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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

近藤雄生氏  

2023-01-12 00:18:31 | 文化

>関西弁操るアフリカ出身の教授が語る「多文化とインクルーシブな職場づくり」   >20221223 近藤 雄生   

>目次   

>想像とは全然違ったアジア   

>多様性の捉えられ方に今も違和感   

>相手を尊重し、対話することの大切さ   >当時はやっていたのが女子高生の”ガングロ”でした。  >どっちがほんとの黒人かわからんやんーー。   

>軽快な関西弁で語るのは、日本で30年以上暮らし、日本で初めてアフリカ出身の大学学長を務めた京都精華大学のウスビ・サコ教授(56)です。   

>世界各国で外国人労働者が増加する中、インクルーシブ(排除されない)な職場づくりが求められています。   

>多様な文化的背景を持った人たちが一緒に働く環境をどうしたら作れるか、サコさんに聞きました。   

 

>想像とは全然違ったアジア   

>――来日して30年以上になります。  >日本に来た経緯を教えてください。   

>ウスビ・サコ(以下、サコ): 私はマリの首都であるバマコやその郊外の町で、子ども時代を過ごしました。   

>高校卒業後に奨学金をもらって留学できることになったんですが、国の教育省から指定された行き先は中国でした。   

>全く予想していなかったので「なんでアジアやねん?」という気持ちでしたが、思い切って行くことにしました。   

>そして中国滞在中に、一度旅行したのをきっかけに日本に興味が湧いて、その後は日本で暮らしてみることにしたのです。   

 

>中国留学時代のサコさん   

>――マリにいたとき、アジアにはどんな印象を持っていましたか。  >また、日本で暮らそうとまで思ったのはどうしてですか。   

>サコ: アジアといえば、基本的にはカンフー映画の印象でした。   

>なので、中国についてもそんな映画の世界を想像していたのですが、行ってみたら、みな人民服を着て自転車に乗って、マントウ(中国のパンの一種)を食べていて……。   

>「映画と全然違うやん!」って(笑)   

>一方、日本のイメージは電化製品。   

>中国で知り合った日本人の留学生たちは実際、小型で高性能なスピーカーを持ち、部屋も綺麗できちっとしていて、ロボットみたいだなって印象も持った。   

>でも日本に旅行してみると、これまた違ったんですね。   

>泊めてもらった友だちの家のお父さんは、ステテコ一枚でだらしなく過ごしているし、お母さんはビールを飲んで、わけのわからないテレビを見て、わはははー、と大笑いしている(笑)。   

>なんだ、日本もこういう、いい加減で明るい社会があるんじゃないかってわかって、それで興味を持ち、日本に住んでみたいと思うようになりました。   

>――中国も日本も、サコさんにとって全くの異世界だったのが伝わってきます。  >そのような中で、日々どんなことを感じながら過ごしていたのですか。   

>サコ: 中国の大学では「アフリカでは木の上に住んでいるのか」とか言われました。   

>「マリ?どこ?」って聞かれて、自分の国が全く知られていないことも知った。   

>ショックでした。   

>でもそうして初めて、自分たちが世界でどう見られているのかもわかったし、自分がアフリカ人であること、黒人であることを、強烈に認識させられました。   

>そんな立場になると、「負けたくない」という気持ちも湧きます。   

>強さを強調したくもなる。   

>でもそのうちに、まずは自分が相手を受け入れることが大事なんだって学びました。   

>すると自分も受け入れてもらえる、ということがわかっていきました。

 

そうですね。大切なことを学びましたね。   

 

>多様性の捉えられ方に今も違和感   

>――来日してサコさんは京都大学の大学院で「空間人類学」の研究を始め、その後、京都精華大学で教鞭を取りますね。   >異文化の人とのコミュニケーションという面で、日本の状況はサコさんにとってどのように映っていますか。   

