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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

洗脳 5/5  

2021-05-31 04:52:31 | 文化

 

>まずは自分の中にある常識を、疑ってみよう。>自分が常識だと思っていることは、果たして本当に正しいのか? >「みんなが正しいと言ってるから、きっと正しい」と思い込んでるだけではないか?    

 

そうかもしれませんね。常識を守る方が自力で思考するよりも楽ですね。だから脱出する勇気がない。  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。

 

>その常識が正しいかどうか、自分の頭でちゃんと考えたのか?   

 

優秀な人は「純粋によく観察する」が、凡人は「自分の期待したもの」しか見ようとしない。

よく観察するとは現実のただ一つの内容 (事実) と非現実の多数の内容 (考え) を勘案して判断することですね。オオカミに対峙する七匹の子ヤギたちには後者がなかったので禍が降りかかった。

 

>もしかして、周りからの”見えない同調圧力”によって正しいと思わされてるだけではないか?  

 

そういう事も十分に考えられますね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

>それとも自分で考えるのが面倒くさいから、適当に周りに合わせているだけではないのか?   >目の前にある常識を、何も考えず無条件に受け入れてはいけない。>自分の人生における常識・ルールは、自分で決める。  

 

そうですね。自主・独立の精神を堅持することが大切ですね。     

 

>絶対に、他人には決めさせない。>自分の人生の主導権を、他人に握らせるな。>何が正しいのか、常に自分の頭で考え、自分で判断するんだ。>これは、あなたの人生なんだから。   

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)      

 

>——————————–     

 

 

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洗脳 4/5  

2021-05-31 04:33:45 | 文化

 

>ありもしない常識という暗黙のルールに縛られている多くの人々、つまりこの世の主流派とも言える人間たちは、強い権力や大きな影響力を持つ人間の思惑に見事に踊らされている。

 

そうですね。なれ合いですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。しかし、わが国の権力自体はそれほど強くはないようですよ。特高警察らよる過酷な言論の弾圧は消えてなくなりましたからね。カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) <日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)

 

>常識に従うことが正しいと信じ込み、自分の意思で考え判断することが出来なくなってしまっている。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)     

 

>完全に思考停止を起こした、非常に危険な状態に陥っていると言える。   

 

そうですね。日本民族の危機ですね。だが、我々にはその意識がない。   

 

>それはまさに新興宗教にハマった人間心理と同じ。>教祖がどんなにおかしなことを言おうとも、信じて疑わない。  

 

ゆめゆめ疑うことなかれか。これは 思考停止の状態は恐ろしいことですね。      

 

>教祖や教団を批判する人間がいれば、有無を言わさず排除する。  

 

幹部は教祖にポアしなさいと命じられるのでしょうね。

 

>善悪の判断基準は全て教祖や教団であり、決して自分で考え判断することは無い。

 

自己判断は教祖・教団に丸投げの状態ですね。自主・独立の人間は信者にふさわしくない。投票すべき人も教祖・教団の人が教えてくれるのですね。      

 

>目を覚ますことは、決して無い。

 

自己判断には自信がない。自己責任が伴うので危険ですね。目を覚まさずにいれば危険を感じることもない。      

 

>ここまで話した通り、常識とは意図的に作られたものが非常に多く、正しいとは限らないことばかりだ。>むしろ常識というものは、僕らの能力を制限し、未来への可能性や選択肢を奪うもの。  

 

思考を停止している人の為に常識が用意されているのかもしれませんね。  

 

>ぜひ今の自分が、作られた常識に縛られ、その常識によってあなた自身の思考を制限され、行動をコントロールされてしまっていることに気付いてほしい。  

 

そうですね。コントールされるようなことがないようにしましょうね。    

 

>そして洗脳によって僕らの思考や行動をコントロールしようとしているのは、国や学校だけではない。>テレビやマスコミ、反日勢力、会社、セミナーや研修会の類、友人グループ、家庭、ネット上に流れるあらゆる情報…至る所に洗脳の罠が仕込まれている。

 

そうですね。こんにちは情報宣伝活動が盛んですからね。   

 

>もしかすると僕も、この文章を使ってあなたを洗脳しようとしているかもしれない。>常識を守ることによって安心している思考停止人間になど、なっている場合ではない。  

 

そうですね。日本語を使って自己判断をするのは難しいですね。          

 

 

 

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洗脳 3/5  

2021-05-31 04:13:49 | 文化

 

>なぜそんな無難で平均的な生徒を望むのか? >それはこれまでの日本社会を見れば、答えが出る。>これまでの日本の経済を支えてきた大多数の人間、それは平凡で平均的なサラリーマン。 >これまでの日本経済を安定的に回していくためには、上からの命令に対して従順に従い、そして突出した能力ではなく何でもまんべんなく無難にこなせる能力を持つ人材、そんな可もなく不可もない平均的なサラリーマンが大量に必要だった。

