天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

見ることは書くこと

2024-05-14 06:09:49 | 俳句
畳敷カール

三年前の秋であったか、千畳敷カールへ旅した。木曽駒ケ岳の直下である。俳句には関心があるが吟行はしたことがないHが同行した。俳句を書くときは一人のほうがいいのだが彼がそう邪魔にならないとみて同行を許した。
彼は小生が駒ヶ根駅に降り立つや手帳になにやら書き出したことを興味深く見ていたようだ。嘱目詠は緊張する。見るもの聞くもの、触るもの、嗅ぐもの、舐めるものすべてに気をやる。それは屋内ではできない。
圧巻は千畳敷カールにそそり立つ峨峨たる岩。そこへ谷から吹き上げる霧であった。霧に濡れて小生は立っていた。それを室内で見ていたHが夕食のとき「もっとゆっくり景色を楽しめばいいのに」と言った。このとき俳句をやる者とそうでない者とは千里隔たっていると思った。俳句をやる者にとって書くのは見ること、見ることは書くことであり、表裏一体のコインである。Hの言うように「ゆっくり」は見ていず「厳しく」見ている。タックルと一緒で対象にぶつかって球を得むとする。ラグビー用語でいう「ジャッカル」である。岩にあたる霧を抉るように見続けた。結果、ものになったと思う一句は
吹き上がり崩るる霧や岩襖
であった。緊張して物を見るのが景色を楽しむことなのである。
ブログをやっている小生は写真に撮る趣味もあるが、付き人が写真に堪能ならそれは任せたかった。写真のうまい人がわきにいれば自分でやらなくて済む。ファインダーを覗くより言葉で対象と格闘するほうがずっと興奮するのである。
けれどHは写真もそう巧くなく小生が撮った。書いたり撮ったりは忙しかった。彼がわきで喋らなかったことはよかった。彼のおかげで見ることを深く認識する契機になった。

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以上、鷹5月号「某月某日」から転載した。すでに読んでいる人もいるだろう。そこでこのテキストを書いた後思いついたことを付け加える。

小生の使っているカメラは17000円ていどのバカチョンカメラである。それでもファインダーがあってそれを覗くのが楽しい。
たとえば今、パレスチナの戦場で取材しているとする。花があった。辺りが瓦礫で死者がいて腐臭を放っていたにせよそこにもし花があって撮る気があれば、瑞々しい花の命を切り取ることができる。ファインダーの四角は他の世界を遮断する。この中にある物だけがそのとき世界となる。
この感覚は五七五しか言葉を使えない俳句と似ている。つまり写真も俳句もほかの世界から切り離して自分の狙う世界を造ろうとする。俳句初心者には写真を撮ることをおすすめする。ファインダーを覗くことが見ることの修練になる。切り取ってみるということの。切り取った外は無にできるという感覚も自然に身につくであろう。
俳句の五七五も写真同様に、自分の都合のよい物だけで構成できる。「写生に徹していてけれんがない」という好評を得たとしてもそこに見ていない物が多々あることは評者は指摘しない。見た物もいろいろな見方がある中でひとつの表現を選ぶ。
たとえば、「大榾をかへせば裏は一面火 素十」において、下五に「燃えてゐる」があっても不思議ではない。ここを「一面火」としたことでずば抜けた句になったわけである。「燃えてゐる」ではなくて「一面火」にできるのが俳句なのである。
言葉の練りである。
カメラにこれができるかというと、フィルターを使ったりして若干は可能だが言葉ほどはできない。それが「写真」と呼ばれるゆえんであろう。「真」が映ってしまうのである。よって写真は報道の要となる。
写真家は吹雪の止んだ後の夕日を撮りたいなら山のどこへテントを張ってその時をじっと待つ。ないものは映らないのである。けれど俳句はちょっと見た物を軸に嘘をつくことができる。吹雪の山にいなくてもそれを書くことができる。
俳句は写真よりずっと自由である。言葉は越境し飛躍するのである。ファインダーの中に外の物を引っ張りこめるのである
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