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稀代の愛書家・気谷誠に関連して、最近になって目に触れた2、3のこと。

2011年04月15日 17時22分58秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること


 昨年、2010年2月12日の当ブログに「気谷誠、最期の3週間」と題して、私が東京・一ツ橋「学士会館」で行った講演録を掲載しました。私の友人で、類まれな愛書家として知られた気谷誠の早すぎる死を惜しむ友人たちの集いでのものです。
 その講演で私は、気谷君が自らの死の直前に懐かしく思って聞いていたと思われる1983年11月26日に行われた「黒の会」の集いでの仏文学者・斎藤磯雄氏の講演とそれに続いて行われた関連の音楽会のことをご紹介しました。
 じつは、3月11日の東日本大震災では、既報のとおり、積み上げていた私のCDコレクションの一部の山が崩れてしまったのですが、その関係で、分類整理して収めていた資料類の再整理を少しずつ始めるハメに陥ったおかげで、すっかり忘れていたものが出てきました。
 以前、ヤナーチェクやバルトークの伝記の翻訳でお世話になっていた慶応義塾大学の和田旦先生から戴いていた黒の会の雑誌『同時代』の46号が出てきたのです。和田先生は黒の会の同人の一人で、そのころ『音と言葉のはざまで』という本を上梓されたばかりでした。その本に関連したエッセイが掲載されているからということで、そのご著書と共に戴いた同人雑誌です。「1985年11月20日発行」とありました。その当時は、気が付かなかったのですが、編集後記を読んでびっくりしました。偶然にもそこには、編集人の安川定男氏による以下の文が載っていました。
 
 九月初頭、斎藤磯雄さんが急逝された。斎藤さんはこの『同時代』創刊以来、陰に陽に、終始あたたかく、かつ厳しくこの雑誌の歩みを見まもり、時に応じて格調の高い文章を寄せてくださった。(以下略)

 今回の気谷との縁がなければ、「仏文学者・斎藤磯雄」も「夭折の詩人リラダン」も、私の関心の赴くところとはならなかったわけですから、今回、偶然目にとまったこの訃報も、見逃されるはずだったのです。気谷が録音を持っていた斎藤磯雄氏の講演は、氏が亡くなる1年10カ月前のものだったということになります。気谷と黒の会との関係が今のところわからないのですが、この編集後記によれば、この号の発刊後の例会は、斎藤氏を偲ぶ会にすべく計画を進めているということだから、ひょっとしたら、そうした集いにも、気谷は顔を出していたかもしれないな、と思いました。
 それにしても、斎藤氏の亡くなったのが9月初頭とは! 気谷が急逝してしまったのも、ちょうど、そうした季節でした。

 気谷のことを思い出したので、もうひとつ、気谷を偲ぶ話題をご紹介します。先日、偶然に目に触れた三省堂書店(本店)の公式ブログ「神保町の匠」に掲載されていた『頁を繰るたび固唾を呑む……愛書家の最後の名著』と題する文章で、彼の遺著が紹介されていました。ここにも気谷誠を敬愛するひとがいた、と思ったものです。ぜひ、お読みください。

books-sanseido.co.jp/blog/takumi/2010/03/post-184.html


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気谷誠、最期の3週間――その音楽とともに暮らした日々

2010年02月12日 17時28分35秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること

 以下は、2010年1月31日に東京・一ツ橋の「学士会館」202号室における「気谷誠を偲ぶ会」で行われた私の「講演(?)録」です。類まれな愛書家・美術史家として多くの人々に慕われた気谷誠ですが、その晩年の心境について、彼が愛聴していた音楽を聴きながら語ったものです。
 私はもともと人前で話すのが苦手ですので、あらかじめ話したいことをメモし、間が持たなくなるのが怖いので、お相手を引き受けていただいたフリーアナウンサーの西村祐美さんに質問や相槌できっかけをつくっていただくという「台本」も作成した上での本番でした。15年ほど前、黎明期のCS衛星放送ラジオで毎週のように番組をこなしていたころを思い出しながらの下準備でした。
 当日の録音を聴き直しながら少し手を加えて、事前の台本を以下に掲載します。大きく脱線してプライベートなことまで話してしまった部分だけは省略しましたが、ほぼ、実際のトークの再現です。
 なお、「偲ぶ会」そのものの趣旨や全体の内容などは、当ブログ「1月16日」および「2月4日」をごらんください。

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本日は、気谷誠くんのためにお集まりいただいて、ありがとうございます。入り口でご案内しましたように、本日、予定しておりましたソプラノの越智まりこさんが、ご都合で来ていただけなくなりましたので、その越智まりこさんに歌っていただく予定だった曲目と、曲目決定に至った気谷誠の最晩年の心境などを、気谷誠と私とのエピソードを交えながら、私なりにご紹介したいと思っております。
私ひとりでは、ちょっと心細いものですから、テレビ朝日などで活躍しておられる西村祐美さんに、お相手をお願いしました。西村さん、よろしくお願いいたします。

【西村(以下、聞き手と表記)】今、竹内さんが、「きょうの曲目決定に至った気谷さんの最晩年の心境」とおっしゃっていましたけれど、それは、どういう意味なのですか?

実は、気谷誠は、葬式などはしなくていい、と言っていたらしいのです。ところが、きょうの「偲ぶ会」の中心になった山田俊幸さんが、私とは別に気谷と会って、「それでは残された者の気持ちが収まらない」と言ったところ、それでは、ということで、気谷が晩年に多少の交流のあった越智まりこさんに3曲うたってもらって、追悼会をしてくれ、ということになったのです。

【聞きて】そうだったんですか。その3曲とは何だったのでしょう。

ボードレールの詩に作曲されたものばかりで、デュパルク作曲の「旅への誘い」と「前世」、そして、悲劇の放蕩作家リラダンが、尊敬するボードレールの詩にメロディをつけたという、めずらしい曲、「愛し合うふたりの死」の3曲です。

【聞きて】気谷さんは、なぜ、その3曲を選んだのですか?

