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チャイコフスキー晩年の闇と、未完に終わったはずの「ピアノ協奏曲第3番」の真実

2015年04月23日 16時35分03秒 | 私の「名曲名盤選」

 

 チャイコフスキー『ピアノ協奏曲』は『第1番』だけが人気曲で録音も多く、『第2番』『第3番』は、ほんのいくつかしかCDがないが、その中で、ペーテル・ヤブロンスキーのピアノ、シャルル・デュトワ指揮フィルハーモニア管弦楽団による演奏が、私の知る限りでは最上の録音だと思っている。
 私がこの両曲を初めて耳にしたのは、もうずいぶんと昔のことで、1972年のギレリスとマゼールによるEMI録音の『ピアノ協奏曲全集』だった。だが、ヤブロンスキー/デュトワ盤を聴いたとたんに、その、遠い昔の記憶が、「とりあえず、音にしてみましたので、聴いてください」といった感じの、通り一遍の演奏に過ぎなかったのだと思い出されてしまった。
 天下のギレリス/マゼール組に対して、ずいぶんな物言いだが、実際、当時はそのくらいに珍曲の録音だったはずで、挙句の果てに、「つまらない曲だなぁ」と思って、それきりになったのだから罪深い。同じ時期だったか、このギレリス盤の少し後だったかに発売されたウェルナー・ハース盤の「1番/3番」のレコード(バックのオケや指揮者が誰だったも忘れていた)は、とうとう聴かず終いになってしまった。この稿を書くに際して調べてみたら、それは若き日のインバル指揮モンテカルロ歌劇場管で、10年以上前に欧州盤の2枚組CDがフィリップスから出て現在は廃盤だが、先日、イギリスからの中古盤取り寄せに成功した。今更ながらである。

 ヤブロンスキーとデュトワとの演奏は、日本盤ライナーノートに掲載されている伊熊よし子氏による録音セッション前の面会証言にもあるとおり、二人とも明らかに、曲のイメージに確信を持って録音に臨んでいるのが、よく伝わってくる。作品に対する「共感と愛情」が生んだ名演なのだ。
 「第2番」は、初演直後に「しつこ過ぎる」という批判によって作られたシロティ版(作曲者自身が認めた短縮版とされている)となる前の、チャイコフスキーのオリジナル・バージョンで演奏している。(ギレリスをはじめ、今日、一般に演奏されているのは「シロティ版」のはずである。)そして「第3番」は、完成した部分(第1楽章)に続けて、スケッチしか残っていなかった第2楽章(アンダンテ)と第3楽章(フィナーレ)が、チャイコフスキーの弟子でもあったタニェーエフによるオーケストレーション版(「アンダンテとフィナーレ」op. 79)で、続けて収録されている。つまり、これらを通して聴くことで、通常の3楽章構成の協奏曲完成版として鑑賞できる仕立てだ。
 タニェーエフのオーケストレーションも、なかなかに愛情のこもった仕事で、チャイコフスキーの着想への深い共感と想像力が、まとまりのよい音楽としての仕上がりを生んでいる。この「完成版第3協奏曲」によって私は初めて、チャイコフスキーの最晩年の心境の一端を聴く想いがしたと言ってもよい。
 「ピアノ協奏曲第3番」には、もともと交響曲として構想され、それが行き詰まった末に、「メロディの着想がヴィルトーゾ的だから、協奏曲に向いているのではないか」という認識で方針変更された作品だという逸話がある。
 だが、チャイコフスキーの脳裏に最初に浮かんだタイトルは『人生』だったという。それが結局、協奏曲化にも行き詰まって未完のまま、第一楽章のみの単一楽章の協奏曲作品として残されてしまったのは、決して偶然ではないはずだ。「交響曲」から「協奏曲」へ変更していく苦悶に満ちた音楽の、ギシギシときしむ様が、ヤブロンスキー盤からは聞こえてくる。この曲は「ヴィルトーゾ的」な作品などではなく、「人生」という抽象的な概念を音化しようとした「交響曲」となるべき素材だったはずだ。

 じつは、作曲者の死後半世紀も経った1950年代に、当時新進気鋭の作曲家だったボカティレフという人物が、『交響曲第7番』(つまり、「悲愴交響曲」の次に位置する交響曲)として、編曲した作品が存在する。これは、当時のソビエト連邦内で録音された後、1960年代の後半に、オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団が録音したレコードが発売されて、西側でも広く知られるようになった。
 このオーマンディ盤も、私は発売当初に聴いた記憶があるが、何しろまだ中学生だった時代である。その時の印象は、とにかく派手なだけの空疎な曲、の一言に尽きた。ところが、つい最近、ドミトリー・キタエンコ指揮ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団が演奏したCDで聴いた『交響曲第7番』では、すっかり感激してしまった。

 ボカティレフの編曲は、「協奏曲第3番」の第2楽章としてスケッチが残されている「アンダンテ」を第2楽章に、同じく「協奏曲第3番」フィナーレのスケッチを第4楽章としてオーケストレーションを施し、第3楽章として、チャイコフスキーの晩年のピアノ小品の旋律を素材にして創作された、というものなのだが、これがまた、愛情にあふれた傑作なのである。ひと息で聴いてしまい、何の違和感もなく感動する、よく出来たひとかたまりの「世界」だ。編曲者のチャイコフスキー観に揺るぎのないものを感じるだけではなく、それを、共感と畏敬の念を持って音にしている指揮者とオーケストラの世界をも感じる、聴き応えのあるCDである。「ピアノ協奏曲」とするよりも、交響曲的な響きのほうが似合っていると確信する充実した響きだ。
 そして、スケルツォ的に仕上げられた「第3楽章」が、しっくりと配置されていることに驚く。私は、晩年のチャイコフスキーは「音楽の抽象化」という陥穽(=落とし穴)に迷い込んでいたと見ているが、そのチャイコフスキーが、「交響曲」か、それとも「協奏曲」か、と考えあぐねた末に頓挫してしまった原因が、ここで見事に解決されているように思った。傑作である。ちょっと大げさかも知れないが、「他人の手によって、こんなことも起こるんだなぁ」と、感慨無量だが、これは、キタエンコの周到な運びの演奏によって気づかされたことでもある。
 そう思った瞬間、むかし聴いた「オーマンディ盤」が、どうだったろう――、協奏曲での「ギレリス/マゼール盤」と同様のものだろうか、と、にわかに確かめたくなってしまった。因果な性分である。
 ――というわけで、キーワード「チャイコフスキー 交響曲第7番 オーマンディ」で検索したら、たちどころに見つかった。『オーマンディ/チャイコフスキー録音集』の12枚組CDボックスに収録されていた。かなり安価である。即、購入。そして、もちろん、ギレリス/マゼールの『協奏曲全集』も我が家のCD棚から数十年ぶりに引っぱり出した。どちらも40数年前の印象が間違っていたのかを確かめなくてはならないと思ったからである。

