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マゼール/ミュンヘン・フィルのヴェルディ「レクイエム」を聴いて思い出したことと、デ・サバタの名盤

2015年07月08日 16時27分42秒 | クラシック音楽演奏家論

 昨日のこのブログの冒頭CDの補遺としてお読みください。カテゴリーが「新譜CD雑感」のほうなので、スマホ等では、切り替えないと出てこないかも知れません。じつは、昨日のブログ掲載分を読み返していて突然思い出したことから、さまざま、連想が広がってしまったので、とりあえず、私自身の覚書のつもりで以下に書きます。したがって未定稿です。ひとつの問題提起としてお読みいただけると幸いです。

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 昨年の7月に世を去ったマゼールの、現在時点では最後の公式な演奏会記録として、すべての演奏会をキャンセルした4月に先立つこと2ヵ月ほどの2014年2月7日にミュンヘン、ガスタイク・ホールで行われたミュンヘン・フィルとのコンサートがCD発売された(写真)。曲目はヴェルディ『レクイエム』で、この大編成の作品を良好な音で収録しているところから推察して、マゼール自身もCD発売を念頭に置いてのマイク・セッティングを了承して行われたコンサートではなかったかと思われるものである。

 このCDの演奏そのものについては別の機会に書くが、あれほどに豊富で長期にわたったマゼールのディスコグラフィに、この曲の正規セッション録音がないということばかりが指摘されているので、ひとこと書いておきたいと思ったのが、そもそもの発端である。

 確かに1950年代後半から始まるマゼールの録音歴に、この曲は登場しない。だから数年前にイタリアでの野外劇場でのライヴ収録のDVDが発売されたときには慌てて購入したのを憶えている。

 なぜ、マゼール指揮の「ヴェル・レク」がないのだろう。私は、その理由はマゼール自身の想いの中にある、と考えている。

 もうずいぶんと昔、確か1960年代のことだったと思う。記憶だけで申し訳ないのだが、何かのインタビューでレコード録音の意義について問われた時、マゼールは、「リパッティの一連の録音のいくつか、サバタのヴェルディ『レクイエム』の録音は、我々人類が録音という手段を持ち得たことを神に感謝する例だ」というようなことを語ったはずだ。今にして思えば、この二つは英EMIの大プロデューサー、ウォルター・レッグが心血を注いだ代表的な仕事だから、60年代の初め、たった2枚のLPレコードをレッグの下で録音しただけで、「芸術上の意見の相違」(レッグの証言)で仲たがいしていた状態を解消しようと思っての発言である可能性もあるが、青年の時期をローマに留学してサバタゆかりの「聖チェチリア音楽院」で学んでいたマゼールにとって、後段は本心から出た言葉のようにも思う。

 死の病に冒され1953年に第一線を退いたサバタを説き伏せ、スカラ座管との「ヴェル・レク」録音に執念を燃やしたレッグは、1954年6月下旬にスカラ座を借り切り、EMI本社を説得して機材と人材を揃え、(心臓疾患だったはずだが「しばしば咳き込み、喀血し、休憩するサバタを気遣いながら」と記述している文献もあったと思うが、いずれにしても、)6月18日から22日、2日の休息を挟んでの25日から27日までと、なんと8日間もかけて、全曲90数分の演奏記録を完成させたのだ。当時イタリアで勉学中だったマゼールと、このサバタの一世一代の渾身の名演とを繋ぐ糸が、心理的に皆無であるはずがない。

 何者をも恐れずに生き抜いたかに見えるマゼールだが、青春時代を過ごしたイタリアが生んだ天才指揮者サバタが残したものを越える日が訪れる予感が、やっと生まれてきたのが、ここ数年ではなかったかと、私は思っている。マゼールにとって、喉にささったままの小骨のようだった曲目が「ヴェル・レク」ではなかったか、ということである。

 私の仮説は、まだ続きがある。マゼールは、レスピーギ『ローマ三部作』の内、「松」は2回録音し、「祭」も1回録音しているにもかかわらず、『ローマの噴水』は、とうとう録音しなかった。思えば、サバタの名録音のひとつが、聖チェチリア音楽院管弦楽団を振った『ローマの噴水』だ。あの、まぶしいほどに躍動し歌い上げ、跳ね回る音楽は、トスカニーニからも聞こえてこない。マゼールが「噴水」の録音を避けたことも、サバタへの敬意と畏怖だったのではないだろうか。そう考えると、ニューヨーク・フィルを去ったあとだったか、マゼールのイタリアでの活動が目立ったことも、何かしらの関係があったと思われる。

 マゼールが、自らの手で「人生のまとめ」を完遂させないままで終わってしまった今、そんな想像を巡らせてみた。

 

【2015年7月9日加筆】(本文の主旨にはかかわりがありませんが…)

 サバタの指揮するヴェルディ「レクイエム」は英コロンビア(33CX)と、ジャケットが色違いの仏コロンビア盤の2種を持っていますが、フランス盤のカンカンする音とイギリス盤の落ち着きのある渋い音との中間くらいのものがないかなぁと思っていましたが、10数年前に英EMIから「イタリア管弦楽曲集」と組み合わせた2枚組のCDが出て、その同内容のCDが東芝EMIからも出ました。私はこの微妙にリマスタリングされて調整された東芝の音が、一番好きです。ここに、レスピーギ「ローマの噴水」も入っていて、これでないと、サバタのグイッとせり出してくる弦のつややかで表現意欲にあふれた輝きが出てきませんでした。

 1枚目の写真は東芝が70年代初頭にLP化したSPレコードからの復刻。私がサバタのレスピーギを初めて聴いた盤です。針音ノイズや低域のブーストをそれほど気にしなければ、それなりにいい音で聴けるし、演奏のディテールも伝わって、音楽が迫ってきます。90年代初期に「レコード芸術 名盤コレクション」の1枚として頒布されたCDは、この音です。

 

2枚目の写真は1995年にイタリアEMIから発売された2枚組CDです。「トスカ」全曲と「レクイエム」を除く全てのEMI録音の集成で、リマスターはロンドンのEMIスタジオで行なっています。1枚目のベートーヴェン「田園」とドビュッシーはすばらしい音質で、サバタの音が前面に迫ってきますが、2枚目が硬い音で聞きづらいものが多いのです。特にレスピーギがいけません。表記をみると、このあたりだけ78回転の金属マスターからの再録のような表現になっていますので、音質の違いはそれが理由でしょうか。結局、そのあたりを再度修正したものが、「レクイエム」の付録に収められているのでしょう。このほかにも、レスピーギを聴くだけでもいくつも購入しているはずですが、概略は、こんなところです。1946年ころからのほぼ10年間の録音は特に、LPもCDも、それぞれで音がまったくちがうので、みなさんもそうでしょうけど、たいへんですね。

 

(7月11日追記)英テスタメントから、未発売だったドビュッシーと組み合わせて、レスピーギが出ているのを思い出しました。まだ比較していませんでした。近日中にさらに追記します。)

 

(7月14日追記)英テスタメントのCD は、デコボコをきれいに刈り込んだような音でした。ある時期以降のCDによく聴かれる音です。

 

 

 

 

 

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ロリン・マゼール追悼――「補遺」として

2014年07月16日 10時55分04秒 | クラシック音楽演奏家論
 一昨日は、私の「マゼール論」をとりあえずまとめて再録しました。つまり、ベルリン→クリーヴランド→ウイーン→ピッツバーグ→バイエルンと、マゼールが振り子のようにヨーロッパとアメリカの常任ポストを行き来して、バイエルン放送響及びウイーン・フィルとの録音が中心となったBMG時代を論じた「ニューイヤー・コンサート」のライナー・ノーツ前後までです。それで、ちょっと気になって、それ以降、私がマゼールのCDを論じたことがあるだろうかと調べてみて、意外なことに気付きました。ほとんど皆無なのです。おそらく私は、一昨日の記述のとおり、ある種の「終着点」を見定めるまで、すべてを保留していたのでしょう。その数えるほどしかないマゼールへの言及が、以下に再掲する3つの小文です。いずれも、詩誌『孔雀船』に、新譜CD雑感として書いたものです。

■マゼール~ニューヨーク・フィルのCDが、やっと登場(2007年1月執筆)
 数年前にドイツのバイエルン放送交響楽団の音楽監督を辞して、以前からヨーロッパとアメリカ双方を交互に活動拠点としてきたマゼールの、クリーヴランド、ピッツバーグに続いて三度目のアメリカでの活動拠点がニューヨークと決まったとき、私は、これが、マゼールの最後の地になるかな、と思った。マゼールは、ロマン派的な音楽演奏のスタイルに、そしてヨーロッパ伝統の二〇世紀的展開に、第二次大戦後、最も鋭く斬り込んだ指揮者のひとりだが、その彼が、幼い頃、神童としてデビューしたニューヨークに戻ったのは、象徴的な出来事だった。ご承知のように、ニューヨークは、芸術の各分野、美術から、工芸、ファッションにいたるまで、二〇世紀における、最も先鋭な発信地だった。マゼールが、自身の音楽芸術を集大成するに相応しい土地だと思ったものだ。ところが、折からの音楽ビジネス全体の不況で、ニューヨーク・フィルとの新録音がまったく発売されないという事態に陥っていた。今回のCDは、ドイツ・グラモフォンが新たに、世界各地の放送局の中継録音を使用するという形で始めたシリーズで、録音経費が節約できる、という今の時勢に沿った安直なもので録音も少々粗いが、注目盤の登場ではある。曲目は得意のリヒャルト・シュトラウスの「ドンファン」「死と浄化」「ばらの騎士」など。往年の巨匠演奏ファンを挑発しているような演奏で、抽象的哲学の靄靄[もやもや]などくそくらえ! といった中で、スコアの解析に堕さず、大きくうねる音楽の生気が漲った、充実した演奏である。「見事な絵解き」で、リヒャルトの屈折したロマンティシズムが上滑りにならず、あざとくもなく、明快に再構築されている。完成の域とはこうしたものだ。

■マゼールのフランス国立管とのマーラー「巨人」がCD化(2012年1月執筆)
 一九六〇年代の初頭と言えば、私にとっては、若き日のマゼールの演奏をテレビで見て、何かわけのわからない興奮に襲われた時期でもあった。新しい音楽の予感とでもいうものだったと思う。私の記憶に間違いがなければ、ベルリン・ドイツ・オペラと一緒に来日したマゼールが、東京交響楽団を指揮したチャイコフスキーの「交響曲第四番」が、NHK教育テレビから流れた。私の「マゼール体験」の最初の一撃である。その後のマゼールの様々な変貌の意味については、これまで、様々な機会に書いてきた。戦後演奏史の中でのマゼールの位置付け、果たした役割の大きさについて、私は誰よりも真剣に論じてきたと自負しているが、最後の変貌を目前にして、マゼールのメモリアル的なアルバムが、突然発売された。最近の輸入盤の「まとめ売りアルバム」の超廉価攻勢には半ば呆れてもいたが、これは、とても丁寧な仕事である。合併に次ぐ合併の成果(?)で、ソニーとBMGの原盤から三〇アイテムが選ばれ、全てオリジナル時のレコードジャケットを再現した紙ジャケットに一枚ずつ収め、詳細データ付きのオールカラーの解説書が付いてのボックスセットが五〇〇〇円程度というから驚きだ。誰が選定したものか、ずっとCD化されなかったフランス国立とのマーラー「巨人」が入っているので、あわてて予約したときには、こんな仕様だとは思ってもいなかった。DG+デッカ+フィリップスでもやってくれないか、と思った。

■初期DGで、ムラヴィン盤の陰に忘れられたマゼール盤の復活(2014年1月執筆)
 ロリン・マゼールは、戦後の演奏スタイルの変遷をひとりで体現し続けて変貌を繰り返してきた天才だが、若い頃の演奏以外は認めない、という頑固な聴き手も多い。私自身は、これまでにマゼールの壮大な変貌の意味について様々なところで考察してきたので、ここでは繰り返さない。前述の山田和樹やネセ=セガン、あるいは、ベルトラン・ド=ビリーらの口当たりのなめらかな音楽が台頭する時代に、マゼール自身がどのような決着を与えるか興味深いところだが、つい最近、「時代錯誤」のように若き日のマゼールの〈奇演〉が、「世紀の名盤」と銘打たれたDGの復刻シリーズで発売された。ある意味では時代の役割を終えた「名盤」が多い中、チャイコフスキーの『交響曲第4番』は、未だに多くの問題提起を残した演奏だと思う。長い録音歴を誇るマゼールだが、意外に同曲異録音は少ない。そんな中、この曲は数少ない例外だ。このベルリン・フィル盤は一九六〇年、マゼール三〇歳の録音で、この後に、ウィーン・フィルとデッカ録音、クリーヴランド管とはソニーとテラークとで2回も録音するという念の入れよう。この「抽象化の陥穽」に嵌まり込んでしまったチャイコフスキーの、謎に満ちた世界の入口作品に、マゼールが果敢に挑戦している。おそらく、「一番、わからないまま、ムキになって振っていた」演奏がこれ。だからこその、謎解き開始の原点。もう一度ゆっくり演奏史を辿りながら、聴き直してみたいと思って聴いた。

 以上の3本を読めばお分かりのように、私のスタンスはずっと変わっていないのです。自分で読み返して、あきれもし、感心もしてしまいました。マゼールは、最後に、私に大きな課題を残して去っていったのですね。


 






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マゼールの訃報に接して――「近代的な自我意識」と、シベリウスの交響曲全集

2014年07月15日 11時29分44秒 | クラシック音楽演奏家論
 昨日の「マゼール追悼」と題した私のブログを読んで、早速、友人のレコード・ディレクター川村聡氏からメールが来ました。昨日掲載した私のマゼール論へのコメントですが、興味深い内容なので、本人からの了解をもらって以下に転載します。(大勢のファンの皆さんが悲しんでいる時に、ややこしい議論で申し訳ありません。でも、マゼールなら、喜んでくれるでしょう。そういう人だったはずです。)
 以下、川村氏からのメール全文です。