 

そうですね。我が国には人手不足はあっても頭脳不足の話しはありませんでしたね。天下の秀才が一杯いますからね。      

特亜三国 (日本・中国・韓国) の民には、現実があって非現実がない。現実 (事実) を内容とする文章はあるが、非現実 (考え) を内容とする文章が存在しない。だから教育に関しても、技術 (実学) があって、哲学 (考え) がない。考えの内容は人様ざまであるので、個性的になる。だが、考えがなければ人間は没個性的になる。だから特亜三国においては、哲学が成り立たず 英米流の高等教育 そのものが成り立たない。現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣をしたことになる。非現実の内容を現実の中で実現すれば、それは創造になる。特亜三国 (日本・中国・韓国) の民は、模倣が得意で創造が苦手である。だから模倣の競争には参入者が多く、創造には少ない。そして模倣の試験には地獄が出現する。模倣の競争は没個性の競争であるため過酷なものになりがちであり、これはアニマル風の競争である。個性を伸ばして創造力をつけよう。そして、ゆとりある人間らしい生活をしよう。  

 

>日本経済を動かすのは、ほんの一部の選ばれた人間だけでいい。>それ以外は、上からの指示に逆らうことなく黙々と無難に仕事をこなす人間が大量にいればいい。  

 

独裁政権ですね。共産主義の国ですか。   

 

>今も昔も変わらず日本の教育は、国による強い影響下に置かれている。>現在学校で使われている日本の教科書も、著作・編集を民間に委ねられるようになったとはいえ、文部科学大臣が教科書として適切か否かを審査し合格しなければ、使用することを認められていない。>この制度を教科書検定と言うが、国による教科書検定を行っている国というのは、実は先進国の中では極めて珍しい。

 

無哲学・能天気の先進国は極めて珍しいですね。   

 

>はっきり言って、日本の学校というのは国の出先機関のようなもの。 >日本国の望むような労働者を、学校という組織が教育という名のもとに量産する。>国の方針に逆らわず、国の政策に疑問を持たず、従順で何でも無難にこなせる、そんな「国にとって都合の良い労働者」へと仕上げるために、子供たちを洗脳する。  

 

そうですね。日本人には意思がない。だから受け身である。指示待ち人間になっている。家畜・社畜が多い。      

日本人は思考停止の状態にあるので無哲学・能天気の状態になっている。政治は時代の先取りをしなくてはならない。だが世界観が無いので政治音痴になっている。

 

>よく「柔軟な発想を持ち、自分の頭でものごとを考え行動出来る子供を育成する」みたいなことを言っている学校があるが、正直疑った方がいい。 >子供をのびのびと育てているように見えても、それはあくまで学校が設定した「常識」の範囲内での話。 

 

そうですね。常識的な子供であれば、教職員は安心していますね。   

 

>学校が設定した常識の範囲を飛び出してしまう恐れのある子がいれば抑え込み、逆に常識の範囲から大きく落ちこぼれてしまえば、範囲内に収まるように無理矢理引っ張り上げる。>自由にしていいのは、あくまで学校が設定した範囲内でのこと。>学校が設定する範囲を大きく超えることは、もちろん絶対に許されない。>学校とはまさに、この日本における最大の洗脳機関と言える。

 

学校は無哲学・能天気の国民の為にある洗脳機関ですからね。    

 

>国や学校は自分たちにとって都合の良い常識を作り出し、子供の頃から僕らにその常識を刷り込んでくる。  

 

子供は暗記力により対応する必要がありますね。    

 

>そしてその洗脳に、驚くほど多くの人がかかったままでいる。

 

逃げ出す術がないからでしょう。   

 

>もしあなたが今の人生に生きづらさを感じたり、生きることに対し何かしらの疑問を感じているなら、申し訳ないがそれは良い兆候だ。>これまであなたにかかっていた「常識」という名の洗脳が、解けかけているのかもしれない。>この世に「常識」という名のルールなど存在しない。

 

あるのは人の振り見て我がふり直せの習慣だけですね。   

 

 

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洗脳 2/5  

2021-05-31 03:55:47 | 文化

 

>自分たちのために、喜んで命を投げ出してくれる兵士たち。   

 

権力者にとってまことに便利な世の中になりましたね。     

 

>そんな、まさに国や権力者にとって都合の良い兵士を量産するために、子供に対する洗脳機関として学校が大いに利用された。  

 

洗脳以外の目的の学校は無かったのでしょうかね。   

 

