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METライブビューイング2015-16、ネゼ=セガンが見事に統率した「オテロ」の悲劇

2015年11月17日 15時05分10秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 昨日、東劇でMETライブビューイングの最新作「オテロ」を観ました。10月17日にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演されたばかりの公演を収録したものです。キャスト、スタッフは以下のとおり。

 

オテロ:アレクサンドロス・アントネンコ(テノール)

デズデーモナ:ソニア・ヨンチョーヴァ(ソプラノ)

イアーゴ:ジェリコ・ルチッチ(バリトン)

カッシオ:ディミトリー・ピタス(テノール)

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指揮:ヤニック・ネゼ=セガン

演出:バートレット・シャー

 

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 「音盤派」としての私が、最初に告白しなくてはならないことがある。

 じつは、ヴェルディの『オテロ』は苦手である。劇としての重さというか激しさがヴェルディの音楽とシンクロして、どうにも腹と心にもたれるといったところだろうか。この曲の往年の名盤といえば、カラヤン~デル・モナコのDECCA盤ということになるだろう。私自身も中学生頃から、友人の家で聴かせてもらっていたし、FMラジオから流れてくるのも聴いた記憶がある。だが、一度として積極的に聴こうと食指が動いたことがなかった。

 その私が『オテロ』に付き合わされてしまったのは、ひとえに私が「マゼール・マニア」とも言うべき異常な執念でマゼールを追い続けてきたからに他ならない。

 マゼールに詳しい方ならよくご存知のように、彼ほどのキャリアを持ちながら、あれほどに熱心だったプッチーニの録音に比して、ヴェルディのオペラ録音は極端に少ない。その例外中のひとつが『オテロ』である。ドミンゴのオテロ、リチャレッリのデズデーモナで、スカラ座のプロジェクト。ゼフィレッリ演出によるものだ。CDはEMIから出たが、それと同じプロジェクトながら収録日・編集が少し違うので同一音源とは言えないレーザー・ディスクによる映像版が、日本クラウンから国内盤で発売された。私は、このマゼールの『オテロ』だけは、かなり丁寧に聴いているはずだ。

 さて、METライブビューイングに戻ろう。昨晩、ネゼ=セガンの『オテロ』を聴いて即座に思い出したのが、件〔くだん]のカラヤン盤でもなければ、1990年代に鳴り物入りで喧伝されたパリ・オペラ座(バスティーユ)のチョン・ミュンフン盤でもなく、マゼール盤の精緻な響きだったのだ。私が唯一、苦手の『オテロ』を克服した響きである。

 ネゼ=セガンの『オテロ』は、冒頭の一撃から入ってすぐ、じつによく響きが整理されているのが聴き取れた。「あ、マゼールだ!」と瞬間的に思った。喧騒と静寂との対比が鮮やかで、極度に抽象化され、徹底してスタイリッシュに、シンボリックに人間が描かれた特異な世界の開始である。

 一聴すると分厚くしか聞こえない響きの奥底にある音の襞〔ひだ〕が、大劇場を揺るがすほどの音量でありながら、まるで室内オペラのように聴き取れる。晩年のヴェルディが、ただでさえ丹念に書き込んだオーケストラの動きである。それを隅々まで聞かせる手腕は、私の期待を遥かに超えていた。

 作品の抽象性を舞台上で表現しているバートレット・シャー演出によるクリスタルな壁面が移動するだけの広間に、心理の変化を表現する照明の色合いが、また見事に生かされている。

 第1幕第3場で、デズデーモナのアリアの美しい響きがクリスタルな広間に響きわたり、オテロに芽生えた心のにごりが音化され、しなやかな弦の調べの上を泳いでいく。まるで、上質なフランス・オペラのような柔和で暖かい時間がしばし流れる。ネゼ=セガンの腕の冴えで、一とき、マスネでも観ているような錯覚をしてしまった。

 私は、この第1幕第3場で完全にネゼ=セガンの世界に引き込まれた。マゼール盤は1985年の収録だから、もう30年も前に提示された解釈というわけだが、私は、ネゼ=セガンの『オテロ』の響きに、マゼールが挑戦したスタイルの帰結を聴いたように思う。それほどに方向性の際立った音楽づくりをしていた。

