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竹久夢二と古賀春江――山田俊幸氏の「病院日記」(第13回)

2011年10月31日 10時55分53秒 | 「大正・昭和初期研究」関連



 本日は、10月4日のメールで、私の携帯に届いた分です。なぜ、山田氏の「病院日記」なるものが私のブログに連載されているかについては、9月6日、7日あたりに遡ってお読みいただけるとわかります。
 今回の掲載分は、音楽文化史の流れの中で大正期の夢二と「セノオ楽譜」と女学生文化、あるいは浅草オペラ文化と川端康成などに関心を持っている私にとっても、とても興味深く、示唆に富んだ発言です。改めて山田俊幸氏の博学ぶりと、それらから様々な事を紡ぎ出す発想力に感服しました。


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寝たまま書物探偵所(13)・・・竹久夢二と古賀春江 by 山田俊幸


 小火から助かり、処分もまぬがれた雑誌に、『中央美術』復興第一年第三号(昭和八年九月発行)があった。美術雑誌は千円を切ったら買うようにしていたので、これもそんな値付けだったのだろう。恩知孝四郎の「新表現手段としての版画技法」だとか、柳沢健の「メキシコの風景」という文章がある。その他、「美術界彙報(いほう)」という欄に、次の年の一月、パリでやる日本版画展覧会のプレ・イベントの記事や、「[洋画研究所新設] 二科会の東郷青児及同会所属の阿部金剛、峯岸儀一の三氏は這回、アウアン・ガルド洋画研究所を開設し研究生を招いている。その研究所は神田区小川町三の十四、スルガ台湯階上である。」などの珍しい記事も載っている。東郷、阿部は白水社のモダニズム本で一緒だが、峯岸というプロレタリア・アウアンガルドの画家がこの時点で一緒になったということは知らなかった。
 そこには、そうした展覧会情報ばかりでなく、こんな記事もあった。

「[古賀春江氏逝去] 古賀春江氏は、本名良昌、久留米市の出身である。最初中川紀元氏に学び、二科会第九回展に「埋葬」を出品して一躍その鋭才を認められた。当時の氏の作風は多少立体派の形式を加味した鋭角的な表現法をとり色調は暗く文学的な内容をもつて居た。「埋葬」はその傾向の代表作であり、フランスにも出品されて居る。其後次第に古賀氏独特な持味が現れ、色調は明快になり感覚は益々冴えて来た。中央美術展に発表された「魚市場」はこの傾向での出品の作でもあつた。氏は一方非常に写実的な作品を二科会に発表してその方面の実力を認められた。第十三回の二科展では会友に推され、第十六回展には会員に挙げられて居る。爾後作風は次第にシユールレアリズムの影響を受けて詩的な精神を加える様になり遂には日本に於ける其派の代表作家となつた。古賀氏の作品は傾向が如何に変化してもその底には何時も日本的精神の流れが見られた。今二十回展の「サーカス」其他に至る迄常に注目すべき作品を発表して居たが昨年あたりから健康勝れず、昭和八年九月十日脳神経衰弱のため逝去した。享年三十九歳であつた。」

 古賀春江の逝去の記事である。この雑誌から少し遅れて、十二月の文芸雑誌『文藝』にも古賀春江に関連した一文が載っている。
 川端康成の「末期の眼」である。この随筆で、シュール・レアリスムの画家古賀春江と竹久夢二が語られていることはよく知られている。そればかりではなく、夢二を語る場合の、定石とでもいってよい扱われ方が、この随筆はしばしばされてもいる。だが、何故、春江と夢二なのか。これについては、今まではあまり語られなかったのではないか。随筆は、戦後の刊本『純粋の声』にも収められるが、初出は『文藝』第一巻第二号(昭和八年十二月号)である。
 随筆は次のように始まっている。

 「竹久夢二氏は榛名湖畔に別荘を建てるため、その夏やはり伊香保温泉に来ていた。つい先達ても、古賀春江氏の初七日の夜、今日の婦女子に人気のある挿絵画家の品定めから、いつしか思ひ出話となり、夢二をなつかしむ言葉は熱を帯びたが、その席の画家の一人栗原信氏も云つたやうに、明治から大正のはじめへかけての風俗画家――でなければ、情調画家としては、とにかくえらいものなのであらう。少女ばかりでなく、少青年から更に年輩の男の心をも染め、一世を風靡した点、この頃の挿絵画家は、遠く及ばぬであらう。夢二氏の描く絵も夢二氏と共に年移つて来ていたにはちがひないが、少年の日の夢としか夢二氏を結びつけていない私達は、老いた夢二氏を想像しにくかつただけに、伊香保で初めて会ふ夢二氏は、思ひがけない姿であつた。」