ほんとのことはわかりませんけど、私なりに想像というか、推理した考えがあります。

【聞きて】ぜひ、お聞きしたいですね。

 その前に、気谷誠が亡くなる直前にまで掲載を続けていた彼のブログを、思い出していただきましょう。これを読んでいただけますか? これは、彼が世を去る5日前のもので、彼の遺書『西洋挿絵見聞録』に、あとがきのようにして収められている「静かな悦楽」と題された文章です。

【朗読】
「静かな悦楽」
 若いころ斎藤磯雄さんの『詩話・近代ふらんす秀詩鈔』や『フランスの歌曲』などに親しみ、デュパルクが曲を付けたボードレールの詩「前世」や「旅への誘い」に耳を傾けた。その後もSPやLPやCDを集め、愛聴した。今でもなつかしく聴き返す。このたび音盤を処分するにあたり、デュパルクの歌曲を収めたものを数えてみると、20種類以上もあって驚かされた。呆れたものである。
 手元に一枚だけ残したのはジェシー・ノーマンが歌う「前世」を収めたCDだ。比較的体調の良い午前中に書斎のソファーに横たわり、タンノイの15インチモニターから流れてくるこの曲に静かに耳を傾けていると、自分がすでに死んでしまっていて、どこか遠い国から自分の前世を回想しているような、そんな気持ちになってくる。実際ノーマンの歌声には、この世の彼方から吹いてきてあの世の彼方に向けて吹き抜けていくような神秘的な響きが込められている。
 私はこの曲の中の静かな悦楽(voluptes calmes)という言葉が好きだ。詩の第一連、第二連で曲想が次第に高まり、第三連の一行目(C’est la, c’est la …)で曲はフォルテッシモを極め「静かな悦楽」に向けて降りてゆく。

   そこにこそ私は生きた、静かな悦楽に包まれて、
   C’est la que j’ai vecu dans les voluptes calmes

 (注)邦訳は福永武彦。歌曲では冒頭の「c’est la」が2回繰り返して歌われる。

 今までの自分の人生を振り返り、こんなにも幸せなひとときは無かったような気がする。柔らかな秋の日に包まれたそのひとときが、ようやく私の人生に訪れた静かな悦楽のときであるような気がするのである。

【聞きて】(即興で感想。)

(~それを受けて)実は、気谷がこの冒頭に書いている「斎藤磯雄さんの本に親しんで、デュパルクが曲を付けたボードレールの詩に親しんでいた」という青春の日々を、気谷が突然思い出したのは、この日ではないか、というのが、彼の最期の数週間のブログの中にあるのです。

【聞きて】そういう、「特別な日」があるのですか?

そうなんです。今、読んでいただいたのは「9月17日」のブログですけれど、彼が自分の余命がほとんどないことを知って、大急ぎで、4台のオートバイと、厖大な本の整理を始めたのが8月の29日です。

【聞きて】気谷さんが、ご自分の病気の深刻なことを知ったのは、いつなのですか?

8月の28日です。その翌日からの行動開始です。一日たりとも無駄にできない、という感じの、すばやい行動ですね。そして、蔵書の整理中のことが、9月3日のブログに書かれています。
「2日の午後、整理中に見つかったカセットテープがどうしても聴きたくて、タクシーに乗って石丸電気でデッキを買う。おかげで発熱。」
――、そう書かれているのです。体調の不良をおして、無理してでも出かけ、カセットテープがかけられる装置を手に入れて聴いたのが「これだ」というものが、気谷が亡くなった後、自宅のCD棚から見つかりました。

【聞きて】そんなにしてまで聴きたかったカセットテープって、何だったのでしょう?

1983年11月26日に行われた、「同時代」という雑誌を出していた同人雑誌グループ「黒の会」の講演記録なんです。その講演で話をしているのが、気谷が若いころに愛読していたという、フランスの詩について書かれた本の著者の斎藤磯雄さん――もうそうとうにご老体だったはずですが――、その斎藤磯雄さんなのです。
私は、気谷がそのカセットテープを見つけて、どうしても聞きたくなったという瞬間が、目に浮かびます。ある意味では、斎藤磯雄のフランス詩の読み方そのものが、気谷のフランス趣味の原点のひとつだとも思っていますから。

【聞きて】竹内さんは、そのカセットテープを聴いてみたのですか?

もちろん、聴きました。斎藤さんの講演があって、そのあとにミニコンサートもありました。そして、そこで、デュパルクの「旅への誘い」も、さっき言ったリラダンが作曲した「愛し合う二人の死」も歌われていました。お聴かせしましょう。

【「愛し合う二人の死」を聴く】

(聴き終えて)当時、「黒の会」は新進気鋭のフランス文学者たちの集ったハイレベルの集団でしたから、パリ留学から帰国した一流のソプラノ歌手とピアニストによって演奏されています。おそらくリラダンの歌は、日本での初演だと思われますし、このあと、一度も歌われていないかもしれません。気谷くんがプライベートに保存していた今から27年ほど前の講演会場のしろうと録音ですが、貴重な記録です。
次に、有名なボードレール作詞、デュパルク作曲の「旅への誘い」を聴きましょう。

【「旅への誘い」を聴く】

(聴き終えて)気谷が「旅への誘い」の録音をレコードやCDで何種類持っていたかはわからないけれど、これはかなりいい演奏ですね。発売されているCDの歌手やピアニストに比べても、少しも遜色がない名演だと思いました。そして、このミニコンサートの前に行われている斎藤磯雄さんの講演も聞き応えのするもので、気谷がこの記録の入ったカセットを見つけた時、どうしてもまた聞きたくなった理由がわかるような気がしました。

【聞きて】ところで、竹内さん。気谷さんが、追悼会で歌ってほしいと指定した曲は3曲ありましたよね。もう1曲は、何ですか?