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 偶然、先週の日曜日にピッツバーグ響とのシベリウスの全集BOXを手に入れて、7、6、4と聴いてきたところです。やはり、これはいい演奏ですね。シベリウスの音楽そのものをそのまま忠実に伝えるベルグルンド/ヨーロッパ室内Oの演奏を聴くと、やはり本筋はこちらだ、とは思いますが。
 2度全集を入れた、ということからも、マゼールにとってシベリウスは特別な作曲家だったのでしょう。新しいスタイルへの移行を色濃く反映した演奏ですが、私には、シベリウスに対するときマゼールはいつもよりずいぶん素直な感じに聴こえます。(ただし、BOXセットの音質は、以前発売されたものくらべて、ずいぶん悪くなっているような感じがします。こんな録音ではなかったように思います。)
 しかし、マゼールは竹内さんが書いている通り、完全にシベリウスの音楽を近代的な引き裂かれた自我、孤立した精神の苦しみと相克、として捉えていますね。4番あたりを聴けば、それがはっきりと分かる。そういった捉え方を徹底させたのがピッツバーグ盤でしょう。ロマン派、あるいは国民楽派の流れとしてシベリウスを捉えるのと同様に、それはシベリウスの本質と相容れることはないものですが、それはそれとして、その中での充実と水準の高さで、やはりあの全集はマゼールを語るには外せないものだと思います。
 竹内さんのシベリウス理解がそういう方向に向かったのも、新旧二つのマゼールの全集に導かれた部分が大きいように思います。
 カラヤンにとってもシベリウス(彼の場合は中期から後期のシベリウスに限られるが)は特別な作曲家だったようで、マゼールと並べると興味深いものがあります。そういえば、バーンスタインもそうでした。それぞれ時代を代表した指揮者たちが、揃いも揃って見当違いの演奏を自信たっぷりに残したのですから、シベリウスは、やはり、なかなか面白い存在だと思います。

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 以上が、川村氏からのメールです。彼とはシベリウス理解を巡って、ずいぶんと論争しましたが、あるとき、彼のシベリウス観に全面的に白旗を揚げたことがあります。それが、2008年7月発行の詩誌『孔雀船』に掲載した文章です。当ブログでは2008年7月28日に掲載しましたが、以下に再掲載しますので、お読みください。文中の「ある友人」は、もちろん、川村氏のことです。(じつは、私自身は、未だに、彼の言う「見当違いのシベリウス」へのこだわりを捨てきれないでいます。)

■チェクナヴォリアン指揮のシベリウス第四、第五交響曲
 イランに生まれイランの首都テヘランで学んだ後、ロンドンに渡りキャリアを積んでいったこの指揮者のベートーヴェン演奏を評して「独特の執拗な拍節感が、西欧の構築的な語法にとらわれずに聴かせる」「旋律を縦のラインできちっと仕切らずに連鎖させていくのは、いかにも中東音楽的」と書いたことがある。実は、私はシベリウスの交響曲ではマゼールの新旧2種の録音に強い関心があって、その切れ切れの歌、断裂した抒情の強調こそが、二〇世紀の作曲家シベリウスの本質だ、と思い込んでいたのだが、私のそうしたシベリウス観を、ある友人に「そんな近代的知性などを持ち出すのは、シベリウスをまったく理解していない証拠。そこにある自然、風景をそのまま受入れるだけでいいのだ」と完全否定されて、途方にくれてしまったことがある。何のことはない。このチェクノヴォリアン盤を聴いていればよかったのだ。マゼールと正反対と言っていいこの演奏は、途切れ目なくどこまでも続く山々の峯のように、あるいは、どこが分岐点かも定かでなく連続して次第に明けて行く空のように進行する音楽だ。西欧的な場面転換という論理の無効性が堂々と表現されている。いかにもチェクノヴォリアンらしい個性的な名演であり、シベリウスの音楽を解く鍵が、ここにあると思った。「タワー・レコード」独自企画の名盤復刻シリーズ。世界初CD化。(2008. 7. 28執筆)

 



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ロリン・マゼール追悼 Lorin Maazel(1930~2014)

2014年07月14日 16時13分50秒 | クラシック音楽演奏家論



 先日、7月10日付のこのブログ欄で「マゼールは終着点に行き着けるだろうか」と懸念したばかりですが、本日、マゼールがついに、この世を去ったという報道が入りました。
 このところ間違いなくマゼールは、自分の仕事の「まとめ」と「整理」に着手していました。それは、昨年あたりからのコンサート・プログラム、来年のスケジュールなどに現われていましたが、その「まとめ」を果たせずに終わってしまいました。戦後の演奏スタイルの変遷を、ひとりで表現し続けてきたと言っても過言ではないマゼールが、最後に自らをまとめることなく、自らを散らかしたままで去ってしまったことは、皮肉なことでもありますが、それが、マゼールにふさわしい最後だったのかも知れません。謎は、私たちが解かなければなりません。
 私にとってマゼールという存在は、戦後世代である私たちが西洋クラシック音楽を聴くということの意味を真摯に問う、ということそのものでしたから、格別の思いがあります。ですが、そうしたマゼールの意味については、未だに理解されていないと思っています。1960年代にマゼールを聴いて衝撃を受け、それ以来「昔のマゼールはよかった」と言い続けて40年も経ってしまった人もいれば、10数年前から突然マゼールを聴き始めて、古い録音に遡ってのマゼールの道程を聴くことなく、「最近のマゼールは、よくなった」という人もいます。それは、あまりに皮相な物言いです。
 私が、ひとまずマゼールという指揮者についてまとまった文章を書いたのは、1996年のことですが、そのころ私は、まだ実験的な放送の段階だったCS衛星放送のラジオ局で、「ロリン・マゼール完全ディスコグラフィ」と題する番組を手掛けていました。マゼールのデビュー以来の全てのレコードを、私のそれまでのコレクションだけでは足らず、さまざまな資料を調査して、世界中の中古店から取り寄せた末、録音・発売順に数枚ずつ、隔週で放送していました。
 順を追って全てを聴くというのは大事なことで、それによって私が得たものは計り知れません。「マゼール」という時間軸を伴った物差しは、戦後の演奏史全体を見る物差しともなったのです。その中から生まれたのが、下記の3本のマゼール論です。
 古くからの私の読者からは「もう何度も読んだ」とお叱りを受けるでしょうが、本日、敢えて、ここに再掲載します。きょうあたりから数日間、また、無理解なマゼール讃の文章がネット上を駆け巡り、新たなマゼール・ファンが出現すると思うので、そうした方に読んでいただきたいと思っているからです。(以下の文章、この膨大になってしまった私のブログ内の文章でも数年前にUPしてありますし、一昨年ヤマハ・ミュージックメディアから刊行された私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』にも収録してあります。)私自身のマゼール論の「まとめ」は、しばらく勘弁してください。じつは、今秋以降のマゼールのスケジュールから推して、まちがいなくマゼールは自らのまとめに入ると思っていましたので、それを踏まえて書こうと思っていたのですが、こんな結末になってしまって、いつのまにか、マゼール論をまとめる、ということが、私自身をまとめる、ということと表裏一体になってしまいました。最近、私自身が、何をすべきか、何を残すべきか、と自らの人生のまとめのごときもの、を追うようになっているのですが、そのことと抜き差しならないところに、マゼールがいるのです。私にとって、マゼールとは、それほどの存在でした。

以下、3つの文章は、いずれも1996年に執筆したものです(2年後の共著書収録時に一部改稿)。真ん中の1本は、「1996年ウイーン・フィル・ニューイヤーコンサート」CDのライナーノーツです。

マゼールを聴く
 時代の先端の感性というものは絶えず変貌してゆくが、ひとりの演奏家個人の変貌の振幅は、たいていの場合、決して大きなものではない。ところが、マゼールは、その中で数少ない例外だ。マゼールは自身の過去を否定しながら、大きな振幅で別人のごとくに変貌する。それが、彼の天才たる所以だが、それが、ことさらに、マゼールの変貌の真意を分かりにくくさせている。
 マゼールは、大きく分けてこれまで既に三回の変貌を通り越して、おそらく、一九九八年あたりから、四度目の変貌が実を結びつつある。マゼールは次々と別の場所へワープしているわけだから、昔は良かったなどと言って、最初のマゼールのイメージから一歩も動かないでいると、完全に置いてきぼりを喰ってしまうことになる。
 マゼールの変貌の最初は一九七〇年代だ。第二次大戦後に戦後世代に突き付けられていた「ロマン派的抒情精神の再構築」という命題に、最も先鋭にチャレンジしていたマゼールは、その役割に自ら終止符を打ち、バランスのとれた響きの中での、新たな普遍性の獲得を模索する世界にワープして行った。それには、ベルリン、ウィーンという戦前からの音楽伝統の中心地から、アメリカのクリーヴランドへの転身という状況の変化も手伝っていただろう。一九七二年の秋のシーズンからのクリーヴランド管弦楽団の音楽監督就任以降、マゼールは、それまでのラディカルな演奏スタイルから次第にバランスのよい響き合いへと変貌して行くが、それがひとつの完成したスタイルを獲得して、室内楽的な緻密さを押し出すに至ったのは就任五年後の一九七七年秋から開始されたCBSへの「ベートーヴェン交響曲全集」だと思う。
 そして、次の変貌は一九八〇年代にウィーン国立歌劇場の総監督就任決定を機に始まったニュー・イヤー・コンサートへの7回連続出場や、「マーラー全集」の完成によって明らかになった。抒情精神の断裂の執拗なまでの強調だ。
 三度目の変貌は、新しい「シベリウス全集」をピッツバーグ響とで開始した一九九〇年代。ここに至ってマゼールは、現代の抒情精神がその内向性を深めて、精神世界の分裂に行きつくところにまで追込んでしまったが、それをまた自らの手で収束を図りつつあるのが最近の活動だ。クリーヴランド時代の半ば頃から芽を出していたオーケストラの自発性との折り合いの付け方が、以前のように先回りせずに、オーケストラの行方を待つスタイルに変って行ったのだ。
 再びヨーロッパのポストを得て、バイエルンとウィーンに腰を落着けつつあるマゼールが、誰よりも磨き込んできた指揮棒の技術を捨てた時、この戦後の演奏史の変遷をひとりで先取りしてきた天才が、戦後五十年の演奏芸術のキーワードで在り続けた「抒情精神の復興」の方法に解答を見出す時なのだ。それは、この半世紀をかけて最も遠回りをしてきたマゼールという指揮者の大きな振幅、ブーメランの航跡のような活動の、次世代に橋渡しする総決算となるはずだ。マゼールを聴くこと、聴き続けることは、マゼールが自らに課した自己変革の道程を受け入れる事でもあるのだ。

○ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調op.93、同第3番変ホ長調op.55《英雄》/クリーヴランドo.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR9526]録音:1978年および77年
○マーラー:交響曲第6番イ短調《悲劇的》、同第7番ホ短調《夜の歌》/ウィーンpo.
[米CBS/M3K42495]録音:1982年および84年
○シベリウス:交響曲第2番ニ長調op.43、同第6番ニ短調op.104/ピッツバーグso.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR1495]録音:1990年および92年

現代を映す鏡としての「1996 ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート
 このCDは一九八〇年の初登場以来一九八六年まで連続七回、そして一九九四年の復帰から一年の空白を置いて通算九回目となったロリン・マゼール指揮による「一九九六年ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート」の記録だ。今回の登場で、戦後の指揮者では創始者のクレメンス・クラウスを抜いて、「ニューイヤー」の代名詞となった観のあるウィリー・ボスコフスキーに次ぐ、歴代第二位の出演回数を記録してしまったマゼールだが、そのためかどうか、今年のマゼールは、初登場の一九八〇年にも匹敵する成果を上げた。
 一昨年のニューイヤー復帰はいくらか力みの残る硬さが気になったが、今年のマゼール/ウィーン・フィルは凄い。昨年夏のザルツブルク音楽祭での彼らのマーラーの「第5」がCS放送でオンエアされたのを聴き、新時代の到来を予感させられたが、マゼール/ウィーン・フィルは、まちがいなく新たな世界を築きつつある。正に記念すべき元年のコンサートというにふさわしく、このところ観光コース化してしまったニューイヤーコンサートを、その眠りから目覚めさせる力を持っていた。音楽の輪郭を大きくえぐる大胆不敵な抑揚、緩急のくっきりした落差が力強い。《ウィーンの市民》や《フェニックスの羽ばたき》では、音楽の太い流れの手応えもずっしりと伝わる。《くるまば草》では音楽が途切れ、ためらいながら、なかなか前に進めないと見せて最後で全開してゆく。実に「あざとい」ウィーン音楽が聴かれる。
 これらは、ある意味で一九五〇年代を最後に最早、身体から自然に湧き出てくるウィーン音楽が誰にも表現出来なくなった時代にあっての、頭で描くキッチュなウィーンではあるのだが、今年のマゼールは、ゆったりとしたテンポ設定の悠然とした音楽をベースに、細部までよく表情の彫り込まれた造形を徹底して磨きあげている。それは相変わらずの、音楽の形が目に見えてくるような細かな指揮棒の動きと表裏一体のものだが、以前のように、それが窮屈に聴こえてこないのは、マゼールの棒がしばしば息つぎをするように止まり、そこで「待ち」の余裕を持つようになったからだ。その分だけオーケストラは十分に呼吸でき、自然で伸びやかな響きの堂々とした音楽が生まれた。
 マゼールの演奏スタイルの変遷は、現代に生きる私たちが失ってしまったもの、例えば自然に口を突いて出てくる歌、訳もなく心がなごみ涙する、そうした音楽の原初的感動を再構築する「方法論」の歴史だ。それは、何の苦もなく高らかに感動を歌い上げる自信を失ってしまった現代人の、屈折した感性そのものなのかもしれない。
 昨年暮にBMGからリリースされた「マゼール/ヴァイオリン・ソロ・リサイタル」という不思議なアルバムに寄せたマゼール自身の言葉が示唆に富んでいる。彼は、そのアルバムを長い音楽生活で最も個人的な「音楽的告白」であるとして、「私はこの録音を、音楽の美しさが人々の心をうち、演奏家と聴衆双方が目に涙を浮かべていたようなヴァイオリンの演奏が行なわれていた、幸福な時代の思い出に捧げたい」と書いている。これは、表現を変えれば、今の時代は、このような音楽が演奏できないという告白でもある。そう言えば、ヨハン・シュトラウスの伝統にならって、と言うマゼールのヴァイオリン片手の指揮には、どこまでも借物のような照れくささがつきまとっている。
 おそらくマゼールは現代の指揮者の中で、だれよりも早く、今日の音楽の不幸の源に気付き、だれよりも切実にそこからの脱出を願い、試みている。マゼールは、だれよりも真剣に、真正面からウィーンの美しい夢を描き、同時に、その屈折に敏感に反応して夢の脆さをも克明に聴かせようとする。ウィーン音楽が、過去の佳き時代の単なる再現ではなく、「今」を生きる私たちの夢の屈折を映し出す鏡だからだ。そしてそれは、落日のオーストリア帝国を生き抜き、古き佳きウィーンの栄光を描き続けたヨハン・シュトラウスの、屈折した夢とも重なり合う。ヨハンが世を去ったのは一八九九年だが、それから 約一〇〇年を経て新たな世紀転換期に差しかかろうという新時代を象徴するのが、マゼール/ウィーン・フィルの活動だと言っても過言ではない。
 蛇足ながら、このCDは録音から発売までが史上最短という、異例のスピードでリリースされるという。これは、ウィーン・フィルの録音を久しぶりに手掛けるBMG・RCAレーベルの意気込みの表われでもあるだろう。マゼール/ウィーン・フィルの録音は、今後もBMGで予定されているという。一九五〇年代末から六〇年代初頭のカラヤン/ウィーン・フィルの録音以来、久々のウィーン・フィルのRCAレーベルへの本格登場だが、それもまた新時代の幕開けにふさわしい。