 老齢の夢二の姿を見た印象だ。川端はこの時、三十代前半。夢二がずいぶん高齢に見えたらしい。「老いた夢二氏」とはあまりにもの言い様だが、これは川端の実感であったのだろう。
 話は、いかにも川端らしく、結構が上手に仕立てられている。古賀春江の初七日に、源氏物語の「雨の夜の品定め」の女性談義の如くに、挿絵画家の品定めが始まったというのだ。そこで、夢二の業績の並でないことに皆の話が行く。ということになるのだが、それにしては話の成り行きがいかにも唐突だ。初七日のために集まったのが誰とは特別に書いていないが、名の出された栗原信は挿絵画家ではない。とすると、そんな中での挿絵画家の品定めとはあまりにも唐突ではないか。しかも、なくなった画家が「古賀春江」、その初七日のことというのでは、いかにも場違いの感が拭えない。だいたい、初七日に知人たちが集まって、亡くなった画家の業績について語るのならいざしらず、何故、挿絵画家なのか。川端が書いていることを、そのまま、なんとなく読んでいると別に問題になることではなさそうだ。だが、である。いったん、初七日という場と、集まった人たちとを考えるなら、古賀春江の遺体を前に挿絵画家の品定めをする光景は、まことに不思議、異様、不謹慎の話と言わなくてはならない。
 ならば、これはお話を作るための川端康成の捏造なのか。だが、そうではない。それには理解があるのだ。
 ここで思い出すことは、竹久夢二という挿絵画家の明治末から大正にかけての圧倒的な人気のことである。「少女ばかりでなく、少青年から更に年輩の男の心をも染めた」と川端は書く。その通り、じつは夢二色に染められた一人に、後のシュール・レアリスム画家「古賀春江」がいたのである。
 現在、東京国立近代美術館には、古賀春江の初期資料が収蔵されている。その中に、夢二写しと言ってよい、肉筆の絵葉書などを見ることが出来る。川端たちは、初七日の席上で古賀の画業を顧み、そうした絵葉書や画稿類を見たのではなかったか。おやおや、古賀も夢二を真似て描いていたのか。あの頃は、夢二が挿絵の人気画家だったが、今は誰なんだろう。華宵だろうか、虹児だろうか、いや加藤まさをか。いやいや、夢二のスケールの挿絵画家はいないだろうね、と初七日での品定めは進んで行ったのだろう。この川端の随筆「末期の眼」には、古賀春江に、竹久夢二調の模倣時代があったという説明が抜けているのだ。
 竹久夢二という人は、単体として見るのではなく、夢二という現象として見ることによって、さらに大きく、魅力的になってゆく画家なのだ。
 この「末期の眼」は、古賀を「西洋風の色彩から出発し、オリエンタルな色彩に移り、それから再び西洋風の色彩に戻り、今また『サアカス景』などのやうに、オリエンタルな色彩に復らうとしていたさうである。『サアカス景』は絶筆である。」と、その展開を把握している。大分前に古賀春江について書いてほしいと言われ、ずいぶん調べて書いたが、この「末期の眼」をうまく活用ができなかったのが、いまも心残りだ。



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珈琲随筆――山田俊幸氏の「病院日記」(第12回)

2011年10月27日 11時41分35秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 きょうも、山田氏は「閑話休題」といった感じです。9月30日執筆送信分です。

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寝たまま書物探偵所(12)・・・ブラジレイロのことなど by 山田俊幸


 このところ、病院で寝っころがり海藤隆吉さんからいただいたCDのジョアン・ジルベルトばかり聴いている。ベスト・アルバムだが、第一曲の「アクアレラ・ド・ブラジル」の歌いはじめがすっかり気に入ってしまったのだ。「ブラジル、ブラジル、ブラジレーロ」と聞こえてくるフレーズがなんともいい。そして、いつものことだが、「ブラジレーロ」の語が聴こえると、ついブラジル珈琲のことを思い出してしまう。コーヒーの香り高い味わいとともに、と書きたいところだが、それはちょっと違う。
 「ブラジル珈琲」とは言っても、これは喫茶店名ではない。ブラジレイロという名の、ブラジルコーヒーを商った、かつてのコーヒー店のことなのだ。
 もう三十年以上も前になる。横浜反町の古書即売会で、三、四十ページほどのパンフレットを、注文で手に入れた。表紙は藤田嗣治だったと思う。そんな冊子に飛びついたのは、藤田があったからではない。「ブラジレイロ」というタイトルが、即売展目録から目に飛び込んだからだ。ずっと気になっていた名前だった。気になっていた理由は後で言おう。
 冊子は千円で、そんなペラペラものとしてはいい値付けだった。藤田の図版で値が付いていたのかもしれないが、あるいは、あの当時は珈琲趣味の本(奥山儀八郎などに人気があった)を求める人があったから、それが理由だったかもしれない。内容は、東京にあったブラジル・コーヒーの輸入代理店の宣伝。ブラジレイロはその代理店名で、小売や喫茶店も併設していたらしい。とりわけブラジル政府と親密な関係を持っていたらしく、さすがに小冊子を出せるだけの店だと思われる。
 昭和ヒトケタ後半か、昭和十年代前半の出版だったろう。図版には新築(新装?)なったブラジレイロの内装壁画がカラーで紹介されていた。宣伝冊子としては、たいへんに贅沢なものだった。その壁画が、藤田のものだったのだ。藤田は、ブラジル本国を訪問したりしているので、そんなことからの起用だったのかもしれない。内容が面白かったので、まあ、千円でもいいか、だったが、じつはこれは見込み違いだった。
 買う前から、東京のブラジレイロであることは分かっていたのだが、これで博多のブラジレイロが少しでも分かるのではないかというわたしの期待があったのだ。
 気になっていた理由というのはそれである。立原道造のことを調べていて、「ブラジレイロ」という、博多の喫茶店が気になっていた。詩人立原道造は、晩年無謀とも思われる盛岡行き(北方行き)と、九州行き(南方行き)を敢行する。その時に博多で詩人たちと会ったのが、博多の中洲にあったというブラジレイロだった。独特の雰囲気を持った喫茶店らしく、詩人たちを生み出す場として興味をもった。そのブラジレイロを知る手掛かりになるかもしれない、という思いで注文したのだったが、残念なことに予想は外れたのだ。もっとも、外れたおかげでブラジレイロ探索は長く続き、那珂太郎の「はかた」がその片鱗を描くのを見たり、ブラジレイロ(博多の詩人たちはレイロと呼んでいたらしい)で撮った写真を見つけたりしたから、それはそれでよかったのだろう。
 さて、藤田壁画のブラジレイロ冊子は、今はどこかに行ってしまったが、何年か前に現物を見る機会があった。今も残っていたのだ。

 以上はわたしのコーヒー話だが、猪狩さんからこんな「午後のメール」をもらったのは、まだ個室にいた、十日ほど前のことだ。

「珈琲をのみたい 
 それも、こくのある濃厚なやつ
 神田ブラジルあたりのあの味わいだ
 珈琲にうるさい山田さんだからもっと旨い所を知っいると思いますが、あったら教えてください。以前東大近くの珈琲屋で豆を買って帰ってましたね。私の経験ですが概してジャズ喫茶の珈琲は不味く例外的に、いまはない上野にあったブルマンを出す「イトウ」という店だけでした。そうそう、横浜西口の横浜珈琲もよく行ってましたっけ、関西はどうですか。不眠中に珈琲の話もおかしな話ですが…… 。
 不眠限界で睡眠薬昨夜から始めましたが、夜中二時間おきに目が覚めてしまいますが、ましな気分です。猪狩」