それが、さっき、あなたが朗読したブログで引用されていた「前世」ですよ。ボードレール作詞、デュパルク作曲です。もう一度、最後の部分を読んでいただこうかな。

【聞きて】(「静かな悦楽」おわりの数行を朗読)

どうですか? それが、彼の心境だったのです。
では、気谷が「気に入っている」とブログにも書いている、最期の日々に愛聴していたジェシー・ノーマンのソプラノで、「前世」を聴きましょう。

【「前世」を聴く】

気谷は、こうして「静かな悦楽」にひたりながら、あの世へと旅立っていったのだと、私は信じています。

【聞きて】でも、気谷さんのブログは、さっき私が朗読した「静かな悦楽」が最期なのですか?

「静かな悦楽」と題されたエッセイがブログに掲載されてから、5日目に、気谷は世を去っているのですが、実は、その2日後の9月24日に、奥様によって掲載されたブログのエッセイが、気谷の遺した最期の言葉です。私は、奥様に確かめていませんが、事前に作成されていて、自分の死を見届けてから掲載するように、あらかじめ言い残していたのだと思います。
読んでいただけますか? 気谷誠の、最期のブログ・エッセイです。

【朗読】
「別れの曲」
 ショパンのピアノ練習曲作品10の3に、「別れの曲」という愛称がついた小曲がある。有名な曲だからどなたもご存知であろう。中学生のころであったか、左手で和音をおさえ、右手で主旋律をひくという拙い奏法で、オルガンをよく弾いた。中でも愛奏したのがこの「別れの曲」である。子供用に編曲されていて堀内敬三さんの詩だったろうか「春の日 そよ風 花散る緑の丘…」という有名な歌詞がついていた。ショパンの旋律をなぞるだけで、なんだかずいぶんと偉くなったような気になったものである。
 高校を卒業し、大学浪人一年目の夏休み、高校のころ同級だった女友達と、そのころはまだ京橋にあったフィルムセンターの「音楽映画の特集」というのに足を運んだことがある。そのなかに昭和10年に公開された「別れの曲」(ゲーザ・フォン・ボルヴァリ監督, 1934)という映画があり、心を打たれた。ポーランドの青年ショパンがパリに出て脚光を浴びるまでの物語で、その主題曲がショパンのピアノ練習曲作品10の3に歌詞をつけた曲であった。一人前の芸術家になるにはあんなにも愛らしく可憐なふるさとの恋人を袖にしなければならないものかと、妙に感心した。
 ショパンのピアノ練習曲作品10の3を「別れの曲」と呼ぶのは、どうやら日本だけの習慣のようだ。それは昭和10年にこの映画がヒットし、またその後「別れの曲」というタイトルで日本語の歌詞をつけられ、愛唱されてきたからである。フランスにもドイツにも、このメロディーに歌詞をつけた曲はあるが、特に「別れの曲」という名前はついていない。映画「別れの曲」にはフランス語版とドイツ語版があるが、映画のなかで歌われるこの曲の歌詞も、特に別れとは関係がない。浪人のころ私がみたのは日本で初演されたのと同じフランス語版のほうである。昭和10年に刊行された『仏和対訳 別れの曲』(平原社トーキー・シリーズ 第30巻)から歌い出しの部分を引用する。

  吾が心 そなたに捧げん
  この調べ 吾が胸は そなたに囁き…

 以前、BSで放送されたドイツ語版をみたことがあるが、ほぼ同じような内容だった気がする。要するに、いろんな国でいろんな歌詞が作られ歌い継がれているのだろう。
 音盤に吹き込まれたものの中で私が格別珍重しているのは、フランスのリリックソプラノ、ニノン・バランという人が歌った「親密(アンティメイト)」という歌曲である。この歌もまたショパンのピアノ練習曲作品10の3にフランス語の歌詞をつけたものであるが、恐らく映画のヒットに合わせ、当事日本で発売されたSPレコードである。この人の優しい、魔法のような歌声を聴いていると、「別れの曲」に親しんできた長い歳月の間に起きた様々な出来事が、すべて甘美な幻影に包まれてよみがえってくるのである。


(朗読を聴き終えて)どうもありがとう。では、今、読んでいただいた中にあったニノン・ヴァランが歌う「別れの曲」を、聴いていただきましょう。

【「別れの曲」を聴く】

(聴き終えて)これは、9月11日、つまり、気谷誠が亡くなる10日ほど前、彼と話している時に、たぶん、急に思い出して彼が引っ張り出してきた音源だと思います。彼が自身でSPレコードの音を録音したCD-Rでした。本日の記念品として、入り口で差し上げたCDが、その複製です。その1曲目です。
この気谷が作成したCD-Rについては、CDに附属の解説書で簡単に触れていますので、お読みください。

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 当日、私が用意していた「台本」はここまでですが、以下に、その特製CDに付された私の「解題」を再録します。

【「解題」】
 気谷誠自身のブログ「ビブリオテカ・グラフィカ」の最後に、この文章が掲載されている。気谷誠の絶筆である。
 私は気谷が亡くなる二週間ほど前に、彼の病状が回復不能であると聞いて筑波の自宅を訪ね最後の会話をしたが、その久しぶりの音楽談義のなかから、思いがけなくも、このニノン・ヴァランの「別れの曲」(=「親密」)へと話が移った。気谷は、体力・気力ともに極度に衰弱したからだを無理に起こし、隣室に消えて行った。
 かなりの時間が経過してから、大事そうに手の中に収めて持って出てきたのが、今回「気谷誠を偲ぶ会」で配布することにしたこのCDのマスターとなったCD-Rだった。表紙に手書きで曲名、演奏者などが記載されただけのもので、彼が自分で古いSPレコードから採集した音だと言っていた。(この、今回の配布盤では、彼が最期の日々を綴った一連のブログ上の文章の内、「別れの曲」の数日前に掲載された「静かな悦楽」で言及しているデュパルク「前世」を、彼の別のコレクションから、バリトンのシャルル・パンゼラが歌っているもので加えた。)
 デザインは配布のために私が素人づくりしたものだが、表記の文字はすべて、彼が記載していたままである。CD後半の田中路子は、同じく、彼が格別の関心を持っていたソプラノ歌手である。その興味深い経歴については詳しく触れないが、日本のクラシック音楽受容の歴史に欠くことのできない足跡を残した人物である。