>サコ: 私が日本に来たとき、はやっていたのが女子高生の”ガングロ”でした。   

>「なんであんなに黒く塗ってんねん、どっちがほんとの黒人かわからんやん」って思いました。   

>でも、黒人が受け入れられているという気はしませんでした。   

>日本は、異文化の”モノ”を自分たちの解釈で取り入れているけれど、異文化から来た”人”とは向き合っていないように感じました。   

 

そうですね。日本人は人とは向き合いませんね。日本人は思考を停止していますから。    

 

>それがこの30年で、日本にも外国人がすごく増えて、外国人を受け入れようという空気が広がってきたと感じます。   

>多様性が大事だという認識も共有されてきた。   

>でも、日本における多様性の捉えられ方にはいまも違和感があります。   

>日本では、外国人や立場の弱い人を“マイノリティ(少数派)”という枠に入れ、自分たち“マジョリティ(多数派)”が彼らを受け入れるのが多様性なんだって思っている節がある。   

>それは違うと思うんです。

>――マジョリティがマイノリティを受け入れる、という意識ではだめだと。   

>サコ: はい。   

>大切なのは、マジョリティの意識改革です。   

>つまり、マジョリティ側にいるとされる人たちが、マジョリティということについて考え直す必要がある。   

>マジョリティ側の人も、じつはマジョリティではないんです。

>例えば日本では、同調圧力が強いため、マジョリティ側にいる人も、マジョリティとして期待される振る舞いをするために自分を捨てている部分がある。   

>私の学生を見ていても、関西の子たちは、みな、話したらオチを作って笑わせないといけないって思っている(笑)。   

>自分は関西人だから、と。   

>それって窮屈ですよね。   

>実は個性を消してしまっているのかもしれないのだから。    

 

そうですね。思考を停止している人には個性もありませんからね。    

 

>マジョリティ側にいる人も、本当はマイノリティなのかもしれない。   

>そのことに気づいて、一人ひとりが自分の個性を大切にして生きることを意識していけば、もっと多様性のある社会になる。   

>それが本当の多様性、ダイバーシティなんじゃないかなと。   

>そうすれば、「あの人たちはマイノリティで、自分たちマジョリティは彼らを受け入れる」みたいな発想ではなくなるんじゃないかって思うんです。   

>その点は、日本人がもっと考えないといけないことだと思います。

 

>相手を尊重し、対話することの大切さ   

>――サコさんは学長として、多様な文化背景を持つ学生やスタッフをまとめる立場にいました。   >そうした現場では、インクルーシブな環境を作ることへの意識が特に大切だと思われます。  >企業などでそのような環境を作るために重要なのは何でしょうか。   

>サコ: 私自身が心掛けているのは、コミュニケーションする上で、相手に寄り沿うことです。   

>自分にとって当たり前でも、相手にとってはそうではない場合がある。   

>異文化の中では特にそうです。   

>自分と相手との価値観の違い、つまり、両者の間にあるボーダーラインを常に意識し、相手の領域をリスペクトしながらコミュニケーションを取ることが大切だと考えています。    

>また、日本人は、思ったことをなかなか言葉にしませんよね。   

>話し合いの場を持っても、十分な議論ができているのかわからない。   

>日本人同士だったら暗黙の了解でわかるのかもしれないけれど、他の文化圏から来た人間にはわかりません。   

 

そうですね。    

 

>だから私は、どうしても”ダイアログ(対話)”が必要だと思います。   

>相手がこう思っているはずだと最初から決めつけず、対話して互いの思いをぶつけ合う。   

>そして折り合いを見つけていく必要があると思います。   

 

そうですね。考えは人によりけりですからね。   

 