 東大近くのコーヒー店というのは、本郷三丁目交差点近くにある和田珈琲店。竹内さんに教えてもらった。ネル・ドリップだから、入れ方が難しい。ある人が、二度通しをするといいよ、と教えてくれた。多少薄めに入るのだ。上品な飲みくちだが、猪狩さんのような濃いコーヒーの好きな人には物足りないだろう。
 死んだ気谷誠はコーヒー党だったが、スタイリストだから店の雰囲気でのコーヒーだった。神保町界隈で言うと、わたしがタンゴが聴けるミロンガなら、気谷はフランスの匂いのするラドリオだった。ときどき、連れ立って入ったのは、一誠堂書店の横の路地を入ったところにある珈琲館。そこの「日陰干しコーヒー」というのに御執心だった。もちろん、味ではなく、日陰干しというネーミングが、自分の人生スタイルに照らし、気に入っていたのだ。あと、けっこうお気に入りだったのは交差点脇のトロアグロ。とは言っても、晩年は二人ともお金がなく、マクドナルドの百二十円コーヒーになっていた。
 植草甚一はおいしそうにコーヒー・エッセイを書く人だったが、その植草エッセイに「イノダのコーヒーはどうしてこんなにおいしいのだろう」というのがある。イノダは東京ではない。京都の喫茶店だ。植草がいかにも美味しそうに書いているので、京都に行くとときどき寄ることにした。飲んでみて、なるほどである。これは、猪狩さん、京都で一緒に飲みましょう。


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河治和香『命毛』のことなど――山田俊幸氏の「病院日記」(第11回)

2011年10月26日 11時48分39秒 | 山田俊幸氏の入院日記




 本日は、遅れている掲載を少しでも消化するためもあって、話が関連している2本を同時掲載します。もっとも、内容的には「書物探偵」というより、「交友録」風です。執筆は9月26日および27日です。ただ、山田氏らしい「創作論」も展開されています。これは、2本続けて読まないと、うまく真意が伝わらないものでもあります。

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寝たまま書物探偵所(10)・・・河治和香の『命毛』 by 山田俊幸


 日曜の昼過ぎ、小学館の矢沢さんがわざわわざ堺の病院まで、河治さんの本を持って見舞いに来てくれた。
 ちょうど千野隆司さんから送ってもらった新刊の『寺侍市之丞』(光文社時代小説文庫)を読み終わって、さあ今度は何を読もう、というときのことだ。河治和香さんの本は『命毛』(小学館文庫)。歌川国芳の娘を主人公にした時代小説である。
 『命毛』は、新刊というよりも八月発行だから、ちょっと前の発行となる。河治さんからは八月の発行と同時にもらっているのだが、それを読めなかったのには理由がある。まず八月初めの小火さわぎがあり、その後、途中まで読んでいたら今度は階段からの転落事故で入院。それで本は行方不明となった。手元に本がなく、絶対安静で買いに出ることもできず、さすがに河治さんには話せずにいた。すると今度は、河治和香担当の矢沢さんが必要なものがあれば持って行きますと言ってくれたので、今回は甘えることにした。
 シリーズ名は、[国芳一門浮世絵草紙]。『侠風(きゃんふう)むすめ』『あだ惚れ』『鬼振袖』『浮世袋』『命毛』の五冊で完結した。構想から完結までは四年かかったという。客観的な批評は誰かやるだろうから、ここではちょっとインサイダーな感想を書いておくことにする。
 国芳一門とは、言うまでもなく有名な浮世絵師歌川国芳、つまり武者絵の一勇斎国芳とその弟子たちである。門弟八十人以上という大所帯の上、門下に列なる有名絵師も十人では収まらない。そんな一門をどう書くのか、というのがこの本の興味の持ちどころだろう。一つには、オムニバスという手法がある。狂言廻しを話の中心におき、魅力的な弟子たちの逸話を並べていく。戦後すぐの映画に『舞踏会の手帳』や『輪舞』というのがあったが、あの手法である。これならば過不足なく門弟の逸話を描くことができる。便利な方法なのだ。だが、河治さんはその手法を採らなかった。
 狂言廻し以上に魅力的な主人公を見つけたからだ。それが国芳の娘の「登鯉(とり)」である。話は登鯉を中心に進んでゆく。
 この主人公の選択は、おそらく著者の思惑を越えて、もうひとつ興味深い事象を小説の中でもたらした。主人公登鯉に、教養小説で言うところの「成長」がないのだ。これは面白い。登鯉は、恋でも、男でも、人格としても、成長しない。一般論だが、主人公ものの連作シリーズの場合、若いときから歳を重ねるにしたがって、主人公は成長する。失敗を克服するという「教養小説」つまり「自己形成小説(ビルドゥングス・ロマーン)」となるのだ。中里介山の『大菩薩峠』や吉川英治の『宮本武蔵』などもそうだ。だが、この主人公登鯉は違う。自分を磨きはするが、つぎのステップには向かえない。何かにしがみつこうと心が思うと、体がそれから限りなく逃げ出すのだ。だが、この場合、そんな登鯉の性格が、国芳始め一門の皆を等しく照らすことになる。こんな小説はめったにない。
 構想から完結まで四年かかったという小説だが、主人公はスキゾ的に成長しない。だが、作者は違う。作者の自己形成には、夫の死という大きな出来事があった。その影を、わたしたちはこの連作の途中から読み取ることができる。そして、本としてはその時期から、登場する人々がより深みを増してきた。河治さんには、『秋の金魚』という前作があり、そこでは巧みなストーリー・テラーの側面が出ている。最初の『侠風むすめ』も、多少それを引き継いで、話し上手である。うまく導かれてしまうのだ。あれあれ、だ。これがいいという人もいる。だが、わたしには馴染めない。それが連作三巻目の『鬼振袖』で、話がぐずぐずになる。この小説、いったいどこに行くのだろう。方向が見定まらなくなった、と言ってよい。破綻と言う言い方も出来る。ストーリー・テラーの予定調和がこの時期、崩れてしまったのではないか。
 ところで、多くの作者が、この「破綻」が「チャンス」であることを忘れている。作者としては予定調和を崩す破綻を幸いと思わなければならない。魔の時を好機に変える。そこにクリエイティブな新しい物語が始まって行く。
 この小説は、夫の死という事実に揺れながら、新しい登鯉の話へと舵を切ることになった。中身に関しては触れないというのが常道だからここでやめておくが、終わりに近づくにつれて、一門の連中がそれぞれ生き生きとしてくる。まだまだ続いてもよさそうだ。
 タイトルの『命毛』とは、聞き慣れない言葉だが、その謎解きは巻末に出てくる。山下耕作監督から教えられたという。河治さんはこういう言葉を見つける名人だ。それも、聞き上手なのだろう。
 作り事とはいえ、本人の勉強が並ではなかったことは、わたしもよく知っている。だけれど、実現には、イサオさんの協力と、編集の矢沢さんの人柄が大きいことは、傍目からも言っておこう。

