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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

細谷雄一氏  

2022-03-31 00:30:26 | 文化

 

>ハフポスト日本版 >「ロシアもウクライナも両方悪い」は不適切。 >細谷雄一教授の連続ツイートが「WEBで読める決定版と言える論考」と反響  > ハフポスト日本版 2022/03/30 15:12

 ()

>ウクライナ侵攻に関して「ロシアもウクライナも両方悪い」とする国内の一部の人の主張は「不適切」。 >国際政治学者の細谷雄一教授が326日、連続ツイートで指摘したことがSNS上で大きな注目を集めている。 >30日現在、最初の投稿だけで2万件を超える「いいね」が集まったほか、「極めて明快」「理路整然として分かりやすい解説」「WEBで読める決定版と言える論考」と反響が広がっている。

 

プロの文章ですからね。理路整然としていますね。著者の教養が表れていますね。   

 

>■れいわ新選組は「あくまで中立」を日本に求める。 >鈴木宗男氏は「ウクライナにも責任」  >ウクライナ侵攻をめぐっては、日本の政治家や知識人の一部から「戦争はどちらも悪い」などとして侵攻したロシアだけでなく、侵攻されたウクライナの側にも問題があると指摘する声が一部で出ている。 >山本太郎衆院議員が率いるれいわ新選組は、ロシアを非難する31日の国会決議に反対した上で、「ロシアとウクライナどちらの側にも立たず、あくまで中立」であることを日本政府に求めた。  

 

善悪のない世界は子供の世界ですね。   

 

>また、日本維新の会の鈴木宗男参院議員は13日、「原因をつくった側にも責任がある」と述べ、ウクライナの対応を批判している。 >■「侵略から国民の生命を守るために自衛的措置をとる行動は、合法であり正当な行動」と細谷教授

() >こうした動きに関して、国際政治学者として知られる慶應義塾大学の細谷雄一教授(@Yuichi_Hosoya)は26日、「なぜ『ロシアもウクライナも両方悪い』という議論が適切ではないのか」から始まる連続ツイートをした。  

 

それは日本人の伝統的な判断を破る発言ですね。    

 

>ロシアの軍事侵攻について「国際法を無視した侵略的な武力攻撃、さらには無差別な一般市民の殺戮は悪」と断じた。 >一方でウクライナの反撃に関して「侵略から国民の生命を守るために自衛的措置をとる行動は、合法であり正当な行動」と指摘した。 >その上で「あらゆる戦争が悪であると述べることは、正しいようでありながらも、20世紀の国際法と国際的規範の歩みを全否定すること」と説明。 >「情緒的及び感覚的に『戦争はどちらも悪い』と論じることは適切ではないと考えている」と綴った。

 

そうですね。国際社会では 喧嘩両成敗では通じませんね。日本の常識は、世界の非常識か。       

 

>■細谷教授の連続ツイート全文  >なぜ「ロシアもウクライナも両方悪い」という議論が適切ではないのか。 >それは国際社会にもルールや規範があるから。 >ロシアの行動は、国連憲章24項の国際紛争解決のための武力行使を禁ずる国際法違反。 >ウクライナの行動は、同51条の個別的自衛権行使に基づくもの。 >国連総会も日本政府も、それに賛同。

 

基準を立てれば、物事の判断は楽になりますね。    

 

>ウクライナにネオナチがいるとかゼレンスキー大統領に問題があるとか、そういったプーチンや反米親露のメディアや知識人の主張に耳を傾ける前に(基本的に武力行使禁止の免責条項にはならない)、まずは国際法上違法性の高いロシアの武力攻撃が、どういう論理で合法性の担保が可能か考えるべきでは。 >あらゆる戦争が悪であると述べることは、正しいようでありながらも、20世紀の国際法と国際的規範の歩みを全否定すること。 >道徳的な高みになって、「あらゆる戦争は悪であってどちらが正しいというわけではない」と論じることは、20世紀の平和への努力を蹂躙すること。 

 

そうですね。国連憲章の条文の理解できない人はどうしようもないですね。   

 