ロリン・マゼール再論
 戦後世代の指揮者として録音歴だけでも、一九五七年という早いスタートだったマゼールは、既にデビューから四〇年以上経過している。それは戦後史そのものとも言えるのだが、マゼールの歴史は、戦後の演奏スタイルの変遷の、最も先鋭な部分の象徴でもある。絶えず時代の一歩先を行き、変革の先頭を歩んできたのがマゼールだ。
 一九三〇年にパリ隣接のニュイイに生まれ、幼児期にアメリカにわたって成長したマゼールが、指揮者として正式にデビューしたのは留学先のローマでの一九五三年。その四年後にベルリン・フィルを振ってのレコーディングがドイツ・グラモフォンで行われた。日本を含む世界中の音楽ファンに、マゼールは、そのわずか二七歳の若い才能の存在を示した。第二次世界大戦終結後、一〇年を経て、〈突然変異種〉のように驚嘆を持って迎えられたのがマゼールだった。
 デビュー当時の録音で、現在CDで手軽に聴けるのはストラヴィンスキー「火の鳥」組曲(ベルリン放送響、一九五七年録音)くらいだが、それだけでも、当時のマゼールの異才ぶりが伝わってくる。スコアの各段が明瞭に分割されて響き、様々な仕掛けが的確に挟み込まれる。音楽の流れは裁断され、噛み付き合い吠え合いながら進む。ここでは音楽が、終幕に向かってひとつながりのドラマへゆるやかに昇華していくといった安定はない。どの瞬間も、切り立った断崖の淵に立っている。
 それは、ドイツ系のクラシック音楽の正統的なレパートリーでも同じだ。古いLPで当時のベートーヴェンやブラームスの録音を聴くと、当時の状況の中での、マゼールの突然変異ぶりが、さらに理解できる。オーケストラは、ベルリン・フィル。ドイツ精神の牙城としてフルトヴェングラーが君臨してきたベルリン・フィルが、その主の死後3年ほどしか経っていなかった時期の録音として、マゼールの演奏は、実に大胆不敵だ。それは、明確な意図を露わにしたアーティキュレーションやフレージングだけでなく、低域に偏重しないオーケストラの響きの構築にまで表われている。
 このことは、その五年後、一九六三年から翌年にかけて、ウィーン・フィルと英デッカに録音された「チャイコフスキー交響曲全集」でも確認できる。おそらく、一九五〇年代から六〇年代にかけてのマゼールが目論んでいたのは、感情の起伏に素直なドラマの再現への決別だったはずだ。それは、戦前の巨匠たちが聴衆とともに育んできた絶対的な価値としての〈ロマン〉を、相対的に捉え返そうとする試みだった。
 マゼールのチャイコフスキーは、ためらいもなくおおらかにうたい上げるものではなかった。熱を帯びた感情の高揚は屈折し、絶えず検証されながら進行する。はにかみ屋の熱血青年。しかし、それは、マゼールひとりに限らなかった。時代は戦後世代全体に、音楽がロマンティシズムを表現することの意味を問い、疑問を発していた。照れわらいを浮かべながら愛を語り、小首をかしげながら、真実は一つではないはずだ、と感じていたのが、それを聴く私たちの世代だった。マゼールは、この時、戦後世代の感性の代弁者だったのだ。だが、少し早く、そうしたロマンの解体作業に着手していたマゼールは、やがて自ら、その収拾作業に入ってしまった。
 マゼールの演奏スタイルは、一九七〇年代に入って大きく変貌した。戦後世代としての最初の役割をまっとうしたマゼールは、自ら、その役割に終止符を打ったのだ。七〇年代の半ば以降マゼールは、次第に細部の強引なまでのデフォルメを後退させ、立体的な彫りの深さ、輪郭の明瞭さが、透けて見えるような響きの中で聴こえるようになった。音楽が軽々として自在さを持ち始めたのが、この時期だ。一九七五、七六年録音の「ブラームス交響曲全集」や、一九七七、七八年録音の「ベートーヴェン交響曲全集」が、かつてのベルリン・フィルとの録音と比べて、まるで別人の演奏のようなのに、今更ながら驚かされる。緊密な室内楽のようなアンサンブル集団、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督への就任が、それをより確実なものにしているが、それは、キャリアのスタートを伝統の真っ只中のベルリン、ウィーンを中心に始めたマゼールが、ヨーロッパの伝統を外から眺めるアメリカに育ったという原点に、立ち戻ったということでもあった。
 だが、ロマン派的情念との対決を続けたマゼールが、七〇年代の半ば以降、こうしたバランスのとれた響きの中での新たな普遍性の獲得を模索し始めたのは、時代が要求していたことでもあった。マゼール/クリーヴランドの「ベートーヴェン交響曲全集」の明るさ、軽快さは、ティルソン・トーマスの室内管弦楽団盤や、やがて、古楽器演奏へと連なっていく。マゼールの七〇年代の変貌は、正に〈時代を映し出す鏡〉としてのマゼールそのものであり、マゼールが、いつの時代でも、その時代の〈現在〉であり続ける数少ない音楽家であることを予感させたのだ。
 マゼールの変貌を象徴する録音に、2種のベルリオーズ「幻想交響曲」の録音がある。一九七七年のCBS盤と、一九八二年のテラーク盤だ。前者はこの曲の病的なグロテスクさを局限にまでおしすすめた演奏の代表盤だが、一転して後者は、響きの凹凸を刈り込んだバランスのよさへと傾斜している。その後の「幻想」の演奏が、アバド、プレヴィン、ハイティンク、デイヴィスらによって、安定したテンポと十全な響きが確保されてきたのは、偶然ではない。今日、マゼールが三たび、この曲を録音したならばどうなるか、興味は尽きない。
 一九八〇年代に再びウィーンのポストを得たマゼールは、ウィーン・フィルと「マーラー全集」をスタートさせるが、やがて行政当局と衝突して一時ウィーンを去ってしまう。この時得たポストがアメリカのピッツバーグ交響楽団。ここでは二度目の「シベリウス全集」が開始された。その双方の「全集」に共通しているのは、抒情精神の断裂という、ここ数年継続して現代人の社会的病理として関心が持たれていたテーマの深化だった。切れ切れの歌は悲痛だが、マゼールはそれを容赦なく晒した。その息づまる苦しさは、シベリウスで最後の発売となったCDに収録の初期作品「カレリア組曲」にさえ表われている。
 無邪気さを冷やかに見つめるもうひとりの自己。この複眼的視点のアイロニーが消えつつあるのが、ウィーンとミュンヘンに拠点を移し、三たびヨーロッパの伝統に身を置いた最近のマゼールだ。オーケストラの自発性に委ねる部分を増しているのは、自己閉塞的状況からの脱出が、私たちの未来に向けての、時代のテーマだからだ。時代の気分を先取りしてきたマゼールの次の変貌が期待される。

*このブログへの再々録に際しての付記
 上記「ウイーンとミュンヘンに拠点を移し、三たび~」と書いているのは、1990年代後半、バイエルン放送響とウイーン・フィルとで精力的に録音もしていたBMGとの契約時代のこと。その後、ニューヨーク・フィルに転じ、さらに、同フィル辞任後にミュンヘン・フィルに転じたことは、ご存知のとおりです。


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潮田益子のブルッフ「協奏曲」ロイヤル・クラシクス盤についての訂正。そして青弓社の今月の新刊のこと。

2013年06月04日 10時32分59秒 | クラシック音楽演奏家論
以下、昨日の訂正ですが、直接、潮田/小澤に関係することではありません。カップリング曲に関することです。
昨日、カップリングされているグリーグ『ピアノ協奏曲』(ピアノ:ジーナ・バッカウアー)の伴奏の指揮者をシルヴェストリと書きましたが、それは、別のロイヤル・クラシクスに収録されているフランクの「交響的変奏曲」との混同です。記憶で書くのは、やはり、怖いですね。申し訳ありませんでした。グリーグの協奏曲は「ジョージ・ウェルドン指揮」です。これも、数年前に東芝から発売された、ウェルドンの北欧管弦楽曲集、第1集、第2集のどちらにも入っていない稀少録音です。最近、バッカウアーについてちょっと調べていたので、混同してしまいました。(もちろん、既に昨日の当該部分は修正済みです。)
       *
このバッカウアーについては、今月末に青弓社から発行される『クラシック野獣主義』という不可思議なタイトルの本(『クラシック知性主義』という本と同時発売ですから、ますます不可思議です)の編者である鈴木淳史氏に依頼された原稿で少し書きました。彼からの「お題」は「忘れられた名盤を聴き直す」と「演奏家の自己愛を堪能する」でした。かなりおもしろく書けたと思っています。発売されたら、ぜひ、お読みください。
ちなみに、私が「不可思議」と言ってしまったのは、、「野獣主義」(どうやら、感性とか、直感を大切にすることらしい)と「知性主義」(こちらは、知識や教養で得た事柄をベースにして鑑賞するということらしい)の二つが、しっかりとバランスよく同居していなければ、聴こえる音楽も聴こえてこない、というのが私の持論だし、それこそ、一千年以上むかしからある真理なのだと思っているからです。「知性主義」の編者は許光俊氏です。つまり、「クラシック・スナイパー」というシリーズ8冊を共同で編集していた二人が、分離独立したわけです。この編集会議、「スナイパー第8集」の打ち上げ直後にあって、その時にこのタイトルについて打診がありましたし、「それはおもしろいね」と私も言いましたから、規定路線である事は承知しています。私は、この二つの「主義」の交錯することがおもしろかったのですが、若い二人の発想は、やっぱり「セパレート」、なのですね。とてもデジタル的だと思いました。2冊が同時発売でないとインパクトがない、というのは、その時の共通認識でしたが、ファジーなものを駆逐してしまうわけです。その良否はともかくとして、その意味で、二人の住み分けの成果が楽しみです。
       *
つい、おしゃべりが長くなってしまいました。今、その「野獣主義」のゲラを校正中です。前宣伝のつもりで書きました。

【6月26日の追記】
ゲラ校正で、大幅な加筆を依頼されてしまったので、いろいろと考えているうちに、バッカウアーについては書きそびれてしまいました。先ほど、「本を買ったが、バッカウアーについて触れていない」とメールを下さった方の指摘で思い出しました。申し訳ありませんでした。バッカウアーについては、いずれ機会を作って、言及したいと思っています。
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潮田益子の訃報に接して――私が、日本人が「西洋音楽」を演奏することの意味、を考え始めたころのこと

2013年06月03日 17時17分42秒 | クラシック音楽演奏家論


 「ヴァイオリニストの潮田益子の訃報が出た」と、友人からメールをもらったのは先週の金曜日、5月31日のことです。その時、私はすぐさま、「彼女には格別の思いがあるので、さまざまな感慨が過ぎていく。淋しい」と返信したのですが、それ以上のことは何もせず、そのままにしていました。すると、つい先ほど、「追悼」を書かないのか、と言われてしまったので、とりあえず、これまの数十年の間に私が書いたことを振り返ってみることにしました。私はもともと、何か事が起こるたびに短文を書く、という趣味も技もありませんが、私の「格別の思い」の一端をメモ書きしておく必要はあるかな、と思いましたので、とりあえず、以下にいくつかの文章を再録しながら、「自註」を試みます。いずれ、もっとまとまった文章を書かなくてはならないと思っていますが、本日は、そのための整理ということでお読みいただければ幸いです。

【自註①】
 思えば、潮田益子のヴァイオリンは、日本人が西洋音楽を演奏することの意味について、私が考え始めた最初の演奏家のひとりでした。そして、そのことがうまくまとめられた、と思っている文章が、以下のものです。もう20年以上昔のものですから、文中の「20年前」は「40年前」になるわけですが、もう、この当時の感慨を表現することは出来ません。そのくらい、現在は私自身が、日本人が西洋音楽を演奏することが当たり前の時代に慣れてしまっているのです。しかし、そのことによって忘れてしまったことが、この古い文章では表現されています。
1994年発行の拙著『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)に収録されたものです。
 
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■小澤征爾と潮田益子、そして日本人の「西洋音楽演奏」
 潮田益子と小澤征爾/日本フィルハーモニーによるシベリウスとブルッフの「ヴァイオリン協奏曲」のレコードは、いわゆる通常の意味での国内制作盤ではない。世界のメジャーレーベルの手による日本国内でのレコーディングとして、おそらく最初のものだろうと思う。この盤は、英EMIからプロデューサーとしてピーター・アンドリーが来日し、ミキサーもカーソン・タイラーがおなじく来日して直接行っている。録音会場は、当時頻繁に録音用に使われていた東京・荻窪の杉並公会堂だ。当時既に小澤征爾は、「世界のセイジ・オザワ」として活躍しており、「幻想交響曲」(トロント響)、「運命」「未完成」、「シェエラザード」、「春の祭典」(いずれもシカゴ響)、「火の鳥」/「ペトルーシュカ」(ボストン響)、といった具合で、世界をマーケットにしたレコードを次々と送り出していた頃だ。EMIとも、パリ管を振ってのチャイコフスキーの「交響曲第四番」が前年に録音されている。
 この二つの協奏曲録音は、小澤が「日本のオーケストラとの録音を行いたい」と強く希望して、試験的に行われたものだと言われている。オケは分裂前の「日本フィル」だ。ソロを弾いているのは小澤の桐朋学園時代からの後輩である潮田益子で、この二人は既にニューヨーク・フィルを舞台にして、バルトークの協奏曲での協演で成功を収めるなど、再三にわたりコンビを組んでいた。潮田の朗々とした造形感の確かな熱っぽい音楽は、特にブルッフの協奏曲では、聴き手の前面に大きく迫って来るスケールの大きな演奏となっている。ソリストと、指揮者とオーケストラが一体となっての豊かで充実したこの演奏には、一種のこぶしを効かせるといった趣きさえあって、疑いもなく〈日本人の感性〉が息づいており、それを自分達のものとして、世界に向けて強くアピールしてゆく確信に満ちた、自在で自発性あふれる演奏に私は共感を覚えた。もう二〇年ほど前のことだ。
        *
 数年前から小澤は、国際的な活動のかたわら、桐朋学園での恩師斎藤秀雄を記念して同窓生が毎年集うフェスティバル的なサイトウ・キネン・オーケストラを指揮して、長野県松本市でコンサートを行っている。最近ではこのオーケストラの活動そのものも録音活動も含めて国際的になってきた。この活動については様々な見方があるようだが、私は、小澤の行動の基本は、前記のEMI録音以来、一貫して大切にしているものが変っていないと思っている。
 第二次大戦後、音楽は急速に国際化し、かつて録音を通じてさえ感じることが出来たそれぞれの国や都市が育んできた音楽の個性というものが失われつつある。今日、ほとんどのヨーロッパのオーケストラが、ローカルな持ち味を減退させ、インターナショナルな均質化された響きに傾きがちなのは、誰もが認めることだろう。
 しかし、それでもなおかつ、それぞれの「らしさ」は、決してなくなってはいない。フランス人はドイツ人の真似はしないし、イギリス人はフランス人の真似をしない。メンバーが多少国際色を増しても、音楽監督を自分たちの中から出せなくても、変らない部分はある。それが歴史と伝統というものなのだ。
 私たち日本人が、西洋の音楽を聴くようになって一〇〇年余の年月が経った。その間、演奏にあたって、私たちの先人は、おそらく大変な苦労をして学び、模倣してきたに違いない。それが、私たち日本人の感性を堂々と打ち出し、世界にその真価を問うようになったのは、一九六〇年代からのことだろう。指揮者で言えば、岩城宏之、若杉弘、小澤らの世代からだ。
 それぞれが長い歴史を持ったヨーロッパ社会と異なり、私たちの歴史はまだ浅い。今私たちは、やっと、私たちなりの西洋音楽の世界を築きつつあるのだ。小澤/サイトウ・キネンの活動もそのひとつだ。
 小澤/サイトウ・キネンには、ウィーン・フィルやスカラ座管が未だに持っているような〈感性の同一性〉があると言ったら言い過ぎだろうか? これは音楽にとって幸福なことだ。彼らの演奏を〈馴れ合い〉と批判するのは、クレメンス・クラウス/ウィーン・フィルや、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルを同じ言葉で批判するのと、本質的には何ら変らない。日本人による西洋音楽は、演奏史の流れの中で、そうした段階にあるということだ。
 サイトウ・キネンがTOKYOという奇妙な国際都市での演奏を拒否しているのは、その意味で正しいと思う。私にとって実はこれは、今年一九九四年、L特急に飛び乗り、新宿駅をあとに山間を走り続けて一路松本までたどり着いての実感だ。「ここはサントリー・ホールでも東京文化でもない!」。お祭りイベント特有のスノッブな雰囲気で差引かれても、大いに価値のある空間移動だった。
 松本文化会館は、まぎれもなく日本の風土の中に建っていた。そしてコンサートの開始。オーケストラの中にはもちろん、この日のために帰国した潮田益子の姿があった。
 
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【自註②】
 文中の「杉並公会堂」は、「旧館」です。現在同じ場所に同じ名称で建っている「杉並公会堂」とは違います。この潮田/小澤の「協奏曲」のLPは、もちろん当時、英EMIにより海外仕様でも発売されています。(潮田益子の表記が「MUSUKO USHIODA」と誤記されていた。)数年前に「山野楽器+新星堂+タワーレコード」の共同企画の復刻CDが限定発売されましたが、その際に表紙に使われていた写真は英盤と同じもので、東芝盤LPでは「ウラ表紙」に使われていました。ブルッフのみは、「英ロイヤル・クラシックス」がEMIのライセンスを得てCD化したことがあります。これはカップリングはジョージ・ウェルドン指揮、ジーナ・バッカウアーのピアノによるグリーグの協奏曲で、こちらがメイン曲扱い。これはコンチェルトなので、以前2枚のCDが発売された東芝EMIの「ウェルドン北欧音楽集」にも収録されていません。
 文中の「馴れ合い」は、この原稿執筆当時の音楽評論家仲間Y氏の発言。この頃、小澤/サイトウキネンは、決して好意的に迎えられていたわけではなかったのです。「松本」以外での演奏をせず、もちろん、東京公演もなかったことも、何かと非難されていました。


  *      *      *

【自註③】
 以下は、上掲の文章が世に出た頃、つまり1990年代初頭に、私が毎週おしゃべりをしていたCSラジオの実験放送のナレーション用のメモから起こして、当ブログに数年前に掲載したものの一部です。つまり、20年ほど以前の、私の発言です

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 さて、潮田益子のヴァイオリンを好サポートする小沢征爾指揮、日本フィルハー モニーの演奏を聴いたが、この小沢征爾が1935年生まれ。そして、これから聴く岩城 宏之が3つ上の1932年生まれ。もうひとりの若杉弘が小沢と同じ1935年生まれ。私は、このほぼ同世代の3人が、日本人の独自の感性を堂々と世界に披露した最初の世代だと思っ ている。
 先日、彼らが生まれた頃の1935年に録音された「山田耕作指揮/新交響楽団」によるベートーヴェンの「運命」を聴いたのだが、このベルリン・フィルも指揮したことのある我々の世代の大先輩にあたる山田のベートーヴェンは、「今、ここで自分たちはベートーヴェンというドイツの偉大な作曲家の作品を体験しているのだ」といった、演奏者たちの感動が伝わってくるような演奏。この後、様々な人たちが西洋音楽に取り組んできたわけだが(例えば、近衛秀磨、斎藤秀雄といった人など)、それは、西洋人の方法論をなぞりながら、彼らの音楽美学を会得して来た歴史だ。その中にしばしば顔を覗かせる「日本的な情緒の流れ」が、居心地悪そうに、けれども、現在の私たちにとっては、ほほえましいほどに愛らしく響いている。
 いずれにしても、そうした長い「学習」の期間を経て、岩城、小沢、若杉たちの新しい世代が登場したのだ。
 きょうは、若杉、岩城と、小沢と並んで、日本の指揮者の戦後世代をリードしてきた人たちの、若き日の録音を聴いたわけだが、この1960年台から70年台の記録は、同時に、日本の西洋音楽受容の歴史が 、青春時代から、成熟期に入り始めた時代の記録でもある。彼らの若々しい演奏に共通していたのは、音楽のひた押しな畳みかけが、西洋的な積み上げ、昇り詰めていくものではなく、連続的に横へ横へと押し出されていくような感覚への、全面的な信頼、自信の確かさだと思う。 そうした音楽構造は、東洋的な感性の産物と言い切ってよい。例えば、最近では、韓国出身の指揮者チョン・ ミュンフンも、そうした音楽語法を持っている。
 例えて言えば、ゴシック建築、天を突き刺すように建つ西洋建築の美学と、桂離宮のような横への広がりとの違いとでも言うか? 五重搭でさえ、屋根が柔らかな弧を描いて、裾へ裾へと折重なっている。あれが、東洋の美学で、それは、西洋と東洋それぞれの、文化そのものの違いなのだ。
 クラシック音楽を演奏する上で、西洋をお手本にする時代は、いつの間にか通り過ぎて 、ドイツの伝統とは違う立場での新しい解釈が、フレッシュな魅力を持つようになり始め たのが1960年代。それから、更に30年ほど経って、今では、もっと若い世代が積極的に斬新な解釈を聴かせるようになった。だが、何時までも忘れて欲しくないのは、自分自身の感性のルーツだ。これは、詰め込まれた知識などによって押し出され、消えてしまうよう なものではないはずだが、ルーツを見失うような、頭でっかちの知識だけに頼るようなことも、やめてほしい。 これは、演奏を聴く私たちにも言える。音楽の鑑賞に、こうでなくてはならないという ものは、ひとつもないし、権威のある演奏などといった、偉そうなものもどこにもない。 それぞれの演奏家が、自分の感性、自分の解釈に自信を持って演奏している、そういった 力強さに、素直になりたいと思う。

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【自註④】
 最後は、簡単に「紹介」のみですが、近著「クラシック幻盤 偏執譜」(ヤマハミュージックメディア)にも収録した詩誌『孔雀船』に寄せた文章です


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■潮田益子の青春の記録、バルトークとチャイコフスキー
 潮田益子については、何回か前のこの欄で、小沢征爾指揮~日本フィルハーモニーとのシベリウスとブルッフについて書いたことがあるが、このチャイコフスキーとバルトークの協奏曲も、潮田の極く初期の録音。一九六八年三月に録音されて発売された日本コロムビアのLPレコードの初CD化だ。伴奏は森正の指揮する日本フィルハーモニー交響楽団。このレコードの二曲では、チャイコフスキーももちろん堂々たる名演だが、実はB面のバルトーク『協奏曲第二番』に驚かされる。アメリカでのデビューでもこの曲を選んだ潮田だけに、一九六八年という時点で、これほどに確信に満ちたバルトークを弾いていた人は少ない。ハンガリー的なイディオムは、しばしば西欧よりも東洋的な感覚に通底するものがあるが、そのことを、久しぶりに聴き直して、改めて確信した。

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【自註⑤】
 このCDはコロムビア・ミュージック・エンターテインメントから発売されています。


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「オーマンディ問題」のその後――そして、20世紀前半に演奏芸術を席巻した「自意識の過剰」について

2010年06月15日 11時53分48秒 | クラシック音楽演奏家論
 この、私のブログで2年ほど前、2008年7月21日付けで、「『竹内貴久雄』と『竹内喜久雄』、そして『オーマンディ問題』」(カテゴリー:雑文)と題するものと、「ユージン・オーマンディを聴く」(カテゴリー:「指揮者120人のコレを聴け!」より)と題するものが連続で掲載されています。(このブログ頁の左欄をず~っと下に降りていくと「ブログ内検索」の窓がありますから、そこに「オーマンディ」と入力すると、見つけやすいはずです。)
 本日は、その時のオーマンディの特質から発想していた私の考え方――20世紀前半に世界中を席巻していた「演奏芸術における自意識の過剰」の意味――を、既に1978年のオーマンディ来日時に船山隆氏が指摘していることを知ったので、ご報告します。
 ちなみに、その時のプログラムに寄せられた船山氏の文章のコピーを送ってくれたのは今村亨氏です。彼は、この1978年の演奏会を聴いたそうですが、コピーの送付に当たって、彼が書き添えた手紙には、次のようにありました。

 当時は「そんなものかな」くらいにしか思いませんでしたが、今読み直すと、核心に触れる評論だったように感じ、また、竹内さんが書かれた事にも通じるところがあるように思いました。あの頃は、未だ、船山氏の批評に反論したX氏のような見方が、「レコ芸」で主流だった事も、改めて思い出しました。

 文中の「X氏」は、船山氏の文中に「音楽は心の歌でなければならない」とオーマンディを批判した人として登場する人物です。これも興味深いことです。いつも私が口にしていることですが、演奏様式の歴史は、きちんとその時代の中に置いて検証しなければならないし、聴衆の大半は、常に時代の後衛に過ぎないのです。時代の先端を嗅ぎ取る鋭敏な感覚は、磨き続けなければなりません。改めて、そう思いました。
 ――で、船山氏は、こんなふうなことを当時、書いていました。

 (オーマンディのフィラデルフィア管弦楽団は)精巧で、しかもよく鳴り、聴き手の眼の前で多彩な音色のパレットをくりひろげる。……時には激しい表情をみせるが、それが内面の表現といったものに直接結びつくことはない。聴き手の意識の外側で、響きと光と色彩が一緒になってすべっていく。……彼らは曖昧な内面の表現を一度あきらめ、《気晴らし》に徹し、完璧な音の仮面を作りだそうとする。