 翌日さっそく、アマゾンから「オーマンディ/チャイコフスキー録音集」が届いたので聴いてみた。すると、やはり、キタエンコの指揮で聴くのとは大違いだった。オーマンディ盤は、兎にも角にも華麗に力強く、猛烈な推進力で駆け抜けるきらびやかな世界を提示している。スペクタクルなサウンドと言っていい。「序曲1812年」のような世界、と言えばわかりやすいだろうか。これは、オーマンディにしてみれば、少しでも立派な曲に聴こえるように配慮してのものだろう。いわば、善意から出たものだ。
 もちろん、こうした改変作品にありがちなこととして、オーマンディの録音は「譜面が違うのではないか?」と、知人にも言われたが、基本は変わっていない。序奏部を短縮しているようだし、一部に楽器の補強などもあるが、総じて、指揮者の解釈上の「方向性の明確化」の範囲での変更といってよい。つまりは、「解釈」の方向性の違いにこそ目を向けるべきなのだ。
 この傾向は、「協奏曲」版となると、更に顕著だ。ギレリス/マゼール盤は、各部分の音の動きを克明に追って素早く駆けずり回る、おそろしく丁寧で細かな表現を徹底して行い、その名人芸ぶりで、これもまた凄い。ギレリスの指の動きとマゼールの指揮棒の技術だけに限れば、これほどに鮮やかな演奏は、めったに聴かれない。ハース/インバル盤は、このスピードとクリアさではとても及ばないが、この曲の名技性を前面に押し出すことでは共通で、しかも、オーマンディの交響曲版に通ずるスペクタキュラーな作品として提示している。つまり、この時代、1970年代ころのチャイコフスキーに対する認識の根底にあったものは、共通しているのだ。
 だが、先にも書いたとおり、ヤブロンスキー/デュトワやキタエンコ/ギュルツェニヒ管でチャイコフスキー最晩年の未完に終わった作品を聴くと、そのイメージががらりと変わる。不安や焦燥感が何物かへの切なる願いと交錯し、その彷徨う心はどこまでも深く沈み込む。――これが、私たちが「悲愴交響曲」の終楽章アダージョで知り得たチャイコフスキーの深い闇なのだ。
 そして私自身は、そのことに気づくまでに、半世紀近い年月が経過してしまったわけである。
【付記】
ロシアの外貨稼ぎイベントに連動するようにしてPRが凄まじかった新しい3楽章バージョンの「第7交響曲」には、私は関心がない。喧伝する人々の動機に胡散くさいものを感じるからだ。

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私の「名曲名盤選」のその後と、C君とのやりとりについて

2015年04月22日 11時33分30秒 | 私の「名曲名盤選」

 たまたま数年前に、あるところで知り合ったC君の質問に答える形で、このところ毎週のように、私が過去に執筆したいわゆる「名曲名盤」のその後の変遷を再考したり、これまで一度も書いたことのない曲目のさまざまな演奏を比較試聴する機会が増えてしまった。
 私自身の考えを整理する意味でも興味深い依頼だったので、気軽に引き受けてしまってから、じつは、もう3年くらい経ってしまった。まったくの初心者だったはずのC君だが、もともと音楽への勘の良さと、文芸全般に対する幅広い知識を持ち合わせているので、最近では、私自身にずいぶんと刺激になる変化球を投げてくるようになった。彼の質問に答えたいことが度重なる最近は、私自身が彼の問いへの答えを、嬉々として書き連ねているようにも感じてきている。
 そこで、今後、そうした彼とのやりとりの中から、書き留めて置きたいと思ったことを、少しずつまとめて行こうと思う。長年続けてきた書籍編集者としての自分の仕事を振り返ってみても、私自身が良き読み手になれた時が、それぞれの著者から一番いい原稿を受け取れていたように思う。
 じつは、先日のファリャ『スペインの庭の夜』もそのひとつなのだが、多少書き直して整えたとはいえ、そこに残された筆致でもお分かりのように、あくまでもまだメモ書きの延長上にあるもので決定稿ではない。いずれ、『名盤つれづれ記』のような形でまとめる折にでも細部を検討するつもりだが、問題提起の一種として、これからの「C君への回答」のこのブログでの先行掲載をお読みいただければ幸いと思っている。
 第1回目は、明日、掲載する予定にしている。

 

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ファリャ『スペインの庭の夜』を聴くCD

2015年04月06日 16時35分58秒 | 私の「名曲名盤選」

 先日、友人のC君に、ファリャの『スペインの庭の夜』を聴きたいのだが、と問われて、何とはなしに、ラローチャで聴けばいいのでは、と答えてから、ちょっと考え直し始めて、少々深追いしてしまったので、そのことを「メモ書き」することにした。
 まず、我が家のCD棚のラローチャを収めた辺りを眺めていて、ラローチャ自身が英デッカにステレオで2種の録音を残していることに、うかつにも、初めて気づいた。何度か組み合わせを変えて様々なアルバムに登場するのはフリューベック・デ・ブルゴス指揮ロンドン・フィルとの80年代録音のようで、私がずいぶんむかしにLPレコードで聴いて印象に残っている、それ以前の70年代にセルジュ・コミッショーナ指揮スイス・ロマンド管弦楽団とで録音したものは、ほとんど顧みられていないようだ。私はこのラローチャ/コミッショーナのCDは、ハチャトリアンの『ピアノ協奏曲』を聴くときに、国内盤で購入していた。アルベニスやグラナドスなど、他のスペインの作曲家の協奏的作品集を、組み合わせが異なるもので2種、海外盤を購入したときに、ファリャについて、さほど気に留めず、同じものと早合点していたものだ。
 今回、改めて聴き比べてみた。
 コミッショーナ指揮の70年代録音の方が、ラローチャのピアノも伴奏のオーケストラも音楽の表情が生き生きしていて、豊かな広がりを感じるが、そのラローチャと80年代に協演した指揮者フリューベック・デ・ブルゴスは、何の感興もない凡庸な指揮ぶりで、「スペインの庭の夜」という曲を「つまらない音楽」にしてしまっている。だがそれは、おそらくラローチャのピアノに原因がある。
 というのは、同じフリューベック・デ・ブルゴスが、仏EMI盤のゴンサロ・ソリアーノとの協演では、打って変わって表情豊かにオーケストラをドライブしているのだ。ファリャの音楽には粗削りなところがあって、それが、ラローチャの手にかかると、妙に洗練され過ぎてしまうことがある。ラローチャはスペイン出身のピアニストだが、ある時期から、決してスペイン音楽は得意ではなくなってしまった人ではないかと思っているのだ。それが、「洗練」という魔物の正体でもあるわけだが、おそらくそれは、70年代から少しずつ始まっていたと思う。
 ラローチャというピアニストに私が初めて接したのは、ソニーがニューヨークのスタジオで単発的に収録して発売した『ラヴェル集』だが、それは、正に、スペイン音楽的イディオムを洗練させた、じつに鮮烈な演奏だった。そして私はその後、むしろ、モーツァルトを弾くラローチャを中心に聴いていたような気がする。