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寝たまま書物探偵所(11)・・・・喫茶店での会話 by 山田俊幸

 『命毛』(小学館文庫)は連作[国芳一門浮世絵草紙]の最終巻であるので、「あとがきにかえて」の一文がある。そこに、わたしが河治さんに声をかけた時のことが書かれている。
 人の記憶というのは面白いもので、同じことであっても、微妙に互いの記憶は異なっているものだ。河治さんの記憶とわたしの記憶も、異なっている。それは、話し掛ける必然性をわたしが持ってしまったことと、話し掛けられる必然性のないところに話し掛けられた河治さんとの、立場の違いと言ったらよいのだろう。妙に哲学めいた言い方だが、立場が変わったら、その理解も理由付けも変わる、と言うことなのだ。
 四年前の夏だったろうか、イサオさんのグループ展風土展(ふどてん)の開催前のことだ。渋谷の松濤美術館で館員の瀬尾さんと話したあと、東急本店、109を通って渋谷まで出たわたしは、持ち歩いていた絵葉書の整理をしようと、駅近くの雑居ビル地下に行き、渋谷トップスというコーヒー店に入った。ここは時々寄る喫茶店で、けっこう一人で来る人も多く、ざわついてなく、静かなのがよい喫茶店だ。絵葉書の発行年、出版元、画家名、印刷の種類、コメントなどを専用のカードに書き込んでゆく。そんな作業をしていた。ほとんどデータらしい記載のない絵葉書からすると、けっこうな難事業で、慌ただしい中ではできない仕事である。だから、ある程度の時間と、環境が必要なのだ。
 渋谷という町は、高校時代は通り道、大学では地元だ。だから旧知の場所なのだが、全く様変わりして、昔人(むかしひと)の知るところではない。ただ、トップスのある雑居ビルの一角だけは大学の頃の渋谷を残している。そんなこともあってのトップスだった。
 その日の喫茶店内も人はまばらだった。定席があるわけではないが、だいたい行くといつも腰掛ける場所がある。入口左手の奥のベンチ風の長椅子だ。その時もそこに腰掛けた。本来ならばはじの席がいいのだが、そこには人がいたので、この日は真ん中の席となった。
 そこからは店の内部のおおよそが見渡せるのだが、わたしの前の通路を隔てた席に人が座ったのがいつだったか、その記憶がない。珍しく絵葉書に集中していたのだろう。するとそこから、わりと通る声で「今、クニヨシを調べているんです」という女性の言葉が聞こえてきた。今のような歌川国芳ブームの前のことだ。クニヨシと言ったって、クニヨシ・ヤスオのことだろうと聞き流していたら、話が井上和雄の『浮世絵師伝』のこととなった。おやおや、だ。浮世絵研究でもしているのかな、と思って岩切由里子さんのことなど思い出し、さらにある出版社に岩切さんの編集で国芳画集を出さないだろうかと交渉に行ったことまで思い出した。そんなことから、絵葉書の手も休みがちとなり、けっこう周りにも聞こえる通路向こうの老紳士と若い女性の二人の会話をなんとなく聞くことになってしまった。
 それが河治さんだった。女性は、国芳の娘の小説を書こうと思うのだけど、資料がなくて、と連れの老紳士に言う。このあたりからわたしの方は、当たり前だよ、と、どうやら、いらいらし始めたらしい。国芳のことならいざしらず、国芳の娘なんかはイサオさんに聞くしかないじゃないか、そう簡単に分かるものか、である。こうした時、いつもなら相当いらいらしても、「まあ、いいや」で、無関係に済ますのだが、この時はちょっと事情が違った。小説を書くということから、千野隆司さんとしばらく前にした話を思い出してしまったのである。それが、時代小説の資料調べの大変さについてだった。「たいへんなんですよ」。それが千野さんの言葉だった。これがいけなかった。しかも、手がかりのあまりないはずの国芳の娘を調べたいと熱心にしゃべっているのだ。そんな姿と、それを包み込むように聞いている老紳士の姿を見ていると、二人とも悪い人とも思われない。そう言えば来週、セントラル美術館での風土展が始まるではないか。イサオさんはそこにいる。それだけでも教えておいてあげよう、と思い付いた。
 そうこうしている内に、その二人は話が終わったらしく、テーブルを立ち、出口に向かう。わたしは仕方なく出口まで追いかけて行って、声をかけた。「すみません。国芳をお調べならば、イサオさんをご存知ですか」と。河治さんの記憶では、声が大きいと言われるのかもしれないと思ったらしいから、最初は何を言われたのか分からないようで、怪訝な顔をしていた。だがやがて、「イサオさんのものなら、読んでいます」との返事。「国芳のことなら、来週セントラル美術館でやる風土展にイサオさんは詰めているから、そこでお聞きなさい」。わたしの役割はそれで止めとなるはずだった。
 ところで、河治さんの記憶では、そこで、「怪しい」と思ったらしい。たしかによれよれのズボンと派手な色の色あせたTシャツ姿だから、怪しいと思われても仕方ないかもしれない。そんな時に、お名刺をいただいたら?という老紳士の声があった。こちらとしては、セントラル美術館でイサオさんと会うきっかけを作ってあげただけでよかったので、名乗るつもりもなかった。妙に勘ぐられるのは嫌だなと思ったのだ。だけれども、老紳士の言葉には抗えないような気がして、しかたなく持ち歩いていた両面コッピーで作ったぺらぺらの名刺を渡した。この名刺の方がもっと怪しいなと思いながら。
 そのあと、来週と思っていた風土展は再来週の勘違いだと分かったりしたので、名刺を渡した手前、イサオさんにことの顛末を電話した。「話している相手の紳士がニコニコと聞いていて、悪い人ではないと思ったので」ということと、「国芳の娘なんて、なかなか調べられませんよね」ということを付け加えた。イサオさんには、ちょっと怒られるかなと思ったら、面白がってくれたのが幸いだった。小説を書くと言ったって、どういう雑誌に書くのかも知らない、さらにその小説を読んだこともないのだから、無責任この上ないことだった。いい歳して、愚かな話である。熱心な話しぶりと、千野さんの大変さを思い出したばかりに迂闊なことをしたと、その後は反省しきりだった。それからしばらくして、風土展の会場で、イサオさんとお会いした。申し訳なく、反省してますと、平身低頭。するとイサオさんは、おもしろかったよ、と助け舟を出してくれた。
 その後のことは、河治さんの書いたとおりである。ただ、自分のことだから書いていないことがある。立ち会ったわけではないから想像に過ぎないが、河治さんの国芳猛勉強だ。わたしなどはイサオさんのおかげで、門前の小僧的には国芳を知っている。だが、浅いものだ。ただ、河治さんにもこの浅い耳学問をまず薦めた。環境に自分を沈めておくためにだ。そこに身を置いてみると、研究者とは違った感覚が生まれてくる。物書きにはそれが必要と思ったからだ。これも実践してくれたようだが、イサオさんのところからさまざまな浮世絵雑誌を借り出して読んでいた。大変な苦労だったろう。
 迂闊な声掛けから、結果はよかったものの、だけど今でも反省しています。イサオさん、ごめんなさい。これが偽らざる気持ちである。
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フォーゲラーの詩画集『あなたに…』と、ユーゲントシュティール――山田俊幸氏の病院日記(第10回)