>国際法を無視した侵略的な武力攻撃、さらには無差別な一般市民の殺戮は悪であるが、そのような侵略から国民の生命を守るために自衛的措置をとる行動は、合法であり正当な行動であるということを理解してほしい。 >だからウクライナの行動が国際的に支持され、国際社会から支援されている。  >これらの前提を知らずしてか、無視してか、「ロシアもウクライナも、戦争をしているのはどちらも悪いのであって、片方を支持するべきではない」というのは、国際的には全く共感されず、単なる国際法の無知とされてしまう。

 

そうですね。教養が無ければ、世界の孤児になりますね。       

 

>もちろんより重大な問題として、常任理事国が拒否権を持ち、ロシアの妨害で国連安保理決議が採択されないこと。 >だからこそ、ゼレンスキー大統領は日本での演説で、国連改革の必要を解き、イギリス政府は国連安保理からのロシアの除外を求めている。 

 

国際社会の中にいるならず者が問題ですね。  

 

>現状の国際社会は完璧ではないが、法と規範も存在。  

 

完全な社会は頭の中 (非現実) にある。不完全な社会は頭の外 (現実) にある。   

 

>とはいえ、もちろん、国際法は「白と黒」で分かれているのではなく、多くのグレーゾーンがある。 >また、冷戦後の30年間で、アメリカが国際法や国際的な規範を踏み躙るような行動を幾度もこない、アメリカへの不信感や、国際法の信頼性が大きく後退したのも事実だと思う。 >その隙間をついたのがプーチン。 >なので今回のロシアの行動を放置すると、国際法や国際的規範に基づいた国際秩序が瓦解すると思う。  

 

危険この上もないことですね。    

 

>そうなれば、「法の支配」ではなくて核兵器の数によって国際紛争が解決される時代へ。>アメリカ、ロシア、中国がこれまで以上優位に立ち、日本の主張は悉く無視され主権と利益が侵害されるはず。

 

日本人にとって残念な結果になりますね。日本人には実力がないからですね。実力を背景にした主張ができれば、世界の人々は日本の意思に期待を寄せますね。        

 

>言い換えれば、アメリカもロシアも中国も自らの圧倒的な数の核戦力に基づく軍事力で自国の主権や利益を守れるが、そうでない中小国はウクライナの例のように、自国の主権や利益を守れなくなる。

 

そうですね。中小国は他力本願・神頼みの生活になりますね。       

 

>そうなれば、世界中が核開発競争になる。>そして平和国家の日本の主権と利益は蹂躙され続けるだろう。

 

そうですね。受験競争のようなものですね。参加しても碌なことはない。      

 

>結論。 >なので私は、情緒的及び感覚的に「戦争はどちらも悪い」と論じることは適切ではないと考えている。  

 

そうですね。フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には to be に当る適当な動詞がない。”being とか reality のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。   

 

>また、テレビなどのメディアに携わる方、発信する方も、そのような国際法上の武力行使の合法性をぜひ理解した上で主張してほしいと思う。 >言論の自由のある日本では多様な主張が可能だが。 

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。 

 

>■細谷教授との一問一答。 >「中国が台湾を武力統一しても『両方悪い』となりかねない」 () >ハフポスト日本版では、細谷教授に今回の連続ツイートをした経緯を取材した。 >細谷教授は、まずロシアの行動が「国際秩序の根幹を揺るがす」ものだったからだと振り返った。 >この行動を放置する言動が広まれば、「北朝鮮が韓国を侵略しても、中国が台湾を武力統一しても『両方悪い』となりかねない」と警告した。

 

そうですね。日本人の好きな和を以て貴しとなすだけでは、どうにもなりませんね。   

 

>今回の連続ツイートは最初の投稿だけで30日現在、2万件を超える「いいね」と8000件を超えるリツイートがされた。>これに関して、細谷教授は「多くの方にご覧頂いていることは、とても有り難いこと」として感謝を述べた。

 

我が国もITの時代になりましたね。    

 

>反響の背景について「戦争中は、交戦国の双方が自国に都合の良いプロパガンダを発信する傾向がありますので、多くの方はそのようななかで、バランスのとれた見解を求めているのだと感じています」と分析している。

 

我々日本人は大本営発表を固く信じていましたね。     

 