 

 さて、この写真の仏EMIによるCD5枚組アルバムは、標題どおり、アルベニス、グラナドス、ファリャのピアノ・ソロ作品を集めたものだが、最後の余白に『スペインの庭の夜』が収録されている。ソリアーノのピアノを支えるオーケストラはフルーベック・デ・ブルゴス指揮のパリ音楽院管弦楽団である。このちょっと野卑な味わいもあるソリアーノの『スペインの庭の夜』からは、じつに「いい音楽」が聞けるのだ。結局、C君には、この演奏を第一に勧めることにした。
 ファリャ作品を収めた5枚目のCDの前半で独奏曲を弾いているテレサ・ラクーナという女性ピアニストも、中々いい。リズムが良く、繊細でありながら、強い色彩のほとばしるファリャを弾いている。この人の名前は、このアルバムで、最近になって初めて知った。あまり録音がないようだが、どうやら健康を害して短期間の活動だけで第一線を退いたらしい。ただ、その後、後進の指導に尽力し、現在は、彼女の名前を冠した国際ピアノ・コンクールまであるという。この5枚組アルバムで登場するほかに、どんな録音が残されているのか、ちょっと興味を持ったので調べてみたいと思っているが、まだ果たせていない。今のところ、EMIにショパン録音が少しあることがわかっているだけだ。
 いずれにしても、この5枚組アルバムは、興味深い演奏が満載だ。ソリアーノは、グラナドスの『スペイン舞曲集』やアルベニスの『スペイン組曲』も弾いているが、ここで他の作品を弾いているミシェル・ブロックも、これを機会に、ゆっくり聴いてみたいと思った。
 そのほか、この5枚組のピアニストには、グラナドスの『ゴイェスカス』でアルド・チッコリーニの名が出てくるが、ラローチャの名はない。ご存知の方も多いと思うが、最近EMIの廉価BOXシリーズで発売されているラローチャの録音は、スペインのイスパヴォックス原盤のもので、20年近く前にCD化されたときには、確か新星堂が直輸入盤として発売したものと同じだと思う。このイスパヴォックスへの一連の録音をした時期のラローチャも、そうした視点で、ゆっくり聴き直さなければならないと思った。
 じつは、最後になったが、白状すると、写真の5枚組の仏EMI盤は、つい最近になってたまたま通りかかったリサイクル・ショップでの掘り出し品。例によって、「ガラクタのなかから救出した」CDである。
 

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アルバン・ベルク:『ヴァイオリン協奏曲』の名盤

2011年01月05日 11時37分40秒 | 私の「名曲名盤選」



 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第53回」です。本日が最終回です!


◎アルバン・ベルク:「ヴァイオリン協奏曲」

 調性感の喪失と獲得との間で交わされるドラマ――いわば、人間の顔をした十二音技法を、どのように表現するかが、この曲の演奏の聴きどころだ。
 そうしたこの曲の本質を、周到な準備の末に、しかし最終的にはほとんど直感的に掴んで実現している一九三六年の古い録音が、突然CDで登場した。初演のわずか十二日後に初演者のルイス・クラスナーの独奏、アントン・ウェーベルン指揮BBC響で行われた演奏会の録音だ。クラスナーが保管していたアセテート盤から作られたこのCDは、かなり音質的にも改善され、クラスナーの回想の言葉を借りれば、「最高の霊感を受けた瞬間の再創造」を聴くことができる。それは第一楽章のアレグレットに入った部分の足どりを聴いただけでも、これが〈ある特別な日〉の〈選ばれた人々〉による演奏であることが納得できる。この曲はここから出発し、未だにさまよい続けているのだ。
 その後の演奏では、まずスーク/アンチェル盤を挙げたい。この音楽が持っている豊かな色彩感やイメージを、インスピレーションに溢れたみずみずしさと、的確な節度を保った歌心を持込んで描くことに成功した名演だ。
 また、バルトークと親交のあったジェルトレル/クレツキー盤も、豊かで大胆な感情表出だが、枠組みがしっかりしている。よく整えられたオーケストラとやりとりするジェルトレルの即興的な呼吸も良い。
 このクラスナー/ウェーベルンの世界に共通する面を持った2種の演奏は、現在いずれも廃盤だが、そうした精神を、我々の日常に近いところに引き寄せた最新の演奏がツィンマーマン/ジェルメッティ盤だ。
 一方、メニューイン/ブーレーズ盤は、精緻なオーケストラで、この曲から、揺れ動く精神の波動を奪い去ってしまったが、ひとつの可能性を示唆する演奏ではある。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 この原稿が最初に『レコード芸術』誌に掲載された時は、冒頭で触れたクラスナー盤は未発売だったので、スーク盤から書き出しています。ムック化されたレコード芸術・編の『名盤300』も同文のままです。クラスナー盤についての記述は、洋泉社から出版された『コレクターの快楽』に収録する際に書き加えたものです。クラスナー盤を聴くことで、むしろその後の演奏の流れが見えてきた思いがしたのを覚えています。
 ツィンマーマン盤は、あくまでも「代用品」です。それは強調しておきます。スーク盤、ジェルトレル盤ともCD化されましたし、それが今カタログから消えていても、執念で世界中の市場をネットサーフィンすれば、それほど高価でなく入手できるはずです。便利な時代です。
 さて、その後の演奏としては、チョン・キョンファ盤はちょっと方向に疑問があります。むしろ、ウルフ・ヘルシャーと若杉弘/ケルン放送響との録音は、過渡期のスタイルの演奏として、感情の表現に傾聴させられたのを記憶しています。この曲が抱えている「悲しみ」が多分に時代精神を孕んだものであるだけに、現代に生きる私たちの中からは、しばらくはメニューイン/ブーレーズ盤の延長上の佳演を探すしかないのかとも思っていますが、さて――。何か、興味深い演奏をご存知の方、コメントをお待ちします。