2011年10月24日 13時31分46秒 | 山田俊幸氏の入院日記




 前回のブログUPから、2週間近く経ってしまいました。このところ、「しおり」本の下版に忙殺されていた余波が押し寄せてきて、何も手に就かない状態でした。そうこうしているうちに、山田氏から、退院予定のメールまで来てしまいました。溜まる一方の「寝たまま探偵所」を早く掲載しなければ、と焦るばかりです。予定通りなら、今日、退院です。今は落ち着かないでしょうから、私からのメール、電話とも遠慮しています。明日か、明後日、尋ねてみます。何はともあれ、「寝たまま」が「そのまま」どころか「起きあがってしまう」という事態になりました。第20回まで溜まっています。掲載、なるべく急ぎますが、私自身は、『クラシック・スナイパー(8)』(青弓社)用の原稿を早く仕上げなくてはなりませんし……。

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ビオ・ソフィアとフォーゲラー――寝たまま書物探偵所(9)by 山田俊幸


 数年前に、思い付いて、ハインリヒ・フォーゲラーの詩画集『ディアー(あなたに…)』を自費で出版した。この詩画集は不思議な本で、十九世紀末にヴォルプスヴェーデで一度発行され、その甘やかな絵と詩章とでフォーゲラーを一躍ユーゲントシュティール(青春の様式)の王子の位置に押し上げた詩画集だった。
 この詩画集にはモデルがいる。詩画集上梓の後に結婚したマルタ・シュレーダーだ。フォーゲラーには、何枚もの写真(十九世紀末のことだから、けっこう高価だったろう)が残っていて、そこにはこの詩画集の女性そっくりなマルタと、その衣裳とを見ることができる。つまり、普通に考えるならば、恋人マルタとの愛をテーマにした詩画集だと言えるだろう。
 だが、詩と絵は短絡的な解釈を裏切る。詩に表れているのは、甘いラブ・ロマンスではない。死を隣に置いた「生」の形、別れを宿命とした「愛」の形なのだ。フォーゲラーは、そのドラマを詩画集に封じ込めるため、マルタとともに「あなたに…」を演じた、と言ってもよい。甘やかな表現の中に、厳しい現実があるように、青春(若者たち、ユーゲント)はつねに傷つきやすく、現実に対して脆いものだ。フォーゲラーもまた、ユーゲントの夢を失ってゆく。
 この詩画集が再刊されるのが、1919年のこと。詩画集が初めて出されてから20年ほどしてからだ。フォーゲラーはユーゲント・シュティールを捨て、立体派の構図に近づき、さらにプロレタリア・リアリズムを模索していた時期だ。「不思議な本で」と言ったのはそれである。なぜ、妻マルタとの訣別が決定的になってから、恋人であり妻でもあったマルタの思い出である詩画集を再刊したのか。それが、不思議なのだ。
 未練とも考えられるし、単に出版で共産主義実現のための資金を得るためとも考えられる。それでも、なぜ、である。
 いや、そのいずれも、なのかも知れない。当面の資金調達は待ったなしだ。第一次世界大戦でドイツの失ったものは大きい。目前には、経済疲弊があり、孤児がいる。ユーゲント・シュティールの時代から夢見がちで理想家だったフォーゲラーはその現実を受け入れることはできない。現実的には、そのための商品としての出版であったろう。だが、「本」というものは商品ではあるが、しばしばそれを裏切る。現実が理想を裏切るように、理想もまた現実を裏切るのだ。それは、「本」はつねにメッセージだからだ。
 ここでもそれがあったのだろう。失われたもの、失われた過去、それへの切実なメッセージがこの「再刊」には込められていたのだ。かつての愛の怯え、愛の歓喜。マルタとの自然の中の愛の生活。フォーゲラーの思いはつねにそこに還っていった。
 ユーゲント・シュティールの時代は、「ビオソフィア(生の知)」に関心が寄せられた時代でもあった。一個の「人間」として生きることが問われた時代であった。フォーゲラーのスタイルは、それを反映している。脆く傷つきやすいスタイルだが、それのなんと魅力的なことか。
 フォーゲラーの詩画集の翻訳をしてくれたのは、阪本恭子さんだった。阪本さんは、わたしの勤めている大学でドイツ語と生命倫理を教えていた。わたしは、その阪本さんから「ビオ・ソフィア」の話を聞いた。神の領域から、生命が人の領域に移ったときの「知(哲学)」の問題についてである。。それがユーゲント・シュティールと連動した動きであることに気づいたのは、それからしばらくしてだった。ニーチェからそれが始まったという。
 長い前置きだか、それが猪狩さんの「午後のメール」につながる。前回に続いて台風のさなかのメールだ。

