天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

小澤實の即物主義を味わう

2024-05-11 07:39:25 | 俳句

甲斐駒ヶ岳


小澤實句集『澤』をひもといて目につくのは物を見る意欲、執念である。俗に「穴のあくほど見る」という言い方があるがそれを感じる。
一蔓にあけび三個や熟れちがふ
白桃に赤きところや皮向けば
わがおくら一寸伸びや明けたれば
俳句は物でありそれを描写することであるという強い意志がうかがえる。それを果たすための中七を「や」で切る文体は小澤さん独自のものである。
「熟れちがふ」「皮向けば」「明けたれば」とだめを押すように下五に置く。駅員の指差し確認のように。
プロレスに「ジャーマンスープレックスホールド」という荒技がある。背筋力のずば抜けたレスラーが相手を後ろから抱きかかえて背後に放り投げ、マットに頭を打ち据えたままブリッジを効かせて固めるというもの。相手に動く隙を与えないというセンスが小澤さんの「や」切れ文体なのである。

中七を強い切字「や」で切ることを師匠、藤田湘子は「型・その2」として門弟に教えた。
それは、
湯を捨てて屋台しまひや梅の花
朝市も片づけごろや桐一葉
万年筆挟み手帖や末枯るる
というものである。小澤さんは湘子の有能な弟子にして、さすがに季語の斡旋が優れている。
中七の終わりを「や」で切り、下五へ季語を置くというのが初心者に作りやすいと湘子は教えた。これが「型・その2」の正攻法であるが、小澤さんはそれをこなしたうえで自分なりにこの型を進化させている。
小澤さんは角川俳句賞の選考委員の一人である。いつだったか、ある候補者の中七「や」切りが多すぎることを指摘したほかの選考委員に対して彼一人だけが養護したのが印象にのこっている。いま、時代が軟弱で「や」切りの句が若者に好まれなくなっている。小澤さんの舌鋒は俳句の格調は失われゆく現代へ警告のように受け取った。

笊の内かならず笊や笊屋秋
これは正攻法の範疇であるが「笊屋秋」は彼らしい凝った秋。「笊」という字を三つ重ねていかにも笊屋であると思わせる。
干ししらす返すや厚く敷きあるを
中七「や」切れでなく中七を割る「や」切れであるが意図は一緒である。「厚く敷きあるを」を言いたいのである。
葉桜の漬込樽や梯子かげ
「梯子かげ」まで見逃さない執念には感嘆するばかり。
雪礫当たりし顔や負けまじき
物だけでなく人物も中七「や」切り文体で攻める。「や」切りの後、何が来るのか小澤ファンは期待するようになる。「や」切りは次を期待させる文体かもしれない。

梅雨打てる八手の葉なり光りつつ
これは「や」切りでなく「なり」の切れだが機能は一緒、中七で大きく切って展開する方法である。
花茣蓙の卓袱台ゆらぐ拭きたれば
これは切字でなく動詞の終止形で切る形。足の不確かな卓袱台を持ち出してきて花の下で飲食したのである。ビールでも零したのであろう。臨場感こそ小澤さんの真骨頂である。
蟹の身を吸ふ蛸甲羅抱きかかへ
生き物たちの命のやり取りは小澤さんにとって見逃がせない貴重なテーマであり、執拗に見続ける。そこにも途中で切って息を継いで決着するという文体を駆使する。

引ける草雨に根づきぬ抜き焼き捨つ
網戸にからみ虫の脚なり胴はや無し
物に対しての執着はときに過剰になる。「引ける」「根づきぬ」「抜き」「焼き」「捨つ」、動詞五つはなんとも過剰。
「胴はや無し」まで言う必要があるのかいぶかしむ。
この2句は作品というより取材メモというほどのもの。世間の目を頓着せずに「習作」意識でなした句を句集に載せることが凄い。句作で奮闘した手の内、飾らない率直な見方をあらわにしてくれていて、われら下々の句作のよき手本になる。
小澤さんはたくさん書いて晒す中で珠を見つけようとしているのではないか。