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バルトーク:『弦楽器・打楽器とチェレスタのための音楽』の名盤

2010年12月17日 17時12分47秒 | 私の「名曲名盤選」



 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第52回」です。


◎バルトーク:「弦、打楽器、チェレスタのための音楽」

 この曲は、数年後にやってくる二度目の世界大戦突入への不安感に世界中が蔽われていた一九三六年に作曲された。
 この〈緊張の時代〉を背負った作品の気分を正当に表現し得た演奏として、ナチの時代をしたたかに生き抜き、戦後十余年を経てベルリン・フィルを手中に収め気力の充実し切っていたカラヤンの、1960年の旧録音がまず挙げられる。カラヤン盤の異常な緊張は、この曲の録音史上で空前のものと言え、楽員と一体になっての音楽の高揚は、時に魂が張り裂けんばかりの悲痛さを伴って感動的だ。この戦後の音楽界に君臨した巨人は、あたかも高度成長時代の申し子のように思われがちだが、この演奏は、戦争を知らない私のような世代の人間に、彼等が生き抜いてきた時代がどれほど苦渋にみちたものであったかを伝える貴重なドキュメントだ。
 晩年のバルトークと親交があり、そのよき理解者で援護者でもあったライナー/シカゴ響盤も、そうした緊張を孕んだ名演だが、カラヤンのような情念を持ち合わせていないライナーの棒は、全体を透徹した目で見通しており、リズムアクセントも鋭い。
 その後の世代では、バーンスタイン/ニューヨーク・フィルの演奏は、作品の緻密さと、そこに留まっていられないバーンスタインの内燃する精神とのアンバランスが産み出す緊張が興味深い。ブーレーズ/BBC響のシンメトリックな構成感と好対称を成していた。
 しかし、この作品も、やがては時代のなかから屹立し、作品として自立して行かねばならない。レヴァインの音彩の豊かな演奏は、そのことを予感させる。特に、第二楽章の力強く骨太な表現には、かつてこの作品に脆く傷つきやすい精神を嗅ぎ取っていた先人たちの共感が、忘却されはじめたことを明らかにしている。さらに若い世代による今後の演奏にも期待したい。


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ストラヴィンスキー:『春の祭典』の名盤

2010年12月10日 13時48分59秒 | 私の「名曲名盤選」



 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第51回」です。


◎ストラヴィンスキー:「春の祭典」

 『春祭』の録音は、戦前の作曲者自身や初演者モントゥーのものだけでも何種類とある。彼ら二人のレコーディングでは、ストラヴィンスキーはコロンビア響とのステレオ盤、モントゥはボストン響とのモノラル盤が特に推奨できる演奏だ。どちらもスキャンダラスな初演の衝撃的な逸話など無縁なように、気負いのない確信に満ちた演奏で、この曲の「正統」を伝えている。
 その後この曲はマルケヴィッチ、ブーレーズなどによって、時代とともに変貌を続けてきたが、戦後世代のT・トーマス/ボストン響盤は、リズムの軽快な、〈走り〉のよい演奏だ。この演奏の登場によって、かつての革新的バレエ曲は、現代人に耳あたりのよいエンターテイメント・ミュージックへと変貌したとも言える。
 もっと若い世代のラトル/バーミンガム市響盤は、リズムを刻む音の輪郭は一つ一つ大切にし、咆哮する音を手短かにはさみ込んでゆくことで、疾走感を表出することに成功している。「春のロンド」での自在な音の伸び縮みによる耽溺も魅力だ。
 サロネン/フィルハーモニア管盤になると最早、何も堰止めるもののない颯爽としたプロポーションの、駆け抜ける音楽と化してしまう。ここでは、大地に眠る神もいなくなったかのようだ。
 T・トーマス以来、それぞれ個人差はあるものの、いずれも何らかの意味で〈走り〉のよい演奏に注目が集まってきたが、その中でマゼールがクリーヴランド管と行った録音での、各場面の細部を異様にデフォルメした演奏が、七〇年代以降では、突出したアプローチだった。ケント・ナガノ/ロンドン・フィルも、各場面ごとに描き分けてゆく〈語り物〉的な達者さで聴かせるが、マゼールが原色の対立で鋭角的に表現しているのに対して、ナガノは、色彩相互の融合を基本にしている。この曲の演奏の、新しい傾向と言えるだろう。

【ブログへの再掲載に当たっての追記】
 もうずいぶん長いこと、この曲を聴いていません。久しぶりに自分の書いた文章を読み直して、「さて、その後、どんな演奏があっただろう」と考えましたが、思い出せません。この曲が、「刺激的」であった時代は、完全に過去のものになっています。つまり、この曲をどのように演奏するか、ということが、取り立てて話題にはならないほど、スタンダード名曲的な収まりを持ってしまったということでしょう。新人指揮者が、「僕は、こうだ!」とメッセージを出す曲目ではなくなったのです。
 でも、ここまで落ち着いてしまうと、そろそろ、とんでもなく斬新な演奏が現れてくるようにも思います。
 文中に出てくるラトル/バーミンガム市響の演奏は、私が初めて『レコード芸術』誌に書いた原稿のテーマでした。その時は、私は、ラトルの「新しさ」にびっくりしたものですが、当時、それを感じる聴き手は少なかったのです。その時の原稿は、当ブログで2~3年ほど前に再録しました。ご興味のある方は、この画面の左欄をず~っと下へスクロールして、「ブログ内検索」の文字列に「ラトル」と入れれば、出てきます。ほかのラトル関連も出てきますが。その際、20歳のラトルデビュー時の「春の祭典」録音(学生オーケストラを振ったものです)のCDに私が書いたライナーノートも出てくるはずです。合わせてお読みいただけるとうれしいです。
 マルケヴィッチは、発売当時は、一種の「野獣派絵画」世界のようにもてはやされた演奏ですが、私がこの聴き比べ原稿を書いた時点では、それほどのインパクトはありませんでした。世の中の日常の方が、よほど騒々しかったのです。
 むしろ、60年代後半だったと思いますが、カラヤン/ベルリン・フィルの滑らかな演奏とバーンスターン/ニューヨーク・フィルのモノクロ映画のような奇妙な色彩感の世界などが、思い出されます。
 ここまで書いて、思い出しました。昨年、『クラシック反入門』(青弓社)に書いたユージン・グーセンス/ロンドン響の演奏は、ちょっと興味深いものでした。181ページに載っています。グーセンスはイギリスでのこの曲の初演者だそうですが、ある意味ではモントゥやマルケヴィッチも含めて、バレエのショウピース風なアプローチの派手な見せ場を意識した演奏が当たり前だった時期(1950年代)の、落ち着いたコンサートピースとしての作品演奏の原初的演奏かも知れないと思いました。