 「入院以来二度目の台風の最中です、マンの要領を得た文章から、昨日の続きですが、抜き書きします」と言い、ハインリヒ・マンのニーチェ解説を、猪狩さんは引用する。
「彼は余りにも病んでいたので~彼ならこういうであろう~余りに健康であったので」、「ここにひとつの事実がある、一人の病者が自分の運命を認め、決してそれが終わることのないように願うまでにそれを愛ししている」、「彼は自己の果たすべきすべてのもののために、それから後10数年間しか持たなかったのである、作品、作品による力、他のあらゆる栄光を彼の光によって凌ぐこと、それ故また、健康であること、こうした一切のことのために、彼の数多い苦悩から、彼はひとつの新しい、もっと高い健康というものをつくり出した。自分が健康であると宣言した」、「実際、病気は内面の健康であり得るし、その逆も真である」、「私には何ら病的な兆候はない、最も大きな病気にあっても、私は病気にならなかった」。
 そして、マンは最後の締めくくりでこう書いているという。「彼の教義は、最も自由、最も聡明、最も高い魂たちの宗教であらねばならない。金色の氷と純粋な空とのあいだの牧場の笑いでなければならない」と。

 ニーチェから、生命への問が始まる。芸術もまた生命とともにある。「乙女デザイン」などとのんびり構えているが、その向こうにある憧れや、悲しみ、生命の危機や歓喜、それがとらえられての乙女デザインなのだ。

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【竹内の付記】
 このブログ冒頭の写真が、山田氏が文中で言っている『あなたに…』の表紙です。山田氏と私と、あと何人かの仲間とで学生時代に始めた出版組織「風信社」を発行名義にして久々に刊行した書籍です。今のところ、書店流通では扱っていませんが、まだ残部がありますので、下記「大正・乙女デザイン研究所」にお問い合わせください。頒価1500円にて、お受けしています。
 
 otome-design@mail.goo.ne.jp


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ドビュッシーと堀辰雄――山田俊幸氏の「病院日記」(第9回)

2011年10月11日 16時03分46秒 | 山田俊幸氏の入院日記


 先日お伝えしたとおり、『近代ニッポン「しおり」大図鑑』のゲラ校正が終わり、索引のデータも済ませましたので、やっと一段落です。週末は、ワレフスカのCDを聴くコンサートで少しご挨拶をする機会などもあり、気分転換にはなりましたが、いつの間にか、山田氏から送信されてきている『寝たまま書物探偵所』が、私の携帯のなかで「そのまま」になっていて、しゃれになりません。なんと10回分たまっています。山田氏が執筆をしているもうひとつのブログ「大正・乙女デザイン研究所」用の「小林かいち物語」の原稿も6回分たまっています。精力的な人です。これは、怪我をして入院生活をして、かえってよかったかな、と思うほどです。それぞれ順次、原稿整理してブログ上に掲載しますので、もう少しお待ちください。
 ところで、当の山田氏ですが、ゲラ校正が終わったと知って、しばらくお休みしていた資料調査依頼を、また、遠慮なく、ベッドの上からメールでして来るようになりました。「手許で調べられないから」が、このところ「切り札」です。いつから彼の助手になったんだろうと苦笑いしながら、彼の手・足・眼の代わりをしていると、私自身も、久方ぶりに、とても刺激を受けます。私の関心のある分野にも様々に食い込んできます。山田氏の関心と知識の広がりに、改めて感心しています。以下、再開「探偵所」、9月23日に受信した分です。

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ドビュッシー随筆――寝たまま書物探偵所(8)
 by 山田俊幸

