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「2004年プラハの春・国際音楽祭」での名古屋フィルハーモニー

2009年12月03日 14時10分03秒 | ライナーノート(日本クラウン編)



 以下は、名古屋フィルハーモニーのライブ音源から発売されたCDのライナーノートの一部です。2005年3月に発売されたものと記憶しています。原稿の執筆完了日は、2005年1月13日です。この時、CDアルバムは4点制作され、いずれも私がライナーノートを書きました。どれも、素晴らしい演奏の記録ですので、ご興味のある方は、名古屋フィルハーモニーのホームページをご覧ください。まだ、購入できるはずです。


◎ライナーノート本文◎


《「プラハの春」での名フィル》
 ――名古屋フィルハーモニー四態(その1)

 2004年の「プラハの春・国際音楽祭」に、名古屋フィルハーモニー交響楽団は正式招待された。ドヴォルザーク没後100年というメモリアル・イヤーにあたり、メイン会場である「スメタナホール」ではドヴォルザークの交響曲全9曲の連続演奏会が企画されたが、その内の「第2番」「第8番」が名フィルの演奏曲目であった。指揮はチェコの新進トマーシュ・ハヌスが「第2」を担当し、「第8」は名フィルとは客演指揮で馴染み深い武藤英明。いずれの演奏も、ドヴォルザークの音楽に精通しているプラハの聴衆を熱狂させた名演で、改めて名フィルの実力の高さを遠くヨーロッパの音楽ファンに示すものとなった。このCDは、その2日間の演奏会のライヴ録音から、メイン曲である交響曲と、それに続けて演奏されたアンコール曲を収録したものである。

■全交響曲ツィクルスの全貌
 2004年の「プラハの春・国際音楽祭」でのドヴォルザークの交響曲全9曲の演奏は、チェコ内外の6つのオーケストラ、9人の指揮者に依頼された。これを日程順に記すと、以下のようになる。

・5月20日「第6番」(レナート・スラットキン指揮BBC交響楽団)
・5月21日「第5番」(セルジュ・ボド指揮プラハ交響楽団)
・5月23日「第8番」(武藤英明指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団)
・5月24日「第2番」(トマーシュ・ハヌス指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団)
・5月26日「第4番」(ロベルト・モンテネグロ指揮プラハ放送交響楽団)
・5月28日「第3番」(クリストファー・ホグウッド指揮チェコ・フィルハーモニー)
・5月29日「第7番」(ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ライプチッヒ・ゲバントハウス管弦楽団)
・5月31日「第1番」(リチャード・ヒコックス指揮プラハ交響楽団)
・6月2日/3日「第9番」(ズデニェク・マーカル指揮チェコ・フィルハーモニー)

 なかなかの陣容に名古屋フィルが肩を並べているだけでなく、複数曲を担当するオーケストラとして、地元のチェコ・フィルとプラハ響のほか、名古屋フィルの名前が上がっているのが目を引く。また、「第9番《新世界より》」と並んでドヴォルザークの交響曲の中でも傑作とされ、演奏される機会も多い「第8番」が日本の武藤~名フィルに任されたということも、注目すべきことだ。

■名フィルが演奏したコンサートの詳細
 「プラハの春・国際音楽祭」で名フィルが演奏した2回のコンサートの詳細を記そう。

●5月23日(日)8:00pm スメタナ・ホール
・新実徳英:二十弦箏とオーケストラのための《宇宙樹――魂の路》(独奏:野坂恵子)
・メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64(独奏:漆原啓子)
・ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調 作品88(指揮:武藤英明)
●5月24日(月)8:00pm スメタナ・ホール
・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番ニ短調 作品30(独奏:カレル・コシャーレク)
・ドヴォルザーク:交響曲第2番変ロ長調 作品4(指揮:トマーシュ・ハヌス)

 また、23日にはアンコール曲としてドヴォルザークの「スラブ舞曲」第9番および第15番、24日には「同」第13番が演奏されている。今回のCDに、いずれも収録されている。
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 この2つのコンサートと同一のプログラムを、名フィルはプラハでの演奏前に、4月22日の第302回と5月5日の第303回の定期演奏会で取り上げている。第302回が「第2番」ほかでハヌスの指揮、第303回が「第8番」ほかで武藤の指揮。303回では、ヴァイオリン独奏も、プラハでのコンサートと同じ漆原啓子が担当した。正に、入念な準備を行なった上で臨んだ演奏だったと言えよう。
 なお、名フィルは、この5月5日の定期演奏会の直後にヨーロッパ・ツアーに出発。デュッセルドルフ、グラーツ、クラーゲンフルト、ウィーン、インスブルックの各都市で、武満徹「セレモニアル」とメシアン「トゥランガリラ交響曲」を演奏してのプラハ入り。かなりハードなスケジュールだったが、旅の疲れを感じさせない充実した演奏だったことは、このCDでも充分に感じられる。

■このCDの演奏について
 武藤英明指揮の「交響曲第8番」は、曲の冒頭から、大きな抑揚を伴った豊かな表情に特筆すべきものがある。名フィルの第3代音楽監督兼常任指揮者として、今日の名フィル発展に大きく貢献した外山雄三は、名フィルの美質を「演奏の密度、精度、そして何より表情の積極性と濃密さ」にあると語っているが、正に、そうした名フィルの本領発揮というべき名演が、ドヴォルザーク音楽の故郷、プラハの「スメタナ・ホール」に響き渡ったのだ。
 この演奏からは、指揮者もオーケストラも完全に曲を手中に収めているのが、よく伝わってくる。こまやかな表情づけが、どのパートを聴いても借り物の感がなく、最初からそのようにそこにあるかのように淀みなく音楽が流れてゆく。しかも生き生きとして開放的で、喜びにあふれている。
 第2楽章の入りの抑揚の深さ、それに続く細心の注意を払ったかのような秘やかな進行には、思わず息を呑んでしまう。このあたりは日本人ならではの感性とも言えようが、鎮まりかえった会場の緊迫感が、聴衆の共感をよく伝えている。全曲でも白眉の楽章だ。
 第3楽章では弦楽アンサンブルの精緻さが素晴らしく、終楽章での骨太の足どりと長大で執拗な展開へと連なってゆく。
 指揮の武藤は、名古屋フィルハーモニーの客演指揮者として名フィルの聴衆に馴染み深い指揮者のひとりだが、同じくらいチェコの聴衆にも知られている日本人指揮者だ。桐朋学園で斎藤秀雄に師事した後、渡欧、ズデニェク・コシュラーに師事。1977年国際バルトーク・セミナーで最優秀指揮者に輝き、プラハ響、プラハ放送響、スロヴァキア・フィル、ブラティスラヴァ放送響などを客演した後、1986年にはプラハ放送響の客演常任指揮者に就任し、翌87年には早くも「プラハの春・国際音楽祭」で手腕を発揮し評価され、現在に至っている。しばしば、チェコ語で寝言をいうなどとも言われるほどチェコに親しんでいる武藤だが、それでも、ここにあるのは紛れもなく日本人の語法による音楽だと思う。
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 「交響曲第2番」は、ドヴォルザークの交響曲の中では演奏される機会の少ない作品のひとつだが、「第8」に連なるボヘミア的な自然描写の原型も聴かれ、習作期の作品としては重要な作品だ。トマーシュ・ハヌスの指揮は、若々しさの横溢した隅々まで生き生きとした音楽がまず魅力だが、それでいて、楽譜の細部がよく透けて聞こえてくる演奏で、初期のドヴォルザークの苦心の書法が明快に伝わってくる。
 ハヌスは、先にも触れたように、名フィルとは、1ヵ月ほど前の定期演奏会で初客演し、このプラハでの演奏が2度目だったが、ハヌスの共感と愛情に包まれた棒に、オーケストラもよく応えている。
 トマーシュ・ハヌスは、1970年生まれのチェコ期待の新進指揮者。チェコが生んだ20世紀の偉大な作曲家ヤナーチェクの生家からわずか200メートルのところで育ったという。ブルノ音楽院で学び、後に指揮をビエロフラーヴェク、ロジェストヴェンスキーに師事した。22歳でプロ・デビュー。プラハ室内フィルの前身であるニュー・チェコ室内管弦楽団を創立。チェコ・フィル、プラハ響、プラハ・フィル、ブルノ・フィルなどを指揮。その後、ドイツ、スロヴァキア、ポーランド、イタリア、スイス、スペインでも活動し、2003年からはスロヴァキア・フィルの指揮者に就任している。これまで、「プラハの春・国際音楽祭」にもしばしば出演しているが、国外のオーケストラを指揮しての登場は、この名フィルとが初めてとなる。チェコ・オペラ・フェスティバルのオープニングとクロージングを担当するなど、オペラにも精力的に取り組んでいる。

(以下、収録曲の解説、演奏者プロフィールが続いていますが、当ブログでは省略しました。)





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ウクライナ共和国オデッサ・フィルのCDを聴く(2)

2009年11月04日 13時20分05秒 | ライナーノート(日本クラウン編)







 以下は、当ブログ前回の続きです。執筆は1997年10月22日です。


■オデッサ・フィルの第2弾を聴く
 個性的で意欲的なアルバムを続々と発表するイギリスASVレーベルによる〈ウクライナ音楽シリーズ〉は、第1弾のコレッサとスコリークの作品に続いて、グリエールとスタンコヴィチの作品の登場となった。演奏は、もちろん第1弾と同じくウクライナを代表するオーケストラ、オデッサ・フィルハーモニーで、指揮も前作と同じく音楽監督のホバート・アールだ。
 第1弾は、〈ウクライナ音楽の父〉とまで讃えられるコレッサと、その直系の弟子スコリークの作品によって、ウクライナ西部高地、リボフ州を中心とした純正ウクライナ音楽の持ち味を強烈に印象付けてくれたが、今回の第2弾は、かなり傾向が異なるアルバムとなっている。
 ウクライナ共和国は、西はポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアに接した高地(カルパチア山脈)、東から北にかけてはロシアに接している。南は黒海に面しており、かつての文化の交流地オデッサは、黒海で最大の海岸都市だった。キエフは、そうしたウクライナの首都として、中央の高地に位置しており、ロシアのモスクワの影響をも受けていた。
 前回のアルバムの作曲家コレッサらが西の高地リボフを中心とした音楽家であったのに対して、グリエールは中央のキエフに生まれた。生地キエフの音楽学校で学んだ後、モスクワ音楽院に進み、イッポリトフ・イワーノフに作曲法を学んだ。コレッサがプラハを初めとする東ヨーロッパの影響を受けたのとは、かなり対照的だ。
 このアルバムは、グリエールの中で実を結んだロシアの音楽教育の成果が見え隠れするためか、前作のコレッサらのウクライナ音楽よりもずっと私たちには馴染みやすい部分が多いが、それでも随所で、前作で知り得たウクライナ音楽の味わいに気付かされる。ウクライナ音楽が様々な顔と歴史を持っていることを示してくれる当シリーズの本領発揮と言ったところだ。第2弾の登場で、今後の系統立てての発売が、さらに楽しみになった。

■グリエールと、その作品
 グリエールは、1875年1月11日にウクライナの首都キエフに生まれたが、前述のようにモスクワ音楽院に進学、その後も母校で、多くの作曲家の育成に尽力した。組曲「コーカサスの風景」の作曲者として知られる、師イワーノフの影響からか、ロシア革命後の一時期、外コーカサス地方のアゼルバイジャン、ウズペクなどの作曲家の協力を得て現地の民族音楽を採譜するなどして歌劇、音楽劇を作曲。革命後のソビエト連邦内で、積極的にアジア的な民族音楽要素の取り入れを行った。アゼルバイジャン民族オペラ「シャー=セネム」や、ウズペク民族オペラ「レイリとメジヌン」などが、その成果として知られている。
 ところで、グリエールの代表作として広く知られているのは「バレエ《赤いけしの花》」だろう。特にその中の「ソビエト水夫の踊り」は単独で演奏される機会も多い。グリエールは、この作品によって、外コーカサス地方からモスクワに登場した最大の作曲家ハチャトリアンにさきがけて、民族色を前面に押し出したソビエト・バレエの先駆者として永遠に記憶されるに違いない。

●バレエ組曲「タラス・ブーリバ」
 グリエールは、音楽のロシア化を推進し、アジアや中東的な民族音楽を幅広く吸収しながら、それらを西欧音楽の手法で処理していった作曲家だったが、そのグリエールが故郷ウクライナからポーランドにかけての民族音楽の採集を1920年頃に行っている。それは1921年(1説には27年)に「交響的絵画《サポローシュのコサック》」としてまとめられ、まもなくオデッサで初演されている。
 バレエ組曲「タラス・ブーリバ」は、それから更に四半世紀後、グリエールが76歳の晩年にまとめ上げられた。最後の場面の音楽には、旧作の「交響的絵画」の旋律がそのまま転用されている。この第9曲「サポローシュの人々の踊り」が全曲中で、最も素朴に聞こえ、第1弾のアルバムのコレッサの作品を想起させるのは偶然ではないだろう。
 それに比較して第1曲から第8曲には、グリエールがウクライナ音楽を〈洗練させていった〉過程ともいうべきものがはっきりと聴き取れる。第2曲や第5曲の広々とした高原を思わせる旋律にも、西欧的なくっきりとした枠組みが、拍節感の中から聞こえてくる。極めて折衷的な安定を感じさせる作品だが、それでも、グリエール晩年の故郷を思う心情をよく伝える美しい曲ではある。1952年1月26日にモスクワに於て、作曲者自身の指揮モスクワ放送交響楽団によって初演され、その後、死のわずか1ヵ月前の1956年5月にもオデッサで演奏されている。
 なお「タラス・ブーリバ」は15世紀に実在し、その勇気ある行動で讃えられたコサックの隊長の名前。この人物を主人公にしたゴーゴリの小説がよく知られ、そこから発想を得た作曲家ヤナーチェクの管弦楽曲「タラス・ブーリバ」が有名。同名のグリエールの作品はバレエ組曲で、別記の全9曲で構成されている。

■スタンコヴィチと、その作品
 スタンコヴィチは1942年にウクライナの南西部、カルパチア山脈に位置するスヴァリアヴァに生まれ、キエフ音楽院に進んだ。1970年に卒業したスタンコヴィチは、世代的にはグリエールと大きく離れているが、グリエールとは、ボリス・リャトキンスキーという弟子を挟んでの孫弟子の関係にあたるようだ。
 スタンコヴィチが音楽を学んだ時代は、ソビエト連邦の一員としてのウクライナ共和国として、彼も社会主義リアリズムの影響下にあったが、その中にあって、スタンコヴィチは自身の独自のスタイルを確立し、ウクライナの若い世代の作曲家として、指導的立場を得るに至ったという。
 スタンコヴィチは1970年代の半ば頃から既に、注目を浴びた個性的作品をいくつか発表している。中でも、ウクライナの民間伝承に取材した「民族オペラ《シダの花》」(1978)が多くの反響を呼び、その後は民族バレエの分野に進出して、キエフ歌劇場を主な舞台として次々に話題作を発表した。
 このCDに収められた「バレエ組曲《ラスプーチン》」は1989年に舞台上演された後に組曲としてまとめられた。
 民族オペラやバレエというジャンルは、かつてグリエールがたどった道筋でもある。このあたりに、彼らの音楽観や芸術としての表現手段の傾向が見えてくるように思う。と同時に、スタンコヴィチの出身が、カルパチア山脈地方であることにも注目したい。
 このポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアといった国々と接するウクライナの高地は、前回のアルバムで紹介された〈ウクライナ音楽の父〉コレッサを生んだ地でもあり、おそらく、音楽を生む土壌として、今後、ボヘミアやハンガリーとの関係においても、多くの興味深い発見があると思われる地域だ。彼らウクライナの音楽を、ロシア音楽の範疇に封じ込めるような愚は犯してはならないだろう。「ラスプーチン」の第2曲で、オーケストラの団員が唱和する力強いギャロップのリズムや、それに続く第3曲の、マーラーを思わせるような弦楽の美しいアダージョを聴きながら、そう感じた。

■演奏者について
●指揮者ホバート・アールについて
 このウクライナの作曲家の作品をウクライナのオーケストラが演奏したCDの指揮者が、カリブ海に臨む南米ベネズエラの首都カラカス出身と聞くと、意外に思われるかも知れない。しかも、このホバート・アールは、アメリカの名門プリンストン大学に在学中に〈イシドール&ヘレン・ザックス記念賞〉を音楽の分野で受賞し、1983年に主席で卒業したという経歴を持っている。同年ヨーロッパにわたり、ウィーン音楽アカデミーにおいて指揮法を学び、ザルツブルクではフェルディナンド・ライトナー、タングルウッドではバーンスタインや小沢征爾に師事している。
 1987年には自らのアンサンブルを創設し、ニューヨークやヨーロッパ各地で様々な作曲家の初演や、今日ではほとんど埋もれてしまっている19世紀末から今世紀初頭にかけて作られた作品の紹介といった意欲的な仕事に取り組んでいる。
 ホバート・アールとオデッサ・フィルハーモニーとの協演は1991年に始まった。翌年には音楽監督に就任し、オデッサ・フィルを率いての世界演奏旅行も行っている。
 1994年3月16日、ホバート・アールは外国人として初めて、〈ウクライナ優秀芸術家〉の称号を与えられた。
 前作のアルバムで、アールは音楽の骨格の掴み方の的確さ、シャープで知的な指揮ぶりを披露したが、今回のグリエール作品では、作品の持つ西欧的な構成感への視点が的確で、それをベースに民族的旋律が表層を彩っているといった作品の構造が、明瞭に、響きとして達成されている。郷愁にあふれた旋律での伸びやかな歌心も、弦楽の透明感の中で達成されている。スタンコヴィチの作品では、その現代性と郷愁を持った抒情が、切れのよいバトン・テクニックでクリアに表現されていると感じられる。この指揮者の西欧音楽的な要素に対する的確な反応ぶりからは、個性派の若手指揮者として、いずれはスタンダードなクラシック音楽のレパートリーも聴いてみたいという興味が湧いてくる。

●オデッサ・フィルハーモニー管弦楽団
 ウクライナ共和国は、名ヴァイオリニストのダヴィード・オイストラッフ、ナタン・ミルシテイン、ミッシャ・エルマン、レオニード・コーガン、そしてチェロのピアティゴルスキーらを生んだ国としても知られている。
 ウクライナが多くの優れた弦楽奏者を輩出していることには驚かされるが、オデッサ・フィルハーモニーは、そうした〈弦楽〉の国ウクライナの代表的オーケストラとなるべく1936年に創立され、ラクリンやテミルカーノフ、ザンデルリンクといった指揮者たちと活動してきた。
 1991年にホバート・アールが主席指揮者に任命され、モスクワ、サンクト・ペテルブルク、キエフ、リボフなどで大々的な成功をおさめ、翌1992年、アールは音楽監督に就任した。同年のブレゲンツの春の音楽祭やウィーン楽友協会においては、最高の賛辞をもって迎えられ、1993年にはアメリカ合衆国に演奏旅行に出かけ、各地で熱狂的な歓迎を受けて、さらに翌年はドイツのケルン、イギリスのロンドンをまわり大成功をおさめた。
 数多くの弦楽奏者を生んだ国のオーケストラらしく、弦楽アンサンブルの美しさはかなりの水準だ。もともと音楽性の豊かな集団のようなので、アールのような良い指導者のもとでの、これからの発展が期待できる。
         
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ウクライナ共和国オデッサ・フィルのCDを聴く(1)

2009年11月01日 15時11分32秒 | ライナーノート(日本クラウン編)




 以下は、ウクライナの首都オデッサにある「オデッサ・フィルハーモニー管弦楽団」の初CDのライナー・ノートです。英ASVレーベルの国内盤(日本クラウン)で、1997年9月24日に執筆を終えたものです。日本語文献のまったくない作曲家の作品であり、演奏しているオーケストラも、指揮者も、同じくまったく情報がなかったので、かなり苦労しましたが、興味深い仕事でした。翌月には、同シリーズの第2弾のライナーノートも執筆しました。これは次回の当ブログに掲載予定です。




■初登場のオデッサ・フィルを聴く
 個性的で意欲的なアルバムを続々と発表するASVレーベルから、また初登場作品のアルバムが発売された。先頃、旧ソビエト連邦の崩壊によって、長期間にわたったロシア支配から自立したウクライナ共和国を代表する作曲家の作品の紹介だ。
 もちろん世界初録音の作品だが、日本ではこのふたりの作曲家そのものが初登場ではないだろうか? 演奏しているウクライナを代表するオーケストラ、オデッサ・フィルハーモニーも世界のCD市場にとっては、おそらく当アルバムがデビュー盤であり、指揮のホバート・アールも、これがデビュー盤というわけで、初物づくしもここに極まれり、といったところだ。
 だが、このアルバムは、ただ単に「めずらしい」のひと言で終わってしまうCDではない。これはASVレーベルで順次系統立てて発売されていく〈ウクライナ音楽シリーズ〉の第1弾であり、現在もASVからのリリースが続いている〈アルメニア・フィル・シリーズ〉と同様に、新しい音楽体験をさせてくれるものに育って行くに違いない。

■ウクライナのリボフ、そしてオデッサ
 ウクライナ共和国は西はポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニアに接し、南は黒海に面している。当アルバムに収められた作品の二人の作曲家コレッサとスコリークは共にリボフ州に生まれた。州都リボフはオーケストラもオペラ・ハウスもあり、優れた音楽学校もある音楽都市で、この西の国境に近いリボフからは、共和国の首都キエフや黒海に面したオデッサまでよりも、ハンガリーのブダペストの方が近いくらいだと言えば、この街のおよその位置関係がお分かりいただけると思う。
 一方、黒海沿岸で最も有名な都市のひとつ、オデッサは、めざましい文化の歴史的舞台であったことで広く知られている。オデッサの街が遺産として受け継いでいるのは、ウクライナとロシアの文化だけではなく、ユダヤ、ギリシア、トルコ、フランス、イタリアの文化でもあるという。
 19世紀の終わり、オデッサは、数多くの優秀な音楽家たちが訪れた文化の一大中心地だった。当時、プーシキンやゴーゴリをはじめとする文学者も、この地に居を定めていたが、ヴァイオリンの名教授ピョートル・ストリアルスキ、彼の弟子であったダヴィード・オイストラッフやナタン・ミルシテインなどは、オデッサに生まれ育った音楽家たちだった。ミッシャ・エルマンもオデッサ音楽院の出身だ。正に一時期オデッサは、名ヴァイオリニストの宝庫だった。
 そして、ウクライナ共和国中部のドニエプロペテロフスクの出身者には、ヴァイオリンのレオニード・コーガン、チェロのピアティゴルスキーなどがいる。ウクライナが多くの優れた弦楽奏者を輩出していることには驚かされる。このCDシリーズは、そうした〈弦楽〉の国、ウクライナの現在を世界に伝えるものと言えるだろう。
 (筆者注:地名表記はロシア名が定着しているのでそれに従ったが、例えば「リボフ」をウクライナ人は「リヴィーフ」と呼ぶ。英字綴りも最近「l'vov」から「liviv」に訂正されているようなので、いずれは日本でも表記の見直しが行われるかも知れない。)

■ミコラ・コレッサと、その作品
 ミコラ・コレッサは、1903年にウクライナ、リボフ州のサンボルで生まれた。〈ウクライナ音楽の父〉とも讃えられる作曲家、指揮者で、リボフの高等音楽院教授として、後進の指導にも尽力した。1993年12月6日には、90歳の誕生日を祝う式典が盛大に行われた。
 コレッサは、リボフで学んだ後、チェコのプラハ音楽院でヴィテスラフ・ノヴァークに作曲法を学んだ。帰国後は、作曲活動の他、リボフ交響楽団、リボフ・オペラとバレエのための劇場の指揮者を歴任。リボフに指揮者養成所も創設した。コレッサの多くの教え子のなかには、キエフ・オペラ座の芸術監督を永年にわたって勤めた故ステファン・トゥルチャクや、当CDの後半の作品の作曲家ミロスラフ・スコリークらがいる。
 コレッサの音楽のスタイルは、バルトークや今世紀前半のフランスの作曲家たちから影響を受けた作曲技法に、コレッサ独自の特徴を結びつけたものとされている。