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再度、アタミアンについて(訂正とお詫び)など

2010年09月03日 10時40分16秒 | 私の「名曲名盤選」

 先日、8月31日付の当ブログで言及したディックラン・アタミアンについての記述の訂正です。
 プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番のCD(ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲とのカップリング)は、アメリカのマイナー・レーベルDELOS(デロス)から発売されているものでした。規格番号はDE-3155です(写真参照)。伴奏はジェラルド・シュウォーツ(と表記するのでしょう)指揮のシアトル交響楽団です。不用意に「米RCAか?」と書いてしまいました。お詫びして訂正いたします。いずれにしても1994年の発売ですが、アマゾンやHMVから多少の日数がかかるものの入手はできるようですので、それほどの入手困難盤ではなさそうです。ナクソスからピアノ版のストラヴィンスキー『春の祭典』も出しているピアニストでした。フルネーム綴りは「Dickran Atamian」です。
 マガロフ/マタチッチ盤は仏ディスク・モンテーニュ盤であることは、現物を見ましたので間違いありませんが、2枚組というのは私の勘違いで、1枚物でした。うろ覚えで書いてしまって申し訳ありませんでした。これは、別のレーベルから出ているといいのですが、そうでないと、かなりの入手困難盤かもしれません。
 なお、先日の「付記」では触れませんでしたが、プロコフィエフのピアノ協奏曲には、バイロン・ジャニスの独奏にコンドラシン指揮モスクワ・フィルが伴奏を付けている米マーキュリー盤もあったことを思い出しました。これも、見かけたら「買い」です。


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プロコフィエフ:「ピアノ協奏曲第3番」の名盤

2010年08月31日 17時00分21秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第50回」です。

◎プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第三番

 この作品は一九一七年のロシア革命後の混乱を避けて故国を離れた作曲者が、その長い流浪時代に入ってからの作品だが、スケッチはまだ作曲者がペテルブルグ音楽院に在学中の頃と言われている。第一楽章の冒頭、ロシアの大地への望郷の念を思わせる短い序奏があり、それは、すぐさま、強烈な打鍵による〈モダニスト〉プロコフィエフの姿に取って代わられる。このあたりを耳にしただけでもマガロフ/マタチッチによるライブ盤は、他の演奏を寄せ付けない強烈な印象で迫る。望郷の旋律の深々とした息づかい、決然と入るピアノの力強さ。互いに挑発的なソロとオーケストラの緊張にあふれたやりとり。第二楽章では骨太の土臭さと対比された〈都会的洗練〉が、その宿命的な孤独を見事に描く。音楽の内実への共感の深さが生んだ名演だ。
 アルゲリッチ/アバドの一九六七年録音は、若き日のこのコンビの、みずみずしくほとばしる音楽の魅力にあふれている。それは時代の閉塞的状況に対する力強い一撃として、60年代の終わりには格別の意味を持っていた。アルゲリッチが、我々の時代の旗手として認知された演奏だ。
 全集を完成しているベロフ/マズアとアシュケナージ/プレヴィンでは、ベロフが音の運動体としてのこの曲の側面に率直なアプローチで迫り、ダイナミックでありながらニュアンスの細かな達者なピアノを聴かせる。現代演奏の一つの帰結だろう。一方のアシュケナージは情感の豊かな翳りのある演奏スタイルだが、それが演出と悟られてしまうところにこの世代の不幸を感じる。
 だが、この曲が内包する世界へのこだわりがまったくない、スポーティと言ってよい演奏が現われた。アタミアン/シュワルツ盤だ。爽快さで貫いたと言っても言い過ぎではない演奏だ。この曲も新たな時代に入りつつあるのだろうか?

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 マガロフ/マタチッチ盤は、仏ディスク・モンテーニュから発売された2枚組の放送録音(ライブ音源)だったと思います。アルゲリッチ/アバド盤はDG、べロフ/マズアはEMI、アシュケナージ/プレヴィンはDECCAですが、アタミアン盤が思い出せません。米RCAだったかもしれませんが、とても印象的でした。フルネームはディックラン・アタミアン。名前から言ってアルメニア系と思いますが、アメリカで活躍している異色のピアニストで、このCDはハチャトリアンの協奏曲とのカップリングです。ハチャトリアンの曲の演奏を収集している時に購入したCDです。今日現在、当方のコレクション中にちょっと見当たらないのですが、近々、見つけ出して、レーベルなど詳細を掲載します。(いずれにしても日本盤はないようですが。)
 この原稿を書いて以降は、この曲を追いかけていませんので、断定的なことは控えますが、あまり状況に変化はないように思います。キーシンとかゲルギエフの名前が、現在のアマゾンを検索すると出てきますが、あまり食指が動きません。それよりも、マガロフとアタミアンを聴き直したくなりました。正直なところ、この原稿を書いていた当時、私自身が何を感じていたのかは思い出せませんが、ただ、読み返してみて、私がこの曲を通して、何を考えていたのかだけは、思い出しました。おそらく、この演奏チョイスは、今やりなおしても、それほど変わらないような予感がするのです。







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プロコフィエフ:「交響曲第5番」の名盤

2010年08月17日 10時41分28秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第49回」です。