 海藤さんからいただいたCDから、ドビュッシーの「月の光」が流れてきた。静かないい曲なのだが、寝たままの状態で聴いていると、どこか安楽の国にでも引きずりこまれるような感じがする。安楽の国というのは、死の国であることはもちろんだ。
 ドイツ旅行をした時に、ミュンヘンで歌劇「ペレアスとメリザンド」を見たことがある。あれは面白かった。演出が意表を突いていたのだ。舞台中央に古びた大樹を置き、その右下に寝台。それだけの舞台セットである。登場人物は十七、八世紀風衣装で、これも好ましかった。変に現代劇風にするものもあるが、あれは苦手だ。音楽的にどうなのか。終わってからの拍手が疎らだったから、音楽としては失敗であったのかもしれないが、その大樹を用いての舞台は、わたしにとってはとても興味深いものだった。一面、能舞台のようであり、宗教学で言う「宇宙樹(コスミック・ツリー)」をも思わせた。そこですべてが始まり、そしてすべてが終わるのだ。「ペレアスとメリザンド」はメーテルリンクの原作。メーテルリンクは、神秘主義的な作風を持つ劇作家だから、日本の能の夢幻的趣とは親和するのかもしれない。さらに、「宇宙樹(コスミック・ツリー)」は、生命の樹でもある。そこに「生」があり、「死」がある。ペレアスとメリザンドの生と死が、この大樹に、すべて飲み込まれる。そんな劇に出来上がっていた。
 原作では、メリザンドは水の精の特徴を持つ。若くはない男寡の皇太子ゴローに声をかけられたのは、水に冠を落とした時。ゴローの指輪を失ったのも泉。水は生命の象徴であると同時に、死の国への入口である。そうしたイマジネーションの中、メリザンドを巡る、兄ゴローと弟ペレアスの愛の確執で話が進んで行く。ゴローのメリザンドへの執着から、ペレアスはゴローに刺され死に、メリザンドもまた傷つき、やがて命を落としてゆく。そして、ゴローの悔恨。悲歎。そんな中、老国王によって、メリザンドが臨終間近に産み落とした赤子が、次の代を継ぐものとして示されて終わる。そんな話だ。
 ミュンヘンの舞台でとりわけ印象的だったのは、原作では塔の上からメリザンドの長い髪がバサッとペレアスに落ちる場面だ。ペレアスはそれを抱きしめる。それをここでは、太い幹の樹の上から落とした。それは、はっとするような美しさだった。今でも忘れられない。
 ドビュッシーにどのような考えがあって「ペレアスとメリザンド」を歌劇化したのかは知らないが、メーテルリンクの生と死のあわいにある、運命の悪戯や微かな神秘的な兆しは理解していたのだろう。「月の光」からも、そんな微かなしるしを聴くことができそうだ。
 メーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」は、一九七〇年代に杉本秀太郎が翻訳をして湯川書房から出版されたと思う。小洒落た綺麗な本だった記憶がある。チルチル、ミチルの『青い鳥』で知られるメーテルリンクが、従来思われていた子供向け作家から、神秘的な思想を持つ作家に評価変えされはじめた時期に重なる。たしか『遊』という雑誌を出していた編集工学研究所がメーテルリンクのハチの生活だったか、蟻の生活だったかを神秘学教本のように出していたことも記憶している。
 ドビュッシーからメーテルリンクに話がつい行ってしまった。ドビュッシーにもどろう。「月の光」を聴いていて、いつも想像が飛ぶのは堀辰雄の晩年のことだ。
 堀辰雄には「雪の上の足跡」という対話編がある。対話形式のエッセイというのは幾人も試みているが、あまり成功したものは見ない。そんな中で、堀辰雄のそれは傑出している。読み込んできた古今の書物と、さらに自らの人生とを、ここで綴れ織りにしたからだろう。
 ここでは、フランス文学一辺倒だと思われていた堀辰雄の知識が裏切られる。ハイネあたりの流浪する神の話が出るし、日本の古典文学にも話が及ぶ。遠藤周作は、東西比較宗教論的にも理解されるものと言い、研究としては、折口信夫との出会いが影響しているとも言うが、そんなものではない。折口とのダイアローグがきっかけにはなっただろうが、その語り口は間違いなく堀辰雄のものだ。なかんづく、トムソンにまで話が及んでいることは驚きだ。
 ジェームス・トムソンは重要な宗教詩人だが、日本の英文学でも触れられることの少ない詩人だ。「四季」が代表作だが、わたしは残念ながらその全詩を読んだことがない。ハイドンのオラトリオ「四季」はトムソンの詩に依ると言うから、日本盤のライナー・ノートでも見ればよいのかも知れない。けれども無精なわたしは、それもしていない。一度、田村書店洋書部の愛書家目録に、フューズリー他挿絵の「四季」が出て、それをもとめたことがある。造本は堅牢を旨としたもので、そこがいかにもイギリス的だが、用紙の選定や挿絵の質は並のものではない。それを見ただけでも、トムソンのイギリス文学の中での重要性がわかる。そのトムソンに、堀辰雄は「雪の上の足跡」のもっとも大事なメッセージを持たせているのだ。
 そんな中で、この対話形式のエッセイの低音部に流れているのはドビュッシーのような気がする。。堀辰雄の小説、エッセイで音楽的なものは意外と少ない。「美しい村」はフーガ形式で書いたと言うが、それはスタイルであって、音楽が聴こえてくるわけではない。だが、この「雪の上の足跡」だけは珍しく、音楽が聴こえてくる。それもあるかなきかの間(あわい)の音楽だ。この対話編、主人堀辰雄と客野村英夫との対話と、事情を知っている人にはわかるようになってはいるが、その実際は、堀辰雄は野村英夫の向こうに、死んだ年少の詩人立原道造を見ながら対話しているように思えてならない。立原には「西風の見たもの」という詩がある。堀は「雪の上の足跡」だ。この呼応は興味深い。いずれも、ドビュッシーのピアノ曲のタイトルなのだ。亡くなった年少の友との対話。堀はそれをこの対話編に潜ませた。そのことに、ドビュッシーほど最適な音楽はないだろう。
 オペラ「修善寺物語」を書いた清水脩によって、アンドレ・シュアレスの『ドビュッシー』が翻訳されたことがある。これはいい本だった。シュアレスはルオーの挿絵『ミゼレーレ』などの本文作家として有名だが、この「ドビュッシー」は佳作である。文学的解釈と片付けられないものがある。あの本に、「西風の見たもの」と「雪の上の足跡」は、どのように説明されていただろうかと、ふと思う。こんなとき、手元に本がないのは困る。

【竹内の付記】
 清水脩訳のシュアレス『ドビュッシー』は、私も持っています。昭和18年2月に地平社から発行されたもので、私が持っているのは昭和21年の再版です。「西風の見たもの」への言及はありませんが、「雪の上の足跡」は以下のようなシュアレスの言辞が訳出されています。(新かな遣い、新漢字に改めました。)
 ……執拗に繰り返されるつまづくようなリズムは、恰も怖る怖るフェルトの上を歩くように、すべったり、また立ち直ったりして進み、見渡す限りの一面の白銀の世界をたくみに暗示している。けれども、そこには宇宙の窒息するような沈黙が立ちこめ、心は悲しみに病み、憂愁に悩み、疑惑と悔恨にうちふるえている。時折かすかに吹く風に雪は斜めに舞いかかる。永い、耐えがたい路、暗闇のノスタルジアと暖かい愛情のノスタルジア、一口にいえば自分の心をただ一つのより所にして、とぼとぼと歩む果てしない孤独、それは、この世界のありとあらゆる沙漠や冬ですら、これほどとは思えぬ孤独なのだ。……
 