●「交響曲第1番」
 4楽章構成の作品で、その各々に作曲家自らがタイトルをつけている(別項参照)。
 各楽章に描写的なタイトルが付けられているのは、当時のソ連邦共産党中央委員会の命令(スターリン時代の1948年に発布)に従ったからだと、作曲者自身が語っている。中央委の命令は、「作曲家、作家、並びに他のあらゆる芸術家は、ソビエトの一般民衆に理解しやすい作品を提供すべきであり、作品の内容をよく伝えるタイトルをつけることで、より一層作品を身近なものにしなければならない」というものだった。
 「交響曲第1番」にコレッサがつけたタイトルは、創作時に予め入っていたわけではなく、当時の政治状況が反映した結果ではあるが、各楽章の雰囲気にはよく似合ったものとなっている。なお、第2楽章の「オプリスキ」とはカルパチアの山々に出没する山賊で、彼等は金持ちから金品を奪い、貧者に分け与えた。コレッサが「民衆の仇を討つ者」のなかで表現したものは、スターリン時代の共産党中央委員会によって、肯定的に見られたに違いない。
 この作品は、1950年、リボフ交響楽団によって作曲家の指揮のもとに初演された。

■ミロスラフ・スコリークと、その作品
 ミロスラフ・スコリークは1938年、リボフ州に生まれた。師事したコレッサと同じく、彼もまた、作曲家にして指揮者、教育家として活躍し、現在もリボフの高等音楽院で教授を勤めるほか、キエフ音楽院でも教鞭をとっている。
 スコリークの場合は、コレッサがプラハで学んだのとは異なり、1960年代にモスクワ音楽院で学んでいるが、それが、世代の相違以上に二人の作風を色分けているようだ。スコリークの音楽の特徴は、ウクライナ土着の音楽を基礎にしながらも、それを20世紀の様々な作曲技法との結合で再構成するところから生まれてきているようだ。
 いずれにしても、コレッサとスコリークに共通するのは、東欧諸国との国境に沿ったカルパチア山脈に接するリボフの風土へのこだわりだ。これは、同じウクライナ国内でも、中央のキエフや、黒海を望むオデッサとは相当に異なる環境だろうと思われるが、彼の地のこと故、我々日本人は地図の上で想像するしかない。少なくとも、単純にこのアルバムの演奏を同国人の演奏と即断することは、慎みたい。

●「ハッサル三部作」
 この作品は、セルゲイ・パラザノフ監督の映画「忘れられた祖先の亡霊たち」(原作はミコラ・コツビンスキーの小説)のために、1965年に作曲されたオーケストラ作品をもとにしている。演奏会用の作品に改作するにあたって、三つの場面に再構成された。
 第1曲「幼年時代」は、ふたりの子供たち、イヴァンとマリーシュカの無邪気な遊びを描いている。第2曲「イヴァンとマリーシュカ」は、ふたりの間で育まれる愛の感動的なシーンに相応しいもの。第3曲「イヴァンの死」では、マリーシュカの死後、感覚と意識のすべてを失っていくイヴァンのドラマが展開される。
 題名の「ハッサル」とは、カルパチアの山中で暮す人々のことで、この作品は、このハッサルに伝わる特徴あるメロディやハーモニー、そしてリズムなどを十分に活用して作曲されているという。

●「管弦楽のための《カルパチア協奏曲》」
 この作品も、カルパチア山脈地域の民謡の音楽的要素と現代音楽のテクニックとが融合された作品であり、スコリークの作品のなかで最も知られたもの。1972年に書かれている。
 単一楽章からなるこの曲は、たがいに好対照をなす四つの部分で構成され、スコリークはそのひとつひとつのなかで、カルパチア山麓の色彩豊かな変化に富む風景を、音によって表現している。第2曲と第4曲では、オーケストラの各パートが、民俗楽器の雰囲気を表現している。また、楽譜には、ツィンバロン(ウクライナ、カルパチア地方で最もポピュラーな楽器)の使用が明記されてもいる。

■指揮者ホバート・アールについて
 このウクライナの作曲家の作品をウクライナのオーケストラが演奏したCDの指揮者が、カリブ海に臨む南米ベネズエラの首都カラカス出身と聞くと、意外に思われるかも知れない。しかも、このホバート・アールは、アメリカの名門プリンストン大学に在学中に〈イシドール&ヘレン・ザックス記念賞〉を音楽の分野で受賞し、1983年に主席で卒業したという経歴を持っている。同年ヨーロッパにわたり、ウィーン音楽アカデミーにおいて指揮法を学び、ザルツブルクではフェルディナンド・ライトナー、タングルウッドではバーンスタインや小沢征爾に師事している。
 1987年には自らのアンサンブルを創設し、ニューヨークやヨーロッパ各地で様々な作曲家の初演や、今日ではほとんど埋もれてしまっている19世紀末から今世紀初頭にかけて作られた作品の紹介といった意欲的な仕事に取り組んでいる。
 ホバート・アールとオデッサ・フィルハーモニーとの協演は1991年に始まった。翌年には音楽監督に就任し、オデッサ・フィルを率いての世界演奏旅行も行っている。
 1994年3月16日、ホバート・アールは外国人として初めて、〈ウクライナ優秀芸術家〉の称号を与えられた。
 このCDの演奏を聴く限り、アールは音楽の骨格の掴み方がかなり的確で、シャープで知的な指揮ぶりが感じられる。音色やリズムの変化に敏感に反応しながら、全体をよくまとめているので、初めて聴く作品ながら、充分に納得できる演奏を達成している。コレッサの「交響曲第1番」の第1楽章では、フランス近代音楽の、例えばショーソンを思わせるような響きがゆるやかに拡散してゆき、スコリークの「協奏曲」では逆に、様々な音要素が散発しながら収束していく。作風の描き分けや全体の見通しが確立している指揮ぶりだ。個性派の若手指揮者として、いずれはスタンダードなレパートリーも聴いてみたいものだ。

■オデッサ・フィルハーモニー管弦楽団
 オデッサ・フィルハーモニーは1936年に創立され、ラクリンやテミルカーノフ、ザンデルリンクといった指揮者たちと活動してきた。共演したソリストには、ダヴィッド・オイストラッフ、イーゴリ・オイストラッフ、エミール・ギレリス、エフゲニ・キーシン、ワジム・レーピンなどがいる。
 ホバート・アールは、1991年に、オデッサ・フィルハーモニーの主席指揮者に任命され、モスクワ、サンクト・ペテルブルク、キエフ、リボフなどの各地で大々的な成功をおさめた。
 1992年、アールは、新たにオデッサ・フィルハーモニーの音楽監督に就任し、同年、ブレゲンツの春の音楽祭やウィーン楽友協会においては、最高の賛辞をもって迎えられた。1993年にはアメリカ合衆国に演奏旅行に出かけ、各地で熱狂的な歓迎を受けて、さらに翌年は、ドイツのケルン、イギリスのロンドンをまわり大成功をおさめた。1995年1月には、オーストラリアのパースの音楽祭でも絶大な評価を与えられた。
 数多くの弦楽奏者を生んだ国のオーケストラらしく、弦楽アンサンブルの美しさはかなりの水準だ。金管セクションの中東的な薄い響きは、このオーケストラがレパートリーを広げる上で障害となっているが、もともと音楽性の豊かな集団のようなので、アールのような良い指導者のもとでの、これからの発展が期待できる。




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チェクナヴォリアンの伴奏指揮による2枚目のハチャトゥリアン『ピアノ協奏曲』

2009年09月29日 07時02分18秒 | ライナーノート(日本クラウン編)





 以下は、昨日このブログに掲載したCDのライナーノートを執筆してから5年後の1997年7月23日に執筆したライナーノート。メインの曲目が同じハチャトゥリアンの「ピアノ協奏曲」で、指揮も同じチェクナヴォリアン。本日分は、アルメニア・フィルとの「ハチャトゥリアン管弦楽曲シリーズ」の1枚として発売されたもので、英ASVの国内盤です。余白にカップリングされた他の曲目は、どれもめずらしいものです。例によって、曲目解説も私が書きました。
 このところ続けてきた当ブログへのチェクナヴォリアン関連は、これが最後となります。曲目が昨日と同じなので、二日連続の掲載としました。合わせてお読みください。


《ライナーノート・全文》


■このCDについて
 これは、ロリス・チェクナヴォリアン指揮アルメニア・フィルによる「ハチャトゥリアン管弦楽曲シリーズ」の1枚。交響曲は既に全3曲が発売されているが、今回、初めて協奏曲が取り上げられた。
 アラム・イリイチ・ハチャトゥリアンは、1903年6月6日に生まれ、1978年5月1日に世を去った作曲家だ。その名は、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共に、ロシア=旧ソヴィエト連邦を代表する現代作曲家として語られることが多いが、生地は長い間ソヴィエト連邦に編入されていたグルジア共和国の中心地トビリシ(当時はチフリスと言った)近郊の村であり、幼い頃から青年時代までのほとんどを、このトビリシで育った。
 グルジア共和国は、アルメニア共和国、アゼルバイジャン共和国と並んで、ソ連邦の南西端、コーカサス山脈を越えた南側に位置する、いわゆる〈外コーカサス地方〉のひとつ。このあたりは南をトルコ、イラン国境と接しており、ロシアの文化圏とは異なるものを持っている。
 ところで、グルジアの中心地トビリシで育ったとはいえ、ハチャトゥリアンの家系がアルメニア人であったことを忘れてはならない。 〈アルメニア〉を名乗る地域は、現在では旧ソ連邦内のアルメニア共和国だけとなってしまったが、かつてはコーカサスからトルコのイスタンブールあたりまでを指していたこともある。そして、アルメニア民族は、ユダヤ民族と同じように、かなりの規模で世界中に散らばり、アルメニア商人として、世界経済の裏表で活動している。
 音楽の話に政治を持ち込むつもりはないが、ハチャトゥリアンが、ソ連の社会主義政権下でショスタコーヴィチらとは異なり厚遇され、しばしば国家的な賞の対象となったのは、彼が、党に妥協した作曲家だからではなく、党中央にとって、外コーカサス地方との融和策に貴重な存在だったからだろう。
 ハチャトゥリアンは、その生涯に、彼の最も広く知られた作品「剣の舞」を含む舞踊組曲「ガヤネー」(ガイーヌ)、「仮面舞踏会」、「スパルタクス」などの舞台用音楽の他に、大管弦楽のための主要作品としては、交響曲が3曲、協奏曲がピアノ、ヴァイオリン、チェロのためにそれぞれ1曲ずつ、「コンチェルト・ラプソディー」と名付けた連作が同じく各1曲ずつある。その他、ピアノ曲、室内楽曲、吹奏楽曲など、広い分野にわたって作品を残している。
 アルメニア共和国の国歌の作曲者でもあるハチャトゥリアンは、正に世界中のアルメニア民族の旗手であったといってよいだろう。彼は現代ソ連の中に身を置きながら、非ロシア的民族主義の立場で、アルメニア民族の精神を現代音楽の中に高い水準で花開かせた最初の作曲家であった。アルメニア共和国の首都エレヴァンには、彼の功績を讃えてハチャトゥリアンの名前を冠した音楽ホールが建設されたが、このCDで演奏しているアルメニア・フィルは、もちろんこのホールを本拠地としており、録音もここで行われている。
 別項で詳しく紹介するが、アルメニアの血をひく名指揮者チェクナヴォリアンは、1989年から、芸術監督兼首席指揮者として、アルメニア・フィルと深く関わっている。彼らが演奏するハチャトゥリアンの音楽は、ここ数年にわたって大きな話題となっている。

■曲目について
●「ピアノ協奏曲」
 ハチャトゥリアンにとって唯一の「ピアノ協奏曲」は、ハチャトゥリアンの評価を決定づけた出世作とされている。1936年に作曲された。この年ハチャトゥリアンはモスクワ音楽院の大学院を修了したが、既に33歳で、その2年前には「第1交響曲」を作曲している。
 初演は翌1937年7月12日にモスクワに於いて、レフ・オボーリンの独奏、レフ・シュテインベルクの指揮で行われたが、オーケストラが混成チームで、しかもリハーサルの時間があまりなかったこと、会場が野外劇場の夏のコンサートだったことなど悪条件が重なって、みじめなものであったようだ。
 だが、この年の秋にモスクワでアレクサンドル・ガウクの指揮で、レニングラードではエフゲニ・ムラヴィンスキーの指揮で、それぞれ優れた演奏が行われ、国内では正当に評価されるに至った。作品は初演者の名ピアニスト、レフ・オボーリンに捧げられた。
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ・エ・マエストーソ。ソナタ形式の1種と考えてよいだろう。管弦楽による序奏の後、独奏ピアノで第1主題が提示される。管弦楽も加わり次第に高揚し、いったん静まるとオーボエに導かれて第2主題が登場する。この主題はそのまま、独奏ピアノでカデンツァ風に展開される。やがて管弦楽と独奏ピアノが激しくわたりあい、ラプソディックに進行する。再現部は力強く第1主題が独奏ピアノに戻ってきて開始されるが、管弦楽がその周辺を装飾する。第2主題の再現は木管セクションが奏するが、今度は独奏ピアノがオブリガートを付ける。カデンツァとなり、第1主題の総奏による短いコーダで力強く結ばれる。
第2楽章 アンダンテ・コン・アニマ。夢想的な魅力にあふれた楽章だ。先にバス・クラリネットが即興的な旋律を奏し、ゆっくりとピアノが加わる。ゆったりとした歩みのまま高揚し、やがて耳慣れない響きが登場する。ここでは、「フレクサトーン」と呼ばれる体鳴楽器の一種が用いられているが、そのグリサンドを伴なう神秘的な響きは、かつて西欧で「おどろおどろしい楽器の音による神秘的な運命に捉えられる」と評された。
第3楽章 アレグロ・ブリランテ。フィナーレに相応しく輝かしく開始される。プロコフィエフの機能主義的なスタイルを思い出させる目も眩むようなトッカータ風の展開だ。生気にあふれたカデンツァが冒頭楽章の主題を想起させた後、冒頭楽章の第1主題が堂々と回想されて終る。
 なお、この曲には、初演者オボーリンのピアノと作曲者自身の指揮による録音が、1956年にソ連メロディアによって行われている。

●吹奏楽のための「ワルツ」と「ポルカ」
 音楽院在学中の習作。当時関心をもっていたフランス音楽の傾向も見えるが、明るく開放的で生気にあふれたハチャトゥリアンの音楽語法の源流が率直に表現されている。

●「舞踏組曲」
 これも学生時代、1933年に書かれた作品だが、ハチャトゥリアンにとって、これは、初めての大規模な作品であると同時に、民族的な音楽素材を交響化するという試みでも最初となった記念すべき作品だ。1933年6月22日にモスクワ音楽院大ホールで行われた「学生作品コンサート」に於て、ニコライ・アノーソフ指揮で3曲が抜粋初演されて注目を浴び、次のシーズンには全5曲がアレクサンドル・ガウク指揮で演奏された。
 作曲された当時、その独創的な旋律や、色彩感覚が驚嘆をもって迎えられたが、師ミヤスコフスキーは、更に、テーマの発展の豊かさや、低域を充実させたオーケストレーションを望んだと言われている。
 確かに、そうした指摘は的を得ていると思うが、同時に、後に生まれた傑作「舞踊組曲《ガヤネー(ガイーヌ)》」を想起させるという意味で、興味深い作品だ。中でも「剣の舞」と並んで有名な「レスギンカ舞曲」を、この若書きの「レスギンカ」と比べると、その書法の発展がよく理解できる。

■演奏についてのメモ
 「ピアノ協奏曲」は、これまでにも多くの録音がある。初演者たちによる前述の録音の他、古くは1950年の米RCAによるウィリアム・カペル/クーゼヴィツキーの録音や、ヨーロッパの一連の初演を行ったモーラ・リンパニーによる52年頃の英デッカ録音(フィストラーリ指揮)がある。70年代になってから録音されたアントルモン/小沢盤、ラローチャ/フリューベック・デ=ブルゴス盤も興味深いが、英ASVに、当CD以前に、ポルトゥギーズのピアノで、チェクナヴォリアン指揮ロンドン響による演奏がある。
 このチェクナヴォリアンの旧録音は、安定した見通しに支えられた演奏で、リズム・アクセントの配分もテンポの揺れも、全体の中での位置付けが明快で、論理的に構築された演奏となっていた。それは、この作品の構造を客観的に提示した演奏として貴重なものだったが、今回の録音は、それを踏まえて、豊かな肉付けを施した演奏と言えるだろう。
 安易にアルメニア的体臭に寄掛かる結果にはなっていないところが、さすがチェクナヴォリアンで、これは旧録音で把握されたものの成果が随所に生かされているからだろう。ピアノ独奏も、色彩的ニュアンスの豊かと力強さを兼ね備えたもので、ラプソディックな展開の乗切りも充分だ。
 この作品が、かって西欧で言われたようにイメージが拡散したものではなく、構成的で求心力のある作品だということがよく理解できる演奏だ。新たなスタンダードと言ってよいと思う。

 ロリス・チェクナヴォリアンは1937年にイランに生まれたアルメニア人の指揮者、兼作曲家。1954年からウィーン音楽アカデミーで、ハンス・スワロフスキーに指揮法を学んでいる。長らくイギリスを活動の本拠にしていたが、先頃のソ連邦の解体で独自の道を歩み始めたアルメニア共和国を代表するオーケストラ、アルメニア・フィルハーモニーの芸術監督及び主席指揮者にも就任して、このオーケストラの再建に尽力している。
 アルメニア・フィルは、アルメニアの首都エレヴァンに建った「ハチャトゥリアン・ホール」を本拠地にしており、生前のハチャトゥリアンとの関係も深かった。自然に備わっている豊かな音楽性と、大胆なダイナミズムは、とかく小さくまとまりがちな最近の音楽演奏の世界的傾向の中で、独自の魅力を保持している。西欧の音楽理論を身に付けたチェクナヴォリアンとのコンビでの、これからの演奏が期待されている。
 ピアノのセルヴィアリャーン=クーンは、アルメニアの血をひくレバノン生まれの女流で、ハチャトゥリアンの「ピアノ協奏曲」を得意にしているという。このCDがデビュー録音とされている。



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ハチャトゥリアン『ピアノ協奏曲』、ポルトゥギーズ/チェクナヴォリアン/ロンドン響のCD

2009年09月28日 07時55分00秒 | ライナーノート(日本クラウン編)


 以下は、英ASVのCD(国内盤)のライナーノート、1992年7月17日の執筆です。このところ当ブログに掲載している一連のチェクナヴォリアン/アルメニア・フィルのシリーズが発売される以前のリリースです。日本ではハチャトゥリアンについての文献が少ないので、かなり力を入れて「作曲者解説」「曲目解説」を書きました。私のハチャトゥリアンについて書いた最初のまとまった文章だったかもしれません。その後、この文章の骨子から少しずつ発展させて何度も書いています。
 私は1980年代に、当時編集長をしていた出版社、泰流社で『アルメニア史』という、おそらく日本語で出版されるアルメニア文化に関する初めてと思われる一般向け書籍を、半ば強引に企画を通して、編集出版しました。持ち込まれた原稿を書いた方、佐藤信夫氏の情熱を信じたからでした。仕上がった本はかなりのページ数でしたが、それでも、その時、持ち込まれた原稿の約3割程度を私が抜粋、再編集したものでした。それしか出版できなかったのです。当時、もう既に、出版界も、困難な状況に陥っていました。真面目な仕事を世に出すのには、かなりの覚悟が必要でした。
 この時に得たアルメニア文化に対する知識が、ハチャトゥリアンの音楽の背景にあるものを理解する上で、大いに助けになりました。以下に掲載する「ハチャトゥリアン」は、他ではなかなか読めない内容に仕上がったと自負しています。

《ライナーノート・全文》

●ハチャトゥリヤンの生い立ち
 アラム・イリイチ・ハチャトゥリヤンは、1903年6月6日に生まれ、1978年5月1日に世を去った作曲家だ。その名は、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチと共に、先頃、国家としての存在を解消してしまった「ソ連」を代表する現代作曲家として語られることが多いが、生地は長い間「ソヴィエト連邦」に編入されていたグルジア共和国の中心地トビリシ(当時はチフリスと言った)近郊の村であり、幼い頃から青年時代までのほとんどを、このトビリシで育った。
 グルジア共和国は、アルメニア共和国、アゼルバイジャン共和国と並んで、ソ連邦の南西端、コーカサス山脈の南側に位置する、いわゆる〈外コーカサス地方〉のひとつだ。このあたりは南をトルコ、イラン国境と接しており、ロシアの文化圏とは異なるものを持っていることは、最近の政治的混迷を見ていても解るとおりだ。
 その地を故郷とするハチャトゥリヤンが、〈ソ連〉を代表する作曲家のひとりとなったのは、貧しい製本職人の息子であった彼に英才教育を施し、作曲家として大成させたのが、社会主義体制下のモスクワ音楽院だったからだ。
 兄の勧めで、ソヴィエト政権確立後のモスクワ大学で、生物学を学ぶはずだったハチャトゥリヤンが音楽家となったきっかけは、モスクワ音楽院でのコンサートだった。そこでのベートーヴェンの「第9」とラフマニノフの「ピアノ協奏曲」がハチャトゥリヤンに、音楽家として生きることを決意させたのだと言われている。
 ハチャトゥリヤンは少年時代から音楽好きで、外コーカサス地方の民謡を百曲近く口ずさみ、多くの民族楽器を巧みに弾きこなすことができたが、19歳になるまで、専門の音楽教育を受けたことがなく、楽譜もまったく読めなかったという。そんな状態での音楽学校受験だった。ハチャトゥリヤンを〈みがかれざる宝石〉と評価した〈グニェシン中等音楽学校〉に入学した彼は、そこで研鑽を積み、26歳でモスクワ音楽院に入学した。言わば晩学の作曲家であった。
 ハチャトゥリヤンは、その生涯に、彼の最も広く知られた作品「剣の舞」を含む舞踊組曲「ガヤネー」(ガイーヌ)、「仮面舞踏会」、「スパルタクス」などの舞台用音楽の他に、大管弦楽のための主要作品としては、交響曲が3曲、協奏曲がピアノ、ヴァイオリン、チェロのためにそれぞれ1曲ずつ、「コンチェルト・ラプソディー」と名付けた連作が同じく各1曲ずつある。(「フルート協奏曲」は前記「ヴァイオリン協奏曲」の編曲)。
 その他、ピアノ曲、室内楽曲、吹奏楽曲など、広い分野にわたって作品を残している。