 『オテロ』の音楽は、ヴェルディが心がけてきたはずの、心理の変化を不連続的に、点描的に描く音楽――いわば、落差の大きい音楽が、ことさらに、心の内に向かう音楽と外部に向かって攻撃する音楽とに仮託されているわけだ。そのシンボリックな落差がくっきりと、にごりなく聴けたことで、正に、ヴェルディの『オテロ』が、やがて、ヤナーチェクの『イェヌーファ』やバルトークの『青ひげ公の城』へと連なる音楽であったということを証明してみせたということである。

 そして、それは、ネゼ=セガンの力量が只者ではないということの証明でもあった。

 

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METライブビューイング2015-16、第1作「イル・トロヴァトーレ」に想う

2015年11月04日 16時45分52秒 | エッセイ(クラシック音楽)

 先日、今シーズンの「METライブビューイング」第1作のヴェルディ『トロヴァトーレ』を観てきました。10月3日にニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演されたばかりの公演を収録したものです。キャストは以下のとおり。

 

 レオノーラ:アンナ・ネトレプコ(so)

 マンリーコ:ヨンフン・リー(te)

 ルーナ伯爵:ディミトリ・ホヴォロストフスキー(br)

 アズチェーナ:ドローラ・ザジック(ms)

 フェルランド:ステファン・コツァン(bs)

 

 指揮:マルコ・アルミリアート

 演出:デイヴィット・マクヴィカー

 

 以下、とりとめなく、想ったことを書き連ねてみます。

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 今回の公演での最大の話題は、アンナ・ネトレプコのレオノーラだろう。この役でのメト出演は初めてだ。昨年ザルツブルク音楽祭でレオノーラ役を披露して大喝采を浴びたそうだが、確かに今回のメトでも、第1幕、ネトレプコが歌いだす第2場の有名なアリアから、一瞬にして観客を掴んでしまう圧倒的な歌唱だった。だがそれは、ネトレプコのずしりとした手ごたえの重い歌唱が、伸びやかに生かされる絶妙のテンポと間〔ま〕に支えられているからだ。ネトレプコは決して理想的なヴェルディ歌手ではないと思うのだが、それが、これほどに魅力を湛えて響いたのは、指揮のアルミリアートの力量に負うところが大きいと思った。この、合唱を多用し、舞台裏からの歌声にまで重要な役割を与える壮大なオペラ全体のアンサンブルを、見事にコントロールした仕上がりに、音盤派の私は即座に1962年に録音されたミラノ・スカラ座の名盤を思い出した。名指揮者トゥリオ・セラフィンのDG盤である。これは、アンサンブル・オペラとしての仕上がりで、若きカラヤンがスカラで、マリア・カラスと録音したEMI盤の語り上手な音楽をも超えていると思っている。そして、ヴェルディの音楽を追い込んでいくセラフィンのたたみかけの妙は、デル・モナコ、シミオナートらとのエレーデ指揮のデッカ盤でも得られない。それほどにセラフィンのヴェルディは素晴らしかったのだ。

 アルミリアート率いるオケの音楽の動きに、ネトレプコは、ほんとうに歌い易そうだった。イタリアからは、こういう上手い指揮者が、時々あらわれるが、なるほど、アルミリアートがあちらこちらの歌劇場からのラブコールで多忙なのも納得できる。これから、ヴェルディは、この人を規範にしようと、ひとり決めしてしまった。

 マクヴィカーの演出も、じつに音楽的な展開で、有名な第2幕のコーラスによる幕開け、「朝の光が射してきた」は、第1幕から音楽を戸切ることなく回転舞台で転換させて第2幕へと続ける。ここで、メトのつややかな合唱の魅力が頂点に達する。