>そのために職場でどうすればいいかというと、私は、インフォーマルな場をたくさん作ることが大切だと考えています。   

>何かを決めるときは、ランチを食べながらやるなど、気楽な環境の中でやったほうがいい。   

>そういう場では、ふだん見えないその人の姿が見え、相手への興味が湧いたり、形式張った場では言わないようなことも聞いたり話したりしやすくなります。   

>そうしてお互いのことをよりよく理解し合い、関係性が構築されるとふと、「サコさん、これはどうなんや?」という意見が出たりするんです。   

>そういう場が自然発生的に生まれるような雰囲気を普段から作っておくことが大切です。   

>相談のある人が、ふらっと部屋に来て一緒にご飯を食べながら話をする。   

>そういう環境があるのが理想だと私は思っています。   

>――世界ではいま、分断が進んでいます。  >みな見ているものが違って、ダイアログが成り立ちづらい時代になっています。  >そんな時代に、各人が意識すべきことは何でしょうか。   

>サコ: 相手を人間として尊重することです。   

>それが何よりも大事です。   

 

そうですね。   

 

>あの人が一番強いとか、自分のほうが上だといった序列化をせず、互いに相手の文化や考え方を受け入れる寛容さを持つことです。   

 

そうですね。序列人間には難しい寛容さですね。日本人は序列社会の中に住む序列人間ですからね。      

 

>そして職場でも、関わる人みなが参加して話し合い、ものごとを決めていける環境を作ることが大切だと思います。   

>世界各国で、これからますます多くの外国の人、色々な文化の人が入ってくるはずです。   

>そうした未来に、誰もがともに社会を作るよき仲間として、尊重し合い、歩み寄れる社会にしたいですね。   

>そのために私自身も、多様性を体現する例として、できることをやり続けていきたいです。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)          

 

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節操のなさ

2023-01-07 14:19:39 | 文化

>平和を生む日本の「変わり身の早さ」と「節操のなさ」がおかしな方向に…(三枝成彰)   >日刊ゲンダイDIGITAL - 4 時間前   

>きのうまで「鬼畜米英」を唱えていた人たちが、敗戦となった途端、「アメリカ大好き、民主主義バンザイ」を唱えた。   >この変わり身の早さと節操のなさゆえに日本は滅びなかったといえる。   

 

そうですね。朱に交われば赤くなる。日本は自己の道を歩むこともないでしょうね。   

 

>日刊ゲンダイの保阪正康さんのコラム「日本史縦横無尽」によれば、なんと815日のポツダム宣言受諾直後に、当時の警視総監(前日まで風俗紊乱や反戦主義者を取り締まっていた右翼の先鋒)が米軍相手の「特殊慰安施設」をつくれと命じたという。   

 

世の中の様変わりですね。   

 

>総監は都内の主要な接客業組合の代表者を集めて、「米軍が駐留中は愉快に過ごしてくれることが望ましい」とのたまったとか。   

 

皆の衆が日本は快適な国と自認していたようですね。   

 

>そんな節操のない日本が、おかしな方向に走り出そうとしている。   

>岸田総理は自民党の麻生副総裁から「有事の宰相」と持ち上げられ、政治的難題に答えを出すのが「私の歴史的役割」と述べた。   

>政治家の歴史的役割の第一は「平和を守ること」だ。   

 

そうですね。戦乱は避けるべきですね。   

 

>戦時中、軍医見習だった故・箕輪登議員は自民党きってのタカ派だったが、「先制攻撃は絶対にいかん」「政治家が考える一番の人間の幸せは平和だ」と言ったという。   

 

彼は真珠湾で懲りたのでしょうね。   

 

>田中角栄も「戦争を知らない世代が政治の中枢となったら危ない」と言ったそうだ。   

 

我々は他国の戦争の詳細を熱心に学ぶ必要がありますね。   

 

>そもそも総理が属する宏池会は吉田茂、池田勇人の流れをくむもっともリベラルな派閥だった。   

>中国を“仮想敵国”としたところで、日本の10倍の超大国にはかなわないに違いない。   

>かつての対米戦争と同じだ。   

>北朝鮮の軍備増強も日本などハナから問題にしていない。   

>だがマスコミはそれを報じない。   

 

わが国のマスコミには洞察力がありませんからね。マスコミにも責任観念がない。      

 