●アルメニア人、ハチャトゥリヤン
 ところで、グルジアの中心地トビリシで育ったとはいえ、ハチャトゥリヤンの家系がアルメニア人であったことを忘れてはならない。 〈アルメニア〉を名乗る地域は、現在では旧ソ連邦内のアルメニア共和国だけとなってしまったが、かつてはコーカサスからトルコのイスタンブールあたりまでを指していたこともある。そして、アルメニア民族は、ユダヤ民族と同じように、かなりの規模で世界中に散らばり、アルメニア商人として、世界の表裏で活動している。
 (アルメニア人は自らのルーツを明らかにすることが少ないが、日本での数少ないアルメニア学者佐藤信夫氏の推定によれば、例えば米GMの副社長だった自動車王デロリアン、ロッキード社の元社長コーチャンはアルメニア人だと言われている。そして、戦後の音楽界に君臨したヘルベルト・フォン・カラヤンも、ビザンティン帝国下にマケドニアに移住したアルメニア商人の末裔であるという。)
 音楽の話に政治を持ち込むつもりはないが、ハチャトゥリヤンが、ソ連の社会主義政権下でショスタコーヴィチらとは異なり厚遇され、しばしば国家的な賞の対象となったのは、彼が、党に妥協した作曲家だからではなく、党中央にとって、外コーカサス地方との融和策に貴重な存在だったからだろう。アルメニア共和国の国歌の作曲者でもあるハチャトゥリヤンは、正に世界中のアルメニア民族の旗手であったといってよいだろう。
 彼は現代ソ連の中に身を置きながら、非ロシア的民族主義の立場で、アルメニア民族の精神を現代音楽の中に高い水準で花開かせた最初の作曲家であった。

●「ピアノ協奏曲」の初演と国外での反応
 ハチャトゥリヤンにとって唯一の「ピアノ協奏曲」は、ハチャトゥリヤンの評価を決定づけた出世作とされている。1936年に作曲された。この年ハチャトゥリヤンはモスクワ音楽院の大学院を修了したが、既に33歳で、その2年前には「第1交響曲」を作曲している。
 初演は翌1937年7月12日にモスクワに於いて、レフ・オボーリンの独奏、レフ・シュテインベルクの指揮で行われたが、オーケストラが混成チームで、しかもリハーサルの時間があまりなかったこと、会場が野外劇場の夏のコンサートだったことなど悪条件が重なって、みじめなものであったようだ。
 だが、この年の秋にモスクワでアレクサンドル・ガウクの指揮で、レニングラードではエフゲニ・ムラヴィンスキーの指揮で、それぞれ優れた演奏が行われ、国内では正当に評価されるに至った。作品は初演者の名ピアニスト、レフ・オボーリンに捧げられた。
 ところで、国外では初め、どのように評価されたのだろうか。
 モーラ・リンパニー女史の独奏で1940年に行われたロンドン初演が、この曲の国外での演奏では重要だ。その後リンパニーは、パリ、ブリュッセル、ミラノと、各地で精力的にこの曲を紹介した。しかし、彼女の努力にもかかわらず、ヨーロッパではなかなかこの曲の真価が広範囲には理解されなかったようだ。1955年版のロンドンで刊行された「レコード・ガイド」にも、的外れな酷評が見られる。そこでは、この作品は「長々しく退屈な作品」とされ、第1楽章は「スロット・マシンといい勝負だ。元気旺盛な若者たちが、安物の陶器を叩き割っている」ようだと表現されている。第2楽章では「おどろおどろしい楽器の音による神秘的な運命」に捉えられ、第3楽章で「ようやく蒸暑いテントから脱出できる」と、散々の悪口雑言だ。この作品がヨーロッパで正当に評価されるにはもう少し時間が必要だった。

●様々のレコードによる演奏
 この作品は、国外ではヨーロッパよりもアメリカで先に好評を得たようだ。レコーディングもアメリカの方が早い時期から積極的で、かなりの数があるが、中でも1950年のRCAによるウィリアム・カペル/クーゼヴィツキーでの録音は有名だ。カペル盤は、その芝居がかった身振りの演奏が、当時のこの曲の一般的イメージを思わせるという点で、興味深い演奏だ。
 ヨーロッパの一連の初演を行ったリンパニーも、52年頃にフィストラーリ指揮で英デッカに録音している。これはカペル盤とは異なり、極めて率直な演奏で、早めのテンポで、気負いや思い入れを抑えたものだが、イメージの鮮烈さに欠け、混濁があるのが難点だ。
 また、初演者オボーリンのピアノと作曲者自身の指揮による録音が、1956年にソ連メロディアによって行われている。この演奏からは、民族色にあふれた独特のリズムや節まわしの個性的な魅力が、手に取るように聴こえてくる。作曲者自身のイメージを感じとる上では、これ以上のものはないだろう。実に雄弁な演奏だ。
 この他では、70年代になってから録音されたアントルモン/小沢盤、ラローチャ/フリューベック・デ=ブルゴス盤が興味深い。

●このCDの演奏について
 では今回はじめて日本に登場するポルトゥギーズのピアノ、チェクナヴォリアン指揮ロンドン響による演奏は、どういうものだろうか。
 この演奏の特質をひとことで言えば、安定した見通しに支えられた演奏ということになるだろう。これは、根拠のない中傷に晒されることの多い現代作品に於いては、特に貴重なことだ。リズム・アクセントの配分もテンポの揺れも、全体の中での位置付けが明快で、確信にあふれたものとなっている。主題の展開が手に取るように聴き分けられ、独奏とオーケストラとのやりとりも注意深く進行する。この曲がアルメニアのイディオムを採り入れ、かなりラプソディックな表情を持ちながら、実は極めて論理的に構築された作品であることを、この演奏は的確に示している。
 第1楽章の展開部での、独奏ピアノのカデンツァ風の扱いや、雄弁な管弦楽部と対置され等分にやりとりする独奏ピアノなど、通常の協奏曲の域を超えた大胆な書法が、くっきりと浮び上がってくる演奏だ。
 チェクナヴォリアンはアルメニア人指揮者だが、彼はこの演奏で〈アルメニア人の語法〉を持ち出すよりも、〈現代人の語法〉を堂々と打ち出している。ポルトゥギーズのピアノも、感傷を排した硬質な響きを維持して、粒立ちのよいピアノを聴かせる。共に、この曲の真価を問う高い見識のある演奏だ。
 オボーリンと作曲者自身による演奏は、アルメニア色の表出の豊かさと、音楽的に高度な即興性とで他を圧する名演だが、この曲が作曲者の慈愛から解き放たれ、真に現代の音楽として次世代に聴かれ継がれるためには、このポルトゥギーズ/チェクナヴォリアンによる演奏は、格好のものであると言える。

●曲目についてのメモ
《ピアノ協奏曲》
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ・エ・マエストーソ。ソナタ形式の1種と考えてよいだろう。管弦楽による序奏の後、独奏ピアノで第1主題が提示される。管弦楽も加わり次第に高揚し、いったん静まるとオーボエに導かれて第2主題が登場する。この主題はそのまま、独奏ピアノでカデンツァ風に展開される。やがて管弦楽と独奏ピアノが激しくわたりあい、ラプソディックに進行する。再現部は力強く第1主題が独奏ピアノに戻ってきて開始されるが、管弦楽がその周辺を装飾する。第2主題の再現は木管セクションが奏するが、今度は独奏ピアノがオブリガートを付ける。カデンツァとなり、第1主題の総奏による短いコーダで力強く結ばれる。
第2楽章 アンダンテ・コン・アニマ。夢想的な魅力にあふれた楽章だ。先にバス・クラリネットが即興的な旋律を奏し、ゆっくりとピアノが加わる。ゆったりとした歩みのまま高揚し、やがて耳慣れない響きが登場するが、これは、〈フレクサトーン〉と呼ばれる体鳴楽器の一種で、そのグリサンドを伴なう音は、オリヴィエ・メシアンや、アンドレ・ジョリヴェの作品で知られる電子楽器オンド・マルトゥノのようにも聞こえる、神秘的な響きが魅力だ。
第3楽章 アレグロ・ブリランテ。フィナーレに相応しく輝かしく開始される。プロコフィエフの機能主義的なスタイルを思い出させる目も眩むようなトッカータ風の展開だ。生気にあふれたカデンツァが奏された後、冒頭楽章の第1主題が回想されて終る。

《ソナチネ》
 ハチャトゥリヤンは、1950年を境に、作曲活動のほかに、自作の指揮活動と、教育活動を開始した。「ソナチネ」はそうした中から生まれた教育的作品のひとつだが、同時に作曲者自身の創作上の歩みにとって、手法の簡潔さを追求した結果の、磨かれた感性による抒情の表現の到達点のひとつとして、完成度の高い作品ともなっている。
 全曲は3楽章から成る。1958年から59年にかけて書かれ、プロコーピエフスク市の音楽小学校の生徒たちに捧げられた。

《トッカータ》
 ハチャトゥリヤンにとっては、初期の学生時代の作品だが、かなり早い段階から広く国外でも知られ、出版、演奏された作品だ。作曲者自身「私のいちばん最初のピアノのための作品といってよい」と述べている。1932年の作とされているが、実際はそれ以前、モスクワ音楽院入学の1929年よりも前に着想された作品の可能性もある。

●演奏者についてのメモ
 アルベルト・ポルトゥギーズはロシア人とルーマニア人の血を引いてアルゼンチンに生まれたピアニスト、兼、指揮者。生年が手元の資料では判らないが、ブエノス・アイレスで学んだ後、60年代にはジュネーブでマドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティの未亡人)、ヨウラ・ギュラーにピアノを、ヘルマン・シェルヘンに指揮を学び、1971年にリストの「第1協奏曲」でロンドンにデビューしているという。この経歴でもわかるように、決して若手ではないが、日本では、おそらくこれが初登場の録音だろう。

 ロリス・チェクナヴォリアンは、1937年にイランに生まれたアルメニア人の指揮者、兼、作曲家。1954年からウィーン音楽アカデミーでハンス・スワロフスキーに指揮法を学んでいるが、それ以前は、ほとんど独学でヴァイオリン、ピアノ、作曲を勉強し、16歳で、テヘランで合唱団を組織したといわれている。イギリスを活動の本拠にしているが、アルメニア交響楽団の主席指揮者にも就任している。
        

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ハチャトゥリアン『交響曲第2番《鐘》』~チェクナヴォリアン/アルメニア・フィル盤

2009年09月25日 07時56分14秒 | ライナーノート(日本クラウン編)





 以下は、英ASVのハチャトゥリアン管弦楽曲シリーズの1枚が、日本クラウンから国内盤で発売された時に執筆したライナーノートです。曲目解説にかなりスペースを割きました。もちろん、しばしば国内盤の解説でみられる名曲解説全集のパッチワークや、既存原稿のリサイクルのようなものではなく、英文も含めた様々な文献に目を通して新たに書いた、私のオリジナルです。日本語で読めるこの曲のコンパクトな解説、この曲の録音史文献では、書籍も含めて最も詳しい文章だと思います。
 1993年7月12日に書きましたので、その後の新情報があれば、書き加えなければなりませんが、私自身は、機会がなかったので、その後、追っていません。特に、録音に関しては、新情報が期待されます。このブログの読者のみなさんで何かご存知の事があれば、お教えいただきたいと思っています。当時と今とでは、情報の入手ソースが格段に進化していますから、ひょっとすると、ずいぶん様子が変わっているかもしれません。
 かなり長文のライナーノートでしたので、当時、プロモーション用に演奏についての抜粋版も用意しました。このブログでも、お忙しい方のために、それを先に掲載します。


《抜粋版のライナーノート》 

●このCDの演奏について
 ハチャトゥリアンは、先頃、連邦制が崩壊したソビエト社会主義共和国連邦を代表する作曲家のひとりだったが、その中にあって、代表作「ガヤネー(ガイーヌ)」を持ち出すまでもなく、アルメニア人としての独自性を花開かせた個性あふれる作曲家だった。ハチャトゥリアン独特の音色、リズム感覚は、この交響曲でも随所に聴くことができる。(…)だが、この作品は、アルメニア的イディオムの中だけで語られるべきものではない。このCDを、アルメニア人指揮者チェクナヴォリアンによる、アルメニア・フィルの演奏ということで、安易に「本場物の名演だ」と称賛するような皮相な聴き方に対しても、作品そのものが痛烈に反対を表明しているとみるべきだろう。事実、このCDの演奏は、ハチャトゥリアン自身の指揮による演奏よりも、むしろ、インターナショナルな輝きと直截なダイナミズムにあふれ、楽員の深い共感は、指揮者の的確なバランス感覚を得て、想像を絶する壮大なクレッシェンドでさえ、この曲の構造を隅々まで照射しながら、豊かで説得力のある前向きな音楽を実現している。独特の節回しが魅力の作曲者自身の演奏を別格とすれば、このチェクナヴォリアン指揮/アルメニア・フィル盤は、現在望み得る最も感動的で、かつ標準的な見識のある演奏だ。特に終楽章の、折り重なる音の壮大な洪水では、彼等の演奏は、おそらく作曲者自身も表現し得なかった境地に達している。


《ライナーノート(全文)》

■《曲目解説》

●ハチャトゥリアンと第2次大戦
 第2次大戦後のソビエト連邦を代表する作曲家として、ショスタコーヴィチの名を挙げる人は多いだろう。この20世紀最大の交響曲作曲家とも讃えられるショスタコーヴィチと、アラム・ハチャトゥリアン(1903-78)とは同時代人だ。二人とも社会主義国ソ連の文化政策のなかで活動を続けたが、特にハチャトゥリアンが第2交響曲を書き上げた1943年の夏は、ショスタコーヴィチは第8交響曲を作曲中であり、二人は同じイワノヴォの〈創造の家〉にいた。この二人が最も親密に交流していた時期だ。
 もちろん、交響曲をこの後1曲書いただけのハチャトゥリアンと、全部で15曲もの交響曲を残したショスタコーヴィチとでは、作風にも大きな違いがあり、また、ハチャトゥリアンは、同じソ連邦でも、コーカサス山脈の南、グルジア共和国出身のアルメニア人であり、ロシア文化圏とは異なるものを持っていたことは、忘れてはならない。
 だが、ハチャトゥリアンが第2交響曲を書き上げる少し前、1941年から当時のソ連邦が迎えていた試練は、彼等に共通の内的テーマを与えた。ヒトラーが率いるナチス・ドイツ軍がソ連邦内に侵攻したため、彼等が〈祖国防衛戦〉と呼ぶ第2次大戦が始まったのだ。この時代の悲壮な英雄性は、プロコフィエフの「交響組曲《1941年》」や「交響曲第5番」、ショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」や「交響曲第8番」、そしてハチャトゥリアンの、この「交響曲第2番」に表れていると言えるだろう。
 そうした背景を抱えたハチャトゥリアンの交響曲は、この作曲家の残した3曲の交響曲の中でも最大の規模を持ち、またスケールの大きな、豊かな抽象性を備えた傑作となっている。

●「第2交響曲」作曲の経緯と初演、改訂
 ハチャトゥリアン自身が語るところによると、この作品の構想にはほぼ2年間を要しているが、いざ書き始めると、2ヵ月に満たない内に完成することが出来たという。1943年の夏、ピアノ譜の形で書き始め、同年7月31日に第1楽章を完成、8月1日から4日にかけてアンダンテ楽章を作曲、17日から22日にスケルツォ楽章、8月28日から9月10日には5日間の中断を挟んで終楽章を書き終えている。その後10月11日には管弦楽譜が完成、12月初旬には、初演のためのリハーサルが既に終了していたという。
 初演は、1943年12月30日、モスクワ音楽院大ホールに於いてボリス・ハイキン指揮の国立管弦楽団によって行われた。作品は好評だったが、ハチャトゥリアンは大幅な修正を施した。特に重要な変更は、中間の2楽章の順序を入れ替え、アンダンテの前にスケルツォが来るようにしたことだ。この改訂版は、翌1944年3月6日に、同じオーケストラによって、今度はアレクサンドル・ガウクの指揮で演奏されている。
 この作品は1945年度のスターリン賞を受賞しているが、また、ナチズムに抵抗する作品ということで、いち早くアメリカのニューヨークでも演奏されている。1945年4月13日、指揮は若き日のレナード・バーンスタインだった。
 改訂作業はその後も続けられ、最終的な決定稿が出版されたのは1969年のことだ。

●「鐘」という名称について
 ハチャトゥリアンの第2交響曲には初め、特に愛称はついていなかった。だが、災禍の到来を告げるようなオーケストラの響きの中に浮び上がる鐘のモチーフから、トルストイの詩の1節が想起されるとの指摘が、早い時期からあった。その詩とは次のようなものだ。

 平和な夢を夢見る鐘を
  空飛ぶ砲弾が打ち砕く。
 轟音と破片は周囲に飛び散る。
 鐘は偉大な真鍮の叫びを
  遠くの人々にも届けるのだ。
 人々は武器を手に集まる、義憤を口にして。

 鐘のモチーフで始まるこの作品に対して、今日の愛称「鐘」が用いられるようになったのは、1962年に英デッカがこの曲のLPを発売した時からではないかと思うが、確証はない。いずれにしても、初演時からの作曲者自身によって命名されたタイトルではなく、後になってから付けられた愛称だ。

●「第2交響曲」各楽章の概略
 楽曲は全4楽章から成り、楽器編成は次の通り。
 フルート3(内ピッコロ持替え1)、オーボエ2、イングリッシュ・ホルン1、クラリネット3、バス・クラリネット1、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ1、ティンパニー、小太鼓、ウッド・ブロック、シンバル、大太鼓、タムタム、鐘(チューブラー・ベル)、グロッケンシュピール、木琴、ハープ2、ピアノ、弦5部。

◇第1楽章 アンダンテ・マエストーソ
 序奏部を持つソナタ形式。轟きわたる鐘の動機がエネルギッシュに提示され、続いて弦を中心に物憂げな第2の動機が提示される。この序奏部の2つの動機は、曲全体の性格を決定付けるものともなっている。やがて、木管の下降音階に続いて、低弦のピチカートを伴ってヴィオラに第1主題が出てくる。アルメニア民謡風の旋律だ。次第にふくらみを増して行くが、力強い行進曲風の副主題を挟んで、2本のファゴットに導かれて第2主題が現われる。二つの主題に共通する曲調は静かな悲しみに満ちた憂愁で、それは展開部の扱いにも現われているが、それらが副主題と緊密に結び付くことで、時には荒々しい怒りにまで高揚する。楽章の終りには鐘の動機が明瞭に再現され、静かにこの楽章を閉じる。
◇第2楽章 アレグロ・リゾルート
 3部形式のスケルツォ楽章で、ハチャトゥリアンの初期の傑作バレエ曲「ガヤネー」(「ガイーヌ」)を思い出させるような舞曲が休みなく続くが、楽器の受渡しにつれて、曲調も目まぐるしく変化している。決して開放的ではなく、異常な緊張を孕んだ音楽が切れ目なく続き、中間部は一転してチェロを中心としたアルメニア民謡調の半音階的旋律が、ゆるやかに、しかし同じく切れ目なく奏され、再び舞曲に戻って終る。
◇第3楽章 アンダンテ・ソステヌート
 葬送行進曲風の執拗なリズムで開始され、それが続く中、ハチャトゥリアンが少年時代に聴いたと言われるアゼルバイジャン地方の即興的な旋律が加わる。一種の変奏曲形式で行進は続き、やがて「怒りの日(ディエス・イレ)」の主題が現われ、荘重な行進は徐々に鳴り響き、クライマックスへと高まって行く。最後は魂の浄化を思わせる美しさの向うで、遠くに鐘の動機が変形されて聞こえる。
◇第4楽章 アンダンテ・モッソ ~アレグロ・ソステヌート
 ファンファーレ風の旋律で開始される、序奏部を持った3部形式。無窮動的な弦の動きでアレグロの主部に入り、やがて金管楽器群による勝利の旋律の合唱となる。この「金管の合唱」主題はこの楽章で重要な役割を果している。中間部は弦がピチカートを刻む中、第1楽章の要素も加わって展開する。ハープの分散和音でコーダに入り、様々な主題が回想され、壮麗な鐘の動機で力強く全曲を終える。

●「スターリングラードの戦い」について
 ハチャトゥリアンは映画音楽を20曲ほど残しており、この作品も、原曲は、ウラジミール・ペトロフ監督の2部からなる同名の大作映画の音楽だ。ハチャトゥリアンが政治的に困難な状況に置かれていた1949年に作曲されている。
 スターリングラードの戦いとは、ロシアにとって、第2次大戦の転機となった重要な戦闘で、1943年、市内を包囲していたドイツ軍を破りドイツの無敵神話に終止符を打ったもの。映画はスターリン賛美を目的としており、ハチャトゥリアンはこの作曲で1950年のスターリン賞を受賞している。
 ハチャトゥリアン自身は、この作品について「私の仕事は主に戦闘シーンの為の音楽を書くことにあった」と述懐しているが、激しい戦いの音楽の中に、悲壮な感情と情熱的なヒロイズムとを表現した作品となっている。作曲の翌年1950年に8曲で構成される演奏会用組曲に再構成されたが、それとは別に、最晩年の1976年には、この曲の大部分を利用してオーケストラと男声合唱、ソプラノのためのカンタータ「英雄たちの思い出に」を書いている。
 このCDで演奏されているのは8曲の組曲版だが、内2曲が省略されている。

◇第1曲「ヴォルガのほとりの町」
 全曲の序曲に当たる。ヴォルガ河畔に広がる町の平和に満ちた生活と、この町を守る者たちの不屈の精神を高らかに表現している。コザックの遊牧生活を歌った古いロシアの歌曲「ヴォルガに崖あり」に基づいている。
◇第2曲「侵略」
 ナチス・ドイツによる侵略を表現している。音は少しずつ大きくなり、単調なリズムが執拗に続き、打楽器群は休みなく打ち鳴らされているが、これは「邪悪な力」をイメージしているとされている。ここでハチャトゥリアンは、1900年代の初頭にドイツで人気を博した歌「ああ樅の木」の一部をグロテスクな手法で取り入れている。
◇第3曲「炎上するスターリングラード」
 敵に包囲され、破滅へと向かう都市のドラマティックな光景。悲しみにあふれた音楽が豊かな表現力で描かれている。
◇(第4曲「敵滅ぶべし」)
 暗い旋律は、ナチスの運命が暗転し、破局へと向かうことを暗示している。このCDでは省略されている。
◇第5曲「祖国防衛戦」
 宿命的な戦闘前夜の静寂に包まれた夜を表現した静かな音楽に始まり、やがてオーケストラはダイナミックな戦いの音楽へと移行する。そこでは、管楽器と打楽器とが重要な役割を果し、敵軍との決死の攻防の様を表現している。
◇(第6曲「英雄たちに捧ぐ永遠の栄光」)
 静謐な悲しみにあふれた音楽が、母国のために命を失った英雄的な兵士たちに、永遠の栄光と鎮魂の祈りとを捧げる。この曲も、当CDでは省略されている。
◇第7曲「勝利へ」
 祝祭的な歓喜に満ちた壮麗な行進曲が勝利を賛美する。ハチャトゥリアンはここで、彼が吹奏楽団のために書いた有名なマーチ「祖国防衛戦の英雄たちに捧ぐ」という作品のテーマを利用している。これはソビエト赤軍の勝利について語るラジオ放送では、必ず流された音楽だ。
◇第8曲「ヴォルガに崖あり」
 ここで再び、冒頭のヴォルガの歌が登場する。だが、その旋律は、スターリングラードを称える厳粛で壮大なものになっている。

■《演奏について》

●「第2交響曲」のこれまでの録音
 ハチャトゥリアンの交響曲第2番《鐘》は、今世紀後半に書かれた交響曲の中で、傑作のひとつに挙げられるものだと思うが、なかなか演奏される機会に恵まれない。録音も少なく、これまで作曲者自身の録音を含めても数点しか発売されていない。そこへ登場したのが今回のチェクナヴォリアン/アルメニア・フィル盤だ。当CDと同時に第1交響曲と第3交響曲を収めたものが発売される。おそらく、ハチャトゥリアンの交響曲全集としては初めてのものではないかと思われる。
 この曲の最初のレコーディングは、ハチャトゥリアン自身の指揮によるソビエト国立管弦楽団による1950年頃のモノラル録音だと思われる。ソ連国内のほか、西側では米コロセウムで発売されたのを確認している。その後、50年代の後半にはストコフスキー/シンフォニー・オブ・ジ・エアの録音が米ユナイテッド・アーチスツから発売されている。1962年にはハチャトゥリアン/ウィーン・フィルによる録音が英デッカから発売、これは日本盤も出たが、この時には「鐘」という副題が付けられている。この作曲者自演盤はCD化で復活している。この他、ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管弦楽団盤が英シャンドスから出ている。
 なお「第1交響曲」は、ハチャトゥリアン/ソビエト国立響の75年録音がメロディアから、チェクナヴォリアン/ロンドン響の79年録音がRCAから出ていたのが知られている。「第3交響曲」はコンドラシン/モスクワ・フィル他の65年録音、ストコフスキー/シカゴ響の68年録音などがあった。