 当日の私の講演は、以上の「解題」の内容、そして、1月24日付けの当ブログに掲載した「追悼文」の内容とほぼ同じことを、台本を離れて少々お恥ずかしいほどに即興でお話して、なんとか終えました。


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「気谷誠を偲ぶ会」終了のご報告と、特製CDの頒布について

2010年02月04日 12時43分58秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること
 「気谷誠を偲ぶ会」が無事、終わりました。やっと残務も一通りかたづいて落ち着いたので、ご報告をします。
 なんといっても私にとっては、「気谷誠を語る」といったトークを1時間近くも務めたのが、大変でしたが幸せでした(写真参照)。メモと当日の録音から、来週あたりにはこのブログ上にトーク内容を掲載しますが、とりあえずは、ご連絡、ご報告をいくつか。

当日入り口で配布した「ごあいさつ」は以下のとおりです。

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          「気谷誠を偲ぶ会」ごあいさつ

2010年1月31日(日曜日)/午後1時30分~
東京・一ツ橋「学士会館」202号室

 版画研究家、愛書家、さらにオートバイ愛好家として、わたしたちの共通の友人であった気谷誠が2008年9月22日に没してから、もう一年以上たってしまいました。
 気谷は、その亡くなる直前に「やりたいことはすべてした。あとは音楽を聴いて残された日々を過ごすだけだ。葬式もしない」と、強い決意を言い残しました。ですが、それでは残された者の気持ちの整理がつかないとの山田俊幸の言を受け、「それなら、越智まりこさんに数曲歌ってもらって、友人たちへのお別れ会としてくれ」との言葉を遺すこととなりました。このお別れ会は、そうした事情で行われることになったわけですから、主催する友人としては、生前に親しかった人々のみならず、この度、気谷誠の遺著として編まれたアーツアンドクラフツ社の『西洋挿絵見聞録――製本・挿絵・蔵書票』を読んで気谷をより深く知りたいと思った人々にまで開かれた場として「偲ぶ会」を設けることが、気谷誠をより生かすことになると考え、自由に参加していただく会ということにしました。
 気谷誠が希望していたのは、ボードレールの詩を歌曲化した「旅への誘い」「前世」「愛しあう二人の死」の3曲でした。本日、越智まりこさんのご都合で、急遽予定していたささやかなコンサートが中止となりましたが、気谷誠の愛聴していた音源でそれらの音楽を聴いていただいて追悼といたします。版画や書籍ばかりではなく、音楽にまで広がっていた気谷誠の世界を、お味わいください。

●2時より、下記のトークと音楽鑑賞を予定しております

演題「気谷誠、最期の3週間――その音楽とともに暮らした日々について」

話し手:竹内貴久雄(友人・音楽研究家)/ 聞き手:西村佑美(フリー・アナウンサー)

演奏曲目:ボードレール詩/デュパルク曲「旅への誘い」(1983年「黒の会サロン」の記録)
     ボードレール詩/リラダン曲「愛し合う二人の死」(前同)
     ボードレール詩/デュパルク曲「前世」(ジェシー・ノーマン)
     ショパン作曲「別れの曲」(親密)(ニノン・ヴァラン)


               「気谷誠を偲ぶ会」発起人を代表して 山田 俊幸

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 お気づきかと思いますが、上記は、1月16日付けの当ブログ掲載の、山田俊幸氏作成の告知文を流用して書き直しています。16日付けで告知していた越智まりこさんのソプラノ独唱というミニコンサートが中止になって、私がお話しすることになったのです。
 告知掲載の翌々日には、越智さんから山田氏に連絡が入っていましたが、告知後だったため、無用の混乱を避けるために当日の変更発表としました。コンサートを楽しみになさっていた方には申し訳ないこととなりましたが、気谷自身が亡くなる直前まで聴いていたお気に入りの本格的フランス歌曲の歌い手による貴重な音源を、お集まりくださった方々にお聴きいただく機会となって、よかったようにも思っています。真に気谷誠の魂の安らかならんことを願う人々による、すばらしい「音楽葬」になったように思っています。ご参集の皆様、ありがとうございました。

 なお、会場で配布しました特製CDについて、当日参加できなかった多くの方からお問い合わせをいただいておりますので、急遽、下記の方法で頒布することになりました。
 聴いてくださる方にお送りしますので、お申込みください。
 なお、配布資料は「気谷誠略年譜」のほか、追悼文や書評、新聞記事のコピーなど。特製CDの内容は、すべてSP盤の音源で、気谷のコレクションから作成されたもの。ニノン・ヴァランが歌う「別れの歌」(ショパン)「月の光」(フォーレ)「旅への誘い」(デュパルク)のほか、田中路子の歌唱2曲、パンゼラの歌唱1曲の計6曲が収録されています。


【「気谷誠を偲ぶ会」当日配布資料および、特製CD「気谷誠●別れの曲」】

◎頒布価格:2000円(送品手数料を含む)
◎お申込み先:(郵便振替口座)00120-6-134399 「風信社」
 郵便振替用紙に、「気谷誠を偲ぶ会」資料希望、と明記し、送品先住所、氏名をご記入ください。
◎その他のご連絡、お問い合わせは、当ブログのコメント欄をお使いください。非表示設定となっていますので、私が読むだけです。

