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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

汐見稔幸氏  

2022-09-29 16:59:56 | 文化

>EDUCATION 子供の五感を育てる2022.09.08  >「音読」[おんどく]を甘く見る人が知らない驚きのメリット|コミュニケーション能力や非認知力もアップ!?  

>文章を声に出して読む「音読」は、小学校の宿題の定番です。  >ご家庭でも、「毎日子どもの音読につきあうのは、ちょっと大変」などと思われているかもしれませんね。  >音読は脳のさまざまな部位を活性化すると言われ、幼児からシニアまで、さまざまな世代に向けた「音読本」が市場をにぎわしています。   

 

そうですね。音読は言語学習の武器ですね。      

 

>長く幼児教育や保育学に携わり、子どもたちのすこやかな育ちへの支援に力を注いでおり、『頭のいい子を育てる 名作おんどく366』を上梓したばかりの汐見稔幸先生に、音読の意義や効果、日々の生活の中へのじょうずなとり入れ方などについて伺いました。

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>音読は脳の活動を活発にする   

>日本語は、世界的に見ても音の種類の少ない言語です。  >そのため「雨」と「飴」、「橋」と「箸」など、かなで表記すると同じになる同音異義語が多く、だからこそダジャレもたくさん成立します。   

 

訓読みは漢字知識の豊富な人が、漢字に相当する日本語を探し当てた結果 (読み) でしょうね。    

 

>また、日本には「忌み言葉」など、縁起の悪い言葉を声として発するのを避ける風習があります。  >かつての人は、いまよりもずっと、音が持つ言語作用を大事にしていたと思います。>音読では、文章を声に出して人に語り、さらにそれを自分の耳で聞いて、目から入った情報と合算して修正する作業が必要になります。  >視覚と聴覚の情報処理の方法は異なります。  >その両方を働かせることで、黙読にくらべて、脳の活動ははるかに活発になります。

 

そうですね。   

我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。英語のつづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひ日本語のローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。わが国の日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。      

 

>黙読には早く情報を手に入れられるという側面があり、忙しい現代人には重宝しますが、言葉がもつ意味の多面性は、黙読では半減してしまいます。

>コミュニケーション能力も養うことができる   

>また、音読の大きなメリットはもうひとつあります。 >それは読む人と語る人が同じ気持ちになって、その作品の世界を共有できることです。  >ひとつの作品をともに味わうことで、徐々に感情が結ばれあい、同じ世界に生きている感覚が生まれます。

 

ご唱和の世界の実現ですね。    

 

>これは本来の意味での「コミュニケーション」が起きているということです。 >コミュニケーションの語源はラテン語の「コミュニス(共有、共通)」です。 >幼児期に絵本などの読み聞かせをする家庭は多いのですが、音読は学校の宿題というイメージが強いので、日常的にとり入れている家庭はそれほど多くないかもしれません。  >しかし、相手にきちんと伝わるように、読み方を工夫し、自覚的に語る音読は、コミュニケーション能力を育てます。  >気持ちの通じ合うコミュニケーションができることは、将来社会に出たときに活躍できる土台となります。  

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

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>NGワードは「もう終わっちゃったの?」   

>相手が一生懸命読んでいるときは、一息入れたときに相づちを打ちます。  >お互いの呼吸のリズムが一致するのが「気が合う」ということ。  >無意識にやっていることも多いのですが、タイミングが合ってくると、読み手はより気持ちよく語れます。  >講演や授業などでも、聞いている人の反応がなければうまく語れないのと同じことです。  >できれば子どもと向き合って、聞いてあげてほしいところですが、忙しい日常の中で、いつもそうできるとは限りません。  >ただ、家事をしながらでも、少なくとも耳はかたむけてあげましょう。  >「あ、もう終わっちゃったの?」はNGワードです。  >音読に限りませんが、子どもに学びを促すときには、「ダメ」に関わる言葉は決して使わないことです。  

 