>詳しい一問一答は以下の通り。 >―― 326日に「ロシアもウクライナも両方悪い」という議論に関する連続ツイートをした背景には何があるでしょう? >20世紀の国際社会は、戦争違法化の努力を蓄積して、国際連盟規約(1919年)、パリ不戦条約(1928年)、国連憲章(1945年)と、着実な歩みを見せてきました。 >また、ロシアはウクライナの領土保全と国境線を尊重するというかたちで、1994年のブダペスト覚書、そして1997年のロシア・ウクライナ友好協力条約を締結しました。 >2014年のロシアによるクリミア半島の併合や、今年のウクライナへの軍事侵攻は、それらの国際的な合意を反故にするものであり、国際秩序の根幹を揺るがす行動です。

 

そうですね。  

 

>これを放置すれば、これからたとえば北朝鮮が韓国を侵略しても、中国が台湾を武力統一しても、「両方悪い」となりかねず、武力攻撃のハードルが下がります。 >そのようなことを、日本が認めるべきではないと考えました。 

 

日本人は足して二で割る考えかたしか知りませんからね。   

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)  

 

>―― 鈴木宗男参院議員は、ロシア軍の侵攻は「ウクライナにも責任」があると主張。 >れいわ新選組は、日本の立場を「ロシアとウクライナどちらの側にも立たず、あくまで中立」にするべきと訴えています。 >日本の政治家・政党がこうした主張をすることをどう受け取っていますか? >「ウクライナにも責任」があるという点については、もちろん対立が生じたときには、一般論として片方が100%悪いということはないのだろうと思います。 >しかしながら、「ウクライナにも責任」があることは、ロシアの軍事侵略を免責するものにはなりえません。 >他方で、侵略国と被侵略国の区別を付けず「中立」であるとして、戦争は「両方悪い」ということであるのならば、そもそも第二次世界大戦でのナチス・ドイツの侵略や、日本の戦争責任についてもすべて免罪することになりかねず、戦後秩序の根幹が崩れます。 >ニュルンベルク裁判も、東京裁判も、「侵略国」に責任があるとしているので、その正当性への批判があり得るにせよ、「武力による威嚇や武力行使」を禁止してきた20世紀の国際社会の歩みについての、あまりにも無感覚で無責任な発言といわざるをえません。 >そこに危惧を感じます。  

 

日本人には世界観が無く、あるべき姿の世界が想定外となっているから、基準を立てるのが難しいですね。ですから、基準に照らし合わせて現実を判断することも難しくなります。手放しで判断するから信用も得られません。     

 

>―― ウクライナ侵攻の原因について、れいわ新選組は「米欧主要国がソ連邦崩壊時の約束であるNATO東方拡大せず、を反故にしてきたこと」を挙げています。 >こうした主張をどう捉えていますか? >これについては、すでに色々なところで書いてきましたが、国際社会での拘束力のある約束は「署名がある明文化された合意」である必要があります。 >確かに19902月にベイカー米国務長官は、それに近い発言を会議中に発した記録が残っていますが、会議での発言の記録全てが自動的に国際法上の拘束力のある合意にはなりません。 >ですので、それをもって「約束を反故にした」というのは、複雑な外交の歴史についてのあまりにも安易で、ロシアにとっての都合の良い歪曲といわざるをえません。 >れいわ新選組のような、適切に背景を理解しないような中途半端な歴史の「利用」は危険です。  

 

そうですね。

 

>―― 今回のツイートには2万件を超える「いいね」と8000件を超えるリツイートがされています。 >こうした反響をどう感じていますか? >多くの方にご覧頂いていることは、とても有り難いことと感じています。 >同時に、戦争中は、交戦国の双方が自国に都合の良いプロパガンダを発信する傾向がありますので、多くの方はそのようななかで、バランスのとれた見解を求めているのだと感じています。 >SNSというメディアの性質もあり、私自身も十分に情報があるわけではないなかでの暫定的な発信にならざるをえませんが、ヨーロッパの国際政治史をこれまで研究してきた立場から、やや広い視野から自らの考えを伝えていければと思います。

 

