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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

資本主義の現在と未来 日本の金融化① 「株主至上」はどこから

2024-05-08 07:10:09 | 経済・産業・中小企業対策など
資本主義の現在と未来 日本の金融化① 「株主至上」はどこから
日本資本主義の構造は2000年ごろから大きく変わりました。変化の一つは、金融市場が拡大して大口投資家の影響力が顕著に強まる「経済の金融化」が進行したことです。日本共産党の佐々木憲昭元衆院議員に「日本経済の金融化はなぜ進み、何をもたらしたか」を聞きました。
(杉本恒如)

日本共産党元衆院議員 佐々木憲昭さんに聞く



―日経平均株価が急上昇し、バブル絶頂期の1989年末に記録した史上最高値を一時上回りました。
実質賃金も年金も下がり、実体経済が停滞する中で株価ばかりが上がり、格差が広がっています。なぜこういう状態が生まれたのか。これは「失われた30年」に深く関わる問題でもあります。
振り返ると、「高度経済成長」の後、日本経済に大きな転機がありました。金融自由化や金融ビッグバンのなかで実施された2001年の財政投融資(財投)の解体です。それが日本経済の「金融化」を加速させた、と私は考えています。
財投とは、庶民が積み立てた郵便貯金、簡易生命保険、公的年金などの金融資産を一括して政府(大蔵省資金運用部)の管理下に置き、政策的に必要な分野に資金を供給する制度で、「第2の予算」ともいわれました。
その資金を大企業に供給して高度経済成長を支える一方、中小企業に融資して営業を助けたり、福祉や公営住宅の建設を促す役割もありました。この仕組みは、民主的に改革すれば国民のために活用しうる公的な制度でした。



政府系金融機関の一つ、日本政策投資銀行の本店=東京都千代田区

※「公庫など」とは、住宅金融公庫、国民生活金融公庫、中小企業金融公庫、日本政策投資銀行、公営企業金融公庫、国際協力銀行などの金融機関。

しかし、政府が「市場原理」を旗印にこの仕組みを解体したため、国民が積み立てた膨大な財産の運用は、金融市場(株式市場や債券市場など)に投げ出されたのです。
この大改革が、「株主至上主義」「機関投資家資本主義」と呼ばれる株主最優先の資本主義に日本を変貌させる要因の一つとなりました。格差と貧困がすすみ実体経済は冷えているのに、多国籍大企業の利益が増え株式市場は膨張するという、日本経済のゆがんだ「成長」パターンが顕著に表れるようになりました。


壊された財投の公共性
―財政投融資(財投)は、もともとどのような仕組みだったのでしょうか。
解体前の2000年3月末時点で、財投は次のような仕組みでした。

(図)



まず庶民が積み立てた郵便貯金や年金積立金などを、大蔵省の資金運用部に預託する義務がありました。それは443兆円という膨大な額で、国内総生産(GDP)にほぼ匹敵する大きさでした。その4分の1は国債の引き受けに使われましたが、さらに簡易生命保険や産業投資特別会計などの資金が加わって「入口」の部分を構成していたのです。
その資金は414兆円もあり、財政投融資計画に基づき、政府系金融機関などを通じて国の政策で必要とする分野に配分されました。これが「出口」の部分です。

活用提案したが
このように財投は、公的な性格を持つ巨大な金融仲介機構だったのです。これは、国民の零細な貯金や年金基金などを安全・確実に運用する制度でもありました。
大企業支援や浪費型公共事業に資金が偏るという問題もありましたが、そういうゆがみを正して暮らしと営業を支える制度として発展させるべきだと私たちは考えていました。
日本共産党の「日本経済への提言」(1977年)や「新・日本経済への提言」(94年)では「資金運用部資金を国民本位に活用する」ことを求めました。たとえば財投と一般会計のあいだに、「国民生活安定特別会計」というパイプをつなぎ、低利資金を中小企業や住宅建設などにまわすという提案もしました。
私は現職のとき、衆院大蔵委員会(現財務金融委員会)に所属していましたが、この財投を唐突に解体する法案が提出されたとき、たいへん驚きました。当時の宮沢喜一大蔵相は、その理由を次のように説明したのです。
「座っておって金が入る預託というシステムに乗っておりましたから、全体が放漫に流れやすいというご批判があり、それにかんがみまして今回の改革を決意したところであります」(2000年4月13日、衆院本会議)



『新・日本経済への提言』

米国の対日圧力
大蔵省に自動的にお金が集まるから使い方が放漫になる。だから解体するのだというのです。放漫になるならそれを防ぐ改革をするのがスジなのに「はじめに解体ありき」の姿勢でした。その裏で、米国の対日圧力が働いていたのです。
集めたお金を大蔵省に預託する方式をやめるということは、「自主運用」して利益を出せということです。郵便貯金、年金積立金などが財投から切り離されると、株や債券で全額運用せざるをえなくなり、もろに市場原理にさらされます。
「出口」の部分も縮小・再編されました。それまで住宅金融公庫、国民生活金融公庫、中小企業金融公庫は、民間の金融機関から融資を受けにくい国民や中小企業に融資をして暮らしや営業を支えてきました。
しかし、これら政府系金融機関は財投から切り離され、新たに債券(財投機関債など)を発行して金融市場から資金を調達せざるをえなくなりました。
こうして、「公共の利益の増進」を法律の目的に掲げ、大きな役割を果たしてきた財投は、公共性を否定され、利潤第一の市場原理のなかに放り出されたのです。(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年5月6日付掲載


振り返ると、「高度経済成長」の後、日本経済に大きな転機がありました。金融自由化や金融ビッグバンのなかで実施された2001年の財政投融資(財投)の解体です。それが日本経済の「金融化」を加速させた、と私は考えています。
政府が「市場原理」を旗印にこの仕組みを解体したため、国民が積み立てた膨大な財産の運用は、金融市場(株式市場や債券市場など)に投げ出された。
日本共産党の「日本経済への提言」(1977年)や「新・日本経済への提言」(94年)では「資金運用部資金を国民本位に活用する」ことを求めました。

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