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気谷誠への追悼文と、「偲ぶ会」ご案内の追記

2010年01月24日 17時02分21秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること
 いよいよ「気谷誠を偲ぶ会」が来週、1月31日(日曜日)13時から、東京・一ツ橋の「学士会館」で開かれますが、当日、ご参加くださる方は、お気軽に「平服」にておいでください。一部の方からお問い合わせをいただきましたので、改めてご通知いたします。詳細は、当ブログの1月16日掲載分をご覧ください。
 なお、そこでは開始が「午後2時」となっていますが、受付開始は「午後1時」です。1時半ころには開場して、ささやかながら催しらしきものをはじめるのが「2時」という予定です。3時過ぎ頃から、自由解散の予定です。

 ところで本日、以下に掲載するのは、「東京製本倶楽部」さんのブログに掲載するために書いた私の文章です。気谷誠の遺著の書評を、ということだったのですが、結局、思い出話になってしまいました。


■気谷誠追悼――遺著『西洋挿絵見聞録』を読みながら

 気谷誠は、おそらく徹底して「書物の人」だったのだと思う。その彼が人生の最期を迎えた時に耳傾けた音楽が、静かで甘美な夢を醸し出す世界だったというのは象徴的なことだ。彼はやはり、最期まで「静かな」男だった。
 私事で恐縮だが、私自身は父親が舞踊家だったということもあって、毎日、朝から晩まで音楽が鳴り響いている家庭で育った。だから、騒々しい中で何事も行うのが当たり前で、静まり返った場所では落ち着いて本が読めない人間に育ってしまった。学生時代から図書館では落ち着いて本が読めなかった。いっぱしの文学青年だった学生時代には、喫茶店で音楽を聴きながらでなければ小説が書けなかった。――気谷誠は、いったいどんな家庭で育ち、どんな生活をして青春時代を過ごしたのだろうか? とうとう一度も聞くことのないまま、彼はあちらの世界に行ってしまった。私は、彼が最期の日々を綴ったブログで触れている音楽を聴いて、そのイメージしているものが、少しだけわかったように思う。彼は、静かな午後、カーテン越しに暖かな日差しが差し込む書斎で、ひとり静かに読書をするのが、とても似合う男なのだと思う。
 気谷とはその博識な会話がおもしろくて、時折、機会があれば会っていたが、今思い出してみると、彼の話題はいつも、その背後に「文献」への飽くことない関心が横たわっていたように思う。日常の生活、あるいは心の大半を、けたたましくも騒がしくもある音楽を周りに置いている私とは、おそらく対岸にいたのだと思う。だからこそ、音楽談義は一度始めると、なかなか終わらなかった。私にとっての一番の思い出は、もう二〇年ほども前、私が当時住んでいたマンションに来て、私のレコードコレクションを聴きながら話がはずみ、すっかり夜が更けて、結局、私の仕事部屋で一晩過ごしてしまった時のことだ。彼は、「こんなに音楽のことを話したのは久しぶりだ」と言っていた。
 気谷からは、「コレクターは、自分のコレクションについて語る義務がある」ということを教わった。大切な言葉である。それがあればこそ、音楽研究家として、数冊の本を上梓することができた、と今でも感謝している。その気谷誠が、様々の書物について触れた労作が、やっと一冊の書にまとまった。『西洋挿絵見聞録』(アーツアンドクラフツ社)がそれである。彼の書物に関する好奇心と博識ぶり、そして溢れるほどの愛情が満載の書をまとめた編集者は村山守氏。彼もまた、気谷の遺した原稿に愛情を注いでこの書をまとめていると感じた。それは書籍編集者として数百冊の書籍を世に送り出してきた私をして、久しぶりに、その対象への細やかな配慮が見え隠れする仕事に羨望を禁じ得なかったからだ。
 「気谷誠」という類まれな人物の、あの独特の飄々とした語り口を私たちが永遠に忘れないための、大切な一冊である。


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(告知)気谷誠を偲ぶ会について(山田俊幸・記)

2010年01月16日 12時54分06秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること
 以下は、帝塚山学院大学教授・山田俊幸氏から預かった原稿です。山田氏からの依頼で、私のブログにも掲載するものです。一昨年、私よりも数歳若くして世を去ってしまった気谷誠氏と私との、ささやかなエピソードについては、このブログ中でも、いくつか触れています。それらは、このブログの左の欄外をずーっと下へスクロールして「ブログ内検索」で彼の名前を入力してお読みいただけると幸いです。
 「気谷誠を偲ぶ会」については、もう一度、来週終り頃に、詳細をお知らせすることになるかもしれません。

■「気谷誠を偲ぶ会」お知らせ

 版画研究家、愛書家、さらにオートバイ愛好家として、わたしたちの共通の友人であった気谷誠が2008年9月22日に没してから、もう一年以上たってしまいました。
 気谷は、その亡くなる直前に「やりたいことはすべてした。あとは音楽をきいて残された日々を過ごすだけだ。葬式もしない」と、強い決意を言い残しました。ですが、それでは残された者の気持ちの整理がつかないとの山田俊幸の言を受け、「それなら、越智まりこさんに数曲歌ってもらって、友人たちへのお別れ会としてくれ」との言葉を遺すこととなりました。このお別れ会は、そうした事情で行われることになったわけですから、主催する友人としては、生前に親しかった人々のみならず、この度、気谷誠の遺著として編まれたアーツアンドクラフツ社の『西洋挿絵見聞録――製本・挿絵・蔵書票』を読んで気谷をより深く知りたいと思った人々にまで開かれた場として「偲ぶ会」を設けることが、気谷誠をより生かすことになると考え、自由に参加していただく会ということにしました。
 気谷誠の希望によって、ボードレールの詩を歌曲化した三曲(「旅への誘い」「前世」「愛しあう二人の死」)を、ソプラノ・越智まりこ(ピアノ・小島由樹子)で聴くほかは、誰もが参加でき、モノローグではありますが気谷誠と語り合うことのできる場となることと思います。
 会では飲食物は出しませんが、会場費は「1500円」とさせていただきます。ご参加いただいた方には、生前、気谷が自家用として制作して聴いていたニノン・バランが歌うショパン「別れの曲」に付けられたフランス語歌詞によるシャンソンほかを収録した特製CDを、記念にお持ち帰りいただくように準備しています。