大変有益な意見でした。日本のマスメディアもこうした論調を多く掲げて広めるべきですね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

 

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江藤名保子氏  

2022-03-29 13:48:57 | 文化

 

>東洋経済オンライン  >中国の民主主義と人権の「認知戦」に要警戒なワケ  習近平政権による「話語権」と価値の相克  > API地経学ブリーフィング 2022/03/28 09:00

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> 米中貿易戦争により幕を開けた、国家が地政学的な目的のために経済を手段として使う「地経学」の時代。 > 独立したグローバルなシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)」の専門家が、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを、順次配信していく。

>中国による民主主義と人権の再定義  > 異質な経済大国である中国が台頭することで国際秩序はどう変容するのか。

 

中国が異質であるかどうかは問題ですね。  

 

>議論が尽きないこの問題に、習近平政権は新しい視座からのアンチテーゼを提起している。>それは「そもそも中国を異質だとする『西側』の見方が誤りなのである」という、中国に対する評価基準そのものへの疑義である。

 

そうですね。中国は並み国ですね。その他大勢の仲間でしょうね。西側の方が特異的だと思いますね。だから西側は頭角を現したのでしょう。

 

> このわれわれの根本的な価値認識に相対する主張は、世界における民主主義の後退、新自由主義とグローバル化を両輪とした経済活動の減退、アメリカ社会の分断が明らかにした民主主義の機能不全などを背景に、国際社会が価値規範に対する自信を失う状況において巧妙に浸透が図られている。

 

そうですね。アングロ・サクソン主導の民主主義は難しいですからね。   

 

> 習近平政権が注力するのが、民主主義と人権の再定義である。>例えば民主主義について習政権は「全過程の人民民主」という中国式の民主制度があり、「1つの国家が民主であるかは、その国家の人民が評価する」ものだと主張する。  

 

自国民の評価を基準にとれば、中国は間違いなく民主国家ですね。しかし、ノンポリ・政治音痴の民主主義ですね。   

 

>世界にさまざまな民主化の過程やレベルがあることを想起するならば、「民主主義は多様であるべきだ」「そこに暮らす人々の評価が大切だ」という耳あたりの良い言説に、つい頷きそうになる。

 

無哲学・能天気の人々の民主主義はそういったものになりますね。    

 

> だが、そもそも評価に主観は介在してはならないはずだ。

 

それは政治哲学を除外したところの国民による人気投票のようなものですね。   

 

>客観的に評して、中国には確かに一定の政治参加を可能にする制度があるものの、政治権力に対するチェックアンドバランスが機能せず言論の自由もなく、やはり民主主義体制だとは認められない。

 

そうですね。議論無くして政治権力に対する checks and balances は成り立ちませんね。    

中国人とロシア人には ‘長い物には巻かれろ’ が今でも常識のようですね。このやり方に従えば議論はいらないですね。問答無用・切り捨て御免の世の中になりますね。   

中国の薛剣 (せつけん)・大阪総領事: ウクライナ問題から得た「一大教訓」は「弱い人は絶対に強い人に喧嘩を売る様な愚か(な行為)をしてはいけないこと」

 

> さらに習政権が規定する「民主」概念は、市民が政治的な権力を行使できる幅広い政治状況を示しているにすぎず、従来の政治学が検討を重ねてきた、公的な異議申し立てや政治参加の水準あるいは社会の自由度などを指標とする、政治制度としての民主主義とは異なる。

 

そうですね。中国人は日本人と同様で、ノンポリ・政治音痴ですから批判精神などは育ちませんね。    

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。しかし、日本人・中国人・ロシア人は無哲学・能天気であるためにノンポリ・政治音痴になっている。それが問題です。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

> つまり「民主=政治参加」とあえて単純に解釈することで、中国の政治メカニズムを「多様な民主主義」の一端と容認させようとする論法である。  

 

そうですね。個人の政治哲学がすっぽりと抜け落ちていますね。だから議論が成り立たないのです。      

 

>習政権はおそらく意図的に価値としての民主主義を広義に規定し、それを実施する制度を主観的に評価しようとしている。

 