 船山氏は、古典派以降の西洋音楽は人間の内面と深層にくいこんでいた、と指摘し、20世紀は、こうした内面のドラマとしての音楽に強い疑問が投げつけられた時代だと、ストラヴィンスキー、ラヴェル、サティの名を挙げて書いています。つまり、私も再三指摘している「ロマン派」の終焉について、言っているのです。1972年の来日の時から感じていたことだとも書いています。それは、私がフルトヴェングラー体験を清算し始めたころです。そしてマゼールは「クリーヴランド管弦楽団」で、それまでの強い自己主張を押さえ、まるで室内楽のように精緻なベートーヴェンを録音し始めた時代。テイルソン=トーマスがイギリス室内管でベートーヴェンを録音し始め、ピリオド奏法が大衆的にも話題になってきた時代です。
 船山氏は、この70年代に書かれた文章に「鏡のなかの音像」とタイトルを付けています。「かつて存在していた音楽の魂は、音響という仮面や衣裳につつみかくされている」「オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団の完璧な音響体は、いわば鏡にうつしだされる映像のようなものであるともいえる」とする船山氏にしてみれば、これは積極的な評価でもあるし、19世紀的なものと20世紀的なものとの相克でもあるのだと思います。
 そして、この時代から、まもなく半世紀が経とうとしています。2020年代には、こうした鏡像作用を通過した新たなロマンティシズムが台頭してくるのではないか、と最近、予感がしています。そうでなければ「音楽」は死滅してしまいます。今、音楽は混迷のなかにあるように見えますが、じつは、大きな転換点に差し掛かっているです。
 まだまだ、鋭敏な感覚を失わないように努力したいと思っています。


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指揮者グイド・カンテルリをめぐって

2010年05月26日 13時58分46秒 | クラシック音楽演奏家論




 以下は、1994年11月に発行された拙著『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)の「第2章 こだわりの名演奏家」の中に収録された「グィド・カンテルリ」の部分です。

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 グイド・カンテルリは、一九五六年一一月二四日に飛行機事故により、わずか三十六年の生涯を終えてしまった指揮者だ。一九五八年度からスカラ座の音楽監督に就任が決っていたが、それを果せずに世を去ってしまった。イタリア系の指揮者で、トスカニーニにその才能を高く評価されていたが、その演奏は、トスカニーニとは大きく異なり、深々とした呼吸の音楽に特徴があった。アポロ的とも言える澄んだ響きの構成感のくっきりした音楽と、伸びやかな歌を内に取り込んだ深く沈み込む情感とが一体となった彼の指揮は、そのまま生き続けていたならば、どれほどの巨匠となって、今日の私達の耳を楽しませてくれただろうか、と思わせる。
 カンテルリの演奏は、放送テープからの非公式のCDが数多く出ているが、EMI系の英HMVに、かなりの量の正規録音を残している。その中には、ミラノ・スカラ座管弦楽団とのチャイコフスキー「第五」の名演があり、また当時英HMVと提携関係にあった米RCAにはNBC響とのフランク「交響曲」、ハイドン「九三番」、ヒンデミット「交響曲《画家マチス》」、ムソルグスキー~ラヴェル「展覧会の絵」もあるが、その他は全てフィルハーモニア管との録音だ。ベートーヴェン「第七」、メンデルスゾーン「イタリア」、シューベルト「未完成」、シューマン「第四」、ブラームス「第一」「第三」、チャイコフスキー「悲愴」、モーツァルト「二九」などの交響曲の他、ワーグナー、ドビュッシー、ラヴェルなどの管弦楽曲やモーツァルト「音楽の冗談」など、かなり広範囲にわたっている。また、米コロンビアに一枚だけ、ニューヨーク・フィルを振ってヴィヴァルディ「四季」を入れている。LPで十七枚程度が、カンテルリの正規録音の全てだ。
 この内、モーツァルト「二九番」「音楽の冗談」、シューベルト「未完成」、ブラームス「第三」、ベートーヴェンの「第七」、フランク、の六曲はオリジナルのステレオ録音が残されている。
 スカラ座管とのチャイコフスキー「第五」は短かったカンテルリの生涯の中で、エポックとなったレコードのひとつだ。一九五〇年に録音されているが、この録音はスカラの本拠地ではなく、演奏旅行の途上のロンドンで、しかも二日間だけの苦しい日程で録音されている。録音に先立って、その仕上りがかなり懸念されたが、指揮を担当する若いカンテルリ(当時まだ三〇歳!)は、「だいじょうぶだ、心配するな」と答えて、実際、録音スタッフが満足する出来栄えをやってのけたと、当時の関係者が証言している。特に第二楽章の息の長いフレージングで歌い継いでいく流れは美しい。
 このレコーディングの成功によって、カンテルリの本格的な録音活動が英HMVによって開始された。起用されたオーケストラはフィルハーモニア管弦楽団。おそらくこのオーケストラは、カンテルリの音楽性との相性が最も良かったオーケストラだと思う。残されたレコードはいずれも名盤だが、特にモーツァルト「二九番」、シューマン「四番」、メンデルスゾーン「イタリア」が印象に残っている。
 カンテルリには、その突然の死のために未完に終わった録音がある。ベートーヴェンの「第五」だ。第二楽章から録音を開始し、第二楽章のみ完成したテイクがある。(この第二楽章から第三、第四楽章までのリハーサルの模様は米トスカニーニ協会の私家盤で聴くことができる。)この未完のまま埋もれてしまった「第五」の第二楽章がたった一度、陽の目を見たLPがある。一枚のLPとしての整合性のために、他の既発売のカンテルリの交響曲録音からの楽章抜粋を加えて、死の一年後に発売されたものだ。表紙をカンテルリ夫人のイリス・カンテルリが描いたカンテルリのカラー肖像画が飾っている。
           *
 この稿の執筆後、一九九四年になって英テスタメントから発売されたCDに、このベートーヴェンの「第五」の第二、第三、第四楽章が収められている。ステファン・ペティットとジョン・ハントがまとめた「フィルハーモニア管弦楽団完全ディスコグラフィ一九四五~一九八七」によれば、カンテルリのOKが出たテイクは第二楽章のみで、第三、第四楽章はリハーサル、第一楽章はまったく手つかずだったと注記されている。これは、かなり信憑性のある記載だと考えて良いので、今回CD発売された第三、第四楽章は、カンテルリ自身は完了したとは考えていなかったテイクなのだろう。いずれにしても、前記のカンテルリのセリフ混じりのリハーサル録音のように音が割れた状態ではなく、音質的には、まったくの完成品になっている。カンテルリの最後の録音として、もうこれ以上は出てこないだろう。おそらく幻の第一楽章は永遠に聴くことができない。
 ところで、蛇足ながら、前述の「ディスコグラフィ」によると、ベートーヴェンの「第七」が五月二九、三〇、三一日録音、「第五」が三一日、六月一日、モーツァルトの「二九番」を二、四日で録り終えた後、「第五」の録音を四、五日に再開したが完了せず、そのまま演奏旅行に旅立ってしまったことになる。同時期に録音された二曲がステレオなのに、「第五」だけがモノラルなのは、ステレオが実験段階にすぎなかったとは言え少々不自然だと思っていたら、やはりステレオのテイクが存在していた。今回のテスタメントのCDはステレオで発売されたのだ。
 なお、テスタメント社は、英EMIと提携し、直接マスター・テープの提供を受けてEMIのスタジオでリマスターの作業を行っている会社で、音質的に問題がない正規盤であるだけでなく、レコード未発売のカンテルリの小品録音の初発売など、意欲的な活動を続けている新興レーベルだ。


【ブログへの再掲載に際しての追記】
 ここまでが、1994年11月に発行された『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)に掲載されている文章です。発足間もないころの英テスタメント社の紹介に紙幅を費やしていることで、当時の状況が偲ばれますが、その後、最近になって書き足したことがあるので、以下に掲載します。
 2009年5月に発行された許光俊・鈴木淳史編『クラシック・スナイパー/4』(青弓社)の「特集・クラシックと死」に寄稿した「死を予感する演奏・予期せぬ死に遭遇した演奏――「名盤・奇盤の博物学」番外篇として」のカンテルリに関する部分の抜粋です。許氏からとても興味深いテーマを提示されたので、おもしろく筆が進みました。まだ通常購入が可能ですので、ご興味のある方にお読み戴ければ幸いです。

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 ところが、英EMIからマスターテープの供給なども受けているアーカイブ的CD制作会社、英テスタメント社から、第二楽章に続けて、第三楽章、第四楽章を収録したCDが発売された。これは、一九七〇年代に米トスカニーニ協会から非公式に発売されたレコードで聴ける録音時のリハーサルの模様からも想像できることだが、リハーサルそのものは繰り返し行われているから、それをきれいに繋げば、一応、第三、第四楽章は出来上がるということではある。かなり良質の音で通して聴けるようになったから、私も率直に言って感謝はする。だが、それは、カンテルリの意志に背く行為であるということは、しっかりと心に刻んで置かなくてはならないと思う。繰り返すが、カンテルリがOKのサインを出したのは第二楽章だけなのである。
 カンテルリが、この曲を、そのような順序で録音していたということは、別の意味で興味深い。つまり、カンテルリにとって音楽は、エモーショナルな心の動きであることよりも、精緻な設計による響きが優先していたということかも知れない。これは、二〇世紀後半の様々な演奏家の軌跡を既に見てきた私たちにとって、複雑な感慨の及ぶところである。カンテルリは、ベートーヴェンが描いた堅固な建造物の設計を、この順序で辿り、最後に残った第一楽章を、じっくりと解体して再構築して聴かせたかったのだと思う。それが、同じベートーヴェンの『交響曲第七番』を、熱っぽく演奏せず、すなわちディオニソス的ではなく、あくまでも明晰に、アポロ的に演奏してのけたカンテルリの狙いだったと思う。だが、『第五』の録音は未完で終わってしまった。それが、私たちに突きつけられた事実である。



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ゲザ・アンダ――現代でこそ浮上してくる感覚の冴え

2010年05月19日 15時44分19秒 | クラシック音楽演奏家論




 以下は、1994年11月に発行された単行本『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)の「第2章/こだわりの名演奏家」に収録したひとつです。直接には、チャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番変ロ長調 作品23』をメイン曲とするLPレコード(米エンジェル:35083)について触れたもの。伴奏はアルチェオ・ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団で、1953年モノラル録音です。まだ、英テスタメント社による復刻CDでゲザ・アンダの一連のEMI録音が簡単に聴かれるようになる前に書いた原稿です。(考えてみたら、まだこれを書いたころは、テスタメント社が発足して活動を開始する前だったはずです。)


■ゲザ・アンダ――現代でこそ浮上してくる感覚の冴え

 ハンガリー生まれのピアニスト、ゲザ・アンダの現役盤は少ないが、ザルツブルク・カメラータ・アカデミカとの弾き振りによるモーツァルトのピアノ協奏曲全集という偉業や、フリッチャイ/ベルリン放送響と共演した同郷の作曲家バルトークのピアノ協奏曲全集など、五〇年代から六〇年代にかけて、数多くのレコーディングを行ったピアニストだ。六三年録音のクーベリック/ベルリン・フィルとのシューマン、グリーグの協奏曲もなかなかの名演だった。
 アンダが世を去ったのは、一九七六年だが、彼は一九二一年の生まれだから、まだ五〇歳代、早すぎる死だったと言えるだろう。アンダのピアノは、ロマン的な気質を多分に持ちながらも、冴えた感覚の粒立ちのよい音で、知的に組み立てられた音楽が最大の魅力だ。このチャイコフスキーの協奏曲も、確信を持って鳴らすアゴーギクの見事な、量感のたっぷりとした演奏だが、それが情緒過多にならず、器楽的な充実感のある演奏となっているところが、アンダの最大の美点だ。
 こうしたアンダのスタイルは、まだ戦前の巨匠たちのレコード演奏からの影響が強く残っていた時代にあっては、第一級の賛辞を得るには至らなかったが、今日では、この安定したテンポの音楽は、むしろ極めてスタンダードな、よく耳になじんだものに聴こえる。
 また、このレコードは余白にアンダの師、ドホナーニの編曲による、ドリーブ作曲のバレエ「コッペリア」からの「ワルツ」のピアノ独奏版が収められている。これが、また実に素晴らしい演奏で、ピアノという楽器が、どれほど表現力のあるものであるかが納得できる。それは、例えばラヴェルの「道化師の朝の歌」を弾くリパッティのピアノが、大管弦楽の響きと同等か、それ以上の豊かな表現力を聴かせるのを思い出させるほどのものと言ってよい。
 なお、ゲザ・アンダのチャイコフスキーの協奏曲には、晩年の一九七三年三月一三日のライヴ録音で、独オイロディスクから発売されたものもある。共演はフェルディナント・ライトナー指揮シュトゥットガルト放送交響楽団。私の知る限りでは、これが彼の最後の録音だ。



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シャルル・ミュンシュ――「自由」を求めた名指揮者の軌跡

2010年05月07日 11時56分07秒 | クラシック音楽演奏家論





 以下は、1994年発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』(洋泉社)に収録したものの転載です。最近、この一部を的確に引用してミュンシュ論を展開している方のブログを拝見して、まだ私のブログに再掲載していなかったことを思い出しました。その方のブログからは、リヒテルとミュンシュとの初共演のベートーヴェン「第一協奏曲」ライヴが素晴らしいということを教えて戴きました。感謝しています。ご興味のある方は「ミュンシュ リヒテル 竹内貴久雄」3語のアンド検索をお勧めします。簡単に見つかります。
 なお、以下の文章で展開しているミュンシュの音楽性に対する私の仮説は、当ブログ内の別カテゴリー「LPレコード・コレクション」に収められている「幻想交響曲」の項と合わせて読んでいただけると、より分かりやすいかも知れません。


