goo

シャルル・ミュンシュ――「自由」を求めた名指揮者の軌跡

2010年05月07日 11時56分07秒 | クラシック音楽演奏家論





 以下は、1994年発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)に収録したものの転載です。最近、この一部を的確に引用してミュンシュ論を展開している方のブログを拝見して、まだ私のブログに再掲載していなかったことを思い出しました。その方のブログからは、リヒテルとミュンシュとの初共演のベートーヴェン「第一協奏曲」ライヴが素晴らしいということを教えて戴きました。感謝しています。ご興味のある方は「ミュンシュ リヒテル 竹内貴久雄」3語のアンド検索をお勧めします。簡単に見つかります。
 なお、以下の文章で展開しているミュンシュの音楽性に対する私の仮説は、当ブログ内の別カテゴリー「LPレコード・コレクション」に収められている「幻想交響曲」の項と合わせて読んでいただけると、より分かりやすいかも知れません。


■シャルル・ミュンシュ――「自由」を求めた名指揮者の軌跡

 フランスの名指揮者シャルル・ミュンシュは、フランス音楽一辺倒の指揮者ではない。むしろドイツ・ロマン派の伝統を深く理解し、愛している指揮者のひとりだが、それは、彼の出身地と切り離しては考えられないだろう。というのは、彼の生まれた町ストラスブールは、もともとドイツとフランスとの国境の町だが、彼が生まれた一八九一年にはドイツ領で、それは第一次世界大戦が終結する一九一八年まで続いたのだ。ミュンシュは〈ドイツ人〉として生まれ、ドイツ人として音楽教育を受けているということになる。そして一九三〇年代初めにはヴァイオリン奏者として、ドイツのライプチッヒ・ゲバントハウス管弦楽団のコンサート・マスターになっている。常任指揮者はフルトヴェングラーだった。
 その彼が、一九三〇年代の半ば頃から、活動の場をパリに移し、やがてフランスの指揮者として認知されるに至ったのは、ナチスの台頭と無縁ではないはずだ。
 ミュンシュは第二次世界大戦の頃には、パリ音楽院管弦楽団の指揮者として活躍しており、ナチス・ドイツのパリ進攻時にも、パリにとどまり、有名な抵抗映画「天井桟敷の人々」では伴奏音楽の指揮者としても名を連ねている。そのフランス音楽の守護神のようなミュンシュが、戦後、一転して、アメリカのボストン交響楽団の音楽監督に迎えられた。一九四六年のアメリカ・デビューから三年後のことだ。それから一〇余年、一九六二年まで、その地位にあり、戦後のボストン交響楽団の黄金時代を築いたのは周知のとおりだ。ミュンシュの代表盤の大半が、このオーケストラとのものとなっている。
 戦後アメリカの旗印は〈自由の国〉だったが、ミュンシュが生涯にわたって、願って止まなかったのも、この〈自由〉、何物にも束縛されない自由を歌い上げることだったのではないだろうか? と私は思っている。ミュンシュが熱心に取り上げるフランスの作曲家にオネゲルがいるが、戦争や人種対立などを憂い、危機意識をもって苦悩するオネゲルへの深い共感が底流にあるのもそのためだ。
 オネゲルの「交響曲第五番」は、一九五一年三月九日に、シャルル・ミュンシュ指揮、ボストン交響楽団により初演され、次いで、同じメンバーで録音が行われた。ミュンシュの繊細でいながら力強い前向きの演奏が、オネゲルの思いの深さと呼応した名演だ。
 ミュンシュは戦前には、必ずしも強烈な個性や豊かな音楽を持った指揮者ではなかったと思うが、ボストン交響楽団とはウマが合ったようだ。ミュンシュとボストン響との相性の良さは、戦後アメリカで重要なポストに就いた指揮者のなかでも、最良の成果を双方にもたらした。ボストン交響楽団との最初期の録音にベートーヴェンの「第七」、シューベルトの「第二」、ブラームスの「第四」の各交響曲や、ヘンデルの「水上の音楽」などがあるが、リズミカルでニュアンスの豊かな音楽がグイグイと迫ってくるのが感じられる。
 ミュンシュが指揮する「ボレロ」は、作曲者のイン・テンポの指示を守らずに、どんどんアチェレランドして行くことで有名だ。感情の高揚、気持ちの高ぶりに率直な、情熱的演奏は〈反則技〉だが、ミュンシュがやりたいようにやっている自然さが別の魅力を生んで、忘れ難い名演となっている。しかし戦前にパリ音楽院管弦楽団とで録音された演奏は、イン・テンポを守っている。むしろしばしば言い聞かせるように確認しながらの音楽の運びが興味深い。そしてどこかしら退屈そうだ。この演奏を聴いていると、その後のボストン交響楽団との演奏が、どれほど自由で開放的かに思いが至る。
 ミュンシュが自身の音楽を大きく花開かせたのは、この頃からだろうと思う。ミュンシュは、ボストン交響楽団と出会ったことで大きく変わった指揮者なのだと思う。
 ミュンシュは長年在任していたボストン交響楽団の音楽監督を辞任しレコード会社との専属契約も解消した後、翌年からは自由な立場で様々のオーケストラに客演、レコーディングを開始する。ミュンシュは七二歳になっていた。米コロンビアへのフィラデルフィア管弦楽団との録音や、英デッカへのニュー・フィルハーモニア管弦楽団との録音、エラートやコンサート・ホールへの録音など、いずれも、この時期だ。
 晩年一九六七年に、パリ音楽院管弦楽団を解消して新たに創立されたパリ管弦楽団の初代音楽監督を引き受けてしまうが、翌年のアメリカ演奏旅行中に世を去った。パリ管弦楽団在任は1年と少しにすぎなかったが、EMIにベルリオーズ「幻想」、ブラームス「交響曲第一番」、オネゲル「交響曲第二番」とラヴェル「ピアノ協奏曲」他、ラヴェル「管弦楽曲集」の四枚のLPが残された。
 一方、帰国後のミュンシュがフランス国立放送管弦楽団を振って、コンサート・ホール・ソサエティに録音したもののひとつに、ドビュッシーの「牧神の午後」がある。有名なボストン響盤をしのぐ、流麗で美しい演奏で、ミュンシュ追悼盤として、死後に発売された最晩年の録音だ。このLPは他にスメタナの「モルダウ」が入っているほかは、ピエール・モントゥの演奏が片面に収められている変則盤。おそらく何かまとまった交響曲などのカップリング用に録音されたか、小品集の録音が未完に終わったかで、1枚のLPにならない半端な録音で、一度発売されたまま忘れられている。日本コロムビアからデンオン・レーベルでコンサート・ホール原盤のドビュッシー演奏がCD発売されているが、それも「夜想曲」と「海」だけで、「牧神」の収録はない。通信販売の日本メールオーダーが販売しているコンサート・ホール盤のCDにのみ、現在は収録されている。


goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )