天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

小澤實自選15句を読む

2024-05-09 13:45:50 | 俳句
    
     小澤實句集『澤』2023年11月発行
     /公益財団法人角川文化振興財団/本体価格2700円


小澤實「澤」主宰が去年11月に上梓した第4句集『澤』。その題名は彼が主宰する「澤」からとったという。著者40代半ばから50代半ばに至る作品をまとめている。
この時期は、『芭蕉の風景』のもととなった雑誌連載記事の取材で芭蕉ゆかりの地を訪ね歩いた。それ以外にも日本のさまざまな場所分け入った体験が収録した句に反映している、と作者はいう。
小澤實が自選した15句について天地わたると山野月読が合評する。 天地が●、山野が〇。

島すべて熊蟬領や朝より 
●八丈島のように大きい島ではなく小ぶりの島ですね。船着き場の界隈に十数軒の集落があり背後が切り立って山になっているような島。山は緑濃く背後から熊蟬の声が襲いかかってくる……。 
〇島のどこにいても「熊蝉」の声が聞こえる状況を「熊蝉領」と見立てた句。そうした状況にあることを「朝より」把握できたということは、朝早くから、この大きくはないであろう島をいろいろと巡り歩いたのかも知れません。或いは、「熊蝉領」なることは既に把握済みで、朝起きて「熊蝉」の声が絶えることない、相も変わらぬ状況を「朝より」としたのかも。
●「朝より」という抑えが秀逸だと思います。人間が起きるより早く奴らはもう鳴いていやあがるといった含みがあります。島と蟬を全身で受け止めている句です。

ひとすぢの光は最上鳥渡る 
●「ひとすぢの光は最上」、うまく「川」を省略しました。
〇川を「ひとすじ」と捉えるのは地図で見ることを含めて俯瞰的な視点であるように思えます。そうした措辞の後の「鳥渡る」の効果の面白さ。 
●切れ味のある表現力で新鮮な風景句にしました。

等伯をにくむ永徳草の花 
●長谷川等伯は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。当時は狩野派が全盛で時の為政者にも通じていました。初期は狩野派に学んだ等伯は次第に独自の画風を築いていき狩野派とぶつかるようになる。天正18年(1590年)、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとし、これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消すなど争います。その二人が素材です。 
〇この句をなした契機はわかりませんが、「にくむ」を含む措辞の熱量に対して、そんな感情や世事などどこ吹く風といった熱量無縁の「草の花」の取り合わせ。
●「草の花」を配した意図がよくわかりませんでしたが、あなたがいうように「世事などどこ吹く風」という付け方ですね。

風邪心地ノートパソコン点滅す
●わかりやすい配合です。 
〇ノートパソコンを開き起動させてはいるものの作業などは手につかないような「風邪心地」。

さざなみにさざなみあらた花待てる 
●吉祥寺の井の頭池を思いました。池を眺めていたらさざなみが立ちました。消えるかなあと思ったときまたあらたにさざなみが立った。それが「さざなみにさざなみあらた」です。 
〇措辞は目の効いた把握ですね。事象としては極めて普通のことだとは思うのですが、そう言い表されるまではこうした把握・認識に及びません。 
●こんなことを俳句にしてしまう、それも極上の情感をもったレベルの句にしてしまう技量に感服しました。 
〇「花待てる」気持ちこそが、「あらた」なる「さざなみ」の誕生・芽吹きを捉えたのかも知れません。
●そう、「花待てる」がどんぴしゃです。

青嵐われら富士への斜面にあり 
●たぶん「澤」の大会のような句会が開かれたんでしょうね。富士山麓のホテルで。 
〇敢えて「斜面にあり」 としてますので、まさに登山中といった気配です。 
●登山じゃないでしょう。ホテルで会合をしている。それを「斜面にあり」と形容して見せた。作者の洒落っ気でしょう。
〇そうですかね? 「富士の」ではなく、「富士への」なので、移動中であるように捉えましたが。
●「富士の」だと字足らずになることもあって「富士への」とした。われらは止まっていて富士山を見上げている、と読んでくれると期待したのでは。あなたのいう登山の途中も間違いではないです。