中国語の文法には時制というものがないから個人に基づく非現実 (考え) の多様性は考えられませんね。つまり、世界観がないので国民は没個性の内容しか持つことができませんね。個人の政治哲学を基準にとった個人の選出は不可能ですね。     

 

>海外の政治思想を変える逆転の発想 > なぜこうした「概念のすり替え」を試みるのか。 >中国では1970年代に鄧小平主導で開放政策を採用して以来、海外から民主主義や自由主義などの政治イデオロギーが流入するようになった。 > これを共産党政権は、中国の弱体化を目論む「西側」が中国を「西洋化、分裂化」する「和平演変(平和的手段による政権転覆)」の陰謀だと警戒してきた。

 

それは日本の場合も同じですね。アメリカは日本を二度と戦争のできない国に弱体化するために戦後わが国の教育制度を換えたと言われています。   

相手の内容を理解できなければ、相手を悪く解釈するのが通例ですね。   

 

>そしてグローバル化により経済領域の国境が薄らぐに伴い、経済力の高まりが共産党政権のパワーの源泉となるとともに、コントロール不能なさまざまな思想が一層流入するというジレンマに陥った。

 

そうですね。彼らは昔ながらのやり方 (焚書坑儒) でしか外来思想に対処できませんね。 

 

>そこで習政権が打ち出したのが、海外の政治思想を変えることによりこのジレンマを解消するという、逆転の発想である。  

 

海外の政治思想を中国的に解釈することですね。それは日本でも同じですね。個人主義は利己主義と解釈されたりします。     

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)     

 

> 習政権は現状を「100年に一度の大変動期」であり、中国がディスコースパワーを拡大するチャンスだと捉えている。

 

そうですね。中国人にはこれかないというところですね。     

 

>「ディスコースパワー(話語権)」とは、発言する権利とその発言を相手に受け入れさせるパワー(権力)を含む言葉で、もともと1971年にフランスの哲学者ミシェル・フーコーが刊行した『言説表現の秩序』にある「言説(=話語)によって権力を得る」論を援用したものである。

 

それは戦後の日本で行われた進駐軍のお説教のようなものでしょう。    

 

>現在では他国に対する影響工作や安全保障における「認知戦」の議論と広範に重複している。> 政策論としてのディスコースパワーは、2010年頃までは中国の伝統文化に依拠して対外的なソフトパワーを強化することを意味した。  

 

中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 () う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

・・・・・

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北てき (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。    

 

>だが習政権下の2013年に国内のイデオロギー統制の一環として「世論をリードする力」の議論が打ち出されると、中国脅威論や人権批判といった「西側」からの――中国の主観からすれば不当な――批判的言説への不満と結びつき、中国の増大する国力に見合った国際的なディスコースパワー(国際話語権)を獲得しなければならないとの認識につながっていった。

 

そういう事になりますね。西側からお説教されるばかりでは、中国人の面目は丸つぶれですからね。国際的なスタンスが必要ですね。特に中国人はメンツを重んじる人たちですからね。        

 

> 2016年に採択された第13次五カ年計画には、「グローバル・ガバナンスと国際公共財の供給に積極的に関与し、グローバル経済ガバナンスでの制度的ディスコースパワー(制度性話語権)を高め、幅広い利益共同体を構築する」との記載がある。

 

それは、政治哲学 (非現実・考え) ではなくて単なる処世術 (現実・損得勘定) でしょうね。遠い未来が見えていない。       

 

> 制度的ディスコースパワーとは、経済領域におけるルール形成などの国際的ガバナンスに関与し、制度を通じて恒常的にディスコースパワーを発揮する状態を意味する。 >これは中国が有する経済的パワーを政治的パワーに転換するシステムの構築を目指していると考えられる。

 

そうですね。それは、非現実と現実のすり替えですね。無哲学・能天気に基づくノンポリ・政治音痴であれば、それは仕方のないことですね。中国人には現実 (損得勘定) があって、非現実 (哲学) がない。          

 

>中国独自の人権ディスコース  > 練度を増してきたディスコースパワー戦略を語るうえでの、もう1つの焦点が人権である。 >習近平政権は「生存権と発展権が第1の基本的人権」(「中国共産党の人権尊重・保障の偉大な実践」白書より)と規定する中国独自の人権ディスコースを、巧妙に国際社会に埋め込もうとしている。  