●チェクナヴォリアンの演奏
 ハチャトゥリアンは、先頃、連邦制が崩壊したソビエト社会主義共和国連邦を代表する作曲家のひとりだったが、その中にあって、代表作「ガヤネー(ガイーヌ)」を持ち出すまでもなく、アルメニア人としての独自性を花開かせた個性あふれる作曲家だった。ハチャトゥリアン独特の音色、リズム感覚は、この交響曲でも随所に聴くことができる。
 同時に、この作品は、第2次大戦中の悲劇が産み落とした音楽芸術上の成果として、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、あるいはオネゲル、ルーセルらの交響曲と並んで、長く記憶に残る作品でもある。ナチス・ドイツに侵攻されたロシア、フランスの両国にこうした傑作が残されたのは、皮肉なことだ。
 いずれにしても、この作品は、アルメニア的イディオムの中だけで語られるべきものではなく、まして、作曲当初に結果的に利用された政治的意図によって、色眼鏡で見られる作品でもない。音楽そのものの持つ真実、高度な芸術性によって語られる作品だ。
 このことは、このCDを、アルメニア人指揮者チェクナヴォリアンによるアルメニア・フィルの演奏ということで、安易に「本場物の名演だ」と称賛するような皮相な聴き方に対しても、作品そのものが痛烈に反対を表明しているとみるべきだろう。
 事実、このCDの演奏は、ハチャトゥリアン自身の指揮による2種の演奏のいずれよりも、むしろ、インターナショナルな輝きと直截なダイナミズムにあふれ、楽員の深い共感は、指揮者の適確なバランス感覚を得て、想像を絶する壮大なクレッシェンドでさえ、この曲の構造を隅々まで照射しながら、豊かで説得力のある前向きな音楽を実現している。独特の節回しが魅力の作曲者自身の演奏を別格とすれば、このチェクナヴォリアン/アルメニア・フィル盤は、現在望み得る最も感動的で、かつ標準的な見識のある演奏だ。特に終楽章の、折り重なる音の壮大な洪水では、彼等の演奏は、おそらく作曲者自身も表現し得なかった境地に達している。
 「スターリングラードの戦い」は、私の知る限りでは録音が少なく、曲の特殊性からか、吹奏楽編曲版が2種出ていたのが目についた程度だ。管弦楽版は、私も当CDで初めて聴いた。親しみ易い旋律を率直に演奏している。出来ることなら全8曲を録音してもらいたかったが、省略された部分は、確かに少々退屈で、映画の場面の伴奏音楽の域を出ていないとも言えるかも知れない。

●演奏者についてのメモ
 ロリス・チェクナヴォリアンは1937年にイランに生まれたアルメニア人の指揮者、兼作曲家。1954年からウィーン音楽アカデミーで、ハンス・スワロフスキーに指揮法を学んでいる。長らくイギリスを活動の本拠にしていたが、先頃のソ連邦の解体で独自の道を歩み始めたアルメニア共和国を代表するオーケストラ、アルメニア・フィルハーモニーの主席指揮者にも就任している。
 アルメニア・フィルは、アルメニアの首都エレヴァンに建った「ハチャトゥリアン・ホール」を本拠地にしており、生前のハチャトゥリアンとの関係も深かった。自然に備わっている豊かな音楽性と、大胆なダイナミズムは、とかく小さくまとまりがちな最近の音楽演奏の世界的傾向の中で、独自の魅力を保持している。西欧の音楽理論を身に付けたチェクナヴォリアンとのコンビでの、これからの演奏が期待されている。


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チェクノヴォリアン~アルメニア・フィルハーモニーのプロコフィエフ管弦楽曲

2009年09月20日 19時04分03秒 | ライナーノート(日本クラウン編)





 前回に引き続き、アルメニア人指揮者ロリス・チェクナヴォリアンがアルメニア・フィルハーモニーを指揮して録音した英ASVのCDの国内盤へのライナーノートです。1997年9月24日に執筆完了しています。曲目はプロコフィエフの『キージェ中尉』『シンデレラ』『三つのオレンジへの恋』の組曲です。演奏者の概説から曲目解説まで、納得して書かせてもらったという記憶がありましたが、今、読み返してみても、名曲解説全集の引き写しのようなものと異なる、そのCDアルバムの特色をきちんと踏まえた曲目解説を書かせてもらえたことに感謝しています。
 なお、以下の文章で言及しているチェクノヴォリアンの「ハチャトリアン」のCDライナーノートは、次回以降に掲載します。


《ライナーノート全文》

■チェクナヴォリアンとアルメニア・フィル
 このアルバムの指揮者チェクナヴォリアンは1937年にイランに生まれた。テヘラン及びウィーンで学び、一時イランの首都テヘランで活動したが、1970年以降はロンドンを中心に活躍を続けている。両親が共にアルメニア人ということもあって、数年前からは、ソビエト連邦崩壊後に独立の道を歩み始めたアルメニア共和国を代表するアルメニア・フィルハーモニーの再建にも尽力している。
 そうした経歴からチェクナヴォリアンはアルメニア物のスペシャリストと目されがちだが、作曲家でもある彼自身の作品を聴くと、アルメニア・フィルのハチャトリアン演奏で話題になった骨太の力強さよりは、むしろ、おおらかな歌や、中東的な執拗な反復と自在な衝動性との融合に、チェクナヴォリアンの最大の特徴が潜んでいるように思う。これはイランに生まれ、その首都テヘランで音楽家としての修業を積んだチェクナヴォリアンの音楽性のルーツに関わることかも知れない。英EMI盤で自作自演している演奏時間50分を越える大作、交響組曲「オテロ」にそうした特質が顕著に表れている。また、かつてのロンドン交響楽団とのベートーヴェン「運命」の録音でも、独特の執拗な拍節感が、西欧の構築的な語法にとらわれずに音楽を聴かせるチェクナヴォリアンの個性を表出していた。
 英ASVレーベルでのアルメニア・フィルを起用してのチェクナヴォリアンのCDは、当然のことのようにアルメニア人の大作曲家ハチャトリアン作品の録音から開始され、発売以来、オーケストラの個性的で力強い響きを中心に関心を呼んで、大きな話題となった。このCDは、そのチェクナヴォリアン/アルメニア・フィルのコンビによる、プロコフィエフ録音として、「ロミオとジュリエット」に次ぐ第2弾だ。何かとハチャトリアンの演奏が話題になる彼らだが、このコンビには既にリムスキー=コルサコフ作品のCDアルバムが2点あり、ロシア近代の管弦楽曲全般にレパートリーを広げている様子がうかがわれる。これからのますますのレパートリーの広がりに注目したい。

■チェクナヴォリアンのプロコフィエフ
 今回のアルバムのプロコフィエフは、前回の「ロミオとジュリエット」と比較して、その色彩感に軽やかさが加わったように思う。録音時期はほとんど同じはずだが、チェクナヴォリアンの薫陶が効果を発揮し始めたのだろう。ダイナミクスに瞬溌力が加わり、音楽が雄弁で鮮やかだ。
 「キージェ中尉」で彼らの演奏の特徴が顕著なのは、第2曲「ロマンス」や第5曲「キージェの葬送」の、ゆったりとしたテンポ設定で豊かに流れる旋律や温かな音色の魅力と、第4曲「トロイカ」の独特の伸びやかさだろう。この作品に、のどかな民話性が横たわっていることが、これほど自然に滲み出てくる演奏は、なかなか聴くことができない。
 しかし、このCDに収められた3作品で、最もオーケストラの響きが充実しているのは「三つのオレンジへの恋」だ。ずしりとした手応えと、前進するエネルギーを保ち続けながら、決して粗野で乱暴な音楽になっていない。豊かで力強い息づかいのアプローチが新鮮に聞こえる。息づまるクライマックスの果てに、大きな深呼吸を誘う充実があるのが、この演奏の最大の美点だ。

■作品についてのメモ
 セルゲイ・プロコフィエフは今世紀を代表する作曲家のひとり。1891年にロシアのソンツォフカに生まれた。幼い頃から音楽の才能を示し、グラズノフの勧めでペテルブルグ音楽院に入学、作曲をリャードフ、管弦楽法をリムスキー=コルサコフに学んだ。1917年のロシア革命後、しばらく故郷を離れ、アメリカやヨーロッパで過ごしたが、1935年以後は革命後のソ連に戻って祖国の音楽の発展に尽くし、1953年にモスクワで死を迎えた。

●組曲「キージェ中尉」
 1932年に帰国の決意を固めたプロコフィエフが、翌年のモスクワ訪問時に、映画監督のファインツィマーから、映画「キージェ中尉」のために依頼された作品が原曲。いわばソ連への帰国記念として発表された作品。
 モダニストとして時代の先端を歩んできたと自負していたプロコフィエフにとって、当時、最もモダンな芸術と目されていた映画音楽の仕事は、かなり興味深かったようで、この作品を皮切りに、「アレクサンドル・ネフスキー」「イワン雷帝」といった映画のための作品へと続いて行った。
 物語は、ティニャーノフの短編小説をもとにしたもので、皇帝の怒りをなだめる言い訳を聞き違えたことから生まれた「キージェ中尉」という架空の人物を中心にした、皇帝と臣下とのやりとりをめぐるコメディ。最後は存在しないキージェ中尉を忠臣と信じて抜擢しようとする皇帝に、キージェの葬儀を行ってつじつま合わせをするというストーリー。ニコライI世時代の宮廷を舞台に、貴族社会を風刺した内容だ。
 組曲は映画音楽として発表された後、34年に、作曲者自身によって選択、編成された。第2曲と第4曲にはバリトンまたはバス独唱が加わることもある。
 第1曲「キージェの誕生」
 第2曲「ロマンス」
 第3曲「キージェの結婚」
 第4曲「トロイカ」
 第5曲「キージェの葬送」

●バレエ「シンデレラ」組曲第3番
 1940年のバレエ「ロミオとジュリエット」の成功によって、キーロフ劇場から依頼を受けたバレエ曲。原作は有名なペローの童話。作曲が開始された翌年、41年にドイツ軍のソ連侵入が起こり、以後4年に及ぶ独ソ戦のため、オペラ「戦争と平和」、「戦争ソナタ」などの作曲に関心が移り、大幅に完成が遅れた。全曲のスコアが完成したのは45年で、初演は同年11月にモスクワのボリショイ劇場で行われた。後に作曲者自身によって3つの演奏会用組曲が作られたが、この第3組曲は47年9月3日にモスクワ・ラジオの放送で初演された。なお、第3曲「来客へのご馳走」に旧作の「三つのオレンジへの恋」の行進曲の旋律が登場する。
 第1曲「廷臣たちの踊り」(アンダンテ・グラシオーソ)
 第2曲「王子とシンデレラ」(アダージョ)
 第3曲「来客へのご馳走」
 第4曲「誘惑」(モデラート)
 第5曲「オリエンタル」(アンダンテ・ドルチェ)
 第6曲「王子とシンデレラの再会」(アダージョ・パッショナート)
 第7曲「ゆるやかなワルツ」(アダージョ)
 第8曲「愛をこめて」(アダージョ・ドルチッシモ)

●交響組曲「三つのオレンジへの恋」
 プロコフィエフがロシア革命直後の混乱を避けて国外に出ていた時期の作品。1918年にアメリカのシカゴ・オペラ協会の依頼を受け、書き始められた全4幕からなる歌劇。初演は1921年12月30日に行われたが、大成功とまでは行かず、結局、この作品の正当な評価は、作曲者の死後になってしまった。
 しかし皮肉なことに、作曲者自身によって編まれた組曲は、1925年11月29日にパリで初演されて以来好評で、プロコフィエフの代表作と呼ばれるほどのものとなった。軽妙でユーモラスなプロコフィエフらしい作品として、広く親しまれている。また、「行進曲」はヴァイオリン独奏用の小品として、しばしば単独で演奏される。
 第1曲「途方もないやつら」
 第2曲「地獄の場面」
 第3曲「行進曲」
 第4曲「スケルツォ」
 第5曲「王子と王女」
 第6曲「逃走」

■演奏者についてのメモ
 ロリス・チェクナヴォリアンは1937年にイランに生まれたアルメニア人の指揮者、兼作曲家。1954年からウィーン音楽アカデミーで、ハンス・スワロフスキーに指揮法を学んでいる。長らくイギリスを活動の本拠にしていたが、先頃のソ連邦の解体で独自の道を歩み始めたアルメニア共和国を代表するオーケストラ、アルメニア・フィルハーモニーの主席指揮者にも1989年以来、就任している。
 アルメニア・フィルは、アルメニアの首都エレヴァンに建った「ハチャトゥリアン・ホール」を本拠地にしており、生前のハチャトゥリアンとの関係も深かった。自然に備わっている豊かな音楽性と、大胆なダイナミズムは、とかく小さくまとまりがちな最近の音楽演奏の世界的傾向の中で、独自の魅力を保持している。西欧の音楽理論を身に付けたチェクナヴォリアンとのコンビでの、これからの演奏が期待されている。




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ロリス・チェクナヴォリアンのプロコフィエフ《ロミオとジュリエット》

2009年09月19日 06時07分35秒 | ライナーノート(日本クラウン編)






 以下は、アルメニア人指揮者、ロリス・チェクナヴォリアンがプロコフィエフの《ロミオとジュリエット》をアルメニア・フィルを振って録音した英ASVの国内盤ライナーノートです。1995年3月20日に執筆したものです。しばしば混乱を起こす全曲版と組曲版との異同についても、曲目解説で、なるべく整理して触れるようにしたものです。


《プロコフィエフ『ロミオとジュリエット』/チェクナヴォリアン指揮アルメニア・フィル》

■このCDの演奏について
 チェクナヴォリアンは1937年にイランに生まれ、テヘラン及びウィーンで学び、1970年以降はロンドンを中心に活躍を続けているが、彼は両親が共にアルメニア人だ。数年前からは、アルメニアの首都エレバンに本拠を置くアルメニア・フィルハーモニーの再建にも尽力している。
 そうした経歴からアルメニア物のスペシャリストと目されがちで、最近リリースのCDでもアルメニア人作曲家ハチャトリアンの作品の評価が高いが、作曲家でもあるチェクナヴォリアン自身の作品を聴くと、ハチャトリアン的な骨太の力強さよりは、むしろ、おおらかな歌や、中東的な執拗な反復と自在な衝動性との融合に、チェクナヴォリアンの最大の特徴が潜んでいるように思う。演奏時間50分を越える大作、交響組曲「オテロ」にそうした特質が顕著に表れている。
 このCDのプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」にも、チェクナヴォリアンの個性が至るところに現れており、ここ数年にリリースされた同曲のCDのなかでも、ひときわユニークで衝撃的な、興味深い演奏を聴かせてくれている。
 特にいくつかの曲目でのテンポ設定には、耳を洗われるような新鮮な発見がある。例えば、第1組曲第6曲〈バルコニーの情景〉では異常にゆったりとしたテンポでの歌い上げが実に効果的で、中東から東洋にかけての、我々の感性に近いものを聴きとることができる。そう言えば、このあたりのテンポ感はマゼール盤やサロネン盤がチェクナヴォリアン盤から遠く、最も近いのがチョン・ミュンフン盤だというのも偶然ではないだろう。
 もちろんアルメニア・フィルのアンサンブルに粗さがあることは否定しない。しかし、第1組曲第7曲〈タイボルトの死〉などの曲目を聴いた時、この独特の彼らの音色の魅力に、率直に全開の指示を与えるチェクナヴォリアンの対応は、決して踏み外したものではない。続く有名な第2組曲第1曲の〈モンターギュ家とキャピュレット家〉などでも、反復音型を強調した輪郭の太々とした音楽の、地に根差したような足取りが、彼らの音色の特質と重なり合って、このプロコフィエフの作品のモダニズムの陰にあるゴツゴツした手触りを明らかにしている。
 チェクナヴォリアンの演奏は、言うなれば、西欧的インテリジェンスが解釈し意味付けしてきたプロコフィエフ像からは、程遠いところにある個性的な演奏といって良いものだ。余分なひと言を付け加えれば、このチェクナヴォリアンの個性に対する抵抗感のあり様に、その聴き手が西洋音楽の語法にどれ程とらわれているか、あるいは、柔軟な感覚を持っているかが試されていると言っても過言ではないと思う。
 このチェクナヴォリアンの演奏の特徴を表す白眉は、終曲〈ジュリエットの死〉だろう。ここでもチェクナヴォリアンは、ゆったりとしたテンポで旋律を豊かに朗々と鳴りわたらせる。深い呼吸で、あくまでも堂々たる響きで押して行く。ここには、神経質で傷つきやすい精神ではなく、広々とした大地の大きな包容力にあふれた精神の胎動が、ずっしりとした手ごたえで聞こえている。
 なお、このCDは、アルメニア・フィルハーモニーをチェクナヴォリアンが指揮して録音したものでは、初めてのプロコフィエフ作品の録音だ。このところ英ASV(国内盤は日本クラウンから発売)からチェクナヴォリアン/アルメニア・フィルのCDのリリースが相次いでいるが、アルメニアの大作曲家ハチャトリアン作品の録音に集中しがちだった中での、プロコフィエフ作品の登場というわけだ。
 しかしチェクナヴォリアンのレパートリーは、もともとハチャトリアンに集中していたわけではなく、過去にはベートーヴェン「運命」、チャイコフスキー「悲愴」、ボロディン「第2」などの録音もあり、中でも「運命」の独特の拍節感が、西欧の標準的な音楽語法にとらわれずに、新たな説得力ある音楽を聴かせるチェクナヴォリアンの個性を表出していた。
 最近の一連のアルメニア・フィルとのASV録音でも、リムスキー=コルサコフ作品のCDが2枚リリースされている。また、この他にプロコフィエフの「キージェ中尉」「シンデレラ」「3つのオレンジへの恋」の組曲を収録したCDも、まもなく発売される予定となっている。

■演奏曲目について
 プロコフィエフのバレエ曲「ロメオとジュリエット」は、4幕12場、全52曲から成り、演奏時間も2時間20分を超す大作だ。それを、プロコフィエフ自身が、バレエ初演に先立って7曲ずつから成る2つの組曲に編んでおり、さらに、後に6曲の第3組曲を発表している。このCDでは、その組曲の編成どおりに、第1、第2、第3組曲の順に演奏している。
 これが、このCDの大きな特徴だ。一見あたりまえのようだが、こうした編成のCDは、極めてめずらしい。というのは、成立の事情から、第1、第2組曲の14曲はそれなりに音楽的な完結性をもっていること。加えて、かつてのLPレコードの収録時間の制約からも、第3組曲が割愛されがちだったことで、第1、第2組曲の14曲のみが、組曲として一般的には定着しているからだ。
 また、後述の各曲紹介で触れるように、組曲版の曲順が、もともとストーリー展開とはまったく異なるため、一方で、ストーリー性を考慮して組曲の順序を入れ換え、曲数を減らしたり、逆に、2つの組曲には収録されなかった曲を加えたりして自由に構成した「抜粋」が演奏されることも多い。その場合、組曲からの抜粋と全曲版からの抜粋とでは、各曲の接続部分が異なるので、若干の異同が発生して聴き手に混乱を起こしている。
 また、各曲の名称が、全曲版と組曲版では一部異なっていることも、混乱の原因になっている。ちなみに、最近の若手指揮者のCDでは、エサ=ペッカ・サロネン/ベルリン・フィル盤が全曲版からの抜粋、チョン・ミュンフン/コンセルト・ヘボウ管盤が組曲版からの抜粋で、それぞれ独自のコンセプトでまとめられている。
 なお、全曲は1935年から36年にかけて作曲され、1938年に初演されたが、作曲直後に演奏会用に改編された第1、第2組曲は、全曲初演に先立って1937年に初演されている。第3組曲は1944年になってから完成し、46年に初演された。
 以下の当CDの演奏曲目では、それぞれの、全曲版における曲番号および、曲名を記載する。また、組曲版と全曲版との異同にも、出来る限り触れるように心がけた。

●第1組曲
第1曲 フォークダンス
 全曲版では第2幕の序奏にあたる第22曲。場面は街の広場で、カーニヴァルの日を迎え、お祭り気分でごったがえしている。
第2曲 情景
 全曲版では「街の目覚め」と題されている第3曲。第1幕の幕開けの後の、次第に活気にあふれてくる場面の音楽だ。
第3曲 マドリガル
 第1幕第4場、舞踏会の場の半ば、ロメオがジュリエットに近づき、ふたりの愛の高まりが暗示される音楽。全曲版の第16曲。
第4曲 メヌエット
 全曲版では「客人たちの登場」と題されている第1幕第3場の冒頭の音楽で、キャピュレット家の舞踏会に招かれた人々の入場の場面に用いられる。全曲版の第11曲。
第5曲 仮面
 上記に続く第12曲。宿敵キャピュレット家の舞踏会に、仮面で顔を隠したモンターギュ家のロメオやマーキュシオらが紛れこむ場面の音楽。
第6曲 バルコニーの情景
 第1幕第5場に用いられる第19曲。舞踏会が終わった後、ジュリエットを忘れられないロメオが再びキャピュレット家に忍び込み、バルコニーに現れたジュリエットと愛を語り始める。
第7曲 タイボルトの死
 第2幕、カーニヴァルの日に、街中で宿敵キャピュレット家側のタイボルトといさかいになり、親友マーキュシオを殺されたロメオが、その復讐としてタイボルトと決闘の末、タイボルトを殺してしまう。ロメオのモンターギュ家とジュリエットのキャピュレット家との争いが決定的になったところで第2幕は終わる。「タイボルトの死」と題されたこの曲は、第2幕第3場の第33曲「タイボルトとマーキュシオの決闘」、第35曲「ロメオはマーキュシオの死の報復を誓う」、第36曲「第2幕の終曲」を一部短縮して巧みに接続した音楽。組曲版でのみ、この形にまとめられている。
●第2組曲
第1曲 モンターギュ家とキャピュレット家 第1幕第4場、舞踏会の場面での「騎士たちの踊り」(第13曲)が中心だが、序奏風に第1幕第1場の第7曲「大公の宣言」(バレエでは第3幕の前奏にも転用)が冒頭に置かれている。この2曲を組み合わせたことで、争い合う両家を象徴するような沈鬱さが際立って表現されることとなり、しばしば、組曲の曲順を入れ換えた抜粋版で、第1曲として使用されるようになった。古くは、1950年代録音のミトロプーロス盤が好例だが、最近のチョン・ミュンフン盤もそうしている。
第2曲 少女ジュリエット
 第1幕第2場から第10曲。舞踏会の準備が始まったキャピュレット家の控えの間。ジュリエットが、まだ会ってもいない青年貴族との婚約を承諾するように母親から言われて、当惑する場面。ロメオとの出会いの前のジュリエットだ。
第3曲 僧ローレンス
 これは第2幕第2場教会の場面の冒頭の音楽。全曲版の第28曲「ローレンス僧庵でのロメオ」を用いているが、次曲への橋渡しとなる結尾の数小節が省略されている。両家のいさかいを終わらせようと行動するローレンス僧の穏やかな人柄が表現されている。
第4曲 踊り
 第2幕第1場から第24曲。全曲版では「5組の踊り」と呼ばれる。カーニヴァルの日の、街の人々とロメオ、マーキュシオらの踊り。
第5曲 別れの前のロメオとジュリエット
 第3幕第1場ジュリエットの寝室の場面。全曲版では第39曲にあたる。タイボルトを殺したために、大公の命で、処刑は免れたものの追放されることになったロメオが、ジュリエットに別れを告げる。悲壮感に満ちた愛の場面の音楽。
第6曲 ユリの花を手にした娘たちの踊り
 第3幕第3場、ジュリエットの偽りの結婚式の朝の音楽。全曲版の第49曲。
第7曲 ジュリエットの墓の前のロメオ
 第4幕エピローグから第51曲「ジュリエットの葬儀」が、冒頭数小節をカットして開始される。そして第52曲「ジュリエットの死」の断片を、最後に聞かせて曲を終えるように再構成されている。
●第3組曲
 前述したように、全曲版と大幅に順序が入れ替わっているとは言え、第1、第2組曲は、それなりに完結性を持っている。そのため、第3組曲は、この悲劇のストーリーを再びたどり直すようなものとなっている。
第1曲 噴水の前のロメオ
 全曲版第1曲「前奏曲」の冒頭部分にすぐ続けて、全曲版第2曲「ロメオ」が開始される。
第2曲 朝の踊り
 これは全曲版の第4曲にあたる。明るい朝の街の情景を思わせる。全てはまだ、悲劇の愛が始まる前のできごとだ。
第3曲 ジュリエットは舞踏会の準備をする 全曲版第14曲「ジュリエットのヴァリアシオン」と第44曲「ローレンス僧庵」を中心に改編された音楽。この構成により、純真無垢なジュリエットの世界は、初めから不吉な翳りを帯びたものとして暗示されることとなっている。
第4曲 乳母
 この第3組曲第4曲は、前記の第3組曲第3曲の題名とまぎらわしいが、全曲版第9曲「舞踏会の準備」の冒頭に第26曲「乳母」を接続している。優しさにあふれた音楽だ。
第5曲 朝の歌
 これは第3組曲第2曲の朝とは違い、ジュリエットが偽りの結婚式を迎えた第3幕の朝の音楽。全曲版の第48曲で「朝のセレナーデ」と呼ばれることもある。
第6曲 ジュリエットの死
 全曲の終幕にあたる第52曲「ジュリエットの死」に、この組曲版では冒頭に数小節の付加があるが、正に、この悲劇の結末にふさわしい音楽。自由に演奏者が改編した抜粋版でも、しばしば最後の曲として演奏される。