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愈々、『近代ニッポン「しおり」大図鑑』が発行されます。

2011年10月07日 14時31分33秒 | 「大正・昭和初期研究」関連

 しばらく、ほかに何もできないほどに忙しかったのですが、やっと、近代ニッポン「しおり」大図鑑(国書刊行会から、10月31日に発行予定)のゲラ・チェックを終えました。
 とても興味深い本に仕上がりました。私のことですから、例によって、索引も充実しています。なにしろ、オールカラー200ページの中に、450点~500点近い小さな紙切れを収録したわけですから、何のしおりがどこに載っているか、わからないと不便ですので、かなりきめ細かい索引を作成しました。
 索引のことはともかくとして、一点一点の解説の執筆に、思いがけずてこずりましたが、日本の近代史の一側面を、面白く垣間見ることができました。
 どんな本なのかは、以下に、私が書いた「あとがき」を掲載しますので、ご想像ください。眺めているだけでも楽しい本です。ぜひ、ご予約ください。

■編集・解説にあたって
 本書は羽島知之氏のコレクションを中心に、監修の山田俊幸氏のアドバイスを受けて、いくつかの機関に保管されていたものを加えて編んだ「しおり」図鑑である。ここに収録したものは、膨大な羽島コレクションの一部に過ぎないが、編者のひとりとして、本書の成り立ちについて書いておきたいと思う。
 本書への各しおりの収録にあたっては、そもそも、数千枚に及ぶコレクションを前にして、大まかな選択とカテゴリー分類の作業を、ひとまず羽島氏と竹内で行なった。それは、日本の大衆文化史という大海原への船出でもあったが、そうした歴史的背景に関心を持つばかりではなく、図像としてのおもしろさ、あるいは美術史的な鑑賞という観点に照らして更に精選し、章構成の骨子にもアドバイスを与えてくれたのが大木優子氏であった。その大木氏にもコラム執筆をお願いしたが、そのほか、監修の山田氏と相談しながら、「しおり」に関連する様々な興味深い視点を、海藤隆吉、熊田司、高野麻衣の三氏にお願いすることとした。各ページ見開きごとに付した「解題」は竹内がとりあえず調査して執筆し、デザイン様式の変遷を中心に山田氏の助言を受けて最終稿とした。
 そうした過程を経て仕上がった解説原稿だが、その執筆過程で私が強く感じたことのひとつに、こうして残された「しおり」は、それぞれの最初の持ち主が、こだわりを持って保管した物が残っているのではないだろうか、という思いだった。映画のタイトルを見ても、社会的に話題となった作品や、個人が人生の節目に遭遇した映画の記念に残しておいたものなのかと想像するものが多い。天皇の崩御によって突然年号が変わったことを記憶しておこうと残されたのかと思うものもあった。戦時下の、今の観点ではとても納得しがたい価値観の披歴も、「そういう時代があった」と記憶しておきたかった人の手許に留め置かれたものが、長い年月を経てコレクターの市場に現われたものではないだろうか。しかも、その「観点」が、社会性を帯びた男性よりも、日々の暮らしに育まれた女性の関心に近い物が多いように思う。「しおり」の保存は、女性の力による部分が大きかったようにも思う。百年以上もの歳月を経過して残された様々な「しおり」のアトランダムな集積から直感的に感じられた印象は、そうしたことだったと言ってよい。
 しかし、何はともあれ、これらの「しおり」コレクションからは、思いのほか「日本の近代史」のオモテとウラが見えてくる。そのおかげで、一枚一枚のしおりの表現から手繰り寄せようとする歴史の事実は、もともと私が承知していた明治から大正を経て昭和に至る社会の世相を、遥かに凌駕する膨大で瑣末な出来事との格闘へと突き進んでしまった。たった一行の記述、ワンフレーズの表現から、数十ページにもわたる当時の出来事の解説を読破せざるを得ない広がりにも、しばしば遭遇した。本書の各ページに付された解題は、それらを要約したエッセンスに過ぎない。読者の皆さんが、お気に入りの一枚の「しおり」から思い出や歴史の旅を広げて、それぞれの心の底に眠っている記憶を呼び覚ましていただけるよう願っている。


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【ご案内】CDコンサート「真空管アンプのこだわりサウンドで聴く」クリスティーヌ・ワレフスカの至芸

2011年10月06日 23時59分33秒 | Weblog

会場:アートコンプレックス B1Fホール
(東京都新宿区大京町12-9 ℡.03-3341-3253)

 http://www.gallerycomplex.com/access/index.html

日時:10月9日(日) 午後2時より
(会場は午前11時より開場しています)
演奏:クリスティーヌ・ワレフスカ(チェロ)/
    福原彰美(ピアノ)
    (発売中のCDを使用)
解説:竹内貴久雄(音楽評論家)
   渡辺一騎(ワレフスカ来日演奏会実行委員会代表)
曲目:
バッハ「チェロとピアノのための《アリオーソ》」
ブラームス:チェロ・ソナタ第1番
ボロ二―ニ「チェロの祈り」
ボロニーニ「エコーセレナーデ」
ボロニーニ「ガウチョ・セレナーデ」
     *
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(第1楽章)
ショパン「序奏と華麗なるポロネーズ」
ショパン「チェロ・ソナタ」

機材提供:森田富雄

*音楽会も可能な音響の良いアートスペース(画廊)で、
こだわりのオーディオ装置を用いての「CDコンサート」。
昨年東京でのワレフスカの話題の名演が、
NHKの収録・放送した高音質音源で鮮明に甦ります。
他、1970年代のワレフスカの名演なども併せて聴きます。

【入場無料】

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~こちらは画家・横山光伸の個展中のイベントの一環として上演されます。
 横山光伸 個展「Meet You In Wonderland」(10月4日~13日開催)
 http://y.mitsunobu-jp.com/gallery/20111004.html

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