>岸田総理らへのお追従の記事ばかり載せるさまは、戦前のマスコミが軍国政府の言いなりだったのと同じだ。

 

わが国のマスコミにも自己が無い。    

 

>先の戦争で死んだ兵士たちは、日本をこんな国にするために犠牲になったのではない。   

>当時もみな「生きて虜囚の辱めを受けず」という東条英機が作った“戦陣訓”に縛られて亡くなった。     

 

日本人は指示待ち人間ばかりですね。   

 

>敗戦後、当の東条本人が連合軍に虜囚の辱めを受けて裁かれる結果となったが、彼は平和をどのように考えていたのだろうか。   

 

彼は無哲学・能天気でしょうね。    

 

>もちろん国の守りは必要だ。   

 

治に居て乱を忘れずですね。   

 

>自衛官(国家公務員)の給料は警察官や消防士(地方公務員)よりも低く、定年も早い。   

>国防の重責を担う彼らはもっと優遇されるべきだが、武器や兵器を買うために予算を増やす必要はない。   

>ロシアのウクライナ侵攻の遠因は、欧米人から侮蔑され、三等国扱いされてきたことへのプーチンの恨みである。   

>その行いはむろん非道だが、西側諸国にも責任はある。  

 

権威主義国は自由主義世界の癌ですね。   

 

>日本人は明治以来、ロシアの文物に親しんできた。   

>私も若い頃は歌声喫茶で「カチューシャ」や「黒い瞳」などのロシア民謡を聴いたが、欧米人はロシアを“敵性国家”だと差別してきたのだ。    

 

彼らは白人のようであるが、心は蒙古風ですからね。政治には粛正・暗殺・皆殺しがつきものですからね。        

 

>■人が生きる権利は何よりも尊い   

>シベリア抑留経験者は、米軍が捕虜の労働に給料を払っていたと聞いて仰天したという。   

>70万人の日本兵を不法に連れ去り、うち10万人を理不尽な強制労働で死なせたソ連に比べると、アメリカは人道的に映る。  

 

そうですね。   

 

>だがそのアメリカも朝鮮戦争やベトナム戦争で蛮行を重ねた。  >60年代の公民権運動で黒人差別を撤廃したのは素晴らしいが、いまだに人種差別は根強く、多くの問題を抱えている。   

 

我が国だけでも差別のない国にしたいですね。    

 

>日本が彼らにならう必要はない。   

 

日本は彼らの手本になるか。   

 

>国を挙げての差別や殺戮とは、永久に決別しなければならない。   >命が大事、平和が第一だ。   

 

そうですね。ぬちだ宝。守礼の国ですね。   

 

>人が生きる権利は何物にも代えがたく尊いものだ。 >それを奪うことは、国家にさえも許されないのだ。   

 

そうですね。政治的解決の手段として人命を犠牲にするやり方は許せませんね。     

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。   

 

>(三枝成彰/作曲家)


西村博之氏  

2023-01-06 22:48:33 | 文化

>中日スポーツ   >ひろゆきさん、実質賃金減少で「働き続けても生活がどんどん苦しくなっていく国が…」と強烈な皮肉   >2 時間前   

 

働けど働けど我が暮らし楽にならざり。     

 

> インターネット掲示板2ちゃんねるの開設者で実業家の「ひろゆき」こと西村博之さん(45)が6日、ツイッターを更新。   

>日本の昨年11月の実質賃金が3.8%減と約8年ぶりの下げ幅となった報道に「働き続けても、物価が上がって給料が上がらないので、生活がどんどん苦しくなっていく国が先進国で一つだけあるそうです」と強烈に皮肉を込めた。   

> ひろゆきさんの添付したNHKのニュースによると、厚生労働省の「毎月勤労統計調査」で報告された今回の実質賃金減少幅は、消費税率が引き上げられ大きく落ち込んだ2014年5月以来のもので、物価上昇を背景に直近8カ月連続で減少が続いている。   

 

残念なことですね。   

 

> 「ほかの国は、働き続けると生活がよくなります。   

 

そうですね。    

 

>その国の労働者が悪いのかな?   