■シャルル・ミュンシュ――「自由」を求めた名指揮者の軌跡

 フランスの名指揮者シャルル・ミュンシュは、フランス音楽一辺倒の指揮者ではない。むしろドイツ・ロマン派の伝統を深く理解し、愛している指揮者のひとりだが、それは、彼の出身地と切り離しては考えられないだろう。というのは、彼の生まれた町ストラスブールは、もともとドイツとフランスとの国境の町だが、彼が生まれた一八九一年にはドイツ領で、それは第一次世界大戦が終結する一九一八年まで続いたのだ。ミュンシュは〈ドイツ人〉として生まれ、ドイツ人として音楽教育を受けているということになる。そして一九三〇年代初めにはヴァイオリン奏者として、ドイツのライプチッヒ・ゲバントハウス管弦楽団のコンサート・マスターになっている。常任指揮者はフルトヴェングラーだった。
 その彼が、一九三〇年代の半ば頃から、活動の場をパリに移し、やがてフランスの指揮者として認知されるに至ったのは、ナチスの台頭と無縁ではないはずだ。
 ミュンシュは第二次世界大戦の頃には、パリ音楽院管弦楽団の指揮者として活躍しており、ナチス・ドイツのパリ進攻時にも、パリにとどまり、有名な抵抗映画「天井桟敷の人々」では伴奏音楽の指揮者としても名を連ねている。そのフランス音楽の守護神のようなミュンシュが、戦後、一転して、アメリカのボストン交響楽団の音楽監督に迎えられた。一九四六年のアメリカ・デビューから三年後のことだ。それから一〇余年、一九六二年まで、その地位にあり、戦後のボストン交響楽団の黄金時代を築いたのは周知のとおりだ。ミュンシュの代表盤の大半が、このオーケストラとのものとなっている。
 戦後アメリカの旗印は〈自由の国〉だったが、ミュンシュが生涯にわたって、願って止まなかったのも、この〈自由〉、何物にも束縛されない自由を歌い上げることだったのではないだろうか? と私は思っている。ミュンシュが熱心に取り上げるフランスの作曲家にオネゲルがいるが、戦争や人種対立などを憂い、危機意識をもって苦悩するオネゲルへの深い共感が底流にあるのもそのためだ。
 オネゲルの「交響曲第五番」は、一九五一年三月九日に、シャルル・ミュンシュ指揮、ボストン交響楽団により初演され、次いで、同じメンバーで録音が行われた。ミュンシュの繊細でいながら力強い前向きの演奏が、オネゲルの思いの深さと呼応した名演だ。
 ミュンシュは戦前には、必ずしも強烈な個性や豊かな音楽を持った指揮者ではなかったと思うが、ボストン交響楽団とはウマが合ったようだ。ミュンシュとボストン響との相性の良さは、戦後アメリカで重要なポストに就いた指揮者のなかでも、最良の成果を双方にもたらした。ボストン交響楽団との最初期の録音にベートーヴェンの「第七」、シューベルトの「第二」、ブラームスの「第四」の各交響曲や、ヘンデルの「水上の音楽」などがあるが、リズミカルでニュアンスの豊かな音楽がグイグイと迫ってくるのが感じられる。
 ミュンシュが指揮する「ボレロ」は、作曲者のイン・テンポの指示を守らずに、どんどんアチェレランドして行くことで有名だ。感情の高揚、気持ちの高ぶりに率直な、情熱的演奏は〈反則技〉だが、ミュンシュがやりたいようにやっている自然さが別の魅力を生んで、忘れ難い名演となっている。しかし戦前にパリ音楽院管弦楽団とで録音された演奏は、イン・テンポを守っている。むしろしばしば言い聞かせるように確認しながらの音楽の運びが興味深い。そしてどこかしら退屈そうだ。この演奏を聴いていると、その後のボストン交響楽団との演奏が、どれほど自由で開放的かに思いが至る。
 ミュンシュが自身の音楽を大きく花開かせたのは、この頃からだろうと思う。ミュンシュは、ボストン交響楽団と出会ったことで大きく変わった指揮者なのだと思う。
 ミュンシュは長年在任していたボストン交響楽団の音楽監督を辞任しレコード会社との専属契約も解消した後、翌年からは自由な立場で様々のオーケストラに客演、レコーディングを開始する。ミュンシュは七二歳になっていた。米コロンビアへのフィラデルフィア管弦楽団との録音や、英デッカへのニュー・フィルハーモニア管弦楽団との録音、エラートやコンサート・ホールへの録音など、いずれも、この時期だ。
 晩年一九六七年に、パリ音楽院管弦楽団を解消して新たに創立されたパリ管弦楽団の初代音楽監督を引き受けてしまうが、翌年のアメリカ演奏旅行中に世を去った。パリ管弦楽団在任は1年と少しにすぎなかったが、EMIにベルリオーズ「幻想」、ブラームス「交響曲第一番」、オネゲル「交響曲第二番」とラヴェル「ピアノ協奏曲」他、ラヴェル「管弦楽曲集」の四枚のLPが残された。
 一方、帰国後のミュンシュがフランス国立放送管弦楽団を振って、コンサート・ホール・ソサエティに録音したもののひとつに、ドビュッシーの「牧神の午後」がある。有名なボストン響盤をしのぐ、流麗で美しい演奏で、ミュンシュ追悼盤として、死後に発売された最晩年の録音だ。このLPは他にスメタナの「モルダウ」が入っているほかは、ピエール・モントゥの演奏が片面に収められている変則盤。おそらく何かまとまった交響曲などのカップリング用に録音されたか、小品集の録音が未完に終わったかで、1枚のLPにならない半端な録音で、一度発売されたまま忘れられている。日本コロムビアからデンオン・レーベルでコンサート・ホール原盤のドビュッシー演奏がCD発売されているが、それも「夜想曲」と「海」だけで、「牧神」の収録はない。通信販売の日本メールオーダーが販売しているコンサート・ホール盤のCDにのみ、現在は収録されている。


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水野貴子のリサイタルに寄せた一文

2009年10月12日 18時56分41秒 | クラシック音楽演奏家論



以下は、先日の当ブログでお約束したものです。2000年1月31日に執筆した「水野貴子リサイタル」に寄せた文章です。確かリーフレットに使用され、当日のプログラムにも掲載されたと思います。永竹由幸氏の「推薦のことば」に続けて掲載されたものです。
 当然、先日のブログに掲載したライナーノートと似た内容になっていますが、文中に出てくる二人の歌手のイニシャル部分は、もちろん実名が記載されていましたが、原稿を渡す前に、ただ「人」とだけの表現に書き換えました。もうあれから10年近く経ちましたので、イニシャルで掲載します。イニシャルを見ただけで、クラシックオペラに詳しい方なら、誰でもわかるでしょう。私としては、ほんとうはこう書きたかった、ということです。日本という国は、たとえ正当であっても、同業の人との比較批評は慎むという慣習がありますから(特に声楽界は)、水野さんに迷惑がかかっては申し訳ないと思って、当時は一切省いて入稿したものです。


●《推薦のことば》――――――――――音楽評論家 竹内貴久雄

 水野貴子は、イタリア・オペラが持っている〈歌の力〉を伝えることができる数少ない日本人ソプラノ歌手である。日本の演奏家の西欧クラシック音楽演奏への進出は、この30年ほどの間に著しい進展を見せ、それは難しいとされたイタリア・オペラ部門にも及び、戦前からあったいわゆる〈蝶々さん歌手〉といった特例を超えた故・東敦子のような歌手を生むに至っている。だが、そうした進展を受けた今日、〈歌の力〉を伝えてくれる人として、私は水野貴子に全幅の信頼をおいている。水野は、豊かな声に頼るばかりで平板に歌ってしまうS.S.とも、声の足りなさを技巧でカヴァーするM.N.ともちがう。声と技巧がしっかりと組み合った歌を聞くことができるのが水野貴子だからだ。このことは、既に発売されているCDアルバムで実証済みだが、その水野が、オペラ・アリアのみのリサイタルを開くという。イタリア・オペラの真髄が、ひとりの日本人ソプラノ歌手によって紀尾井ホールを一杯に満たすことだろう。例えば、CDでも素晴らしかったプッチーニの「私の名はミミ」。水野貴子の歌唱は、その絶妙のコントロールによる大きくゆるやかに揺れる歌と、そこに挿入される小さく濃やかに歌われる表情の豊かさが見事だ。そして、高く飛翔し、ゆるやかに弧を描いて舞い降りてくる。感情の大きな起伏がそのまま豊麗な音楽になる声の魅力。それは、「日本人が、ついにプッチーニを歌った」と言っても過言ではない至福の瞬間だ。そのことを実感するためにだけでも、私は、当夜、紀尾井ホールに駆けつけなければならないと思っている。もちろん、水野の魅力はイタリアものばかりではない。ドヴォルザークの名作『ルサルカ』の「月に寄せる歌」では、ともすれば声を張り上げるばかりのモノトーンに陥りがちな中で、水野は虹のようにカラフルな声を聞かせる。あの、手触りを感じさせる心に届く歌唱が、当夜の演目に入っているのもうれしい。ピアノは彼女が最も信頼しているオペラ伴奏の名手大塚めぐみである。息のあったところで、名唱を盛り立ててくれるにちがいない。


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私の「サイモン・ラトル論」【1996年版】

2009年03月21日 17時52分07秒 | クラシック音楽演奏家論





 以下は『新・クラシックの快楽』(洋泉社ムック)に掲載した「サイモン・ラトル論」です。執筆は「1996年7月22日」とフロッピー・データには記録されていますから、1996年の9月初めには発行されていると思います。ラトルがベルリン・フィルの音楽監督に就任する前どころか、まだ、次期音楽監督としての決定もしていなかった時期に書いたものです。もちろん、ウイーン・フィルやベルリン・フィルとの一連の録音が開始される前です。ベルリン・フィルの次期音楽監督にラトルが発表された時、「予言どおりになった」と感慨が深かったのを思い出します。
 当ブログ内での2008年8月26日掲載の「ラトルが日本でCDデビューした頃」のレコード芸術誌に掲載した文章、当ブログ内での2008年9月12日掲載の「ラトル22歳の録音」のCDライナーノートを、合わせてお読みいただきたく思います。


■サイモン・ラトル

 ラトルは1979年にバーミンガム市交響楽団の首席指揮者となり、翌年には同響の芸術顧問にも就任している。25歳という若さでの就任だが、それ以降ラトルは、このオーケストラとの関係をじっくりと熟成させることに専念してきた。最近、降板が発表されたが、それまでの15年以上の長い間、他のメジャー・オーケストラからの就任依頼を全て断ってきたのは、最近の指揮者の経歴では異例のことだ。たいていの場合少し名前が上がると、いわゆるランクの上のオーケストラへと移っていく。それが、言わば〈やとわれマダム〉のようなものだということを、ラトルは、自らの活動の成果で示してきた。ひとつのオーケストラに腰を据えることで、自身の音楽語法をオーケストラに徹底して浸透させてきたのがラトルだが、それには、ラトルの就任当時、バーミンガム市響の音に、まだ固有の伝統が育っていなかったことがある。ラトルは、自身のオーケストラであることを徹底して利用して、充分な練習時間、奏法上の実験、作品固有の語法の修得、それに必要なメンバーの配置転換などを行っているという。それが例えば、ラヴェル、ドビュッシーなどのフランス近代作品、シェーベルク、ベルク、などの新ウィーン派作品、そして、ハイドンの交響曲、とそれぞれが別個の語法を持った作品を演奏した時に、驚くほどの成果を生んでいる。古楽のジャンルでは、それぞれの指揮者が自身のオーケストラを持ち、奏法からアプローチしていくのが常識だが、近代オーケストラを指揮するという行為を、これほどまでに徹底して戦略化してきた指揮者はいない。ラトルは、自身の持ち味をオーケストラの伝統とすり合わせながら指揮するという方法を取らない。ベルリン・フィルへの客演に於いても、ラモーでは古楽奏法を徹底させ、ガーシュインでは、その独特のリズム構造の練習を要求したという。
 だが、ラトルの創り出す音楽が常に意欲的で、新鮮で刺激的な視点を提供しているのは、そうした方法論の手なみによるものではない。それらは手段に過ぎないのだ。ラトルの音楽が魅力を生み出している最大の要因は、様々な音のひだに分け入っていく鋭敏な耳にあると思う。
 例えば、ストラヴィンスキー「春の祭典」。これは、荒々しく大仰な身振りが抑えられ、折り重なる音の素材は、横に連なるものと点描的に置かれるものに敏感に聴き分けられている。的確な間合いを計測しながら、最小の変化で大きな効果を引き出そうとする演奏だ。そのために、スイスイと走り抜けていく疾走感が前面に出ていて、そのさらさらしたビート感覚も魅力だ。ラトルはスコアに書込まれた素材から、底流にある連続したリズム要素を探りあて、精妙に繋いでいく。
 ラトルのそうした個性に驚かされるものに、シベリウス「交響曲第2番」がある。84年に録音されたこの演奏は、はじめの数分間を聴いただけで、これまでの誰の演奏とも異なる斬新さにあふれていることが聴きとれる。シベリウスの断続的な旋律を、背後にある小刻みな律動の連続的な動きを主体にして乗せていく。その心地よさは不思議な感覚だ。
 マーラー「交響曲第6番」でも、そうした特徴が顕著だ。抜けるようなリズムの冴えが、マーラーのぎくしゃくした旋律の動きを呑み込んで、力みのない流動感が実現されている。
 ラトルの演奏には、音楽のメリハリを劇的に付けたり、クライマックスで大きく見得を切ったりといった、彼に先行する世代が持っている様式感がない。軽快にドライヴしてゆく走りのよい音楽だ。そのこだわりのなさが、ラトルの現代性であり、我々の時代の新しい感性の可能性を切り拓く鍵なのだ。こうした特質は、サロネンやナガノにも共通しているが、その中にあって、ラトルの場合、その実現した成果が際立っているのは、彼自身の才能もさることながら、オーケストラの掌握力の差が大きく貢献しているに違いない。
 ラトルは、自身の音楽世界を実現するために、オーケストラを思う存分に操ってきたが、その成果を録音して世界に問うにあたっても、レコード会社に、かなり強い自己主張をしてきたようだ。それは、これまで発売されたものを見ても歴然としている。商業的理由での安易なラインナップに協力しているとは、とても思えないレパートリーだ。そして、既に60点ほどになるラトルの録音が、マーラーの作品を除いては、ロマン派の作品が、ラルフ・フォークトの伴奏を引き受けたシューマンとグリークの「ピアノ協奏曲」と、ベルリン・フィルを振ったライヴ録音のリスト「ファウスト交響曲」以外には皆無だという奇妙な現象に気付く。このあたりに、バーミンガム市響を辞任した後のラトルの行動を解く鍵があるかも知れない。
 かつてフィルハーモニア管と来日した折りのシベリウスは、ラトルのリズムの流動感と、オーケストラ側の力みと粘りで抒情的に描こうとする方向とのギャップが、その後のバーミンガム盤と異なっていて興味深かった。ところが昨年、バーミンガム市響との来日で聴かせたブラームスは、まるでマルチ録音の現場に立ち合ったような細分化された面白さばかりが前面に出ていて、全体の有機的な結び付きには欠けていたのを思い出す。
 ラトルに、その青春時代に影響を与えた指揮者は、実は、およそ彼の個性からは想像できないことだが、レコードで聴いたフルトヴェングラーなのだという。確かに、「春の祭典」(バーミンガム盤)ですら、ラトルの演奏は、その軽快な疾走感と同時に、「春のロンド」の部分では音が自在に伸び縮みする独特の気分の耽溺があって、このあたりに、ラトルの音楽の別の側面が感じられた。ラトルがロマン派の音楽に本格的に取り組むとしたなら、こうした傾向を有機的な響き合いの中で実現するために、伝統に育まれたオーケストラ集団との共同作業を目論む可能性は大いにある。ベルリン・フィルへの客演で録音された「ファウスト交響曲」の響きからも、それは想像できるのだ。もし、ラトルのロマン派音楽の録音が、そうして開始されたならば、ラトルの描くロマン派音楽は、第2次大戦後に一度死滅した感情の大きな振幅に寄り添って成り立つ音楽の、現代的手法での再生という途方もない、しかし、来たるべき新しい世紀にふさわしい潮流の先頭にラトルがいる、ということの証明になるだろう。