そうですね。人にはいろいろな考えがありますからね。    

 

>野球選手のイチローのお父さんは、息子がスランプで悩んでいるときに「悩むのは、そこまで進歩したからだ」と励ましたそうです。 >「きょうの読み方は心がこもっていたね」「前よりスムーズに読めていたよ」など、音読していること自体をほめ、前進していることを評価しましょう。 >子どもは興味をもてば、教え込まなくても、なんでも自分から覚えていくものです。   

 

そうですね。子供は学習意欲が旺盛ですからね。   

 

>1日数分でいいので、音読をきっかけに、家族みんなが心を通い合わせるひとときをもてるといいですね。   

 

日本語を表音文字で表現し万国の人に親しんでもらいましょう。   

 

>東京大学名誉教授、白梅学園大学名誉学長   >汐見 稔幸(しおみ としゆき)   >1947年、大阪府生まれ。   >専門は、幼児・児童教育学、保育学、教育学。   >著書に『本当は怖い小学一年生』『「天才」は学校で育たない』(いずれもポプラ新書)など。   

 

   

 

 

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鳥内秀晃氏  

2022-09-28 22:40:11 | 文化

>スポニチアネックス   >大学って何のために行くん? 勉強せんとスポーツばっかりしてる人、よう聞いてや   > スポーツニッポン新聞社 2022/09/28 08:00  

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> 【名将・鳥内秀晃の人間話 頼むでホンマ】ユニバス(UNIVAS)って、どれくらい世間に浸透してるんやろ。  >文科相とスポーツ庁が20193月に設立した大学スポーツを統括する団体で、日本版NCAAって呼んでもええやろな。  >目指す方向性は正しいねんけど、今のところは全く機能してへん感じやわ。  

 

そうですね。カエルの面に小便ですね。   

 

> ホームページを見ると、「大学スポーツにおける??デュアルキャリア??とは、学業、競技活動などを通じて自身のキャリアをより豊かにするために取り組むことを意味する」って書いてんねん。   

>文武両道を目指し、最低限の教養を身につけて、社会でも通用する人材を育成する、という理念は結構やわ。   

>けど、本気で実現させようと思ったら、10年、15年はかかるで。   

>今はスポーツ推薦で学力関係なしに入れる大学がいっぱいあるやん。   

>そういう勉強する習慣のない今の高校生に「急にやれ」いうても無理な話やし、仮に大学へ入っても、卒業なんておぼつかへんわ。   

>小学生くらいから将来のことを考えて指導して、自主的に勉強するようにさせるには、これくらいの時間が必要って話やな。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

> NCAA(全米大学体育協会)かて、30年くらい前までは、高校の成績関係なく、スポーツ奨学金をもろて大学に入る学生がおったわ。   

>けど、いろんな問題を起こすようになって、高校で最低限の評定点を取ってなかったら入学もできひんし、一定の単位を取ってなかったら、試合にも出られへんというルールができて、明らかに変わったな。   

> うちのクラブも一時期、留年する学生が増えて、オレが監督やってる15年くらい前かな、規則を作ったんよ。   

>在学中に取得せなあかん単位を4で割るやろ。例えば120やったら、1年間で30以上取らへんかったら、練習にも参加できませんよ、と。   

>下級生のうちに頑張っていっぱい単位取って、上級生になってからフットボールに専念してもええやん。   

>それがうまく機能したんで、大学も、このシステムを採用するようになったわ。   

> 結局な、フットボールをはじめ、課外活動っていうのは、人間形成のためにあるもんやろ。   

>それを考えると、すぐに処分が決まった同大アメフト部の事件※は、教育ということを忘れてしもてるんとちゃうかな。   

 

事件の中身の吟味が大切ですね。   

 

>まず被害者の女性はホンマに気の毒やったと思うし、加害者の4人が誠心誠意、謝罪して、罪を償うのは当たり前やな。   

> ただ、連帯責任については、もっと深く考える必要があるやろ。   

 

そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人間には責任もない。説明責任が取れないのだから、考える余地もない。出来心か。      

 

>今回は4人とも同じ大学のアメフト部員やったけど、もし違う部とか、違う大学の学生、クラブ活動してへん一般の生徒が交じって部員が1人やったとしても、やっぱりフットボール部の連帯責任になったんかな。   

>早い決断は分かるねんけど、何の罪もない4年生は、大学生活の最後に試合する機会を奪われて、ホンマにかわいそうやで。   

> なんで真面目に頑張っている子まで、被害を被らかなあかんの。  

 

そうですね。責任観念の確立していない社会では分析ができないために、被害は理不尽に広がりますね。  

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)    

 

>もちろん、事件を起こした4人は論外やで。   

>春のシーズン中に、しかもコロナ禍で外出したらあかんて言われてるのに繁華街へ行って、あんなことするなんて弁解の余地もないわ。   

>活動停止して、何でこういう事件が起きたかを話し合うのは大事やと思うで。   

 

日本人は自己のあるべき姿を持っていないので、批判精神がない。だから、話し合いも意義あるものになりませんね。    

 

>けど、今年の試合を全部アウトにするんは違うんちゃうかな。   

>クラブ全体の連帯責任が、教育にとってふさわしい決定かどうか疑問やわ。   

 

そうですね。一億総懺悔のようなものですね。責任は霧散してしまいますね。      

 

> 競技に関わってきた身として言いたいのは、アメフト界は過去にあった事件や事故をちゃんと公にして、その後に生かしてるってことやねん。   

>昔と比べたら、練習や試合の事故も大きく減っているわ。   

>一部で「またアメフトの選手が不祥事を」って声が上がっているのも承知してるけど、再発防止のために、原因を究明して、二度とこんなことが起きんようにせなあかんわな。   

 

そうですね。しかし、日本人には意思がない。だから、受動があって能動がない。被害者意識があって、加害者意識がない。罪の意識もない。それで、病める魂の持ち主もいない。深刻な反省に至ることもない。だから、二度とこんなことが起きないようにすることも難しい。        

 

> 今回起きたことだけやなくて、全ての大学はクラブについて、私生活を含めて、もっとちゃんと調べた方がええで。   

>ホンマに課外活動が教育の一環として成り立ってるんかどうか、考え直すええ機会や。   

>たまたま事件が表面化したけど、これは氷山の一角かもしれへんやん。   

>大学が何のためにあるのかを見つめ直した方がええわ。   

 

体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

 

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

 

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

 

>頼むで、ホンマ。   

>(関西学院大アメリカンフットボール部前監督)   

> ※同大アメフト部員4人が準強制性交の疑いで98日に逮捕。   

>同部は無期限の活動停止を発表し、今季の関西学生リーグ1部出場を辞退した。   

 

 

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解散請求  

2022-09-27 20:46:39 | 文化

>AERA dot.   >旧統一教会に対する「解散請求」にそそり立つ壁 なぜ反社会的な団体を解散できないのか?   > 2022/09/26 07:00  

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> 916日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)による被害の救済と根絶に取り組んできた全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)が東京都内で集会を開催し、問題解決に向けた声明を発表した。>旧統一教会に家庭を破壊され、恨みを募らせた山上徹也容疑者が安倍晋三元首相を射殺してから2カ月以上が経過。

 

山上哲也容疑者の問題はわが国の根幹を揺るがす問題であるはずですね。 日本人の存在そのものに疑問を投げかけていますね。我々はとらえどころのない人間になってはいけない。            

 

>オンラインを含めた集会には弁護士や牧師、僧侶、報道関係者のほか、約20人の国会議員が参加した。   >声明には教団への解散請求を含めたさまざまな対策が盛り込まれたが、課題も浮き彫りになった。   

 

猫の首に鈴を付けるのははたして誰でしょうかね。   

 

