事で多忙だったり、精神的に倦んできて"もうイヤだ"と
なっても、波が去れば忘れてしまう。
そしてまた同じことを繰り返すというようなループを、思えば随分と
繰り返してきたと感じるが、一体いつになったら学習するというのか。

宴席における火酒のように、勧められては断るわけにもいかず、
むしろつらいのは一瞬だからと、毎度毎度懲りもせず喉を焼いている
ようにも思える。

酒の場合はむしろその後が問題であるのだが、"もうイヤだ"の経験も
やはり大なり小なり蓄積されていくのではないか。
泥酔したりアル中になる事を視野に入れて酒を飲む人があまりいないように、
今のこの場の、その先の苦労や苦痛を考慮して行動出来る人もそう多く
ないように感じる。

まさに個人的にその辺が駄目なので、もっと大人にならねばならぬ。
酒との付き合い方は大分ましになったと思うが、仕事はまだまだと感じる。
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真は冷たく、陽は温かい

2017年04月09日 22時24分50秒 | Weblog
休日は友人の結婚式に列席した。久し振りに着たスーツはきつく
なっていたが、新調した靴の具合は良く、ここ最近鳴りを潜めていた
結婚式の波の再度の訪れにも対応できる自信のようなものを得る。
これからまた何組の夫婦が誕生しようと、変わらない密度で祝福して
やろうと心を決める次第である。

祝う相手がいること。祝賀の席に呼んでもらえること。相手を十分に
祝えるだけの経済的余裕があること。祝宴が盛り上がること。
どれも全て文字通りの意味で、有り難い。

結婚式における披露宴などでは、新郎新婦もしくはその親族の触れる
べからざる部分に関しては"無かったこと"として、その場の皆が皆
言うまでもなく示し合わせたかのように振舞うが、それは欺瞞とか
逃避では断じてなく、優しさであって、個人的にはそういう他人の
温かさに何かとても救われるような心地がする。

真実であるとか正しさであるとか、そんなものはもっと大事な何かの
前ではどうでも良いものなのだと、それで良いのだと実感する。
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そんな価値観

2017年04月07日 00時10分12秒 | Weblog
アニメやドラマ、映画で、男同士の因縁の対決というような
シーンで涙ながらに戦ったり、決着がついてその後すぐに涙ながらの
言上が始まるパターンは割とよくあるが、個人的にはあまり好きではない。
正確に言えば感情移入がその時点で解除されて、興が冷めてしまう。

女の涙は分からないが、男の涙はそんなに垂れ流していいものではなく、
当の本人からして『決定的な精神的不意打ち』を食らったような場面で
しか、流すべきではないと考える。
戦っている最中にそんな精神的揺らぎがあったら、即座に隙となって相手に
やられてしまうだろうし、真剣勝負という切迫感も失せる。
決着が付いた後も、よほどの展開的な、観ている人すら驚くほどの裏切りが
用意されていなければ泣くまでには至らず、そうでなければ『泣く程度の
弱い気持ちで決闘の場に臨んでいたのかよ』というような失望感に似た感情が、
勝利を得たばかりの勝者に対し湧き上がり、スッキリしない。

そして、涙を流すにしてもしゃべりながらというのは美しくない、と考える。
無言か自分に悪態をつきながら流すのが作法ではなかろうか。

涙は声付きの物語においては、非常に効果的かつお手軽な感動発生装置の
ように扱われている節があるが、演出や作画、演技力などがまだ拙かったり
したころならばいざ知らず、最近はそれらのいずれもが高い水準で、しかも
それなりに手の届くところに来ているのだから、しっかり作ったり、実験的な
表現に一歩踏み出しても良いのではなかろうかと考える。

男の涙がどうのとか、その辺の考え方が今と昔で大きく違っているのであれば、
それも分からないが。
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