◎プロコフィエフ:交響曲第五番
 第二次大戦の最中に疎開先で作曲され、終戦間近の一九四五年一月にモスクワで初演が行われたこの交響曲は、直接戦争を描いた作品ではないが、その根底に時代を反映した〈悲壮感〉が漂う交響曲のひとつだ。だが、作曲者自身が〈自由で幸福な人間への賛歌〉と呼ぶように、プロコフィエフのもつ健全な明朗性とアイロニカルな姿勢が悲劇を喜劇化してしまうことで、この曲を悲劇の暗部へと追い込むことから救っている。また、深い歌にあふれた〈悲壮な抒情性〉というべきものが、メカニックで力強い部分と共存していることがこの曲の魅力とも評されている。
 そうした背反する二面性を表現した初期の演奏として、マルティノン/フランス国立放送管の録音は、ぜひとも聴いておきたいものだ。これは米ヴォックスによる〈プロコフィエフ交響曲全集〉の中の一曲だ。マルティノンは、この曲から甘い香りの漂うニュアンス豊かな音楽をも引出しており、オケの金管群の輝かしく明るい音色も、この曲の演奏では屈指のものだ。リズムの微妙な崩れが、この曲の皮肉っぽい側面をチャーミングに聴かせてもいる。
 マゼール/クリーブランド管は、息の長いフレージングで旋律線を精妙につないでいく〈作られた抒情性〉が、濁りのないオーケストラ・ドライブの中からくっきりと浮かび上がる演奏だ。ニュアンス豊かな表現だが、シリアスに過ぎるとも言える。
 ムーティ/フィラデルフィア管は、躍動するリズムと深い歌心に溢れた部分とがバランスよく配置された演奏だが、マルティノンの自在さに比べると全体に表情が硬い。
 その点、ラトル/バーミンガム市響は、すっきりと通った旋律線を確保しながら、音色や、音量の変化に敏感に反応する自在さが、聴くものを掴んで息も付かさず離さない。中間の2つの楽章の充実した表現は、マゼール盤以来、久々の名演だ。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 20世紀に書かれた「交響曲」分野で、興味深い作品のひとつですが、まだ、決定打というべき演奏に、私は出会っていません。
 この曲の演奏には、まだ、たくさんの課題が眠っています。それを掘り起こすのは誰なのだろうと思っています。


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レスピーギ:交響詩「ローマ三部作」の名盤

2010年08月02日 12時11分27秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第48回」です。

◎レスピーギ:「ローマ三部作」

 「ローマ三部作」と呼ばれるこの作品は、いずれも色彩感豊かなオーケストレーションの魅力にあふれているが、「噴水」「松」の二作がローマ各地の名所に材を採った絵画的作品であるのに対し、「祭」は歴史上の祭に材を採った叙事詩的作品と言え、重厚でドラマティックなサウンドの、やや異質な音楽となっている。
 この作品では、トスカニーニ/NBC交響楽団の歴史的名盤が有名だ。確かに前二作では、そのきらめく色彩感に加え、特に「松」の第一曲や第四曲のコーダの盛り上がりなどの湧き立つようなリズムの魅力は、未だにひときわ光彩を放っていると言える。先へ先へと突き進んで行くトスカニーニ独特の前のめりの音楽は、この曲の持ち味と見事に一致している。
 その迫力には、輝かしい色彩を確保しながら、その中に味わい深い陰影を取込んだムーティ/フィラデルフィア管盤も、一歩遅れをとっていると言わざるを得ない。だがムーティ盤は、「松」の第二、三曲のように深く沈潜していく気分の表出では、トスカニーニの成し得なかった表現を成功させている。
 むしろ、トスカニーニ盤の明快なバトンに対抗し得るのはドラティ/ミネアポリス響によるマーキュリー盤だ。特に「泉」での、色彩の中に芯の強さを感じさせる手応えは見事だ。ただし、ドラティ盤は三部作の内の「泉」と「松」のみで、「祭」は収録されていない。
 これとは反対に「松」を二度、「祭」を一度録音しながら、「泉」は一度も録音していないのがマゼールだ。そのマゼール/クリーヴランド管は二度目の「松」の録音に「祭」がカップリングされている。「祭」は、この曲の叙事詩的側面をクローズアップした演奏としては、ムーティの濃密な表現のドラマを更に推し進めて感情のドラマを抉り出しており、曲趣に合致している。




 
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シベリウス:交響詩(音詩)「タピオラ」の名盤

2010年07月23日 10時54分39秒 | 私の「名曲名盤選」



 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第47回」です。


◎シベリウス:「タピオラ」
 シベリウスの内部で次第に深められていった内省的傾向の、頂点とも言うべき傑作で、題名の〈タピオラ〉とは北欧神話〈カレワラ〉中の、森の神の領土を意味している。シベリウスはそれまでにいくつもカレワラ伝説に材をとった英雄譚などを交響詩化しているが、自身の内面へと自己の感性を深く下ろしていったシベリウスが、ここに至って大自然の象徴としての〈森〉そのものを主題として作曲してしまったということだ。
 マゼール/ウィーン・フィル盤は、そうしたシベリウスの心理的深みへと鋭く分け入った緻密で冷悧な演奏で、そこに近代人の閉塞的状況からの脱出口を見いだそうとする、感動的な演奏だ。これはマゼール/ウィーン・フィルにとっても「シベリウス・交響曲全集」の一連の録音で、最後に収録された曲だが、彼等の新しいシベリウス表現の最後を飾るにふさわしい演奏だ。
 カラヤン/ベルリン・フィルによる一九六四年盤も表現意欲の旺盛なアプローチで、この複雑に絡まり合う音の襞(ひだ)を丹念に追った名人芸的演奏。カラヤンは今世紀の音楽に対して時折、真摯な問題意識の発露を聴かせるが、それが、ここでもはっきりと聴きとれる。カラヤンが現代の病んだ抒情感覚に抱いていた危機意識について、気付かせる演奏だ。
 それらに比べるとベルグルンド/フィルハーモニア管盤は、実になだらかで聴きやすい叙景詩的表現で、北欧風の音彩の表出も的確な、親しみやすい演奏だ。これは、実に美しい風景画の世界だ。もともと、この曲は〈シベリウス管弦楽曲集〉を録音する時に避ける指揮者も多い難曲だが、ベルグルンドは幾度も録音している。それだけに細部まで確信にあふれた堂々たる表現で、少しも迷うところがない。一方の名演だ。フィルハーモニア管の機能的な優秀さに負うところも大きいだろう。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 自分自身の一昔前の原稿を読み返して、思わず「う~ん」と唸ってしまいました。7月13日の当ブログ「シベリウス:交響曲第2番」と合わせてお読み戴きたいと思っています。
 シベリウスの音楽については、まだ一般的な意味での20世紀の西洋音楽史上での位置づけが出来ていないわけですが、私自身も、まだ揺れています。ロマン派時代に肥大していった「過剰な自意識」が、マーラーを頂点として終息と整理に向かって言ったことは間違いないと思っていますが、シベリウスの音楽をその文脈に組み込んでしまうと、おそらくシベリウスの本質から離れてしまうのです。
 しかし、シベリウスが紛れもなく20世紀という自意識の芸術の大きなうねりのなかに居たことは確かなことなのです。この不思議な曲については、まだ聴きたい演奏、感じたい感覚、考えたいことが山ほどあります。
 