 

そういうことになりますね。求めよ、さらば与えられんという教えありますね。日本人には自主性が必要ですね。社畜・指示待ち人間には自主性がありませんね。            

 

>政治家が悪いのかな?」とのひろゆきさんの問いにフォロワーは「両方」

 

そうですね。政治家は国民の代表ですからね。悪いのは政治家と国民の両方ですね。       

 

>「給料は現状維持。   >物価は上がる。  >という事は給料が下がってる」  

 

そうですね。   

 

>「漫画や小説になる悪政だと思います」   

 

我が国は漫画・アニメの大国になりましたね。まともな考えは哲学になる。デタラメな内容は空想・妄想になる。      

 

>「希望も何も無い」   

 

我が国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。日本人には世界観がないから (きた) るべき世界の内容は想定外になっていますね。       

 

>「革命でも起きない限りこれが変わる事無さそう。   

 

そうですね。伝統的な打ちこわしでは世の中は変わりませんね。    

 

>てかまともな政治家が誰なのかわからん」   

 

政治哲学のない政治家が多いですからね。まともな政治家は見つけるのが難しいですね。    

 

>「結果それが少子化に繋がる」などの憤りや感想が寄せられた。  

 

国民によるあるべき姿の追及がなおざりにされていますね。少子化は我が国民のノンポリ・政治音痴のせいでしょうね。      

わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。

我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。

わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気を伝えることにより満足している。 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。おかげさまでわが国は、漫画アニメの大国になりました。  

体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  

日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。     

つかみどころのない人間の批判は愚痴・わがままとなり、議論は単なる言い争いに終始する。’和を以て貴しとなす’ の教えと事なかれ主義の圧力により人類の進歩は期待できない。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

 

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二郎さん  

2023-01-05 21:24:21 | 文化

>大学紛争知る「団塊世代」 あの時、無力感でいっぱいに それでも感じる「物事が動くのはやっぱり…」   >神戸新聞NEXT/神戸新聞社 - 10 時間前   

> 昨年末、歓喜の歌が姫路(兵庫県)の街に響いた。   

>公募の市民による「姫路第九合唱団」が50周年を迎えたのだ。   

>団員は団塊の世代が中心。   

>その一人、二郎さん(73)=仮名=が教えてくれる。   

>「第九って『すべての人は兄弟』って歌ってるんですよ」。   

>うれしそうに話す二郎さんの青春時代は学生運動の全盛期だった。   

> 政治や大学に対し、学生が組織をつくり、問題提起をする。   

>大学2年生だった1969年、登校した二郎さんの教室は机や椅子でバリケードが築かれ、入れなくなっていた。   

>当時、学生代表の代議員。   

>教職員と活動家の間に入ることになった。   

> 「大学の今後を協議するため双方に話を聞くんだけど、どうしたらいいのか分からない。   

>活動に興味のないノンポリは学校に来ないし、大学は2年ほど封鎖されちゃった」   

 

日本人はノンポリ・政治音痴ですからね。未来社会の内容に関する執着がありません。       

 

> 無力感でいっぱいだったが、思い知らされたことがある。   

>それは話し合いの大切さ。   

 

そうですね。政治音痴ではいられませんね。      

 

>封鎖中はほとんど勉強にならなかったため、学校にやって来る数少ない仲間と一緒に大学側と協議し、卒業研究などの必須単位をなくすことで合意した。   

> 「やっぱり団結なんですよ。団結で物事が動いたんですよ」   

 

リーズンとは、理性・理由・適当のことである。日本人にはリーズンがない。だから、日本人からはリーズナブルな答えが得られない。   

ノーリーズンでは問題の解決は難しいですね。   

 