 じつは、私にとって「トロヴァトーレ」は、「オペラ」の魅力というか魔力を初めて感じさせてくれた音楽なのだ。まだ私が中学2年生だった1963年のNHK招聘による第4次イタリア歌劇団公演のテレビ中継だった。おぼろげな記憶では、それ以前のイタリア歌劇団公演(たぶん1961年の第3次)を少し観て、ひどく退屈したように思っている。まだ交響曲ばかり聴いていた時期だ。それが、なぜ、この「トロヴァトーレ」に釘づけになってしまったのかわからないが、確かに、合唱を多用した音楽のドラマチックな魅力にあふれた作品ではある。そして、この第2幕冒頭「アンヴィル・コーラス」の中からアズチェーナが登場してソロで歌い始める不吉な音楽。私は、この1963年のテレビ中継で観たシミオナートが歌うアズチェーナが、いまだに忘れられない。だから、後年、オペラのような「組み物」のレコードにも多少は手が出るようになった学生時代に最初に買った全曲盤は、シミオナートが歌う英デッカ原盤のロンドン・レコードだった。マンリーコがデル・モナコのエレーデ指揮のものだ。

 思い出といえば、この63年の来日では、当初に予定されていたデル・モナコが急病でキャンセルになったことも、よく憶えている。当時から、私はどことなくニヤケたデル・モナコの歌は好きじゃないと言っていた生意気な子供だったので、それは、あまり気にならなかったが、デル・モナコ不在のおかげで、NHK秘蔵の来日音源がCDとLPレコードとの並行発売でいくつか登場したときにも、「オテロ」など配役がベストメンバーのものと違って冷遇されてしまった。私は、LPでだけ発売された「トロヴァトーレ」を購入して、大切な思い出にしまってある。

 さて、今回のメトでの「ライブビューイング」でのアズチェーナは、ドローラ・ザジック。音盤派の私には、レヴァインのメト録音CD(ソニー・クラシカル)で既におなじみだ。この人、メトの主とも言われる大ベテランで、この役は20年も演じ続けていると幕間のインタビューでも答えていたから、驚きである。堂に入った演唱とはこういうものなのかも知れないが、安定して危なげのない歌いっぷりで、スッキリとまとまったアズチェーナには、少々拍子抜けした。おどろおどろしい凄みというか重みが足りないと思ったのは、私の中に巣食うシミオナートの亡霊の仕業かとも思えるが、じつは、私が一番好きな「トロヴァトーレ」の音盤は――繰り返しになるが――奇しくもNHKのイタリアからの来日団公演が放映される前年にミラノ・スカラ座で録音された1962年のセラフィン盤。マンリーコがベルゴンツィでレオノーラはステッラ。アズチェーナはコソットという布陣だから、亡霊の仕業とも言い切れまい。

 結局のところ、シミオナートがアズチェーナを歌うエレーデ盤を措いて、ここでのセラフィンの音楽に対するドライヴ感が、私は最高だと思っているわけだ。聴けばわかる、といった類のノリのよさである。それは、ていねいな語り口で飽きさせないカラヤン/スカラ座盤(マリア・カラスのレオノーラ)をも凌駕している。

 このカラヤン盤は中学校の音楽室に置いてあったので、放課後に何度か聴いていた。そして、結局、シミオナートのエレーデ盤にも飽き足らず、その後、カラヤン盤より先に買ったのが、このセラフィン盤というわけだ。

 今回、アルミリアートによる「METライブビューイング」のおかげで、これらの思い出の音盤を久しぶりにひっぱり出して聴き比べてしまったが、聴きながら改めて、アルミリアートの快調な音楽の見事さと、メトのオーケストラ、合唱団の底光りする音楽の艶やかさが、まず思い出された。そして、その中を高く飛翔するネトレプコの名唱。その哀しみの表現は、遠くはるかな世界にまで私を誘なうものだった。合唱とオーケストラと各独唱者が一体となった第3幕のマルチサウンドのようなアルミリアートのコントロールには舌を巻いた。終幕に至って圧巻だったのは、本来はかなり重心が低いネトレプコのドラマティックな歌唱が、どんどん軽やかになり、声が伸びてきたことだ。観客も沸きに沸いた。

 すばらしい今シーズンの幕開けだったと思う。次の演目、「オテロ」はネゼ=セガンの指揮で11月14日からの1週間の上映。楽しみである。そして、今回の「トロヴァトーレ」は、あと残すところ明日、明後日の2回。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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