 御柱八十五度やなほ立てむ 
●同時発表句に「即死以外は死者に数へず御柱」がありますが、御柱は諏訪大社における最大の行事ですね。御柱祭りは7年目ごとに行われ、柱を更新します。山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本切り出し、長野県諏訪地方の各地区の氏子の分担で4箇所の各宮まで曳行し、社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭です。 担当者がけがをするのはざらで死者が出るのも珍しくない命がけの祭です。
〇中七での「や」切りが効果的に決まってますね。「八十五度」と具体的に示して読み手にほぼ垂直に立った「御柱」をイメージさせた上で、「なほ立てむ」ですから、何も知らなくとも御柱祭の格のようなものを感じさせるのではないでしょうか。 
●中七の「や」切りは小澤さんの多用する手法。ここで切って下五で決めるのです。「島すべて熊蟬領や朝より」における「朝より」同様、だめ押しをするように下五を使います。柱はいったん八十五度くらいで止まったのでしょう。それをしかと垂直になるように持って行った、というニュアンスを出す、それが「なほ立てむ」なんです。
小澤さんは、とことんやらないと気の済まない人。相撲にたとえると「寄り切り」で勝ちなのに「寄り倒し」にしないと満足しません。相手を倒しその上に自分もいて地響きを体感したい、句作りでそうしているのを感じます。これが小澤さんの世界でしょう。
〇なるほど。「寄り倒し」でないと満足できないという説明は面白く理解できました。

ふかく眠りぬ秋草の生けあれば
●「さざなみにさざなみあらた…」と似たテイストの句です。秋草が効いていますし、それを生けてくれた人への挨拶としています。 
〇旅の宿でしょうかね。簡素で贅沢な時間・空間。 
●何も主張していず軽く仕立てています。けれど情感はたっぷりあって静かに読み手に沁みいります。レベルの高い句です。

 たかだかと鳥帰るなり岳の上 
〇「たかだかと」という把握は、作者自身もこの「岳の上」にはいないことを感じさせますね。つまり、作者は麓からこの「岳」と「鳥」を眺めている状況。 
●小澤さんは長野県出身で山や川を見て育ったせいか風景句には初期から見応えがありました。年を経てそれが深化してすごくシンプルになりました。言葉を削ぎに削いだという作り方です。言葉の見た目、読んだときの音感、それだけで持たせています。描写を越えた言葉の世界で成り立っていいる句です。たいしたことは伝えていませんが言葉が風格を得てそびえています。

蟻地獄雨一滴のひびきけり 
〇「雨一滴」の音なんてたかが知れているはずなのですが、上五に小さき「蟻地獄」を措くことで、まずは読み手を虫瞰の世界に導いて、その上で「雨一滴」を落とし「ひびきけり」に説得力を生じさせるレトリック。 
●極上の集中力ですね。蟻地獄と雨が見えます。ほかに何が要るのかという句です。

水取の火の粉にいのち我に来ぬ
〇「お水取り」でしょうが、「お松明」とも称されるように映像的には火のイメージもある行事ですよね。 
●水と火とふたつの根源的なものをこの句でしかと感じました。東大寺の「お水取り」なる神事の要諦を書き切ったという感じがします。「火の粉にいのち」という連結にぞくぞくしました。あっぱれというほかありません。 
〇「火の粉にいのち」により勢いを感じさせるとともに、「我に来ぬ」によって作者の立ち位置、臨場感を感じさせます。 

百年後全員消エテヰテ涼シ 
●わかるんですがこの発想は師匠の藤田湘子が「ゆくゆくはわが名も消えて春の暮」と書いていますからそう驚きません。
〇 確かに内容的には新しくはないですね。
とはいえ、私が面白く感じたのは、「消エテ」ではなく「消エテヰテ」であることです。そうすると、この句は「全員消エ」た「百年後」時点での視点・把握であり、そうした把握が可能な者は「全員」に含まれぬSF的な存在ではなかろうか、と思わせる片仮名遣いかと。

熊が肉(しし)(ましら)が肉と一包み 
●作者自身が猟をしたのではないと思いますが猟の中の一員となっています。熊と猿が獲物でありそれを解体して配っている場面です。熊の肉と猿の肉を一摑みずつ無造作にたぶん新聞紙にくるんで持ち帰ろうとしています。 
〇「猿」を食べる文化があるのは知ってますが、日本でもあるのですか?かなりびっくりなのですが。 
●想像じゃないでしょう。小澤さんは実際に見たものに言葉をあてがうことに喜ぶ人です。日本が東京など大都市に集中したところで人が生きる原点は他の命を殺して食うのだという原点を見据えています。これぞ小澤さんのスタンスです。
〇だとしたら、中国とかでの体験かもですね。