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ふたつの「ロリン・マゼール論」

2009年01月28日 13時54分20秒 | クラシック音楽演奏家論




 先日このブログの「カテゴリー分け」をやっとしましたが、そうしたら、私がこだわり続けている「マゼール」論を、一度も掲載していないことに気づきました。そこで、今回は、これまで書いたものでは一番まとまっているものを掲載します。前半が1996年6月発行の洋泉社ムック『クラシック名盤・裏名盤事典』に収録されたもの。執筆はこの年の4月頃でしょう。後半は洋泉社ムック『新・クラシックの快楽』という、たくさん売れた『クラシックの快楽』の一部を改訂して再刊したものに収録されています。私の「マゼール論」と「ラトル論」は、『新~』にしか載っていません。執筆は1996年7月22日です。
 いずれにしてもどちらも12年以上前の原稿ですから、バイエルン放送響の音楽監督になった頃までのマゼールです。文中、未CD化と書いているDG盤は、まとめてCD化されました。バイエルン時代以降のマゼールに関してはまだまとめて書いていませんが、当ブログで数日後に、散発的に書いたものをとりあえずいくつか掲載するつもりです。


■ロリン・マゼール論《『クラシック名盤・裏名盤』バージョン》

 時代の先端の感性というものは絶えず変貌してゆくが、ひとりの演奏家個人の変貌の振幅は、たいていの場合、決して大きなものではない。ところが、マゼールは、その中で数少ない例外だ。マゼールは自身の過去を否定しながら、大きな振幅で別人のごとくに変貌する。それが、彼の天才たる所以だが、それが、ことさらに、マゼールの変貌の真意を分かりにくくさせている。
 マゼールは、大きく分けてこれまで既に3回の変貌を通り越して、おそらく、昨年あたりから、4度目の変貌が始まっている。マゼールは次々と別の場所へワープしているわけだから、昔は良かったなどと言って、最初のマゼールのイメージから一歩も動かないでいると、完全に置いてきぼりを喰ってしまうことになる。
 マゼールの変貌の最初は70年代だ。第2次大戦後に戦後世代に突き付けられていた「ロマン派的抒情精神の再構築」という命題に、最も先鋭にチャレンジしていたマゼールは、その役割に自ら終止符を打ち、バランスのとれた響きの中での、新たな普遍性の獲得を模索する世界にワープして行った。それには、ベルリン、ウィーンという戦前からの音楽伝統の中心地から、アメリカのクリーヴランドへの転身という状況の変化も手伝っていただろう。1972年の秋のシーズンからのクリーヴランド管弦楽団の音楽監督就任以降、マゼールは、それまでのラディカルな演奏スタイルから次第にバランスのよい響き合いへと変貌して行くが、それがひとつの完成したスタイルを獲得して、室内楽的な緻密さを押し出すに至ったのは就任5年後の77年秋から開始されたCBSへの「ベートーヴェン交響曲全集」だと思う。
 そして、次の変貌は80年代にウィーン国立歌劇場の総監督就任決定を機に始まったニュー・イヤー・コンサートへの7回連続出場や、「マーラー全集」の完成によって明らかになった。抒情精神の断裂の執拗なまでの強調だ。
 3度目の変貌は、新しい「シベリウス全集」をピッツバーグ響とで開始した90年代。ここに至ってマゼールは、現代の抒情精神がその内向性を深めて、精神世界の分裂に行きつくところにまで追込んでしまったが、それをまた自らの手で収束を図りつつあるのが最近の活動だ。クリーヴランド時代の半ば頃から芽を出していたオーケストラの自発性との折り合いの付け方が、以前のように先回りせずに、オーケストラの行方を待つスタイルに変ってきているのだ。
 再びヨーロッパのポストを得て、バイエルンとウィーンに腰を落着けつつあるマゼールが、誰よりも磨き込んできた指揮棒の技術を捨てた時、この戦後の演奏史の変遷をひとりで先取りしてきた天才が、戦後50年の演奏芸術のキーワードで在り続けた「抒情精神の復興」の方法に解答を見出す時なのだ。それは、この半世紀をかけて最も遠回りをしてきたマゼールという指揮者の大きな振幅、ブーメランの航跡のような活動の、次世代に橋渡しする総決算となるはずだ。マゼールを聴くこと、聴き続けることは、マゼールが自らに課した自己変革の道程を受け入れる事でもあるのだ。

●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調op.93、同第3番変ホ長調op.55《英雄》/クリーヴランドo.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR9526]録音:1978年および77年
●マーラー:交響曲第6番イ短調《悲劇的》、同第7番ホ短調《夜の歌》/ウィーンpo.
[米CBS/M3K42495]録音:1982年および84年
●シベリウス:交響曲第2番ニ長調op.43、同第6番ニ短調op.104/ピッツバーグso.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR1495]録音:1990年および92年


■ロリン・マゼール論《『新・クラシックの快楽』バージョン》

 戦後世代の指揮者として録音歴だけでも、1957年という早いスタートだったマゼールは、既にデビューから40年以上経過している。それは戦後史そのものとも言えるのだが、マゼールの歴史は、戦後の演奏スタイルの変遷の、最も先鋭な部分の象徴でもある。絶えず時代の一歩先を行き、変革の先頭を歩んできたのがマゼールだ。
 1930年にパリ隣接のニュイイに生まれ、幼児期にアメリカにわたって成長したマゼールが、指揮者として正式にデビューしたのは留学先のローマでの1953年。その4年後にベルリン・フィルを振ってのレコーディングがドイツ・グラモフォンで行われた。日本を含む世界中の音楽ファンに、マゼールは、そのわずか27歳の若い才能の存在を示した。第2次世界大戦終結後、10年を経て、〈突然変異種〉のように驚嘆を持って迎えられたのがマゼールだった。
 デビュー当時の録音で、現在CDで手軽に聴けるのはストラヴィンスキー「火の鳥」組曲(ベルリン放送響、57年録音)くらいだが、それだけでも、当時のマゼールの異才ぶりが伝わってくる。スコアの各段が明瞭に分割されて響き、様々な仕掛けが的確に挟み込まれる。音楽の流れは裁断され、噛み付き合い吠え合いながら進む。ここでは音楽が、終幕に向かってひとつながりのドラマへゆるやかに昇華していくといった安定はない。どの瞬間も、切り立った断崖の淵に立っている。
 それは、ドイツ系のクラシック音楽の正統的なレパートリーでも同じだ。古いLPで当時のベートーヴェンやブラームスの録音を聴くと、当時の状況の中での、マゼールの突然変異ぶりが、さらに理解できる。オーケストラは、ベルリン・フィル。ドイツ精神の牙城としてフルトヴェングラーが君臨してきたベルリン・フィルが、その主の死後3年ほどしか経っていなかった時期の録音として、マゼールの演奏は、実に大胆不敵だ。それは、明確な意図を露わにしたアーティキュレーションやフレージングだけでなく、オーケストラの響きの構築にまで表われている。
 このことは、その5年後、1963年から翌年にかけて、ウィーン・フィルと英デッカ(ロンドン)に録音された「チャイコフスキー交響曲全集」でも確認できる。おそらく、1950年代から60年代にかけてのマゼールが目論んでいたのは、感情の起伏に素直なドラマの再現への決別だったはずだ。それは、戦前の巨匠たちが聴衆とともに育んできた絶対的な価値としての〈ロマン〉を、相対的に捉え返そうとする試みだった。
 マゼールのチャイコフスキーは、ためらいもなくおおらかにうたい上げるものではなかった。熱を帯びた感情の高揚は屈折し、絶えず検証されながら進行する。はにかみ屋の熱血青年。しかし、それは、マゼールひとりに限らなかった。時代は戦後世代全体に、音楽がロマンティシズムを表現することの意味を問い、疑問を発していた。照れわらいを浮かべながら愛を語り、小首をかしげながら、真実は一つではないはずだ、と感じていたのが、それを聴く私たちの世代だった。マゼールは、この時、戦後世代の感性の代弁者だったのだ。だが、少し早く、そうしたロマンの解体作業に着手していたマゼールは、やがて自ら、その収拾作業に入ってしまった。
 マゼールの演奏スタイルは、1970年代に入って大きく変貌した。戦後世代としての最初の役割をまっとうしたマゼールは、自ら、その役割に終止符を打ったのだ。70年代の半ば以降マゼールは、次第に細部の強引なまでのデフォルメが後退し、立体的な彫りの深さ、輪郭の明瞭さが、透けて見えるような響きの中で聴こえるようになった。音楽が軽々として自在さを持ち始めたのが、この時期だ。75、76年録音の「ブラームス交響曲全集」や、77、78年録音の「ベートーヴェン交響曲全集」が、かつてのベルリン・フィルとの録音と比べて、まるで別人の演奏のようなのに、今更ながら驚かされる。緊密な室内楽のようなアンサンブル集団、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督への就任が、それをより確実なものにしているが、それは、キャリアのスタートを伝統の真っ只中のベルリン、ウィーンを中心に始めたマゼールが、ヨーロッパの伝統を外から眺めるアメリカに育ったという原点に、立ち戻ったということでもあった。
 だが、ロマン派的情念との対決を続けたマゼールが、70年代の半ば以降、バランスのとれた響きの中での新たな普遍性の獲得を模索し始めたのは、この時代が要求していたことでもあった。マゼール/クリーヴランドの「ベートーヴェン交響曲全集」の明るさ、軽快さは、ティルソン・トーマスの室内管弦楽団盤や、やがて、古楽器演奏へと連なっていく。マゼールの70年代の変貌は、正に〈時代を映し出す鏡〉としてのマゼールそのものであり、マゼールが、いつの時代でも、その時代の〈現在〉であり続ける数少ない音楽家であることを予感させたのだ。 マゼールの変貌を象徴する録音に、2種のベルリオーズ「幻想交響曲」の録音がある。77年のCBS盤と、82年のテラーク盤だ。前者はこの曲の病的なグロテスクさを局限にまでおしすすめた演奏の代表盤だが、一転して後者は、響きの凹凸を刈り込んだバランスのよさへと傾斜している。その後の「幻想」の演奏が、アバド、プレヴィン、ハイティンク、デイヴィスらによって、安定したテンポと十全な響きが確保されてきたのは、偶然ではない。今日、マゼールが三たび、この曲を録音したならばどうなるか、興味は尽きない。
 80年代に再びウィーンのポストを得たマゼールは、ウィーン・フィルと「マーラー全集」をスタートさせるが、やがて行政当局と衝突して一時ウィーンを去ってしまう。この時得たポストがアメリカのピッツバーグ交響楽団。ここでは2度目の「シベリウス全集」が開始された。その双方に共通しているのは、抒情精神の断裂という、ここ数年継続して現代人の社会的病理として関心が持たれていたテーマの深化だった。切れ切れの歌は悲痛だが、マゼールはそれを容赦なく晒した。その息づまる苦しさは、シベリウスで最後の発売となったCDに収録の初期作品「カレリア組曲」にさえ表われている。
 無邪気さを冷やかに見つめるもうひとりの自己。この複眼的視点のアイロニーが消えつつあるのが、ウィーンとミュンヘンに拠点を移し、三たびヨーロッパの伝統に身を置いた最近のマゼールだ。オーケストラの自発性に委ねる部分を増しているのは、自己閉塞的状況からの脱出が、私たちの未来に向けての、時代のテーマだからだ。時代の気分を先取りしてきたマゼールの次の変貌が期待されるのだ。




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ヘルマン・シェルヘンを聴く

2008年10月30日 20時03分03秒 | クラシック音楽演奏家論

 


 今回は、先週掲載したものと同じ、過去に放送されていたCSラジオ番組《竹内貴久雄の銘盤・廃盤事典》の第34回放送分のメモ書きです。LPレコードのコレクターズ・アイテムとして有名だったウエストミンスターの特集をした時のひとつです。もちろん10年以上前の放送で、例の、MCAビクター石川英子さんの「奇跡的なマスターテープ発見」というセンセーショナルな事件直後です。先週掲載したものと違って、今回分は、1曲ごとに私の感想が文章化されていました。当時の詳細は忘れてしまいましたが、残っている文書の書き方からすると、いずれ、1曲づつのコメント集にでもするつもりでメモしたものかも知れません。
 以下は、当時のフロッピーデータの内容そのままです。


