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福原彰美『ピアノリサイタル2015』を聴いて

2015年03月17日 11時27分42秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 

 先週の金曜日、3月13日の夕方、サンフランシスコとニューヨークを中心に活躍しているピアニスト、福原彰美が一年に一度、必ず帰国して行っている自主リサイタルを聴きに行った。すみだトリフォニー小ホールである。曲目は次のような意欲にあふれたもので、福原自身によって『故郷への憧れ――ロマン派時代に響いた遥かなる鐘』と題された。

スカルラッティ:ソナタ K. 9 ニ短調『田園』
         ソナタ K. 27 ロ短調
         ソナタ K. 96 ニ長調『狩』

ブラームス:4つの小品 op. 119
        間奏曲 ロ短調
        間奏曲 ホ短調
        間奏曲 ハ長調
        ラプソディ 変ホ長調

ショパン:マズルカ第15番 ハ長調 op. 24-2
      マズルカ第25番 ロ短調 op. 33-4
      バラード第1番 ト短調 op. 23

 ここまでの3群のプログラムで、いったん休憩に入った。
 これを見てお気づきの方も多いと思うが、小品4曲があたかも小さな交響曲宇宙のように組み合わされたブラームスの作品になぞらえるように、スカルラッティ作品とショパン作品が3曲ずつ福原によって選び取られ組み合わされ、それぞれ、ひとつながりの世界を形成するように仕立てられたプログラム・ビルディングである。各々のグループが、導入曲から終曲に向かって間断なく奏されるのを聴いて、改めて福原が、それぞれの曲に、はっきりとした方向性を与えていることを確信した。特に、スカルラッティはお気に入りのようで、じつによく響く、色彩豊かな音楽が、水を得た魚のように跳ね回る。スカルラッティのソナタを近代ピアノで奏する意味を、はっきりと伝えてくれる数少ないピアニストの仲間入りを福原が果たすのは、もう時間の問題だと思った。おそらく、彼女の中では既に方法が見えているのだろう。

 それに比べるとショパンはどうだろう。ショパンを弾くには覚醒し過ぎていないだろうか? 覚醒しているからには、言葉は悪いが、ショパン世界の、ある種のいい加減さ・だらしなさに代わる世界が確立していなければならない。だから、福原のショパンはまだ、よく弾けているが酔えない。彼女の弾くリストに聴かれる陶酔感との違いが、それだと思う。

 ブラームスの小品は、「とうとう、ブラームス晩年の作品を弾くようになったか」と、ここ数年の福原の成長をずっと聴いてきた私にとって、感慨深いものだった。この4曲を、どのようにして有機的につなげ、融合させ、干渉させ合って、ひとつの世界をつくり上げるかが大きな課題なのだが、それに福原はよく応えていた。内省的な音楽が、ワルツの3拍子に入って突如、視界を広げ、それが終曲へのリズム変化へと導かれて行くのは、福原のピアノが繊細な色合いの変化をも実現しているからだ。この一、二年の福原の変化に一時、音楽の構えが大きくなるにつれて、彼女本来の小さな音での粒立ちの良さと色彩の鮮やかさが後退しているように感じ危惧していたが、それは杞憂に過ぎなかったようだ。スカルラッティでの美点が、ここにも生きている。

 休憩のあと、プログラムは大きく変わり、数年前に福原が日本初演をしたアメリカで活躍する俊英作曲家ライアン・フランシスの『ねじまき鳥プレリュード集』で開始された。この作品の斬新な魅力については、既に、初演の際に別のところで書いたので繰り返さないが、福原の演奏は、彼女が、もうすっかりこの曲を手中に収めていることが伝わってくる佳演だった。彼女のピアノ演奏での、さまざまな色合いが選び取られ、ひとつひとつの音が立っているという美質と、この曲の特徴とが、うまく合致していると思う。次にこの曲を弾くときには、もっと自分に引き付けて感情移入してしまっても、決して、この作品のフォルムは崩れないだろう。

 プログラムの最後に置かれたのが、ラフマニノフ『ピアノソナタ第2番 op. 36』だった。作曲者自身によって短縮された1931年版ではなく、1913年のオリジナル版での演奏である。両版の折衷のようなホロヴィッツ版がしばしば演奏されているが、オリジナル版は、特に第1楽章がかなり長いようだ。執拗な繰り返しの多用がさらに強調されているが、福原の演奏は、その辺りの演奏がすばらしい。繰り返し寄せては返すうねりに、豊かな色彩が与えられ、聴く者を放さない。じつに柔和でカラフルな第一楽章が実現している。これは、この曲の演奏に於いて、極めて特徴的なことだ。曲の冒頭が、叩き付けるように開始されるのが常だが、それが、福原の手にかかると、まったく様相を一変させて、するりと入る。その必然を納得するまでに、さほどの時間はかからなかった。
 ひっそりと穏やかな第二楽章は、雲間の明るさ。そして第三楽章で初めて、福原のたたみ掛けに激しさが加わる。しかし、ここでも福原の演奏は個性的だ。独特の拍節感のあいまいさが、旋律を、小節線をはずしたようなひとつながりのものにして揺れ動く。そして、最後まで、きらきらとした色彩感を保ち続ける。私は、この曲の極めて野太い、ずしりとしたものであったはずの「ロシア的憂愁」が、かくも美しく飛翔するのを、初めて聴いた。私が、福原は他の誰とも代え難い個性を手にしつつある、と確信した瞬間である。

 アンコールに、福原はショパンの前奏曲『雨だれ』を選んだ。その繰り返される音型が、あたかも、ラフマニノフのソナタが奏でた鐘の音型のように響いた。ラフマニノフのソナタを終えた後にはふさわしいショパンだった。
 そして、もう1曲、スカルラッティの囀りで軽やかにリサイタルは閉じられた。
 福原彰美は順調に成長している、と改めて思った一夜だった。

 福原はわずか15歳で日本を離れて単身渡米し、サンフランシスコ音楽大学とジュリアード音楽院で研鑽に励み、今でも一年の大半をアメリカで過ごしているが、そのためだろう、福原のピアニズムの根底に日本人的な特質をあまり感じない。だから、ある種のスクエアな音楽、あるいは折衷的な音楽に傾斜してしまうかも知れないということを、私は一番恐れていた。だから、その福原が独自の世界を育んで大きく成長していることを、今、うれしく思う。少女然としていた福原も、いつの間にか30歳を越した。来年のリサイタルが楽しみである。日本のつまらない音楽マーケットの動向など気にせず、自分の道を歩み続けて欲しいと思っている。


 

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