 

それは、人はパンのみにて生くるにあらずへの大胆な挑戦ですね。中国人には精神生活の大切さが抜けている。      

 

> 例えば中国が2017年、2019年、2021年の三度にわたって国連人権理事会に提起した「あらゆる人権の享有に対する発展の貢献」決議は、「すべての人権に対する発展の貢献」がいかに重要かを強調するものであった。> いずれも賛成多数で決議されたが、三度とも反対票を投じた日本代表が「個人の人権ではなく、発展、貧困の根絶と国際的な発展協力に重きを置きすぎている」(2021)と指摘したように、いわば「自然権(すべての人間が生まれながら有する自由、平等と幸福を追求する権利)」を希釈する内容であった。

 

これは日本の大衆も同じことですね。処世術 (現実) があって哲学 (非現実) がない。だから個人の人権も希薄である。           

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

 

> なお習政権による「発展(development)」の重視は人権概念のみならず、国際秩序の再構築の動きともリンクしている。 >例えば習政権は国連の「持続可能な開発(sustainable development)のための2030アジェンダ」(以下、2030アジェンダ)においても「発展」を強調する。 >同様に20219月の国連総会で習近平国家主席は「グローバル発展イニシアティブ」を提起し、2030アジェンダと「人類運命共同体」の促進を軸に世界の経済発展を主導するリーダーを自ら演出した。

 

中国人も日本人同様に、あくまでも現実 (事実) に拘りますね。精神生活を軽く見る。       

 

> 中国の人権ディスコースは、経済協力を鎹(かすがい)とする賛同国の「数の力」を得て実質的な影響力を発揮している。 >例えば近年、中国は新疆ウィグル族問題や香港での民主化運動弾圧を事由にアメリカやEUから制裁を受けた。 >だが20216月の人権理事会では、44カ国の署名による「新疆における人権状況に関する共同声明」をカナダが提出したのに対し、同日にベラルーシが提出した中国の内政に干渉すべきではないとする共同声明には69カ国の署名があった。

 

そうですね。4469ですね。世界の人々は人権の名に釣られて現実を放棄するようなことはありませんね。

 

> このベラルーシ提案は「各国人民がそれぞれの国情に応じて人権発展の道を自己選択する権利を尊重する」として、人権は制度に基づいて発展する、選択可能な権利との認識を示した。 > こうした事例に看取されるように、習政権の人権ディスコースは発展途上国や権威主義国の賛同を得やすく、これに共鳴する国家が少なからず存在する。 >最も懸念すべきはロシアによる共鳴である。

 

ロシア人は白人ですが、心は東洋風ですからね。250年間の異民族・蒙古の圧政に耐えて鍛えられていますからね。各国にそれぞれの国情がありますね。       

 

>中ロの共通認識  > 24日の中ロ首脳会談後に発表した「新時代の国際関係とグローバルで持続可能な発展に関する共同声明」で両国は、まず民主主義と人権に対する共通認識を確認した。 > 「個々の国がイデオロギー的な線引きで他国に自分たちの『民主の標準』を押し付け、(中略)民主主義の定義を独占することは、実は民主主義を踏みつけ、民主主義の精神と真の価値を裏切ることである」として従来の民主主義の定義や基準への挑戦を示し、「各国の国情は異なり、歴史文化、社会制度、経済社会の発展の水準には差があるため、人権の普遍性堅持と各国の実情を組み合わせ、その国情や国民のニーズに応じて人権を保護するべきである」と主張した。

 

そうですね。各国は無哲学・能天気の国民のいるごく普通の国ですからね。解釈不能の政治哲学を受け入れることができませんね。ただ、欧米のみが突出していますね。      

 

> この認識は普遍的価値に対するアンチテーゼであると同時に、欧米との認知領域における争いにおいての立脚点でもあるだろう。 >これまで中国は「人類運命共同体」を提起するなど、「反米」や経済協力だけではないパートナー国との紐帯、すなわち戦略的なビジョンの共有を模索してきた。 >そのためロシアとの共闘は、ディスコースパワー形成の観点からも極めて重要なのである。  