>また、女の子も兵士を量産させるため、そして人口を増やして経済を安定させるために、「結婚して家庭を持ち、専業主婦として家を守り、夫を支えつつ子供をたくさん生み育てることが女の幸せ」という刷り込みがされた。

 

産めよ増やせよの掛け声でしたね。   

 

>だから昔の女性は、離婚して実家に戻ってきたり、または未婚のまま結婚適齢期を過ぎたり、もしくは結婚をしたが子供が生まれなかったりすると、世間の風当たりはとても強かった。

 

まさに女性は子を産む機械ということでしたね。   

 

>そして残念ながら、戦時中だけでなく今現在も、学校による洗脳活動は続いている。  

 

思考停止がやまらなければ、頭の中は空っぽですね。これでは困るので暗記は必要ですね。そして卒業生は受け売り専門の人になります。    

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

 

>国にとって都合の良い人間を作り出すための洗脳機関として、学校は今も機能し続けている。  

 

自分たちの伝統・習慣はおいそれと変えられませんね。それを批判することさえ難しい。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

>例えば学校の望む生徒とは、一体どんな生徒か? >それは可もなく不可もなく、全ての教科をまんべんなく出来る、全てにおいて安定して平均的に良い点数を取れる生徒。 

 

学校の望む成果は、全員が金太郎飴のような顔をした卒業生ですね。   

 

 

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洗脳 1/5  

2021-05-31 03:28:13 | 文化

 

>謎ルールがやめられない日本の小学校 | メイン | 「遊びが育ててくれる子どもの能力」~まねっこあそび  >20210521日   

>あなたは洗脳を受けている   

>自己啓発セミナーとか聞くと、ちょっと怪しいかも・・・と感じる人がいるかもしれません。>でも“学校”と聞いて怪しいと思う人はほとんどいないでしょう。 >学校は基礎的な知識を身につけるところ、集団活動を通じて社会性を身につけるところだと思っている人が大半です。>ところが、もっと巧妙に、だれにも疑われずに全国の子供たちをマインドコントロールしているのが学校だと言われたらどう思いますか?  

 

それは逆説的に聞こえますね。   

 

> にほんブログ村 子育てブログへ >以下(https://jin-k.link/mind-control/)より引用します。

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>見えない同調圧力を作り出し、僕らを生きにくくさせているもの。>その正体は「常識」。>僕らが共有している世間の常識というものが、僕らの思考・行動に規制をかけ、まさに僕らの人生さえもコントロールしている。>僕らを支配するこの「常識」とは、一体何なのか…?   

 

それは良く分かりませんね。何やら便利な物らしいですね。       

 

>ここでひとつ、確認しておきたいことがある。>それは「知識」と「常識」の違いだ。>知識と言っても、正しい知識もあれば間違った知識もある。>一口に知識と言ってもいろいろあるが、基本的に知識とは事実に基づいたもの。>主観の入り込まない事実に基づいたもの。>それが知識。  

 

そういう事になりますかね。知識を世界に求め・・・・・。   

 

>それに対し常識とは、その場で共に生きる複数の人間が共有する価値観・感覚や暗黙のルール。  

 

嘘も百回言えば真実になる’。(ヨーゼス・ゲッベルス)    

 

>つまり常識とは、その時代・その国・その地域・その世代の人たちだけが単に共有しているにすぎない価値観やルールのこと。

 

そういうことになりますね。  

 

>まとめると、すなわち知識とは基本的に変わることのない事実。 >それに対して常識とは、その時代の情勢や置かれている状況・環境によってコロコロ変わってしまう不確実なもの。  

 

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。   

 

>特にIT・インターネットの普及した現代では、驚くほど速いスピードで常識が書き換えられていく。>そして常識とは自然に形成されることもあれば、実は意図的に人の手によって加工されることもある。>いや、むしろ常識とは、その時代の権力者などによって都合よく加工され続けてきた。>僕らは、時代の権力者たちの手で都合よく加工された常識を刷り込まれ、知らず知らずの内にマインドコントロールされているのだ。

 

そういう事も考えられますね。   

 

>例えば戦時中。>戦時中の日本の学校と言えば、まさにマインドコントロールの場と言える。>男の子を、国にとって従順な兵士に育て上げるために、敵国であるアメリカ・イギリスを鬼畜と呼んで憎ませ、天皇を神格化し、「お国のため天皇陛下のために命を投げうつのが日本男児のあるべき姿」だと、学校教育を使って子供たちに刷り込んでいった。  

 

思考停止と暗記力の世の中でしたね。これは今も昔も変わらない。大規模な洗脳が起こり筋金入りの皇軍兵士が沢山出来上がりましたね。忠勇無双の我が兵ですね。            

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。     

 

 

 

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