             「気谷誠を偲ぶ会」発起人  越智まりこ
                               竹内貴久雄
                               藤井 敬子
                               山田 俊幸
                               渡辺 和雄

 日時:2010年1月31日(日曜日)/午後2時~4時
 場所:東京・一ツ橋「学士会館」202号室(100人収容予定)
 
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(告知)「気谷誠を偲ぶ会」が開かれます。

2009年12月29日 16時13分43秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること
美術史家で愛書家の気谷誠氏が亡くなって、1年以上経過しましたが、ようやく、彼を追悼する会を開催する準備が整いましたので、友人有志が手分けして全国の彼を知る人たちに告知をすることになりました。私のブログも、そのひとつとしてお知らせします。

●「気谷誠を偲ぶ会」(仮称)
日 時:2010年1月31日(日)午後2時~4時程度
場 所:東京・一ツ橋「学士会館」
参加費:無料

*友人有志による主催ですので、その意思により特に会費は設けない方針です。

*当日は、気谷誠の絶筆、最後の日々のブログで触れているショパンの「別れの曲」(歌唱:ニノン・ヴァラン)を含むSPレコードを、気谷誠自身がプライベートに編集した音源から制作した私家版のCDを1500円にて特別頒布するほか、遺稿集『西洋挿絵見聞録――製本・挿絵・蔵書票』(アーツ・アンド・クラフツ刊/定価3800円)の販売をして、開催費の一部とします。

*生前に気谷誠と交流のあったソプラノ歌手・越智まり子氏の独唱で、故人が愛聴していた歌曲を数曲聴き、そのあとは自由に、それぞれで故人を偲んで自由に語る会です。故人の幅広い活躍や交流から、おそらく、その日に初対面という方も多数いらっしゃるでしょう。多くの方のご参加をお待ちしています。

*もう少し詳細が決まりましたら、改めて、このブログ上にて告知します。

*お問い合わせは、当面、当ブログのコメント欄にお願いいたします。非表示設定にしてありますので、公開はされません。追って個別に対応いたします。


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閑話休題。「語源」に関するコラム3編です。

2009年10月23日 10時42分54秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること





 前回、このブログでご紹介した『大正・昭和の乙女デザイン』に、共著者として私を誘ってくれたのは、古くからの友人であり先輩でもある帝塚山学院大学教授の山田俊幸氏ですが、私が2005年12月に編集して制作した本『語源』(PHP研究所・刊/雑学3分間シリーズ)では、その山田氏に監修をしてもらいました。庶民文化が花開いて、それに伴って言語表現も巷で急速に豊かになった江戸時代と、明治・大正の近代化過程をメインにして、100語ほどを集めてわかりやすく解説するという目論見で、山田氏と、当時の私の覆面ペンネームだった久坂圭、そして、20年来の付き合いのある歴史作家、後藤寿一さんと、その友人で三省堂辞書部や英語教科書編集者歴のあるO氏(ペンネーム:北岡敬)で、楽しく進めた仕事でした。
 かなりランダムに集まったネタを、章立てを整え直して、最終的な原稿のアンカーは、もちろん、私がひとりで務めました。その過程で、ページ調整の必要から私が書いた「コラム」をきょうはお読みください。暇ネタで申し訳ありません。
 なお、このコラムも、もちろん、元ネタは、山田氏や後藤氏から回ってきたものですが、味付け、膨らまし、その他の細工を、かなりしてしまいました。二人からは当時、こんなふうに書いてない、と叱られました。まあ、この種の実用書編集の宿命です。最近は、受け取った原稿を前に、手も足も出せずにそのまま流してしまう編集者や、場違い、無理解な改変をする校閲者も増えてきましたが、それは論外です。
 この仕事をしていた2004~5年頃、ほぼ1~2ヵ月に1冊くらいのペースで、このシリーズを1年半で10冊作りましたが、その内、今でも愛着があるものが7、8点ほどあります。幸せなことです。


(コラム/1)
●「箱入り娘」――異聞

 大正の終わりから昭和にかけて流行した「少女小説」というものがあります。「女学生」向けの読み物で、その中にはかならずと言っていいくらい、貧しい家の女の子と「深窓[しんそう]の令嬢」という女の子が対比的に描かれていました。この、「深窓の令嬢」というのが、まったくの世間知らずというか、世間から隔離されているというか、何かの事情で世間とまったく無縁の「深窓」の中だけの社会で暮らしていて、その令嬢が、どっぷりと社会の差別のなかで生活をして苦労している貧しい女の子と出会うところから、この手の小説は進んで行くのでした。
 「深窓」という言葉が出てくるだけで、その令嬢は身分の高い、近づきがたい家格の令嬢で、ほんとうにおしゃれな洋館の出窓の外から、ちらとしか見ることができなさそうな気がしてくるものでした。「深窓の令嬢」は、ただの「お嬢様」とは格段の違いなのです。「箱入り娘」の大正ロマネスク版とでも言えましょうか?
 街角にまだ原っぱがあった1950年代には、当時全盛だった「紙芝居」にも、そうした侵してはならない高貴な存在としての「深窓の令嬢」が登場していました。紙芝居のおじさんが甲高い声色をつくって、「まぁ、どういたしましょう。わたくしには、とてもとても……」などと、精一杯、上品なせりふを演じていたのを思い出します。
 この頃には「深窓の令嬢」は、ワルガキ共の憧れでした。どういうわけか、皆、病弱で、カーテンの影からチラリと色白の透けるような頬が見える、そんなイメージでした。
 こうした「深窓の令嬢」らしきものが登場する女子高生向けの小説は、多少姿を変えて、1970年代には「ジュニア小説」として生まれ変ったようですが、ずっとスポーティになってしまったのは、時代が元気一杯だった証拠でしょうか? 最近の韓流ドラマブームから、むかしの純愛小説が見直されています。「深窓の令嬢」も復活するかも知れません。