 

そうですね。アングロ・サクソンの突出した高度の教養に普通の国は付いて行けませんね。   

 

> 中国のディスコースにはプロパガンダと欧米型政治システムの歪(ひずみ)に対する妥当な批判が混在しており、各国の潜在的な反米意識や対立的イデオロギーに共鳴する可能性がある。  

 

普通の国は欧米に付いて行けないから反米になる。   

 

>これを放置し自由民主主義の価値が劣勢に陥るならば、日本の国益とはならない。 >日本が成熟した民主主義と人権の概念を確立し、関係の深いアジア諸国を重視した包摂性のある戦略的ナラティブを形成する必要性が、これまで以上に高まっている。 

 

日本人には民主主義に対する重い責任がありますね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。        

 

>(江藤名保子/学習院大学法学部政治学科教授)  

 

 

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小原ブラス氏  

2022-03-27 21:08:03 | 文化

 

>デイリースポーツ 2022/03/27 14:40  

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> ロシア生まれのタレントでコラムニストの小原ブラス(29)が27日、TBS系で放送された「サンデー・ジャポン」に生出演。 >ロシアによるウクライナ侵攻、戦争についてコメントした。 > 番組では、街角でインタビューした戦争に対する高校生らの声を紹介。 >「どっちが正しいか分かんないから難しい」「(戦争を止めるには?)いろんな国同士で上の権力者がしっかり話し合う」「(戦争を止めるには?)お互いのことを思って行動する」などの声が寄せられた。

 

今更聞かなくてもわかるような答ばかりですね。   

 

> VTR後、意見を求められたブラスは「戦争やってはダメだとか、ちゃんと話し合わないといけないとか、いろんな意見言われてるけど、正直、生ぬるいなと感じちゃいました」とコメント。

 

そうですね。生ぬるいです。日本人の答えはいつもそうですね。ノンポリ・政治音痴です。日本人のメンタリティ (考え方) に問題がありますね。       

 

> 続けて「僕としては、戦争はやってはいけない、絶対にやらない、と言いながらも、気付いた頃には手遅れで巻き込まれてる、というのを実感した。  

 

寝小便の話しですね。ナウな感じの答ばかりではどうにもなりませんね。有能な政治は未来の内容を先取りする必要がありますね。未来の内容は考えの内容であり、非現実の内容ですね。日本人には非現実の内容が必要ですね。       

 

>半年前にロシアの国民の多くはまさか戦争が始まると思ってなかったし、きっとウクライナの方もまさか半年後にウクライナの街があんな悲惨な目になってるとは思ってなかったと思う」とし、「今、半年後に日本の街があんなことになってたら、どうですか?って話なんです。  

 

そうですね。治に居て乱を忘れずの考えが必要ですね。平和な時代に戦争の時の内容を考えることが大切ですね。   

‘百年兵を養うは一日これを持ち用いんがためなり。’ (孫子の兵法)  

 

>気付いたころには、ロシアの国民も反対もできなくなってるので、その前の段階、政治に興味を持つ、政治に参加することの大切さを、今一度見直す、もっと(政治に)興味を示さんとアカンな、一人一人が興味を持つところから始めないといけないなと思います」と日本の若者に、政治に興味を持って、参加してほしいと強く訴えた。

 

そうですね。無哲学・能天気ではいられませんね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)          

 

> ブラスはハバロフスク生まれ。>母親が日本人男性と再婚し、5歳の時に兵庫県姫路市に移住した。

 

日本人を知的にすることは大切ですね。   

現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。だから、ご唱和の内容になる。非現実 (考え) の内容はみることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  思考を停止して人は、つかみどころのない人間になる。日本人には考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。

 

 

 

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無知  

2022-03-26 03:54:38 | 文化

 

>「個人的には無知でいることはしたくない。

 

同感です。無知が罪を呼び起こしますからね。      

 

>“私たちは関係ない”っていうスタンスではいたくない」 

 

そうですね。我々は無哲学・能天気ではいられませんね。    

 