>■個人主義を助長しすぎるな   

> 二郎さんは卒業後、コンサートを企画する姫路労音の事務局に勤める。   

>労音は「数の力」が物を言う組織だ。   

>会員が多いほど有名人を呼べる。   

>他の街の労音と連携すれば大きなイベントもできる。   

>当時は全国に200近い労音があったらしい。   

> 今ほど娯楽が多様でなかった時代。   

>二郎さんの青春を彩り、その考え方に影響を与えたのも音楽だった。   

> 「一つの音楽との出合いで人生は変わる。   

>岡林信康や高石ともやは、音楽で世の中を変えられると歌った。   

>共感しました」   

> だが高度経済成長が終わり、急速に熱狂が冷めていく。   

>バブル崩壊、長引く不況…。   

>かつて激しく意見を主張していた団塊の世代の声も小さくなった。   

> 「大学紛争で挫折感を抱えた人が多いんじゃないかなあ。   

 

無哲学・能天気の人達の集まりでは、何事も起こりませんね。    

 

>ほとんどの人は就職して企業戦士になり、物を言わなくなっちゃった」。   

 

昔の皇軍兵士のようなものですね。日本人は変わっていませんね。      

 

>個人が自分のこと、勤める会社のことばかりを考える時代になった、そう二郎さんは思う。   

 

処世術 (損得勘定) に徹している時代ですね。    

 

>そして、政治もそれを助長してきたと。   

 

政治家には政治哲学がないのですね。    

 

>■「団結」で変わる世の中に  

 

> 記者は団塊ジュニアの少し後に生まれた氷河期世代。   

>就職に苦労しても、社会と戦う空気はなかったように感じる。   

>団塊の世代も含め、政治への諦めなのか、怒りや不満を表立って出さない風潮は今も続いている気がする。   

 

我が国の根本的な教育改革が必要ですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)           

 

> 「すぐには変わらなくても、今より世の中が良くなるように、皆で一緒に物事をつくっていくこと。それに尽きる!」

 

我々は困難な原因の成因をよく理解して現実を改革する必要がありますね。   

 

> なるほど。   

>小さな声でも団結すれば、世の中を変えられる。   

 

我々はリーズナブルの提案の下で団結する必要がありますね。   

 

>政治にはしっかりその声を受けてほしい。   

 

政治家には政治哲学が必要ですね。    

 

> 「団結が大事」。   

>二郎さんがそう繰り返す。   

> 団塊の世代からのメッセージ。

>【プロフィル】鳥取県から姫路工業大(現兵庫県立大)に進学。   

>大学時代、岡林信康さんのコンサート目当てに入会したのが姫路労音との出合いだった。   

>労音の役職から65歳で退いたが、国際交流担当として引き続き勤務している。   

 

わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。

我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。

わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気を伝えることにより満足している。 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

体系のない日本人の発想は哲学には成らずして、空想・妄想になる。これを白昼夢というのかな。おかげさまでわが国は、漫画アニメの大国になりました。  

体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  

日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。     

つかみどころのない人間の批判は愚痴・わがままとなり、議論は単なる言い争いに終始する。’和を以て貴しとなす’ の教えと事なかれ主義の圧力により人類の進歩は期待できない。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)     

 

 

 

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小林祐児氏  

2023-01-05 03:11:22 | 文化

>日本人が学ばない理由   >By Satoshi Ebitani, Editor at LinkedIn News  

>「日本は学ぶ習慣のない国」と日本経済新聞で指摘するのは、パーソル総合研究所の小林祐児上席主任研究員。   

>企業が長期安定的なジョブローテーション型の雇用慣習を取った結果、自分のキャリアを戦略的に積み上げる意識の低い社員が多く生まれた。   

 

日本人には意思がない。だから、指示待ち人間になっている。   

 

>社員の学びに対するインセンティブが弱いうえ、個人的にも「学ばない」くせがついていると言う。

 

日本は序列社会ですね。序列順位昇進の夢が遠のいていますね。日本人の学習は考えることではなくて真似をすることですね。これでは新しいモノは出て来ませんね。         

 