>*   *   *   

>「旧統一教会の解散を実現しなければならない。   

>それが無理であれば、教団の活動を規制するガイドラインをつくって政令で明示するなど、実現可能な何らかの結果を出さなければならない。   

>そのためには今の状況のなかでできることを最大限にやる。   

>今日集まった弁護士は全員、同じ気持ちだと思います」   

> こう語ったのは全国弁連の代表世話人である山口広弁護士。ときに声を荒らげながら、「時間的な余裕はない」と、焦りをにじませた。   

> 世間では旧統一教会に対する強い批判の声が上がっている。   

>だが、世論は移ろいやすい。   

>30年前もそうだった。   

 

過去の出来事は疾く風化する。世論は柔らかなのですね。しかし、事の重大さを考えれば専門家は世論を気にしてはいられませんね。        

 

>■“嵐”が過ぎ去るのを待っている

> 1992年、韓国で行われた統一教会の合同結婚式に桜田淳子らが参加したことが大きな話題となった。   

>しかし、高額な献金や信教の自由の侵害など、問題の本質に目が向けられることはほとんどなく、以後、「空白の30年」が続いた。   

 

それは、我が国民のあるべき姿に対する考えの内容がしっかりしていないからでしようね。    

 

>「旧統一教会は今、ひたすら身をかがめて嵐が過ぎ去るのを待っていますよ。   

>教団とつながりの深い自民党もそうでしょう。   

 

事の重大さを理解する日本人は何処にもいないようですね。全ては他人事のようですね。       

 

>残念ながら、今回の騒ぎも30年前と同様に半年もすれば終わると思います。 >そうしたらまた元に戻る。 >私たちの活動は焼け石に水ですよ」   

 

無哲学で能天気。賽の河原の石積みですね。ああ、むなしい。   

    

> 脱会信者らの支援活動を続けてきた竹迫之(たけさこ・いたる)牧師は、以前の取材で、そう苦々しく語っていた。   

> いまも「彼ら(旧統一教会信者)との関係を悪化させたくない」と、筆者に語る議員もいる。   

 

和を以て貴しと為すか。   

 

>旧統一教会と一部政治家は持ちつ持たれつの便利な存在なのだ。  

 

人々は助け合って生きているのですね。   

 

>■解散請求に不可欠な調査   

> 宗教法人法では、法令に違反し、著しく公共の福祉を害する行為などがあった場合、裁判所は所轄庁などの請求を受け、解散を命令できる。   

> 全国弁連はこの解散請求を旧統一教会対策の本丸と位置づける。   

>「長年にわたりこれほど経済的、精神的に被害を生じさせてきた団体に対して『解散できない』というのは明らかにおかしい。   

>それは広く国民のみなさまにおいてもご賛同いただけるものと考えております」と、井筒大介弁護士は訴える。   

 

全会一致ですね。   

 

> 一方、川井康雄弁護士は解散請求について「現時点の材料で認められると、安易に考えているわけではない」と言う。   

> いったい欠けているのは、何か?   

> 旧統一教会が宗教法人であることを隠した伝道活動の違法性が認められているが、「そのような活動が全国47都道府県で行われているという裏づけが必要です」(川井弁護士)。  

 

全国で違法性が認められる必要があるのですね。    

 

> さらに重要なのは資金の流れの解明という。   

>「旧統一教会が毎年提出している財産目録や収支計算書が本当に実際の献金どおりに記載されているのか。   

>そこに虚偽があれば宗教法人として罰則が科せられます。   

>さらに関連会社などにおける事業収益で脱税が行われていないか、お金の流れを明らかにすることが大切です」(同)   

> だが、当然のことながら、弁護士には捜査権がない。   

>国が調査に乗り出さなければ証拠は集まらない。

 

国に捜査権があるならば、国が調査に乗り出す必要がありますね。    

 

> さらに山口弁護士は別なハードルを挙げる。   

>「旧統一教会に対して解散請求を不用意に行えば宗教界は総反発するでしょう。   

>解散請求は決して宗教界全体におよぶものではなく、霊感商法的な行き過ぎた活動に対するものですと、きちんと説明して、ご理解いただく努力が必要だと思います」   

 

きちんと説明することも国の努力ということですね。    

 

>■現実的な消費者庁との連携   

> 宗教法人の所轄庁は文部科学大臣である。   

>しかし、これまでの経験から「文科省を動かすのは極めて難しい」と山口弁護士は実感する。   

>解散請求に向けて時間を費やしている間に国民の関心が薄れてしまえば、国は動かないだろう。   

 

国の動きは専門家の関心とは関係がないのですね。   

 

>そのため、全国弁連内部ではさまざまな議論が飛び交っているという。   

> そんななか、山口弁護士が期待を寄せるのは、消費者庁のフットワークの良さだ。   

>実際、同庁では「霊感商法等の悪質商法への対策検討会」が開かれている。   

>この検討会について川井弁護士は「議論は非常にありがたいことです」と述べ、消費者保護の観点から全国弁連内部で主に三つの法令について議論していることを明かした。   

>消費者契約法(消契法)または特定商取引法(特商法)の改正、もしくは新法の立ち上げである。   

> ただ、いずれの案にしても旧統一教会の霊感商法をどのように法律のなかに盛り込むかが大きな課題となる。   

> 旧統一教会は正体を隠して伝道を行い、相手を知らず知らずのうちに教義を疑わない“かたい信者”にしたところで高額な物品を売りつける。   

>集会の会場に展示された『天聖経』は430万円。   

>『聖本』にいたっては3千万円。   

>代金は「献金」として教団に渡される。   

>商取引ではないので領収書は発行されない。   

>さらに信者には被害者であるという意識もない。   

>「このような献金被害を消契法あるいは特商法で規定するのは本当に難しい。   

>新法をつくるとしてもどういう規定にするのか。   

>旧統一教会が組織的に被害者の信教の自由を奪い、財産権を侵害していることは明らかですから、私は解散請求で対応することが一番いいと思っています」(川井弁護士)  

 

明かな事実を論拠にして解散請求したらよいでしょう。   

 

>■日本はカルトの吹きだまり   

> 一方、阿部克臣弁護士は「消契法や特商法を使いやすいように改正すれば、さまざまなカルトと戦う『武器』が増える」と、メリットを挙げ、こう続けた。   

>「いま、日本は世界中から有象無象のカルトが集まる、まるでカルトの吹きだまりのような状況になっている」   

> 日本脱カルト協会の代表理事を務めた故・高橋紳吾さんによると、1970年代、欧州では日本と同様、旧統一教会の活動が猛威を振るった。   

>その後、EC(ヨーロッパ共同体)や加盟諸国は次々とカルト対策を打ち出し、旧統一教会はほぼ撤退した。   

>「一方、日本は1995年にオウム真理教による無差別殺人事件という甚大な被害を経験した国であるにもかかわらず、カルトについての抜本的な解決策を見いだせないまま今日にいたっています。   

 

ECや加盟諸国のカルト対策をわが国でも取り入れたらよいではありませんか。    

 

>旧統一教会による被害も根絶されないままです」(阿部弁護士)   

> なぜ、日本ではカルト対策がほとんど打ち出されてこなかったのか。    

>前述の山口弁護士は、こう説明する。   

>「神道と結びついた戦前の宗教行政の反省に立って、行政が宗教界に干渉することはよくないこととされてきました。   

>しかしながら、旧統一教会による多大な被害が長年続いてきた現実があります。   

>さらにこれまで細々と看板を掲げてきたさまざまなカルトの“メシア”たちがウェブ社会になってからインターネットを通じて信者を増やしている。   

>それをめぐるトラブルの相談が最近とても増えています。   

>本当にこの機会に宗教行政を根本から問い直さなければダメだと思います」   

 