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シベリウス:「交響曲第2番」の名盤

2010年07月13日 11時29分47秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第46回」です。


◎シベリウス:交響曲第二番
 ロマン派的な傾向を強く残す第一番と、今世紀の交響曲としての大胆な試みに大きく踏み込んだ第三番との間にあって、第二番は、感情の振幅、心の動きの不連続な断絶の悲痛さといった現代的テーマへと踏み込んでいったシベリウス作品の、転換点として位置付けられるだろう。ここには、エモーショナルな高揚感の屈折がある。
 そうしたことを聴き手に充分に悟らせることに成功した先駆的演奏は、おそらく一九六〇年代に「交響曲全集」として完成したマゼール/ウィーンフィル盤だろう。壮麗なオケの響きを絶えず押しとどめながら内面の葛藤を抉り出すマゼールの演奏の異常な緊張は、発売当初は、この曲から北欧の自然や、作曲された時代の背景にあるフィンランド独立運動への熱い共感などを聴き取ろうとする人たちの反撥にもあったが、この演奏が持っている問題意識は、今日でも正当に理解されているとは言い難い。
 七〇年代半ばにC・デイヴィス/ボストン響で完成された全集盤の演奏は、各声部の響き合いの見通しのよさを更に推し進めたもので、その切り離された孤独な響きと重厚なボストン響の力強さの相乗作用に現代作曲家シベリウスの姿が重なり、感動的演奏となっている。
 こうした傾向の以前に一般的だった、ずっと率直な感情の高揚を描いた演奏としては、独特の粘りのあるフレージングを確保しつつ、全身で歌い上げたとも言えるほど情熱的なバルビローリ/ロイヤル・フィル盤は、オケも充分に鳴り切っている。
 ラトル/バーミンガム市響盤は、シベリウスの旋律を解体して、もう一度つなぎ直したといった、今日的で極めて斬新なスタイルの演奏だ。バルビローリのように一息に歌い上げるのではなく、主旋律は途切れ途切れだが、副旋律の効果的な鳴らし方や、内声部で刻むリズム音型の拍節感に敏感に反応する事で達成されたものだ。


【ブログへの再掲載に際しての付記】
 この、私の名盤選の旧稿再掲載は、予想通り、ドビュッシー、ラヴェルあたりから、「発売する側の事情に合わせて書いたものではなく、本質を突いたものだから、10年前の結論に書き加えることはほとんどない」と豪語したとおりにはならなくなってきました。
 その理由は簡単です。20世紀の音楽の真価が、創作する側の手を離れ、フリーハンドで演奏する側の手中に入ったのが、ほんの少し前のことだと言っても過言ではないからです。「同時代」の者の宿命です。私自身も、この10数年、様々な演奏を聴き続け、さらに、日本人の西洋音楽の受容史にまで関心と研究が及ぶにつれて、やっと見えてきたものがあるのが事実です。
 ですから、ほんとうは、渡辺暁雄/日本フィルの旧・新2種、ベルグルンドの歴代の録音、オスモ・ヴァンスカなどは、じっくりと聞き直さなくてはいけないのかもしれません。
 シベリウスについての見方は、私の中でまだ揺れています。その折り返し地点あたりで気付いたことをメモ書きしたものが、当ブログ2008年7月28日にupした「チェクナヴォリアンのシベリウス」です。ぜひ、ブログ内検索でお読みください。私のシベリウス観に修正を迫った演奏です。
 なお、文中のバルビローリ盤は、EMIの有名なハルレ管弦楽団との録音ではなく、リーダーズダイジェスト盤ですから、初CD化は米チェスキーだったと思います。リーダイはRCA系が絡んでいましたから、国内盤のLPレコードが70年代にビクターから発売されています。私が最初に聴いたのも、その盤ですが、後で、ボックス入りのリーダイ版「名曲集12枚組」をリサイクルショップで見つけました。中学生の頃には手が出なかったボックスなのです。 

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ラヴェル:「ピアノ協奏曲」の名盤

2010年06月21日 15時31分35秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第45回」です。

◎ラヴェル:「ピアノ協奏曲」
 初演者マルグリット・ロンと作曲者自身の指揮によるSP録音を、後年に同じくロンがツィピーヌ指揮で録音した演奏と聴き比べてみると一目瞭然だが、おそらく両端楽章でのラヴェルの意図は、猛然としたスピードによる音楽の推進性を重視することにある。中間楽章では抑制された表情を一貫して守らなければならない。
 これを実現している演奏に、ラヴェル自身から自作の独奏曲の意図やその演奏法を学んだペルルミュテールとホーレンシュタイン/コロンヌ管との古い録音がある。ピアノのアクセントの付け方、思い入れを挟む余地のないテンポ設定など、一見ぶっきらぼうで直截な表現のたたみかけから聴こえてくる音彩の自在な変化こそ、ラヴェルがこの曲に求めていたはずのものだ。
 ロジェ/デュトワ盤は、絶妙のテンポとまばゆいばかりの色彩感で推進する第一楽章、一歩間違えばぶっきらぼうになりかねない、わずかに付けられる硬質な表情の変化が、思いがけず〈古代〉を感じさせる第二楽章での感覚の冴えなど、良好な録音で聴ける最も正統的な演奏だろう。
 ウェルナー・ハース/ガリエラ盤は、ノン・レガートを守るオケに導かれて広々とした音楽の拡がりを持たせながら、ラヴェルの様式に忠実で明瞭な表情のピアノが好ましい。第二楽章のギリシア彫刻を思わせる抑制された彫りの深さも見事だ。
 バーンスタイン盤はラヴェルの様式から大きく逸脱したロマン的な演奏で、レガートを多用し思い入れ深くたっぷりと歌った特異な演奏だが、その徹底ぶりは強烈だ。
 ウーセ/ラトル盤のスリリングなリズムは、この曲がラヴェルの支配から離れて独自の世界を打出した記念碑的演奏。一方、かつて我流でこの曲を弾ききったアルゲリッチ(アバドの伴奏指揮)だが、その新盤では、アプローチがラヴェルのスタイルに接近してきて、遥かに標準的になってしまった。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 字数不足で書き切れていませんが、私が言いたかったのは、ロンは、ツィピーヌとの録音では、自分が弾きやすいテンポで、標準的な意味でのピアニスティックな表情づけで演奏しているということです。
 なお「ラヴェル指揮」とあるのは、最近では『クラシック・スナイパー/3』(青弓社)に収載の「名盤・奇盤の博物学――その暫定版」にも書きましたし、確か、当ブログ内のどこかでも言及したはずですが、現在では、ラヴェルの立ち会いのもとで実際に指揮していたのは、若きフレイタス=ブランコだったとされています。ただ、私はこの録音を「フレイタス=ブランコ指揮」と表記するのには反対です。上記のペルルミュテール盤との比較でも分かるように、明らかにラヴェルのスタイルでの録音だからです。
 ラヴェルが、いわゆるロマン的情緒を排したスタイルを目指していたことは明白で、それは、私のブログで先日(6月15日)ご紹介した「船山発言」とも関連することです。
 この曲の「名盤」をめぐる諸相は、様々の問題を孕んでいます。バーンスタインのラヴェル様式からの逸脱、ラトルとウーセのチャレンジ、アルゲリッチの回帰、――そのどれもが、同じ難問から発した苦悶なのです。
 いずれにしても、6月14日にupした『左手のためのピアノ協奏曲』の名盤と合わせてお読みください。