>状況を変えるには、「横断的に学びの共同体化を図り、習慣にするしかない」と小林上席主任研究員は言う。

 

日本人には個人の観念がない。社会も個人の力を期待していない。考えが個人単位であることを理解していないことに問題があるのでしょうね。   。    

 

 

>代慶達也   >「日本人は勤勉か?」。   

>パーソル総合研究所の調査によると、勤務先以外での学習や自己啓発など自己投資に前向きなビジネスパーソンの割合は日本は4割程度にとどまっています。   

>米国は約8割、中国も7割、調査対象の18カ国の中で日本は断トツで、学びの自己投資意欲が低いですね。   

 

日本人は思考を停止していますからね。学びの自己投資は考えられませんね。      

 

>これは日本の場合、社内で学びながら働くという習慣が染み付いているかもしれません。   

 

そうですね。学ぶは真似をすることですね。   

 

>いまだ日本の中高年の大半は、会社人間です。   

 

日本人には意思がない。ですから中高年の大半は社畜ですね。    

 

>実際のリスキリングも会社主導で普及しそうです。   

>大企業中心に企業内大学が次々誕生しています。   

>ただ、学びのトライをするか否かは、それぞれの個人の意欲次第です。   

 

日本人には意思がない。学びのトライは恣意 (私意・我儘・身勝手) によるものですね。    

 

>先日、大企業からフリーランスとなった女性が「いいわよね、大企業は!勉強代も払ってくれるのだから。   

>会社を辞めるのじゃなかった」とボヤいていました。

>確かに「手あげ」した方がお得かもしれませんね。

 

何に付け、おんぶにだっこですね。消極的人生ですね。おとなしい人生ですね。          

 

>島崎由真   

>前職で実施していた大企業社員向けに実施していたプロボノプログラム参加者のうち、20%の人がジョブポスティングに応募されていました。   

>手挙げによるプログラムでしたが、社外での腕試しを通して自身の強みや弱みに気づき、そこからの学び直しや社内へのチャレンジへと踏み出していかれたのです。   

>機会を与えても手を挙げる人が少ないと嘆く人事の方が多いのですが、そのための心理的安全性を担保することと、跳び箱を一段ずつ積むが如く小さな手挙げ機会を刻んで用意することが重要だと思います。  

 

日本人は序列人間である。心理的安定は序列順位の確保によもたらされる。序列順位昇進の待ちが日本人の伝統的な人生ですね。     

 

>川平卓音   

>世界的に見ても自己投資に消極的なニッポン この逆境を活かして自己投資に積極的になろう!   

>興味深いデータを見ました。  

>「勤務先以外での学習や自己啓発への投資について」のアンケートで、日本人は世界的に自己投資をしない人が断然多いという結果になっています。   

>具体的なアンケート結果は以下です。   

>【日本】

> ■現在は自己投資しておらず、今後もするつもりはない  →42.0%  

> ■現在は自己投資しておらず、今後はするつもりだ     →18.0%

> ■既に自己投資しており、今後増やすつもりだ  →15.8%

> ■既に自己投資しており、今後も同程度継続するつもりだ  →24.2%

>一方他国を見れば、自己投資に積極的な国は、ベトナム、インドネシア、フィリピンなどの東南アジア諸国と、インド、米国が上位になっているようですね。   

>このような国々には今後も投資をする価値がありますね。   

 

そうですね。   

 

>日本は他にも様々な問題を抱えていますが、このようなデータから見ても、国としての成長に今後も期待できないのが本音ですね。   

 

がり勉はもう沢山ですからね。   

 

>ただしミクロ的に考えれば、日本でこれだけ自己投資に消極的なのであれば、自己投資に積極的になることで、他の方と圧倒的に差をつけることが可能という見方もできます。   

>ピンチはチャンスです。   

 

ピンチをチャンスに変える的確な方法論が必要ですね。   

 

>今後も積極的に自己投資を続けていきたいですね^^  

 

それは希望的観測ですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん   

 

 

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