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フランチェスコ・ダヴァロスが指揮するブラームス『交響曲第4番』ほか

2009年09月14日 10時07分18秒 | ライナーノート(日本クラウン編)




 以下は、フランチェスコ・ダヴァロス指揮フィルハーモニア管弦楽団によるブラームス『交響曲第4番』『セレナード第2番』などを収録した英ASV原盤によるCDが日本クラウンから国内盤で発売された時のライナーノートです。当時、話題の指揮者として、ダヴァロスのCDが連続してリリースされていた中の1枚で、これは、シリーズの中でも初期のものだったと思います。冒頭がダヴァロスの登場の背景についての解説に費やされているのは、そのためです。1993年10月19日に執筆を終えています。私が書いたダヴァロスのCDへのライナーノートは、本日掲載分までの4本で終わりのはずです。ご興味のある方は、このページ左欄をず~っと下に降りて行って、「検索」の文字列を「ダヴァロス」としてから、「このブログ内」で検索してください。このブログにアップした私のダヴァロスに関する言及が一覧できます。


■ライナーノート(全文)

◆《遅れてやって来た巨匠》ダヴァロス
 このところ“驚嘆”という言葉がぴったりとするような演奏家の登場が、すっかり少なくなってしまったが、このフランチェスコ・ダヴァロスは、久し振りに新鮮で、ずしりとした手ごたえのある音楽を持った演奏家だ。つい先頃、ブラームスの第2交響曲とワーグナーの管弦楽曲第1集で、日本の音楽ファンの前に初めて登場した“新人”指揮者だが、このダヴァロスという人、例えばサイモン・ラトルとかウェルザー=メストといった若手と一緒にすることはできない。1930年4月11日の生まれだと言うから、ロリン・マゼール、カルロス・クライバーと同年、コーリン・デイヴィスより3歳下、クラウディオ・アバドより3歳年長なのだ。
 そのダヴァロスの登場が新鮮に感じられたのは、ひとえに、彼の音楽が、他の誰の亜流でもなく、独自の主張を持っているからだ。世界には、大勢の演奏家がいる。彼らは、皆それぞれに何らかの自分のスタイルを持っているが、それでも、大方の場合、どこかで聴いたことのある演奏の範囲に留まっている。だが、時折「どうしてもこの演奏でなくては」という強い個性(しかも説得力のある)を備えた演奏家に出会うことがある。巨匠と呼ばれる演奏家、巨匠となり得る可能性を持った演奏家とは、そうした限られた人々のことなのだ。このダヴァロスは、その意味で、私達の前に《遅れてやって来た》巨匠だ。私達がダヴァロスの演奏に接した今年(1993年)、既に彼は63歳になっていたのだから。

◆ダヴァロスのレコーディング活動
 しかし、ダヴァロスの遅いデビューは日本でだけの特殊事情ではないようだ。ナポリの名門の家に生まれたダヴァロスは、かなり以前からイタリア各地のオーケストラに客演するとともに、フランクフルト、ハンブルク、ケルンなどドイツ各地での活動を行っていたという。オペラでのキャリアが重視されているが、シンフォニー・コンサートも行っていたらしい。しかし、作曲家としての活動も評価されていた彼は、レコーディングに関心を示さなかったため、他の地での多数のファンを形成するには至らなかった。
 ところが、ロンドンでの1987年1月フィルハーモニア管弦楽団への客演が、センセーショナルな成功を呼んだことから、状況は一変した。「大演奏家時代の再来」と称賛され、英ASV での録音発売が決定したからだ。89年の終わりには、イギリスのCDカタログにシューベルト交響曲第9番、ブルックナー交響曲第7番、3枚のワーグナー管弦楽曲集が掲載されている。翌1990年には、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」イタリア初演をしたことでも知られる19世紀後半の作曲家、兼指揮者ジュゼッペ・マルトゥッチの管弦楽曲第1集をリリース、これは ACCディスク大賞を受賞し、その後続けて3枚発売された。
 ブラームス交響曲全曲は、初めに第1番が91年1月に発売され、以下順次発売された。他にはフランクとショーソンの交響曲、ヨアヒム・ラフの交響曲第3番「森の中で」、3枚から成るクレメンティ管弦楽曲集が現在のイギリスのカタログにある。またワーグナーの第4集も発売されている。今後はメンデルスゾーンとリストのオーケストラ作品全集、シューマンの知られざる作品などが予定されているという。

◆音楽ジャーナリズムとダヴァロス
 あっという間にかなりの枚数となったダヴァロスのディスコグラフィーだが、そのスタートがロンドンであったというのも、なかなかに今日的だ。よく言われるように、ロンドンは東京と並んで、世界に誇る(?)オーケストラ都市で、また戦前からのレコード産業の中心地だ。いわゆる音楽ジャーナリズムの発達した都市でもある。
 ダヴァロスの遅いデビューのことを考えると、今日、高度情報化社会と呼ばれているが、音楽の世界ではそれが名ばかりのものではないかと思ってしまう。ダヴァロスに限らず、おそらく世界の様々な都市で、人々を涌き立たせ、啓発する音楽を奏でている演奏家は大勢いるだろうが、世界の音楽マーケットに登場するのは、その内のごく一部なのだ。これは音楽産業の特質と言ってもよいが、一部の限られた情報だけが拡大、肥大化して、洪水のように特定の演奏家のCDが矢継ぎ早に発売されている現状に思いが至る。そして、その歪みが拡大してしまっているのが日本の現状ではないだろうか?
 88年にCDデビューしたダヴァロスが、日本で発売されるまでに、更に5年もの歳月を要してしまったのは、「発売のメドが立たない」ということではなく「売れ行きのメドが立たない」ということだったろうと推察できる。このことは、日本のレコード会社が非力であるというよりは、ネームバリューに振り回されがちな多くの日本の音楽ファンや、そうした音楽ファンを育ててきてしまった日本の音楽ジャーナリズムにむしろ大きな責任があると、私は思っている。
 このところ、いわゆる海賊盤の横行はさておいて、意欲的に新人演奏家や秘曲の発掘に取り組んでいるマイナーレーベルを中心とした海外盤を熱心に物色するファンが増えてきているのは頼もしいことだ。また、そうしたことに目を向けるジャーナリズムも、徐々にではあるが育ちつつある。
 毎日のように海外から演奏家が来日するが、それでも、この国はまだまだ音楽体験の貧しい国だと思う。今、音楽を愛する人々が試されているのは、「誰かが強く推奨しているから聴いてみる」のではなく、「初めて見る名前だから聴いてみよう」という、幅広い音楽体験を生み出す“泉”の深さなのだ。

◆このCDの演奏について
 このブラームス集、特に第4交響曲は、ダヴァロスの美質を最もよく表したもののひとつと言ってよいだろう。一見無造作なようだが、実によく全体が捉えられており、個性的なペース配分も考え抜かれていることを窺わせる。
 特に第1楽章の速いテンポに驚く聴き手は多いだろう。標準的なテンポに比べて2割ほど演奏時間が短く、10分少々でこの楽章を終えてしまうが、大幅な小節カットをしているわけではない。ブラームス的なアゴーギクの強調をせずに、一瞬の森閑とした静寂を生み出す“間”も取らず、テンポの揺れも押えて弦をストレートに鳴らすが、決して無鉄砲ではない。しばしばのリタルダンドの誘惑にも屈しない。ピチカートは生き生きとしている。力強く明快で、暖かく豊かな音楽だ。
 第2楽章は、その滔々とした流れが大らかで、澱みなく歌い継いでいく。活力に満ちた第3楽章を経て、終楽章では揺れ動く情感の襞の、折り重なる音を大きく束ねながら進んで行く。全体に速めのテンポだが、その「一筆書き」とでもいった音楽の運びは、聴くものを掴んで離さない。
 「セレナード第2番」の方は、交響曲に比べてずっと小じんまりとした起伏のなかで、暖かな音楽が息づいている。ダヴァロスの見識ある様式観が窺える演奏だ。
 ダヴァロスは、ロンドンでのデビュー時に「大演奏家時代の再来」と称えられたように、ヨーロッパでは「伝統的な演奏」の保存者のように評されているようだが、それは必ずしも的確な表現ではない。ワルターやカイルベルト、あるいは、ショルティなどと比較してみても、それは、すぐに解ることだ。ダヴァロスの演奏は、確かに最近のいわゆる《知》にウェイトのある演奏とは異なるが、だからと言ってロマン的な《情》の音楽ではないのだ。そうした分類にならえば、強靭な《意》を内包した演奏だ。
 今日では様々な角度からの分析的な演奏が多い。音楽を解体し再構築してゆく演奏家の手並みに関心が向くといった傾向がある。そのことによって触発されることも多いが、ダヴァロスの場合、細部は常に大きな全体のなかで息づき、全体がわしづかみされている。現代に生きる私達が、音楽に“力”を取り戻せるのは、そうした時なのだし、それは巨匠と呼ばれる人の条件のひとつでもある。《遅れて来た巨匠》ダヴァロスが、タイムスリップの存在ではなく、真に私達の時代を触発し続ける巨匠なのかどうか、しばらく注目していきたいと思う。

◆演奏曲目についてのメモ
●交響曲第4番ホ短調 作品98
 ブラームス(1833-1897) の最後の交響曲。作曲は、避暑のために滞在していたウィーン南西の小村で、1884年と翌85年に、初演は1885年10月25日にマイニンゲンで行われた。
 楽器編成は、フルート2(ピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、トライアングル、弦5部。
 第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ ソナタ形式。序奏なしに、いきなり第1主題で開始される。木管群に現れすぐさま朗々とチェロで歌われる旋律が第2主題。提示部の反復指定はなく、展開部、再現部ともに第1主題から入り、力強いコーダで結ばれる。
 第2楽章 アンダンテ・モデラート 展開部のない一種のソナタ形式。第1主題はホルンに導かれて木管で奏される。第2主題はヴァイオリンのオブリガードを伴ってチェロで奏される。アルカイックなたたずまいの、美しい緩徐楽章。
 第3楽章 アレグロ・ジョコーソ。スケルツォ的な楽章で、この楽章だけトライアングルとピッコロが加わる。
 第4楽章 アレグロ・エネルジコ・エ・パッショナート 古典的な変奏手法であるパッサカリア形式。8小節の提示のあと、第30変奏まで続く壮大な楽章。最後に拡大された変奏形式のコーダが置かれている。

●セレナード第2番イ長調 作品16
 1858年から59年にかけて作曲され、1860年2月ハンブルグで初演された。ヴァイオリンを欠いた編成の渋い音色が特徴的な、若き日のブラームスのロマンあふれる作品。
 5楽章構成で、楽器編成は次の通り。
 ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン3、ヴァイオリンを含まない弦3部。
 第1楽章 アレグロ・モデラート。
 第2楽章 (スケルツォ)ヴィヴァーチェ。 第3楽章 アダージョ・ノン・トロッポ。
 第4楽章 クヮジ・メヌエット。
 第5楽章 (ロンド)アレグロ

●3つのハンガリア舞曲
 ブラームスは全部で21曲のハンガリア舞曲を残したが、原曲はピアノ連弾用。第1番から第10番までが1869年に出版され、その内、第1番、第3番、第10番の3曲がブラームス自身によって、1873年に管弦楽に編曲された。今日、全21曲の管弦楽編曲があるが、ブラームス自身によるものはこの3曲のみ。
・第1番(原曲第1番)アレグロ・モルト
・第2番(原曲第3番)アレグレット
・第3番(原曲第10番)プレスト
     


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ダヴァロスのシューベルト『交響曲第9番《グレート》』

2009年09月08日 09時41分18秒 | ライナーノート(日本クラウン編)





 以下は、1994年2月25日に執筆完了したライナーノートです。フランチェスコ・ダヴァロス指揮フィルハーモニア管弦楽団によるシューベルト『交響曲第9番《グレート》』です。




■このCDでのダヴァロスの演奏
 次項で詳しく触れるが、このCDに収められたシューベルトの「交響曲第9番ハ長調」は、ダヴァロス/フィルハーモニア管弦楽団のコンビにとっては最初期に属する録音だ。
 そのせいか、もともと指揮者の個性に対する順応性ではひときわ定評のある、この名人オーケストラが、さすがにいくらかの戸惑いを聴かせているのがまず興味深い。それは結果として、所々でアインザッツの乱れなども引き起こしており、これはこのオーケストラとしてはめずらしいことだが、彼らとダヴァロスとの出会いの衝撃の、ドキュメント性を垣間見ることともなったようだ。
 テンポ設定や音色バランスの面では、名人オーケストラが戸惑うのが当然のような個性あふれるアプローチだが、その仕上がりは破天荒なものではなく、むしろ、この曲が舞曲的な活力を取り戻したという意味で、一度聴いたら忘れられない魅力を持った演奏だ。
 もちろん、全体を大きく流れる音楽の力強さは一貫して確保されており、ダヴァロスの指揮棒の技術がどのようなものか、実演を見てみたい気持ちになる。オーケストラの気分をひとつにまとめていく力はかなりのもので、そのスケールも極めて大きい。このCDがどの程度の日数で採られたものかは判らないが、終楽章に向かって〈尻上がり〉にスタイルがまとまっていくといった趣きもある演奏だ。
 第1楽章は、序奏部がくっきりとした旋律線を強調して開始され、主部に入ってからも明るい音色のきびきびとしたテンポが耳をとらえる。ドイツ的な重厚な音色を避け、管楽器の輝かしい響きが絶えず全体を煽るように進められるが、あくまでも自然で無理のない活力に満ちている。
 リズム感覚の良さも特筆もので、次々にたたみ掛ける音の連なりが、息の長いフレージングを形成して弛緩するところがない。そして結尾部の手前、金管の上昇音階がこれほど伸びやかに響いたことがあっただろうか?
 第2楽章では、ダヴァロスがしばしば聴かせる一見ぶっきらぼうで淡泊な表情が基調だが、いとも平然と内声部の旋律を押し出してくることで独自の表現を生んでいる。〈平然と〉というのは、当然のことであるかのように堂々と、ということで、いかにも「やってますよ」と言いたげな衒いや、不用意にコントロール不能に陥入った結果でもない。このあたり、表面的な仕上がりに気を取られる聴き手がしばしば混同するところだ。底流に脈々と流れ続け、淀むところのない音楽を持っているダヴァロスならではの表現だ。
 第3楽章あたりになると、オーケストラは、もっと深くダヴァロスの世界にひたっている。快速テンポでぐいぐいと進み、聴く者をつかんで離さない。ティンパニを中心に、奏者たちの実に楽しそうな気分も伝わってくる。正にアレグロ・ヴィヴァーチェだ。中間部でもほとんどテンポを揺らさずに直線的に進む。
 第4楽章も、力強い推進力に最大の力点を置いた極めて剛直な演奏だ。躍動するリズムも、オーケストラの熱い共感に支えられている。しかし、躍動するリズムにも光と影があるのだということを、例えばバーンスタインとコンセルトヘボウとの盤などでは感じるわけだが、ダヴァロスの場合は、そうした影を感じさせないストレートさで迫る。第2、第3楽章でも時折聴かれたが、長いフレージングで数珠つなぎに繰り出される音楽を、一本調子と紙一重のストレートさととるか、あるいは、息もつかせずたたみ掛けてくるエネルギッシュな音楽として、全てを任せてしまうかということだ。
 しかし、このあたりの「ダヴァロスらしさ」を固定的に考えるのは、まだ早計のようだ。ダヴァロスは、当CDのシューベルトの前後にワーグナー管弦楽曲集を計4枚録音しているが、曲によって、この光と影のバランスがとれたものと、ばっさり影の部分を斬り捨ててしまったものとが混淆していることに、戸惑いを感じるからだ。
 これはひょっとすると、レコーディング・アーティストとしてのダヴァロス自身の迷いなのかも知れない。言わば、振り上げたこぶしの下げ所を考えあぐねているといったところだろうか?
 とは言え、このシューベルトが、私たちのシューベルト像に強靭な意志をもって挑戦している演奏であることに、変わりはない。ダヴァロスが、混迷する現代の演奏のなかに、ひときわ異彩を放つ個性派の指揮者のひとりとして出現したころの記録が、やっと日本の音楽市場に登場したことを喜びたい。

■ダヴァロスのCDデビューについて
 昨1993年10月に日本クラウンのASVレーベルに、ブラームス及びワーグナーで日本の音楽ファンの前に登場したイタリアの指揮者フランチェスコ・ダヴァロスは、60歳を越えて突然日本のCD市場に現れた。今年(1994年)ダヴァロスは64歳になるが、それはロリン・マゼールやカルロス・クライバーと同年、クラウディオ・アバドよりも3歳ほど年長ということだ。彼は海外でもCD市場に登場したのが、1987年にロンドンで行われ「大演奏家時代の再来」と称えられたと言われているセンセーショナルなデビューコンサートの翌年、1988年2月に初のCD、ワーグナー管弦楽曲集第1集が英ASVで発売されてからだ。録音は87年の6月に行われている。
 その直後に録音されたと思われるのが、このシューベルトの「交響曲第9番」であることはほぼ間違いないのだが、録音日だけではなく初出発売時期もはっきりしていない。それは、このCDの原盤供給元である英ASVの発売が、カタログ上では1989年2月となっているにもかかわらず、この録音が公けに発売されたのが1988年であると表記されているからだ。
 未確認なので断定は出来ないが、私の推定では、このCDのプロデューサーがASVと関係が深いとは言えフリーのブライアン・カルヴァーハウスであることと考え合わせ、イタリアあたりのマイナーレーベルで1988年に先行発売されたのではないだろうか。(現物は未見だがVIVACEというレーベルでも同じものが発売された形跡がある)。あるいは、英ASVからは、LPレコードが88年に新譜発売されているということも考えられる。89年の英ASVでのCD初出発売も、そうであればつじつまが合う。
 音楽を聴く上で、直接あまり関係が無い話で恐縮だが、ダヴァロスのCDデビューが日本だけではなくイギリスでも、必ずしも順風満帆のものではなかった、ということは記憶にとどめておきたい。今日では、異種の才能を持った演奏家が世界のCD市場に登場するのは、大きなコンクールで突然優勝をさらうようなことでもない限り、並大抵のことではないようだ。ちなみにアメリカではダヴァロスは、90年2月になって、やっとカタログに登場しているが、その時点ではシューベルトの9番は載っていない。
 だが、日本でもデビュー以来わずか半年で多くのファンがダヴァロスの真価に気付いたように、イギリスでも現在はかなりの量のCDが発売され、また着々と新録音が進められていると伝えられている。ダヴァロスは今や、その動向から目が離せない指揮者のひとりとなりつつあると言えるだろう。

■曲目についてのメモ
◇シューベルト:
 「交響曲第9番 ハ長調《グレート》」
 シューベルト(1797~1828) の交響曲は、失われたもの、未完に終わったものなどがあり、通し番号にしばしば異説がある。この《グレート》もかつては7番と呼ばれ、その後、9番と呼ばれるようになった。現在では、10番、あるいは8番と呼ばれることもあり、それぞれに根拠があるが、ここでは慣例にしたがって第9番と呼ぶことにする。
 「交響曲第9番」の作曲は1825年から28年の3月にかけて行われたと言われているが、正確には分からないことも多い。いずれにしても完成はシューベルトの死の年で、初演は作曲者の死後、遺品の中からシューマンが発見し、メンデルスゾーン指揮ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏で1838年3月21日に初演された。ただ、この時は短縮されて演奏されたと伝えられている。
 たくさんの歌曲を作曲したシューベルトが、最晩年に、これからは交響曲とオペラの作曲に専念すると決意して最初に書いた交響曲として、従来にない規模の大きな作品だが、同時にこれが、シューベルトの最後の交響曲となった。
 楽器編成はフルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、チューバ3、ティンパニ、弦5部となっている。各楽章は次の通り。
第1楽章 アンダンテ~アレグロ・マ・ノン・ トロッポ
第2楽章 アンダンテ・コン・モート
第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ
第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ

■演奏者について
 フランチェスコ・ダヴァロスは1930年4月11日にナポリの名家に生まれた作曲家兼、指揮者。レコーディングがなかったこともあって、長い間、一部の都市のオペラハウスなどでの指揮が、それぞれの地で話題になる程度だったが、1987年、ロンドンでのフィルハーモニア管弦楽団との演奏会がセンセーショナルな話題を呼び、以来、多くのCDが発売され、知られるようになった。日本でのCDデビューは1993年10月だが、わずか半年で、その個性的で、しかも最近では得難い大きな音楽の構えが各方面で話題になっている。
 フィルハーモニア管弦楽団は、1945年にEMIの名プロデューサーだったウォルター・レッグによって創設されたオーケストラ。その技術の高さは、幾多のメンバー交代を経ても変わらず、定評がある。





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フランチェスコ・ダヴァロスのメンデルスゾーン(2)

2009年09月03日 10時00分53秒 | ライナーノート(日本クラウン編)




 以下は、昨日に続き、ダヴァロス指揮のメンデルスゾーンCDアルバムのライナーノートです。1995年3月31日の執筆です。曲目は『交響曲第2番《讃歌》』と『序曲《聖パウロ》』です。