翁に問ふプルトニウムは花なるやと 
●15句の中で読むのがいちばんむつかしい句です。これがあったので月読さんに読んでもらおうかと思い立った次第です。「翁が問ふ」だとすんなりわかりましたが、「翁に問ふ」です。俳句で翁といえばすぐ芭蕉を思います。時空を超えて蕉翁に質問とは、この世も末、終末を慨嘆する気分を句にしたのかと。
〇合評に呼んでいただけるのは嬉しいのですが、わたるさんに難しい句は私にはもっと難しいですよ。 
「翁」は確かに芭蕉をイメージすべきなのかも知れませんが、ここではそうした具体の誰かというよりも、わたるさんが感じた「時空を超えた」ような地点からこの句を始めたかったのではないでしょうか。「花なるや」の「花なる」こととは何か。咲くこと、散ること。「プルトニウム」といえば原発と結びついたイメージであり、それが咲くことも散ることも文明の勝利というより終焉を思わせます。「花」の儚さの視点からは、「プルトニウム」の数万年に及ぶ半減期の膨大な時間を思わざるを得ませんし、また、「プルトニウム」が冥界を司る神プルートに因む名称であることからも終焉をイメージさせられます。 私的には、「プルトニウム」という現代的な素材と「花」という伝統的な素材とを謎の「翁」の導入によって見事に配合させた句に思われました。 
●芭蕉じゃないですね。「翁」には物のわかった人という意味がありますね。そういう人に聞いたみたい、ということか。「プルトニウムは花なるやと」は退廃的。文明の終焉を茶化すしかないといったテイストが漂っています。

 月光の閻浮檀金(えんぶだごん)を浴びにけり 
●閻浮檀金(えんぶだごん)はサンスクリット語を音写したもの。意味は、想像上の金のこと。その色は紫を帯びた赤黄色で,金の中で最もすぐれたものとされる。経典にみられる香酔山 (こうすいせん) の南,雪山の北に位置し無熱池のほとりにある閻浮樹林を流れる川から採取されるのでこの名称があるとのことです。 
〇 「閻浮檀金」自体もそうですが、わたるさんが展開してくれた説明中の固有名にもとんと馴染みがなく、ただただ何やら凄そうなものという理解。川から採取されるということは砂金ですかね? 「月光」を始め、光は粒子または波動として捉える視点が一般的で、この句ではその前者の視点からの句。「閻浮檀金」の視覚的な煌めきだけではなく、用いられた「檀」の字からは匂い立つような光をもイメージさせられます。 
●小生は専門用語とか一般の人が縁遠い言葉を使った句がそう好みではありません。よってこの句も学はあるなあとは思うものの、そう感動していません。
小澤さんの句を見てきて思うのは、比喩、擬人法がまるでないこと。湘子のもう一人の優秀な弟子、小川軽舟は15句書けば2、3句は比喩や擬人法を駆使しますが兄弟子はそれを使わない。この愚直さが潔癖さが小澤實だとあらためて思いました。 
〇軽舟さんの句を毎月読ませてもらっていると、確かにテイストは全く違うのですが、少なくとも表層的には極めてシンプルな言葉運びである点は共通しているように思えました。ただし小澤さんの句は概して緊張度が高い。軽舟さんの句は、これほどの緊張度はなく、それ故に句の中にもっとゆとりがあるように感じます。今回の句の中では、「御柱」「蟻地獄」「翁に問ふ」の3句が特に好きでした。
●そうですね、軽舟さんのゆとりというのは言い得ています。鷹主宰には脱力の魅力があります。今回の15句はすべておもしろいのですが特に「島すべて」「水取の火」「ひとすぢ」「さざなみ」には惚れ惚れしました。


【小澤實略歴】
昭和31(1956)年、長野市生まれ。
昭和53年、「鷹」入会。
平成12年、「澤」創刊主宰。
句集に、『砧』、『立像』(俳人協会新人賞)、『瞬間』(讀賣文学賞詩歌俳句賞)、『瓦礫抄 俳句日記2012』。
著書に『万太郎の一句』、『俳句のはじまる場所』(俳人協会評論賞)、『名句の所以
』、『芭蕉の風景 上・下』など。
讀賣新聞・東京新聞俳壇選者。


御柱祭

コメント (1)
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