(コラム/2)
●「おでん」――異聞

 「おでん」の語源については、第1章にありますが、ここでは、少々別の角度から。
 昭和の落語名人、古今亭に『かわり目』というのがあって、そこには、ぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきた亭主が奥さんに酒を出せの、つまみを出せのと言い、さんざん奥さんにからんだあげく、「きのうの、あの……ペンはどうした」というせりふが飛び出します。奥さんが、「ペンてなんですか」と聞き直すと、「はんぺんだよ、はんぺんがペンで、こんにゃくがニャク」と説明するくだりがあります。これは東京落語ならではの会話で、その省略も大ざっぱでいいかげんですが、こうした符牒[ふちょう]で会話する東京人、江戸っ子のせっかちさがよく出ています。
 おでんの語源とされている「田楽」が「お田」となったのも、これと同じ省略かも知れません。しかし、志ん生流に「デン」と言ったのでは、わかりにくい。やはり「おでん」でなくては、どうにもすわりが悪いようにも思えます。「デン」の手前に「お」が付いているのは、女房詞[にょうぼうことば]にしたからだと第1章で説明しましたが、この「お」については、日常的に食卓を賑わす「おみおつけ」(みそ汁の丁寧な表現)が傑作です。
 「みそ汁」は、もともとは主食(ごはん)に対する「付け」だったものが、女房詞としての丁寧表現で「お(御)」がついて「御付け」となり、さらにそれに「み(御)」がついて「みおつけ(御御付け)」となり、さらにそれでも敬意が足りないと思ったのか、もうひとつ「お(御)」をつけて、けっきょく「おみおつけ(御御御付け)」となったというのを聞いたことがあります。これもまた落語のような話ですが、古典文学にめっぽう詳しい大文豪、川端康成が書いていました。川端がどこかで聞き知った知識に違いありませんが、こうした丁寧の連続は日本人にはよくあることです。「お田」を貴族階級の女房たちが好んだのかどうかは知りようがありませんが……。


(コラム/3)
●漢字で表記されたカタカナ地名――余聞

 本文では「イギリス」をなぜ「英国」と書くのかについては書きましたが、アメリカについては、「合衆国」の由来のなかで、中国での最初の漢字表記「亜美理駕大合衆国」の紹介しかしませんでした。御存知の方も多いと思いますが、日本では昔、アメリカを「亜米利加」と書くのが一般的でした。だから「米国」なのですが、これは日本と中国とに共通のルールがあるわけではなく、発音に近い漢字を宛てていただけなので、こういうズレが起こっているのです。 音を宛てた漢字表記の国名は、中国ではまだ続いていますが、日本はすべてカタカナ表記になったので、今では廃れてしまいました。それでも、イタリア(伊太利)の伊、インド(印度)の印、オランダ(和蘭陀)の蘭、カナダ(加奈陀)の加、スペイン(西班牙)の西、ドイツ(独逸)の独、フランス(仏蘭西)の仏、など、わずか1文字で通じてしまう便利さから、新聞、雑誌やテレビニュースの見出しではこの「漢字1文字」がよく利用されています。
 ただ、ロシアは「日露戦争」と書くように「露西亜帝国」だったのですが、革命があって一度「ソビエト連邦」になったとき、「日ソ」という表現が生まれ、ふたたび現在の「ロシア共和国」となったので、ややこしくなりました。ほとんどのマスメディアや公式団体が、帝国時代のロシアと区別するために、現在のロシアの略記を「ロ」としているのです。「日露」ではなく「日ロ関係」なのです。
 ところで、こうした漢字表記は、漢字を音として利用しているだけと言いましたが、時折、漢字の意味をしっかり考慮したものがあるのです。
 例えば「牛津」。これは「オックスフォード(=Oxford)」と‘読みます’。「オックス」が「牛」で、「フォード」は、舟などが寄せられる浅瀬という意味があることから、そうした意味の漢字「津」を宛てました。「ハリーウッド(=Hollywood)」は「聖林」と書きます。クリスマス飾りの赤い実のついた枝葉の「holly 柊[ひいらぎ]」からですが「wood」と単数なのに、なぜか「林」。「グリーンランド」というデンマークの自治領は「緑州」。これは、わかりやすい!





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「文庫本」の歴史再考として――ある出版人の軌跡

2009年05月31日 12時57分04秒 | 書物および、愛書家・気谷誠に関すること





 下記は、あるフリーペーパーに寄稿した原稿です。ここ数年、大正・昭和初期の文化を、様々に調査・研究していますが、その過程で知りえた断片的事実から興味を広げてしまった結果を、まとめたものです。調査過程で、本郷の出版社「青蛙房」の2代目社主には、快く私の質問にお答えいただき、感謝しています。その後、ご挨拶をしそびれてしまいました。申し訳ありません。