■特異な経歴が生んだダヴァロスの個性
 このCDで指揮をしているダヴァロスについては、これまでにも再三にわたって言われていることなのでご存じの方も多いと思うが、CDの発売によって、その存在が世界の音楽ファンに知られるようになったのは1988年からで、まだ10年に満たない。それ以前は作曲家としての活動や、後進の指導に力を入れていたこともあって、ヨーロッパ各都市のオペラハウスなどでの指揮活動が一部で評価されていた程度で、演奏を録音してレコード・CDで世に問うということが、ダヴァロスにはなかった。1930年にイタリアに生まれたということだから、ロリン・マゼールと同年でありながら、レコーディング・デビューでは出遅れること30年、3歳下のクラウディオ・アバドに比べても、レコーディング歴で20年程の開きがある。
 だが、同年代の指揮者たちが次々にレコード・CDを発表している間にも、ダヴァロスは自分のペースで音楽活動を続け、自身のスタイルを形成してきた。この、レコーディング活動とは無縁のところで自身のスタイルを形成してきたということが、ダヴァロスを語る上でのキー・ワードではないかと思う。
 レコーディングによる演奏が、この20~30年の間に、〈洗練〉という名で呼ばれるバランスの良さに向かって歩んできたことは、かなり個性的な演奏家をも巻き込んだ大きな潮流として否定出来ない事実だろう。〈洗練〉そのものを自身の個性にまでしてしまったカラヤンは、その意味で、戦後に異常に巨大化したレコード産業の象徴だが、こうした時代を生き抜いて自身の個性を世界中に発信し続けることが出来るのは、ごく限られた人々だけなのだ。
 ダヴァロスは、58歳までレコーディング活動を行わずに自身を形成してきたという、今日ではめずらしい経歴の指揮者だ。ダヴァロスのロンドンでのデビューに際して、「大演奏家時代の再来」と驚愕されたと伝えられるのは、そうしたレコーディング活動を数多く経験してきた他の演奏家の洗練、バランスといったものに慣れていた聴衆の戸惑いを表していると考えていいだろう。
 レコーディング活動を開始して7年目を迎えたダヴァロスだが、これからが、正に真価を問われる時期だろう。最近は、誰の亜流でもない彼自身の力強く、かつ説得力のある強烈な個性が失われることのないまま、良い意味でのバランス感覚が共存して来つつある。〈平均点合格〉の優等生が多い中で、毎回の新譜が楽しみな指揮者のひとりだ。

■このCDの演奏について
 フランチェスコ・ダヴァロス指揮フィルハーモニア管弦楽団による「メンデルスゾーン交響曲・管弦楽曲全集」の第4集として日本で発売されたこのCDは、原盤の英IMPでは同シリーズの最後に発売された。
 録音も、シリーズの最初の録音である「交響曲第5番《宗教改革》」は1990年7月だが、この「第2番《讚歌》」は93年11月1日に録音が完了している。翌11月2日に若干の序曲など小品の録音が行われてはいるが、まとまった作品の録音としては、これが同シリーズの最後のものだ。
 前項で書いているようにダヴァロスは、おそらく、レコーディングというセッションを繰り返しながら音楽を磨き上げていく作業に、慣れてはいなかった指揮者のひとりだ。そのために、一筆書き的に成功した時は良いが、奇妙に一気に走り過ぎて一本調子になることもあり、なかなか仕上がりが一定しないところがあった。
 そのために、この「メンデルスゾーン交響曲、管弦楽曲全集」でも、90年録音の「第5番」では、細部にこだわらないで推し進めるダヴァロス特有のスケールの大きな音楽が、しばしば剥き出しになりすぎて、空回りしてしまっているのが惜しまれた。
 メンデルスゾーンの音楽では、翳と光の交錯、あるいは静と動の対比といったものが原則として求められるはずだ。それはまた、古典的な折り目正しさとロマン的な自在さの同居といってもよい。言葉を変えれば、宗教的な敬虔さと人間的な熱っぽさと置き換えられるだろうか?
 ダヴァロスの「第5番」が、この両者のバランスを丁寧に追うことよりも、劇的な熱っぽさに大きく重心を移していたことは間違いないが、その時に問題になったのは自在さの不足だった。録音セッションでの自在さの獲得は、なかなか安定して得られないものだが、ダヴァロスの90年頃までの録音での仕上がりのバラツキのいくつかも、こうした事情によるものだったと思う。しかし、93年1月に録音されて同CDに収められたカップリング曲「ワルプルギスの第一夜」はダヴァロスの物怖じしないアプローチが、くっきりと定位した響きの充実の中から湧き上がる、素晴らしい盛り上がりを聴かせてくれた。それは、ダヴァロスも録音での演奏に対して方法論が確立して来たか、と期待する出来だった。
 本CDの「交響曲第2番《讃歌》」の演奏は、この「ワルプルギスの第一夜」の延長上にあるものだ。現代の多くの演奏に見られる、奇妙に刈り込まれた整然さに辟易していた聴き手が、突然のダヴァロスの登場に喝采した美質がそのまま保持されながら、音楽のフォルムが明瞭に捉えられている。響きのバランスという客観性を持ちながらも、あくまでも主情的な音楽で押し通す。骨格の太い力強さでぐいぐいと進む音楽には、ダヴァロスのただならぬ〈巨人的気配〉がみなぎっている。
 このことは第1部「シンフォニア」の、速めのテンポで率直に開始される序奏部の壮麗さから言えるが、アレグロの主部への突入が、かつてのダヴァロスが陥りがちだった性急さを抑制していて軽やかだ。そのまま息もつかせずに進む一直線の前進性に圧倒させられ、第2、第3楽章では、陰影の濃いざっくりとえぐり取るような表情がたくましい。
 だが、特筆すべきは第2部に入り、合唱が加わってからの堂々として劇的な表現だ。
 ここへ来て、ダヴァロスが第1部第1楽章で、流麗さを圧し殺してゴツゴツした響きを強調しながら、弾じけ飛ぶように推進していた音楽が暗示していたものに気付く。
 ダヴァロスのメンデルスゾーンでは、まず縦のラインが音楽の流れをせき止めており、それが、そこからはちきれて流れ出す旋律にバネを与えている。バロック的な造形感とロマン的な叙情性の、メンデルスゾーン的同居が力強く彫琢された表情で迫ってくるのが、ダヴァロスの演奏スタイルの成果だ。
 堂々たる足取りの〈カンタータ〉が開始されてからのダヴァロスの声楽伴奏の扱いの自在さは、第3番のテノール・ソロのあたりからは独壇場で、第4番の合唱での豊かな歌の抑揚の大きさへと続いて行く。
 本CDは、この交響曲と呼ぶにはあまりにもカンタータ的な、特異な性格を持つ作品の魅力を余すところなく伝えた名演として、広く推奨できる演奏と言えるだろう。

■曲目についてのメモ
●交響曲第2番 変ロ長調 作品52《讃歌》
 メンデルスゾーン(1809-1847)は、その生涯にフル・オーケストラのための交響曲を5曲書いたが、この1840年に完成し同年6月25日にライプチッヒで初演された「第2番」は、その内で4番目に完成した作品。「第4番」と「第5番」の出版が後になったため「第2番」となり、作品番号も先になった。
 5曲の内、この第2番だけが混声合唱とソプラノ独唱2人、テノール独唱1人を含む特殊な編成となっている。有名なベートーヴェンの「第9番」という先例もあり、後にはマーラーの交響曲でも声楽が用いられているわけだから、声楽付交響曲ということ自体はそれほど突飛なことではないが、このメンデルスゾーンの作品の場合は、声楽を含む部分と管弦楽のみの部分とのバランスが、必ずしも交響曲と呼ぶにふさわしいものではない。事実、作曲者自身の付けた原題は《交響カンタータ》だった。
 作品全体は2部で構成され、第1部は「シンフォニア」と題され、さらに第1楽章、第2楽章。第3楽章の3部分に分かれている。オラトリオでいう序曲のような部分だが、それにしては長大だ。
 そして第2部から声楽が加わる。第2部は全体が大きく分けて9つの部分からなるが、第1部の3楽章全体を「第1曲」としているため、第2部は「第2曲」から「第10曲」までの9曲という構成になっている。各曲の詳細は歌詞対訳を参照していただきたい。
 バランス的には短かめの3つの楽章に、長めの声楽付終楽章が続くという構成だが、冒頭の序奏部で呈示される2小節の動機が全体を結びつける役割をしており、それは、続くアレグロの部分で応用されるほか、第2部の冒頭でも再現され、全曲の終結部でも登場するなど、統一感のある構成になっている。
 歌詞は、マルチン・ルターのドイツ語訳の聖書から作曲者自身によって選択されており、題名の《讃歌》は、神への讃歌と考えてよい。各々の曲に題名はないが、慣例で、それぞれの歌詞の第1節が代用される。

●序曲「聖パウロ」作品36
 この作品は、メンデルスゾーンの、他のいくつかの序曲のような描写的作品の系列とは異なるもので、バッハ的な要素の色濃く表れたもの。コラール的で、荘厳な進行とオルガンの響きの応用が、メンデルスゾーンのバッハへの傾倒を知る上で興味深い。




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フランチェスコ・ダヴァロスのメンデルスゾーン(1)

2009年09月02日 11時06分11秒 | ライナーノート(日本クラウン編)





 以下は、1995年1月24日に執筆完了したライナーノートです。「日本クラウン」から、フランチェスコ・ダヴァロスという個性的な指揮者のCDがシリーズ化されて発売された時の1枚です。先日の当ブログのメンデルスゾーン「スコットランド」の名盤選の付記を書いていて思い出したので、しばらく飛び飛びに、ダヴァロスのCDへのライナーノートを掲載します。
 なお、本日掲載分では、後半、レコード・プロデューサーの「カルヴァーハウス」について少し言及しています。私が、その仕事ぶりにちょっと関心を持っている人物です。


《ライナーノート/ダヴァロス指揮のメンデルスゾーン(1)

■このCDの演奏について
 フランチェスコ・ダヴァロス指揮、フィルハーモニア管弦楽団の演奏によるこのCDは、ダヴァロスの「メンデルスゾーン交響曲・管弦楽曲、全曲録音シリーズ」の1枚として発売された。全5枚の内、日本では第2回発売に当たるが、オリジナルのイギリス・IMPでは、この「交響曲第5番《宗教改革》」と「カンタータ《最初のワルプルギスの夜》」の2曲を収録したCDがシリーズ第1回発売(英IMP:MCD-68)で、1993年の新譜だった。
 録音も全5枚の内で最も早く行われ、《宗教改革》が1990年7月、《最初のワルプルギスの夜》が1993年1月となっているが、この2曲での数年間の開きは、演奏の仕上りに少なからず影響している。
 もちろん本質的には、どちらにも共通して、ダヴァロスらしい音楽の活力や推進力があふれているが、《宗教改革》では、それがかなり強引なオーケストラ・ドライブとして聴こえてしまう部分があるのは否定できない。
 思えば、ダヴァロスという指揮者は、最近のベテラン指揮者によく聴かれるような〈録音による演奏〉に対する明確な技術論めいたものの確立に背を向けたところがある。
 ダヴァロスの経歴については別項で詳しく紹介するが、1930年生まれの彼がロンドンでの演奏会でセンセーショナルな注目を浴びた時には、既に58歳になっていたという経歴の指揮者だ。そのため、1987年の〈遅すぎたCDデビュー〉以降のあわただしい数年間のCD録音でのダヴァロスは、一筆書き的で強靱な意志力を感じさせながらも、繰り返し鑑賞するというCDに残すには、強引な力わざが、細部の動きを曇らせたり、全体のバランスから大きく逸脱してしまうといった結果を生んだものもあった。
 これまでのダヴァロスの録音の出来、不出来が一定していないのは、ひとつには、この〈録音による演奏〉の技術論や方法論の確立が成されていないということがあっただろう。その意味ではダヴァロスは、現代の演奏家としては稀な、録音に不慣れな、ライヴ型の指揮者の可能性があるが、それは実演に接して見なければわからない。
 だが、そのダヴァロスも、93年のメンデルスゾーンの録音あたりから、細部の音型の動きや表情に、明瞭で安定したものが聴かれるようになった。
 このCDは、そうした過渡期の記録だ。ダヴァロスが、そのスケールの大きな力強さを少しも失うことなく、客観性を獲得しつつあるのがうれしい。《宗教改革》では疑問のある聴き手も、《ワルプルギス》では、ダヴァロスの熱気あふれる音楽のほとばしりに、現代では忘れかけていた音楽の本来的な力を思い出し、ダヴァロスに〈最後の巨匠〉と呼ばれる資格があることを改めて知るだろう。
 《宗教改革》におけるダヴァロスの演奏の問題点とは、どのようなものだろうか?
 序奏での深い呼吸での開始、大きくせり出してくる音楽のスケールの雄大さ、充実した低域の力。抜けるような金管群の輝かしさから、決然と開始される主部。先へ先へと行こうとする意志も力強い。だが、どうしても全体に上滑りしている印象がぬぐえないのだ。
 せっかちで一本調子と受け取られても仕方ないのは第2楽章だろう。終楽章での旋律の折重なりを無視した怒涛の進行も、バッハ的な各声部の動きに無頓着だ。ともかく、大胆不敵な演奏で、四楽章で構築された交響曲であることさえ忘れてしまう。臆病でないのは良いのだが、もう少し慎重さがあっても良いと思うのは、私だけではないだろう。
 ダヴァロスは、この曲の最近の演奏が失っている〈ドラマの復活〉を達成しようとしているのかも知れないが、かなり乱暴な演奏ではある。
 一方の《ワルプルギス》は、序曲の部分から、大胆な力強さを持ちながらも、ずっと各声部の混濁が少なく、リズムの動きも明瞭に捉えられている。
 そして、迷いのないダヴァロスの率直な表現によって、この作品での「真夏の夜の夢」に共通するメンデルスゾーンの旋律の、純心無垢で妖精的な動きの面白さがストレートに表現されている。細かなパッセージをくっきりと定位させ、各楽器間の響き合いも充実している。
 特筆すべきは、ダヴァロスの物怖じしないアプローチが、この不思議な異教徒たちの祝宴を、情景的な表現から一歩も二歩も踏み込み、異教徒たち自身の内から湧き上がる興奮そのもののように響かせることとなっていることだ。特に第5曲から第6曲にかけての盛り上がりは、素晴らしい。
 こうした主情的な表現は、叙景詩的で客観的な演奏が多いこの曲に、新たな視点を与えるものと言えるだろう。メンデルスゾーンの世界を根底から揺さぶる、極めて個性的なアプローチの演奏だ。

■ダヴァロスの録音歴とカルヴァーハウス
 前述したようにダヴァロスは、1930年生まれというベテランと呼ばれる年齢でありながら、CDデビューは遅く、1987年が初録音で発売が翌88年とされている。日本でのCDデビューは更に5年後の1993年秋、ダヴァロスが63歳の時だった。
 それ以来、ダヴァロスの演奏はイギリス・ASV原盤によるCDが、日本でも続々と発売された。
 これまでに「ワーグナー管弦楽曲集」4枚、「ブラームス交響曲・管弦楽曲集」4枚、ブルックナー「交響曲第7番」、シューベルト「交響曲第9番」、フランク「交響曲 ニ短調」/ショーソン「交響曲 作品20」、ヨアヒム・ラフ「交響曲第3番《森の中で》」ほか、「マルトゥッチ交響曲・管弦楽曲・協奏曲全集」4枚、「クレメンティ交響曲・管弦楽曲・協奏曲全集」3枚の合計19枚が発売された。かなりの量であり、また、意欲的な内容だが、これが、英ASVから発売されたダヴァロスの録音のすべてだ。これらは1991年までに録音が完了している。
 その後、どういう事情があったのか詳細は不明だが、ダヴァロスの録音の英ASVからの発売がなくなった。英ASVの当時の英文解説に「メンデルスゾーン交響曲・管弦楽曲全集」の録音開始が記載されているから、これは、計画がスタートしてからの変更と考えてよいだろう。また、「交響曲第5番」のみが1990年録音で、録音場所もASV時代と同じ聖バーナバス教会となっているのも、そのためと思われる。その他のメンデルスゾーン作品は全て1993年にワトフォード・タウン・ホールで録音されている。
 担当のプロデューサーはASVからIMPに発売が移っても一貫してブライアン・B・カルヴァーハウスで、ダヴァロスとはデビューCD以来の関係だ。これまでのダヴァロスの全てのCDをプロデュースしている。
 このカルヴァーハウスというプロデューサーはASV所属ではなくフリーだが、ASVとはチェクナヴォリアン/アルメニア・フィルハーモニーの録音を現在でも継続している。かなり個性的な企画を手掛ける人物で、いわゆる〈異才好き〉のようだ。過去のものでは1970年録音の英EMIのベルグルンド指揮/ボーンマス交響楽団/ヘルシンキ大学合唱団によるシベリウス「クレルヴォ交響曲」でも、その名前を見かけた。イギリス系のプロデューサーと思われるが、詳しいことはわかっていない。
 ダヴァロスの一連の録音は、ロンドンでのセンセーショナルなデビューによって、英ASVがCD発売に踏切ったと言われていたが、むしろ、カルヴァーハウスによって推進されたものだった可能性が高い。
 なお、90年録音のメンデルスゾーン「第5番」を結果的にASVで発売延期としたまま、翌91年に「クレメンティ全集」を完成させた後のダヴァロスは、カルヴァーハウスのプロデュースで、リストの「ファウスト交響曲」を1992年にハンガリー国立交響楽団と録音し、これが英IMPから発売された。現在ダヴァロスの録音では唯一の、フィルハーモニア管弦楽団以外とのものだ。
 このほか、英IMPでは、既に発売している「メンデルスゾーン全集」のほか、スメタナ「連作交響詩《わが祖国》」が録音を完了。また、シューマン「初期管弦楽曲集」も予定されているようだ。これらのダヴァロス指揮による英IMP発売のCDは、順次、日本クラウンから発売されることが決定しているという。
 以下にダヴァロスの経歴を簡単に記そう。
 ダヴァロスは1930年にナポリの名家に生まれ、12歳で音楽を学び始めた。作曲をレナート・パロデイに、ピアノをヴィンセンツォ・ヴィターレに習い、また、長じてはナポリ大学で哲学も修めている。
 ナポリのサン・ピエトロ音楽院の作曲科を首席で卒業し、その後、指揮をパウル・ファン・ケンペン、フランコ・フェラーラ、セルジュ・チェリビダッケに学んだ。まもなくイタリア各地の歌劇場での指揮活動を開始し、さらに、ルガーノ、ケルン、シュトゥットガルト、リヨンなどでの演奏も行ったが、むしろ活動の中心は作曲であり、また現在は、ナポリ音楽院の作曲の教授でもある。
 なおダヴァロスの主要作品として、「交響曲第1番」は北ドイツ放送交響楽団によりハンブルクで、「夜の讃歌」はヘッセン放送交響楽団(ハンス・ウェルナー・ヘンツェ指揮)によりフランクフルトで、「オーケストラのためのエチュード《Qumran》」はスカラ座管弦楽団(エリアフ・インバル指揮)によりミラノで、それぞれ初演されている。

■演奏曲目についてのメモ
●交響曲第5番ニ短調《宗教改革》作品107
 1829年から30年にかけて作曲されたメンデルスゾーンにとって2番目の交響曲だが、出版が遅れたため第5番となり、作品番号も後になった。(メンデルスゾーンの交響曲は、1、5、4、2、3番の順に作曲された。)
 題名の《宗教改革》は、もともと1830年に開催が予定されていたマルティン・ルターの宗教改革300 年記念式典のための作品として依頼されたため。この式典がカソリック派の反対によって中止されたので、初演は1932年になってから行われている。
 全曲は4楽章からなり、第3、第4楽章は続けて演奏される。
 第1楽章 アンダンテ~アレグロ・コン・フォコ 典礼風の序奏とソナタ形式の主部で構成されている。序奏の終わりには、金管に先導されて、新教の礼拝に用いられる「ドレスデン・アーメン」が静かに奏される。
 第2楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ 三部形式のスケルツォ楽章。中間部のトリオのオーボエが優しく美しい。
 第3楽章 アンダンテ 終楽章への序奏の役割も持つ悲しみを湛えた旋律が静かに終わると、木管群による目覚めの合図で終楽章が開始される。
 第4楽章 アンダンテ・コン・モト~アレグロ・ヴィヴァーチェ~アレグロ・マエストーソ  序奏部で、ルターが作曲したとされるコラール「我らが神は、堅き砦」が奏されるが、この旋律は、壮麗なコーダでも現れて高らかに新教の勝利を歌い上げて終わる。

●カンタータ《最初のワルプルギスの夜》作品60
 ゲーテのテクストによるカンタータ。作曲にあたり、メンデルスゾーンは若干の手を加えているが、ほぼ原テクストに従っている。 ドイツには古くからの言い伝えで、毎年4月30日の夜には魔女たちがハルツ山地の最高峰ブロッケン山に集まり、祝宴を繰り広げるとされている。ゲーテは、この言い伝えの実像を、異教時代のドイツの僧侶たちが、キリスト教の圧迫から逃れて、山中で悪魔の仮面に身を隠し、古式に則り古代ゲルマンの神への祈りを捧げる儀式と捉え、この「劇的バラード」を書いた。ゲーテはこの同じ素材を、「ファウスト」第1部にも用いている。
 メンデルスゾーンは、12歳の時に作曲の師ツェルターに伴われてゲーテに会っている。大文豪ゲーテは72歳だった。若い作曲家と老文豪の二人の交際は、お互いに芸術的な刺激を与えあい、ゲーテの死まで続いた。
 ゲーテは、このバラードの音楽劇化を望みツェルターに依頼したが、果せなかった。結局メンデルスゾーンが1930年に着手し、32年に完成したが、完成の数カ月後にゲーテは、その初演を聴くことなく世を去った。初演は1833年1月に行われている。
 父の代に改宗しているメンデルスゾーンは、自らの内に流れるユダヤの血を終生忘れることがなかったと言われる。メンデルスゾーンにとって、宗教的忍従の果ての純粋な祈りの美しさとも言うべきこの不可思議なゲーテの世界への作曲は、特筆すべき事柄であったようだ。メンデルスゾーンは友人への手紙で、「上演に適した作品とは思っていません。しかし、私はこの作品が大好きなのです」と書いているという。
 全曲は、序曲と9曲からなり、管弦楽に4人の独唱者と合唱が加わる。個々の楽曲に題名はないが、便宜的に、それぞれの詩の第1節を代用することが多い。ストーリー的展開は、歌詞をたどるだけで十分理解できると思うので省略するが、若干の注記を加えよう。
 配役中の〈ドルイド僧〉とは古代ゲルマンの僧侶のこと。ここでは異教徒だ。〈祭司〉とあるのは、ドルイド僧たちの長と考えればよい。そして、キリスト教徒は、ここでは、彼らに騙される迷信深く無理解な者とされていることを忘れてはならない。
  
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中島啓江が歌う「ソング・オブ・ジ・アース」=「大地の歌」

2009年08月21日 16時06分47秒 | ライナーノート(日本クラウン編)



 以下は、2004年9月29日に発売されたCDアルバムのために書き下ろしたライナーノートです。中島啓江がクラシック音楽のメロディに自由に日本語の歌詞を付けて歌った歌を中心にしたアルバムで、「東西の出会い」を基本テーマに、バックミュージシャンにアジアの様々な楽器を奏でるアーティストを配するという、とても個性的なコンセプトのアルバムでした。相当に広範囲にわたって選曲されていて、しかもアレンジのスタイルも、使用楽器も、民族性も、何もかもが様々でしたから、曲目解説にかなり神経を使いましたが、興味深い仕事でした。他のアーテイストによる、クラシック音楽のポピュラー音楽への転用例も、一応は押さえて執筆したつもりです。
 なかなか面白いアルバムです。まだ廃盤にはなっていないと思いますので、ご興味を持たれた方は「アマゾン」などで、ぜひご購入ください。
 