そうですね。インド人社会や西欧人社会には病める魂の持ち主で救済を必要とする人が実在する。だから、宗教による救いの手が差し伸べられている。

だが、無心である日本人には病める魂の持ち主はなく救済の必要はない。   

 

>■カルト問題は宗教問題か   

> ちなみに、カルト対策の先進国、フランスの反セクト(カルト)法は教義の内容には踏み込まない。   

>個々の教団の活動によって生じた被害のみを問題としてとらえる。   

 

被害者を救済する方法が必要ですね。ただ、被害だけが問題ですね。      

 

>カルト問題は宗教問題ではない、という姿勢を明確にしている。   

>「反セクト法を日本に直輸入するわけにはいきませんが、示唆に富むものだと感じています」(山口弁護士)   

> 安倍晋三元首相銃撃事件をきっかけにして30年ぶりに浮上した旧統一教会問題。 >5年後、10年後、結局何も変わらなかった、としてはならない。  

 

そうですね。しかし、何も変わらないでしようね。

日本人の文化には形があって内容が無い。だから、必要以上に形に拘る必要がありますね。内容を生かす方策は常に想定外になっている。    

 

>AERA dot.編集部・米倉昭仁)   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

 

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

 

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

 

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)       

 

 

 

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赤阪清隆氏  

2022-09-27 06:10:18 | 文化

>レコードチャイナ   >Follow us on   >日本の宗教と政治の不思議な関係=無知ほど怖いものはない、議論深化を―赤阪清隆元国連事務次長   >2022/09/24  

>目下日本のメディアは、宗教、特に旧統一教会(世界平和統一家庭連合)を含むいわゆる新興宗教と政治の関係を、大々的に論じている。  

 

新興宗教はわが国のエネルギーになるのでしょうかね。    

 

>きっかけは、安倍晋三元首相の銃撃犯人が、彼の家族を破滅に陥らせた主因ととらえた旧統一教会を安倍氏が支援していたという理由で犯罪に至った経緯にある。   

>この問題に関する世論の関心と批判の高まりを受けて、自民党は、98日、党所属国会議員と旧統一教会や関連団体との関係について点検結果を公表した。   

>それによると、衆参両院議長を除く379名の議員中、179人の接点があり、議員本人が関連団体の会合に出席してあいさつをするなど「一定の関係」があったとして氏名が公表された議員は、121人にものぼった。  

 

政治家は新興宗教と関りが深いですね。これも政治家の藁をもすがる気持ちからですかね。      

 

>周知のとおり、日本における宗教と政治の関係は、第二次大戦後、大きく変化した。   

>日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は、日本の軍国主義が、天皇に対する神としての崇拝と国家神道と深くかかわっていたとの認識から、政治と宗教との分離を図る様々な措置をとった。   

>そして、新たに作成された日本国憲法では、信教の自由と国の宗教活動の禁止が明示的に規定された(憲法第20条)。   

 

政教分離ということですね。上からは禁止、下からは自由ということですかね。      

 

>これによって、国民は信教の自由を保障され、国は特定の宗教団体を支援する活動をしてはならないことになったが、他方、宗教団体の側が政治的な活動や選挙にかかわることまで禁止されたわけではない。

>それゆえに、戦後成長を遂げた新興宗教の多くは、自前の政治団体を作り、選挙に候補者を立てるか、あるいは既存政党の候補者を支援する形で、政治との関与を深めてきた。   

>政治参加を基本的に否定する新興宗教もあるが、多くの教団は、右派や保守政治家への接近を図ってきているのが見て取れる。  

 

政治家も宗教家も権力志向は強いですからね。    

 

>また、旧統一教会のように、大きな社会問題を起こして、政治問題化するケースも数多い。   

>日本の宗教を考える場合、キリスト教、イスラム教などの宗教と大いに異なるところは、信仰がさほど重視されない点だと言われる。  

 

日本人には意思がない。受動があって能動がない。被害者意識があって加害者意識がない。恨みがあって罪の意識がない。だから、罪の意識に苛まれて魂の救済を求める人もいない。病める魂の救済を目的とする宗教 (キリスト教) も勢力を持たない。 日本人の宗教には形式があって内容が無い。  