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ラヴェル:「左手のためのピアノ協奏曲」の名盤

2010年06月14日 11時24分55秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第44回」です。


◎ラヴェル:「左手のためのピアノ協奏曲」
 この作品は、第一次大戦で右腕を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの求めに応じて書かれた。当然このヴィトゲンシュタインが初演を行ったが、ラヴェルはそれが気に入らず、初演後ただちにこの曲の理想的な独奏者を探して再演した。それが、当時まだパリ音楽院の学生だったジャック・フェブリエだ。
 フェブリエはSP期にもミュンシュの伴奏で録音しているが、LP初期のフェブリエ/ツィピーヌ盤の復活を望みたい。この曲の暗い翳を伴った深い沈潜も、中間部のジャズ的な曲想も、どちらも安定した曇りのないピアノで十全に聴かせる名演だ。
 ハース/ガリエラ盤も、音の色彩の豊かさを犠牲にせずに、堂々と安定した動きを聴かせる。ペルルミュテール/ホーレンシュタイン盤の自在さにあふれたインスピレーションの豊かな演奏も忘れ難い。
 ところで、この曲を理解出来なかった依頼者、初演者、という不名誉な烙印を作曲者によって押されたヴィトゲンシュタイン自身は、作曲者と大げんかしながらも、彼なりにこの曲が気に入り、依頼者の権利で、生涯この曲を弾き続けた。
 長い間彼の録音は最晩年のマックス・ルドルフ指揮メトロポリタン歌劇場管との米VOX盤が知られており、それを聴く限り、この曲の魅力の発露から遠いものとしか感じられなかったが、ブルーノ・ワルターとの一九三七年録音が登場して、二人の確執の一端が明瞭になった。それは、どんよりとしたロマン的雰囲気に蔽われ、思い入れのたっぷりとした揺れ動きのある情緒纏綿たる世界だ。明らかに反ラヴェル的だが、この曲をこのようにしか解釈し得なかったのは時代の宿命であるし、こうした解釈が成立し得たというのは、作曲者の意図を越えて、この曲の本質にかかわることだ。
 ウーセ/ラトル盤では、そうしたロマン的でエモーショナルな内面のうねりを、ラヴェル的な精緻な色彩感覚と並存させている。この曲の新時代を告げる演奏だ。

【ブログへの再掲載に際しての付記】
 文中「復活を望む」としていたフェブリエ/ツィピーヌ盤は、数年前に仏EMIからCDが発売されました。ラヴェルゆかりの演奏家の録音を集めた貴重なアルバムでしたが、現在は廃盤かもしれません。
 ハース/ガリエラ盤はフィリップス、オケはモンテカルロで、CD化されたと思いますが、確認していません。ペルルミュテール/ホーレンシュタイン盤は1970年代に箱入りの組物LPで日本コロムビアから発売されたのが国内では初出かもしれません。それは劣悪な音でしたが、数年前に仏アコードからCD化され、かなり輝かしい音になりました。(ちょっと造り物的でしたが…)。ヴィトゲンシュタイン/ワルター盤はキングレコードから出たものを買いましたが、あっという間に廃盤になった記憶があります。
 最後に触れているウーセ/ラトル盤までは、これ以上書き加える必要を感じていませんが、それ以後の動きに関しては、まだ、きちんと追っていません。何か、興味深い盤をご存知の方がおられましたら、コメントをお願いいたします。





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ブラームス:「ピアノ協奏曲第2番」の名盤

2010年05月21日 14時25分15秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第43回」です。


◎ブラームス:ピアノ協奏曲第2番

 この曲は、通常の協奏曲の範疇には収まらない巨大な交響曲的展開を聴かせながら、時として、ピアノの独奏部とオーケストラとのやりとりに室内楽的な精緻さが求められるという難曲だ。
 バレンボイム/バルビローリ盤は、バルビローリ特有の節回しに染めあげられた演奏で、繰り返し寄せては返す音楽の深く息の長い呼吸に呑み込まれた独奏者が、オーケストラと一体になった演奏。全員が一丸となって昇りつめていく第2楽章や終楽章、息をひそめて見つめ合う第3楽章など、オーケストラの一員であるかのように同化しているピアノとの一体感に、この演奏の最大の特徴がある。こうした交響曲的演奏では、最も感動的な永遠の名演と信じて疑わない。
 リヒテル/マゼール盤では、どちらも一筋縄ではいかない二人の個性が、互いに息を詰めて相手の出方を探るような緊張を生んで興味深い。第3楽章ではリヒテルの徹底して内向的なピアノに、マゼールは、ひっそりとしたたたずまいを維持しながら、きめ細かくニュアンスを添えていく。出口を求めてさまようピアノのファンタジックな趣きと、それを絶妙のオーケストラ・ドライブで支えていくマゼールとの室内楽的アプローチの最良の成果だ。第4楽章に至っても、彼らの〈内なる音楽〉を探求する姿勢は変らない。不思議な緊張の持続で、内省的なブラームスの世界を徹底して探索し通した特異な演奏だ。
 一方、この曲がブラームスの二度目の南欧旅行の所産であるとする考えに立てば、ポリーニ/アバド盤のきらきらした目映さは、〈開放されたブラームス〉という、リヒテル盤とはまったく異なった面を聴かせる。彼らは第2楽章ではメンデルスゾーンの「イタリア交響曲」のような光と翳の交錯を聴かせて積極的に前進する。終楽章の躍動感も、このコンビならではの開放感にあふれている。

 

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