 なお、このアルバムのクラシック曲7曲は、全部を中島の作詞で歌う予定でしたが、ヴェルディの「行け、金色の翼に乗って」と、マーラー「大地の歌」の歌詞が、担当ディレクター氏の納得いくものにならず、ヴェルディは改作、マーラーは全く新しい歌詞を私が書きました。私が時折使っているペンネーム、久坂圭(くさか・けい)の名前で掲載し、JASRACにも登録してあります。


■『ソング・オブ・ジ・アース
  ――ビューティフル・ミュージック・フロム・クラシック』

《収録曲》
1.ソング・フォー・ユー
~「悲愴ソナタ」 第2楽章(ベートーヴェン)より
2.子守歌
~「≪カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲(マスカーニ)より
3.フォーリン・ラブ
~「ダッタン人の踊り」(ボロディン)より
4.亡き王女のためのパヴァーヌ
~(ラヴェル)より
5.愛燦々
(作詩、作曲:小椋 佳)
6.恋の病
~「私を泣かせてください」(ヘンデル)より
7.友よ、乾杯
~「行け、わが思いよ、金色の翼にのって」(ヴェルディ)より
8.貝殻節
(鳥取県民謡)
9.ソング・オブ・ジ・アース
~「大地の歌」(マーラー)より
10.この地球(ほし)に生まれて
(作詩、作曲:田中洋太)

《ゲスト・ミュージシャン》
・孟(モン)仲(ジュン)芳(ファン)(中国琵琶)…4
・中川博志(バーンスリ)…8 ・チェン・ミン(二胡)…2
・藤原道山(尺八)…9
・伊藤多喜雄(民謡)…8
・山中信人(津軽三味線)…3,6
・宮西希(二十絃箏)…5
・菅野朝子(ヴァイオリン)…1,7
・平野知種(チェロ)…10

■以下は《ライナーノート》です。

《中島啓江の〈ワイドな〉世界の魅力》

 ミュージカル界のトップスターの一人として大活躍の中島啓江は、そのスタートがオペラ歌手だったことは、広く知られています。ジャンルにとらわれず、ワイドに多くの歌に挑戦し、もう10年以上も続いている銀座博品館劇場でのリサイタルでも、オペラの有名曲から、ポップスのナンバー、日本の流行歌、童謡まで、幅広く披露して客席を沸かせています。
 今回のCDアルバムは、そんな中島啓江が、「ほんとうにワイドな世界はこれだ!」とばかりに聴かせてくれるもので、彼女の音楽が、ただ単純に、いろいろのジャンルを歌いこなせるといったものでないことを、理屈抜きで納得させてくれる傑作です。
 コンセプトは〈イースト・ミーツ・ウエスト〉ですが、東洋と西洋の出会いが、こんな形に融けあって音楽的に表現されるのは初めてのことでしょう。今話題のアジアの民族楽器を駆使する豪華なゲストミュージシャンが加わり、サウンド的にもリズム的にも様々の試みがなされ、クラシックの名曲には新しくオリジナルの歌詞が与えられるといった具合で、どこか聞き覚えのあるそれぞれのメロディが、啓江ワールドの中で大変身を遂げています。
 「音楽に国境はない」とはよく言われる言葉ですが、ほんとうは〈国境がある〉のです。国としての境はなくても、民族の違いは、しっかりとそれぞれの音楽世界となって、独自のものを培っています。けれど、それを、自由自在に交流させて大きくひとつに包んで新たな命を生み出す――。そんな大それた挑戦を可能にしたのが、中島啓江の〈ワイドな〉音楽性なのです。

●それぞれの曲目について
1)「ソング・フォー・ユー」
 軽やかなピアノの旋律とヴァイオリンに導かれた後、ゆるやかに歌い出される優しいメロディは、大作曲家ベートーヴェンが残した青春時代の傑作「ピアノ・ソナタ第8番《悲愴》」の第2楽章です。このメロディにビリー・ジョエルも英語で歌詞を付けて、「今宵はフォー・エヴァー」(原題:This night)という曲名で歌ってヒットしました。このCDアルバムの歌詞は、もちろんそれとは別の中島啓江のオリジナルです。優しさの中にどこか力強さがあるのは、やはりベートーヴェンの作曲だからでしょうか? 菅野朝子のヴァイオリンも、豊かに雰囲気を盛り上げています。

2)「子守歌」
 長く静かな前奏が続きます。チェン・ミンが中国の楽器、二胡でメロディをひととおり奏でた後、中島啓江が歌詞を付けて歌います。これは、イタリアの作曲家マスカーニの有名なオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎の騎士道)』の間奏曲のメロディです。「間奏曲」とは、幕と幕の間にオーケストラだけで演奏される音楽ですが、あまりの美しさに、今では、この部分だけがコンサートで取り上げられたり、映画や演劇でも、場面を盛り上げるメロディとして、しばしば使われています。

3)「フォーリン・ラブ」
 原曲は『イーゴリ公』というオペラの中の「ダッタン人の踊り」という舞踏場面の音楽で、ロシアの作曲家ボロディンの作品です。合唱も加わる壮大な曲で、後半は荒々しく情熱的な踊りが繰り広げられますが、前半部分のエキゾチックなメロディが特に親しまれて、多くのアーティストが演奏しています。エレキギターサウンズの元祖ベンチャーズも「パラダイス・ア・ゴーゴー」(原題:Ten seconds to Heaven)という曲名で演奏しましたが、このメロディが多くのポップスファンにも親しまれるようになったのは、何といってもトニー・ベネットが歌った「ストレンジャー・イン・パラダイス」からでしょう。このCDアルバムでは、それが中島啓江の斬新な詞と独自のリズムですっかり姿を変えています。曲の冒頭から印象的な音色を聴かせる、中川博志によるインド・ネパールの管楽器バーンスリも聞きものです。

4)「亡き王女のためのパヴァーヌ」
 ドビュッシーと並ぶフランス近代の大作曲家ラヴェルは「ボレロ」が有名ですが、この「亡き王女のためのパヴァーヌ」も、人気曲のひとつです。「パヴァーヌ」とは古代の舞曲のひとつ。誰か特定の王女のために作曲されたわけではなく、気品のある静かなメロディに似合うものとして、作曲者自身が命名した題名と言われています。原曲はピアノ・ソロですが、ラヴェルが自分で編曲したオーケストラ曲も広く知られています。ここでは、歌詞のない中島啓江の歌と、孟仲芳の弾く中国琵琶の音色でじっくりと聴かせます。

5)「愛燦燦」
 シンガーソングライター、小椋佳が、戦後日本を代表する歌手、美空ひばりの〈芸能生活40周年記念曲〉として作詞作曲した作品です。当時、ひばりは私生活の面で多くの不幸を抱えていましたが、この曲を自身への人生讃歌として歌い上げたと言われ、大ヒットとなりました。その後、小椋自身もこの曲をレコーディングしましたが、ここでは、中島が自身の人生を顧みての共感からか、ひときわ光る歌唱を聴かせ、宮西希が十二弦箏で彩りを添えています。

6)「恋の病」
「ハレルヤコーラス」で有名なヘンデルは、CMソングにもなった「オンブラ・マイ・フ」が歌われる『セルセ』など、古典オペラをたくさん残していますが、中川博志のバーンスリを加え、「恋の病」というタイトルを付けて中島啓江が一新したこの曲も、ヘンデルの作品です。『リナルド』というオペラの中で歌われるもので、原曲のタイトルは「私を泣かせてください」(「わが泣くままに」)です。つい先頃、人気テレビドラマの主題歌としても、松本隆作詞で「涙のアリア」とタイトルを付けられて歌われています。

7)「友よ乾杯」
 『アイーダ』や『椿姫』など数々のイタリアオペラの傑作を残したヴェルディですが、オペラ『ナブッコ』の終幕で歌われる合唱曲「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」は、その歌詞が愛国的に解釈されて、第二のイタリア国歌とまで言われ、愛唱されています。ここでは、それに独自の歌詞を与えて中島が歌っています。ヴェルディ自身は、オペラ『椿姫』の中の「乾杯の歌」が有名ですが、まさか、この「行け、わが思いよ……」が乾杯の歌になってしまったなんて、ヴェルディが知ったら、さぞ驚くことでしょう。菅野朝子のヴァイオリンも、軽やかに踊るように加わります。

8)「貝殻節」
 鳥取県を代表する民謡「貝殻節」は、数ある日本の民謡の中でも、ことさらに様々の音楽ジャンルのミュージシャンに取り上げられ、アレンジされています。ロックギターやジャズピアノ、パラパラの人気曲にまでなっていますが、ここでは民謡歌手伊藤多喜雄の歌唱に、ピアノがリズムを刻み、山中信人の津軽三味線が加わり、さらに中島が即興的に声で加わるという形で、独自のサウンド世界を実現しています。様々な歌詞が与えられて日本海沿岸の各地で歌われていましたが、浜村温泉のために昭和7年に虚子門下の俳人松本穣葉子が作詞した歌詞で広く全国に知られるようになりました。このCDでは、賀露方面で歌われている歌詞を元にしています。

9)「ソング・オブ・ジ・アース」
 19世紀末のウィーンで活躍した大作曲家マーラーは、当時のヨーロッパに広まっていた東洋思想ブームと、自らの人生観との接点として、中国の詩人、李太白、孟浩然、王維らの詩のドイツ語訳詩を取り入れた特異な交響曲『大地の歌』を晩年に書きました。その最終楽章「告別」の主要旋律を編曲したものが、この「ソング・オブ・ジ・アース(大地の歌)」です。久坂圭の詞は、このアルバムのために新たに書かれたもの。藤原道山の尺八が加わり、中島の歌唱力で原詩の東洋的な諦念の思想が歌い上げられています。

10)「この地球(ほし)に生まれて」
 星空のコンサートともいうべき魅惑のサウンドで人気のポップスオーケストラ、銀河管弦楽団の主宰者、田中洋太の作詞作曲によるこの曲は、異色の沖縄出身シンガー、普天間かおりが歌って、インディーズ・ポップスの名曲として知られています。〈イースト・ミーツ・ウェスト〉をコンセプトにしたこのアルバムの最後を飾るに相応しい曲です。平野知種の弾くチェロとの語らいで、大らかな心を持って遥かな宇宙の彼方から地球を眺めるような、豊かな気分に浸れることでしょう。


●演奏者プロフィール

・中島啓江(なかじま けいこ)
 鹿児島県出身。昭和音楽短期大学声楽科卒業。ディプロマコース・オペラ専攻科修了後、藤原歌劇団に入団。春平紀美、故砂原美智子、マルチェラ・ゴヴォーニ各女史らに師事。
 1979年以降、多数のオペラに出演したが、1985年に「マック・ザ・ナイフ」でミュージカルに初挑戦。1986年には、初のソロ・コンサート「天高くオペラ肥ゆる秋」を青山円形劇場にて行う。1987年、宮本亜門演出の「アイ・ガット・マーマン(I GOT MERMAN)」で一躍、脚光を浴び、以後、ジャンルにとらわれない幅広い活動が続いている。1994年3月30日~4月10日、銀座博品館劇場でリサイタル「夢であいましょう/第1回」開催。同リサイタルは今年3月に11回目を迎えている。
 テレビではNHK教育にて2003年よりスタートした「夢りんりん丸」にキャラクター『ビッグママ』としてレギュラー出演中。子供を対象に歌・踊り・朗読と楽しいパフォーマンスは中島の新しい一面を覗かせている。
 CD、著書多数。

・孟 仲芳(モン・ジュンファン)
 中国琵琶奏者。中国音楽家協会会員。天津音楽大学助教授。中国で今までに行われた唯一の全国ビーパ(中国琵琶)コンクールである「上海之春」で国家文化省演奏優秀賞を受賞。「ART CUP」国際民族楽器コンクール入賞。1991年 国費研究員として来日、宮内庁式部職楽部楽師のもとで日本雅楽を研究。95年から千葉大学客員研究員。97年から紀尾井ホール、銀座王子ホール、東京文化会館などで定期リサイタルを開催。97年、2000年 文化庁芸術祭に出演。新人賞を受賞。フランス、イタリア、ベルギ-、オランダ他各地の音楽祭やコンサ-トでも国際的な活躍を続けている。

・中川博志(なかがわ ひろし)
 バーンスリ奏者。1950年、山形生まれ。インドのバナーラス・ヒンドゥー大学音楽学部音楽理論学科に留学。帰国後、バーンスリ演奏家として内外で演奏活動を行っている。これまで、ソロCD『The Breeze of the Day』、『January 17, 1995』を出している。

・チェン・ミン
 二胡奏者。中国蘇州生まれ。上海にて音楽教育家の父と越劇女優の母のもとに育ち、6歳の頃より父親から二胡を教わる。その後上海越劇院オーケストラでメインの二胡奏者として活躍。1991年来日。97年に共立女子大学を卒業し、日本での本格的な演奏活動を始める。東芝EMIよりCDを多数発売。一連の中国音楽、二胡ブームの火付け役となり、「第17回日本ゴールドディスク大賞」特別賞受賞。

・藤原道山(ふじわら どうざん)
 10歳より尺八を始める。人間国宝 山本邦山に師事。東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業、同大学院音楽研究科終了。在学中には安宅賞受賞、御前演奏を務める。2001年コロムビアより「UTA」でCDデビュー。現在、都山流尺八楽会師範。都山流邦山会、竹の会、日本三曲協会会員、胡弓の会「韻」、「曠の会」同人。既成の尺八イメージを変える自由な発想でジャンルを超えた音楽活動を展開中。

・伊藤多喜雄(いとう たきお)
 北海道苫小牧出身。民謡界の枠にとらわれず「民謡」の復活へ向けて、独自に活動の場を切り開いてきた。TAKIOBANDを結成、活動し、一方、坂田明(サックス奏者)、小室等(シンガー・ソングライター)など様々なジャンルのミュージシャンとも共演し、積極的にライブ活動を展開。傍ら「唄さがしの旅」を重ね、生活に基づく唄を訪ね歩く。海外での公演もイギリス、イスラエル、トルコ、エジプト、パラグアイ、チリ、アルゼンチンなど世界各地で行っている。<東京の夏>音楽祭をはじめ、国内外で音楽祭の出演およびプロデュースも多数。(財)日本民謡協会の民謡功労賞を受賞。

・山中信人(やまなか のぶと)
 1974年茨城県生まれ。13歳のときに、母の影響を受け、津軽三味線を始める。その後、斯界の第一人者の山田千里に師事。津軽三味線全国大会で入賞、優賞する。伊藤多喜雄&TAKIOBANDのメンバーとして国内外で活躍。

・宮西 希(みやにし のぞみ)
 母の手ほどきを受けて筝を始め、3歳で初舞台を踏む。東京芸術大学を卒業後、日本、中国、韓国の3カ国の伝統楽器奏者によって構成される楽団「オーケストラ・アジア」の正式メンバーとして海外公演等を行う。現在、主に用いている二十絃箏に出会ってから、和音階と西洋音階との隔たりをなくして、ジャズ、ロック、ポップスなどポピュラー・ミュージックとの融合を表現。音楽的にもグローバルな活動を展開している。2002年秋にデビューアルバム「Steps to the Moon」、2003年夏に2ndアルバム「ちょっとひとりKOTO」を発売。ライブ活動のほか、ラジオのパーソナリティーまで、幅広い音楽活動を精力的に行っている。

・菅野朝子(かんの あさこ)
 ヴァイオリン奏者。京都府出身。全日本学生音楽コンクール大阪大会第2位、日本演奏家コンクール入選、YBP国際音楽コンクール一般の部第3位。2002年東京文化会館新進音楽家オーディション弦楽部門合格、同デビューコンサート出演(大ホール)。国内・海外での講習会に積極的に毎年参加、研鑚を積み、2003年東京芸術大学を卒業、その後フリーで活動。

・平野知種(ひらの ちぐさ)
 チェロ奏者。桐朋学園附属「子供のための音楽教室」にて3歳よりピアノを、9歳より、チェロを始める。早稲田大学理工学部卒業、桐朋学園大学音楽学部研究科修了。室内楽で蓼科音楽祭賞受賞。新アドニス弦楽四重奏団メンバー。ソロ、室内楽で活動する他、チェロの曲を中心にした「ちいさな音楽会」、ポピュラーな曲を含めた「おしゃれコンサート」など、楽しく親しみ易いクラシック・コンサートを数多く企画している。






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オペラ歌手、岡村喬生の歌う「昭和の流行歌」

2009年07月22日 15時45分27秒 | ライナーノート(日本クラウン編)
 以下は、1999年7月に、日本クラウンから発売されたCDアルバム『知床旅情/洒落男~岡村喬生、昭和を歌う』のライナーノートとして執筆した原稿です。社会世相の移り変わりをかなり意識して書きました。これも、私が最近クラシック音楽よりも興味深く取り組んでいる「日本の近代世相史と音楽との関わり」への視点が、ベースにあります。曲目解説も、もちろん私のオリジナルです。今、読み返すと、その後の調査で判明したこと、書き加えるべき情報などもありますが、とりあえず、CD発売時のまま掲載します。



■オペラ歌手岡村喬生と、昭和の流行歌

 国際的なオペラ歌手として広く知られる岡村喬生(昭和六年、東京生まれ)が、初めて、〈日本の流行歌〉をうたってレコーディングした。いわゆるクラシック畑でも、歌曲を主なレパートリーとする歌手による〈流行歌〉録音は、これまでにもいくつかあったと思うが、岡村のようにヨーロッパの伝統あるオペラ・ハウスで本格的にオペラに取り組んできた歌手によるこうしたアルバムはめずらしい。
 選曲にあたっては、〈岡村が歌いたいもの〉を唯一のよりどころとして決められたというが、期せずして、昭和という時代を、足早に振り返るものとなった。これらの歌の題名を眺めているだけで、それぞれの時代を懐かしく思われる方も多いと思うが、これはまた、日本に生まれ、一時は新聞記者を目指して早稲田大学に学んだが、音楽家としての活動への夢が芽生え、日本を離れローマ聖チェチリア音楽院に留学、二十歳代の終わり以降、長い滞欧生活を続けて国際的評価を得るに至った岡村の〈日本のうた〉でもある。
 戦前から戦後まもない頃までの歌は、岡村の心の片隅に置かれたまま、岡村とともに海を渡っていったはずだが、昭和三十年代から五十年代の歌が町に流れていた頃、岡村はそのほとんどをヨーロッパで過ごしていた。岡村は、『有楽町で逢いましょう』のレコードも、ローマ留学中に、在ローマ大使の私邸で聞かせてもらったのだという。そうしたことに端的に表れているように、岡村にとって、これらの歌のいくつかは、それぞれの歌が生まれた時に同じ日本の空気を吸って聞いていたのではない。私の勝手な想像だが、曲によっては、オリジナルの歌唱を聞いていないものもあるのではないだろうか?
 このアルバムの魅力は、それぞれの歌のオリジナルの味わいにおもねることなく、オペラ歌手岡村喬生が、自身の音楽観を高々と掲げて聴かせてくれるところにある。思いもかけず大きなドラマを内に秘めて歌われる『誰もいない海』『知床旅情』『北国の春』『芭蕉布』などは岡村ならではの名唱だろう。
 『北帰行』では前田憲男の名アレンジと共に、かつての歌声喫茶の愛唱歌が、まったく姿を変えて歌われる。『雪の降る街を』の独特のテンポによる個性的な歌唱も、前田のアレンジが、その味わいをよく表現している。オペラ歌手としての芝居達者さが最高度に発揮されているのが『洒落男』。ここでも前田のアレンジは、昭和初期モボ・モガ時代を髣髴とさせるワルトトイフェルのワルツの一節を引用したりして、なかなか凝った仕上りだ。
 フォーク系の歌手によって大事に歌い継がれてきた『死んだ男の残したものは』や『さとうきび畑』が、これほどにスケール大きく、激しいドラマ性をみなぎらせて歌い上げられたのを、私は聞いたことがない。岡村の独自の世界が持っている説得力は、一気に聴かせて巨大な深い沈黙を聴く者に残して終える。
 このCDアルバムは、昭和と共に生きた日本の代表的オペラ歌手が、日本人としての自身の心の内に生き続けた〈昭和のはやり歌〉を、彼自身が信じ続けてきたままに歌い上げたものだ。真の意味での〈個性〉が持っている力を、改めて知るアルバムである。

■曲目解説

◎有楽町で逢いましょう
(佐伯孝夫作詞 吉田正作曲)
 昭和三十二年(一九五七年)十一月新譜としてビクターから発売された。雑誌『平凡』に連載されていた同名ラブ・ストーリーの大映による映画化の主題歌としてタイアップ制作された。歌ったのはフランク永井で、彼の代表作となった。
 フランク永井は、朝霞の米軍キャンプのクラブ・シンガー出身で、ビクターにスカウト後ジャズ・ソングを歌っていたが、この年の三月『東京午前三時』で歌謡曲に転向。続いて十月新譜『夜霧の第二国道』とヒットが続いていた。洒落た都会生活への憧れが日本中を蔽っていた時代に生まれたフランク永井の歌は、都会生活を織り込んだ内容にマッチしたあか抜けた歌い方とともに〈都会派歌謡〉のはしりとなり、また〈魅惑の低音〉と讃えられた歌声は、低音ブームの火付け役ともなった。この歌が生まれた翌年、昭和三十三年には、テレビの普及率が、遂に百万台を突破した。

◎誰もいない海
(山口洋子作詞 内藤法美作曲)
 初レコードは昭和四十三年九月にCBSソニーから大木康子の歌で発売されたが、その時は『野火子』という曲のB面だったため、ほとんど話題にならなかった。もっとも作曲はそれ以前に行われており、作曲者の内藤と結婚していた宝塚出身の歌手越路吹雪が気に入ってリサイタルなどで歌っていた。その後、山室英美子、芥川澄夫のデュエットによるトワ・エ・モアがレコードを発売し、昭和四十五年頃には、和製フォーク、グループ・サウンズ全盛期のなかで若者の歌として大ヒットした。このため、トワ・エ・モアの歌と思われているふしもあるが、この時期に越路吹雪もレコーディングしている。

◎上を向いて歩こう
(永六輔作詞 中村八大作曲)
 水原弘が歌って第一回レコード大賞を受賞した『黒い花びら』以来、数年間にわたって数々の斬新な感覚の歌で日本の歌謡曲に新しい息吹を与え続けた作詞作曲コンビの代表作。この時期の中村の作曲には、中村の主宰する工房に無名時代からアルバイトで出入りしていた作曲家武満徹が深く関与していたとも言われるが、六輔・八大のコンビによって世に出た作品が日本の歌謡史に残した影響は大きい。歌唱の坂本九とともに、6・8・9トリオとまで言われた。
 『上を向いて歩こう』はNHKのバラエティ番組『夢であいましょう』の〈今月の歌〉として昭和三十五年(一九六〇年)十月に発表され話題になり、翌年、東芝レコードから発売された。後に『スキヤキ・ソング』のタイトルで全米ヒット・チャートでトップにまで昇りつめ、海外でも百万枚を超すミリオン・セラーとなった。