 

>NHK放送文化研究所が2018年に行った調査では、「信仰している宗教はない」と答えた人は62%にものぼっている。   

 

宗教に魂の救済を求める人が少ないからでしょうね。    

 

>それにもかかわらず、多くの新興宗教が存在しているし、また、元旦には初もうで大勢の人々が神社参拝に出かけ、年中行事、冠婚葬祭や日々の慣行の中に多くの宗教とのかかわりを観察することができる。

 

そうですね。わが国の宗教には形式 (儀式) があって内容 (教義) が無い。日本人の誰もがこれを不思議に思わない。         

 

>なぜ政治と宗教は癒着するのかについては、宗教問題に詳しい識者は、政治家にとっては、数としてはそれほどでなくても、宗教団体からの票の支援は、非常に固く確実であるため、安心感があると指摘する。   

>集票マシーンとして強力な力を誇る宗教団体もある。   

 

日本人は思考を停止している。だから、無哲学・能天気になっている。政治哲学がなくて、ノンポリ・政治音痴になっている。日本人にはなれ合いだけの絆がある。   

 

>また、宗教団体からの票数は落ちていても、小選挙区制と低投票率によって、政治的影響力がかえって高まった可能性もある。  

 

技術面だけの発達ですね。わが国には何でも揃っているが、ただ夢と希望だけがない。       

 

>他方、宗教団体側にとっては、一種の広告塔として政治家を利用している場合や、「保険」としてシンパを増やしたい目論見もあろう。     

 

日本人の励みには手段があって目的がない。これは無哲学・能天気の国民性の為である。      

 

>さらに、伝道や教化活動の正当化に加えて、霊感商法や社会問題を重ねていく過程において、世間からの批判から組織を守ってもらうという動機も考えられる。

>日本人が一定程度は宗教とのかかわりを持っているにもかかわらず、それに無自覚であるという実態と意識の乖離は、日本社会の宗教に対する脆弱性の一員となっていると指摘する識者も多い。

 

我が国には病める魂を持つ人がほとんどいないですからね。その救済策も考えられてはいない。わが国には技術面の発展のみがある。            

 

>島薗進日本宗教学会元会長(東京大名誉教授)は、915日付の日経新聞のインタビュー記事で、宗教について無関心な政治家が、教義や世界観にあまり頓着せずに、選挙に協力してもらえるからという実利面から関係を結ぶといった姿勢が、結果的に、社会的にさほどの支持も得られていない宗教団体が大きな影響力を持ち、国民生活にも累を及ぼす一因になったと語っている。    

 

日本人は思考を停止している。だから、無哲学・能天気である。哲学と宗教にその内容が無い。哲学と宗教は非現実 (考え) の内容である。選挙は実利 (現実) である。非現実よりも現実を選ぶのが日本人の常である。分かりやすい。幼稚である。夢と希望だけがない。   

 

>同氏は、戦後の日本では、一般教養の中で宗教が占めている地位は非常に低く、あまりにも宗教を軽視してきたことを反省すべき時に来ている、と述べている。   

 

そうですね。大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

 

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

 

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

 

>戦後日本の新興宗教の多くは、目指す理想社会の実現のために広く社会に働きかけ、さまざまな社会活動や政治活動に参加しており、宗教団体がこのように政治とかかわりを持つこと自体については、否定する意見は少ない。   

>むしろ、宗教団体が何らかの政治観を持ち、より良き社会の実現に向けて活動し、政党がそのような考えを政策に反映することについては、これを肯定的にみる向きが一般的である。   

>しかし、そのような宗教団体と政治とのかかわり方にあって、戦後韓国で文鮮明が創始したキリスト教系新宗教である旧統一教会は、他の宗教団体とは異なる特異な性格を有している。   

 