>メキシコに住む日本人女性からのメッセージ  > 日テレNEWS 2022/03/25 15:07

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>「個人的には無知でいることはしたくない。 >“私たちは関係ない”っていうスタンスではいたくない」 >メキシコに住む日本人女性からのメッセージ 

 

自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がないので、常に傍観者になる。序列関係のない深刻な事態にも高みの見物をしている。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。   

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではない。 

日本人は意思を認めることのできないので、意思決定に難渋して行動開始が遅れる。この事実は以前から外国人にも知られていた。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)   

 

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>ロシアによるウクライナへの侵攻。 >世界中で1日でも早い解決を求める声が広がっています。 >様々な立場の方からのメッセージを紹介しています。 >ウクライナから遠く離れた中南米・メキシコに住む日本人からのメッセージです。 

 

日本人には世界観がない。だから、来るべき世界の内容が想定外になっている。だから、日本人にはノンポリ・政治音痴の人が多い。

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>◇ ◇ ◇

>メキシコ在住会社員清水美佑さん(27) >「正直私1人だけでは悲しいかな何もできない。 

 

そうですね。我々には団結が必要ですね。民主主義の力が必要ですね。       

 

>ロシアに対して何かできるわけでもない。  

 

なせば成る なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

>個人的には無知でいることはしたくない。  

 

そうですね。我々には現実直視が必要ですね。マスコミは当てにはなりませんね。情報操作の道具と化しているからです。民の声を直接聞くことが必要ですね。ITの世の中になりましたね。          

 

>自分で情報を集めたりニュースを見たりして、それに対して自分がどう考えるか、どう思っているか、考えを持つこと。

 

そうですね。自問自答の訓練が必要ですね。

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

>それを共有したり、周りの人と話したりとか“私たちは関係ない”っていうスタンスではいたくない」  

 

そうですね。我々は無哲学・能天気ではいられませんね。ノンポリ・政治音痴よ、さようなら。

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)  

 

>(スペイン語で)「戦争が一刻も早く終わりウクライナに平和が訪れることを願っています」  

 

同感です。我々日本人は、他力本願・神頼みのスタンスにとどまることは許されませんね。     

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。        

 

 

 

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ヒゲの隊長  

2022-03-23 16:21:53 | 文化

 

>“ヒゲの隊長”日露交渉停止「日本の方から言っても良かった」  > FNNプライムオンライン 2022/03/23 09:35

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>自民党の佐藤正久外交部会長は323日、ウクライナへの侵攻を続けるロシアが北方領土問題を含む平和条約交渉を停止すると発表したことについて、「日本の方から戦争犯罪を犯しているプーチン政権とは交渉できないと言っても良かった」と強く非難した。

 

そうですね。受け身・後追いばかりの政治ではさえませんからね。日本人の自覚の問題が在りますね。      

 

>佐藤氏は、23日に行われたウクライナ問題に関する会合の中で、ロシアが日本の経済制裁への対抗措置として北方領土問題を含む平和条約締結交渉を停止すると発表したことについて、「そもそも悪いのは、ウクライナを軍事侵略したロシアであって、日本を批判するいわれは全くない。 >言語道断、到底受け入れるものではない」と述べた。   

 

そうですね。まったく同感ですね。    

‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。 北方領土だ。 だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。 (小野寺元防衛相)  

 

>さらに「戦争犯罪を犯しているロシアとプーチン政権とは平和条約締結交渉はそもそも出来る状態にない」と指摘した上で、「逆に日本の方から、戦争犯罪を犯しているプーチン政権とは平和条約締結交渉はできないと言っても良かった」と述べ、ロシア側を強く非難した。

 

そうですね。わが国の政治家には能動的な態度の必要性を感じますね。       

 

また、佐藤氏はロシア軍が生物化学兵器を使用する恐れが高まっていることに触れ「さらなる制裁が必要な時期だ」と指摘、日本が制裁の具体例を示して、アジア各国に対し働きかける段階にあると主張した。

 

我が国はアジアの各国に対して主導的な立場に立つべきですね。意識改革の問題が在りますね。      

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではない。 

日本人は意思を認めることのできないので、意思決定に難渋して行動開始が遅れる。この事実は以前から外国人にも知られていた。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)    

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。       

 

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