次の句は「習作」の中から生まれた「秀作」ではなかろう。
かはぞこもかはらも石や秋の風
一読して、「石山のいしより白しあきの風 芭蕉」を思った。石と秋風の取合せは芭蕉の時代からの定番。芭蕉が山なら俺は川でいくぜ、という小澤さんの気概が見える。「かはぞこ」には若干水があるかもしれないが石がごろごろ見える。水のない河原はむろん石。多摩川のような大川をあますところなく描いた秀作。伝統にのっとって秋風を自分のものにしている。

雲の峰かがやきてあり雲の奥
雲がたくさん沸いている中で雲の峰はとりわけ高い。それを簡潔に言って見せた。雲のリフレインはしつこくなく当を得ている。

初鴉舌も黒しよ嘴(はし)開けば
「舌も黒しよ」には驚いた。そこまで見ていなかった自分を恥じる思い。これも「嘴(はし)開けば」と置いたことで生きた烏がまざまざと見える。
(はし)に嘴入れ寒愛するか
嘴を突き合う鴉を小生は詠んだことがあるが、「嘴(はし)に嘴入れ」まで見たことがない。これが鴉の求愛かと忖度するのは小澤ならではである。「嘴(はし)に嘴入れ寒」なる即物的な把握にたいして「愛するか」の日本語としては歴史の浅いやわな情緒で意表をつくおもしいろさ。ここまで俳句は書かないと個性が出ないものなのだ。

砂浜へ降り立ち螇蚸よるべなし
ずうっと小澤さんの物俳句を見てくるとこの「よるべなし」に情念、すなわち心が色濃く出ているのを感じる。感情を出しているのである。空を飛んできた螇蚸が砂浜へやってきた。到着した場所がなんともあわれ。螇蚸に砂浜を配した感覚の非凡さを思う。

小澤さんは句集の「あとがき」で、題名『澤』が句からとったのではない、結社名からとったものだと敢えて断りを述べている。
しかし、次の句に出会ったとき、この句からとったといってもいいのではないかと思った。
駒ヶ岳垂直の澤雪来る
「駒ヶ岳凍てて巌を落しけり 前田普羅」に匹敵する秀句ではなかろうか。普羅同様、甲斐駒ヶ岳が素材であろう。「垂直の澤」はなんと簡潔に急峻を描いたことか、黒戸尾根わき尾白沢渓谷を思う。
付ける季語がむつかしい場面であるが「雪来る」は考えられる中でおそらくベスト。こういった岩場は雪が積もる場所が少ない。岩を濡らすていどで雪が舞うのである。その雪の風合がすばらしい。自然に深く身を置くことのできる詩人のみ摑むことのできる季語といえる。
小澤さんの物の世界は屹立している。
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2 コメント

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Unknown (伊勢史朗)
2024-05-12 06:31:06
天地さんが今回選んだ作品はどれもシンプルにして精度の高い写生でした。惚れ惚れしますね。
ここまで物に拘ると作者に語る隙が全く無いです。最近、自句自解をしたがる人達が集まる句会を退会しました。やはり自分で自分の俳句を語れるのは「物に語り尽くさせていない」証拠だったのだと再確認したところです。

「物を良く見て物を書け」「難しい事を書くな。簡潔明瞭が良し」は初心の頃句会の先生から言われた言葉です。若くして天才と言われた小澤さんですら愚直に基本を守り続ける姿勢は確かに我々のお手本と言えましょう。
物を極める (天地わたる)
2024-05-12 15:31:52
藤田湘子の秘蔵っ子であった小澤實。ひょんなことから鷹を去りましたが、天与の才能の持ち主です。写生は大事と鷹の連衆も言いながら、案外鷹同人に實さんの信奉者が少ない気がします。鷹主宰はよき理解者ですが、實さんの隙を許さない姿勢が遠ざけるのかもしれません。小生は讀賣新聞でお世話になっているように、常に気になる存在です。
今回もこの句集から学んだものは大きいです。
伊勢くんも俳句の原点を極めてほしいと思います。自句自解は救いようのない悪い習慣です。言葉を殺すことです。

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