●タイトル
「ウェストミンスターのオーケストラ録音を聴く(1)」
〈ヘルマン・シェルヘンの世界〉

●前口上
 このところ復刻盤CDが大量にリリースされて注目されているウェストミンスター・レ ーベルだが、復刻がウィーン系のアーティストの室内楽に偏りがちなのは、このレーベルの既に出来上がったイメージからして仕方のないことではあるだろう。しかし、このレーベルのオーケストラ録音にも個性的な魅力を持つものは多い。第34回は、ウェストミンスターで活躍した指揮者で最大のコレクターズ・アイテムとされるヘルマン・シェルヘンの残した演奏を聴き、その独特の表現の面白さと魅力に触れる。
 ヘルマン・シェルヘンは1891年にベルリンで生まれ、1966にスイスで死んだ指揮者。ほとんど独学で音楽を学び、シェーンベルクと知り合い、「月に憑かれたピエロ」のドイツでの初演の指揮もしている。1921年にはベルリン音楽大学で現代音楽講座を担当するなど、今世紀前半からの現代音楽の発展に、大きな貢献をしている。
 アンチ・ロマン派の人、いわゆる表現主義的なデフォルメの演奏スタイルの元祖的指揮者と言ってもよいだろう。

●オンエア内容
(1)リスト:「ハンガリア狂詩曲第3番」
 ウェストミンスター・レコードは、1950年代、60年代のウィーンの香りを伝えるレーベ ルとして、すっかりイメージが定着してしまったが、この会社が、当時、世界経済の中で 、ひときわその強さを誇っていた「ドル」の力を背景に、ウィーンに乗込んだアメリカ資本の会社だったということを忘れてはならない。
 この作品での、各パートの動きを刻明にとらえる近接マイクの集音で、分離の鮮明な録音のやり方は、やはりアメリカのオーディオ・マニアの趣味が色濃く出ている。シェルヘンの演奏は、それをさらに強調するように、遅めのテンポでしっかりと聴かせる。左右の分離の良い録音なので、木管パートのソロなどは、左のスピーカーから、こぼれ落ちそう。今の時代に聴くと、一種の〈妙ちきりんな世界〉と言えるかも知れない。

(2)デュカ:交響詩「魔法つかいの弟子」
 これも、遅めのテンポで丹念に音楽を舐めて行く演奏。細部をデフォルメ(誇張)することで、遅いテンポ設定から来る〈間伸び〉を避けるといった演奏スタイルの、〈元祖〉の面目躍如といったところ。もちろんそれぞれに個性はあるが、シェルヘンの後の世代では、チェリビダッケ、インバル、最近ではワレリー・ゲルギエフなどが、この系列に入るかも知れない。マゼールも一時期そうだったが、彼は、そこを70年代に一端通り抜けて、 もう一度、もっと内面的な世界の延長としてのデフォルメ世界に戻ってきたように思う。

(3)ラヴェル:「ボレロ」
 ここでは、ラヴェルの書込んだスコアの構造の見事さをそのまま生かすことで、一貫したリズムの流麗な流れを実現している。いわゆる余分な誇張などはほとんど行なっていないが、逆に、これほど率直な演奏も、この時代では、むしろめずらしい。シェルヘンの眼 力、というか見識の的確さを感じる。

(4)ムソルグスキー:交響詩「禿山の一夜」
 シェルヘンの的確な見識の〈巾の広さ〉を改めて感じる演奏。この曲から、西欧的なくっきりしたリズム構造ではなく、ロシア的なズンドコ・リズムを、よく捉えている。この曲は西欧的な合理精神を身に付けたリムスキー=コルサコフによって改作された作品だが 、そうしたリムスキー=コルサコフ的な洗練を施しても、なおゴマ化しきれなかったムソルグスキー自身の音楽のドロドロしたムード(これは、最近では、この曲のリムスキー= コルサコフが手を加える以前の「原典版」による録音が聴けるようになって、より明らかになったが、)を引き摺り出した傑作な演奏だ。夜明けの後の木管パートのソロの旋律の節回しなども独特の味わいを聴かせる。

(5)バッハ:「管弦楽組曲第2番 ロ短調」から
 時間の都合で、第1曲「序曲」を省略して第2曲から第7曲(終曲)までを聴く。
 各パート相互の動きや関わり方がくっきりと聴こえてくる、彫りの深い立体的な演奏は、いかにもシェルヘンらしい。オーケストラが遅いテンポを守りきれなくなって、しばしばズレや乱れをひきおこしているが、そうしたことにはかまわず、こだわらずに演奏を進めている。シェルヘンには、案外ラフな面もあったようだ。力強い音楽の骨太の流れが、 堂々としている。

(6)ハイドン:交響曲第45番「告別」 
 この作品は、最後の楽章で少しずつ演奏者が減って行く。舞台から、ひとり去り、ふたり去り、といった演出が行なわれることも多いが、このレコードのように「アウフヴィーダゼーン(さようなら)」と声をかけながらという録音は、めずらしいし、おもしろい。 こんなところにも、シェルヘンの、常識に囚われない自由な発想がある。

●オンエア・リスト
  いずれもヘルマン・シェルヘン指揮/ウィーン国立歌劇場管弦楽団

(1)リスト:「ハンガリア狂詩曲第3番」(8分27秒)
 [米ウエストミンスター/WST-14101]
(2)デュカ:交響詩「魔法つかいの弟子」(13分30秒)
 [米ウエストミンスター/WST-14032]
(3)ラヴェル:「ボレロ」(14分45秒)
 [米ウエストミンスター/WST-14032]
(4)ムソルグスキー:交響詩「禿山の一夜」(10分38秒)
 [ウエストミンスター/GT-1020]
(5)バッハ:「管弦楽組曲第2番 ロ短調」から(16分45秒)
  ~第1曲「序曲」を省略して第2曲から第7曲(終曲)まで
 [ウエストミンスター/GT-1019]
(6)ハイドン:交響曲第45番「告別」(22分10秒)
 [米ウエストミンスター/WST-14044]



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若杉弘の「田園」と、岩城宏之の「悲愴」

2008年10月23日 17時05分01秒 | クラシック音楽演奏家論

 
 面白いものがフロッピーデータで見つかりました。「カラヤン」について触れた7月 23日付のブログにもある、以前放送していたCS放送の番組で、私がおしゃべりする内容を 、あらかじめメモしておいたデータです。いきなり本番だと支離滅裂になるのを避けるため、あらかじめ話したいことを整理して書いておいて、聴き手の女性アナウンサーが、私が話しやすいように振ってくれるという仕掛けでした。毎月1回(再放送1回)というペースでの40回目のこの日が「最終回」でした。3年以上もやっていたのですね。改めて思い出 しました。でも、この日にしゃべった内容は、すっかり忘れていました。やっぱり、こう いう形でフロッピーデータが残っているのはありがたいですね。7月31日付のこのブログで、岩城宏之について書かなければならないと宣言しながら、まだ果たせていませんが、 この放送用のメモを見ていて、何を書きたいのかが、少し見えてきたように感じています 。「カラヤン」のときの放送台本を元に整えたものと異なり、今回分は、ほんとのメモ書きのままですが、とりあえずお読みくだされば幸いです。
 なお、このフロッピーのデータの日付によれば、最終更新が1996年6月27日15時16分と して「シャープ書院」データから「新松」にコンバートされています。(申し訳ありません。このブログ、私自身のアーカイヴでもあるので、メモ書きさせていただきます。)


■CS放送ラジオ番組 放送台本
《竹内貴久雄の銘盤・廃盤事典》第40回「日本人演奏家の遺産(2)」


(前ふり)
 きょうは、前回に引き続いて、私たち日本人の演奏家が、いわゆる西洋音楽の演奏を、 模倣の学習から踏み出して、私たち日本人独自の感性を堂々と世界に発信するようになっ ていった1960年代から70年代にかけての録音を聴く。

(聴き手、合いの手)

 日本人演奏で、お聴かせしたいレコードは、他にもたくさんあるのだが、きょうは、若 杉弘と岩城宏之の二人の指揮者が、若き日に、日本のオーケストラと録音した演奏を聴く ことにした。前回もお話したが、こうした日本人演奏による西洋クラシック音楽のレコー ドは、当時買う人が少なかったこともあって、ほんとに中古市場で見付けるのがむずかし い。きょう聴くレコードは2枚とも、10年以上、中古レコード店の店頭で、見かけたこと がない。

(聴き手、合いの手)

 さて、前回は潮田益子のヴァイオリンを好サポートする小沢征爾指揮、日本フィルハー モニーの演奏を最後に聴いたが、この小沢征爾が1935年生まれ。そして、きょう聴く岩城 宏之が3つ上の1932年生まれ。もうひとりの若杉弘が小沢と同じ1935年生まれ。私は、こ のほぼ同世代の3人が、日本人の独自の感性を堂々と世界に披露した最初の世代だと思っ ている。
 先日、彼らが生まれた頃の1935年に録音された「山田耕作指揮/新交響楽団」によるベートーヴェンの「運命」を聴いたのだが、このベルリン・フィルも指揮したことのある我々の世代の大先輩にあたる山田のベートーヴェンは、「今、ここで自分たちはベートーヴェンというドイツの偉大な作曲家の作品を体験しているのだ」といった、演奏者たちの感動が伝わってくるような演奏。この後、様々な人たちが西洋音楽に取り組んできたわけだが(例えば、近衛秀磨、斎藤秀雄といった人など)、それは、西洋人の方法論をなぞりながら、彼らの音楽美学を会得して来た歴史だ。その中にしばしば顔を覗かせる日本的な情緒の流れが、居心地悪そうに、けれども、私たちにとっては、ほほえましいほどに愛らし く響いている。
 いずれにしても、そうした長い「学習」の期間を経て、岩城、小沢、若杉たちの新しい世代が登場したのだ。

                *

 それでは、まず、若杉弘指揮、読売日本交響楽団の演奏で、ベートーヴェン作曲「交響曲第6番《田園》」を聴いてみよう。これは、録音が1970年8月16日17日に行われている 。これは、若杉の、初めての西洋古典音楽のレコーディングとされている。まだ、若杉が 35歳だった時のものだ。

     (レコード演奏/37分53秒)

 このしなやかで、息の長いフレージング、音楽がどこまでも、横へ横へとつながって行く感覚は、ドイツ系の演奏に慣れていた耳には、とても個性的で魅力的に聞こえた。これが、僕等のベートーヴェンだ、と拍手かっさいしたのを覚えている。

                *

 さて、きょうの2枚目は、岩城宏之指揮NHK交響楽団によるチャイコフスキー作曲「交響曲第6番《悲愴》」。岩城は1968年から69年にかけて、「ベートーヴェン交響曲全集」をNHK交響楽団と録音していて、これが、日本人初の「ベートーヴェン交響曲全集」 だったが、これはCD化されている。今から聴くチャイコフスキーの「悲愴」は、1967年 6月15日16日に録音が行われている。

     (レコード演奏/45分55秒)

 抒情的な旋律の歌い方が、とても優しく、柔らかく聞こえる。そして、思い切り熱っぽく迫る嵐のような怒涛の情熱。岩城宏之、35歳の年の録音だ。

                *

(まとめ)
 きょうは、若杉、岩城と、小沢と並んで、日本の指揮者の戦後世代をリードしてきた人たちの、若き日の録音を聴いたわけだが、これは、同時に、日本の西洋音楽受容の歴史が 、青春時代から、成熟期に入り始めた時代の記録でもある。彼らの若々しい演奏に共通し ていたのは、音楽のひた押しな畳みかけが、西洋的な積み上げ、昇り詰めていくものではなく、連続的に押し出していくような感覚への、全面的な信頼、自信の確かさだと思う。 そうした構造は、東洋的な感性の産物で、例えば、最近では、韓国出身の指揮者チョン・ ミュンフンも、そうした音楽語法を持っている。
 例えて言えば、ゴシック建築、天を突き刺すように建つ西洋建築の美学と、桂離宮のような横への広がりとの違いとでも言うか? 五重搭でさえ、屋根が柔らかな弧を描いて、裾へ裾へと折重なっている。あれが、東洋の美学で、それは、西洋と東洋それぞれの、文 化そのものの違いなのだ。
 クラシック音楽を演奏する上で、西洋をお手本にする時代は、いつの間にか通り過ぎて 、ドイツの伝統とは違う立場での新しい解釈が、フレッシュな魅力を持つようになり始め たのが1960年代。それから、更に30年ほど経って、今では、もっと若い世代が積極的に斬新な解釈を聴かせるようになった。だが、何時までも忘れて欲しくないのは、自分自身の感性のルーツだ。これは、詰め込まれた知識などによって押し出され、消えてしまうよう なものではないはずだが、ルーツを見失うような、頭でっかちの知識だけに頼るようなことも、やめてほしい。 これは、演奏を聴く私たちにも言える。音楽の鑑賞に、こうでなくてはならないという ものは、ひとつもないし、権威のある演奏などといった、偉そうなものもどこにもない。 それぞれの演奏家が、自分の感性、自分の解釈に自信を持って演奏している、そういった 力強さに、素直になりたいと思う。

(最終回のあいさつ)
 きょうが最終回となってしまったこの番組、「名盤・廃盤事典」では、三年間、40回も の間、たくさんの廃盤LPによる演奏をお聴かせしてきました。それは、私にとって、文 章で書いて読んでいただくだけではなく、直接、それぞれの演奏を皆さんに聴いていただいて、「なるほど、ほんとにいい演奏だ」と感じたり、「なんだ、幻の名演と言われていたけど、この程度か」といったように、ひとりひとりの方に自分の耳で感じていただきたいと思って始めた番組でした。 その意味では、言葉でご紹介したものを、実際に聴いていただくという責任は、それな りに果たしてきたと思っています。これからも、機会あるごとに、なかなか知られる機会 の少ない、魅力的演奏を、なんらかの方法で、音楽ファンのために紹介し続けたいと思っ ています。

■オンエア・レコードリスト
○ベートーヴェン:「交響曲第6番 ヘ長調《田園》」作品68
 若杉弘指揮/読売日本交響楽団
 [日本ビクター/SJX-1025](37分53秒)

○チャイコフスキー:「交響曲第6番 ロ短調《悲愴》」作品74
 岩城宏之指揮/NHK交響楽団
 [日本コロムビア/OS-10017-JC](45分55秒)

*当ブログへの掲載にあたっての付記
上記の「悲愴」はコロムビアから復刻CDが発売された。



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