もしかしたら文鮮明は韓国人でありながら、日本教徒キリスト派の人であったのかもしれませんね。わが国の政治家は政治家でありながら政治哲学のない人達であったかもしれませんね。        

 

>特に、その霊感商法や強要的献金については、多くの訴訟が提起され、その責任を認めた民事訴訟判決が数多くある。  

 

哲学と宗教に弱い日本人は、なれ合いを基軸として人間関係を広げたのでしょうね。    

 

>旧統一教会の特性については、多くの新聞、雑誌記事が取り上げているが、外来のキリスト教系新宗教であること、反共・勝共という政治性、霊感商法・強要的献金などが主に論じられている。  

 

政治が宗教に近づくことは禁じられていますが、宗教が政治に近づくことは禁止されていませんからね。   

 

>旧統一教会と自民党議員との関係が次々に明るみになるにつれ、メディアや野党の関心と批判が高まったことから、政府および自民党も対応を迫られるに至った。   

>岸田首相は、831日の記者会見で、信教の自由や政教分離は憲法上の重要な原則として最大限尊重されなければならないが、宗教団体であっても関係法令を遵守しなければならないのは当然である一方、政治家側には、社会的に問題がある団体との付き合いには厳格な慎重さが求められるとして、同政権は旧統一教会との関係を断つと明言した。   

>また、自民党総裁として、茂木幹事長に対し、自民党所属議員を対象に旧統一教会との関係を点検し結果を公表すること、所属国会議員は同団体との関係を断つことを党の基本方針として徹底すること、および、自民党におけるコンプライアンスチェック体制を強化することを指示したとし、霊感商法等の被害者の救済には全力で取り組むと表明した。   

 

被害者の救済はぜひやるべきですね。    

 

>なお、安倍元首相と旧統一教会との関係については、98日の衆院閉会中審査で、実態把握には限界があるとして調査しない方針を明らかにした。   

>今回の旧統一教会をめぐる様々な議論は、日ごろの宗教に対する考えや特定宗教団体とのかかわり方を見直す良い機会を提供していると言える。   

 

政治哲学のない日本人に馴れ合いを断ち切ることは難しいでしょうね。    

 

>ものごとに白黒をはっきりとつける西欧合理主義的な考え方とは違って、日本人のものの考え方には、あいまいで灰色の部分を残すことが多く、また、そこに日本ならではの価値やメリットを見出す向きもあろう。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

>いずれにせよ、ことわざにも、無知ほど怖いものはないという。 >宗教と政治について、さらに議論が深まることを期待したい。  

 

そうですね。宗教・哲学に弱く、政治音痴であることが我が国民の課題ですね。これらの事は、英米流の高等教育に頼る必要がありますね。       

 

株式会社 Record China  

 

 

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反戦に愛国  

2022-09-26 21:11:28 | 文化

>時事通信   >ロシア、世論引き締めに躍起=プーチン政権、反戦に「愛国」で対抗   > 2022/09/26 12:35

 ()   

> ロシアのプーチン政権は、最大100万人規模とも言われる予備役の部分動員令で動揺が広がる中、世論の引き締めに必死だ。   

>24日も全土で抗議デモがあり、国民の間で厭戦(えんせん)ムードが高まれば、ウクライナ侵攻で戦況を好転させるどころか、逆に足をすくわれかねない。   

>再燃した反戦デモには「愛国デモ」で対抗し、あくまで主戦論をあおっている。

 

勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。 (ヘルマン・ゲーリング)  

 

> 「仲間を見捨てない」。プーチン大統領の政治運動体「全ロシア人民戦線」は23日、こう銘打った官製デモをモスクワ中心部で開催した。   

>ウクライナ東・南部4州でロシア編入に向けた「住民投票」が始まったのに合わせ、国民の「支持」を演出。   

>プーチン氏は姿を見せなかったが「5万人」(警察発表)を動員した。

 

朕は国家なり。汝、国を愛せ。プーチンを愛せ。   

 

 

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