◎雪の降る街を
(内村直也作詞 中田喜直作曲)
 昭和二十七年度に一年間放送されたラジオドラマ『えり子とともに』は大好評のうちに放送を終えたが、ドラマの挿入歌として、台本作家と作曲担当者によって作られた歌に問い合せが殺到。翌昭和二十八年二月にNHKのラジオ歌謡として再登場、四月新譜として高英男の歌唱でキングレコードから発売されたのが『雪の降る街を』だった。テレビ放送が日本で開始されたのが、この年、昭和二十八年(一九五三年)の二月だったが、国民の大半はまだラジオが日々の生活の娯楽だった。
 高英男は、当時パリから帰国したばかりの唯一の男性シャンソン歌手として話題になっていた。『雪の降る街を』に一ヵ月先立つ三月新譜は名高いシャンソンの名曲『枯葉』だった。オリジナルのSPレコードでは、主人公が雪の街中を歩く場面での挿入曲だったということがことさらによくわかるほど、ゆっくりとリズムを刻む長い間奏が入り、三番の歌詞は歌われていない。

◎知床旅情
(森繁久弥作詞・作曲)
 俳優、森繁久弥が自身の森繁プロ第一回制作映画『地の涯に生きるもの』で北海道に長期ロケをした昭和三十四年(一九五九年)に、即興的に生まれた『オホーツクの舟歌』が元曲。昭和四十年(一九六五年)八月に『知床旅情』と改めて、森繁自身の歌でコロムビアから発売された。
 その後、フォークソング・ブーム時代の四十四年には、加藤登紀子がフォークソング調に歌って空前の大ヒットとなった。

◎酒は涙か溜息か
(高橋掬太郎作詞 古賀政男作曲)
 昭和六年(一九三一年)十月新譜としてコロムビアから発売された。松竹映画『想い出多き女』の主題歌だった。歌唱の藤山一郎は同年七月の『北太平洋横断飛行マーチ』がデビューだが、実質的には、この『酒は……』がデビューと言ってよいだろう。作詞、作曲者は共にこれがデビュー作で、作詞の高橋は当時函館新聞の記者だった。
 これに先立つ昭和三年には時雨音羽作詞中山晋平作曲の『出船の港』が藤原義江の歌で、また野口雨情作詞中山晋平作曲の『波浮の港』が佐藤千夜子の歌でビクターから発売され、晋平ぶしが歌謡界をリードしていた。コロムビアの古賀メロディは、そうした状況に対抗するものとして、新鮮な魅力をもって迎えられた。録音機材の急速な性能向上もあって、藤山の歌唱法も、それまでの声を張り上げるものではなく、ソフトに語りかけるという新しいものだったことが斬新さを倍加した。世の中は不景気が進行し、人身売買や一家心中が話題になり、この年の九月には満州事変が勃発という暗い世相の中での発売だった。

◎北帰行
(宇田博作詞・作曲)
 昭和三十年代の初頭に東京・新宿歌舞伎町の「灯」から始まった〈歌声喫茶〉運動は、またたく間に全国に広がっていった。アコーデオンを弾くリーダーに導かれて、店内の客が歌詞の冊子を手に取り、あるいは肩を組んで合唱することで、当時の多くの学生やサラリーマンが青春を謳歌していた。
 歌声喫茶がピークに達した昭和三十六年(一九六一年)には、歌声喫茶での定番曲のレコードが各社から続々と発売された。この『北帰行』もそのひとつで、歌唱は、ダーク・ダックスと並んで歌声喫茶ファンの人気者だったボニー・ジャックスにより、キングレコードから発売された。作詞作曲は作者が学生時代の昭和十五年に行われているが、その後歌い継がれてきたものが、歌声喫茶運動のなかで結実したと言えるだろう。

◎影を慕いて
(古賀政男作詞・作曲)
 昭和歌謡史に大きな足跡を残した古賀政男は昭和六年(一九三一年)十月に『酒は涙か溜息か』でデビュー、続く十二月に『丘を越えて』が発売され、この『影を慕いて』は翌年、昭和七年三月新譜としてコロムビアから発売された。歌手は前二作と同じく藤山一郎。レコーディングにあたって、伴奏のギターは古賀自身が受け持った。
 古賀の自伝『わが心のうた』によれば、昭和四年に来日したギターの名手アンドレス・セゴビアの演奏会を聴いての興奮が覚め切らないうちに、一気に書き上げられたものだというが、発表までに二年余の年月が経過した。セゴビアの来日公演は、日本の多くのギター関係者に衝撃を与えたと伝えられているが、古賀の場合、それが自身の領域の発見に連なっていったところが幸福だった。まだ二〇歳代の青年だった古賀の原点とも言われる作品。

◎洒落男
(坂井透訳詞)
 原曲はフランク・クラメット、ルー・クラインによるもので、原題は『ゲイ・キャバレロ』。二村定一が日本語訳詞で歌うジャズ・ソングとして昭和五年(一九三〇年)一月にビクターから発売された。
 満州事変が勃発する前年にあたるこの年は、失業者が街にあふれ、不景気が深刻化していたが、その一方で都会ではカフェ、ダンスホールなどが次々にオープンしていた。作家の川端康成が、「東京にただ一つ、舶来モダーンのレビュー専門に旗上げされた」と称えた〈カジノ・フォーリー〉をエノケンが興したのも、この年だ。
 アメリカ製の新作トーキー映画が毎月のように入ってきて、スクリーンを通して海の向うの最新ヒット曲がいち早く聞かれるようになり、小さなカフェやバーに置かれた朝顔型のラッパのついた手巻き蓄音機からもレコードの音楽が流れる。海外のポピュラー音楽が急激に身近かになった時代だった。『洒落男』の訳詞は、そうした時代のモダン生活への憧れを軽妙に描いている。

◎見上げてごらん夜の星を
(永六輔作詞 いずみたく作曲)
 〈日本のミュージカル〉創造に取り憑かれていた、いずみたくと永六輔の情熱が生んだ処女作『見上げてごらん夜の星を』の主題歌。ミュージカルは伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズと橘薫が中心となって昭和三十四年(一九五九年)の夏に大阪労音で初演された。同メンバーで二年後の秋、東京で再演。昭和三十八年(一九六三年)には、坂本九、九重佑三子、ダニー飯田とパラダイス・キングにメンバーが代り大阪、東京で相次いで上演され、シングル盤で先行発売された主題歌が、この年のレコード大賞作曲賞を受賞した。全曲収録のアルバムは、翌三十九年十二月に東芝レコードから発売されている。
 定時制高校を舞台にした青春ドラマで、シングル盤のB面に収録された挿入歌『勉強のチャチャチャ』もヒットした。

◎与作
(七沢公典作詞・作曲)
 昭和四十年頃に放送が開始され、五十年代まで人気のあったNHKのテレビ番組に『あなたのメロディ』というものがあった。全国のアマチュアの作詞作曲家が作品を投稿し、それをプロの歌手が歌って聞かせるというもので、この番組から、いくつか後世に残る流行歌が誕生した。
 昭和二十三年群馬県生まれの七沢にとっても、この『あなたのメロディ』への応募作は、一生の青春の記念となった。『与作』は、テレビ放送時には弦哲也が歌って話題を呼び、昭和五十二年度の最優秀作に選ばれた。翌年、昭和五十三年(一九七八)年に五木ひろし、千昌夫、北島三郎なども加わってのレコード各社による競作となったが、結局、北島三郎によるクラウンレコードから発売されたものが生き残った。今では北島の代表曲のひとつとして完全に定着している。

◎北国の春
(いではく作詞 遠藤実作曲)
 昭和五十二年(一九七七年)二月に千昌夫の歌で、作曲者遠藤実がコロムビアから独立して設立していたミノルフォンレコードから発売された。発売してからしばらくの間は、ほとんど話題にならなかったが、二年後、爆発的なヒットとなってミリオンセラー、国民的愛唱歌となった。70年代の終わり、それは、フォークソングやニュー・ロックのメッセージ性が薄れ、微温的な気分が蔓延してきた時代でもあった。この曲は故郷の温りややすらぎを思い出させ、都会の大学に進学した青年たちのUターン現象とも符合していたが、対象そのものは、もっと幅広かった。

◎青葉城恋歌
(星間船一作詞 さとう宗幸作曲)
 作曲のさとうは、60年代にピークを迎え社会現象にまでなっていた〈歌声喫茶〉のリーダー出身。仙台に在住し、シンガー・ソングライターとして〈杜の詩人〉と呼ばれていた。NHK仙台のFM放送に番組を持っていたが、そこに投稿されてきた詞に作曲して放送したところ大きな反響があり、キングレコードからレコードが全国発売されるに至ったのが、この『青葉城恋歌』。昭和五十三年(一九七八年)のことで、この仙台のベテラン歌手は、その年のレコード大賞新人賞も受賞してしまった。〈地方の時代〉と言われ、青年のUターン現象が話題となっていた時代だった。前年に発売された千昌夫の『北国の春』がじわじわと人気を集め、爆発的にヒットとなったのは、この『青葉城恋歌』発売の翌年だった。

◎芭蕉布
(吉川安一作詞 普久原恒勇作曲)
 沖縄の音楽シーンを絶えずリードし続けてきたマルフク・レコードの二代目代表、普久原恒勇が、大阪から帰郷して創作活動に専念しはじめていた時期に書いた傑作メロディとして広く知られる。
 本土復帰前の沖縄で、地元の琉球ラジオ放送が推進していた〈徹底したふるさと沖縄の賛歌〉という狙いで放送したホームソングのひとつで、昭和四十年(一九六五年)にハワイ二世のクララ新川の歌唱で放送された。「伝統的な沖縄音階を用いながら、沖縄民謡のポップ化を推進してきた」と評される普久原の持ち味が、この初期の作品にも既に凝縮されていると言われている。
 昭和五十三年(一九七八年)の夏にNHKの『名曲アルバム』で紹介され、全国に広く知られるようになった。

◎死んだ男の残したものは
(谷川俊太郎作詞 武満徹作曲)
 昭和四十年(一九六五年)四月二十二日、東京・お茶の水の全電通会館ホールで行われた〈ベトナムの平和を願う市民の集会〉に間に合わせるように作られたと言われている。
 戦後日本を代表する詩人のひとりと、最も国際的な評価の高い作曲家による反戦歌として話題になったが、武満自身は「政治的に歌うのではなく、たとえば『愛染かつら』の歌をうたうように歌ってほしい」といって譜面を渡したと伝えられている。
 谷川の詩集に楽譜付きで掲載されたのが最初で、それを見た森山良子がいち早くレパートリーに取り上げ、昭和四十四年(一九六九年)九月にフィリップスレコード発売の『カレッジ・フォーク・アルバム第二集』にも収録された。同じ時期にフォーク・ゲリラの騎手と言われた高石友也のシングル盤も発売され、その他、多くのフォーク系歌手がこの時期に録音したが、今日に至っても、この曲は当時の時代背景を越えて、武満が望んだとおりに、静かなメッセージを送り続けている。

◎さとうきび畑
(寺島尚彦作詞・作曲)
 多くの合唱曲や歌曲の作曲者として知られる寺島が、沖縄旅行の際に受けた印象をもとに昭和四十二年(一九六七年)に書き上げた作品。初演は新居浜で行われた四国労音の舞台で、歌唱は田代美代子だったというが、このCDでも歌われているように、全曲は10分近い大曲なのでなかなかレコーディングの機会に恵まれなかった。これをフォークソング系の森山良子がコンサートで取り上げ、LPアルバムに収録したのが昭和四十四年九月フィリップスレコード発売の『カレッジ・フォーク・アルバム第二集』だった。その後、歌声喫茶運動から登場した上條恒彦が録音するが、これは半分程度に省略した五分バージョンだった。
 この歌が世代を越えて広く知られるようになったのは、さらに二分半に短縮して昭和五十年(一九七五年)に放送されたNHKの『みんなのうた』だった。この時の放送では、短縮版を理由に森山が断ったためか、ちあきなおみが歌ったが、平成九年(一九九七年)になってのリメイク放送による『みんなのうた』では、五分バージョンで再度、初期からこの歌の普及に力を尽くしていた森山が歌った。森山が主張するように、単純な繰り返しの中から静かに反戦を訴えるこの歌の精神を短縮版で伝えるのは難しいが、シンプルな旋律から浮かびあがる情景は、どのように短縮されようと、一瞬で人々の心をとらえてしまう。


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モーツァルト「ホルン協奏曲」、新情報で書かれた曲目解説

2009年06月08日 18時16分46秒 | ライナーノート(日本クラウン編)



 以下は、先日、アラン・シヴィルによるモーツァルト「ホルン協奏曲」のCDのライナーノートを掲載したので思い出したものです。日本クラウンから、「英ASV」が発売されていた頃、日本版のライナーノート用に執筆したものです。
 シヴィル盤は、東芝EMIが「演奏論」だけを依頼してきたものだったので、実際にCDが発売されたとき、併載されていた別の方が執筆した既存原稿の曲目解説が古い情報のままだったのに驚きました。
 当時、モーツァルトの情報は、随分新しいものに塗り変わっていました。それは、今でも変わりませんが、レコード会社では、案外、旧説で書かれた曲目解説をそのまま使ったり、新しく書かれた解説も、昔からある「名曲解説」の焼き直しだったりが、往々にして数多く見受けられるのです。
 今でも信頼している友人ですが、日本クラウンのディレクター氏は真面目な人ですから、恐縮して、最新の情報で曲目解説を新たに書いて欲しいと言われました。でも、それが当たり前なのです。
 そうして出来上がったのが、1991年8月に書かれた以下の「曲目解説」です。当時、まだ、日本語文献は限られていましたが、なんとか最新情報で書き上げました。その後、更に新しい発見があったか、詳細はわかりませんが、それよりなにより、最近、未だに、大昔の情報で曲目解説が掲載されているのをみかけて、愕然としました。「クラシック音楽」は「古典」だから、何十年も昔の本に書いてあることから、少しも変わっていないと思い込んでいる人がいるのでしょう。

 というわけで、以下は、1991年時点での「最新情報」で書き下ろされたモーツァルト「ホルン協奏曲」の解説です。まだ、使用に耐えると思いますので、曲目解説に関しては、引用使用はご自由にどうぞ。
 なお演奏は、原稿後半の演奏論にもあるように、アレクサンダー・シュナイダー指揮ヨーロッパ室内管弦楽団、ホルン独奏はジョナサン・ウイリアムズです。

■ライナー・ノート

《作品について》
 モーツァルトによってホルンのために作曲された作品は、わずか6曲にすぎない。それを列記すると、次のようになる。
 「ホルンのためのコンサート・ロンド 変ホ長調K.371」
 「ホルンと弦楽のための五重奏曲 変ホ長調K.407」
 「ホルン協奏曲第一番 ニ長調K.412」
 「ホルン協奏曲第二番 変ホ長調K.417」
 「ホルン協奏曲第三番 変ホ長調K.447」
 「ホルン協奏曲第四番 変ホ長調K.495」
 このほか、「協奏曲」の断片の存在が知られており、K.494aのケッヘル番号が与えられている。
 これらはモーツァルトがザルツブルク大司教と決裂して旅に出て、今日風な言い方をすれば、フリーランスの音楽家となってウィーンに定住した1781年以降の、いわゆる〈ウィーン時代〉に作曲されており、すべて、モーツァルトの年長の友人でホルン奏者だったヨーゼフ・イグナーツ・ロイトゲプのために書かれている。
 ロイトゲプは1732年にウィーンに生まれた人物で(一説では1745年ザルツブルク生)、1763年頃からザルツブルク宮廷管弦楽団のホルン奏者となったといわれている。もちろんモーツァルト父子との交流はこのころからだが、モーツァルトがザルツブルクを後にして旅に出た1777年に、ロイトゲプもザルツブルクの職を辞して、いちはやくウィーンに移り住んだと言われている。妻の実家であるチーズ屋の商売を継いだが、演奏活動は続けていたようだ。あるいは、続けたいという意志があったのか、ウィーン移住直後に、父親を通してモーツァルトに「協奏曲」の作曲を依頼している。結局それは四年後、モーツァルトがウィーンに定住してロイトゲプとの交友が復活してから実現することとなったわけだ。
 このロイトゲプについては、「いたましいくらいに教養に欠けた音楽家」と表現する研究者の記述もあり、モーツァルト自身も親しみを込めて「愚かなロイトゲプに哀れみを垂れて」と「ホルン協奏曲第二番」の譜面に書き込んだりしているが、ホルンの腕前の方はなかなかの物だったようだ。当時の著名な作曲家ディッタースドルフは「類まれなヴィルトゥオーゾ」と称賛している。下品な冗談を連発するかなり風変わりな楽しい人物で、ウィーンで次第に経済的に困窮していくモーツァルトを、資金援助はとても出来なかったが、精神的孤独から救っていた好人物であったようだ。モーツァルトは、かなり頻繁にロイトゲプの家を訪ねていっており、その死の直前まで一緒に食事をするなど家族同様の親交を続けていたことが、モーツァルトの残した手紙からも確認されている。今となっては、このかなり歳の掛け離れた二人の友情がどれほど親密なものであったか、詳しく知ることはできないが、モーツァルトの死後、演奏活動を休止し、1811年にその長い生涯を終えるまでチーズ業に専念したという事実は、この音楽家のモーツァルトへの友情の深さを象徴しているようにも思える。
 以下に、このCDに収録された四つの協奏曲についての簡単な解説を記した。(収録順)

◇「ホルン協奏曲第一番 ニ長調K.412」
 他の3曲は3楽章構成の作品として完成しているが、この「第一番」だけが未完だ。このため、中間の緩徐楽章のない2楽章という変則的な形で古くから演奏され、今日に至っている。作曲年も長い間不明とされ、これまで、いささか乱暴な推定によって第一楽章が1782年に、第二楽章が1787年にそれぞれ書かれたとされていたが、近年、イギリスの学者アラン・タイソンによる科学的な推定法(自筆譜の使用紙を全てベータ線照射により分類整理し、年代の確定しているものと比較していく方法)によって、その作曲年がほぼ確定した。それによると、第一楽章は最も早くても1786年以降に着手され、完成したのはモーツァルトの死の年である1791年だという。それも最晩年の「魔笛」や未完となった「レクイエム」と平行して書かれていた可能性があるというのだ。そして、第二楽章は草稿のまま未完で終わってしまった。
 第二楽章の草稿とは別に、一部を改作した明らかに同じ作品の「第二楽章」の完成稿が他人の筆跡であることは、二十年ほど前から知られていたが、これが「レクイエム」の補筆完成も行ったモーツァルトの生徒ジュスマイアーによるものであったことも判明した。補筆が終了したのはモーツァルトの死の翌年1792年で、この時、決して才能が豊かとは言えないジュスマイアーによって、第一楽章では使用されているファゴットの登場しない第二楽章が出来上がってしまった。その他にもモーツァルトの作品としては問題となる箇所があるが、この二つの楽章を一つながりの曲として通して演奏するのが通例となっている。 いずれにしても、おそらくは死を予感していただろう最晩年のモーツァルトが、シュタートラーに「クラリネット協奏曲」を、シカネーダーに「魔笛」をと、次々に、中断していた身近の悪友たちからの依頼作を完成していったなかで、ロイトゲプにももう一作残そうとして果せなかった未完の作であることは間違いないことのようだ。オーケストラ編成はオーボエ2、ファゴット2(第一楽章のみ)、弦楽5部。
 第一楽章 アレグロ
 第二楽章 ロンド、アレグロ

◇「ホルン協奏曲第四番 変ホ長調K.495」
 この曲は1786年6月26日に完成している。「ピアノ協奏曲」の分野では「第23番」が完成した年だ。楽曲規模の点では「ピアノ協奏曲」ほどではなく、ずっと簡素な作品だが、この三年前に書かれた「K.417」よりもオーケストラと独奏ホルンとの関係が緊密になっており、このころのモーツァルトのスタイルを示す作品となっている。終楽章は、他の「ホルン協奏曲」と同様、当時人気のあった〈狩の角笛〉の音型が用いられ、活発な雰囲気を形作っている。オーケストラ編成はオーボエ2、ホルン2、弦楽5部。
 第1楽章 アレグロ・モデラート
 第2楽章 ロマンツェ、アンダンテ
 第3楽章 ロンド、アレグロ・ヴィヴァーチェ

◇「ホルン協奏曲第二番 変ホ長調K.417」
 この曲は1783年5月27日に完成した。今日の研究成果では、4曲の協奏曲のうち、最も早くに書かれたものとされている。完成した3曲のなかでは一番規模が小さい曲だ。オーケストラ編成はオーボエ2、ホルン2、弦楽5部。
 第1楽章 アレグロ・マエストーソ
 第2楽章 アンダンテ
 第3楽章 ロンド・アレグロ

◇「ホルン協奏曲第三番 変ホ長調K.447」
 この曲の作曲年も、前述のアラン・タイソンの研究によって、これまで1783年頃と推定されていたものが、1787年から1789年の間であろうと推定され直している。完成した3曲中、最も充実した書法で展開されており、豊かな楽想にあふれた佳曲だ。オーケストラ編成はクラリネット2、ファゴット2、弦楽5部。
 第1楽章 アレグロ
 第2楽章 ロマンツェ、ラルゲット
 第3楽章 アレグロ

 最近の研究成果に従ってこれら4曲を改めて作曲順に並べ直すと以下のようになる。
 「ホルン協奏曲第二番 変ホ長調K.417」
 「ホルン協奏曲第四番 変ホ長調K.495」
 「ホルン協奏曲第三番 変ホ長調K.447」
 「ホルン協奏曲第一番 ニ長調K.412」

《演奏について》
 モーツァルトのホルンのための作品は、そのいずれもが、依頼者のロイトゲプの人柄を反映しているのか、明朗な快活さにあふれている。それがイギリス系の奏者のくっきりとして、のびやかな音楽とよく合うのだろうか、この曲のレコーディング演奏にはイギリス系のホルン奏者による名演が数多くある。
 自動車事故で36歳で急死したデニス・ブレインをはじめとして、アラン・シヴィル、バリー・タックウェルなど、いずれもフィルハーモニア管、ロイヤル・フィル、ロンドン響など、イギリスを代表するオーケストラの主席ホルン奏者を務めた名手によるものだが、ここにまた一枚イギリス系の名演が加わった。
 だが、このCDの演奏の特徴は、アレクサンダー・シュナイダーの指揮するオーケストラによるところが大きい。音色的には前述の三人ほど個性的な魅力をもったものではないウィリアムズのソロを支えて、シュナイダーは、その包容力のある豊かな音楽性で、流麗な心地よさを実現している。時折モーツァルトが冗談のように放り込んだぎくしゃくしたパッセージの扱いも、その存在を強調しながらもよく全体に融け込んでいる。その珠のように転がる自在な流れは、拍節感の明瞭な軽やかさによって確保されたもので、特に「第3番」のようによく書き込まれた曲ほど、その見通しのよいオーケストラ・ドライブのなかにソロパートを取込んで、アンサンブルの奥行をいっそう深いものに仕上げている。その高く大空に飛翔していくような澄んだ響きの美しさは、正にモーツァルトの音楽の持つ純心な美しさの音化と言えるだろう。

 アレクサンダー・シュナイダーは1908年にハンガリーのヴィルナに生まれた。ナチスの台頭を避けて1933年にアメリカに渡り、ブダペスト弦楽四重奏団の第二ヴァイオリニストとして同四重奏団の解散('69年)まで活動したが、カザルスの主宰するマールボロ音楽祭などで指導的役割を果し、指揮活動も行うようになった。このCDのヨーロッパ室内管との関係も深い。
 ソロを吹いているジョナサン・ウィリアムズは、ブレインが事故死した1957年にイギリスのハートフォードシャーに生まれて、マンチェスターの王立音楽院で学んだ人で、ソリストとしての活動のほか、1982年からは、このヨーロッパ室内管弦楽団の主席ホルン奏者としても活躍している。
 ヨーロッパ室内管弦楽団は1981年に若い音楽家たちによって結成された団体で、芸術顧問のクラウディオ・アバドほかの指導でトップレベルの室内管弦楽団に成長した。



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