■「アカギ叢書」と赤城正蔵
――わずか一年で散った希代の出版人

 出版社の歴史や、その創設者について調べていくと、しばしば、個人の情熱の深さや志の真摯さに打たれて茫然としてしまうことがある。「アカギ叢書」の発行人として日本の出版史の一隅に名を残す「赤城正蔵」も、そのひとりである。
 大正三年に刊行が開始されたアカギ叢書は、日本における文庫本発刊の草創期を飾ったシリーズで、いわば、日本の文庫本の元祖のひとつと言ってよいものとして知られている。ハガキ大の小型サイズ一〇〇ページで、価格はすべて十銭とした。それは、明治期に急速に進んだ日本の近代化過程で、書物による知識が一部の富裕層にしか普及していない状況を憂いてのことだった。「発刊の辞」は、次のように高らかに宣言されて結ばれている。
 「依って以て従来専門家、篤学者のみの専売に委したる宇宙の真理、学術の宝庫の、高価、厖大、難渋の三大門戸を開放して、あらゆる人士の活用に供せんとす。未だ善美を尽さずと雖、予が事業の第一声としては私に誇りとする所也。希くは大方の諸賢、幸ひに善導を賜へ。」
 大正三年三月のことであった。第一巻はイブセン作『人形の家』(執筆:村上静人)で奥付には「大正三年三月廿六日印刷」「大正三年三月三十日発行」とあり、発行者、発売元ともに「赤城正蔵」とある。
 巻頭に載せられたアカギ叢書の「発刊の辞」には、中学を卒業した後、生涯を捧げる職として書籍出版業を選定してその職に従事して六年を経たが、大正三年の元旦に、自身で出版業を興すことを決意したとある。彼をして、この壮大な企画を決意させた背景にあるのが、明治期の書籍の「高価、厖大、難渋」にあったことは、「発刊の辞」から十分読み取れるが、こうして当時の出版界を批判してアカギ叢書を発刊した時、赤城正蔵はまだ二十五歳だったという。
 赤城正蔵は明治二十三年に、東京九段辺りに店を構える和菓子屋の次男として生まれた。そして、明治四年に開校された日本最古の小学校のひとつ番町小学校から府立一中へと進学した。
 番町、麹町周辺は、薩長による明治新政府の官吏たちの多くが居を定めたため、この進学ルートは、彼らの子弟を養育するという色彩が強かったようである。いわゆるエリート養成の見えざるレールがあったようで、それは、戦後も学校群制度開始まで「番町小→麹町中→日比谷高校→東大」と、形を変えて温存されたルートである。
 赤城は、居住地の関係から、この進学ルートに組込まれたものと思われるが、商人の倅が、このルートに乗ってさらに「一高→東大」へと進むような時代ではなかった。だが、かなり成績は優秀だったようで、彼の書籍に対する興味なども、そうした環境での語り合う仲間から形成されていったものだろうと思う。推測の域を出ないが、同窓から大学へと進学した仲間の周辺との語らいから発展して、アカギ叢書の執筆陣が集められたようにも思う。そうでなければ、大正三年の正月に突然決意してその三ヵ月後に発刊、わずか一年後にはほぼ一〇〇冊の刊行に漕ぎ着けるなどという早業は不可能だったろう。中学を卒業後、実家の近くの出版社「同文館」に就職したが、結局、ここで前述の出版界への疑問を抱くに至り、六年後に一大決心をした後の、正に驚異的な偉業である。
 「アカギ叢書」は大正三年三月に第一冊目を刊行後、翌大正四年の六月までに百冊を越える点数となったが、その後の刊行はない。わずか一年余の短期間のことだった。
 発刊後、このように驚異的な勢いで次々と刊行されたアカギ叢書だが、それが発刊一年余で中止されてしまった理由について、語る人は少ない。多くの出版社史文献に於いても、「短命に終わった」「一年で百冊を刊行した」という記載はあっても、その休止の理由の記載がないものばかりで、また、その発行人赤城正蔵については、経歴のみならず「生没年不明」とするものさえ、未だに存在している。
 もともと明治・大正期の出版事情には浅学の私だが、「岩波文庫」の創刊準備で挨拶回りをしていた岩波茂雄に、「君がやろうとしているのは、昔あったアカギ叢書のようなものだな」という言葉が、あちらこちらから返されたようだという話を教えてくれたのは、帝塚山学院大学教授の山田俊幸氏である。ちょっと興味を持って、それほどに当時話題になっていたことならば、それがどのようなものだったかはすぐわかるだろうとタカをくくっていたのだが、そうではなかったのである。
 だが、「わずか一年で百冊ほど刊行されたが、その後、休刊」という記載が妙に心に残った。これは尋常ではない。何かあったに違いないと思って、様々な文献リストをあたっている中から、同叢書の詳細を調査した渡辺宏氏の著書『アカギ叢書』(日本古書通信社刊/古通豆本39)の存在を知った。本稿で先に私が紹介した生年や学歴などの情報も、もちろん、渡辺宏氏の著書によるものである。
 それによると、赤城正蔵は「アカギ叢書」発刊満一年を待たずして、大正四年三月十一日に肺病で、わずか二十六歳の生涯を終えている。そして、その後、家業の和菓子屋を営んでいた長兄の新輔が正蔵の事業も引き継ごうとしたが結局中止となり、大正五年までに廃業としたという。ただ、叢書とは別に安藤博著『徳川幕府県治要略』を赤城書店名で発行したという。その出版点数や、その後に与えた影響の大きさに比して、出版史でも稀なほど短命の出版社は、こうして、忽然と姿を消してしまった。
 おそらく、赤城正蔵の生涯を調査して記述した書として、渡辺宏氏の著書は唯一のものと思われるが、小冊子ながら相当の労作であり、わずかの手がかりから全貌をまとめるに至ったものと推察できる。直接縁故者と面談もされているが、渡辺氏にそうしたことを可能にした最初の手がかりとなったものは、同書の記載から推察するに、残された長兄が出版した、たった一冊の書『徳川幕府県治要略』を昭和四十年に復刻刊行した青蛙房社主(当時)岡本経一氏の「あとがき」だったようだ。
 その「あとがき」によれば、岡本氏は、自分に復刻版刊行を決意させたユニークな書籍の、無名の刊行者の正体を追っている内に、赤城正蔵の長兄と和菓子屋との接点に辿りついている。おそらく、この記述がなければ、渡辺氏の調査は、もっと困難を極めていたことだろう。岡本氏はこのあとがきを「一冊の本の歴史を追うと、そこには人間の歴史がある。(……)この本を作った人の面影をも、今わたしは思い浮かべるのである」と結んでおられる。これは正に、書物について調べる時の醍醐味であり、私にとっても、同じ思いであった。(たけうち・きくお/書籍編集者)

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